2017年05月21日

イエスに留まる ヨハネによる福音書第15章1−8   A年 復活節第6主日   2017.05.21

イエスに留まる
ヨハネによる福音書第15章1−8  復活節第6主日   2017.05.21

 復活節も残り少なくなって来ましたが、復活節の間、聖餐式聖書日課の福音書は、その多くがヨハネによる福音書から採り上げられており、本日、復活節第6主日の聖書日課福音書もヨハネによる福音書から採り上げられています。
 今日の聖書日課福音書のヨハネによる福音書第15章4節で「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。」と言い、5節に「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」と言っておられます。ここで用いられている「つながっている」という言葉は、他の箇所では「留まる」とも訳され、ヨハネによる福音書の中でことに多く使われています。この言葉が、当時の社会の中で、主イエスを救い主と信じる人たちにはどのような意味があったのかが分かってくると、このメッセージがより具体的に私たちに迫ってくるように思えます。私たちも今日の福音書から、主イエスにつながって生きる思いを新たにしたいと思います。
 この箇所と「つながる」ということを理解するために、はじめに、ヨハネによる福音書が編集された頃の時代背景について、思い巡らせてみましょう。
 紀元80年代の後半から90年の頃、主イエスを救い主とする人々の群れは大きな危機の中にありました。
 イスラエルの国は、イエス降誕以前の紀元前63年にローマ帝国に占領されてその属領となっていましたが、100年の時を経て、紀元60年代になるとイスラエルは支配するローマへの反発を強め、その対立は次第に激しくなっていきます。そして、紀元66年にはいわゆるユダヤ戦争がおこり、紀元70年、ローマ軍はエルサレムを攻撃し、エルサレムはローマ軍の手によって陥落します。ユダヤ人はその後も抵抗を続けますが、本拠地であり彼らの一致と団結のシンボルであったエルサレム神殿は、ローマ軍に奪われてまた破壊されてしまいました。このことはイスラエルの民にとって大きな打撃であり失望でした。エルサレムを失ったイスラエルの指導者達は、本拠地を現在のテルアビブの南20qほどの所にあったヤムニア(Jamnia)に移し、そこで会議を開きました。イスラエルの民にとって、エルサレム神殿は彼らの一致と団結のシンボルでしたが、その神殿を失い、エルサレムを逃れ、各地に散らされていったイスラエルの民は、この後、何によって、どのように民族としての一致を保ち、自己確認をすれば良いのでしょう。彼らは聖地を奪われてちりぢりになりましたが、時や所を別にしていても、民族として一致した思いを持ちそれを確認をするためにどうすべきかを論じ、その結果、聖書とそれに基づく律法への忠誠を一層強くし、いつどこにいてもそれによって民族として一つであり続けようとしたのでした。こうして国土のないユダヤ人イスラエル民族の歴史は、この後第2次世界大戦の後まで、1900年近く続いていくことになります。
 紀元90年の頃、ユダヤの指導者たちはヤムニアで会議を開きます。ユダヤ人は、現在の旧約聖書に当たる39書を定め、ユダヤ教の正統性や分派の異端性についても審議をしました。
 主イエスをキリスト告白する人々は当時ナザレ派と呼ばれユダヤ教の大きな枠組みの中に置かれていましたが、そのナザレ派にとって、このヤムニヤ会議は重大な会議になりました。「ナザレ派」はそれまでユダヤ教の一グループとして容認されていたのですが、この会議でナザレ派つまりクリスチャンは公に「異端」と見なされてしまったのです。これ以降、ユダヤ教徒たちの祈りの中で「ナザレ派は呪われよ」と唱えられるようになり、その結果、ナザレ派つまり主イエスを救い主として告白するクリスチャンの集まりは、イスラエル民族にとって非合法の集団として異端視され、ユダヤ人からだけでなく4世紀に入る頃まで、多くの人から迫害を受ける対象になっていったのです。
 この状況は、クリスチャンにとって非情に危機的ことでした。ユダヤ教から異端と見なされた彼らは、ユダヤ教の集会場であった各地の会堂(シナゴーグ)で祈ることが許されなくなります。クリスチャンの中には、会堂を追放されることを恐れて「イエスはまことの救い主である」と公に告白することを恐れためらう者が出てきたり、ユダヤ教徒の一人として留まる方が無難であると考える人が出てきたり、中には迫害を恐れてイエスを救い主とするナザレ派のグループからそっと離れていく人々も出てきていたのです。
 こうした状況を思い巡らせてみると、「わたしにつながっていなさい」という言葉に込められたイエスの思い、あるいはこの福音書を記したヨハネの思いがどのようであったのか、よく分かって来るのではないでしょうか。
人は弱いもので、すぐに時流に飲み込まれて目の前の損得や権力の前に自分を明け渡してしまったり、屈してしまったりしやすいものです。福音記者ヨハネは、そのような弱さのある人間に対して主イエスの言葉を与えます。当時のパレスチナで身近なぶどうの幹と枝の例えを用いて主イエスがお話しになった言葉を、福音書の中に編集しなおし、信仰者としての導きを与えようとしたのがこのヨハネの福音書なのです。
 ヨハネによる福音書の中にはいくつか主イエスが「わたしは・・・である。」と言っておられる箇所があり、先主日も「わたしは道であり、真理であり、命である。」という言葉があり、更にその前の主日では「わたしは良い羊飼いである。」という言葉がありました。今日の福音書にも「わたしはまことのぶどうの木」と言う言葉があります。もとのギリシャ語では英語の”I am” に相当する Ego eimi(エゴーエイミ) と言う言葉が用いられています。ギリシャ語では普段は人称代名詞は省略されますが、わざわざエゴ−エイミを用いて「わたしは・・・である。」という場合は、その内容をことさら強調した特別の表現となります。この箇所は「主イエスこそ、私たちがつながりそこに留まるべきまことのぶどうの木であり、その交わりの中でこそ実を結ぶことができる。主イエスの他には私たちが留まるべきお方はいない。主イエスこそ真の命の源なのだ。」という意味がこめられています。
 また、当時のイスラエルの民であれば、「ぶどうの木」という言葉から誰でもすぐに連想する聖書の言葉がありました。それはイザヤ書第5章の言葉です。そこには、主なる神ご自身がイスラエルを選び育てようとなさったことを、ぶどう畑に良いぶどうの木を植えたという例えで語られています。ところが、そこに実ったのは酸っぱいぶどうであり、主なる神はもうそのぶどう畑を壊して荒れるに任せ、そこには茨やおどろが生える所になり変わる、とまで言っています。主イエスの目からご覧になると、当時のユダヤの世界はまさにイザヤの預言したとおりに見えたことでしょう。イスラエルの民にとっての律法は、神と神に選ばれた民との間に結ばれた約束であったはずです。でも、それはいつも国を支配する特権階級に都合良く解釈され、弱い立場の人や罪人呼ばわりされる人には厳しく解釈され、経済的にも社会的にも貧しい人々や困難の中にある人々はますます苦しい生活を強いられていました。そして、エルサレム陥落の後も特権意識を強く持ったユダヤ教の指導者たちは、異邦人や罪人まで愛して止まなかったイエスを主であると告白する人々を、弾圧し、彼らの交わりから追放したのでした。荒廃したエルサレムの姿は、イザヤ書の言葉の実現にも見えたことでしょう。
 ユダヤからもローマからも弾圧が強まり、パレスチナ一帯がまさにイザヤ書第5章にある荒れ果てたぶどう園の姿になる中で、福音記者ヨハネは、主イエスのみ言葉を信仰者に思い起こさせます。
 主イエスが、「わたしはまことのぶどうの木」と言っておられたではないか、この枝につながる人々は「豊かに実を結ぶ」と言っておられたではないか、しかも豊かに実を結ぶのは、民族や血筋によるのではなく、主イエスを救い主として受け入れその愛によって生かされることによる、この真理は我々がどんな苦境に置かれようと変わることはないのだ、と福音記者ヨハネは主イエスの福音を読者に伝えているのです。
 イエスを主と告白する人々にとって、当時の社会情勢が厳しい状態にあったことは先ほどふれたとおりです。その中にあっても、主イエスがまことのぶどうの木である事の真理は何ら変わるものではありません。主イエスにつながり留まって、主イエスが示してくださった神の愛に基づく信仰を確かなものにしていくように、福音記者ヨハネは、主イエスの言葉を伝えています。「私はぶどうに木、あなたがたはその枝である。」「私につながっていなさい」と。
 そうであれば、イエスを主と告白するがゆえに苦難を負うことや迫害を受けることは、彼らにとって主イエスの愛を貫く証の場となり、彼らはたとえ弾圧され迫害されても、自分を通して現される神の愛を喜ぶことさえ出来たのです。
 このような脈絡の中で、福音記者ヨハネは「わたしはぶどうの木」、「わたしにつながっていなさい」という主イエスのみ言葉は伝えられてきたのです。
 私たちが今日の聖書日課福音書から受けとるべきメッセージは自ずと明らかになってきます。この福音書によって私たちのあるべき姿も分かって参ります。ぶどうの枝である私たちは、まことのぶどうの木である主イエスにしっかりとつながり、御言葉の恵みをいただいて豊かに養われ、その実を結ぶことが出来るよう、自らの信仰を整えられて参りましょう。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 18:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月15日

弱く小さく産まれて 5月誕生児祝福礼拝

 今日は、5月生まれのお友だちのお誕生日を感謝してお祝いをします。お誕生日は、神さまがこの世に命を与えてくださった記念の日です。
 生まれたその日に直ぐに立ち上がって歩いた人いますか?いませんよね。
 馬や、羊や、牛などの動物は、生まれて30分から1時間くらいで、自分の足で立ち上がってお母さんのところに行ってお乳を飲みます。でも、人間の赤ちゃんはハイハイできるようになるのに8ヶ月から10ヶ月くらい、独りでよちよち歩けるようになるのには1年近くかかります。
 その間、お母さんがたくさん赤ちゃんのお世話をします。それは、ただおっぱいをあげたり、濡れたオムツを取り替えることだけではありません。
 お母さんは、赤ちゃんにニコニコ笑いかけます。目と目を合わせます。そして赤ちゃんの名前を呼んでお話ししします。すると、赤ちゃんもお母さんに目を合わせ、ニコニコして、「ウングウング」とお話するようになります。そして、赤ちゃんもニッコリするようになります。みんなも赤ちゃんの時、お母さんにそうしてもらったからこそ、今、こうして他人のお話を聞けて、自分が誰だか分かって、自分のお母さんのことも分かって、お友だちとも仲良くできるようになってきたのです。人間の赤ちゃんは、お母さんからたくさんお世話をしてもらうことでお母さんからたくさんの愛情を受けて、育っています。人間の赤ちゃんは、まだまだ何もできない姿で弱く小さく生まれて来ますが、それは赤ちゃんの時代に、お家の人をとおしてたくさんの愛情を受けて、人間として優しく育つためなのです。
 みんなそのようにして、1年目の誕生日を迎える頃にやっと少し歩けるようになって、2年目のお誕生日を迎える頃に自分のほうからもいろいろお話しして自分の思いをお母さんや周りの人に伝えられるようになり、3年目のお誕生日を過ぎる頃から、お家の人だけではなく、先生やお友だちとも過ごせるようになり、こうして、4歳、5歳、6歳のお誕生日を迎え、みんなで神さまの周りの人々に「おめでとう」「ありがとう」と喜び合えるのです。
 沢山の愛を受けて今日まで大きくなれたことを、育ててくださった神さまと周りの人々に感謝して、元気に大きく育っていけますように。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 22:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 幼稚園礼拝の聖話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月14日

道であり、真理であり、命であるイエス  ヨハネによる福音書第14章1−14  復活節第5主日

道であり、真理であり、命であるイエス
ヨハネによる福音書第14章1−14   A年 復活節第5主日   2017.05.14
 
 主イエスは、「わたしは道であり、真理であり、命である。(ヨハネによる福音書第14章6節)」と言われました。今日は、この言葉を思い巡らせ、また、導きを受けたいと思います。
 私たちは、誰でも自分を超えた大きな存在に出会い、時に揺さぶられ、圧倒され、そこから養われ育まれるときに、その人として成長していくことができます。宗教学者や神学者の中には、その大きな存在を「聖なるもの」と呼ぶ人があります。今日の福音書は、主イエスがそのような意味での「聖なるお方」であることを「道であり、真理であり、命である」という言葉で告げています。
 「聖なるもの」のこのことを考えるのに分かりやすい例えは、今日は母の日ですが、母親と生まれたばかりの赤ちゃんの例でしょう。
 生まれたばかりの赤ちゃんは、自分の存在を遙かに超えた他者に養われ育まれなければ生きていきません。それはただ食べたり飲んだりおむつを取り替えたりすることに限らず、その子が言葉や生活習慣を身につけることややがて信仰や精神性を育てるためにも欠くことが出来ないものなのです。赤ちゃんがその対象を「聖なるもの」とかそこで起こる出来事を「出会い」などという言葉で意識しないうちから、母親は自分の赤ちゃんとしっかり視線を合わせ、言葉をかけ、心を通わせ合っており、この出会いと交わりなしには赤ちゃんは人として育つことが出来ません。生まれたばかりの人間の能力は潜在的であり適応力もありますから、赤ちゃんは母親をはじめとする周りの人々の言葉や表情や仕草までどんどん吸収して成長していきます。この時、周りの人々が与える刺激の質が高ければ、赤ちゃんはやがてその潜在的な能力が開かれ、健康で豊かな人格をを成長させていくことになります。このことは、人間の乳幼児期のことに限らず、私たちが「聖なるもの」に出会って、信仰を深められ、精神性を高められ、人間としてより成長していくことの大切さに思いを馳せることが出来る一例であると言えるのです。
 こうした「聖なるもの」との出会いによって、自分を変えられ、それまでは思ってもいなかった次元へと招かれる人も数多くいます。いや、本当は人間というものは誰もが皆「聖なるもの」との交わりの中でこそ人間として豊かに質の高い生き方が出来るのであって、その交わりを失ってしまった人や拒む人たちは、何かの特定の物や人や思想に束縛されて、その場限りの次元の低い快楽に留まってしまうことになるのです。
 今日の福音書は、福音記者ヨハネが主イエスを究極の「聖なるお方」として証し、読者である私たちに主イエスと出会い主イエスとの交わりの中に生きるように促しています。
 私たちは、聖書の中に主イエスとの出会いによってそれまでの自分が一変し、その後も主イエスとの交わりの中で生きた人を沢山見ることができます。
 主イエスの初めの弟子になったペトロとアンデレは、ガリラヤ湖の漁師でした。主イエスと出会い、招かれ、彼らは網を捨てて主イエスに従っていきました。同じく漁師であったヤコブとヨハネの兄弟も、また、当時はユダヤ社会の除け者とされていた徴税人マタイも、主イエスと出会い、立ち上がっていきました。マグダラのマリアは周りの人々から「七つの悪霊に取り憑かれた女」とまで言われ社会から排斥されていましたが、主イエスに受け入れられて自分を取り戻し、主イエスと弟子たちに奉仕する人になりました。福音書にはこのようにして「聖なるお方」である主イエスに出会い、本当の自分として生きていく道へと招かれ、主イエスとの交わりの中に生きていくようになった人々が沢山記されています。
 それは福音書の中ばかりではありません。そのように生かされた人々によってこの「聖なるお方」を宣べ伝えた使徒たちの姿が使徒言行録にも記されています。その中でもパウロは、初めのうち主イエスを「聖なるお方」であることを認めることが出来ず、そう信じる人々を迫害していましたが、幻の中で主イエスと出会い、決定的に自分を変えられ、まるで別人になったかのように熱心に主イエスの福音を宣べ伝える人になっていきました。
私が今「聖なるもの」と言う言葉を用いて言っている事の内容について、カトリック教会のクリスチャン作家であった遠藤周作氏は、小説『深い河』の中で、ある登場人物に「その言葉が嫌なら、他の名に変えてもいいんです。トマトでもいい、玉ねぎでもいい」と言わせ、「玉ねぎは愛の働く塊なんです」、「現代の世界のなかで、最も欠如しているのは愛であり、誰もが信じないのが愛であり、せせら笑われているのが愛であるから、このぼくぐらいはせめて玉ねぎのあとを愚直についていきたいのです。」とも言わせています。ここで遠藤周作氏がこの作品の中で言おうとしているのは、「玉ネギ」と名付けているものが、他にどう名付けようと、その実体は確かにこの世界に働いて人を突き動かしていると言うことでしょう。聖書はその「玉ねぎ」である、究極の「聖なるお方」を伝えているのです。
 今日の聖書日課福音書のヨハネによる福音書第14章6節で、主イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。」と言っておられます。この福音書を記したヨハネは、この言葉によって「主イエスこそ、私たちを導いてくださり、他の何によっても取り替えられない真実であり、私たちを生かしてくださるお方である。」と言っているのです。先ほどの遠藤周作氏の言葉を借りれば、このお方について「聖なるもの」と呼ぼうが「キリスト」と呼ぼうが「玉ネギ」と呼ぼうが、そう名付けて済ませるだけではなく、私たちは主イエスに出会うことによって、時にこれまでに自分を揺さぶられ、圧倒され、そして、より深く自分と他の人を見つめなおし、本当の自分を取り戻して新しく他の人々と生きていく事へと導かれるのです。
 このことは、福音記者ヨハネをはじめとする弟子たちは、頭の中で知的に考え方として理解したのではなく、主イエスによってそのように生かされいることを実感したのでした。そして私たちがよく理解しておくべき事は、このような「聖なるもの」に出会うことは、この世に対する権力欲や物欲を持つ人にとって、必ずしも心地よいこととは限らず、時にはかえって苦しみや痛みさえ伴うと言うことです。それまでの価値観を否定されたり転換させられることになれば、時には辛さや痛みも伴います。それを予感して、多くの人が主イエスとの本当の出会いを避けて、主イエスを拒否したり、否定したり、中には迫害する者まで出てくるのです。
 主イエスに召し出された弟子たちを見てみれば、その殆どの弟子がそのような痛みや辛さを経験していたのではないでしょうか。それでも、その痛みや辛さにも働きかけ更に導く「聖なるもの」に触れ、生かされ、自分もまた「聖なるもの」を人々に示す働きへと召し出されました。そして命をかけてその「聖なるもの(玉ねぎ)」の真理を証ししたのです。
 主イエスは、「わたしは道であり、真理であり、命である。」と言っておられますが、同時にこの言葉は、聖書が主イエスこそ真理であり、道であり、命であることを宣言する言葉でもあります。
 私たちは、今日の福音書から、私たちが本当に生かされるべきものに生かされ、導かれるべきものに導かれているのかを問われています。
 私たちは、今日の福音書を通してもう一度自分たちが何によって何処に導かれるべきなのか、問い返してみたいのです。主イエスは、トマスが疑い迷って「主よ、・・・どうしてその道を知ることができるでしょうか。」と言うのに答えて「わたしは道であり、真理であり、命である。」と言っておられます。私たちにとって、主イエスは道であり、真理であり、命であるのでしょうか。その答は私たちが主イエスに導かれて神と人を愛する事へと歩み出すとき、自ずと与えられるでしょう。更に、そこで与えられる神と人との交わりの喜びが教会の力になってきたし、教会は主イエスこそ道であり、真理であり、命であることを、時が良くても悪くても証しすることに努めてきましたし、主イエスにいよってその原点に立ち返る恵みと導きを与えられてきました。それが2000年の時を経てきた教会の存在理由です。
 道であり、真理であり、喜びである主イエスと出会い、導かれ、生かされ、主イエスとの交わりの喜びを教会に満たしていただきましょう。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 17:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする