2018年11月06日

掟を行いに示す マルコによる福音書12:28−34  特定26   2018.11.04

掟を行いに示す
マルコによる福音書第12章28−34   2018.11.04

 今日の聖所日課福音書は、ある律法学者が主イエスに「あらゆる掟の内で、どれが第1でしょうか。」と尋ねたことについて、主イエスがお答えになった言葉が記されています。
 その箇所で主イエスはこう言っておられます。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ聞け、わたしたちの神である主は唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟はこれである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はないほかにない。」
 主イエスがお答えになったこの言葉は、イスラエルの律法の中の言葉であることは言うまでもないでしょう。「イスラエルよ、聞け」に始まる前の部分は申命記第6章4節にある言葉であり、「隣人を自分のように愛しなさい」は、レビ記第19章18節の言葉です。主イエスは、この二つのこと、神を愛することと隣人を愛することは、分けることの出来ない一つのことであり、これにまさる掟は他に無いと教えておられます。
 主イエスのこの教えは、マルコによる福音書だけではなく、マタイによる福音書もルカによる福音書もそれぞれの脈絡の中で、取り上げられています。しかし、マタイ、ルカの両福音書では律法学者が主イエスに論争を仕掛けてくる場面の中でこの言葉が用いられているのに対して、今日の福音書日課であるマルコによる福音書では、主イエスと律法学者は激しい論争をしているような流れの中ではなく、その論争を聞いていた一人の律法学者が進み出て、自分の大切な問題を主イエスに尋ねるという場面の中に置かれており、主イエスがその律法学者にお答えになった時の言葉として描かれています。しかも、特に今日の福音書の個所で興味深いのは、この場面では主イエスはこの教えに同意するこの律法学者に向かって「あなたは、神の国から遠くない」と言っておられることです。
 律法学者は主イエスの教えに同意して32節、33節のように言っています。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」
 私見ではありますが、この律法学者の言葉は、イエスの働きとこのイエスの後継者によって生まれたキリスト教の性格を言い表している言葉であると言えるでしょう。
 どういうことかと言うと、当時はユダヤ教に限らず多くの宗教では、神の前進み出るときには献げ物(生け贄)を必要とし、時にその生け贄は動物や果物や穀物ばかりではなく、人間がいわゆる心身供養として捧げられていました。しかし、今日の使徒書にも関係することですが、イエスはご自身がわたしたちの罪の生け贄として十字架の上に身を献げ、これからは繰り返して生け贄を捧げて神の赦しを乞い求める必要はなくなったのです。これによって、わたしたちは主イエスを通して神に愛されそれぞれの自分として生きることを許されていることが明らかにされており、わたしたちはもう何も持たず主イエスの名によって神の前に進み出ることができるようになったのです。その意味でも、主イエスによって旧約聖書の掟は乗り越えられています。そのことを律法学者は「神と人を愛することは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」と言っていると考えられます。見方を変えれば、福音記者マルコは律法学者にこの言葉を言わせて、イエスの福音がユダヤの律法と預言を成就し、神に愛され、神と人を愛して生きることこそ人が生きる原点であることを示していると言えるのではないでしょうか。
 そのことを認める律法学者に対して、主イエスは「あなたは、神の国から遠くない」と言っておられるのです。
 ここで私たちが心に留めておきたいことは、主イエスはこの律法学者に対してあくまでも「遠くない」と言っておられるのであって、「あなたは既に神の国にいる」とか「あなたの信仰があなたを救った」とは言っておられないということです。この律法学者は正しい答えを知っていました。そしてその答えは主イエスがお答えくださったとおり、正しいことです。この律法学者はイエスの愛の教えに同意しています。でも、この人が第1の掟が何であるかを知っていることと実際に掟の精神を生きているかどうかは、全く別のことなのです。
 ルカによる福音書にある並行記事(ルカ10:28)の中で、主イエスはこの人に向かってこう言っています。
 「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」
 愛とは自分の目の前の相手の人を大切にして、その人に神の栄光が現されるように支えてどこまでも関わり続けることです。その意味で、愛は論じたり評価することではなく、行動なのです。人は神の愛について厳しく教えられることを通して自分の中に愛を育むのではなく、実際に語られる言葉や行いの中に溶け込んでいる愛を豊かに受けることによって、自ずと愛が育まれるのです。
 赤ちゃんはただ「愛ある人に育ちなさい」とだけ言われても赤ちゃんの中に愛は育まれず、温かな眼差しと言葉と触れ合いによって愛は育まれます。そのようにして愛によって育まれた人は他の人を愛することが出来るように育ちます。
 主イエスの時代の律法学者たちは、その当時613あったとされる掟の内容を事細かに解釈し、その掟を自分たちの行動の拠り所とし、その掟を忠実に守ることを通して神に受け入れられると考えていました。
 例えば、彼らが「隣人を愛すること」を取り上げるとき、先ず自分の隣人とは同じイスラエル人同朋であると定め、その中でも特に律法を守ることのできる者こそ自分の隣人に相応しいと定め、その相手に関わることが掟に忠実に生きることであると考えたのでした。
 これに対して、主イエスは唯一の神を愛することと自分の隣人を愛することは一つであるとお教えになりました。誰であれ、たとえ自分たちとは交わりのない異邦人であれ、また「汚れた者」として交わりを絶たれていた人であれ、自分の直ぐ隣りにいる人が傷んでいたり倒れているのなら、その人に愛がもたらされてその人の命が取り戻されることを神は願っているのであって、神に創られたわたしたち人間は誰でも自分にとっての隣人であると主イエスはお教えになりました。
 そうであれば、主イエスの愛の働きは、すべての人が神の愛を受けるべき対象であるはずなのに、虐げられたり世の中から弾き出されてしまった人々にもたらされるように働くことになります。主イエスは人を愛することと神を愛することは分けることの出来ない一つのことであると教え、ご自身もその通りに行動なさいました。主イエスにとって、すべての人が神の愛のもとで生かされるはずであれば、その愛を必要としている人に身をもってその愛を示すのはごく当然のことでした。相手も神によって命を与えられて愛されているはず人であれば、その人掟によって切り捨てられるべきではなく、「愛しなさい」という掟によって、その人の罪が赦され汚れが浄められて、その人の本来の姿が輝き出ることこそ神の求めておられることであり、その人本来の姿が顕れるように仕え関わることこそ掟を全うすることになるのです。そして、主イエスは、神の国とは、すべての人がこの世に与えられたその人として命が十分に活き活きと生きるところにあると教えておられるのです。
 そうであれば、神を愛することと人を愛することは分けることの出来ない一つのことであり、隣人を愛することは掟だから強いられて行うことではなく、人としてごく当たり前のことになります。そして神と人を愛することは、神の国に入るための条件なのではなく、自分が神の愛を溢れるほどに受けている事の感謝に基づく当たり前の行為になるのです。
 この律法学者が主イエスから「あなたは神の国から遠くない」と言われた後、誰も主イエスに問いかける人はいなくなりました。何故でしょう。それは、彼らが主イエスと論じることによってハッキリしてくるのは、主イエスの答えが皆、隣人の重荷を負おうとしない彼らの生き方を浮き彫りにしたからです。自分が傷まず汚れず重荷も負わず、どの掟が一番大切なのかを論じることは、神と人への愛が無くても出来ます。でも、他の人の傷みや汚れを自分の身に引き受けてその人の重荷を負うことは、掟の中でどれが一番大切かを論じることだけでは実現しません。律法学者たちは自分の身を守ること、自分の救いを第一に考えることには一所懸命になりましたが、その場から動いて目の前の「傷んだ罪人」を愛する行為には動こうとしなかったのです。
 今日の福音書には、どの掟が第1なのかを知りながら重荷を主イエスに負わせて主イエスを十字架の上へと追いやる律法学者と、多くの人の罪や汚れを一身に背負って十字架に向かう主イエスの姿が対照的に描かれています。わたしたちは、主イエスがご自分の身を捨てて成し遂げた愛の通して、わたしたちも神と隣人を愛し仕えるようにと促されています。主イエスは、あなたの我が儘や悪口や妬みやプライドから離れて隣人を愛する人になれるように促しておられます。そして、私はそのためにこうしてエルサレムに来て十字架に付くのだということを、自らの行いによって示そうとしておられます。
 主イエスの招きに応えて神と隣人を愛する掟を行う働きへと踏み出していけますように。
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2018年10月28日

私たちの叫びとイエスの招き マルコによる福音書第10章46−52   2018年10月28日 B年特定25

私たちの叫びとイエスの招き
マルコによる福音書第10章46−52   2018年10月28日 B年特定25

 今日の聖書日課福音書の中で、エリコの町の門のところで盲人バルティマイは必死に主イエスに叫び求めています。その声が主イエスに届いて、主イエスに呼ばれて、バルティマイは見えるようになりました。
 このバルティマイはエリコの町で物乞いをしていました。エリコはエルサレムから東へ30qほどの所にある古い町で、ヨルダン川に沿った街道を旅してきた人々はこのエリコで一泊してエルサレムに上っていきました。
 過ぎ越し祭が間近になっている時です。エルサレムに通じる街道には、過ぎ越し祭をエルサレムで過ごそうとする人々が大勢います。エリコの町ではこの時期に、巡礼の旅人が増え、その人々を目当てに、施しを得ようと町の門の広場辺りには物乞いをする人が目立っていたことでしょう。バルティマイもきっとそのように物乞いをする一人だったと思われます。
 初めに、主イエスの時代には「目の見えない人」がどのように見なされていたのかについて、理解しておきましょう。ヨハネによる福音書第9章1節からの個所に、主イエスが盲人の目を開いた物語があります。その物語の中で、弟子たちは主イエスにこう尋ねています。
 「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」
 これに対して主イエスは、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」とお答えになって、この生まれつきの盲人を癒したのでした。
 この箇所を見ると、当時の社会で、目が見えないということがどのように考えられていたのかが分かります。それは、目の見えない本人か先祖の誰かが罪を犯しており、その結果、神から受けた罰のしるしが身体に表れて目が見えなくなっていると考えられていました。つまり、盲目は罪の結果と考えられていたのです。
 バルティマイは、町を出入りする人々に向かって物乞いの声を上げていました。しかし、町の人々にとって目の見えないバルティマイは所詮罪人であり、人々は物乞いをする人々に対して無関心を装い、あるいは邪魔者扱いし、このような人を顧みる人は殆どいませんでした。
 道端に座り込んでいるバルティマイの前を、また人々が通り過ぎようとしています。巡礼の旅人らしい一団が通っていくところです。ただ、そこにはいつもとは少し違う雰囲気がありました。気配を伺っていたバルティマイは、その一団の中に主イエスがおられることを察知しました。近頃評判のナザレのイエスです。バルティマイはこのイエスの噂、評判を耳にして、この人なら自分を顧みてくださるだろうし、見えるようにしてくださるに違いないと思っていました。この人によって目の見えない人の目が開かれ、重い皮膚病が清められ、足の不自由な人も立ち上がった話を、バルティマイも聞いていました。そして何よりもバルティマイが一番印象深く覚えているのは、ナザレのイエスが関わってくださるのは、社会からはじき出され、世間から白い目で見られている人たちばかりだと言うことです。
 ナザレのイエスが、今、私の前を通り過ぎようとしておられる、と思うと、バルティマイは大声で叫ばずにはいられませんでした。
 「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」。
 でも、エリコの町の治安や平穏を考える人々は、このバルティマイをを叱り付け黙らせようとします。「罪人のお前は他人に迷惑をかけるな。下がっていろ。」と言って、この人を邪魔者扱いしたことでしょう。またイエスの弟子たちの中にも「エルサレムに向かうわたしたちの先生の歩みを邪魔するな」という傲り高ぶった思いを持つ者もいたかも知れません。周りの人々がバルティマイを黙らせようとしますが、バルティマイはますます激しく主イエスに向かって「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。」と叫び続けす。
 バルティマイは、これまで周りの人々から罪人と呼ばれ、差別され、幾度も不快な言葉を浴びせられてきました。バルティマイは、いつもオドオドしながら道端に座り、いつの間にか自分の本当の気持ちと向き合うことも忘れ、おどおどした本心には蓋をして自分でも見ないようにし、感情を押し殺していたのではないでしょうか。しかし、今、バルティマイは主イエスが自分の前を通り過ぎようとしておられることを知って、抑えきれない思いが心の深みから噴き上がってきました。そして、その思いは大声になりました。人々は叫び始めたバルティマイを押さえつけ黙らせようとしますが、バルティマイはますます大声を上げて叫び続け、とうとうその声は主イエスに届きました。
 主イエスはこう言われました。「あの男を呼んできなさい」(10:49)。
 主イエスのこの言葉に着目してみたいと思います。
 主イエスがバルティマイの前を通り過ぎようとしておられた時と同じように、今、主イエスが私たちの前を通り過ぎようとしておられます。そうだとしたら、今、私たちはどうすべきでしょう。真剣に主イエスに向かって自分の叫びを届けようとしているでしょうか。もし自分の方から主イエスに自分の思いを届けようとしないのなら、主イエスはそのまま通り過ぎていくでしょう。「あの人を呼んできなさい」とおっしゃることもなく通り過ぎてしまうかも知れません。
 バルティマイは周りの人に叫ぶことを叱られ止められても、なお声を張り上げて主イエスを求めて叫び続けました。このバルティマイのように、心の奥深くにある自分の叫びを主イエスに届けることが私たちの信仰生活の初めなのです。もし私たちが他の誰かに邪魔されたとか中傷されたと言って、主イエスに叫び求めることを止めてしまうなら、それは何と愚かなことでしょう。また、もし私たちが自分の深い心の叫びを主イエスに届けることを躊躇ったり怠っているのなら、私たちにどうして主イエスとの真実な関係を深めていくことが出来るでしょう。私たちと神との対話は、私たちの心の中にある深い叫びを主イエスに向かって叫び届けることが初めであり、そうすることから私たちは主イエスの前に呼び出され、そこから主イエスとの真実の対話が始まるのです。
 本当の自分をイエスの前にさらけ出し、自分の心の内をイエスに向かって叫ぶことが信仰の始めであり、祈りの基本であると言えるでしょう。
 主イエスはバルティマイに尋ねました。「何をして欲しいのか。」
 バルティマイは答えます。「先生、目が見えるようになりたいのです。」
 この「見える」は直訳すれば「また(ανα)見えるように」と言うことです。
 先ほどお話ししたように、目が見えないことは本人や先祖の罪がその人に表れていることだとしたら、「また見えるようになる」とは本来あるべきその人の姿が取り戻されると言うことです。当時の考え方によれば、見えなかった人の目が開かれて見えるようになることは、その人の罪が赦されて神の御心としっかり結び合わされることを意味しており、バルティマイの叫びは、「先生、本当の自分になりたいのです。」という思いが込められていると言えます。
 このように考えてみると、私たちは今日の福音書からバルティマイという一人の盲人のことをについて学びながら、実は私たち一人ひとりが歩むべき信仰のプロセスについて教えられていることに気付きます。私たちも主イエスに向かって叫び、立ち上がってイエスに向かって歩きだし、イエスに問われ、イエスに自分の喜びや悲しみや傷みの深い叫びを伝え、救われ、イエスに従っていくのです。
 私たちは、聖餐式の初めに「主よ、憐れみをお与えください(キリエ、エレイソン)」と唱えます。私たちは今日も、バルティマイが主イエスを求めて必死で叫んだのと同じ思いで「主よ、憐れんでください」という言葉でこの礼拝を始めているのです。私たちは主イエスの御前に進み出た時、「何をして欲しいのか」とお尋ねになる主イエスに答えて、願い、訴えたいことが沢山あるはずです。私たちはそれを携えて「主よ、憐れんでください。」と叫びながら信仰の歩みを続けていくのです。
 主イエスに向かって自分の本当の叫びを届け、「私に何をして欲しいのか」と問うて下さる主イエスに向かって更に祈りながら生きていきたいと思います。主イエスから「あなたの信仰があなたを救った」と祝福していただける時を思い描きながら、心の奥底の叫びを主イエスにお届けしましょう。
 主イエスに向かって憐れみを叫び求めて止まない信仰生活を送って参りましょう。
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2018年10月22日

「いちばん上になりたい者は」 (マルコ10:35−45) B年特定24            2018.10.21

「いちばん上になりたい者は」 (マルコ10:35−45)B年特定24            2018.10.21
  

 今日の福音書より、マルコによる福音書第10章43節と44節をもう一度読んでみましょう。「あなたがたの間で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者はすべての人の僕になりなさい。」
 『聖書-新共同訳-』では、今日の福音書の箇所に、「ヤコブとヨハネの願い」という小見出しがついています。
 弟子のヤコブとヨハネが主イエスの所の進み出て「やがてあなたが栄光をお受けになるときに、わたしたちをあなたの左右の座に着かせてください」と願いました。主イエスは二人の願いに「偉くなりたい者は皆に仕える者になり、上に立ちたいのなら全ての人の僕になりなさい」と教えておられます。
 この物語は、多くの場合、弟子たちの無理解を描いていると説明されます。
 主イエスが十字架に向かう途上におられるにもかかわらず、弟子たちはその重大さに気付かず、自分たちの中で誰が偉いか、主イエスがエルサレムに行ってユダヤ教の指導者たちを従えて君臨することになったら、その側近として誰が相応しいかを論じたりしています。今日の福音書の箇所でも、ヤコブとヨハネは他の弟子たちを出し抜いて主イエスに「左右の座に着かせて欲しい」と願い出ていることに他の弟子たちが腹を立てたりしている姿を描き、イエスが誰にも理解されない中で十字架に向かって行かれることをハイライトさせていると説明されます。 そのように読むことは、ある意味、正しい読み方だと言えるでしょう。今日の聖書日課福音書をそのように読み取る必要もあることを踏まえつつ、今日は少し視点を変えたところから、この物語を考えて導きを受けたいと思います。
 「マルコによる福音書」は四つの福音書の中で最も早く成立したと考えられていますが、現在のような福音書として編集された時代を特定するのは難しく、紀元50年代から70年代前半にかけてのかなり幅広い範囲の中で編集されたと考えられています。主イエスが十字架の死を遂げて復活してから20数年から40年ほど経った頃ということになります。その時代を考えてみますと、イエスと直に接した人々が次第に少なくなり、その一方でイエスが生きて弟子たちと行動されていた頃にはなかった課題が信仰者たちの中に生まれてきたことも想像できます。そうであれば、私たちが福音書を読もうとするとき、紀元70年頃の教会がどのような課題をもって、その課題を主イエスの教えに基づいてどう乗り越えようとしたのか、解決しようとしていたのか、という視点から聖書の読んでみることにも大きな意味があるということを踏まえておきたいのです。
 言葉を換えれば、私たちはこの福音書から、生前のイエスを思い巡らせるだけではなく、福音記者マルコは紀元50年代後半から70年代の人々に、この福音書を通して何を伝えようとしたのかを考えてみることも、聖書のメッセージを理解する上で興味深いことではないでしょうか。
 このような点から考えてみると、先ほども少し触れましたが、マルコによる福音書が編集された時期は主イエスを直接には知らない新しい信徒が増えてきている時期であり、また、地中海沿岸をはじめとする各地に信徒の集まりが生まれ次第に教会として組織化されてくる時期でもありました。教会が信仰共同体であり主イエスを基盤として成り立つ集団であれば、信徒は主イエスのことを
広く伝えていく必要があると同時に、教会を信仰の共同体として運営していく原点をしっかりと理解して、互いにそのことを確認しておく必要がありました。その確認を怠るとき、教会は一見教会のようでありながらもその内実は教会ではなくなってしまうのです。
 そのような事例はいつの時代にもあることで、いくらでもその例を挙げることが出来るでしょう。私たちが生きる日本でも、例えばある宗教団体が特定の政党の下部組織になって信仰より政治的な利益を求めるようになったり、病院や学校が設立の精神を忘れて資産運用を目的とするようになって社会問題化することなど、具体例を挙げたらきりがないほどです。
 マルコによる福音書が編集された時代にも、主イエスの弟子たちがその信仰者の群れをまとめていこうとすれば、当然その時代の中でぶつかる問題や課題がありました。
 今日の福音書の中で、ヤコブとヨハネはイエスに願い出て次のように言いました。「栄光をお受けになるとき、一人をあなたの右に、もう一人をあなたの左に座らせてください。」
 この言葉が既にイエスが十字架にお掛かりになって死に復活した後30年ほど経って編集された言葉であることに注目してみましょう。この言葉は、主イエスが天にお帰りになって主なる神の右に座しておられるという信仰をもとに読まれる言葉なのです。弟子たちは、主イエスが既にいない中で、誰がチーフになるべきなのかを考えなければならない状況にあります。その状況で、イエスの左右の座に誰が就くべきなのかを考える時に、何をその判断の根拠にすべきなのかを今日の福音書は教えているのです。
 更に41節を見ると他の10人の弟子たちもこのようなヤコブとヨハネのことを知って腹を立てたと言うことが記されています。この場面だけを取りあげてみれば、聖書の中にも弟子たちの下心や野心が人間臭い争いを起こしているように見えるかもしれません。でも、ある集団が人数の上でも組織の上でもそれなりに大きくなっていけば、誰かが中心になって、全体を見渡しながらその集団をどのように運営していくかが当然の課題になります。また、集団が大きくなっていけば、そこに集まる人がどのような事でも全員で話し合って決議したり運営していくことが難しくなり、誰かが責任を持って代表として意志決定していく事も必要になってきます。それはイエスの弟子集団にとっても例外ではありませんでした。
 でも、そのような時にも、いやそのような時だからこそ、教会が教会であるために絶えず立ち戻るべき所、誰が指導者となるのかを考える時の拠り所が求められるのです。そして、その時に立脚点とすべき言葉が今日の福音書の第10章43節、44節なのです。
 「あなた方の間で偉くなりたい者は皆に仕える者になり、一番上になりたい者は全ての人の僕になりなさい。」
 福音記者マルコは、ここに登場するヤコブやヨハネのことを他の弟子たちを出し抜いて高い地位に着こうとした人であるとして批判したり非難するためにこの出来事を紹介しているわけではないのです。
 このヤコブは教会の指導者として信仰の戦いを貫き、紀元44年にヘロデ・アグリッパよって殺されています。イエスの十字架から10年が過ぎ、マルコによる福音書は更にそれから少なくとも10年以上が経ってから編集されています。そしてこの福音書が編集される頃には、他の多くの弟子たちも神と人々の僕となって働き抜いて殺されていきます。イエスの左右の座に着くということは、決してこの世での権力を握るとか財力によって世の中を自分の思い通りに動かすと言うことではなくて、むしろ人々の弱さや困難を我が事として引き受け、神から与えられたその人の命が神としっかりと結びついて生きられるように、神と人々に仕えることによって、神から与えられる祝福が「イエスの左右の座」の意味する事であると言うことが出来るでしょう。
 私たちの教区主教であった八代崇主教様が、かつてこんな事を話して下さったことがありました。
 若い頃イギリスに留学した時、生意気盛りであった自分はイギリスでの自分の指導教授にこんな事を言った。「イギリスと英国聖公会の繁栄はイギリスの帝国主義時代の産物で、今の教会もその上に乗っかっているに過ぎないのではないか。」そうしたらその先生は静かに「地下の礼拝堂へ行って見てきなさい」とだけ答えた。言われたとおりに行ってみて、自分は頭を殴られたような衝撃を受けた。そこには英国からアジアやアフリカに出かけていって殉教した教役者や宣教師たちを記念するためにその名前が刻まれたタブレットが数え切れないほど並んでいた。英国教会は王朝の権力によってではなく、このように数え切れない主の僕が命懸けで宣教したことによって存在しているのだ。それを知って自分はいくらか謙虚になれたように思う、と。
 主イエスの栄光の座の左右にいるのは、王室などの高位の人々でしょうか。それとも帝国主義に便乗して第三世界で財産を築いた人々なのでしょうか。そうではなく、主の僕として御心を現すために働いて苦難を負って殉教していった人たちこそ主の栄光の座に相応しいのです。
 今日の旧約聖書日課にはイザヤ書53章が用いられています。ここは「苦難の僕」の姿が記されている箇所です。人々の罪を我が事のように自分の身に引き受け、他の人の苦難を負って黙って歩む主の僕の姿が描かれています。主イエスが生きて十字架に死んで甦るまで、誰もこんな苦難を負う人の中に「主の僕」の姿など見出すことが出来ませんでした。目立たずに、でも深く確実に、他の人々に仕えてその人を支え続ける主の僕こそ神の光を放つのであり、後の世にあってはその人が主イエスの栄光の座の左右に着座すると聖書は私たちに教えています。
 私たちは今日の聖書日課から、昔の弟子たちだけではなく、私たちが生きていく上で立つべきところがどこなのかを教えられています。
 「皆に仕える者になりなさい。」「全ての人の僕になりなさい。」
 そしてそのように生きようとする私たちを支えて下さるのは、仕えられるためにではなく仕えるためにこの世に来られ、私たちのために身代金としてご自分の命を献げて下さった主イエスであることを私たちは覚えたいのです。私たちのために仕える者となり僕として生きぬいて下さった主イエスは、その極みの姿を十字架に示し、甦って今は主なる神の右におられます。私たちはこの主イエスに迎えられて、主と共に御国に生きる恵みを与えられています。この主イエスによって、日々の歩みが神と人々に仕え天の国の実現のために働く者へと導かれるよう、僕として生きる力を今日のみ言葉から与えられ養われて参りましょう。
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