2019年07月15日

善いサマリア人の譬え ルカによる福音書10:25−37 聖霊降臨後第5主日(特定10) 2019.07.14

善いサマリア人の譬え      ルカによる福音書10:25−37 聖霊降臨後第5主日(特定10) 2019.07.14
 
 今日の聖書日課福音書には、「善いサマリア人の譬え」の個所が取り上げられています。
 ある人が、エルサレムからエリコに向かって旅をしていました。エルサレムからエリコへは20数qの道のりで、途中には岩場も多く、曲がりくねった道であり、当時この辺りでは例え話としてだけでなく、実際に盗賊が出没したとも言われています。旅人はこの道の途中で強盗に襲われ、持ち物を奪われ、半殺しにされて放り出されてしまいました。起き上がることもできないでいるこの人の脇を通りかかったのは、祭司やレビ人でした。祭司やレビ人は、ユダヤ教の神殿で礼拝にたずさわる職にある人で、旧約聖書の律法にもよく通じていたはずです。
 民数記19章11節にはこう記されています。「どのような人の死体であろうと、それに触れた者は7日の間汚れる。」
 もし、道端に倒れている旅人が既に死んでいるか、また、介抱したり町まで運ぶ途中で死んでしまえば自分は汚れ、7日の間は神に仕える働きができなくなり、また人々との交わりから離れなければなりません。そこで、祭司もレビ人も、傷を受けて倒れているこの旅人を見ても見ないふりをして行ってしまったのでしょう。こうして彼らは律法の文言には忠実であったものの、神の御心から離れたのです。
 エルサレムからエリコの一帯は、昼と夜の気温の差も大きく、傷を負った旅人がこのまま夜を迎えれば、まず助からないでしょう。そのような人の脇を通りかかったのは、サマリア人でした。
 サマリア人は元々ユダヤ人であったのに異民族の血が混じっているために、ユダヤの純粋な血統を誇る人々からは「汚れた民」として嫌われ、蔑まれていたのです。
 そのようなユダヤ人とサマリヤ人の関係がつくられてきた背景を簡単に振り返っておきましょう。
 イスラエルは紀元前1020年にサウルを王として王国となり、王位はダビデ、ソロモンに引き継がれて100年ほどの時を過ごしますが、ソロモンが死ぬと国はBC922年に南北に分裂してしまいます。イスラエル12部族の10部族が北王国イスラエル、ユダ族とベニヤミン族が南王国ユダをつくりますが、サマリア地方は北王国の一部となりました。その200年後の紀元前722年に北イスラエル国はアッシリアに占領されて滅びるのですが、アッシリア王サルゴン二世は各地から異民族をサマリア地区に移住させ、その地に異国民の血が入り込むようにしてユダヤ人同士が互いに憎み合うようにする政策をとったのでした。
 また、南ユダ王国も紀元前585年にバビロニア軍の侵略によって滅びます。その時、エルサレム神殿が破壊され、多くの人が捕虜となってバビロンへと連行されていきましたが、やがて多くの人々がその捕囚から解放されてイスラエルに戻ってきます。やがて荒れ果てたエルサレム神殿の再建が始まろうとする時、サマリア人たちはこの神殿再建に加わろうとするのですが、南ユダ国の流れを汲む人々は信仰と民族の純粋性を保つためにこれを拒否しており、ユダヤ人とサマリア人の間には癒やし難い憎しみを深めたのです。こうした歴史を背景にユダヤ人とサマリア人の間には近親憎悪と言える歴史的な背景があったのです。
 話をイエスの例え話に戻しましょう。
 強盗に襲われた旅人のそばに来ると、サマリア人は、この人を見て憐れに思い、傷の処置をしてこの人を自分のロバに乗せて宿屋に連れて行き、一晩中世話をしたのです。そして翌日になると、宿屋の主人に代金を渡してこの旅人の介抱を頼み、もし費用がかかったら帰りがけに支払うことを約束して出て行ったのでした。
 この「善いサマリア人」の話の例えの部分は、多くの人に馴染み深く、教会学校などでも子どもたちに向けてたびたび物語られ、様々に解釈されています。
 今日、私たちは、主イエスが当時のユダヤ教が形式主義とも言える姿で維持され、ことにその指導者たちがその枠の中にいられない人を排除し差別している姿を厳しく批判し、すべての人が神に愛されて存在すべきであるようにと命がけでお働きになったことを心に留めたいと思います。そして、私たちも自分中心に生きる思いを解き放たれて、隣り人と共に生きることができるように導きを受けたいと思うのです。
 主イエスがこの例え話をなさるきっかけになったのは、律法の専門家が主イエスを試そうとして「先生、何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」と尋ねたことでした。律法の専門家は、その後の主イエスとのやり取りを見ても分かるとおり、律法について精通しており、その教えを言葉の通りに守ることについてもとても熱心でした。彼らは、そうすることによって神に受け入れられ、永遠の命を約束されると考えました。
 そしてこの律法の専門家は、その脈絡から、その枠の中で、主イエスに「では、わたしの隣人とは誰ですか。」と言うのです。その心の奥にあるのは、「わたしは神に選ばれたイスラエルの人間です。仲間同士で愛し合い、掟もしっかり守っています。あなたのように、律法を守れず汚れた罪人どもと交わりを持って自分を卑しめたりはしていません。」という思いでした。この律法の専門家には、こうした律法主義に基づく誇りと傲慢が見られます。
 このような律法の専門家に対して、主イエスは律法の専門家にこの例え話をお話になりました。そして「あなたの隣り人は誰か」ではなく、「この旅人の隣り人になったのは誰か」と問われます。例え話の中の祭司やレビ人は傷を負った旅人に構わず道の向こう側を通っていってしまいますが、その姿は自分の立場を誇ってはいるものの傷つき弱り果てた人々を少しも顧みていません。
 私たちも、自分を守るために倒れている旅人を助けない理屈はいくらでも挙げることができるでしょう。しかし、律法の専門家も私たちも、どんなに自分を正当化しようとしても目の前にいる傷ついた人に気持ちを動かされることより、自分を守ろうという気持ちの方が大きければ、事態は何も変わらないのです。それが主イエスから見たユダヤ教の姿でした。
 その一方、この譬えの中のサマリア人は傷つき倒れているユダヤ人の旅人を「憐れに思い、近寄って介抱した」と、主イエスは言っておられます。つまり、傷つき倒れている人を目の前にしても心を痛めず律法に忠実に生きていると思う人と、傷つき倒れている人を見て自分のはらわたが痛み震えるほどの思いをもってその人に思わず近寄らざるを得ない人と、どちらが傷ついた旅人にとって隣人だと言えるのかと、主イエスは問うておられるのです。
 律法の専門家は、先ず「自分にとって隣人とは誰か」を考えて、選ばれた清い者である自分が愛すべき対象となる人と愛さなくてよい相手を分け隔てすることからはじめ、自分にとっての隣人を自分のように愛することを考えています。それは、自分が愛するべき対象であるから愛するのであって、自分にとって愛すべき対象ではない人は傷んでいても悩んでいてもどうでも良いのでしょう。この律法の専門家には、そのように掟で身を固め、自分は神の前に立つ資格を十分に満たしていると考える傲慢と不遜があるのです。
 主イエスは、十字架によって神の愛を示して下さいました。それは、私たちが律法をよく研究してそれに精通しているからなのでしょうか。神に愛されるのは、特別な血筋から生まれた者に限られるのでしょうか。そうではなく、私たちが仮に取るに足りない者であったり罪や汚れに悩み苦しむ人間であったとしても、神は私たちのことを決して見捨てずに関わり続けて下さるのです。それが愛であり、私たちはその愛によって支えられ生かされているのです。
 この例え話を通して主イエスさまはこう言っておられます。
 私はあなたのために腑が痛むほどの思いでいるが、あなたは誰に対して腑が痛むのか。その痛みをもって相手に関わるとき、相手にとってあなたは最も良い隣人になる、と。
 主イエスは「あなたも行って同じようにしなさい」と言っておられます。私たちも行って同じようにしようとするとき、自分の力の限界を知ることになるでしょう。本当に私たちの隣人を愛そうとしても愛せない自分を認めざるを得ないとき、私たちは自分も道端に倒れた旅人の一人であることを知り、神の憐れみと助けを必要としていることを初めて知ることができるのです。
 主イエスは、私たちの良き隣り人となりはらわたを痛めて私たちに近付いてくださいます。私たちもこの主イエスによって「あなたも行って同じようにしなさい」と言う御言葉を受け、宣教の務めに出て行くのです。
 私たちは、律法の専門家のようではなく、私たちの人生の旅で倒れたときに主イエスによって抱き起こされ介抱していただいた者なのではないでしょうか。
 「あなたも行って同じようにしなさい。」と言う御言葉に仕えさせていただき、永遠の命の約束の中に生かされて参りましょう。
 父と子と聖霊のみ名によって アーメン
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 17:24| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年07月11日

おはようのハイタッチ 2019.7.11

おはようのハイタッチ

 私は、あまり丁寧に朝のご挨拶をする習慣のない家庭で育ちました。そのためか、未だに挨拶がぬけて、他の人に失礼は思いを持たせてしまっていないかと気になったりもしています。
 今、幼稚園園長として、基本的には毎朝30分〜40分程度、玄関の前に立って登園する子どもを迎えています。そして、かつては苦手だった「おはようございます」の挨拶を、登園してくる園児親子、園バスで登園してくる子どもたち、そして幼稚園の前を通行するお勤めの方々や登校する高校生などと交わしています。
 中には、お母さまが子どもに「しっかり園長先生のお顔を見て!」とアドバイスして、親子で丁寧にご挨拶くださる方もおられ、また、時々来られるお父さまは私の前まで来ると、「はい、気をつけ!」と子どもを促して親子で揃ってビシッと礼をしてくださったりして、私の方が、日々、挨拶の訓練をしていただいている思いです。
 丁寧に礼儀正しく挨拶をすることの大切さを思う一方で、私は登園してくる子どもたちと朝の挨拶として(挨拶代わりに)、ハイタッチをしています。ハイタッチの挨拶は、丁寧な礼儀正しい挨拶ではありませんが、私にはその日の子どもの様子(感じ)がより一層伝わってくるように思えます。
 勿論、言葉で挨拶を交わして会釈をすることからも伝わってくるものもありますし、子どもたちを迎える者として、そこから子どもの様子を感じ取らなければなりませんが、ハイタッチはそこにひとつ小さなスキンシップが加わります。
 「おはようございます」という言葉と共に、私の手を勢いよく叩いたり、遠慮がちにそっと触れたりする一人ひとりの表現を味わいながら、私の一日が始まります。私とハイタッチする子どもたちにとっても、良いあいさつ代わりのハイタッチであったらいいな、と思います。
まだまだ朝のご挨拶が苦手な子どもが、はにかみながらも私と手のひらを合わせることで、それを小さな儀式として、「さあ、幼稚園に来たぞ、今日の一日が始まるぞ!」というスイッチが入り、玄関の中へと向かってくれれば、私とのハイタッチは十分その役割を果たしていることになるのだろうと思います。
 駅の構内に入る時、改札口で切符を通したりカードを当てたりして、そこで気持ちが少し切り替わるように、子どもたちとのハイタッチが良い一日の始まりとなる小さなルーティーンであったら幸せです。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 19:00| Comment(0) | 幼稚園 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年07月07日

主に派遣される私たち  ルカによる福音書10:1-12、16-20  聖霊降臨後第4主日(特定9)   2019.7.7

主に派遣される私たち    聖霊降臨後第4主日(特定9)     ルカによる福音書10:1-12、16-20  2019.07.07
                               
 今日の福音書は、主イエスさまが72人の弟子たちを任命して派遣された箇所が取り上げられています。
 今日の福音書のすぐ前、ルカによる福音書第9章1節からの箇所では、主イエスが12人の弟子を派遣された様子が記されています。主イエスは、神の国を宣べ伝え、神の国を実現していくために、先ず12人の弟子を派遣し、更に72人を派遣しておられます。
 今日の聖書日課ルカ第10章1節にはこのように記されています。
 「その後、主は他に72人を任命し、ご自分が行くつもりの全ての町や村に二人ずつ先に遣わされた。」
 先に12人を遣わし、またここに72人を遣わし、それでも主イエスの宣教の働きを担う者の数はまだまだ足りません。主イエスは、第10章2節でこう言っておられます。
 「収穫は多いが働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」
 当時、主イエスご自身のお働きも、また主イエスによって遣わされる弟子たちの働きも、多くの課題や困難がありました。それは、多くの人が弟子たちの宣べ伝える主イエスに興味を示すものの、反面多くの人が主イエスの教えを拒み潰そうとして、主イエスを宣べ伝える弟子たちに批判や嫌がらせを加える人もいたのです。
 そのような場に72人を派遣するにあたり、主イエスは「収穫は多いが働き手が少ない」と言われました。「収穫が多い」とは、言葉を換えて言えば、あそこにもここにも主イエスの働きを必要とする人々がいてその人々に癒やしや慰めをもたらす人がまだまだ必要であると言うことです。そして、そのような場に、神の御心を具体的に表していく仲間が与えられるように祈りなさいと主イエスは弟子たちに言っておられるのです。私たちも、この72人と同じように、主イエスに教えられ導かれて、ここからそれぞれの生活の場に遣わさていく者であり、自分の遣わされていく場がどうなることが神の御心なのかを絶えず祈り求める者です。私たちが生きている場が、いつでも神の御心が実践されている場になるように私たちはそれぞれに与えられた場で働きます。その働きを必要とする場はあまりに多く、働き手はまだまだ少ないと主イエスさまは感じておられたのでしょう。
 主イエスさまは疲れた人や重荷を負って行き悩む人々をご自身の御許に招いておられますが、それはただ「さあ、いらっしゃい」という立場におられるのではなく、主イエスご自身の方から貧しさや病に悩む人々の中に入って行かれ、また、たくさんの弟子たちをもそのような人々の中に遣わしておられ、また遣わそうとしておられます。
 「神の国」とは、どこかに特定の場所や地域を確保してその場を主イエスの願い通りにする事を意味するのではなく、神の願う姿の実現している状態や神が治めておられる姿を実現していくことを意味しています。主イエスの働きはまさにこのような「神の国」の実現のための働きでした。私たちがそれぞれ生活している場が、どこであれ神の御心、神のお考えが具体的に現れでることで神の国は実現するのです。私たちも、それぞれの家庭で、職場で、一番小さな人間関係で、主イエスが共におられる場になるように、御心を実現するための器となれるように生きることで、神の国は少しずつ実現してくるのです。
 それは時として「狼の群の中に羊を送り込む」ほどの厳しい働きにもなります。現代の日本で主イエスを救い主と信じて受け入れている人は人口の1パーセントにもなりません。このような中で主イエス・キリストの福音を宣べ伝えることは、狼の群の中に送り込まれる羊ような思いになることもしばしばです。
 キリスト教の2000年に渡る歴史を振り返ってみれば、迫害や苦難の歴史でもありました。
 故八代崇主教がかつてこのような話をしてくださったことがありました。
 若い頃に英国で勉強していた時、生意気盛りだった八代主教さまは、イギリスは帝国主義による領土の拡大と共にキリスト教も拡大していったのだと言ったと指導教授に言ったことがあったそうです。その時、八代青年を指導していた聖職者は、彼を地下のある一室を示したのでした。八代青年はそこへ行ってみると、そこには数え切れないほども殉教者の名が刻まれたタブレットがあり、そこで日々祈りがささげられていた事を知り、衝撃と共に自分の一面的な歴史認識を恥じた、とのことでした。
 時を問わず、場所を問わず、主イエスに遣わされ、主の御心を命を賭けて示してきた多くの宣教者の働きによって、今の私たちも生かされており、私たちもその歴史の先端にあってこの世界に「神の国」の実現のために遣わされていくのです。
 そのような宣教の働きに出る者に、主イエスは「財布も袋も履き物も持っていくな」と言っておられます。主イエスに派遣される私たちも、本当に頼るべきものは何かを深く考えなければなりません。
 主イエスは、弟子たちと最後の食事をなさった時に、その席で弟子たちにこうお尋ねになりました。
 「財布も袋も履き物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか(ルカ22:35)。」
 その時、弟子たちは答えました。「いいえ、何もありませんでした。」
 主イエスによって派遣されるということは、私たちのように平凡で特別な才能もない者にとって、時に不安になり、その使命に尻込みしたくなることであるでしょう。そのような時、何か他の大きな力を頼みとしたくなることもあるでしょう。でも、財布や袋や履き物に表されるような、主の福音以外の備えなどなくても、最終的には何も不足することはないことを主イエスは教えてくださいました。主が私たちを選んで派遣なさるのであれば、その結果も主ご自身が引き受けてくださるのです。
 主イエスは、決して特別な才能や力のない私たちを用いて、私たちの中に主イエスご自身が働いてくださり、神の国の実現を示してくださいます。
 もし私たちが主のご用のために派遣される器であるのなら、そこに自分中心の思いや傲慢があれば、かえって私たちは主の働きの器ではなくなり、そこに表れるのは人間の支配する国であり、そこに神の国の姿は隠れてしまうでしょう。私たちが日々御言葉によって生かされ、主イエスのみ糧に養われる理由もここにあるのです。
 私たちは主イエスに召し出され養われていることを根拠にして、私たちは主の働きのために派遣されていきます。たとえ、狼の中に派遣される羊のような立場にあったとしても、既に十字架と復活によって神の支配の確かさを身をもって示してくださった主イエスによって、私たちは永遠の愛に生かされていることを信じています。
 私たちはこの聖餐式を通してみ言葉とみ糧に養われ、「ハレルヤ、主と共にいきましょう」「ハレルヤ、主の御名によって」と言葉を交わして派遣されていきます
 主イエスが20節で言っておられるように、私たちの名が天に書き記されていることを喜びとし、私たちの日々の生活が身をもって主を証するものとなりますよう、たとえ小さくても私たちの生きる場に神の国が現れ出るように、遣わされてゆきましょう。
 願わくは父と子と聖霊の御名によって アーメン
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 21:38| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする