2019年05月15日

羊飼いに聞き従う ヨハネによる福音書第10章22−30   C年 復活節第4主日  2019.05.12

羊飼いに聞き従う
ヨハネによる福音書第10章22−30   C年 復活節第4主日  2019.05.12

 今日の主日は、良き羊飼い主イエスを覚える主日です。今日の聖書日課福音書のヨハネによる福音書第10章26、27節で、主イエスは当時のユダヤ教の指導者に次のようにご自身を羊飼いに、また主イエスに聞き従う人を羊にたとえておられます。
 「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。」
 今日の福音書の場面は、第10章22節に、神殿奉献記念祭の行われてる冬の頃であったと記されています。福音記者ヨハネがわざわざこのことを記している意図を考えるためにも、始めに「神殿奉献記念祭」について触れておきましょう。
 パレスチナには、昔から複雑で難しい歴史がありますが、イスラエルはサウル、ダビデの時代にここに王国をつくりました。その後、この地域はたびたび周辺の国に攻撃され占領された歴史があります。イスラエル王国はソロモンの治世の後に南北に分裂しますが、紀元前722年にはアッシリアによって北王国が滅ぼされ、細々と残っていた南ユダ国も紀元前586年にバビロニアによって滅ぼされ、多くの人が捕虜となって遠くバビロニアまで連行されていきました。そのバビロニアが滅びると、パレスチナは紀元前330年頃にはマケドニアのアレキサンダー大王の支配下になり、紀元前2世紀半ばにはシリアに支配されます。このような歴史の中でエルサレム神殿も度々荒らされ破壊されています。
 ことに紀元前168年、シリアのアンティオコス王朝に4世エピファネスは、ユダヤ教の根絶をはかりユダヤ人の宗教的慣習を一切禁止したと言われます。更にこのアンティオコス4世エピファネスは、占領したエルサレム神殿に異教の神の祭壇を築いてその礼拝を強要します。この異教の神はオリュンポスの神ゼウスであり、旧約聖書ダニエル書の中ではこの異教の神が、「憎むべき荒廃をもたらすもの」(ダニエル11:31)と呼ばれています。この時の様子については、旧約聖書続編のマカバイ記(Tマカバイ1:10-64,4:36-58、Uマカバイ6:2,10:1-8)に記されていますので、目を通してみるとよいでしょう。
 シリアの国は、アンティオコス4世エピファネスが死ぬと王位継承の問題で力を落とし、その時に乗じてユダのマカバイ一族はエルサレムを奪い返し、紀元前165年12月25日にイスラエルの民はエルサレム神殿を清めて神の祭壇を回復しました。こうしてユダ・マカベアがエルサレムを奪回して神殿を神に奉献したことを記念し、イスラエルの民の間で年ごとに記念礼拝が行われるようになります。この記念礼拝が、「神殿奉献記念祭」です。
 本来神殿はイスラエルの人々が信じる主なる神ヤハウェを礼拝する聖なる場所であり、イスラエルの民にとって神殿はダビデの願いでありソロモンの時代からの民族の誇りでもありました。それが異国の支配者の手によって荒らされ、異国の神をまつる場所にされてその礼拝を強要されることは、耐え難い屈辱でした。
 紀元前165年、マカバイによって独立を回復し、エルサレムの神殿を主なる神を礼拝する場所として回復して主なる神にお献げする事は、イスラエルの民にとってどれほどの喜びであったか私たちの想像を超えていると思います。
 今日の福音書の舞台はこのエルサレム神殿であり、時はその神殿奉献記念祭が行われている時でした。
 しかし、ユダ・マカベアから1世紀半以上過ぎた主イエスの時代は、大きく変わっていました。イスラエルの国が、紀元前63年にローマ帝国に占領され、また政治的独立は奪われて、この地方はローマの占領地となりその属州として治められていました。ローマ皇帝は、イスラエルの民が神殿でヤハウェを礼拝することは黙認したようですが、そのような状況の中で、ユダヤ教の指導者たちは自分の権力と利益を守ることに腐心し、神殿奉献祭を行う喜びも失せて、神殿は支配者たちが特権を守る利益を得る場に成り下がっていました。
 紀元前63年頃ローマに攻め込まれた時に傷んだエルサレム神殿は、策略家であった領主ヘロデの時代に補修工事が始まり、主イエスの時代にもその工事は続いていました。次第に修復されていく神殿で、その年の神殿奉献記念祭も上辺は賑々しく行われていたことでしょう。
 でも、主イエスの目から見ると、エルサレム神殿は神の霊に満ちた聖なる場ではありませんでした。ユダヤ教の祭司長たちや律法学者たちが自分の権力を誇り、その自分を人々に見せつける場になっていたのです。彼らが気に掛けるのは、神の御声ではなく、ローマ総督や領主ヘロデの顔色であり、自分の利益になるかどうかと言うことであり、彼らにとっての羊である民を守る思いは乏しく、民に向かって親しい招きの声も上げることがありませんでした。
 ヨハネによる福音書第2章13節以下には、主イエスがいわゆる「宮清め」をなさった事が記されています。主イエスは、当時のエルサレム神殿が神の御心を表す場でなく商売の家になっている様子をご覧になって、縄で鞭をつくり生け贄として捧げらるために法外な値段で売られている動物を追い出し、両替人の金を撒き散らしてその台を倒し、「わたしの父の家を商売の家としてはならない」と言って、彼らを厳しく批判したのでした。主イエスの目には、荘厳な神殿の内実が実は自分の利益を貪る「強盗の住みか」に見えたのでしょう。
 わたしたちの物の見方や考え方は、どこから見るかによって変わります。主イエスの弟子たちも、初めから弟子として相応しくものを見て考えることができたわけではありません。例えば、ペトロは召し出された後も、幾度も失敗したり主イエスに叱られたりしながらも、イエスのみ声を聞き主イエスに従い続けることによってやがて指導的な宣教者になっていきます。
 私たちが主イエスのみ声を聞くことについても同じです。何が本当に御心に適うことなのか、どうすることが本当に神の御心をこの世に示すことになるのを、絶えず祈り求める中から、私たちは次第に主イエスのみ声を聞き分けることが出来るように育てられていくのです。
 私たちは主イエスの御声を聞いて従うことによって、神の御心にかなう歩みが少しずつ可能になり、他の人にも主イエスの御声を聞くように促し導くことが可能になるのです。
 今日の福音書の舞台であるエルサレム神殿では、神殿奉献記念祭が行われています。沢山の人が集まり、立派な儀式が行われていたことでしょう。でも、神殿の担い手たちが神のみ声を聞こうとせず、民を導くこともしていません。主イエスはそのような当時のユダヤ教の指導者たちに、よい羊飼いの譬えを用いながら、神のみ声を聞き分けて主なる神に従うことの大切さを語り、また、主イエスのみ声を聞き分けて従う者となるように私たちを導いておられます。
 私たちは、祈りを通して主イエスの御声を聞き分けて、主イエスに従って歩んでいるでしょうか。羊飼いである主イエスの御声を初めから聞き分け聞き取れる人などいません。でも、羊飼い主イエスの御声を聞いてその御心が何であるかを祈りの中から求めようと歩む人はやがては確実に主イエスの御声に導かれるようになるでしょう。羊は、羊飼いに養われ導かれながら、羊飼いへの信頼を次第に強めていくのです。
 そして、今日の福音10:28で主イエスが言っておられるように、良き羊飼い主イエスに導かれて「彼らは決して滅びず、誰も彼らをわたしの手から奪うことはできない。」という世界へと招かれるのです。
 今、私たちの生きる世界は、多くのことを能率、対費用効果など経済的価値に換算して得か損かということを判断基準にし、その結果貧富の差をはじめ格差が広がっています。これに対して、主イエスは羊飼いが自分の羊すべてに名前をつけその性格や健康状態も把握しているように、私たちを知り、私たちの名を呼んで導いておられます。私たちは、青草も水場もない荒れ野を歩まなければならない時もありますが、主イエスはいつも私たちの良き羊飼いとして、私たちを導き続けておられます。良き羊飼いの御声は、決して声高ではないし、いつも耳障りの良い言葉になるとは限りません。でも、羊飼い主イエスは、迷い出た羊である私たちを死の果てまで探し求め、連れ戻し、失ったものが生き返ったのだからと言って天に祝宴を設けてくださいます。良き羊飼い主イエスの御声をしっかりと聞き分け、聞き従い、朽ちることのない命の喜びへと導かれて参りましょう。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 17:42| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年05月06日

聖書の内容は全部そのまま信じるべきでしょうか?

 その答えを私から申し上げる前に、あなたにとって「信じる」とはどういうことかを振り返ってください。他の言葉に置き換えると、「信じる」とはあなたにとってどんな言葉になりますか。
 一般論ではなく、あなたには、「全部そのまま信じてはいけません」と申し上げた方が良さそうです。
 聖書は科学の教科書ではありませんから。また、聖書(ことに旧約聖書)は古い時代からの移り変わりの中でしるされており、その中で思想的にも成長、成熟していく歴史があり、その視点から見ればその思想に矛盾する箇所も沢山ありますし、時代の中で自己理解も変化していきます。その一部だけを切り取って「信じる」ことは正しい読み方、信じ方ではありません。
 例えば、聖書(創世記の始めの箇所)の中で、神は六日で天地を創造しますが、これは科学的事実を記しているのではありませんから、そのままあなたの信じ方で信じてはいけません。この物語を通して聖書は読み手に何を伝えようとしたのかを学ぶと、聖書は真実を伝えていることが理解できるでしょう。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 05:49| Comment(0) | Q and A | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

パウロの祈り  使徒言行録 第9章1−19     C年 復活節第3主日 2019.05.05

パウロの祈り
使徒言行録 第9章1−19     C年 復活節第3主日 2019.05.05

 教会では、この復活節に旧約聖書日課に代えて使徒言行録を朗読する習慣があります。主イエス・キリストの甦りの力に生かされた弟子たちがどのような働きをしていったのかを思い起こし、私たちもまたイエス・キリストの復活の力に与るのです。
 今日の使徒言行録は、第9章1節からで、ここにはサウロ(後のパウロ)の回心の物語を取り上げ、復活のキリストはキリストを迫害するサウロをさえ捕らえ、回心させ、彼をイエス・キリストの偉大な伝道者に育て上げたことを伝えています。
 サウロは、生まれも育ちもユダヤ教のエリートでした。自分の優秀な頭脳と熱意によってユダヤ教徒の模範として生きていました。回心する前のパウロは、見方を変えれば、自分の救いのことしか考えないエゴイストであり、自分を義として、その「義」に反するものを裁いて止まない人であったとも言えます。
 パウロは、回心する前の自分を振り返り、フィリピ書第3章5,6節でこう言っています。
 「わたしは生まれて8日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。」
 かつてのパウロはこのように熱心なユダヤ教徒でしたから、キリストの教えはユダヤ教を逸脱してものであるとして、キリスト教徒を極度に嫌いました。パウロはイエスがどのような生涯を送りどのように死んでいったのかをよく知っていたものと思われます。
 そして、ステファノが甦りの主イエスを証ししながら、荒れ狂うユダヤ教徒たちに石を投げつけられながら死んでいく様子を見てもいました。ステファノが神を侮辱するものとされ石を投げつけられる中で、その人々のために執り成し、神に彼らの赦しを願いながら死んでいく姿をサウロも見ていたのでした。サウロは、ユダヤ教徒たちがステファノに石を投げつける様子を見ながら、その人々の上着の番をしていたのでした。
 自分と民族の救いを求め続けるパウロにとって、主イエスの十字架の死やステファノの殉教は、忌まわしく認めがたい出来事でした。自分の救いを求め続けるその時のパウロには、十字架で徹底的に他者のために祈りながら死んでいったイエスのことや、そのイエスを再現するかのように自分を迫害する者のために祈りながら死んでいったステファノのことが、心に深く刻み込まれ、しかもそれらの出来事はその後いつもサウロを揺さ振り続けたに違いないのです。
 サウロがイエスのことやステファノのことを考えると、これまでの自分を否定され、自分の人生の意味や価値を覆えされかねないと思えたことでしょう。
 私たちもそうです。自分の中には確かに存在しながらも見たくない自分の一面、自分の中にありながらもそれを認めたくない一面があって、それを他の誰かの中に見出す時、私たちはその相手の人を批判し抑えつけようとするのです。パウロにとってのイエスと弟子たちはまさにそのような存在でした。サウロは、自分の誇りとするユダヤ人としての生き方を徹底的に揺さ振ってくるように感じられるイエスとその弟子たちを何とかして抹殺したい、そしてユダヤ教徒としての自分の生き方を安定させたい、そのような思いを熱くして、イエスを救い主であると言って憚らない人たちを捕まえて牢に入れることに意気込んでいました。
 イエス・キリストは、このようなサウロの思いを超えてサウロの心の奥深くに働きかけてきます。そしてとうとうサウロは、自分のプライドもエゴイズムも徹底的に打ち砕かれることになるのです。サウロは自分の血筋も生まれ育ちも、身に付けた学問も、その他これまでの自分を支えてきた一切を、キリストによって吹き飛ばされることになります。
 先ほど触れたフィリピ書の第3章8節でパウロは次のように続けています。
「キリストのゆえにわたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。」
 パウロは、今までの自分を支え誇りにしていたものをキリストによってすべて失いますが、キリストによって生かされた今となれば、自分が失ったものは皆ゴミ同然なのだと言うのです。
 イエスを救い主だと信じて宣べ伝える者を捕らるために躍起になっていたサウロには、その人々を消し去ることしか頭にありませんでした。サウロはキリスト者の迫害に意気込み、エルサレムから200qも離れたシリアのダマスカスへと向かいます。イエス・キリストはそのようなサウロの中にも宿り、大きくなり、遂にはそのキリストはサウロ自身の力で制御できないほどの力となり、ダマスカスへの途上、サウロは完全にイエス・キリストに征服されるのです。
 パウロの回心は劇的に一瞬のうちに起こったように物語られていますが、これは一瞬に起こった出来事ではありません。パウロがどんなに否定しようとも抹殺しようとも、パウロの中でいつの間にか膨れあがり、逆にキリストがパウロをその愛の中に完全に包み込んでしまうのです。サウロの中ではその思いを否定し抑えつけようとしていた分、イエスの愛は一気に大きくサウロを圧倒する経験になったのでしょう。
 サウロは、甦りの主イエス・キリストにまるで圧倒されて、自分で自分を保つことさえできなくなり、三日間何も見ることができず、また食べることも飲むこともしませんでした。
 この時、神はアナニアというダマスカスのキリスト者にこう告げています。
 「ユダの家にいるサウロという名のタルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。(9:11)」
 サウロは、まだ自分がどうなっているのかを全く見失っている中で祈っています。これまでの自分をすべて打ち砕かれて、何も見えず、食べることも飲むこともせずにサウロは今、祈りに祈りを重ねています。これまで自分を生かすと思っていたもの、誇りとしていたものをイエス・キリストの前では取るに足りないもの、塵あくたに過ぎないと悟ります。そして、古い自分に拘るがゆえに拒否して抹殺しようとしたイエス・キリストに向かって祈ることが新しい自分を築き始める力になっているのです。
 主なる神はサウロのこの祈りに応えて一人の信仰者アナニアをお遣わしになります。主はアナニアに言われます。「サウロという名のものを訪ねなさい。今、彼は祈っている。」
 はじめのうち、アナニアは驚き疑って主なる神に反論します。
 「主よ、わたしは、その人がエルサレムであなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。ここダマスカスにも、御名を呼び求める人をすべて捕えるため、祭司長たちから権限を受けています。」
 しかし、主はアナニアにこう言うのです。
 「行け、あの者は・・・わたしの名を伝えるために・・・わたしが選んだ器だ。」
 主はご自分の御名を証しするために器としてサウロをお選びになりました。そして、ご自分の御名によってサウロのエゴイズムもプライドも打ち砕いてそこに神の愛を注ぎ込みました。主は時に私たちの自分中心の思いを打ち砕くために私たちにも働きかけてこられます。それは、神さまが私たちを主の復活の証人として相応しくしてくださるためです。
 私たちも自分を振り返ってみると、かつてのサウロのように、あるいはサウロ以上に、自分勝手であったり、プライド高く、自分を守るために平気で他人を傷つけたり押し退けたりする者であることに気付かされます。主なる神の御前にあってそのような自分は何と小さく惨めであるかを思い知らされます。
 しかし、サウロは自分に気付き砕かれて、目も見えずにいた時に、祈っていました。また、アナニアによって祈られていました。そのような祈りを通してサウロは新しい自分に生まれ変わり、生涯を主の御名を証しするように立ち上がっていくことができたのです。
 やがてパウロは「生きているのはもはやわたしではない。キリストがわたしの中に生きているのだ」と言うまでになります。
 主なる神は、私たちにただ辛さや苦しさを与えるために私たちを打ち砕くのではありません。神は私たちを主イエスと共に私たちの罪を十字架に葬り、イエスと共に私たちを新しく生まれ変わらせ、滅びることのない生命へと招き入れてくださるために、私たちの罪を打ち砕かれるのです。
 かつてのパウロがそうであったように、私たちは苦しみや試練の中でこれまでの自分が砕かれるほどの思いを持つ時、主なる神が私たちをその先の新しい命に生まれ変わらせお導きくださろうとしていることを信じ、祈ることへと導かれましょう。また、サウロの祈りにアナニアがサウロに手を置いて祈るその祈りが重なる時に、サウロは信仰者として新たに生まれて歩み出していることを、私たちは今日の使徒言行録に確認することができるのです。
 こうして信仰の共同体は成長していきます。初代教会から受け継ぐ祈りの共同体の中に生かされている恵みを覚え、私たちもまた祈る共同体を受け継ぐ者として神の恵みの中にあって、熱心に祈る者となっていくことができますように。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 05:31| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする