2019年11月17日

「終わりの時」を生きる ルカによる福音書21:5−19 2019.11.16 聖霊降臨後第23主日(特定28) 

「終わりの時」を生きる ルカによる福音書21:5−19 2019.11.16 聖霊降臨後第23主日(特定28)                           
 教会暦では今日を含めて2つの主日を過ごすと一年が終わります。一年のが終わりが近付いており、今日の聖書日課も旧約聖書、使徒書、福音書ともに、「終わりの時」ということに触れています。
 旧約聖書のマラキ書では、主なる神さまが正しい者と神に逆らう者を選り分けるために預言者エリヤを遣わすと言い、その時に備えて心を神に向けるように促しています。使徒書のテサロニケの信徒の手紙Uでは、「落ち着いて仕事をし、たゆまず善いことをしなさい」と言って、「終わりの時」を迎えることとは日々の生活を投げ出すしてひたすら天を見上げるようなことではなくむしろ御心に沿って着実に日々の生活の中で御心を表していくように勧めています。そして、福音書では主イエスが「この世の栄華に心を奪われるのではなく、また一方で色々な社会現象や自然現象その他の動きに惑わされつことなく、忍耐して神の御心を実践し、命を勝ち取るように」と教えておられます。
 私たちはこうした聖書の教えに導かれながら「世の終わり」「終わりの時」に向かって、生きています。
 最近、私たちの生活の中でも、台風や地震といった自然災害が多く、私たち人間の力を超えた自然の力の大きさを感じさせられています。また、中東などの世界の政治が不安定な中で、テロ、爆破事件等のニュースも絶えることがありません。ある人々はこのような自然現象や不安定な世界情勢などを「世の終わり」やその前触れのしるしということに結びつけ、「終わりの時」とは地球が破滅することであるかのように宣伝して人々の不安を煽ります。またその一方で、世界の動きには全く無関心になって、目の前の楽しさを追い求めて生きる人もいます。でも、「世の終わり」に備えて生きるということは、そのどちらの考えも相応しくないことは言うまでもありません。
 主イエスの地上での生涯は紀元30年頃に終わっています。主イエスが甦って天に上げられたとき、人々はこう考えました。
 「主イエスはその御生涯を通して神の御心を私たちに示して下さった。天にお帰りになった主イエスはまた直ぐに来て下さる。その時、この世界は神の御心によって完全に支配され、神の御心は完成されるのだ。」
 でも、主イエスの時代からルカによる福音書が編集された時代までには、50年以上の月日が流れました。主イエスの再臨を待ち望む人々の中には、「主イエスが天にお帰りになってもう50年も経つ。主イエスの再臨はこれ以上遅くなることはない。この世の終わりは直ぐに来るだろう」と考える人がいました。その一方で、「もう50年経ってしまった。これほどに遅くなってしまったのだから、救い主の再臨は直ぐにはないのではないか」と考える人も増えていました。そして信仰者たちは「このような時代に、私たちは再臨の主をどのような態度で待ち望むことが神の御心に一番相応しいのだろう」と考えていたのです。
 そして、いずれにしても、「終わりの時」に備えることは、いつ来られるか分からない主イエスを待ち望みながら、私たちは今をどう生きるべきなのかということに関わってくるのです。
 仮に、私たちにいつ訪ねてくるか分からない大切人がいるとしましょう。私たちは何をどう準備するでしょうか。もし、その客人がいつの日の何時頃に来るのか予め分かっていれば、その日その時のために計画を立てて入念に掃除をしたり料理をしたり、その客人を迎えることを楽しみにしながら準備をすることでしょう。
 でも、もしその客人が主イエスであり、主イエスがいつおいでになるか分からないとしたら、私たちは何をすべきなのでしょう。私たちがすべき事は、いつか主イエスにお会いすることを楽しみにしつつ、いつお会いしても良いように、自分の人生をごまかさず、いい加減にすることなく、日々自分に与えられた使命を実現するように着実に、誠実に生きることなのではないでしょうか。
 今日の使徒書で、パウロは「自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。そして、兄弟たち、あなたがたは、たゆまず善いことをしなさい。(3:12-13)」と勧めています。当時のテサロニケの人々の中には、「世の終わりは近い」と浮き足だって自分の仕事を放棄して再臨のキリストに会う準備に専心しようとする人もいたのです。パウロはそのような人々に対して、「落ち着いて自分の日々の生活を通して善い業に励みなさい」と教えています。
 初代教会の時代は、クリスチャンに対する迫害がユダヤ教の側からもローマ皇帝の側からも強まってくる時代でした。クリスチャンが日々の生活の中で神の御心を実現して生きていこうと励むために、それだけかえって思わぬ迫害を受ける事も増してくる時でした。そのような時代に、福音記者ルカは「忍耐をもって神の御心を歩み、命を獲得しなさい。」と主イエスの御言葉を伝えています。
 今日の福音のルカによる福音書第21章18節には「忍耐する」という言葉がありますが、この言葉は「辛抱強く神の許に留まること」や「自分の重荷を担いとおして留まること」を意味しています。この言葉の意味に表されるように、私たちが生きる世界の状況が良くても悪くても、神が最終的に御心を完成させて下さる希望をもって、神から与えられた自分の命を自分らしく精一杯に生き続けることを神は私たちに求めておられるのです。
 いつどのように「終わりの時」が来るのかは私たちには前もって知ることは出来ません。ましてそれを私たちが決めることなどは神と人の主客を逆転させる傲慢につながります。もし私たちが自分の判断で「終わりの時はこれこれの日に来る」などと言うとすれば、それは私たち人間が神の働きを支配することにつながるでしょう。私たちは、主イエスによって示された神の御心を中心に据えて、神ご自身がこの世界の全ての人々のために御心を完成させて下さる時を思い、「御国が来ますように」と祈りつつ生きる者なのです。
 そして、私たちは、自分の働きをとおして神の御心がこの世界に一つ現れ出るように生きていくことを求められています。そのように生きることは決して自分を押し殺してただ神の考えに自分を当てはめて生きることではなく、先ほども触れたとおり、それぞれの人が神から与えられた自分の命をその人として十分に生きることを意味しているのです
 私たちが生きている時代は、主イエスが既に十字架の上で完成して下さった救いの時と、その救いがやがてこの世界に完成する「終わりの時」の中間にあると位置づけられています。私たちは、主イエスが示して下さった十字架の愛と赦しがこの世界が行き渡り満たされる希望の中に生かされているのです。私たちクリスチャンは主イエスが示して下さった神の恵みを既に受け入れた者であり、教会はこの世界に神の求めておられる姿がそれぞれの働きを通して現れ出るように働く者の群れ(集まり)なのです。
 教会暦の一年間が間もなく終わろうとするこの主日に、私たちは「終わりの時」について思い巡らす恵みが与えられました。「終わりの時」について思い巡らせることは、私たちがいつ主なる神にお会いしても良いように今を真剣に生きることにつながります。
 主なる神がお与え下さる「終わりの時」の希望に導かれて、私たちは日々自分を通して神の御心が顕されるよう、それぞれに自分の勤めを果たして参りましょう。
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2019年11月03日

徴税人頭ザアカイ ルカによる福音書19:1−10 ルカによる福音書19:1−10 2019.11.03

徴税人頭ザアカイ ルカによる福音書19:1−10 聖霊降臨後第22主日(特定26)  2019.11.03 

     
 ザアカイはエリコの町の徴税人頭でした。
 当時、各地方で税金を集める仕事は徴税人頭の仕事でした。徴税の権利は競りにかけられて、それを最高額で競り落とした人が請け負っていたと言われています。このような徴税請負人は、幾人かの「徴税人」を使って町の人々から税金を取り立て、しかも規定額以上の税金を取って私腹を肥やしていました。徴税人頭やその下で働く徴税人たちは、同じイスラエルの民から嫌われることになり、除け者にされることになります。
 徴税人は、例えば町の門で通行税を徴収したり船付き場でそこから陸揚げされる荷物の税金をかけて取り立てました。こうした人たちも本来はイスラエルの民でしたが、自分の国を占領しているローマの国の手先となって税金を集め、それを支配者に上納します。しかも先ほども触れたように、定められた税額より多くを徴収してその上前を自分のものにしていましたので、徴税人はイスラエルの民から嫌われており、特に神の民としての一致や団結を求める人々からは「あいつは神の御心から離れてしまった者」という意味で「罪人」と見なされていました。福音書の中では「徴税人や罪人たち」と表現いう言い回しもあるとおり、当時の徴税人がどのように思われていたのかが分かります。
 一方、律法を厳格に守るファリサイ派の人たちは、自分たちを「神に選ばれた者」と考え、民族の一致と団結によって神の民であることを示そうとしていましたので、彼らにとって徴税人は売国奴であり徴税人の頭は盗賊の頭と同様にも見なされていました。
 ザアカイは、エリコの町の徴税人頭つまり徴税請負人でした。ザアカイはエリコの町の人々から交わりを絶たれ、誰も彼に寄りつこうとしません。同じイスラエルの民として生まれた人であれば、喜んで徴税人になる者などいなかったはずです。そうであれば、ザアカイは「どうせ俺は徴税人頭だ。金を集めて生きてことの何が悪いのだ!」とばかりに、居直って生きていたと考えられます。そしてそのような生き方がますますイスラエルの民との間に溝を深めていたことと考えられます。
 徴税人頭のザアカイは、エリコにやってきたイエスを見たいと思いました。でも、人だかりの真ん中にいるイエスを見ようと思っても、普段から嫌われ者で背の低いザアカイは人垣の中に入れてもらえず、イエスを見ることができません。そこでザアカイは、主イエスとその一行が必ず通るであろう道を先回りして道端のイチジク桑の木に登り、そこでイエスを一目見ようと考えました。
 ザアカイの予想通り、主イエスはその道をやってきました。そして主イエスはザアカイのいる木の下まで来ると立ち止まり、ザアカイを見上げて話しかけられたのです。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。きょうは、ぜひあなたの家に泊まりたい。」
 『聖書-新共同悪』では「ぜひあなたの家に泊まりたい」と訳されているこの箇所は、新しく発行された『聖書−聖書協会共同訳』では、「今日はあなたの家に泊まることにしている」と訳されています。この箇所は、主イエスが単にその日の宿泊場所を心配しておられる言葉ではありません。そうではなく、原文は文法的には「神のご計画でそうすることに決められている」という意味があります。これまでのザアカイが神の御手から離れ、神の御手からは失われた存在であり、そのザアカイを導き返すために、主イエスはザアカイを再び生かすためにもザアカイの家に泊まることになっているのであり、それが神の御心なのです。もう少し踏み込んで言えば、主イエスはザアカイの心の中に宿ることになっているのです。
 ザアカイと主イエスの位置関係にも注目してみましょう。この時のザアカイは、木の上にいます。そこからなら、背の低いザアカイでも誰にも妨げられずに主イエスの姿を見ることが出来ます。イエスの姿や顔立ち、身に付けているもの、そして周りの弟子たちの様子も見おろすことは出来ます。でも、主イエスは、ザアカイが木の上から一方的に主イエスを眺めるだけで済ませるべきだとはお考えになりません。それだけでは、ザアカイにとっての主イエスはただ「イエスの姿を見たことがある」ということに過ぎません。
 主イエスは、「ザアカイ、急いでおりてきなさい。今日はぜひあなたの家に泊まりたい(あなたの家に泊まることになっている)。」とザアカイに声をおかけになりました。
 私たちも、他の人の家に泊まることや、自分の家に客人を招いて食事をしたり泊まっていただいたりすることは、ごく親しい人同士がする事であり、そうすることで一層交わりを深めることが出来ます。主イエスは、ザアカイが主イエスを距離を置いて眺めたり評論するような所にいるのではなく、対話して親しく心を通わせ合うためにザアカイを招いておられます。
 もっと言えば、主イエスは「ザアカイ、お互いに心を通わせる次元にまで降りて来なさい。わたしはあなたの中に宿ることになっているのだ。」と言っておられるのです。ザアカイがザアカイとして自分を取り戻して生きていくために、主イエスがザアカイを招き、ザアカイの中に宿りたいのだから、さあ、急いで降りて来なさいと主イエスは言っておられるのではないでしょうか。
 主イエスの言葉を聞いてザアカイは喜びました。今まで、神を語る人は誰もザアカイを相手にしませんでした。ザアカイはユダヤ教の指導者や担い手となる人々から「神の国に逆らう者」「神の民から税金としてお金を巻き上げて異邦人に渡す裏切り者」とされてきました。ザアカイはこれまでそんな自分に向き合うことも避けて、金儲けに精を出して来ましたが、心の底では生きている喜びを味わったことはないし、本当の自分として今を生きていると思ったこともありませでした。主イエスは、木の上から主イエスを眺めるしかなかったザアカイに声をかけて下さいました。ザアカイは喜んで主イエスを家に迎え入れました。そして心を込めてもてなしました。ザアカイは、主イエスとの交わりをとおして、生まれて初めて心に本当の喜びを感じ始めます。食事をしながらザアカイは主イエスに色々なことを話したことでしょう。ザアカイは主イエスと話し、心を通わせることを喜んだことでしょう。主イエスに自分を受け止めていただき、主イエスに愛されていることを感じ、自分が生きている喜びを知ったのです。そして、ザアカイは主イエスを自分の救い主として迎え入れ、本当の自分を取り戻して生きることが始まっていきます。これまで金銭に依り頼み、徴税人の頭となって町の人々から不正に取り立てていた人が、旧約聖書の規定以上に返済し、貧しい人々に分け与え、神の御心を生きる人へと変えられました。
 今日の福音書のルカによる福音書19章9節で、主イエスはこう言っておられます。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから」。
 「アブラハムの子」とは、「神に選ばれ救いを約束された者の子」と言うことであり、「神の救いを受けるべき者」を意味しています。徴税人頭ザアカイもまた神の救いを受けるべき者であることに変わりはないし、教祖のことが実現したと主イエスは言っておられるのです。
 わたしたちは、今日の福音書から、神の愛によって本当の自分を取り戻したザアカイについて学んでいます。そして改心したザアカイの言葉にあるとおり、他の人々にも神の愛を持ち運ぶことが出来るようになることが救いであることを教えられています。例え罪人呼ばわりされるような者であったとしても、また自分の生き方を見失ってしまったような者であったとしても、主イエスの招きに応え主イエスとの交わりに生きる時に、私たちも「アブラハムの子」となることが約束されています。
 主イエスは、いちじく桑の木の上から距離を置いたまま主イエスを見おろしているザアカイを招きました。そして、「ザアカイ、下りて来なさい。わたしはあなたの中に宿りたい。」と言っておられます。
 「ザアカイ」と親しく名を呼んでおられる主イエスを思い、そこにそれぞれ自分の名を入れて、私たちも主イエスに招かれていることを思い巡らせましょう。主イエスの招きにお応えすることが出来ますように。
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2019年10月27日

神の前にへりくだる者、高ぶる者   ルカによる福音書18:9−14  2019.10.27  聖霊降臨後第20主日(特定25)

神の前にへりくだる者、高ぶる者  ルカによる福音書18:9−14  2019.10.27  聖霊降臨後第20主日(特定25)


 今日の聖書日課福音書は、ルカによる福音書第18章9〜14節の箇所です。ここには、主イエスがお話しになった例えのが採り上げられています。
 主イエスは、自分を正しい者の側において自惚れるファリサイ派の人と自分の罪を自覚してへりくだる徴税人の姿を、対照的にお話になり、神の御前に「義」とされるのはどちらの人であるのかを教えました。この例えを思い巡らせる上で押さえておきたいのは、この話が「他人を見下している人々に」に向かって語られているということです。
 私たちも、この箇所から、自分の信仰の在り方や祈りを振り返り、神の御前に「義」とされる者となるように導きを受けましょう。
 例えの内容は簡潔です。
 二人の人が祈るために神殿に上って行きました。その一人は熱心なファリサイ派です。彼は罪人でない自分を感謝し、律法をしっかり守りかつ律法の要求以上に断食や捧げ物を実行する自分を誇り、その感謝を捧げました。このファリサイ派の姿は、自信に満ちあふれているように見えました。
 旧約聖書のレビ記や民数記にある献げ物についての規定などを見てみれば、このファリサイ派の人はそれ以上の十分過ぎる献げ物をしていることが分かります。彼はそのように出来る自分を誇ります。また、彼は他人の罪を数え上げて、自分がそのような罪人ではないことをも神に感謝しています。
 これに対して、もう一人徴税人は、祭壇から遠く離れて立ち、顔を上げることもせず、胸を打って祈っていました。「胸を打つ」とは、自分の罪を深く悲しみ悔い改めの気持ちを形に表す所作です。自分は神さまの直ぐ近くに行くことが出来ない者、神の御前にとても自分を誇ることなど出来ない者であり、ただ神の憐れみを請い求める他に何も言葉のない者であると自覚するこの徴税人の姿が浮かんできます。
 ファリサイ派と徴税人は、当時のイスラエルの中で極めて対照的な立場にありました。当時のイスラエルはローマに占領されていました。ファリサイ派は律法を忠実に守ることでイスラエル国民の団結を強め、神の民として強められて、政治的にもローマから独立を勝ち取ることを願っていました。
 一方、徴税人はローマとその傀儡であるイスラエルの権力者の手先となってイスラエルの人々から税金を取り立てる仕事を請け負っていました。そのため、徴税人はファリサイ派の人々からは自分を異国に売り渡してその手先となった裏切り者、神を忘れて権力者にしっぽを振る罪人と見なされていました。しかも、徴税人は定められた額以上の金額を取り立てて、その上前を自分の収入にすることを許されており、例えばザアカイのような徴税人頭は、この仕事を通して私腹を肥やす者も多かったのです。
 主イエスは、ファリサイ派と徴税人の二人が、対照的に祈る姿を例えにしてお話しになり、「義とされて家に帰ったのは、この徴税人であって、あのファリサイ派ではない」と言われました。
 先程も触れたとおり、今日の福音書の初めの箇所を見ると、主イエスはこの例えを「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても」お話しになったと記されています。ここに出てくる「うぬぼれて」という言葉は、「自分に依拠する、依り頼む」という意味であり、この箇所では「自分を根拠にしてその自分を誇る」という意味で、まさに「自惚れる」ているファリサイ派の姿を描きます。見た目には、敬虔に神に祈りを捧げているようでありながら、実は彼らは神に自分を委ねて祈るのはなく、正しい自分を誇ってそのことを人々にも見せびらかすように言葉にし、また断食をし捧げ物をすることの出来る自分を誇ってその自分を神殿の中でも目立たせたいのです。一見立派な信仰者のようでありながら、主イエスの目から見ると、少しも神とつながっていないし、神を利用する以外には神を必要ともしていない人の姿がそこにあるのです。
 一方、徴税人は、罪人である自分の憐れみを乞い求めて祈り、神殿を去って行きます。この人はまた明日もファリサイ派の人たちに罪人呼ばわりされながら徴税人の生活をしていかなくてはならないのかもしれません。でも、この徴税人は、神殿に来る前と同じ罪人のまま家に帰っていったのではなく、「義とされて」帰っていきました。この徴税人が、神殿で自分の罪を悔いて祈る人でないのなら、きっとまた明日も、少しでも多く金を手に入れることを考え、もしかしたら他人から税金を巻き上げることを生き甲斐のようにしたことでしょう。この徴税人は、神の前に自分を悔いて、赦されて、神を自分の拠り所として新しい歩みを踏み出していくのです。
 ルカによる福音書では、第19章にエリコの町の徴税人頭ザアカイが主イエスに出会って改心した話が出て参ります。ザアカイも主イエスと出会って生まれ変わり、自分の財産の半分を貧しい人に施し、不正に取り立てていた人にはそれを4倍にして返す生き方へと変えられています。それと同じように、この徴税人も罪人である自分の祈りを捧げ、「義とされて」新しい人生を歩き始めたと言っても決して大袈裟なことではないのです。
 もし、ここに語られているファリサイ派の人が、自分を誇るのではなく、祈りによって本当に生かされる人だったら、1週に2度断食することや全収入の十分の一を献げる事を感謝したはずですし、律法を全うできずに思い悩む人に対しても「このような罪人でないことを感謝します」と祈るのではなく、目の前の罪人の痛みを自分の痛みとして執り成しの祈りを捧げ、目の前の罪を悔やむ人に自分も痛まないわけにはにはいかなかいはずです。
 主イエスは、マタイによる福音書5章で「心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである。」と言っておられますが、この「心の貧しさ」とは、今日の福音書の徴税人のように、自分の思いを捨てて全てを神に依り頼む事を意味しています。主イエスは、神に全てを委ねる人こそ幸いであると言っておられるのです。神の前に自分の罪を認め、自分の全てを神の前に投げ出し、ひたすら「自分を憐れんでください」と祈る人こそ幸いなのです。そしてこの徴税人のような人こそ神の前に正しいのだと主イエスは教えておられます。他の人の痛みを少しも思わず、自分に依り頼む者は、本当に自分を神に委ねて祈るのでしょうか。主イエスは、ファリサイ派が他人の前では敬虔を装いながらも、実は彼らの中心にいつも傲慢と自惚れがある事を見抜いておられました。そして、その傲慢と自惚れは、徴税人や罪人を社会から遠ざけて彼らを罪人に仕立てて差別するようになるのです。ファリサイ派の人々はそのようにして他の人に重荷を負わせて差別する社会を造り上げて、その上で自分を救われた者の側に居座らせていました。
 私たちは、今日の福音書を通して、主イエスから私たちの祈りを問われ、信仰のあり方を問われています。主イエスは、私たちが自分を頼みとして高ぶるのではなく、すべてを主に明け渡して本当の自分に立ち返るように促しておられます。そして、全てを主なる神に委ねる時、そこに働く主ご自身の力によって私たちは「義とされて」生かされることを、主イエスは教えておられます。自分を低くして全てを神の前に自分を告白して委ねる徴税人はただそれだけで神に「義」とされています。私たちも同じです。
 自分の義を中心に立てて生きるのはなく、私たちの罪に働いて罪を大きな恵みに変えてくださる主イエスの恵みの中で生かされて参りましょう。
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