2020年04月05日

死の先まで共に マタイによる福音書27:1−54     復活前主日     2020.04.05

死の先まで共に マタイによる福音書27:1−54     復活前主日     2020.04.05

今日の聖書日課福音書から、マタイによる福音書の第27章46節をもう一度読んでみましょう。
 「三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味である。」
 十字架の主イエスを思い巡らせるために、次の二つの言葉の意味を確認しておきたいと思います。
 一つは「愛」です。これまでに幾度も申し上げているとおり、この言葉は神の御心が現れ出るように、積極的かつ肯定的に相手にどこまでも関わり続けるという意味で、愛の反対語は「恨み」とか「憎しみ」というより「無関心」とか「無関係」という言葉の方が近いということです。
 もう一つは「罪」です。「罪」とは関係が切れていることを意味しています。それはちょうどコンセントが外れている電化製品は、かりにどんなに高価で立派な製品であっても、用をなさないように、私たちが自分を生かしてくださる存在、言い換えれば「愛」との関係に断絶を起こしていることが「罪」です。私たちは生物としての命があるというだけでは「生きている」と言うことはできず、神との関係が破れていること、また、神から与えられた命が取り替えられないその人として生きていないことを、「罪」と呼びます。
 私たちは、この「愛」と「罪」という言葉の意味を心に刻み込んで、十字架の主イエスを見上げてみましょう。
 聖書日課A年である今年の聖書日課福音書は、マタイによる福音書を中心に取り上げられています。そして、マタイによる福音書の大きなテーマの一つは「主イエスが私たちと共にいてくださる」と言うことです。
 マタイによる福音書は、イエス誕生の物語の中の第1章23節で、「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は「神は我々と共におられる」という意味である。」と記しており、また、同じマタイによる福音書の最後の場面では、甦った主イエスが弟子たちに「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共のいる。」(28:20)と言っておられます。
 このように、マタイによる福音書は、その始めと終わりに、主イエスはいつでも、どこにいても、私たちと共にいてくださるということを示し、実際にマタイによる福音書の中身には、罪人呼ばわりされてしまう人々とも共に生きた神の子イエスの生涯が記されていると言えます。
 このように、神の方からは主イエスを通して神が私たちと共にいて下さることを示して下さいましたが、それでは私たちは自分の力で神と共にいることや他者と共にいることはできるのでしょうか。もし、「私はいつでも他の人と共にいることが出来ます」と言う人がいるとすれば、その人はよほどの天才か本当はそれほどでもないのに空気が読めずにそう思い上がっていることに自分でも気付いていないだけの人に違いありません。
 福音書の中でも、ペトロは、主イエスが十字架にお架かりになる前の晩、食事の席で主イエスに向かって「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」とまで言い、それに促されて、他の弟子たちも皆同じように言いました。
 しかし、弟子たちは、イエスが捕らえられる時、恐ろしさのあまりイエスを置いて逃げ去りました。その後、ペトロは捕らえられたイエスの様子を見ようと、大祭司の館に入り込みますが、その庭で「お前もあのイエスと一緒にいた。あの連中の仲間だろう」と問い詰められると、ペトロは呪いの言葉さえ口にしてイエスを「知らない」と言ったのでした。これは、ペトロ個人のことに限らず、ペトロの物語を通して私たち人間がいかに神の御心から離れやすく人が神と共に、他の人と共に、いられないのかを描き出しています。
 主イエスは、このような人間のこと私たちのことを愛して関わり続けてくださいました。その結果、主イエスは権力者と権力者に扇動された民衆たちに罵られながら、十字架に磔にされて死ぬことになります。貧しい人や悲しむ人と共に生きるイエスがこのように終わることなどあってはならないことです。でも、イエスは十字架の上に身をさらされて息を引き取ろうとしています。こんなイエスの姿が神が共にいてくださることを示しているなどとは、誰も思えませんでした。神は、十字架の主イエスに無関心であるかのように、何もお答えになりません。神はこの主イエスを全く愛していないかのように、沈黙を続けておられます。
 イエスは叫びました。「エリ、エリ、レマサバクタニ(わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか)。」
 自分の方からは神の御心を貫き通して来たのに、神の方からは何の答もありません。こちらからは全身全霊で神とつながり続けたのに、神からはつながりを感じさせるものが何ひとつありません。そんな中で、主イエスはなお「我が神、我が神」と神に呼びかけています。神に見捨てられているようにしか見えない中で、主イエスはその絶望をなお神に向けています。何の見返りも求めず神と人を愛し続けたイエスは、十字架の上からさえ、人々を愛し神とつながり続けておられます。
 まるで、大切な宝が潜んでいるだまし絵か隠し絵のように、十字架の上で叫ぶイエスの中に「愛」の姿があって、僅かな人がそれに気づき「本当に、この人は神の子だった。」と告白しています。
 私たちはよく「無償の奉仕」とか「見返りを求めない愛」ということを口にしますが、どこかで見返りを求めたり期待したりしてしまいます。たとえそれが物やお金ではなくても、「相手に喜んでもらえた」とか「お礼を言ってもらえた」とか「神は認めてくれている」とか、何らかの見返りを求めてしまいます。でも、主イエスは十字架の上から、沈黙して何もお答えにならない神に、自分の最期の言葉を向けて、何の見返りも求めず、受けず、そのまま息を引き取ります。こうして、全く罪のないお方が罪人と同じ扱いを受け、罪人が味わうべき罵りと神からの断絶を、主イエスは我が身に負って死んでくださいました。こうして主イエスは罪の極みにある人が味わう苦しみと絶望をさえお引き受けになり、罪の極みにある人ともどこまでも共にいてくださることを、十字架の上から示してくださったのです。
 もし、私たちが他の人の罪など自分には関係無いと言えば、そこに罪が生まれ、神とも人とも断絶をつくり出します。かといって、罪がないのに罪人の側に立てば、罪人として扱われ、その罪の償いとしての罰を受けることになります。この窮地の選択の中で、主イエスはご自身が罪人の一人になって十字架に付けられる道を歩まれました。
 「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか。」
 この主イエスの叫びによって、神に見捨てられるはずの罪人である私たちは死の先にまで共にいて下さるお方を見出すのです。
 神が何もお答えにならず沈黙しておられるのは、神が私たちを見放したり見捨てたりしているからではありません。私たちが神にさえ見捨てられたと思って絶望する時にも、主イエスは私たちと共にいて下さり、私たちの絶望よりももっと深く呻き叫んで、主イエスが私たちを神と結びつけていてくださいます。私たちが絶望の中にあってさえ、なお神の御心を貫いて生きるようにと、主イエスは死の先から私たちを支えていて下さいます。
 パウロは言いました。「十字架の言葉は滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」
 次の主日に、私たちは主イエスの甦りを記念して、感謝の礼拝をしようとしています。その礼拝の中で私たちは、主イエスが罪ある人々のためにご自分の命まで全てをお献げになった先に何があるのかを確認し、その感謝と喜びに与ります。
 主イエスの十字架の死が、私たち一人ひとりの罪を赦し、私たちが再び大切は一人の人として生きることができるように、罪人の側にまわって下さった愛のしるしであることをしっかりと覚え、イエス・キリストの甦りを自分の救いの出来事として受け容れることが出来ますように。この聖週をご復活の主を喜び迎える備えの時として過ごすことができますように。
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2020年03月29日

復活であり命であるイエス ヨハネによる福音書11:17−44  大斎節第5主日    2020.03.29

新型コロナウィルス感染症拡大防止対策のため、主日礼拝が休止されております。
この主日の聖書日課から静想する一助にしていたければ幸いです。


復活であり命であるイエス ヨハネによる福音書11:17−44  大斎節第5主日    2020.03.29
  
 今日の福音書より、ヨハネによる福音書第11章25節の御言葉をもう一度お読みします。
 「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」
 私たちがこのみ言葉を受け取るときに、心に留めておきたいことがあります。それは、ここで言われている「死んでも生きる」、「いつまでも死なない」ということは、生物としての体が肉体的、物質的に死なないという意味ではなく、主イエスに対する信仰を持つことが肉体の不老長寿を約束するものでもないという事です。
 私は、この聖書日課による説教の準備していると、昔、ある教会の機関誌に掲載されていた次のような文章を思い出します。
 ある時、子どもが母親に不安そうに尋ねました。「ねえ、お母さん。私たちはイエスさまを信じているから死なないのでしょう。そうしたら、お祖母ちゃんも死なないの?」
子どもの唐突な質問に、母親はどう応えたらよいのか戸惑っていると、子どもは更に次のような話を続けました。
 お祖母ちゃんは年老いて病気になり、小さな子ども(孫)の目から見ても、お祖母ちゃんは日に日に弱っており、この子どもにはお祖母ちゃんがとても可哀想に見えたのです。それでもこのお祖母ちゃんがこのままずっと生き続けるのだとしたら、主イエスが「わたしを信じる者は永遠に死なない」と教えておられることは福音ではなく、拷問でしかないように思えたのでしょう。このような質問をきっかけにしてその母親は我が子が小さな胸を痛めていたことを知り、魂の平安について話し合い、親子で心を通わせるひとときを持つことが出来たという内容のエッセイです。
 マルタとマリアは、イエスに「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」と言っています。このことは、人の体がどんなに衰えても生物としての命を失うことはないなどという意味で語られているのではありません。そうではなく、今日の福音書では、ラザロがこの世に生きた事が、主イエスによって意味づけられ、ラザロがこの世に生きた意味は主イエスの愛によって永遠に残るということを教えているのです。
 イエスを救い主と信じるマルタとマリアにとって、自分の兄弟ラザロが臨終の時、主イエスがその場に共におられなかったことはどんなに心細く、悲しかったことでしょう。それは、マルタとマリアにとってだけではなく、イエス不在のまま死んでいくラザロにとっても同じだったことでしょう。
 主イエス不在の死は、まさに生物としての死によって終わるのであり、その先に希望はありません。
 ヨハネによる福音書第11章1節を見てみると、ラザロは何か病気であったことが記されています。当時、病気は人が犯した罪の結果が体に現れていることと考えられ、また、神に敵対する者がその人に取り憑いたしるしであるとも考えられ、それはやがて死に至ることを意味していました。
 今日の福音書は、主イエスのいない世界では、人は死に支配されていることを伝え、しかも4日も経てば死の臭いさえ放つようになってしまう事を示しています。
 マザー・テレサがインドのカルカッタで実践した最も大きな働きは、「死を待つ人の家」の働きでした。それは、路上で死んでいく身寄りのない人を引き取り、その人生の最期を共にする働きでした。誰からも関心を持たれることなく、自分の人生を生きてきたという実感もなく路上で人生を閉じようとする人の最期を看取り、その人の傍らでその人の人生を聴き取り、その人のために祈りを捧げるのが、マザー・テレサの働きでした。マザー・テレサのこの働きを無駄だと言って批判する人もありました。でも、彼女に見つけ出され、初めて人間として扱われて、人生の最期に自分自身を取り戻して、彼女に「自分もこの世に生まれてきて良かった」と感謝しながら死んでいく人を見て、多くの人が、マザー・テレサの働きから、人生の最期に愛が存在することの大切さを学んだのでした。
 今日の福音書の中で、主イエスはマルタとマリアがラザロの死を嘆き悲しむ姿を見て「心に憤りを覚え」(11:33)と記しています。主イエスは、人のこの世の生涯に必ず終わりのあることを憤っておられるのではなく、死によって、ラザロの人生そのものまでを否定して、ラザロを通して働いた神の愛の恵みさえ無にしてしまおうと働くる悪の力に対して主イエスが憤っておられるのです。
 神の大きな愛の力は、死さえも無力にしてくださるはずなのに、時に「死」は神の愛を忘れさせ、神の愛が死の前に無力であるかのように思わせます。マザー・テレサを批判する人々もそうでした。彼女の働きを批判する人々は、死んでいく人を看取っても何の役にも立たないと言って、彼女の働きの中に神の愛の勝利を見ようとしなかったのです。
 「悪」は、人を神の愛から引き離す力となって働きます。そして「罪」とは人が神の愛から引き離されてしまった姿を意味します。悪は神の愛を忘れさせ、能率、対費用効果、見える武力や財力によって人を虜にします。
 私たちも、自分が神から愛されていることを忘れ、それに気づかず、自分を見失い、本当の自分を生きられずにいる時があります。そのような時は、たとえ生物としての命は活動していても、神から与えられた掛け替えのないその人として生きているとは言えないでしょう。主イエスが憤っておられるのは、人が生きることを無にして滅びへと向かわせる悪の力に対してなのです。
 主イエスはラザロの墓の前で大声で叫びました。
 「ラザロ、出てきなさい。」すると、死んでいたラザロが墓から出てきました。ラザロはたとえ死んでも、主イエスによって生かされています。ラザロは墓から呼び出されました。ラザロの一生は、墓に納められそこに閉じこめられて終止符を打ったのではなく、ラザロは主イエスに覚えられ、愛され、祝され、ラザロは主イエスによって生まれ変わるのです。そして、なおこの世に生きるマルタとマリアも、ラザロと共に主イエスによって生かされています。
 主イエスは、「わたしは復活であり、命である」と言っておられます。この言葉は、「わたしは、人が死んでもその人を生かす力である」ということであり、福音記者ヨハネはこの物語を通して主イエスこそ人の力によってではむなしく滅びるしかない者を生かし、滅びない者にしてくださる」と証ししているのです。
 主イエスは、十字架の上にご自身を掲げ、私たちを愛し抜いてくださいました。私たちは主イエスの愛によって死の先にまでなお神と結ばれる恵みを与えられています。
 私たちが自分中心に生きれば、私たちの命は自分の死によって終わります。しかし、私たちをどこまでも愛し抜いてくださるお方の力は、墓の中から失われた人を立ち上がらせ、永遠に失われることのない者にしてくださいます。
 私たちは、自分の人生で何を頼みとするのでしょうか。その質がはっきり現されるのが、今日の福音書に見られるように「死」の時なのです。そして、それはただ死の時に限ったことではなく、日々の信仰の生活の質が最期の時に反映されるとも言えます。私たちも、主イエスによって現された神の愛に導かれ、主イエスが示してくださった復活の命をいただくことが出来るよう、信仰の道を歩んで参りましょう。
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2020年03月22日

主の業がこの人に  ヨハネによる福音書9:1−38  大斎節第4主日      2020.03.22

主の業がこの人に    ヨハネによる福音書9:1−38  大斎節第4主日      2020.03.22

 聖餐式聖書日課A年の福音書には、大斎節第2主日、第3主日、そして今日の第4主日と、それぞれ主イエスとの出会いを通して主イエスを自分の救い主と信じ、更に人々の前で、主イエスを救い主として公に告白するに至る人の話が取り上げられています。先々週のニコデモ、先週のサマリアの女、そして今日は生まれつき目の見えない人の目が開かれ、人々の前主イエスへの信仰を言い表すように変えられていった物語が取り上げられています。また、この物語では、ユダヤ教の指導者たちが心を頑なにして、目が見えるようになった人の証言を認めず、その人を罪人と決めつけて神殿から追い払う様子も描き出しています。
 この目の見えない人は、おそらく道端で物乞いをしていたのでしょう。この人の前を主イエスと弟子たちの一行が通り過ぎようとしています。弟子がイエスに尋ねる声が、この盲人にも聞こえてきます。
 「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」
 そう考えるのが当たり前だった時代のことです。この盲人は自分でも自分を罪人であると思い、罪の結果がこうして「目が見えない」という姿になって自分に現れたと思っていました。
 ところが、イエスは弟子たちに言いました。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」。
 思ってもいない言葉でした。罪ある身である自分に「神のみ業が現れる」ことなど、考えたこともありませんでした。
 この盲人にとって、「神の業が現れる」こととは、イスラエルの指導者や最高法院の議員たちのように、神のことを語りながら自分の救いを確認することであって、自分には関係の無いことだと思っていました。自分のような盲人は罪人であり、汚れた者であり、もし「神の業が現れる」としても、それは神の裁きが降ることであり、現に、自分はこのように目が見えなくされているではないかと考えていたことでしょう。
 でも、主イエスは、この人に全く違う形で「神の業」を現そうとしておられます。主イエスはこの盲人に近付き、唾でこねた泥をこの人の目に塗り、「シロアムの池に行って洗うよう」にと言ってくださいました。主イエスがご自身の手で、罪のしるしを身に受けているとされたこの人に触れられました。そして、「シロアムの池に行って洗うように」と言ってくださいました。
 実は、主イエスのこの指示は、ユダヤ教の儀式の次第から言えば、その順序が違うのです。
 汚れから回復した者はまず祭司のところに行って、もう汚れていないことの認定を受け、それから清めの儀式を行うためにシロアムの池に行きました。しかし、主イエスはこの盲人にシロアムの池に行くように言っています。そして、この盲人は、主イエスの言葉に従い、祭司の認定を受けないまま、直接シロアムの池に向かっています。この人は、旧約聖書の規程に従うことによってではなく、主イエスの言葉に従うことで目を開かれています。この人には、主イエスの言葉こそ罪のしるしから自分を回復する言葉であり、この主イエスこそ大祭司以上に自分を神とつなぐ存在であることを、今日の福音書は伝えています。
 道ばたで物乞いをしていたこの盲人は、主イエスに言われたとおりシロアムの池に行って洗うと、見えるようになって帰っていきました。
 この人にとっては、それで十分でした。
 ところがイスラエルの権力者たちは、目が見えるようになったこの人のことを素直に喜ぶわけではありません。この盲人が見えるようになった過程は、イスラエルの権力者たちが納得して喜ぶような過程を経てはいないのです。そこで、権力者たちは不満げに根ほり葉ほりこの人を調べます。彼らは、救いに関わることは自分たちの手の中だけに管理されることでありその外にあってはならないことであり、この人を問い詰めます。この人は、いくら彼らに説明しても、彼らが主イエスの働きを理解しようとはせず、その業を認めず、律法の手続きに従っていないことを問題にしている様子がよく分かりました。権力者たちは、主イエスの救いのみ業を受け入れず、目を開けていただいた人についても事実を曲げて彼らの言いなりになって答えない限り、彼らの追求が止みません。そしてこの元盲人が、事実とは違う権力者たちの言い分に対して、「あなたがたの言うとおりです」と言えば、そこでやっとその追求と糾弾が終わることもこの元盲人にはよく分かりました。権力者たちたちとのこうしたやりとりの中で、この人には自分にとって何が本当のことで、誰が本当に自分を生かしているのかが一層はっきりしてくるのです。
 この元盲人は、イスラエルの権力者たちに取り調べられている間、妥協せず率直に話しました。その中で、権力者たちはこの人に向かってイエスを罪人と決めつけて同意を迫り、この人の目を開いたイエスを救い主だとは言わせないように、様々な圧力をかけました。権力者たちはこの人がそれに屈せず彼らに同意しないことに業を煮やし、とうとうこの人を神殿から追い払いました。
 追放された後、この人は、主イエスにお会いしました。その時にこの人は、自分の目ではっきりと主イエスを見ることになりました。この人は主イエスを見て、次第に自分を通して神の業を現してくださった主イエスを人の子(つまり救い主)と信じて主イエスの前に跪く事へと導かれていきます。
 盲人であったこの人が主イエスをどのように認識していったかについて、福音記者ヨハネが記している表現を見ていくと、その変化がよく見て取れます。
 まず、盲人であったこの人が、どのようにして目が見えるようになったかを説明する時、第9章11節で「イエスという方が・・」と言っています。この時には、彼にとって主イエスはまだ関係の薄い存在です。それが、権力者たちに答えながら17節で「あの方は預言者です」と言い、33節で「あの方は神のもとから来られた」と言い、そして36節で「主よ、信じます」と言って主イエスの前に跪いています。このように、目が見えなかったったこの人が、主イエスをどのように認識していったのかを、少し垣間見ることができます。
 一方、イスラエルの権力者たちは、主イエスによって目が開かれたこの人の喜びも感謝も共にすることが出来ません。権力者たちは、自分たちのあずかり知らないところで清めの業が行われた事を妬み、しかもそれが行われた日が安息日であった事を問題視しています。神殿の権力者たちが、その枠から少しも動こうとしない態度が見られます。彼らのこうした独善的で思い上がった態度が、本当のことや正しいことを見る目を曇らせ、弱く小さくされた人々を苦しめ傷つけているのです。
 今日の聖書日課福音書は、目の見えなかったこの人が主イエスの前に跪く場面で終わっていますが、更に41節まで読み進めると、主イエスはそこに居合わせたファリサイ派の人々を批判して次のように言っておられます。
 「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」
 主イエスが「見える」と言う時、単に視力があるかどうかを問題にしているのではく、神の御心を見る目があるかどうか、神のみ業が表れている姿を見る目があるかどうかを問題にしていることは明らかです。
 イスラエルの権力者たちはいつも自分を正しい者の側に置いて、かつて目の見えなかった人の人が目を開かれても喜びを共にすることがありません。ここに現れた指導者たちの罪を、主イエスは取り上げないわけにはいかなかったのでしょう。
 福音記者ヨハネは、このように目を開かれた人とイスラエルの権力者を対比させて、私たちに「あなたはどこに神にみ業を見ようとするのか」と問いかけています。私たちは、主イエスによって霊的な目を開かれ、シロアムの池で目を開かれた人のように、「主よ、あなたを救い主と信じます」と告白するように招かれ、促されています。
 既に大斎節第4主日です。大斎節は霊的な目を開かれていくための克己と修養の時でもあります。
 「主よ、見えるようになりたいのです。」「私を通して主のみ業を行ってください」と祈り求める大斎節を過ごし、主イエスの復活の喜びへと導かれましょう。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 15:42| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする