2020年07月05日

「コロナ対策」の「新しい生活様式」という言葉に思う

 
 2020年の上半期には、新型コロナウイルス感染症拡大防止のために、物質的にも精神的にも多くのエネルギーを費やしてきました。このウイルス撲滅は難しく、これからはこのウイルスと共存が必要であるとして、そのための「新しい生活様式」が提唱されています。その「様式」は、感染リスクを避けるために、お互いに距離を取り、互いに接触の機会を少なくする項目が沢山挙げられています。
私は、この「新しい生活様式」という言葉が出る度に、ある種の苛立ちと共に人の成長についての不安を強くしています。と言うのも、私は、人は「大切な他者」とのスキンシップ、視線、言葉のやりとり等による触れ合いと心の交流によって心身の成長と健康を保つことができると考えるからです。
 「新しい生活様式」とは、そうした一面に目をつぶってでも、新型コロナウイルスの感染リスクを下げて、互いに生命を守らなければならないという危機的な状況に対処する必要から生じた言葉であることを踏まえておきたいと思います。これまでの生活様式を「新しい生活様式」へと転換する必要があるしても、これはあくまでもコロナ対策であり、将来に渡って造りあげていくべき「新しい生活様式」ではないと思うのです。
私の極めて個人的なことを記します。
私の父親は、第2次世界大戦の兵役から帰還した後、肺結核を患いました。かなりの大病でしたが、戦後の物資不足の時代を何とか乗り越えて、健康を回復することができました。私は、父親の闘病時代に生まれており、自分の命があることは、ある意味、奇跡的なことです。
私が4歳の頃、父親は長い入院生活から戻って来ました。父の背中には、両肩甲骨に沿って切開と縫合の大きな傷跡がありました。これが私の父親についての最初の記憶です。私は生まれてから4歳近くまで父親不在で育ち、退院した父親は私たち子どもの結核罹患や陽転に神経質で、家族との接触を避けて過ごしていました。私の家族は、父親と「密」を避けていたのです。それは仕方のないことでしたが、結果、私は父親になつかずに育ちました。
 私が4歳の頃のこと、父親に客人があり、話をしている二人のどちらが自分の父親なのか見分けがつかなかった経験があります。私は、幼な心に、父親との関係が疎遠であることに気付いた衝撃を今でも忘れません。
私は、閉じこもりがちな自分の性格は、その頃の父子関係が大きく影響していると思っています。今更、自分の性格を他人のせいにするつもりはありませんし、このような私が生きていることは、父親との関係のことも含めて、神の恵みの中で生かされていることであると思っています。でも、因果関係で言えば、きっと上記のような説明もできると思っています。
 今、新型コロナウイルス感染防止の「新しい生活様式」が提唱されていますが、その主要な課題が「3密を避ける」、「対人関係の距離を取り関わりを希薄にする」ということです。生活様式をその方向にシフトするための具体案などがテレビや新聞などで紹介されていますが、この提言に触れると、私は自分の人間関係の在り方についてのコンプレックスを刺激される思いになります。
私は、人は母親をはじめとする「重要な他者」との密な関係の中でこそ心身共に成長するのであり、人が「生きる」ということは他者と様々に関係を結び、それを積極的かつ肯定的に構築していくことだと考えます。
しかし、「コロナ対策」として提唱される「新しい生活様式」は、その関係を分断し、引き離し疎遠にしていくことになります。それは、現段階ではウイルス感染を防ぐためには有効でしょう。しかし私は、その「新しい生活様式」に、現在の「コロナ禍」を回避する以上の意味を感じることができず、それを「新しい生活様式」と呼ぶことに違和感を拭えないのです。
 現在の新型コロナウイルス感染症の再拡大を防ぐための生活様式を言い表すのに、「新しい生活様式」という言葉よりもっと適切な言葉があるのではないでしょうか。
例えば、「コロナ感染回避の留意点」とか「感染防止の生活方法」という程度の言葉の方が私には相応しく思えます。そして、人間の命をウイルス感染から守るべき課題を克服した後には、人間同士が生きている実感を相互に認め合い喜び合える「生活様式」を創り上げていくべきであると思うのです。
 いわゆる「濃厚接触を避けること」、「不特定多数が集まる場所への出入りを避けること」、「テレワークをすること」などは、現在のコロナ危機対応として有効であることは誰もが否定しないでしょう。でも、私にはそれらをこれからの「新しい生活様式」にすべきだとは思えないのです。
 たとえば、今回の「コロナ禍」を契機に、オンライン通信を積極的に用いることなどは情報交換を速やかにすることにもなり、有効活用すべき分野はあります。でも、私には、他者との距離を取って密な接触を避けることをこれからの「新しい生活様式」にすべきとは考えられません。
 子育てにおいては、スマホやテレビが乳幼児の知覚や感覚を養う主役にはなり得ず、もしそれが可能だとしても、人が生きる上での基本的な判断軸をそちらに転換して良いのかどうかは、人間にとっての大きな課題です。また、乳幼児期の子育てや老人介護においてスキンシップの大切さが再認識されています。私は、現在提唱されている「新しい生活様式」が強調されればされるほど、子どもや老人など介護や心身のケアを必要とする人間には、「重要な他者」の存在とその人々との「密」な関係が不可欠であると言わずにはいられなくなります。こうした人々のことも視野に含めて「新しい生活様式」とはどのような生活様式になるのかについてのヴィジョンを共有する必要があると思います。
蛇足になりますが、私は、「夜の接待を伴う飲食」を推奨する思いはありません。またその場が「ウイルス感染の温床」の一つであることも明らかでしょう。幼少期の母親をはじめとする重要な他者との「密」を欠いた人間は、青年期に入る頃に、幼い時代の身体的接触を取り戻そうとするかのように身体的接触(性的行為)を求めることになるが、その基底にあるのは幼稚な精神なのだ、と表現した人がいます。
 当面の「コロナ禍」を克服することは大切なことであり、感染防止の配慮はかなり長期にわたって継続しなければならないでしょう。
 でも、対人関係のヴィジョンは、ただ経済を回復して維持するだけではないはずです。
 大袈裟になりますが、新型コロナウイルス感染症を経験した人類がこれからどんな生活様式を創り上げていくべきか、後代に何を引き継いでいくべきか、という課題を神から与えられているのではないでしょうか。
状況が時々刻々と変わる中で記すこの文章が的外れにならないことを願いつつ。
(2020年7月5日水戸聖ステパノ教会月報『草苑』第586号所収)
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イエスの軛を負う  マタイによる福音書11:25−30  聖霊降臨後第5主日(特定9) 2020.07.05

イエスの軛を負う  聖霊降臨後第5主日(特定9) 2020.07.05
マタイによる福音書11:25−30

 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」
 聖書の言葉が、時に、その言葉が出てくる脈絡を越えて、あるいは無関係に、私たちの胸に迫ってくることがあります。
 主イエスが、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と言ってくださったこの言葉が、2000年の時を経て、今の自分に深く入り込んでくることがあります。
 それは、何億年も前に光を放った星が、私たちが何かの思いで夜空を見上げた時に、その光をまさに今の自分のために光っていると感じるように、主イエスの言葉が今の私に語りかけてくるということなのでしょう。
 私たちは生きている限り悩みがあり、悲しみや苦しさが伴います。生きる上での辛さや悩みは決して悪いことではないし、それは罪でもありません。むしろ、私たちが生きているが故に負う悩み、苦しみ、辛さや悲しさをしっかり負わずに、そこから目をそむけたりごまかしたりするところに、悪が入り込んできたり罪が生まれたりするのではないでしょうか。
 そうであれば、私たちは日頃の生活で自分たちが担うべきことをしっかりと担い、主イエスに導かれ伴われて生きていきたいと思うのです。
 今日の福音書の特に後半部分は、主イエスが私たちを本当の自分になって生きていくことが出来るようにと招き、促しておられる御言葉です。
「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎが得られれる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。(マタイ11:29-30)」
 軛とは、牛などの家畜が荷車や鍬を後ろにして引くときに、首にかける横木のことです。人が生きていくということは、誰でも自分の軛を負うことに例えられます。そして、わたしたちが負うべき軛は、誰もが神から与えられた大切な一生をその人としての命を生かしていくという課題ということです。
 言葉に表せば簡単なことですが、実際に自分の軛を負って生きるということを自分の力によって貫こうとすれば、どれほど難しくまた大変なことなのかを感じておられる人も多いのではないでしょうか。
 だからこそ主イエスは「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と言ってくださっているのです。
 私たちは、この主イエスの御言葉を受けて、自分が負うべき軛を正しく負っているのかどうかを振り返ってみたいのです。私たちは本当に神から与えられた軛を負っているのでしょうか。私たちは、神から与えられた自分の命を育むために与えられた各自の軛を負って生きているはずです。その軛の質も重さもそれぞれに違いますが、軛は全ての人に与えらて誰もが担わねばなりません。私たちは、時にそれを正しく担えなくなって、その軛を投げ出したくもなり、自分にも他者にもまた神に対しても、あるべき関係を作れなくなってしまうこともあるかも知れません。
 私たちは、本来に負うべき軛を脇に置いて、例えば見栄を張ることや他人と比較して上に立つことや他人を悪く言ったり見下したりすること考えて、本当に自分の負うべき軛ではない物事に心を奪われてしまうことさえあるのです。そして、自分が神から与えられた本当の軛とは何なのかを見失ってしまっていることもあるでしょう。
 私の恩師が「悩むのなら上手に悩みなさい。建設的に悩みなさい。」と言っておられたことを思い出します。
 「軛」という視点から、パウロのことを考えてみましょう。
 パウロは、かつてはイエスを救い主とする人々を嫌い、その人々を迫害することに息巻いていました。パウロはかつての自分を振り返って、フィリピの信徒への手紙の中で次のように記しています。
 「わたしは8日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの天では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。(同3:5)」
 イエス・キリストと出会う前のパウロは、自分が軛を負うとはこのように生きることだと考えていました。神との間に結んだ契約を全うして、その契約に反する者を厳しく糾弾し、そうすることで神の前に個人的にも民族としても「正しい者」とされてることこそ正しい軛の負い方であると、パウロは考えました。
 しかし、パウロはフィリピ書の中でそれに続けてこう振り返っています。
 「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見なしています。」
 パウロは、自分が迫害する対象としていた人たちが負っていた軛である主イエスに出会いました。そして回心して、パウロもイエス・キリストを軛として負う人に変えられました。パウロはこのような自分を、「もはや自分ではなくキリストがわたしの中に生きている」と言い、「わたしはキリストを着る」という言い方で表現しています。
 パウロは、キリストと出会って回心する前には、律法を自分の軛とし、律法に照らして完璧な者になろうと努めました。しかしその時のパウロは、そうしよう努めれば努めるほど、神の前には完全ではない自分を感じないわけにはいきませんでした。パウロはかつての自分は「律法の義については非のうちどころのない者」であったと言っていますが、今日の使徒書の中に記しているように、実はそのような自分は「わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。」と言っています。パウロは、律法の軛を負って「律法に従おう、律法に反することなく生きよう」とすればするほど、自分の心と体の間に亀裂を深め、神の律法に仕えているつもりなのにそれが罪を産んでしまう自分に苦しまないわけにはいかったのです。パウロは、自分の力を頼みとして神の前に一途に生きようとしたからこそ、それでは完璧にはなれない自分が明らかにされ、更に自分を苦しめる結果になったと言うことが出来るでしょう。
 私たちの中には、このようなパウロの姿を自分の中に見出す人も多いのではないでしょうか。主イエスはこのようなパウロに表れてくださり、また私たちにも出会ってくださいます。
「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎが得られれる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
 主イエスは、私たちが主イエスのみ言葉を義務として受け取ることを望んでおられるのではありませんし、道徳として実践することを願っておられるのでもありません。そうではなく、私たちが主イエスの招きに応じて自分の全てを委ね、その自分を受け容れていただいた結果、主イエスにお応えすることが出来るようになるのです。
 私たちが為すべきことは、主イエスの許に重荷を下ろして自分を委ね、主イエスに愛されている恵みをしっかりと自分の中に受け容れることなのです。私たちが自分の力では負い切れない自分の重荷を主イエスの御許で下ろし、ちょうど親鳥の翼の下で守られる雛のようにイエスの御許で安らぐこと、そのために招いてくださっている主イエスに従うが求められているのです。
 主イエスの招きの言葉を受け、主イエスの大きな愛の中で本当の自分を回復し、主イエスによって受けた愛の軛を負って日々歩んでいくことができますように。その時、私たちはその歩みに一緒に軛を負ってくださる主イエスに気付き、主イエスへの感謝と賛美へと導かれるのです。
 主イエスのもとに進み出て重荷を下ろし、主イエスが共に負ってくださる軛を負い直し、感謝と賛美に導かれて参りましょう。
 願わくは父と子と聖霊の御名によって アーメン
聖霊降臨後第5主日(特定9) 2020.07.05
マタイによる福音書11:25−30

 イエスの軛を負う

 主よ、どうか私たちのところに来て下って私たちの心を治め、共にいて下さり、あなたの御言葉によって私たちを養い、導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」
 聖書の言葉が、時に、その言葉が出てくる脈絡を越えて、あるいは無関係に、私たちの胸に迫ってくることがあります。
 主イエスが、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と言ってくださったこの言葉が、2000年の時を経て、今の自分に深く入り込んでくることがあります。
 それは、何億年も前に光を放った星が、私たちが何かの思いで夜空を見上げた時に、その光をまさに今の自分のために光っていると感じるように、主イエスの言葉が今の私に語りかけてくるということなのでしょう。
 私たちは生きている限り悩みがあり、悲しみや苦しさが伴います。生きる上での辛さや悩みは決して悪いことではないし、それは罪でもありません。むしろ、私たちが生きているが故に負う悩み、苦しみ、辛さや悲しさをしっかり負わずに、そこから目をそむけたりごまかしたりするところに、悪が入り込んできたり罪が生まれたりするのではないでしょうか。
 そうであれば、私たちは日頃の生活で自分たちが担うべきことをしっかりと担い、主イエスに導かれ伴われて生きていきたいと思うのです。
 今日の福音書の特に後半部分は、主イエスが私たちを本当の自分になって生きていくことが出来るようにと招き、促しておられる御言葉です。
「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎが得られれる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。(マタイ11:29-30)」
 軛とは、牛などの家畜が荷車や鍬を後ろにして引くときに、首にかける横木のことです。人が生きていくということは、誰でも自分の軛を負うことに例えられます。そして、わたしたちが負うべき軛は、誰もが神から与えられた大切な一生をその人としての命を生かしていくという課題ということです。
 言葉に表せば簡単なことですが、実際に自分の軛を負って生きるということを自分の力によって貫こうとすれば、どれほど難しくまた大変なことなのかを感じておられる人も多いのではないでしょうか。
 だからこそ主イエスは「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と言ってくださっているのです。
 私たちは、この主イエスの御言葉を受けて、自分が負うべき軛を正しく負っているのかどうかを振り返ってみたいのです。私たちは本当に神から与えられた軛を負っているのでしょうか。私たちは、神から与えられた自分の命を育むために与えられた各自の軛を負って生きているはずです。その軛の質も重さもそれぞれに違いますが、軛は全ての人に与えらて誰もが担わねばなりません。私たちは、時にそれを正しく担えなくなって、その軛を投げ出したくもなり、自分にも他者にもまた神に対しても、あるべき関係を作れなくなってしまうこともあるかも知れません。
 私たちは、本来に負うべき軛を脇に置いて、例えば見栄を張ることや他人と比較して上に立つことや他人を悪く言ったり見下したりすること考えて、本当に自分の負うべき軛ではない物事に心を奪われてしまうことさえあるのです。そして、自分が神から与えられた本当の軛とは何なのかを見失ってしまっていることもあるでしょう。
 私の恩師が「悩むのなら上手に悩みなさい。建設的に悩みなさい。」と言っておられたことを思い出します。
 「軛」という視点から、パウロのことを考えてみましょう。
 パウロは、かつてはイエスを救い主とする人々を嫌い、その人々を迫害することに息巻いていました。パウロはかつての自分を振り返って、フィリピの信徒への手紙の中で次のように記しています。
 「わたしは8日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの天では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。(同3:5)」
 イエス・キリストと出会う前のパウロは、自分が軛を負うとはこのように生きることだと考えていました。神との間に結んだ契約を全うして、その契約に反する者を厳しく糾弾し、そうすることで神の前に個人的にも民族としても「正しい者」とされてることこそ正しい軛の負い方であると、パウロは考えました。
 しかし、パウロはフィリピ書の中でそれに続けてこう振り返っています。
 「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見なしています。」
 パウロは、自分が迫害する対象としていた人たちが負っていた軛である主イエスに出会いました。そして回心して、パウロもイエス・キリストを軛として負う人に変えられました。パウロはこのような自分を、「もはや自分ではなくキリストがわたしの中に生きている」と言い、「わたしはキリストを着る」という言い方で表現しています。
 パウロは、キリストと出会って回心する前には、律法を自分の軛とし、律法に照らして完璧な者になろうと努めました。しかしその時のパウロは、そうしよう努めれば努めるほど、神の前には完全ではない自分を感じないわけにはいきませんでした。パウロはかつての自分は「律法の義については非のうちどころのない者」であったと言っていますが、今日の使徒書の中に記しているように、実はそのような自分は「わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。」と言っています。パウロは、律法の軛を負って「律法に従おう、律法に反することなく生きよう」とすればするほど、自分の心と体の間に亀裂を深め、神の律法に仕えているつもりなのにそれが罪を産んでしまう自分に苦しまないわけにはいかったのです。パウロは、自分の力を頼みとして神の前に一途に生きようとしたからこそ、それでは完璧にはなれない自分が明らかにされ、更に自分を苦しめる結果になったと言うことが出来るでしょう。
 私たちの中には、このようなパウロの姿を自分の中に見出す人も多いのではないでしょうか。主イエスはこのようなパウロに表れてくださり、また私たちにも出会ってくださいます。
「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎが得られれる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
 主イエスは、私たちが主イエスのみ言葉を義務として受け取ることを望んでおられるのではありませんし、道徳として実践することを願っておられるのでもありません。そうではなく、私たちが主イエスの招きに応じて自分の全てを委ね、その自分を受け容れていただいた結果、主イエスにお応えすることが出来るようになるのです。
 私たちが為すべきことは、主イエスの許に重荷を下ろして自分を委ね、主イエスに愛されている恵みをしっかりと自分の中に受け容れることなのです。私たちが自分の力では負い切れない自分の重荷を主イエスの御許で下ろし、ちょうど親鳥の翼の下で守られる雛のようにイエスの御許で安らぐこと、そのために招いてくださっている主イエスに従うが求められているのです。
 主イエスの招きの言葉を受け、主イエスの大きな愛の中で本当の自分を回復し、主イエスによって受けた愛の軛を負って日々歩んでいくことができますように。その時、私たちはその歩みに一緒に軛を負ってくださる主イエスに気付き、主イエスへの感謝と賛美へと導かれるのです。
 主イエスのもとに進み出て重荷を下ろし、主イエスが共に負ってくださる軛を負い直し、感謝と賛美に導かれて参りましょう。
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剣をもたらす 2020年6月28日 

6月28日 聖霊降臨後第4主日
 この日は、広田勝一教区主教が、本教会に巡回し、司式・説教をして下さいました。
 今週の説教の公開はありません。
 
 【聖書日課黙想】を転載します。
 主イエスは、「平和をもたらすためではなく、剣をもたらすために来た。」と言っておられます。それは、破壊そのものを目的とする言葉なのではなく、主イエスが平和のために働くことによって引き起こされることを告げる言葉なのです。
「平和」とは、単に争い事のない平穏な状態を意味するのではなく、神の御心が実現している姿を意味しています。
もし、争い事のない状態をつくり上げる原理が「権力」や「抑圧」や「支配」などであれば、人はそこで互いを生かしながら共に意味のある命を生きていくことはできなくなるでしょう。
主イエスの働きは、そのような社会に剣を投げ入れることになりました。イエスの示す真理を否定する権力者たちは、平和の根源であるイエスを抹殺することに動き始めるのです。
真の平和を実現する人を十字架につけるほどに平和から離れたこの世界に、主イエスは平和の初穂となってくださいました。
私たちは、本当の平和を実現するための優しさと強さを主イエスに祈り求めたいと思います。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 22:00| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする