2017年03月20日

お話しをすること(お誕生会)

話しすること (お誕生会に)
 人の赤ちゃんが生まれて一番最初にするお話は泣くことです。生まれて一番始めに泣く声を「産声(うぶごえ)」と言います。赤ちゃんの産声は赤ちゃんが悲しかったり体のどこかが痛かったりするから泣くのではなく、初めて息をする声なのです。
 今までお母さんのお腹の中で育ってきた赤ちゃんが自分の肺で息をしながら生きていくのに、生まれたばかりの赤ちゃんが声を上げて泣くことはとても大切な運動です。
 小さな赤ちゃんは、お母さんや家族の人に抱っこされ、沢山の優しい言葉をかけて貰い、幾度も幾度も数え切れないほど名前を呼んで貰って、ただ泣くだけではなく、いつの間にかお話ができるようになっていきます。他の動物は生まれてから半年も経つともう大人になりますが、人間は赤ちゃんの時だけでなく、その後もどんどんたくさんの言葉を覚えて、ますますお話ができるようになっていきます。
 人間には、他の動物以上に沢山の言葉を使う力があります。神さまは人間を他の動物よりお話ができて聴き合うように創ってくださいました。そして、人間は自分のしていることが分かり、何をしたらよいのかを考える力もあります。言葉を沢山覚えた人間は、その言葉を使って、他の人に慰めや励ましを与えることができます。でも、人間はその言葉を使って他の人を傷つけたり悲しませることもできるし、嘘をついて他の人をだますこともできます。でも、私たちは、言葉を使って何をするのが良いことなのか知っています。神さまを誉め讃え、他の人に本当のことや正しいことをお話しして伝え、他の人を慰めたり励ましたりもできます。私たちは、これからも沢山のことを学んで、ますます大きく育てられて、神と人々のために良い働きができる人に育てられたいと思います。
(2017.3.9)
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2017年03月19日

命の水 ヨハネによる福音書第4章5−42節

ヨハネによる福音書4:5−42   大斎節第3主日      2017.03.19

 命の水
 
 今日の聖書日課福音書は、主イエスとサマリア地方の女の人が出会い、話し合ってる箇所が取り上げられています。
 今日の福音書は、聖餐式の中で拝読する箇所としてはかなり長い部分であり、また多くの内容が含まれていますが、今日は特にこの女性が主イエスと出会って自分を取り戻していく様子に焦点を当てて、この福音書から導きを受けたいと思います。
 私たちは、神との正しい関係を持つことで、初めて本当の自分自身とも出会うことができ、その本当の自分として生きていくことができます。今日の福音書は、私たちのそのことを教え、導いているように思います。
 主イエスと弟子たちの一行は、旅の途中でサマリア地方をお通りになりました。サマリアのシカルという町に来られた時、主イエスは旅に疲れ、町の井戸のそばに座って、独りで休んでおられました。時は昼の頃です。
 そこに、この町に住む女が水を汲みにやってきました。当時の人たちは、今の私たちのように水道設備が整った中で生活をしているわけではありません。共同で用いられる井戸への水汲みは、女の人たちにとって当たり前の日常の働きでした。でも、水汲みは朝か夕方にする仕事であり、普通はこのような日中に水汲みなどしないはずなのです。こんな時間に水汲みをするこの人には、おそらく、そうしなくてはならない事情なり思いがあるのです。もしかしたら、他の人たちを避けて、誰にも会わないで済むこのような時間をねらって、水を汲みに来たのかも知れません。
 主イエスは、この人をご覧になり、静かに声をおかけになりました。「水を飲ませてください。」
 サマリアの女は、驚き戸惑って、主イエスに尋ねます。「どうしてユダヤ人であるあなたが、サマリアの女である私に水を飲ませてくださいなどと頼むのですか。」
 こうして主イエスとサマリアの女の間に会話が始まりました。その中で主イエスは言われました。
 「あなたと話している私が誰であるかを知っていたら、あなたの方から私に生きた水を求め、私はあなたにそれを与えるでしょう。」
 サマリアの女は、この言葉を聞いてもその意味が分からず、これをきっかけに二人が交わす言葉は初めのうちはすれ違い、この女の人の応答は的はずれであったりです。でも、二人の会話を通して、主イエスの言葉は次第にこの女の心の奥深い思いと触れ合ってきます。
 このサマリアの女は、過去に5人の夫を持ち、今は夫とは呼べない男と連れ添う身でした。主イエスには、そのような女の人が自分に向けられる周りの人の視線や罵りの言葉を避けるために、昼日中にこっそりと水を汲みに来る気持ちが痛いほど分かったのでしょう。
 主イエスは、更に言葉を続けます。「こうしたサマリアの女であるあなたも私たちユダヤ人も、何の区別も差別もなく、心を一つにしてありのままの自分を神にお捧げして礼拝をする時が来ている。今がその時なのだ。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。」と、主イエスはこのサマリアの女に言いました。そして、「今あなたの目の前でこうして話しているこの私が救い主なのだ」と言っておられます。
 こうしてこのサマリアの女は「生きた水」である主イエスと出会い、心の奥底から自分を取り戻し、喜びと感謝を持ってイスラエルかサマリアかという枠も超えて、神を礼拝する者へと変えられていきます。
 私たちも、誰もが皆、このサマリアの女のように、心の内に飢え乾く所があります。自分を人目につかないようにそっとその飢えを満たしたくなるし、渇きを潤したいと思ってしまいます。でも、私たちが自分の力だけで自分を癒そう、満足させようとした時、多くの場合ますます独りよがりになったり、時には自分の本当の気持ちとはかけ離れた事までしてしまい、ますます神の御心から離れ、他の人との壁を厚くしてしまうのです。このサマリアの女も、ユダヤ人からは「サマリア人」として差別され、同じサマリア人からはまともに生きられない女としてさげすまれ、おそらくこれまでまともに人と目を合わせて会話することも出来ずに生きてきたことでしょう。こうした生活の中で心を固く閉ざして独りで自分を守る他なかった人が、主イエスに出会い、主イエスと言葉を交わし合い、心を通わせることによって、この人の心が解きほぐされ、癒されて、本当の自分を回復していくことになります。
 このサマリアの女が自分を取り戻して生きていくためには、主イエスによって受け容れられることが必要でした。同じサマリア人からさえ汚れた女として除け者にされてしまうようなこの人に、主イエスは水を求めました。この女は主イエスに声をかけられた時、戸惑いの中にも、自分を認めてくださったこのお方に心を動かされたに違いありません。そしてそればかりではなく、主イエスがこの人の全てを知っておられ、しかもこの人には自分でも隠しておきたい過去があるにも関わらず、主イエスはそのことをもよくご存知の上で、この人をさげすむことなく、拒むこともなく、「あなたと共に一つの神に礼拝する時が今来ている」とまで言ってくださいました。このようにして主イエスによって自分が生きていることを受け容れられ、慈しまれることで、このサマリアの女は初めて自分を取り戻して生きることが出来るようになっていくのです。
 ある人はこの場面の主イエスを「蔑視と抑圧のために心を石のようにしてしまった人の心を溶かし、人間を取り戻させる」お方である、と表現しました。この言葉を借りれば、主イエスがこの女の人に「生きる水」を与えようと言われた水は、凍てついた氷のようなこの人の心を溶かし、潤して育む愛の水であると言うことができるでしょう。
 今日の福音書は、このサマリアの女と同じように、主イエスのお与え下さる交わりの中に生かされ、主イエスとの対話の中で御言葉に導かれて生きるようにと私たちを招いています。
 この交わりの中で育まれることは、決してただそこでじっとしていることで与えられるものではありません。私たちが聖書の御言葉をとおして主イエスと出会い、その主イエスを迎え入れ、祈りと共に自分の心を神に向かって開き、ありのままの自分を示し、そのような私でも神は私を愛してくださりその存在を喜んでいてくださると言うことを自分で受けいれらることができる時に、信仰によって生きる歩みへと導かれていくのです。私たちもこのサマリアの女と同じように生きることへと導かれる者です。
 特に、今日の福音の後半では、人々に会うことを憚っていたこのサマリアの女が、町の人々の中に入って行って、主イエスのことを人々に伝え、多くの人が彼女の語ったことによって主イエスを信じるようになった様子が伺えます。自分が主イエスによって救われていることを人々の前で証することによって、サマリアのシカルの町には主イエスを救い主と信じる人々がたくさん生まれたのです。そして町の人々は、実際に主イエスと出会い、伝えられて信じる段階から実際に主イエスに出会って信じる事へとその信仰を確かなものにしていっているのです。
 私たちも主イエスとの交わりを一層深め、主イエスによって心の奥底から新しくされて、主イエスを喜びの内に証していく者へと育まれたいと思います。
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2017年03月12日

新たに生まれる ヨハネによる福音書第3章1−17 大斎節2

ヨハネによる福音書3:1−17   大斎節第2主日      2017.03.12

 大斎節の二つ目の主日になりました。
 今日の聖書日課福音書には、主イエスとニコデモの対話の箇所が取り上げられています。この主日に、私たちは主イエスとニコデモの出会いから学び、私たちもまた主イエスと出会い、主イエスの愛によって生かされる者とされるように養われ導きを受けたいと思います。
 今日の福音書のはじめに記されているように、ニコデモはユダヤ議会の議員でした。この議会はサンヘドリンと呼ばれ、大祭司を議長とする71人で構成されていました。政治と宗教が分離せず一つであった当時、このサンヘドリンは議会を運営するだけではなく、裁判についても行政についても、イスラエルの最高の決定機関であり、また執行機関でもありました。ニコデモはこのような議会のメンバーの一人であり、地位、名誉、実権ともに非常に高い人であったことが伺えます。
 ニコデモはまたファリサイ派の一員でもありました。ファリサイ派の人々はイスラエルの民が神との間に結んだ約束である律法を、字句通りに厳格に守っていました。そして、自分たちはその律法を守れないような落ちこぼれとは別の者であり、天国に入るために分けられ選ばれた者という思いを強くしていました。「ファリサイ」とは「分離した」という意味であり、この「ファリサイ派」という呼び名もファリサイ派の人々自身によって名付けられたとも言われています。
 このニコデモが主イエスを訪ねます。しかもそれは夜のことでした。明るい昼日中を避けて、暗闇の中、主イエスに近づくニコデモのことを思い巡らせてみましょう。
 ニコデモは、ユダヤ議会の議員であり、ファリサイ派の一員として何不足ない人生を送っているように見えながら、実は心の底には人目を避けてこっそりと主イエスに会わずにはおれない「何か」があったのです。その「何か」とは不安かも知れない、癒されない心の飢え乾きかも知れない、あるいは自分でも掴みきれない心の深い暗闇に脅かされていたのかもしれません。そのようなニコデモが、主イエスの光を求めてのことであったのではないでしょうか。あるいは、近頃評判の教師イエスに会って、自分の議員としての不安を拭い去りたいと思っていたのかも知れません。
 主イエスを訪ねたニコデモは、紳士らしく、またファリサイ派の知識人らしく、丁寧に、主イエスに話しかけました。
 「ラビ(先生)、わたしどもはあなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを誰も行うことが出来ないからです。」
 言葉の限りでは、本当にニコデモの言うとおりでしょう。でもニコデモは主イエスと対話していく内に、実は自分は主イエスのことを少しも分かってはいないし、何一つイエスの言うことを実感をもって理解できないことが明らかにされてくるのです。
 ニコデモは、これまで他のファリサイ派の人々がそうであったように、いつも自分を正しい者の側に、救われる者の側に置いてきました。そのようなニコデモには「人は新たに生まれなければ神の国を見ることは出来ない。」という主イエスの言葉の意味するところが分からないのです。そして会話を通して浮き彫りにされてくるのは、ニコデモが頑なに自分の身を正しい者の側において、そこからしか物を見ることの出来ない姿でした。
 人の生き方について「一度生まれ(once born)」「二度生まれ(twice born)」という言葉があることをご存知でしょうか。ニコデモは、ユダヤ議会の議員として、またファリサイ派として、立派な教育を受け、順調にこの世の成功の階段を昇ってきたことでしょう。ニコデモは母の胎からこの世に生まれ出て以来、ずっと順調に生きてきた「一度生まれ(once born)」の人でした。でも、このようなニコデモも実は心のどこかで「今の自分は本当にこれで良いのだろうか」という思いがあったのではないでしょうか。
 だからこそ、ニコデモは主イエスを夜にこっそりと訪ねたのでしょう。ニコデモは、社会的には確かに「成功者」です。でも、ファリサイ派の正しさの中で杓子定規に生きて来た自分を振り返るとき、本当は神と出会えていない気がするし、他の人とも本当に深く出会って生きて来たのだろうか、と考えざるを得ないのです。このようなニコデモは、本当は、心から信頼を寄せることのできる他者に受け容れられ、自分を捉え直す必要があるのです。律法の枠組みに自分を当てはめて生きて来たその中身が、実は空っぽであるニコデモは、本当は、新しく生まれかわる必要のある人だったのです。
 主イエスは、そのようなニコデモと出会い、彼が再び新たにされて、「二度生まれ(twice born)」の自分として生きる必要のあることを見抜いておられたのでしょう。
 「二度生まれ」とは、これまで当然のこととして生きて来た自分が否定されたり崩れ去ったりした後に、確かな救いの光に導かれて生まれ変わって歩み出す者である、と言えます。
 主イエスは、「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言いました。でも、この時、ニコデモはまだ主イエスの思いも言葉も理解できず、「どうしてそんなことがあり得ましょうか」と言って、これまでの自分を保つことに精一杯でした。
 でも、ニコデモは主イエスによって自分を揺さぶられ、もっと深い自分の存在を問われ、この時から、主イエスが言われたように、次第に新しく生まれ変わる生き方へと促され、「二度生まれ」の人生を生きることへと変わっていくのです。
 こうしたニコデモの人生は、私たちにとっても決して他人事ではありません。ここに描かれているニコデモは、信仰生活の途上にある私たちの生き方と重なります。私たちの中には、誰もはじめから完璧な信仰を持っている人などいません。私たちは主イエスと出会い交わることを通して、誰もが自分の不信仰や至らなさを顕わにされます。あるいは、自分の罪に気付かされたり無知を浮き彫りにされ、主イエスと出会わなかったら味わうことの無かった辛さや重荷を負う時さえあるでしょう。でも、そのような自分であるからこそ、その先に主イエスによって赦され愛されていることの気付きがあり、そこから感謝が生まれ、新しく生まれ変わる喜びに満たされるのです。それはニコデモばかりでなく、主イエスの弟子たちもそうでした。弟子たちも皆、それぞれに主イエスに向かって場違いなことを言っては主イエスに叱られ、諭され、力付けられました。弟子たちは皆そこから始まり、自分に与えられた神の恵みを知り、神に感謝し賛美する事へと導かれていったのです。
 ニコデモも、初めのうちは人目を避けてこっそりと主イエスを夜訪ねるような弱さを持った人でした。主イエスに言われたことが理解できず、会話はちぐはぐです。このようなニコデモもこの時から変えられ、「二度生まれ」の人生が始まっていくのです。
 ヨハネによる福音書の中には、ニコデモに関する記述が今日の福音書の箇所の他に2度で出て参りきます。そこを見てみると、ニコデモは、生まれ変わった新しい人として生きるようになることが分かります。
 その一つは、ヨハネによる福音書7章51節です。ここには、主イエスの働きを否定し批判する他の議員やファリサイ派に対して、ニコデモはしっかりと真理に立つべき事を主張するのですが、ニコデモは議員たちから「あなたもガリラヤ出身なのか。」と彼らからなじられている様子が記されています。
 更に、ヨハネによる福音書19章には、主イエスが十字架におかかりになった場面が記されていますが、ニコデモは主イエスが十字架の上で死んだ時、主イエスの遺体を十字架から下ろし埋葬することをピラトに願い出て、それを実行しています。かつて夜こっそりとイエスを訪ねて近づいたニコデモが、十字架を通して示された主イエスの愛に触れ、自分がイエスの仲間であることを公然と示すようになりました。
 このようにしてニコデモは自分がイエスの仲間であることを示し、主イエスが自分の救い主であることを証しする人に変えられていきます。当時のユダヤ議会に議員が、自分も主イエスの仲間だと公に示すことは、議会から追放されたり迫害を受ける可能性もありました。それにもかかわらず、ニコデモはイエスを自分の救い主であると公にしないわけにはいかない力に促されたのです。主イエスと出会う事は、人を本当の事へ、正しい事へと導きます。こうしてニコデモはかつての古い自分に死に、主イエスによって本当の自分として生かされ導かれる「二度生まれ」の人となったのです。
 こうして教会に集う私たちも、聖書の言葉を通し、聖餐式を通し、また日々の祈りと交わりを通して、主イエスと出会い、導かれています。私たちは初めのうちは仮にあの時のニコデモのようであったとしても、主イエスとの交わりの中で本当の自分に気付き、神と人との深く豊かな交わりへと導かれます。そしてやがてニコデモが公然と主イエスを自分の救い主として証したように、私たちも恐れなく力強く主イエスを証する教会へと成長していきたいと思います。
 特に大斎節は主イエスの十字架に心を向け、主イエスの甦りに与る準備をする時です。主イエスとの出会いと交わりを通して私たちも新たにされ、再び生まれて生きる喜びにあずかれますように。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 22:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする