2020年02月10日

地の塩、世の光   マタイにいよる福音書第5章13−21  顕現後第5主日    2020.02.09  

地の塩、世の光    マタイにいよる福音書第5章13−21  顕現後第5主日    2020.02.09
 
  今日の聖餐式日課福音書より、二つの御言葉を思い起こしてみましょう。
 「あなたがたは地の塩である。(マタイ5:13)」
 「あなたがたは世の光である。(マタイ5:14)」
 主イエスは、小高い山の上で、大勢の人々に向かって話し始められました。いわゆる「山上の説教」です。
 「幸いなるかな、心の貧しき者、天の国は彼らのものなり。」と語り始めた主イエスの御言葉は、「幸いなるかな」を頭にして更に7つ、合わせて8つの幸いを宣言するように語りました。
 この8つの幸いをお話になった後、主イエスは、「私がこのように宣べ伝えることで私のために迫害されるあなたがたは幸いである」とお話になります。大勢の群衆に向かって話していた主イエスの話は、一般論からグッと弟子たちに向かって絞られてくるように感じられます。
 マタイによる福音書第5章で、主イエスは神さまの御手のうちある幸いとはどのようなことであるのかをお話になり、それに続けて主イエスの説教の内容は、弟子として主イエスの説く幸いを宣べ伝えていくあなたがたはどのようにあるべきかということに移っていきます。
 主イエスは、おそらく弟子たち一人ひとりに視線を合わせ、その人々の目を見つめるように、「あなたがたは地の塩である。」、「あなたがたは世の光である。」と語りかけたのではないでしょうか。
 元のギリシャ語を見てみると、この二つの言葉はどちらも、省略のない完全な文章になっており、主イエスは、この山上の説教を聞いている人びとに、更にはこの福音書の読者である私たちに、あなたがたは地の塩、また世の光であることを断言して語っておられることが分かります。ギリシャ語では動詞が主語の人称によって語尾変化するので、普通はわざわざ主語、述語、目的語や補語を完全に整えなくても済むため、普通は主語が省略されます。それを全部整えて表現することは、主イエスがこの内容を伝えるために一語一語をしっかりと強調してお話しになっておられると考えられます。私たちは日本語にしてこの箇所を読む時に、主イエスが、「あなたたちこそ世の光なのだ」また「あなたたちこそ地の塩なのだ」と強い語調で語っておられること受け止めたいのです。
 そして、この箇所で「地の塩」と「世の光」という二つのことは、主イエスがある内容を対比して語っておられるのではないかと思うのです。それは、塩は溶けて見えなくなってその働きをすること、光は照り輝いて他のものを映し出してその働きをすること、主イエスはそのことを踏まえて、地の塩、世の光の例えを用いておられるように思えます。
 先ず「塩」について考えてみましょう。
 ここで言う「塩」は岩塩です。岩塩が例えば風雨に晒されていると、その塩分は少しずつ流れ出し、岩塩は塩味を失ったスカスカの軽石のような塊になってしまいます。その事を念頭に置けば、「塩に塩気がなくなれば・・・」と言う言葉は、「岩塩から塩分がなくなってしまえば・・・」という意味であることが分かります。主イエスは「あなたがたは地の塩である」と言いました。岩塩のように福音の塩分をいただいている私たちが、「塩」の脱けた石のようになってしまえば、その人はもはや生きていないも同然であり、「外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。」と例えられます。主イエス・キリストの福音に生かされ、その喜びを人々に味わわせる働きが「あなたがた」の働きであると、主イエス・キリストは言っておられるのです。
 塩について、視点を変えて考えてみましょう。
 塩は塩化ナトリウムの結晶です。もし、塩がこの結晶のままであれば塩味は出てきません。塩が水分に溶けて結晶の姿が人の目に見えなくなる時にはじめてその塩味は生きて働きます。もし塩の塩味がないのなら、岩塩の中の塩の結晶が結晶のままであることを意味します。つまり人が自分にこだわり保身して結晶としての姿を抱え込んで自分の中にだけ留め置こうとすれば、塩味の働きは外に出てきません。
 まさに、私たちの内に結晶としての「塩」を宿し、その塩が溶け出して、その塩味をこの地に住む人々も味わうことが出来るような働き人になることを主イエスは私たちに求めておられるのではないでしょうか。私たちの日々の生活の中に、主イエスの御言葉を溶け込ませて、福音の味を届け、具体的な働きの中でみ栄えを現す器となるように主イエスは私たちを促しておられるのです。
 次に、「光」について、ことに「あなたがたは世の光であるという言葉について、思い巡らせてみましょう。
 「光」であることとは、自らが太陽のように発光体となって自分の光を放つか、あるいは自分が月のように反射体となって他の光源から発する光を受けてその光を反射させることによって自分も輝くことが出来ます。つまり、わたしたちは被写体となって輝くのです。私たち自身は光の源ではありませんが、主イエスの福音の光を受け、その光を映し出すものとして生かされるのです。
 違う視点から「光」について考えてみましょう。
 当時のパレスチナの住宅は、建物の中は幾つかの部屋に区切られていたわけではなく、一つの明かりを灯して家の中全体を明るくしました。当然、灯火は家の中全体を照らす所に置かれます。この生活感覚を元に主イエスは「あなたがたは世の光である」と言っておられます。灯火はその光が部屋全体を照らす所におかれます。その灯をわざわざ升の下など光の行き渡らないところに置いてはその役目を果たしません。私たちも福音の光を受けて、その光を輝かす器として生かされている者であれば、私たちはその光を出し惜しみすることなく、逃げ隠れすることなく、人々の前に主イエスの光を、強く、雄々しく輝かす使命を授かっていることを覚えたいのです。 
 主イエスの時代に、自分たちを「光の子」と名乗る一団がありました。そのグループは「クムラン宗団」と呼ばれていました。彼らは神殿や会堂を中心とした当時のユダヤ教の流れや町の生活から離れ、荒れ野で修道の生活をしていました。この「クムラン」の人々はユダヤ教のエッセネ派と呼ばれるグループのことであろうと考えられています。そして洗礼者ヨハネもこのエッセネ派に属していたのではないかとも考えられています。このクムラン宗団で生きる人たちが自分たちを「光の子」と呼び、彼らはこれに対して世俗の生活をする町の人々を「闇の子」とか「この世の子」と呼んで、クムラン宗団の人々は町の人々との交わりを持とうとはしませんでした。
 しかし、主イエスの御声は、今、ガリラヤの山から響きます。この御言葉を山上で聴く人々、ことに弟子たちは、「地の塩」として、「世の光」として、人々の中で生きるように促されています。
 主イエスは、私たちに社会との交わりを絶ち切って隠遁の修行者のように生きるのではなく、人々の中に入り込んで福音を塩味のように人々に届け、あなたがたが福音を示す光となるように、弟子たちを促し励ましておられます。
  先ほども触れたとおり、私たちは光源ではなく、神の光を反射させて生きています。そうであれば、私たちはちょうど満月のように、福音の光を正面から全身に受けて、その光を映し出していく者でありたいと思います。
 わたしたち一人ひとりが主イエスから「あなたがたは地の塩である。」「あなたがたは世の光である。」と言われていることを心に留め、その働きに与る者として育まれて参りましょう。
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2020年02月05日

神殿で献げられる

神殿で献げられる ルカによる福音書2章22−40     被献日      2020.02.02

 今日2月2日は、被献日です。顕現節第4主日に優先して直接主イエスに関する固定祝日を優先して被献日の聖餐式を行っています。
 主イエスがお生まれになって40日目になる日、ヨセフとマリアは幼子イエスと共にエルサレム神殿に宮もうでをして、幼子イエスを主に献げる式を行ったのでした。
 今日の聖書日課の福音書であるルカによる福音書第2章23、24節には、ヨセフとマリアは旧約聖書の教えに従ってエルサレム神殿に宮もうでして、旧約聖書の教えの通りに生け贄の鳩2羽を献げたことが記されています。
 ヨセフとマリアの宮もうでには、二つの意味がありました。
 先ずその一つはルカ2章22節に「両親はその子を主に献げるために」と記されているように、ヨセフとマリアの初子であるイエスを神の許に連れて行って献げることでした。
 旧約聖書の出エジプト記第13章1節からにこう記されているところがあります。
 主はモーセに仰せになった。「すべての初子を聖別して私に献げよ。イスラエルの間で初めに胎を開くものはすべて、人であれ家畜であれ、私のものである。」
 ヨセフとマリアは、彼らの初めての子であるイエスを主なる神のものとしてお献げして、聖別していただくために、エルサレム神殿に上ったのでした。
 二つ目には、ルカ2章22節に「モーセの律法に定められた清めの期間が満ちると」と記されているように、マリアがイエスを出産した後の、いわゆる産後の穢れの40日の期間が過ぎたので、その浄めの献げ物をすることが神殿詣での目的でした。
 このことに関して、レビ記第12章には、「出産についての規定」が載っています。そこには、清めの捧げ物には雄羊一匹を献げ物とするように定められていますが、その8節に「なお、産婦が貧しくて小羊に手が届かない場合には山鳩二羽が若い家鳩二羽をとり、一羽は焼き尽くすいけにえに、もう一羽は清めのいけにえにしなさい。」と記されています。このことから推測されるのは、ヨセフ、マリア、それに幼子イエスの聖家族は、裕福ではなく、小羊を献げ物とするだけの余裕が無く、小羊の代わりに二羽の鳩を献げていることです。この家族は経済的には決して豊かではないけれど、こうして出産後40日に関する規定に忠実であり、主の前に正しくあろうとする家族であったことことが想像できます。
 おそらく、聖家族は、エルサレム神殿でよく見かけられる、平凡なそして質素な宮もうでをしたのでしょう。
 今日はこの箇所から「献げる」ということ、主イエスが献げられたということについて思い巡らせてみたいと思います。
 詳しく調べてみる余裕もありませんでしたが、おそらく人間にとって、自分の最も大切なものを神に献げるという儀式は、人類の歴史と共に古くからあったのではないでしょうか。人間が共同生活をする集落、部族の中から未婚の若い男を、あるいは処女を、生け贄として献げた記録は世界各地に残っており、そのような記録は民族学や人類学の大切な研究史料になっているようです。
 聖書の中では、創世記第22章にアブラハムが妻のサラとの間にやっと生まれたイサクを神の求めに応えて献げるようとした物語があります。モリヤの地でイサクを生け贄として献げようとした寸前のところで、アブラハムは神からその信仰を認められ、イサクは命を落とさずに済みました。
 聖書学者や民族学者の中には、この物語を、他の民族が語り継いでいる人身供犠を内容とする物語と比較して、ユダヤ教は早い時期から生身の人間を生け贄として献げる儀式を克服して、身代わりとなる傷のない羊を献げるようになったと考える人もいるようです。
 神がお受けになったのは、イサクの体ではなく、アブラハムの信仰です。神は、実際に一人息子のイサクの体にナイフを当てることまではアブラハムに求めませんでした。この場面で、主なる神はアブラハムに次のように言っています。
 「自分の息子、自分の独り子を惜しまなかったので、私はあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を空の星のように、海辺の砂のように大いに増やす。」
 神はアブラハムの信仰をお受けになって、アブラハムを祝福なさいました。
 神は私たちにも神の御心に従順であることを求めておられ、それに応えることが自分を献げるという言葉の内実になるのです。
 今日は被献日ですが、「主イエスが神殿に献げられた」ということも、イエスが人身供犠の供え物となることではいことは明かです。「神殿に献げられる」とは、その生涯を神の御心を生きるために捧げるということを意味しているのです。
 主イエスの生涯の意味を考えてみる時、まさに母の胎を最初に開いた傷のない小羊が主なる神のお働きのために献げられたと言える御生涯でした。
 神の小羊である主イエスが、私たちのための生け贄として献げられることによって、私たちは生かされています。そのことに光をあててイエスを捉え直せば、救い主である主イエスの姿がクッキリと浮かび上がってくるのです。
 私たちは、この主イエスによって自分も罪を赦され生かされている者であることが明らかにされます。そして、この小羊の血によって浄められ生かされていることを受け入れて、私たちの罪を贖ってくださった小羊イエスにお応えして生きていこうとする人は、主イエスと同じように自分を神にお献げする生き方へと変えられていくのです。
 使徒パウロもそのような人のひとりでした。パウロは、自分を献げるということについて,ローマの信徒への手紙第12章の始めにこう言っています。
 「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたの理に適った礼拝です。」
 ここでパウロが言う「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げる」ということも、更に2節まで読み進めれば「何が神の御心であるのか、何が善いことで,神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」と言っている事からも分かるとおり、神の御心を行うことそのものが礼拝であり礼拝と同じ行為なのだと言うことなのです。
 英語で「礼拝」を意味するservice という言葉があります。私たちの service が神に向かう時に「礼拝」と訳され、人に向かう時に「奉仕」と訳されることになりますが、このことは別々のことではなくて、同じ一つ service の二つの側面ということなのです。
 その意味で、主イエスが神殿に献げられたということは、イエスが神の御心を行って神と人に仕える者となったということであり、被献日は、主イエスがどのような生涯を送ることになるのかを明確に方向付けられた日であるとも言えるでしょう。
 それは、視点を変えていえば、主イエスが、私たちのためにご自身をお献げになったことを覚え、感謝する日でもあります。そして、主イエスがご自身をお献げになるというテーマはその生涯をとおして貫かれ、十字架にまで続いていきます。
 私たちのためにご自身を献げてくださった主イエスの愛によって生かされ、私たちも神の御心のために自分を用いていただくことへと導かれて参りましょう。 
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 21:46| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

召命   マタイによる福音書第4章12〜23節  A年(顕現後第3主日)  2020.01.26

召命
マタイによる福音書第4章12〜23節  A年(顕現後第3主日)  2020.01.26

 今日の聖書日課福音書には、主イエスが公に宣教の働きを始められたとき、最初の弟子をガリラヤ湖畔で召し出された出来事が採り上げられています。
 ガリラヤ湖は、(湖面の面積は霞ヶ浦の4分の3ほどの大きさであり、)南北約21q、東西約12qの竪琴のような形をした大きな湖です。その竪琴の頂点にあたる北のはずれにカファルナウムの町があります。ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネのそれぞれの兄弟はこのカファルナウムに住み、ガリラヤ湖で魚を取って生活をする漁師でした。
 主イエスが彼らに声をおかけになったとき、彼らは自分の仕事の真っ最中でした。ペトロとアンデレは漁の真っ最中であり網を打っていました。また、ヤコブとヨハネは、おそらく漁を終えていたのでしょう、父ゼベダイと一緒に舟の中で網の手入れをしていました。この二組の兄弟は、主イエスの「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」という招きに応えて、すぐに網を捨て、また舟を置いて、主イエスに従っていきました。
 私たちはこのようにして主イエスに召し出された人の話を聞いて何を思うでしょうか。彼らは残された家族や道具の始末も考えない身勝手な者でしょうか。それとも彼らは軽率な者なのでしょうか。様々な言い分や理屈を並べることはいくらでも出来ますが、私たちはこの福音書の物語から、私たちも主イエスの招き(召命)に Yes か No かをはっきりお答えしなければならない時があることを覚えなければなりません。
 もしこの漁師たちが、自分は主イエスの宣教の働きに加わるのに相応しいかどうかを考え、弟子になるための諸条件が備わっているかどうかを考え抜いてからお返事をしますというのであれば、彼らは誰も主イエスの弟子になることはなかったでしょう。
 この物語は、「イエスの招きに応えて従った。」ということをテーマにしていることを、先ずしっかりと押さえておきたいと思います。
 聖書学者の中には、主イエスが先ず漁師を弟子に召し出したことに注目する人がいます。それは、「漁師」を召し出すということは、旧約聖書の言葉を用いながら「新しい世界」が今主イエスによってやって来たことを示している、ということへの注目です。。
 例えば、エレミヤ書第16章16節には「見よ、わたしは多くの漁師を遣わして、彼らを釣り上げさせる。」という言葉がありますし、ハバクク書第1章15節には「彼らはすべての人を鉤(かぎ)にかけて釣り上げ、網に入れて引き寄せ、投網を打って集める」という言葉があります。このように旧約聖書の時代から、神の御心が現れ出る時のイメージとして、多くの人々が集められ釣り上げられる姿が思い描かれていた様子が分かります。
 このことを踏まえて今日の福音書を捉え直してみると、主イエスが天の国を宣べ伝え、天の国の姿を人々に示し始めるとき、まず主イエスによって人々を漁るための漁師が遣わされるという形を取って、ここに神の国が開かれてくる働きが始まったのだと理解することが出来るでしょう。
 その意味で、主イエスに召し出されると言うことは、救いの箱舟の中に入れられてその後安穏として過ごすことが約束されるということではなく、主イエスに救いを約束された者として、例えどんなに小さいことからでも、自分がいる場に自分を通して神の御心が開かれるように生きていくことを主イエスから委ねらることであると言えます。そして、私たちが生きるその一瞬一瞬が自分を通して神の国が今ここに現れ出るのであり、そのようにして開かれる新しい世界に生きるようにという招きを迫られていると言えるかも知れません。
 先ほども少し触れましたが、呼びかけてくださる主イエスにお応えすることは、自分の周りのあらゆる条件が整ったなら可能になるというようなことではなく、弟子となって従っていく中からすべてが整えられてくるのです。
 召し出すことは聖書の源語では καλεω であり、それは英語のcallにあたります。呼ぶ、招く、召し出すなど幅広い意味があります。
 私たちは自分の生活の直中で絶えず主イエスに呼びかけられています。それにも関わらず、私たちが「決心がつかない」とか「召命観がはっきりしない」と言って、自分の心を神に向けることをためらい、恐れていないでしょうか。本当は、主イエスが私たちに何と言っておられるのか分かっているのに、言い訳をして、そこから逃げて、主イエスの本当の声を聞くことを避けることはないでしょうか。
 もし「主イエスが、もっとはっきりと違う形で招いてくださったなら、従いやすいのに。」と言う人がいたとしたら、主なる神は、「いや、私はずっとあなたに呼び続けているのだ」とお答えになるに違いありません。
 今日の福音書の中で、自分の生活の真っ只中で主イエスに召し出されたペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネは、深い考えもなくあまりに気安く軽率に主イエスの招きに応えていった人たちなのでしょうか。そうではありません。彼らは、自分たちは主イエスの呼びかけに応えるに足りる資格や能力が備わっており、お答えする資格があると考えたからついて行けたのでしょうか。そうではありません。
 私たちが人間をとる漁師になる資格があるとしたら、他の誰でもない自分が主イエスに愛されていることを深く受け入れ、その愛に従って生きていこうとする、その一点にあるのです。
 それなのに、「まだその時ではない」とか「従っていけるだけの条件が整わない」などと言って主イエスに従うことを躊躇うことは、その人は天の国を開いていく働きを拒むことになり、招いておられる主イエスに対して大変に失礼な事をしていると言えるのです。
 ペトロが舟を置いて主イエスに従っていった後、ペトロの言動のすべてが完璧であったわけではありません。むしろペトロは失敗を繰り返し、主イエスに叱られています。主イエスはそのペトロを愛しておられ、ペトロは主イエスに導かれて成長していきます。ペトロをはじめとする弟子たちには、召し出されて応えて歩むがゆえに背負わなければならない苦労や試練もあったことでしょう。もし、予想されるそれらの困難がすっかり無くなって安心できるようになったらあなたに従いますと言うのであれば、それは召し出しに応えることではなく、ただ自分の都合の良いように主イエスを利用しようとしているに過ぎないと言えるでしょう。
 ヘブライ人への手紙第11章1−2節に次のような言葉があります。 
 「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。」
 この言葉が示しているように、多くの信仰の先人たちには誰にも信仰によって初めの一歩を踏み出していった回心の時、転換点があるのです。それから先がどうなるのか見通せないような時でも、神が呼んでおられると信じることを、見えない中で神の御心を信じて初めの一歩を踏み出していったのです。
 そして、その先が見えなくても初めの一歩を踏み出すことによって神のご計画が何であったのかが少しずつ悟っていく経験を与えられていくのです。そのような経験は、神の召し出しに応えることによって初めて見えてくることなのではないでしょうか。
 私たちはそれぞれの置かれている家庭や職場の状況は違いますが、それぞれの生活の場で人間をとる漁師として召し出されており、その召し出しに応えて、自分の関わる世界に天の国の姿が表われ出るように、主イエスに従っていく事こそ「人間をとる漁師」になるに相応しいのです。
 私たちも、主イエスの「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。」との招きの言葉に応えて、さらに主イエスに導かれ、天の国の現れを祈りながら、信仰の歩みを進めていくことができますように。
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