2018年01月16日

主に知られている自覚  ヨハネによる福音書1章43−51    B年顕現後第2主日 2018.01.14

主に知られている自覚
ヨハネによる福音書1章43−51    B年顕現後第2主日 2018.01.14

 今日の聖書日課福音書は、フィリポとナタナエルの召命の物語です。
 今日は、ことにナタナエルが主イエスに召し出された時のことに注目して、私たちが神を知られている者であることを学び、私たちが主なる神に全てを開いて受け入れていただく事へと導かれたいと思います。
 ナタナエルは、イチジクの木の下で神を黙想する熱心なユダヤ教徒でした。イスラエルの人々は、昼は太陽の照りつける暑さのもとで生活をします。彼らは、その生活の中で、ぶどう園で休息することを神の国に憩うことと重ね合わせてイメージしました。また、大きな葉っぱが木の下に陰をつくるイチジクも、人々が休息するのには格好の場であり、彼らにとってイチジクの木陰は神の国のイメージとなっていました。
 例えば旧約聖書のミカ書第4章4節にも、やがて救い主が来た時を思い描いて「人はそれぞれ自分のぶどうの木の下、イチジクの木の下に座り、脅かすものは何もないと万軍の主の口が語られた。」と唱われた箇所があります。ナタナエルも、暑い太陽の照りつけるこの地方で、イチジクの木の下に座り、救い主が来られる日を思い巡らしていたのでしょう。
 このように黙想する人であったナタナエルの所に、フィリポが来てこう言いました。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちが書いている方に出会った。それは、ナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」
 フィリポは、ナタナエルより先に主イエスさまと出会い、このお方こそ律法や預言者たちが指し示してきた救い主であると知り、そのことをナタナエルに伝えたのです。しかし、ナタナエルはフィリポにこう答えます。「ナザレから何か良いものが出るだろうか」。
 当時のイスラエルの人々にとって政治的、宗教的、社会的に中心となるのは都のエルサレムでした。今日の聖書日課の舞台であるガリラヤ地方は、片田舎に過ぎず「ガリラヤの者」という言葉にはさげすみのニュアンスさえ含まれていました。とりわけ熱心に神を慕い求めるナタナエルにとっては、ユダヤの伝統的な考えに従えば、そのような片田舎から救い主が現れることなど全く考えられないことでした。旧約聖書には全く名前の載っていない、ガリラヤのナザレから、しかも大工の息子、正式な律法の教育も受けていない、そんな男が救い主であるはずがない、とナタナエルには思えたのでした。
 しかし、このようなナタナエルに対して、フィリポは「来て、見なさい」と言います。フィリポは、「何故あなたは自分の思いにとらわれて、イエスをありのままに見ようとしないのか」と言っているのです。ナタナエルは、この言葉に促されてイエスを尋ねて歩き始めました。主イエスは、このナタナエルをご覧になって、次のように言われたのです。
 「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」
 主イエスはなぜこのナタナエルを「まことのイスラエル人だ」と言ったのでしょうか。イスラエルという名前の始まりについて考えてみましょう。
 イスラエルという名前は、創世記の中でヤコブが神から与えられた名前として出てきます。その物語によると、ヤコブは双子の兄弟であった兄エサウから家督相続に関する長子の権利をずる賢く受けとり、更に兄エサウを出し抜いて本来エサウが受けるはずであった父イサクからの祝福を受けてしまうのです。エサウの恨みを買ったヤコブは、その怒りを逃れて伯父ラバンのいるハランの地に身を寄せて20年の月日を過ごすのです。そして再び故郷のカナンの地に戻ることになるのですが、いよいよ明日はヨルダン川を渡って兄エサウに再会して和解を求めようという晩に、神がヤコブを襲ったのです。ヤコブは神と格闘して太股の関節を打たれて外されてしまいます。この時、ヤコブは神に食らいついて「祝福してくださるまでは離しません」と言って神の祝福を求めました。この時にヤコブは神から「イスラエル」という名前を受けたのです。神と格闘した末に神に打たれて足を引きずる者が祝福され、神から与えられた名が「イスラエル」でした。ちなみに、「イスラエル」とは「神が支配したもう」と言う意味です。
 主イエスはナタナエルが救い主を尋ね出そうとご自分の方に来るのをご覧になって、「あのナタナエルこそ本当のイスラエル人だ」と言われたのです。主イエスは、ナタナエルが主イエスを知る以前からナタナエルのことを知っておられました。そして、神の子がこの世に来る時を祈り求めて止まないナタナエルのことを、主イエスさまは「真のイスラエル人」と言っておられるのです。神と格闘して神の祝福を求めて止まなかったヤコブを神が祝福して「イスラエル」と名付けたのとちょうど同じように、主イエスは救い主を尋ね求めるナタナエルを「まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」と言っておられます。主イエスにお会いしたとき、ナタナエルは既に主イエスに知られており、主イエスはナタナエルがイチジクの木の下で黙想する人であったことも知っておられるのです。
 初めのうち、ナタナエルは自分の力で救い主を見つけ出そうと努めていました。しかし、救い主はナタナエルが救い主を知るはるか以前からナタナエルを知っておられ、主イエスの方から「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、イチジクの木の下にいるのを見た」と言っておられます。主イエスは、こうして黙想するナタナエルが「神が支配したもう」という名にふさわしい者であることを見ておられたのです。
 ナタナエルはこうした出来事を通して、主イエスによって全てを知られ全てが神のみ手の中にあることに気付き、自分の全てを主イエスに委ねて生きる者へと変えられていきます。
 このような生かされ方は、パウロの場合も同じです。パウロはかつては「わたしは律法の教師ガマリエルの薫陶を受けたファリサイ派」であると自負して、イエスを救い主とする人々の迫害に息巻いていました。しかし、サウロは、クリスチャンを迫害するためにダマスコへ向かう途上、幻の中でキリストに出会って全く新しい人に変えられていきました。
 そのパウロは、ガラデヤの信徒への手紙1章15節でこう言っています。「しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け恵みによって召し出してくださった神が、み心のままにみ子をわたしに示して、」。
 ナタナエルも、このパウロの言葉のように、キリストと出会い自分がキリストを知る遙か以前から、主イエスが自分を知っておられ、神の御手の中に招き続けてくださっていることを知ったのです。ナタナエルはこうして、古い信仰を打ち砕かれ、本当の救いの道へと導かれていきました。主イエスは、ヨハネによる福音書第15章16節で、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」と言っておられます。
 私たちも、世の初めからおられるお方によって知られ、このお方によって私たちは愛されています。そのことを知って、このお方に無条件に愛されていることを受け入れる時、私たちは色々な限界や捕らわれから解き放たれるのです。このお方の招きに応えるとき、私たちも「もっと偉大なことをあなたがたは見ることになる」と言っておられる主イエスの御言葉を自分のものにすることが出来るでしょう。
 主イエスがわたしたちを選び用いてくださいます。主イエスは死の先にまでわたしたちを招き導いてくださいます。この大きなしるしを与えられて、主のみ跡を導かれて歩んだ使徒たちの信仰にならい、私たちも主イエスに導かれて信仰を新たにし、豊かな祝福に与ることができますように。
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2018年01月08日

イエスさまの洗礼 マルコによる福音書第1章7〜11節 B年顕現後第1主日 2018.01.07

イエスさまの洗礼 マルコによる福音書第1章7〜11節 B年顕現後第1主日2018.01.07

 今日、顕現後第1主日は、主イエスの洗礼を記念する主日です。3年周期の聖餐式聖書日課福音書では、毎年、マタイ、マルコ、ルカにある主イエスが洗礼をお受けになった箇所が取り上げられています。
 聖書日課B年は、マルコによる福音書を中心に採用されており、今日もマルコのよる福音書から主イエスが洗礼をお受けになった物語が取り上げられています。
 この物語の内容を振り返ってみましょう。
 主イエスは、洗礼者ヨハネが人々に悔い改めの洗礼を授けているところにやって来て、ヨハネから洗礼をお受けになりました。そして、主イエスが水の中から上がったときに、天が裂けて聖霊が降り、天から「これはわたしの愛する子、わたしに心に適う者」という声がした、と言う内容を簡単に記しています。
 主イエスが洗礼をお受けになった場面は、第1章9節から11節の僅かな箇所ですが、この中に、約聖書の沢山の御言葉が凝縮しています。
 今日は旧約聖書の箇所を幾つか当たりながら、主イエスが洗礼を受けられたことは、旧約聖書に時代から待望されていた救い主が現れたことを告げる出来事であるということを確かめたいと思うのです。
 水によって汚れを清めることや生まれ変わりを表現することは、キリスト教に限らず古代から多くの宗教的儀式に採り入れられていました。洗礼者ヨハネの洗礼の意図は、「罪の赦しと悔い改め」にありました。主イエスはそのヨハネの所にやって来られました。1章4節に記されているとおり、主イエスは洗礼者ヨハネが宣べ伝えていた「罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼」をお受けになったのです。
 このことは、旧約聖書の言葉を沢山思い起こさせますが、特にイザヤ書53章12節に記された以下の言葉に注目してみましょう。
 「彼が自らをなげうち、死んで、罪人にひとりに数えられた。」
 主イエスが公に宣教の働きを始る最初になさったことが、罪人の立場にまわってくださることなのでした。勿論、主イエスの中に罪があったわけではありません。主イエスの洗礼は、主イエスは罪の無いお方でありながら、罪ある人の側に身を置いてくださり、ここから主イエスの公の生涯、すなわち神の国を広める働きが始まっていくのです。このお働きは、やはり犯罪人が処刑(しかも極刑)されるしるしである十字架の上にまで続いていきます。主イエスの受洗には、まさにそのような主イエスの御生涯のテーマがここに示されていると言えるでしょう。
 主イエスの生涯は、神の御心と離れることのない生涯でしたが、罪人呼ばわりされる人々と関わりを持つ時、その行いは当時の律法の体系を逸脱することもしばしばでした。例えば、旧約聖書申命記には「重い皮膚病」を患っている人々に近づいたり触れたりすることを禁じることばがありますが、主イエスは清めを求めて近寄って跪く重い皮膚病の人を憐れに思い、手を伸ばして触れて祈り、周りの人を驚かせたのでした。
 また、主イエスは、徴税人や罪人呼ばわりされる人々とも一緒に食事をなさって、当時の敬虔な律法学者たちの批判を浴びることにもなりました。でも、こうした罪人との交わりは、当時落ちこぼれて罪人扱いされていた人々を再び生かします。主イエスは、罪人が罪を赦されて神の愛の恵みの中で生きる喜びへと罪人を導くために、自ら罪人のひとりに数えられたのでした。この主イエスの姿は、旧約聖書イザヤ書で預言されていた主の僕の姿であり、そのお姿は主イエスの宣教の初めに洗礼をお受けになる中にも示されていたと言えます。
 また、主イエスの洗礼は、主イエスに神の霊が与えられる出来事でもありました。エゼキエル書第36章26節にはこのような言葉があります。
 「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊をおく。わたしはお前のたちの体から、石の心を取り除き、肉の心を与える。」
 主イエスが水の洗いを受けて起き上がると、神の霊が鳩のようにが降りてきました。この霊を受けて、主イエスは、旧約の律法の体系を整え強化するお働きではなく、新しい霊の働きを通して人々の命を生き生きと回復する働きへと出ていくのです。主イエスに与えられた神の霊は、本来全ての人に対して注がれているのです。しかし、人間の罪や律法の固い枠は、神の霊の働く機会を小さくしてしまったのです。主イエスが神の心としっかりと結び合うことで神の人との関係は回復されるのです。
 また、ヨエル書3章1節には、「その後、わたしは全ての人にわが霊を注ぐ。」と言っていますが、律法主義によって聖霊の働く余地を無くしていた当時の宗教は、主イエスが洗礼をお受けになることによって、律法の体系によって縛られていた人々の心に神の愛が吹き込まれ、人々に聖霊の働きを確かに感じられるようにしてくださったのです。
 更に、主イエスが水から上がられた時に、天が裂けて天から声が聞こえました。「天が裂ける」とか「天が開く」という言葉も、旧約聖書のいくつかの場面や言葉を想い起こさせます。この表現は当時の天体観に基づいており、この世と神の居られる天の間に蓋のような隔たりがあると考えられていましたが、その隔たりが裂けて神とこの地の世界が一つに直接結ばれることを表現しているのです。使徒言行録の中で、ステファノは「天が開いて人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言って主イエスへの信仰を表明しました。また、旧約聖書の中でも、例えば、イザヤ書63章19節で次のように言っています。イザヤは神の御心あまりにかけ離れたこの世界に身を置いて、この世界から神に向かって呻くように願い求めます。
 「あなたの統治を受けられなくなってから、あなたのみ名で呼ばれない者となってから、わたしたちは久しい時を過ごしています。
 どうか、天を裂いて降ってください。み前に山々が揺れ動くように。」
 イザヤが、神と直接交わりを持って、神の存在を確かに感じたいと思い願った出来事が今、主イエスによって実現していることを福音記者マルコは伝えているのです。
 最後にもう一つ付け加えると、「あなたはわたしの愛する子」と言う天からの声も、今日の旧約聖書日課のイザヤ書第42章1節で、神の正しい裁きを説く者に「見よ、わたしの僕」と言っている箇所を受けて、主イエスが洗礼をお受けになった時に用いられているのです。
 主イエスの洗礼の背景にある旧約聖書の言葉を幾つか見て参りましたが、主イエスが洗礼をお受けになった短い文章の中に、旧約聖書の思想や言葉が凝縮していることが分かります。つまり、福音記者マルコは、旧約聖書が待ち望み来るべきお方として指し示してきた救い主がこのイエスに他ならないと伝えたいのです。しかも、その救い主は罪人の側にまわってくださるお方であり、私たちの王となられた救い主であり、また私たちの僕ともなってくださった救い主であり、神の霊が降ったお方であり、神と一つであり、私たちと神とのつながりを回復してくださった救い主であることなど、主イエスの洗礼の物語は旧約聖書の願いがここに凝縮し、主イエスによってその願いが実現していることが示されています。
 救い主イエスを焦点にして、神の救いの働きが新しい時代に入りました。主イエスによって神の御心が私たちに明らかにされ、また主イエスによって神の働きは世界中に宣べ伝えられていくようになります。私たちは主イエスを通して神に自分の全てを委ね、神と親しく交わりを持って生きることが出来るようになったのです。
 今日の福音書は、主イエスの洗礼の物語によって、主イエスは、旧約聖書の時代からこの世界が待ち望んでいた救い主であり、その救い主であることの意味もただ一つの側面から説明できるお方ではなく、旧約聖書の時代から様々にイメージされ、待ち望まれた姿の全てがこのイエスによって集約されていることを示しています。そして、今日の福音書は、私たちに主イエスの中に本当の救い主の姿を見出すようにと私たちに促しているのです。
 私たちも洗礼の恵みをいただいています。私たちの受ける洗礼は、罪の赦しに留まらず、洗礼によって神と結ばれ、聖霊の力をいただき、天国での幸いを約束されています。神の子主イエスを通して私たちも神と結ばれ、私たちも聖霊の力を受け、主イエスに導かれて生きる者であることの思いを新たにして、新しい年の信仰生活を導かれて参りましょう。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 17:24| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月01日

「静かに夜露の降る如く」 ヨハネによる福音書第1章1−14 2017.12.31

「静かに夜露の降る如く」
ヨハネによる福音書第1章1−14 降誕後第一主日       2017.12.31

  今日は、降誕日の直後の主日です。改めて主イエス・キリストのご降誕を静かに思い巡らせてみたいと思います。
 ローマ皇帝アウグストゥスから出た住民登録の勅令のために、人々は自分の生まれ故郷に帰る旅を急いでいます。強いられた旅をする人々が行き交うユダヤの町は、どこもごった返していました。とりわけダビデ家の由緒ある町であったベツレヘムは、住民登録をするために戻って来た人々で溢れかえっていました。人々は、我先に宿を確保しようとして高ぶり、町はいつになく騒がしい姿になっていました。
 臨月を迎えたマリアを連れて旅するヨセフがやっとベツレヘムに着いた頃、町の中には彼らが宿を取る余地はなく、彼らが町からはじき出されるように、体を休めるために見つけた場所は町外れの家畜小屋だったのです。この家畜小屋とは、旅する人がロバやラクダをつないでおくための洞窟のようはところであったと考えられています。
 マリアは、このような場所で子を産み、その子は温かな産湯も産着もないまま、あり合わせの布にくるまれて飼い葉桶の中に寝かされたのでした。
 時々、動物たちの鼻息が聞こえる動物小屋に、幼子の産声が響いた様子が想像されます。そこには、街中のざわめきとは対照的な静けさがありました。
 そして、救い主誕生の知らせを真っ先に受けたのも、住民登録の人々でごった返す町の喧噪から離れた野原の羊飼いだったのです。
 このように最初のクリスマスの日を思い巡らせていると、私は、もし現代にキリストがお生まれになら、このお方のご降誕に気がつくのだろうかと思います。
 もし現代に救い主がお生まれになるのなら、それは今から2000年前のあの日と同じように、力や華やかさや騒がしさに隠されて、私たちに気付き難く見え難い所であり、そのメッセージが届けられるのも、あの時が羊飼いたちの所であったように、町の喧噪から離れた辺境の場所、今の世の動きから弾き出された人や悩みや困難の中にある人に対してなのではないか、と思うのです。
 そして、私はその良い知らせを受けることが出来るのだろうか、などと考えてしまいます。
 このことは単に都会と田舎という事ではなく、私たち一人ひとりの心の中の事として考えてみる必要のあることなのではないでしょうか。
 このようなことを思い巡らしていると、昔のある出来事を思い出しました。
 かつて、私が経験したある音楽会での事です。その音楽会の観客席には多くの子どもも集まっていました。もう演奏が始まろうというのに、会場はいつまでもざわついています。わたしはこの会場の子どもたちが演奏者に心を向けないでいるマナーの悪さにいらいらし始め、また演奏者のことを思うと少々はらはらしておりました。
 その時、演奏者は静かにこう言ったのです。
「わたしたちは、沈黙の緊張感の上に立って演奏したいと思いますので、演奏中はぜひ静かにしていただきたいと思います。」
 わたしは本当にそうだと思いました。このことは、音楽だけではなくこうした礼拝でも、またキリスト降誕を受け入れる心についても言えることだと思いました。その時から「沈黙の緊張感」という言葉は、私の中での大切な言葉になっています。私は、キリストの降誕についても、こうした「沈黙の緊張感」の中で思い巡らせ、受け容れるべきことではないかと考えます。
 この「沈黙の緊張感」を汚れの無い白い紙に例えれば、書道や墨絵もこれと共通していることがよく分かります。紙の白さの上に現れ出た墨の色合いは紙の白さと対比して浮かび上がります。もし紙が汚れていては、書家は筆を手にしても、それを動かそうという意欲が引き出されないし、仮に書いたとしても作品の美しさは紙の汚れに邪魔されるでしょう。音楽の場合も、沈黙の静けさとその緊張感を必要とします。演奏者は、沈黙の緊張感によって引き出されてくる演奏への思いを表現し、それが聴く人は自分の心の深いところにその演奏を共鳴させるからこそ、演奏者と聴衆の間に一体感が生まれるのです。この大切な沈黙が損なわれてしまっているところで演奏のであれば、演奏する人の意欲がどうなるのか、私のような凡人でも少しは分かる気がします。
神さまからの救いのメッセージも、馬小屋の深い静けさの中で、弱く小さな姿をとってこの世に与えられました。日本の古語に「かそけし」ということばがありますが、救い主はまさにかそけき姿をとってこの世界に届けられました。神は、人々を威圧するのでもなく屈服させるわけでもなく、静かに夜露の降る如くに、そっとこの世界に救いのメッセージを届けて下さったのです。
 このメッセージを聴きとることができたのは誰だったでしょう。この恵みにあずかったのはどのような人々だったでしょう。
 それは、ローマ皇帝による住民登録の対象にさえならない無法者である、羊飼いたちでした。おそらく彼らはその日も、夜の静けさの中で、自分の生きざまと自分の心の深みとに届けられるメッセージと出会わざるを得なかったのではないでしょうか。彼らは静けさの中にいたからこそ、町の喧噪の中では決して聞こえてこない神のメッセージを受けることができたのです。
 私は、このことを私たち一人ひとりの心の中の事として考えてみる必要があると思うのです。
 ある哲学者がこのようなことを言っています。誰にでも心の中に密やかなところがあって、人はそこで神に出会い、そこでしか神に出会えない。
 仮に自分が傲慢であってその傲慢さを顧みようとしないなら、わたしたちの心の中には神の宿る余地はありません。私たちがどうしても傲慢になってしまう自分の心の密やかな一隅を見つめて静まるとき、わたしたちはそこに宿り、語りかけてくださる神の小さな声に気づけるのではないでしょうか。
 福音は、声高で華やかなメッセージであるとは限りません。
 キリスト誕生の物語は、どれも静かです。乙女マリアへの受胎告知、馬小屋でのイエスの誕生、羊飼いへの御告げや三人の博士の来訪までどれも静かです。その一方で先を争って宿を求めるベツレヘムの街中の人々や幼子の殺害を企てるヘロデ王がいます。聖書は、静寂の中で神のメッセージを聞き取る人と聞き取れずかえって踏みにじる姿を対照的に描き出します。
 静かにこの世に生まれた御子イエス・キリストを、わたしたちは心の中のどこに迎えようとするのでしょうか。弱く貧しく小さな姿をとって私たちに宿ってこの世に来てくださった救い主を、心の片隅の密やかなところに迎え入れることができますように。
 世俗のクリスマスは、既に去って行きましたが、教会暦のクリスマス(降誕節)は12日間続いています。神の御前に心を静め、私たちの内に来てくださったイエス・キリストを感謝する降誕節を過ごして参りましょう。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 09:33| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする