2017年04月24日

シャローム  ヨハネによる福音書第20章19−31 復活節第2主日

シャローム
ヨハネによる福音書第20章19−31   復活節第2主日 2017.04.23
 
復活節第2主日の福音書は、復活の主イエスが弟子たちにお姿を現し「あなたがたに平和があるように」と言われた箇所が採り上げられています。今日は、この箇所から、私たちも弟子たちと同じように、復活の主イエスから「あなたがたに平和があるように」とのみ言葉を受け祝されていることを確認したいと思います。
 主イエスさまが十字架にお架かりになった日から三日目の朝、ペトロとヨハネはイエスのお墓が空であるのを見ました。また、主イエスを愛する女性たちから「イエスは生きておられる」という知らせも受けました。それでも弟子たちは一つ部屋の中に鍵を掛けて閉じこもり、息を殺してその日を過ごし、その日も暮れようとしていました。弟子たちは、おそらく、誰も言葉を発せずに、息苦しいほどの思いで何も出来ずに過ごしていたのではないでしょうか。
 甦った主イエスはそのような弟子たちのところに来てお姿を現して、彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われました。そして主イエスはご自分の両手と脇腹にある傷跡を弟子たちにお示しになったのでした。今日の福音書には「弟子たちは主を見て喜んだ」(20:20)と記しています。
 3日前の金曜日には、主イエスは十字架の上に磔にされました。自分たちには止めることの出来ない大きな力に動かされ、流されて、その中で弟子たちはみな自分の罪も顕わにされました。主イエスが捕らえられた時、弟子たちは主イエスを置き去りにして逃げだしました。「あなたのためなら死ぬ覚悟も出来ています」とまで豪語したのに、イエスが捕まえられるとき、弟子たちは皆、我を忘れてその場から逃げ去ったのでした。ペトロは気を取り直して大祭司の館の中にまで入り込み、取り調べられているイエスの様子を伺っていましたが、この館の者から「お前もあのイエスの仲間だろう」と問われれば、呪いの言葉さえ口にして「違う」「あんな男のことなど知らない」と言ってしまったのです。
 こんな弟子たちのところに主イエスは甦ったお姿を現してくださいました。しかも「あなた方に平和があるように」と言ってくださいました。
 弟子たちの前にお姿を現された主イエスが最初に口にしたのは、お叱りの言葉ではなく、恨みや呪いの言葉でもなく、神と弟子たちの間の「平和の宣言」であり、祝福の言葉だったのです。
 ここで主イエスが言っておられる「平和」とは、単に争いやもめ事のない状態の事ではありません。そうではなく、平和とは神と人との関係が十分であること、満ち足りていることです。弟子たちにとっては信じられないほど恵みに満ちた言葉です。弟子たちは主イエスを見捨てたし、「彼を知らない」とまで言いました。自分たちの方からは、どうして「神との関係は十分である」とか「満ち足りている」などと言えるでしょうか。でも、主イエスはそのような弟子たちに向かって言うのです。「神とあなた方との関係は満たされています。少しも損なわれていません。十分です。」と。「あなた方に平和があるように」とはそのような意味の言葉です。
 主イエスがこの場面で言われた言葉は、ユダヤの言葉では「シャローム」という言葉です。今は挨拶で「こんにちは」「さようなら」というような感覚でも用いられるこの「シャローム」という言葉の元は、「あなた方に、神の与える平和がありますように」という意味なのです。
 弟子たちの側からはとても「十分であり、完全である」とは言えないような神と人の関係が、十分であり完全であるのはなぜでしょう。また、私たちも人間の側からは不十分にならざるを得ない神との関係なのに、主イエスさまがこの関係を十分かつ完全であると言って下さるのは何故なのでしょう。
 それは、一言で言えば、神が弟子たちをそして私たちを愛していてくださるからです。神が、私たちを無条件に愛し、他人の罪を負って十字架に殺されても、その死を乗り越えて、その先まで愛し続けてくださる神の「愛」があって、その愛のゆえに、主イエスは「あなたがたに平和があるように」と言ってくださるのです。
 弟子たちの怯えも恐れもおののきも全て取り払い、拭い去り、あらゆる人を赦して愛し続け、全ての人を大切な一人ひとりとして受け入れて生かしてくださる神の熱い思いがあります。その愛が、私たちの側からの神への関係を補ってなお余りあるものにして下さり、神と私たちの関係を十分かつ完全にしてくださいました。
 主イエスが甦って弟子たちの中に立ち、「あなた方に平和があるように」と言って下さったことを、私たちはこのような神からの大きな恵みとして受け取りたいと思うのです。
 ただ、私たちには、今日の福音書からひとつ見落としてはならないことがあります。
 それは、甦った主イエス手足と脇腹には、私たち人間が主イエスを十字架につけて負わせた傷があると言うことです。
 主なる神が十字架と復活を通して私たちを赦しかつ愛するということは、過去の一切を水に流して無くして済ませることや罪について放任しておくことということでもありません。私たちは、主イエスの体と手足には、私たち人間が主イエスに罪を負わせ十字架に追いやったことに因る傷がはっきりと残っていることを忘れてはなりません。主イエスを通して与えられる赦しとは、私たちの罪を見て見ぬ振りをするような赦しではなく、主イエスが正面から私たちと向き合って、私たちの罪を照らし出し、それでも罪人である私を、あなたを、赦して愛してくださる赦しであり愛なのです。この罪に対する態度が曖昧であれば、十字架の先にある復活の恵みも曖昧になるでしょう。
 弟子たちは、主イエスを失い、自分自身をも失ってしまった時に、主イエスによって与えられた愛の力によって罪ある自分を葬り、再び喜びをもって神の恵みの中に新しい自分として生きることが出来るようになりました。その意味で、主イエスが言っておられる「あなた方に平和があるように」という御言葉は、私たちが古い罪ある自分が死んで、神がお創りくださった自分に立ち返り、絶えず新しい自分として生きていくことが出来るように促し,力を与えくださいます。
 私たち人間は、自分の存在を確認できないときに不安になります。ありのままの自分が愛されている確かさを失うと、本心ではないのにわざと人の気を引くようなことをしてみたり、トラブルを起こしてまで他人の気を引いて自分の存在を他人に示したくなったりもします。学校や家庭で問題行動を起こす子どもの中にそのような子どももしばしば見られます。
 弟子たちも、復活の主イエスにお会いするまで、自分を全く失っていました。でも、復活の主イエスは、弟子たちの所にまで入って来て下さり、「シャローム」と宣言し祝福して下さいました。主イエスは、今この福音のみ言葉を通して、私たちにも甦りのメッセージを届けてくださっています。
 「あなた方に平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」(20:21)
 私たちは、主イエスを通して顕された神の愛に生かされて、主イエスと共に古い自分を葬り、神の愛に生かされて主イエスさまと共にこの世界に遣わされていくのです。
 主イエスによって示された「主の平和」に生かされ、私たちは、この教会からそれぞれの生活の場へと派遣されて参りましょう。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 15:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月16日

再び立ち上がる ヨハネによる福音書第20章1節〜8節   復活日

再び立ち上がる
ヨハネによる福音書20章1−8    復活日     2017.04.16

 主イエス・キリストの復活を感謝し、心からお慶び申し上げます。
 主イエスが十字架につけられ殺されたのは、金曜日のことでした。安息日である土曜日が過ぎて、安息日の明けた朝、まだ暗いうちに、イエスを慕っていた女性たちが墓に向かいます。そこで彼女たちは、墓の入り口の蓋が脇に転がっているのを見ました。その中にあるはずのイエスの遺体もそこにはありません。
 イエスを愛しイエスに愛された女性たちは、はじめのうちは戸惑いますが、墓が空であったことの意味を理解し、それと同時に力が湧いてきました。
 イエスによって示された神の愛は、死を乗り越えたのです。そして、人を理解して受け入れ愛し合うことで、その交わりの中に生きる力が湧きあがることを彼女たちは再び確信します。主イエスによってなされた愛の働きは、イエスの死によって終わったのではなく、死んでなお人々を生かすことを、彼女たちは実感するのです。イエスがその生涯をとおしてお示しになったことは真理だったことを、彼女たちは確かに知ったのです。
 主イエスの十字架の死は、信じる人をその人として生かす力となります。イエスの十字架の死は、それでイエスの生前お働きが滅びて終わってしまうようなものではなく、かえって神の愛の極みは甦って(再び起き上がって)神の御心の実現のために働くことを示す出来事になりました。愛の力が、墓を打ち破ったことを、福音書はイエス復活の物語によって表現しているのです。
 皆さんに一つの問いかけをしてみようと思います。あなたにとって、主イエスさまの復活はどのような意味を持っているのでしょうか。
 ある神学者は「聖書は絶えず解釈されねばならない」と言いました。その解釈とは、自分を棚に上げて聖書の言葉を釈義、解説することではなく、他ならぬ自分にとって、聖書の御言葉がどんな意味を持っているのか、主イエスの復活があなたの中でどのような位置を占め、どのように働いているのか、そのことを絶えず自分で吟味し続けねばならないと言うことです。
 そのことは、主イエスの復活ということについても言えることです。神さまは、主イエスの復活について、私たちに必ずしも納得のいく答えを求めておられるわけではないかも知れませんが、思い巡らせ、疑問を抱き続け、そこに働く神の恵みに与る歩みをし続けていくことが必要なのではないでしょうか。そうでないのなら、もし、主イエスが墓の中から出てきてお姿を現したとしても、それは私たちにとってあまり意味があることにはならないでしょう。
 主イエスの復活について、思い巡らせるために、新約聖書の原語のギリシャ語で、「復活する」という言葉がどのような言葉であるのかを、少し探ってみましょう。聖書の中で「復活する」は、「ανιστημι」であり、語源は「再び起き上がる」という意味です。
 この言葉が聖書の中でたくさん使われていますが、その中から2箇所採り上げてみます。
 その一つは、ルカによる福音書第24章7節で、まさにイエス復活を告げる場面で、輝く衣を着た二人が次のように言います。
 「人の子は,必ず罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになってる、と言われたではないか。」
 この言葉は、別の箇所では以下のように使われています。マタイによる福音書第9章9節です。「イエスはそこをたち、通りがかりに,マタイという人が収税所に座っているのを見かけて「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。
 片方は「復活する」、もう一方は「立ち上がって」と訳されていますが、どちらも同じ「ανιστημι」です。それぞれの箇所の言葉の日本語訳を交換して読んでみます。
 「人の子は,必ず罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に立ち上がることになってる、と言われたではないか。」
 「イエスはそこをたち、通りがかりに,マタイという人が収税所に座っているのを見かけて「わたしに従いなさい」と言われた。彼は復活してイエスに従った。
 皆さんは、どのように感じられるでしょうか。
 他にギリシャ語で「復活する」と訳される言葉があり、「εγειρω」です。その言葉が用いられている箇所を拾ってみると、
 ルカによる福音書第24章6節で、二人の輝く衣を着た者がイエスの復活を告げて「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方はここにはおられない。復活なさったのだ。」と言います。
 別の箇所では、マタイによる福音書第8章15節で「イエスがその手に触れられると、熱は去り、しゅうとめは起き上がってイエスをもてなした。」
 先ほどと同じように、日本語に訳された言葉を入れ替えてみましょう。
 「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方はここにはおられない。起き上がったのだ。」
 「イエスがその手に触れられると、熱は去り、しゅうとめは復活してイエスをもてなした。」
 このように日本語訳の置き換えをしてみて、皆さんはどんな印象、感想を持たれるでしょうか。私は、こうして訳語を置き換えてみても、さほど違和感はなく、むしろ聖書の伝えようとしている「復活」の意味が、一層身近に感じられるように思うのですが、いかがでしょうか。
 復活とは、私たちを再び起き上がらせること、再び立ち上がらせることであり、私たちを挫折から、落胆から、悲しみから、絶望から、滅びから、死からさえも、再び起き上がらせてくださる神の根源の力が働いた表れであって、主イエス・キリストの復活は、私たち人間には限界であり課題となっていた死に打ち勝った(死を打ち破った)ことが主イエス・キリストを通して示されたことである、と私は考えます。
 そうであれば、聖書の伝える復活の力とは、私たち人間を死や滅びへと向かわせる罪の力から、私たち人間を本当のその人として神から受けた自分の生(生きること)へと生かす力である、と言えるでしょう。
 私たちクリスチャンは、主イエス・キリストによって示された復活の力に支えられて、それぞれが罪ある自分が、主なる神に赦され愛される中で、古い自分の死と甦り(アナスタシス)すなわち「死と再生」の人生を歩んでいるのです。
 先ほど再び立ち上がった人の例として、徴税人マタイ、ペトロのしゅうとめの箇所を挙げましたが、聖書の中には、他にも例えば名も記されていない、重い皮膚病を浄められた人、見えなかった目を開かれた人、物乞いをしていた足の効かない人、マグダラのマリア、徴税人頭ザアカイ、甦ったラザロなどなど、主イエスによって再び立ち上がらせていただいた(復活した)人の記録が満ちているのです。
 このように、主イエスと出会って、癒された人、慰められた人、再び立ち上がって自分の人生を歩き出した人を見ていくと、私たちもそのような人の中の一人であり、主イエスによって再び立ち上がらせていただく者であることに気付かされます。あるいは、イエスを十字架につける側の存在であったのに、赦され救われた一人なのかもしれません。
 私たちは、自分の生きる脈絡の中で、それぞれが主イエス・キリストによって、再び立ち上がらせていただいた自分を振り返り、主イエス・キリストが私たちそれぞれの人にとってどのようなお方であるのか思い巡らせ、自分の中に復活の主イエスをしっかりと迎え入れたいと思います。
 もしかしたら、私たち人間が、主イエスの復活の意味を完全に言い尽くすことなど、本当は出来ないことかも知れません。でも、私たちはそれぞれが各自の信仰によって、自分にとっての主イエスの復活とは何かと言うことを自分に問いかけ、その答えを出し続けることを、神から求められているのです。それが信仰の道を歩むと言うことなのでしょう。その道を歩みながら、私たちは主イエスが死を克服され、更にその先へと開いてくださり、私たちを導いてくださることを喜び、感謝し合うのです。神は、そのような私たちと共にいてくださり、祝福してくださいます。
 私たちは、主イエスの復活によって、私たちが神の愛の中で、倒れても再び起き上がり、ますます本当の自分として開かれ生かされる喜びの確信を与えられました。心から主イエスの復活を感謝してその賛美をささげましょう。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 20:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月09日

インマヌエルのしるし  マタイによる福音書第27章1−66節  復活前主日

インマヌエルのしるし
マタイによる福音書第27章1〜66節  復活前主日  2017.4.9

 教会の暦では聖週に入り、私たちは次の主日に復活日を迎えます。主イエスの復活を共に感謝し、その賛美することができるように、私たちはその前提となる主イエスの十字架ついて,この主日に深く思い巡らしておきたいと思います。
 私たち日本聖公会の主日礼拝(聖餐式)における聖書日課は、3年周期であり、今年はA年にあたり、福音書はマタイによる福音書を中心に取り上げられています。
 そして、マタイによる福音書の中心となる大切なテーマが「神は私たちと共におられる」ということです。私たちは、今日の聖書日課福音書を思い巡らせる時にも、この「神は私たちと共におられる」ということをいつも心に留めておきたいのです。
 今日の主題である主イエスの十字架を思い巡らせる前に、マタイによる福音書の中で、「主が共におられる」と主題がどのように提示されているかを見ておきましょう。
 一つは、マタイによる福音書が伝える主イエス誕生の時の物語です。
 主イエスが生まれる前、ヨセフは予想もしていなかったマリアの懐妊に思い悩む時、主の天使はヨセフに「その子をイエスと名付けなさい。その名はインマヌエルと呼ばれる。」「この名は神は我々と共におられるという意味である」と告げました。マタイによる福音書はこうして始まります。そして、もう一つはマタイによる福音書の最後の場面です。
 復活した主イエスは、天にお帰りになる時弟子たちに全世界への宣教を指示され、最後に「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」という言葉で閉じられます。
 このように、マタイによる福音書は、始めと終わりに「神が共におられる」という言葉があり、「神が共におられる」という(両括弧)に囲まれて、それぞれの物語を「神が共におられる」ことの具体例として配置していると言うことができます。
 主の天使がヨセフを通して約束して下さったように、また、最後に弟子たちにその約束をなさったように、主イエスは「神が私たちと共にいてくださる」しるしとなって、この世の生涯を十字架の死に至るまで全うしてくださいました。
 日頃、私たちは、神が私たちと共にいて下さることの意味やその重要さについて、あまり意識して考ることはないのではないでしょうか。でも、「神が我々と共にいる」ということがどれほど大切なことかということを、私たちはよくよく肝に銘じておく必要があります。そしてまた、私たちがもし自分の力だけで本当に他の人と共にいようとするなら、それがどれほど難しいことかということも私たちはよくよく分かっていなければなりません。
 「誰かと共にいる」とは、ただ相手の言いなりになって相手の欲望を満たすことではありません。「共にいる」とは、本当の自分と本当の相手が心を開き合って出会い、お互いにもっと深い本当の自分にも出会っていける関係ができると言うことです。「人と共にいる」と言うことがこのような深くて重い命題であることが分かった上で、それでもなお「私はいつでも他者と共にいられます」と言える人がいるとしたら、その人は周りの人たちがどれほど迷惑がっているかに気が付いていないだけの話でしょう。
 最後の晩餐の席で、主イエスは弟子たちに「今夜あなた方は皆私につまずく」と言いました。この時、弟子のペトロは「たとえご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と応えました。この時ペトロは、どこまでもイエスと共にいることが出来ると思い、どこまでもイエスと共にいようと思ってこのように言いました。でも、その後、主イエスはゲッセマネの園で捕らえられた時、ペトロを始めとする弟子たちはイエスを置いて皆蜘蛛の子を散らすようにその場から逃げ去りました。ペトロは、大祭司の館の庭にまで入り込んだものの、「お前もあの男の仲間だろう」と問われ、「イエスのことなど知らない」と3度否定してしまいます。すると、主イエスが最後の晩餐の席でイエスが言っておられたとおり、鶏が鳴き、ペトロは我に返ってその場を飛び出し、激しく泣いたのでした。
 私たちは、「他の人と共に生きよう」、「他の人を支えて共にいよう」と心がけても、人としての限界があることをよくわきまえておく必要があるのです。その上でなお私たちは、そのようと努めて生きることを、神から求められています。そして、私たちがそうすることが出来るのは、私たちが力の無さや限界を知るとき、私たちは初めて私たちの限界を超えて「インマヌエル・神が私たちと共におられる」と呼ばれるお方が私たちと共にいて下さることを知り、その「インマヌエル」と呼ばれるお方に自分を委ね、そのお方に導かれて他の人と共に生きることへと開かれていくからなのです。
 私たちは、転んで膝を打った経験があれば、その痛みを自分でしっかりと受け止め、同じような痛みの中にいる人と、その痛みと苦しさに共感し、その思いを分かち合って共に生きていく契機にすることも出来るでしょう。
 また、何か大きな手術を経験した人であれば、自分のその体験を深く思い巡らせることで、同じように入院したり手術を受ける人の不安や恐れを受け止めたり、その経験が手術を受ける人に共感することに役立つこともあるでしょう。
 自分の罪を深く認めて悔い改めた人は、同じように罪に悩む人の負い目や苦しみに共感し、その人の話を深く共感して聴くこともある程度は出来るようになるでしょう。
 でも、私たち人間には、ある一線を越えて他者と共にいることの出来ない世界があります。そこから先は、人の力を越えて支配してお働きくださるお方に全てを委ねなければならない一線があります。
 主イエスは、十字架の上でその生と死のぎりぎりの境界線上から、叫び声を上げてくださっています。
 「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」
 この叫びは、主イエス御自身の叫びであると同時に、そのように叫ばないわけにはいかない人の側にまわって、神の子が、私たちのために、私たちと共に、私たちに代わって、叫んでくださっている叫びなのです。私たちが死の間際に立つ時、それも理不尽としか思えないような死の間際で、主イエスはその先にまで私たちと共にいてくださり、罪のゆえに神からも見捨てられたと思う人をもしっかりと神と結び合わせてくださるために、主イエスは十字架の上から罪の極みをご自身の身に引き受けて、叫んでくださいました。
 この「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」という叫びは、そのように叫ばねばならない私たちと共に主イエスが叫けんでくださっている叫びです。
 私たちには自分の限界があり、自分の力ではとても他の人と共にいることなど出来ない者でありながらも、このインマヌエルと呼ばれるお方にいていただくことで、私たちもお互いに人として支え合い、神の御心を生きることができるようになるのです。
 私たちに出来るのは、人の限界を超えてなお共にいて下さるお方を信じ、そのインマヌエルというお方に共に導いていただくことです。そして、その救い主を人々に告げ知らせ、私たちがこのインマヌエルによって生かされていることを感謝する事なのです。主イエスの地上での生涯は、この世界で見捨てられしいたげられた人々と関わり、愛し抜き、共にいてくださる生涯でした。そして最期には十字架に磔にされながら、その十字架の上からも、神が共にいてくださることを示してくださいました。
 私たちは、自分の力では死の先にまではどうすることもできない限界がありますが、主イエスは、私たちの限界の遙か向こうの、死の先の世界にまで私たちと共にいて下さることを十字架の叫びと死を通して証ししてくださいました。
 私たちがたとえどれほど他人からののしられようとも、傷つけられようとも、神の御心を行おうとするのなら、十字架の上で神に捨てられる経験までしたインマヌエルと呼ばれるお方がいつまでも、どこまでも共にいて下さって、死の先にもわたしたちと共にいてくださるのです。
 私たちはインマヌエルと呼ばれる主イエスの愛の力に生きるよう招かれています。そして、私たちは、インマヌエルと言われるお方の死が、死では終わらないことを教えられるのです。
 「神は我々と共におられる」ことは十字架の死と復活によって証しされました。私たちは、その主イエス・キリストに導かれ、その愛の力に生かされる信仰を養われ、また甦りの力にあずかることができますように。
 復活日直前の主日に、主がいつも共におられることを十字架で示してくださった救い主を深く心に受け入れることが出来ますように。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 23:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする