2020年05月31日

神の息吹 ヨハネによる福音書20:19−23 2020.05.31  聖霊降臨日

神の息吹 
ヨハネによる福音書20:19−23   聖霊降臨日    2020.05.31

 聖霊降臨日を迎えました。
 旧約聖書の民であるイスラエルの人々にとって、過越祭から50日経った日は、「刈り入れの祭り」の日で、「五十日祭」と呼ばれました。
 申命記第16章には、イスラエルの三大祝祭日について記されています。過越祭から七週を経た日に行われる「七週の祭り」は、小麦の刈り入れが終わった時のいわば「鎌収め」の感謝の祭りとして行われておりました。イスラエルの民は、この祭りに新たな意味を加えて祝うようになりますが、それは、昔モーセがシナイ山で十戒を与えられたことを記念する意味であり、この日は、イスラエルの民にとって、いわば「十戒記念日、憲法記念日」としたのです。
 更には、初代のキリスト教徒たちは、主イエスの復活の日から七週を経たこの日を、ユダヤ教の律法を超える主イエスの「愛の掟」に生かされることの認識に立って、この祝日に更に新しい意味を与えて記念するようになったと言うことができるでしょう。
 主イエスの復活の日から50日を数えるこの日は、ギリシャ語で50を意味する「ペンテコステ五旬祭」と呼ばれ、主イエスの弟子たちに聖霊を注がれて、世界に向かって宣教が開始された日として大切にするようになりました。
 今日の聖書日課福音書には、ヨハネによる福音書から、主イエスが甦りのお姿を弟子たちのところに現された時のみ言葉が取り上げられています。
 ヨハネによる福音書第20章22節には、その時の主イエスについて、次のように記しています。「彼らに息を吹きかけて言われた。聖霊を受けなさい。」
 復活した主イエスが弟子たちに息を吹きかけておられることに着目してみましょう。
 「息を吹きかける」から連想する聖書の箇所はどこかと問われれば、多くの人は、直ぐに旧約聖書創世記第2章にある人の誕生の物語を思いつくでしょう。
 創世記第2章7節には次のように記されています。
 「神である主は、土の塵で人を形作り、その鼻に命の息を吹き込まれた。」
 人は土の塵で形作られ、神がその人に息を吹き込むと人は「生きる者(同2:8)」となりました。ここには、土の塵に過ぎない人間が、神から息を吹き込まれることで人間として生かされていることがよく表現されていると思います。
 そして、創世記の始めの部分に記されたこの「人の創造」を「第1の創造」と呼ぶことができるとすれば、今日の福音書の場面で主イエスが弟子たちに息を吹きかけて聖霊を与えていることは「人の第2の創造」と言うことができます。
 そのことを考えるために、もう少し第1の創造について思い巡らせてみましょう。
 神に息を吹き込まれて生きる者となった人は、エデンの園を与えられそこで暮らし始めます。しかし、人は神から「善悪の知識の木」からは「取っても食べてもいけない」と命じられたにもかかわらず、アダムとエバはその実を食べてしまいました。神は「取って食べると、必ず死ぬことになる」と警告しておられましたが、アダムもエバも神との約束を破ってその実を食べて、二人は自分たちが裸であること知ったのでした。
 人は、神に祝されて命の息を吹き込まれて生きる者となったにも関わらず、この「第1の創造」の直ぐ後に人は「罪」と「死」を招き入れてしまいました。
 神はエデンの園でアダムに善悪を知る木の実を「取って食べると必ず死ぬことになる」と教えました。ここでの「死」とは、例えば白雪姫が毒リンゴを食べさせられて、そのリンゴを口にした途端にバタリと倒れるというようなことを意味しているのではありません。聖書で言う「死」とは、神の御心から離れてしまい本来あるべきその人の姿を失ってしまうことを意味しています。約束の木の実を食べた後のアダムもエバも、神に前にその自分を認めず、自分中心にしかもその責任を他者に転嫁して自分だけは生き延びようとします。そこに二人の「死」の姿がありありと表現されているのです。
 このようなアダムとエバはエデンの園から追放され、罪と死の世界に中に生きていくことになります。
 こうした罪と死の世界に生きざるを得ないアダムの子孫である人間は、罪のない主イエスを十字架に付けることになってしまいます。アダムによって人の中に入り込んだ「罪」と「死」は、人間が自分の力では克服できない根本的な課題となり続けました。
 今日の聖書日課福音書には、「罪」と「死」を打ち破って復活された主イエスが、部屋に閉じこもる弟子たちのところにそのお姿を現し、「あなた方に平和があるように」と言われた場面から採り上げられています。主イエスは、驚き戸惑う弟子たちに息を吹きかけ、「聖霊を受けなさい」と言ってくださいました。これは、アダムとエバによってもたらされ、人間の側からは修復できなかった神と断絶した関係を、つまり「罪と死」を、神の方から完全な愛と赦しによって修復してくださり、人が神の祝福のうちに生きることを許してくださったことのしるしです。
 神が、主イエスを通して、土の塵に過ぎず直ぐに御心から離れてしまう人間に、神の息吹を注いでくださいました。これが、「人の再創造」です。
 もう一度繰り返しますが。最初の人アダムは、神が土塊(つちくれ)に息を吹き入れて「人はこうして生きる者となった」という姿で誕生しましたが、直ぐに「罪」と「死」に支配されてしまいます。そのような存在である人に復活の主イエスが息を吹きかけて「聖霊を受けなさい。」と言ってくださいました。これは、罪と死に支配されていた人間が主イエスの息吹によって再び命を与えられたことを表しています。
 こうして、弟子たちは主イエスから聖霊の力を与えられ、その力に促されてイエスこそ真の救い主であることを伝えるために、世界中に出ていきました。その発展には目覚ましいものがありますが、弟子たちは、主イエスと同じように各地で迫害を受けるのです。それにも関わらず、弟子たちは、宣教の歩みを続け、振り返ってみれば彼らの歩んだ足跡には自分たちが予想もしていなかった力が働き、聖霊が自分をとおして働いていたという経験を重ねていたのです。
 主イエスにより復活の息吹を注がれて生きる弟子たちは、主イエスが示してくださった神の愛と赦しこそ最終的に人を生かす力であることを身をもって示しました。この愛と赦しは、権力や軍事力で奪うことは出来ないし、金銭で求めることもできません。弟子たちは、神の愛と赦しに感謝して、主イエスの御跡を歩むときに、自分を通して確かに聖霊が働いているという経験を重ねたのです。
 主イエスを通して与えられた救いを宣べ伝える弟子たちは、かつての弱くだらしのない弟子ではなくなりました。弟子たちが受けた主イエスを宣べ伝える熱意と力を、使徒言行録第2章3節で「炎のような舌」という言葉で表現しています。それは福音を伝える熱意と宣べ伝えるために与えられた言葉を象徴していると説明できるでしょう。
 教会は、使徒たちに与えられた聖霊の働きに生かされて2000年の歴史を歩んできました。復活の主イエスが弟子たちに与えた聖霊の力は、教会を生かし、今も私たちを動かし導いています。この力は科学技術や武力で動かせる力ではなく、イエス・キリストへの信仰を持つ者の祈りを通して、神と深く交わることによって、御心を行動に示す時に明らかにされてくる力なのです。
 今日、聖霊降臨日に、私たちはすべての教会、すべてのキリスト者が祈りによって心を一つにする事へと促されています。
 主イエスは主の御名によって集う私たちにも「聖霊を受けなさい」と言っておられます。主イエスの息吹を受け、「罪」と「死」から解き放たれている恵みを感謝し、日々新たに生かされて、神との新しい約束の中に日々歩んで参りましょう。
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2020年05月25日

大祭司イエスの祈り  ヨハネによる福音書第17章1−11  A年 復活節第7主日  2020.05.24

大祭司イエスの祈り ヨハネによる福音書第17章1−11  A年 復活節第7主日  2020.05.24
 
 今日は復活節第7主日(昇天後主日)です。教会暦では、先の木曜日が昇天日であり、今日はその直後の主日で、聖霊降臨日を前にした「待ち望みの主日」とも呼ばれています。
 今日の聖書日課福音書は、ヨハネによる福音書第17章1〜11節が取り上げられています。この箇所を含め、ヨハネによる福音書第17章全体は、主イエスの祈りの言葉で、「大祭司の祈り」と呼ばれています。
 ヨハネによる福音書の大きな流れの中では、主イエスは、十字架に架けられる前に晩に、弟子たちに長い「告別の言葉」を宣べておられます。そしてその後に、主イエスは天を仰いでこの長い祈りをささげ、弟子たちとの別れの晩の集いは終わります。
 ヨハネによる福音書第17章は次の言葉で始まります。
 「イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。」
 この祈り全体が「大祭司の祈り」と呼ばれるに相応しいことを考えるために、始めに「大祭司」ということについて触れておきたいと思います。
 「大祭司」は、エルサレム神殿の祭儀を行う祭司たちの長であり、神の前で人々思いを一つにして執り成して祈り、また、イスラエルの民の清めの儀式を行いました。神と民との間にあって、その仲立ちとなる役割を担う祭司の長が大祭司です。
 少し違う例で大祭司のことを考えてみましょう。
 私は、今から30年ほど7年間、立教小学校のチャプレンとして出向しておりました。その頃、春と秋の各シーズンに一度ほど、週末に家族で神宮球場に東京六大学野球の応援観戦に出かけました。そこで学生応援席の応援団を見ていると、彼らのリーダーがとても祭司性の強い働きをしていることを感じるようになりました。応援団のリーダーは、応援席にいる人々の思いを一つにまとめてグラウンドの選手たち声援を送り、その一方で、グラウンドでプレイする選手たちの結果を受け止めてスタンドにいる人々とそれを共有し、スタンドで応援する人々の思いをまたグラウンドの選手に送ります。応援団のリーダーはグラウンドの選手と応援席の人々の仲介者となり、相互に意思を通わせ合う働きを担っていると言うことが出来ます。
 この例のように、祭司は神と人々の間に立って、神の御心を人々に伝え、また人々の思いを一つにして神に祈り、神と人々の双方向の仲立ちとなる働きをしています。
 主イエスの生涯は、神とこの世の人々の間に立って、神の御心を人々に伝え、また私たちの代表となって私たちのために祈り、また、私たちの身代わりとなってご自身を十字架の上にお捧げになる生涯でした。ここに、主イエスの大祭司として働きが現れており、今、主イエスは、ご自身の十字架が迫ってくる時に、まさに大祭司として祈っておられます。しかも、大祭司主イエスは、毎年の過越祭で行われる儀式を繰り返す働きを担うのではなく、主イエスがご自身を献げて、救いのみ業を完成してくださる大祭司なのです。その大祭司主イエスが、天を仰いで祈りはじめておられます。
 主イエスは4節でこう祈っておられます。
 「わたしは、行なうようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。」
 主イエスは、神から託された働きをすべて成し遂げて、神の栄光をこの世にお示しになった、と言っておられます。このようにして私たちは大祭司主イエスを通して、神のお考えをはっきりと取り次いでいただきました。私たちは、この大祭司主イエスの働きによって、神の赦しを目に見える形にして教えられ、この救いを受け入れることができました。
 主イエスは自分を十字架の上に献げ、私たちの代わってご自身をお献げになり、私たちを生かしてくださいます。その十字架が目の前に迫ってくる中での主イエスの祈りです。この大祭司主イエスによって、私たちは神の愛をただ言葉で説明されるだけでなく、自分に与えられた恵みとして受けることが出来るようになりました。
 そのように大祭司の働きには、神から人々に神の愛を伝えてその宣言する働きがある一方、人々の思いを一つにして神に祈り届ける働きもあり、その双方向の神との交わりの間に祭司は働きます。
 主イエスは第17章9節で次のように言っておられます。
 「彼らのためにお願いします。」
 主イエスは、大祭司として私たちのために祈って下さいます。私たちの思い、願い、考えを神の許に取り次いでくださっています。
 私たちは誰もが神の御前には不完全であり、罪のある者で、完全な祈りを届けることはできません。そのような私たちのために、主イエスは神と私たちの間に立ち、私たちの言葉にならない思いも私たちに代わって神の前に「彼らのためにお願いします。」と祈ってくださっています。このことにより、私たちの祈りも主イエスの名によって祈ることで神の御前に届けられるのです。
 主イエスは11節でこう祈っていて下さいます。
 「聖なる父よ、わたしに与えてくださったみ名によって彼らを守ってください。わたしたちのように彼らもひとつとなるためです。」
 父なる神と主イエスが一つであるように、私たちも主イエスを仲立ちとして父なる神と一つとなることが出来ます。
 今日は、主イエスが天に昇った日(昇天日)の直後の主日です。
 教会暦では、私たちはこれまで主イエスの復活を祝う時を過ごしてきました。私たちは誰でも復活の主イエスと出会っていたいし、その喜びに包まれていたいと思います。でも、私たちの信仰生活は、必ずしもいつもこのような喜びを保ち続けられるわけではありません。私たちは、時には主イエスが見えなくなってしまったり、身近に感じられなくなることもあるのではないでしょうか。
 主イエスが天に昇ってそのお姿が見えなくなった時、弟子たちも救い主イエスを喪失する経験をしたと言えるでしょう。しかし、もし私たちが自分の目でしっかりとイエスを捕らえたと思うような経験をしたとしても、それはやがて過去のものとなり、そこにいつまでも拘っていては、その後の信仰の広がりや深まりは得られないのです。私たちは、絶えず「今、この時」の主イエスとの出会いを大切にしていかなければなりません。その意味で、私たちは、これまでの主イエスの出会いと導きの経験を大切にしながらも、過去の主イエスの姿にいつまでも留まることができないという一面があるのです。主イエスが甦って天に昇っていかれたということは、特定の場所や状況を越えてこの世界を祝福で包んでくださっていることを表しています。弟子たちは、その時代の目に見える主イエスと別れ、世界全体の救い主となり天から私たちを祝福していてくださる主イエスを信じて生きることへ、この救い主を宣べ伝えることへと促されていきます。
 私たちは、大祭司主イエスが天から祈っていてくださるその祝福に包まれて、主イエスの御名によって祈り、この世にあって神の御心を人々に示し、人々のために祈り、主イエス・キリストの証人として生かされて参りましょう。
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2020年05月17日

イエスにつながる  ヨハネによる福音書第15章1−8   A年 復活節第6主日   2020.05.17

イエスにつながる    ヨハネによる福音書第15章1−8   A年 復活節第6主日   2020.05.17

 復活節も六つめの主日となり、聖書日課の主題は、主イエスの復活を喜び祝うことから、この世の主イエスとの別れということに移ってきています。私たちは、復活の主イエスを確認しいつもその喜びに包まれていたいと思いますが、その一方で、私たちはそれぞれの信仰生活の中で、いつまでも自分の思い描くイメージの中だけで主イエスに留まっていたり捕らわれていたりすることから自由にされなければならないという一面もあるのです。
 今日の聖書日課福音書では、主イエスはご自分をぶどうの木にたとえ、また弟子たちに「あなた方はその枝です」と言って、主イエスにしっかりとつながっているように教えておられます。今日の聖書日課福音書の言葉は、主イエスが十字架に架けられる前の夜に、弟子たちに告げられた中の言葉であり、主イエスの「告別説教」と呼ばれる箇所の中にあります。
 間もなく弟子たちと別れる主イエスは、ヨハネによる福音書第15章4節で「私につながっていなさい。私もあなたがたにつながっている。」と言い、5節に「人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」と言っておられます。
 紀元80年代の後半から90年の頃、主イエスを救い主とする人々の群れは、大きな危機にありました。それというのは、主イエスの十字架の出来事から30数年たつ頃、当時イスラエルを占領していたローマとその支配下にあったユダヤとの対立は次第に激しくなり、ユダヤ教徒たちは紀元66年にローマに対して独立戦争を仕掛けました。しかし、ローマ軍の圧倒的な兵力で、紀元70年にエルサレムは陥落し、ユダヤ人たちは本拠地であり彼らの一致と団結のシンボルであったエルサレム神殿を失ってしまいました。
 このことはイスラエルの民にとって大きな打撃であり失望でした。彼らはエルサレムを占領された後、本拠地を現在のテルアビブの南20qほどの所にあるヤムニア(Jamnia)に移し、そこで会議を開きます。紀元90年のことであったとされています。神殿が崩壊する以前のイスラエルの民にとって、エルサレム神殿は、政治的にも宗教的にも社会的にも、彼らの一致と団結のシンボルでしたが、その神殿を失いエルサレムから散らされたユダヤ教の担い手たちは、民族存亡の危機の中で、自分たちがどのようにして一致と団結をはかり、民族として生き延びていくべきかを検討しました。その中心となる考えは、時や所を別にしていても、律法と聖書によって民族として一つであり続けようとしたことでした。この会議の中で、旧約聖書の聖典として現在の旧約聖書に当たる39書を制定したり、ユダヤ教の正統性や分派の異端性について審議をしたのでした。
 主イエスをキリスト(救い主)と信じて仰ぐ人々は、ごく初期には、ユダヤ教の大きな枠の中での一つのグループに見なされて、「ナザレ派」と呼ばれていました。「ナザレ派」にとってこのヤムニア会議は重大な会議になったのです。
 それまでユダヤ教の一派と見なされていたナザレ派が、正統なユダヤ教の一派ではなく、「異端」とされたのです。これ以降、ユダヤ教徒たちは礼拝の中で唱える祈りの言葉(18祈願)の中に「ナザレ派は呪われよ」と付け加えるようになっていったのです。
 更には、ナザレ派つまりキリスト者たちがユダヤ教から異端とされたことにより、ローマ帝国からも公認宗教の枠から外され、キリスト者の集まりは非合法宗教の集団とみなされ、ローマからもユダヤ教からも迫害を受ける対象になっていったのです。
 この状況は、ナザレ派の人々には危機的なことでした。ユダヤ教の側からもローマ帝国の側からも異端と見なされたキリスト者たちは、ユダヤ教の集会場であった各地の会堂(シナゴーグ)から追放される厳しい状況に追い込まれました。これによって、キリスト者の中には、「イエスがキリストである」と告白することをやめ、ユダヤ教徒に戻って波風たてずに過ごす方が無難であるという思いを持つ人も出てきました。中には迫害を恐れ、イエスを救い主とするナザレ派のグループからそっと離れていく人々も出てきていたのです。
 こうした状況の中で、主イエスの言葉が想起されます。主イエスさまが弟子たちに「私につながっていなさい」と言われた告別の言葉は、新たな意味と力を持つようになります。
 主イエスは言われます。「私につながっていなさい。私もあなたがたにつながっている。」
 特に今日の福音書の中では、「つながる」という言葉が7回使われ、「実を結ぶ」という言葉も6回使われています。それは、主イエスこそ私たちがそこにつながり留まるべきお方であり、そのことによって主なる神の御心を結実させなければならないことを強調しています。
 「ぶどうの木」や「ぶどう園」は、旧約聖書の中でもイスラエル民族をたとえて幾度も用いられていますが、今日の福音書の箇所では民族としてのイスラエルが真のぶどうの木なのではなく、主イエスこそ民族の枠を超えた真のぶどうの木であり、この主イエスにつながり、主イエスのもとに留まってこそ豊かに実を結ぶことが出来ると伝えています。
当時のキリスト者たちにとって、弾圧はローマからばかりではなくユダヤ教からも強まり、また、パレスチナ一帯がまさに荒れ果てたぶどう園の姿になる中で、福音記者ヨハネは主イエスこそ本当のぶどうの木であることを告げています。そしてこの主イエスにつながっている人々に対して「あなたがたは豊かに実を結ぶ」と伝えています。豊かに実を結ぶのは、民族や血筋によってではなく、主イエスのもとに留まり、主イエスを通して示された神の愛を受けることによってであることを福音記者ヨハネは主イエスの言葉によって伝えています。
 ナザレのイエスを自分の救い主であると告白する人々にとって、社会情勢が苦しくなっても、主イエスがまことのぶどうの木である事の真理は何ら変わりはしませんでした。
 主イエスの愛がこの世界に徹底して顕されたのが十字架の出来事でした。敵から迫害され命を奪われることになろうとも、主イエスは十字架の上から徹底した愛をこの世に示してくださいました。この愛によって生かされた人々は、たとえ自分たちが会堂から追い出され迫害を受けることになろうとも、主イエスにつながり留まって愛の実を結んでいくようにこの世界に召し出されていると考えたのです。そうであれば、イエスを救い主であると告白することで迫害を受けたりその重荷を背負うことは、主イエスの愛を貫くことの証しとなり、彼らはたとえ弾圧されたり迫害されても、自分を通して現される神の愛を喜ぶことさえ出来たのでしょう。
 それぞれの時代のその状況の中で、「私はぶどうの木」という主イエスの御言葉は受け止められ、「私につながっていなさい」という主イエスの教えが伝えられてきました。
 日本のキリスト教の歴史を振り返ってみても。例えば江戸時代のキリシタン弾圧の頃、また第二次世界大戦下にキリスト教が異国、敵国の宗教として弾圧された時代などにも、真のぶどうの木である主イエスにつながり続けた多くの人によって信仰は継承され、多くの実を結んでいます。
 私たちも、主イエスを真のぶどうの木であると信仰を告白し証して生きております。私たちは、主イエスという幹に連なり、たとえ幹からはどれほどに遠い枝の先であっても、主イエスから、皆が同じ愛の養分を受けて養われている自覚を新たに致しましょう。主イエスの枝である私たちは、真のぶどうの木である主イエスにしっかりとつながり、共に主イエスの愛によって育てられて参りましょう。主イエスの御名によって祈り、主イエスにしっかりと連なり、その御言葉と御糧による養いを受けて生かされることこそ、この世に対する証となります。
 真のぶどうの木である主イエスにつながり、その愛に養われ、豊かに実を結ばせていただくことができますように。
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