2017年06月20日

12弟子の選び  マタイによる福音書9:35〜10:8  聖霊降臨後第2主日

「12弟子の選び」
マタイによる福音書第9章35節〜第10章8節 聖霊降臨後第2主日(特定6) 2017.06.18
 
 今日の聖書日課の福音書は、主イエスさまが十二人の弟子を選び派遣する箇所が取り上げられています。
 主イエスが、実際にご自分の弟子を12人に限定したかどうかは定かではありません。むしろ、もう少し時代が降り、このように福音書がまとめて文章化されるようになる頃に、弟子集団の中にある特別な自己認識が生まれてたことに関係して、「イエスの12弟子」と言う考え方が形成されてきたと考えることができます。
 その自己認識とは、イエスの弟子集団を「新しいイスラエル」と考えることです。それでは、「新しいイスラエル」とは何を意味するのでしょう。
 イスラエルとは、ユダヤの父祖ヤコブに神が与えた名前です。旧約聖書創世記の中にヤコブがイスラエルという名を与えられた物語があります。今、その物語を詳しく振り返るだけの余裕はありませんが、アブラハムの息子がイサク、そしてイサクには双子の兄弟エサウとヤコブが生まれていることを思い起こしておきましょう。そして、ヤコブは本来は家督を受け継ぐはずであった長子のエサウからその権利を譲り受け、ある時このヤコブが神と格闘してイスラエルという名を与えられたことを押さえておきたいと思います。
 そのヤコブ(イスラエル)には、12人の子供が与えられています。その名は、ルベン、シメオン、レビ、ユダ、セブルン、イサカル、ガド、ダン、アセル、ナフタリ、ベニヤミン、そしてヨセフです。この12人がイスラエル十二部族の名になっていくいわゆるイスラエルの十二部族の起源神話です。イスラエルとはこの十二部族の連合体を示す名前でした。
 イスラエルの民には、自分たちは「神に選ばれた民」、「神の民」であるという強い自覚と自尊心がありました。その自覚と自尊心は、イスラエルの民がかつてエジプトで奴隷であったときに、主なる神が弱く小さな奴隷の民の呻きをお聞きになり深い憐れみを寄せてくださり、その民をエジプトから救い出してくださったという自己理解から生まれたものでした。しかし、時代と共にその自己理解は次第に選民意識へと変わっていきます。自分たちは神から選ばれてその救いの中にあるという自覚は、次第に他民族や他国の人々を差別するようになります。また、同じイスラエルの民の間でも選んでくださった神と選ばれた民との約束である律法を守れない者は救いに相応しくない者とされ、同じ民の中でも差別され弾圧され迫害を受けるようになっていきました。
 主イエスは、そのようにして制度化し硬直化した当時のユダヤ教から除け者にされたり落ちこぼれたりした人たちが自分を失いまるで生きる価値さえ奪われたかのような人々を深く憐み、その人たちにこそ神の愛はもたらされなければならないとお考えになったのです。そして、枕するとこともなくお働きになりました。そのような中で、主イエスは、「収穫は多いが、働き手が少ない。」と言って12人の弟子を呼び寄せられたのでした。
 つまり、12人とは旧約聖書に基づく民族として神に選ばれたイスラエルに替わって、神の御心をこの世に現わすために新しく神の選びを受けた者の集まりという意味が込められ、その意味で十二弟子とその弟子を中心として主イエスの御心を行う人の群れを「新しいイスラエル」という考えが生まれてきます。 それでは、この十二弟子を中心とした「新しいイスラエル」の民であることの資格や条件があるとしたら、それは何でしょうか。
 それは、今日の使徒書の中にも記されているように、わたしたちは神に愛されている者だと言う信仰以外の何ものでもなく、神の恵みを受け入れそれに応答していこうとする者であるかどうかによるのです。
 主イエスが呼び寄せた12人を眺めてみると、ある意味、みな取るに足りない人たちです。それに、ある意味、みなはみ出し者たちです。例えば、熱心党のシモンは神の国の実現のためなら武力をも用いようとする立場にあり、いわばユダヤ国粋主義者でした。その一方、徴税人マタイは当時のユダヤを支配するローマ帝国の手先となってイスラエルの民から税を徴収する者でした。こうした人が主イエスに召し出され、神の愛を人々にもたらす者へと変えられていったのです。また、ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネたちはガリラヤ湖で魚をとる漁師であり、家族を置いてイエスについていった変わり者と思われていたかもしれません。この12人中にはユダヤ教の律法や祭儀の専門家など一人もいませんでし、多くの弟子たちがガリラヤの出身です。首都であり聖地と呼ばれたエルサレムからみれば田舎者と呼ばれる人たちでした。これがいわば「新しいイスラエル」の始まりなのです。
 彼らが主イエスに召し出されたとき、もし熱心党のシモンや徴税人マタイがイエスを利用して自分の主義や主張を広めたり押し通そうとしていたら、弟子集団は「新しいイスラエル」として一致することはなかったでしょう。
 今日の福音書マタイ9:36にあるように、弟子たちが召し出されて遣わされていくことの根底には、飼い主のいない羊のように弱り果て打ちひしがれている人々を深く憐れんでその人たちのために神の御心を示さないわけにはいかない主イエスの思いがあり、そのイエスの深い憐れみによって救われ、癒やされ、自分を取り戻して生きるようになった者の集まりが「新しいイスラエル」になっていくのです。
 私たちも、一人ひとりが召し出された背景があり、その背景は実にさまざまです。でも、その私たちが、打ちひしがれた人々に深い憐れみを寄せその人々の命を回復してくださった主イエスからの深い憐れみを受けて、召し出されたことは誰もが共通しています。そして、それぞれに違う生活の背景を持ちながらも、「イエスは、わたしにとって救い主です」という信仰を持つことにおいては同じなのです。「新しいイスラエル」は、主イエスによって示された神の愛によって一致するのであり、その他のことが中心に立つのではないことを私たちも心に留めておきたいと思います。
 初代教会の指導者であり宣教者であったパウロは、元ユダヤ教ファリサイ派の熱心な人であり、律法から外れた人々の集まりであるクリスチャンたちを迫害していました。しかし、やがて幻でキリストと出会い、回心して、イエスを救い主と告白して、主イエスに示された神の愛を熱心に伝える人になっていきました。
 そのパウロが、コリントの信徒への手紙T第1章26節以下で次のように言っています。
 あなた方が召されたときに、神は能力のある者や家柄の良い者を選んだわけではなく、むしろ世の無学な者、無力な者、身分の卑しい者や見下げられている者をお選びになったのであり、それは、誰一人神の前で自分を誇ることがないようにするため、と言ってます。
 私たちも、主イエスによって選び出されこうして生かされていることを誇りたいと思います。そして、神の国の収穫のために例え小さくても自分の働きをもって主に仕える者でありたいと思います。そのために、私たちは今日の福音書から、12人を呼び寄せられた主イエスさまの言葉と行いを思い巡らせ、「新しいイスラエル(神の愛による信仰の共同体)」をつくられた主の働きに私たちも与り、その喜びを誇る者として養われ導かれる信仰生活を歩ませていただきましょう。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 05:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月15日

ガリラヤから世界へ  マタイによる福音書28:16−20 三位一体主日

ガリラヤから世界へ
マタイによる福音書28:16−20 三位一体主日聖霊降臨後第1主日    2017.06.11
 
 今日の福音書は、マタイによる福音書の最後の部分が取り上げられています。
 甦った主イエスは、おそらくガリラヤ湖を見下ろす山で、弟子たちに最後の言葉を残しました。その場所は、主イエスが宣教のはじめの頃、いわゆる「山上の説教」をなさった所と同じ場所ではなかっただろうか、などと想像してみるのも楽しいことです。
 19節、20節をもう一度読んでみましょう。「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
 マタイによる福音書のこの最後の部分は、主イエスの「大宣教命令」の箇所と呼ばれています。甦った主イエスは、度々弟子たちにお姿を現しましたが、天に昇っていこうとしておられます。弟子たちはもう目で見て直に主イエスにお会いすることはなくなります。その前に主イエスが弟子たちにお話しになった言葉がこの「だい宣教命令」のみ言葉であり、いわば主イエスのお別れの言葉(マタイによる福音書における主イエスの遺言)と言えます。
 この言葉が語られたのは、ガリラヤ地方の山でした。主イエスが十字架にお架かりになったのは首都エルサレムであり、「イエスは甦った」という噂もエルサレムから広まりましたが、主イエスの宣教命令、つまり弟子たちを派遣する言葉は、ガリラヤ地方で起こりました。
 ガリラヤ地方は、エルサレムから100q近く離れており、周辺や輪を意味するガーリールという言葉からガリラヤという言葉が生まれたとも考えられ、ガリラヤは辺鄙なところ、辺境の地とも呼ばれていたようです。
 主イエスが弟子たちに最後の宣教命令をお伝えになったのが、首都エルサレムではなく、そのようなガリラヤ地方からであったのは何故なのでしょう。そのことを考えるために、マタイによる福音書28章の少し前の部分を見てみましょう。
 主イエスの復活の場面で、イエスの遺体に香油を塗りに行こうとした女性たちは、第28章7節にあるように、天使にこう告げられています。
 急いで行って弟子たちにこう告げなさい。「あの方は死者の中から復活された。」そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。
 また、第28章9節では主イエスご自身が婦人たちにこう言っておられます。
 「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしは会うことになる。」
 このように、マタイによる福音書は、弟子たちが甦った主イエスとお会いする場所はガリラヤであることを伝えています。主イエスと弟子たちにとって、主イエスが宣教の初めに山の上で弟子たちを始め多くの人に教えを説かれたのはガリラヤでした。ペトロとアンデレ、ヨハネとヤコブ、それに徴税人マタイなどの多くの弟子が主イエスに出会い、召し出されたのもガリラヤ湖の畔でした。彼らはかつてガリラヤで主イエスと出会い、自分を捨てて主イエスに従い、主イエスと全てを共にして来たのでした。主イエスのガリラヤ地方での慰めと励ましに満ちた言葉、癒しの業、神の国の現れ、その一方で、エルサレムでの祭司長、長老、学者たちからの非難や迫害とその果ての十字架の死。弟子たちにとってこれら全てのことの始まりがガリラヤであり、弟子たちは主イエスと共に過ごした全ての始まりがガリラヤであり、ガリラヤは彼らの生活の真っ直中であり、主イエスとでの出会いの場、また、信仰の原点でもあったのです。
 弟子たちは、イエスの十字架の死と復活の後、ガリラヤに戻り、ガリラヤで主イエスに再びお会いし、これからどう生きるべきなのかを示されました。そして、主イエスは、ガリラヤで大宣教命令をお与えになられたのです。そして主イエスは、弟子たちの目に見える存在ではなくなるのです。
 そのような状況で、弟子たちは初めて主イエスと出会いイエスにとっても宣教の始まりの場であった所から、宣教は世界に向かって新たな段階に入るのです。弟子たちは信仰の原点であるガリラヤで甦りの主イエスとお会いし、その主イエスに促されて、自分たちもまた主イエスのように生き、主イエスのことを宣べ伝えて御心に適う生き方をすることへと歩み出すのです。主イエスはそのように生きる者と世の終わりまで共にいてくださると約束して下さいました。
 主イエスは「わたしは世の終わりまで、あなたがたと共にいるのである」と言っておられます。
 弟子たちは、主イエスが本当に神の子であり、自分だけにでなく世界の人々にとっての救い主である事を確信しまし、突き動かされるように主イエスを宣べ伝え始めます。誰でも、主イエスに出会って生かされた者であれば、その主イエスを人々に知らせることへと突き動かされるのです。今日の福音書の箇所は主イエスの「大宣教命令」と呼ばれていると申し上げましたが、この言葉は主イエスの命令であると同時に、弟子たちが主イエスから自分を突き動かされるほどに宣教への促しを受けたことを証している箇所だと言えるでしょう。
 教会暦に目を向けてみましょう。私たちは、降臨節に始まる教会暦を、主イエスの降誕、洗礼、公生涯、十字架の死、復活、そして聖霊降臨の時を過ごしてきました。これまでの半年を通して、主イエスがこの世界に示して下さった神の国が私たちにももたらされていることを確認して来ました。教会暦の中で、私たちは聖書の言葉や聖餐を通して主イエスに出会い養われ導かれてきました。
 主イエスによってもたらされた神の国の姿に照らして今のこの世界を見る時、私たちは神の御心とこの世界との間には大きな隔たりがあることを認めないわけにはいかないでしょう。でも、主イエスが神と私たちの間に立って私たちを執り成し、神と私たちとの間に和解の道を開き私たちを救い出して下さったように、私たちも自分の信仰の原点をしっかり見据えて、私たちがこの世界に主イエスを宣べ伝えるために遣わされていくのです。世界が神への感謝と賛美に満たされる日を思って、私たちはこうして共に主の食卓の前に招かれ、感謝の礼拝を神に献げ、それぞれの生活の場へと宣教のために遣わされるていく者の集まりです。私たちも主イエスの大宣教命令を受けてこの世界に派遣されていく者です。私たちもその前提として自分が主イエスと出会い生かされた原点に立ち戻るのです。ガリラヤとはそのように主の働き人が召し出された場であり、信仰生活の原点を表しているのです。
 既に主イエスと出会い、その喜びを知っている人々の集まりである教会は、神さまのみ業に加わらせていただき、感謝の内に世界中の人々を主イエスの弟子にする働きを担うのです。
 教会暦ではこれからの約半年間を「聖霊降臨後の節」として過ごします。世の終わりまで共にいて下さる主イエスに導かれ、私たちの思いや考えを遙かに超えて私たちを励まし支えて下さる聖霊によって力付けられ、この世界にみ国が来ることを祈りつつ、私たちも宣教の歩みを踏み出して参りましょう。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 05:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月09日

6月誕生児祝福礼拝 ぼくらは産まれて良かったよ

今日は、6月生まれのお友だちのお誕生会の日です。
 この礼拝が終わって、ホールで祝会をしますが、私たちはいつも祝会の最後に『夢若葉』の歌をうたっています。この歌が大好きなお友だちもたくさんいますね。この歌は、同じ言葉が繰り返されています。 
 「ぼくらは生まれて よかったよ
  ぼくらを産んでくれて ありがとう」 
 私たちが、この歌を喜びと共に歌えることは、とても幸せなことです。なぜなら、喜ぶと共にこのように言えるのは、生きているのが嬉しくて、楽しいからで、本当に「ありがとう!」という思いで歌えるからです。
 誰にでも、うまれたばかりで、まだそのようなことを考えられない時期がありました。でも、そのような時期にも、いや、そのような時期にこそ、みんなのお母さんはみんなに優しい気持ちで、優しい言葉で関わってくださり、おっぱいを与え、オムツを取り替え、たくさん言葉をかけ、気持ちよく揺すってくださいました。おっぱいだけでなく、みんなが初めてスプーンで食べさせてもらった時など、赤ちゃんの時はまだ自分で上手に口の中に入れられないから、口の周りに食べ物がベタベタになってしまいますが、それでもお母さんは赤ちゃんだったみんなに優しい声で、優しい言葉をかけてくださり、みんなはいつの間にが上手に食べられるようになり、お話ができるようになり、スプーンやお箸も使えるようになってきました。
 みんなを育てたお母さんは、うまれたときから大人だったのですか?違いますね。やっぱり赤ちゃんの時があって、赤ちゃんだったお母さんを育てたのは誰ですか?おばあちゃんですね、そのおばあちゃんにも赤ちゃんの時があって、その人を育てたのはひおばあちゃん、その人が赤ちゃんの時に育てた人がいて・・・と、ずっと命のつながりがあります。その間に、戦争があったり、まだまだ良い薬がなかったりお医者さんもいない時代もありました。そのような時代にもいつも命を大切に育てることで命をつないでみんなが生まれて来ました。そして、今生きていることを「ありがとう!」と思えて、神さま、私たちに命を与えてくださってありがとう!」と言えるのです。
 それぞれの人のお誕生を感謝してお祝いしましょう。
(2017年6月9日)
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 23:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 幼稚園礼拝の聖話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする