2017年09月04日

主イエス、ペトロを叱る  マタイによる福音書16:15−20   聖霊降臨後第13主日(特定17)

主イエス、ペトロを叱る
マタイによる福音書16:15−20  聖霊降臨後第13主日(特定17) 2017.09.03

 今日の聖書日課福音書を含むマタイによる福音書の第16章は、この福音書全体の中で一つの大きな節目になっている箇所です。マタイによる福音書全体を見渡してみると、福音書前半部には主イエスがガリラヤ地方でなさったたくさんの奇跡、癒し、教えが沢山記されています。その主イエスは、ある意味で華々しくもありました。多くの人々がそのイエスに感動し、それぞれに自分たちの夢や希望をイエスに託し、多くの人がこのイエスこそ自分たちの夢を実現してくれるお方であると信じました。先主日の聖書日課福音書の中で弟子のペトロが主イエスのことを「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰を告白していますが、もしかしたらペトロの心の内を深く訪ねれば、例えばペトロはこのイエスによって自分の立身出世の夢を果たしていただけるとか権力を握れるというような思いに発する信仰告白であり、ペトロ自身もまだそのことに気づかない中での信仰告白であったかもしれません。
 それでも主イエスは、ペトロの信仰告白を受け止めて祝され、「あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」とまで言っておられます。主イエスはペトロが公に信仰告白することを祝福しておられるのです。そして、主イエスは、イエスをメシア(救い主)と信じてその信仰を告白するところに教会を建て、信仰告白を共にする共同体を現すのは天の父のなさる業であると祝し教えてくださいました。
 その脈絡から今日の聖書日課福音書に目を向けると、この箇所は主イエスがペトロを始めとする弟子たちの信仰を更にもう一歩先の次元へとお導きになろうとしておられる箇所と捉えることができるでしょう。
 今日の福音書の箇所は、「そのときから、イエスは、・・・・・・し始められた」という言葉で始まっていますが、この言葉はマタイによる福音書における大きな段落を始める「編集句」なのです。参考にマタイによる福音書第4章17節を開いてみてください。こちらも同じ言葉で段落が始まりますが、こちらは主イエスがガリラヤでの宣教活動を始める段落の始まりと位置づけられます。そして、今日の箇所はペトロが告白しているメシア(救い主)がどのような意味でのメシアであるのかを示し始める箇所、つまり、ご自身の受難と死を通して信じる者に天の国を与えてくださるメシアであることを身をもってお示しになる段落の始まりを示す言葉として位置づけられます。
 先ほども触れたとおり、先主日の福音書の中で、ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰告白をしました。その告白を祝されたペトロがその直後に(今日の福音書の箇所で)、主イエスから「サタン、引き下がれ」とまで言われて叱られています。わたしたちはペトロの信仰告白とペトロがこのように叱責されることをどう捉えればよいのでしょう。
 ペトロの信仰告白は意味のないことになってしまったのでしょうか。主イエスさまはペトロやほかの弟子たちを否定して叱りつけているのでしょうか。
 そうではありません。そうではなく、むしろペトロとペトロに代表される信仰告白をする者の集まりが主イエスにとって叱るに値するからこそ、そして叱らなければならないからこそ、主イエスは叱っておられるのです。
 今日の福音書の中で、ペトロは、主イエスの受難予告の意味を理解できず、受難を予告する主イエスに「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と言いました。これに対して主イエスは振り向いてペトロにこういわれたのです。「サタン、引き下がれ」。
 皆さんはこの言葉から、主イエスが宣教を始める前に荒れ野で悪魔の試みに合われた時のことを連想しないでしょうか。今日の福音書の中では、ペトロが受難予告をするイエスに心を痛めイエスを案じつつ真剣にイエスに向かって話しかけています。でも主イエスは、そのようなペトロの中にさえサタンの働きを見抜いたのです。主イエスは、宣教の始めに40日間断食して荒れ野で悪魔の誘惑を退けたましたが、あの時の悪魔の誘いと同じ誘惑をペトロの言動の中に見抜かれたのです。主イエスの視点から見えてくるのは、ペトロの中にある「神のことを思わず、人間のことを思っている」姿だったのでしょう。
 ただ、ここで注意しておきたいことがあります。それは、ここで主イエスがペトロの人間性や人格まで否定してペトロのことをサタン呼ばわりしているのではない、と言うことです。それは、日本語には訳されていないのですが、原文のこの箇所 「ヒュパゲ オピソー ムー」 を直訳すれば、「わたしの後ろに下がれ」ということであり、英語訳でも Get behind me. となっているのです。つまり、ペトロに向けたイエスの言葉には「わたしの後に」という語がしっかりと入っているのです。更に、この「わたしの後に」という言葉は、このすぐ後の24節で「わたしについて来たい者は」という中にもあり、その部分を直訳すれば「わたしの後から来ることを望む者は」と訳せます。つまり、この箇所で主イエスは、ペトロがこれからも主イエスの御跡を歩むこを前提にしてお叱りになっているのであり、荒れ野でサタンに 「ヒュパゲ サタナ(サタン、引き下がれ)」 と宣言したこととは全く違う意味を含んでいるのです。
 そうであれば、ペトロにとってまたペトロに代表される信仰告白をする群れに連なる私たちにとって、主イエスに叱られることは、どのような意味を持つのでしょうか。
 主イエスさまは、ペトロを叱ったすぐ後で、弟子たちにこういっておられます。
 「わたしについて来たい者は自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」
 主イエスは、自分の負うべき自分の十字架を負って信仰の歩みを正しく歩めるように、御心とは違うことへと向かいそうになるときに、つまり「罪」に引き込まれそうになる時に、主イエスはお叱りになるのです。聖書の世界での「罪」とは、私たちの生き方が神の御心から離れていたり、神に与えられたかけがえのない自分が自分として生きていない姿を言うのです。人は弱く、神の御心とは何かを考えているようでようでありながらも、この時のペトロのように自分のことしか考えられず、時に傲慢になり、不遜になり、虚栄を張り、あるいは卑屈になり、サタンの誘惑に引き込まれ易いのです。そのようなわたしたちは、主イエスから「サタン、退け。わたしの後から従ってきなさい」と罪から引き戻され、新たに導きを受けながら歩んで行く必要があるのです。
 ペトロは、主イエスさまに叱責されていますが、視点を変えてみれば、ペトロは何と幸いな人であろうかと思います。ペトロはそれほどに主イエスに導きを受けているのです。主イエスは、ペトロがサタンの誘惑と支配とに負けないように、ペトロを叱り、我が身を振り返らせています。そのようにして神の御心を求めて生きるように、主イエスはペトロに関わり、育くむのです。そして、この主イエスの愛は、今、ここで私たちにも注がれています。
 ヘブライ人への手紙第12章5、6節に次のような言葉があります。 
 「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。
 主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。
 なぜなら、主は愛する者を鍛え、
 子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」
 主イエスは、私たちを導き、絶えず私たちをありのままの本当の自分となるように導き返し、その自分が神とつながって自分の背負うべき自分自身を背負って主イエスについてくるように、絶えず私たちを招き続けていてくださいます。
 そのようなそれぞれの信仰の歩みの中で、主イエスは時に「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」と私たちを招き、また時に「サタン、引き下って、自分の重荷を背負ってわたしについてきなさい」と厳しい言葉で軌道修正させ、私たちを天の国へと伴ってくださるのです。主なる神の大きな御手の中で、主イエスによって絶えず信仰を新たにする導きを受ける者でありたいと思います。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 06:24| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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