2017年09月11日

私たちの教会   マタイによる福音書18:15−20   2017.09.10 による福音書

私たちの教会
マタイによる福音書18:15−20
聖霊降臨後第16主日(特定18) 2017.09.10

 今日の聖書日課福音書を読んでいると、私はある一つのことに引っかかりました。それは、今日の福音書の最初に部分にある「兄弟があなたに対して罪を犯したら・・・」と言う言葉です。
 この部分を読んで引っかかりを覚えたのは、私たちは神に対して罪を犯すのであり、他の人に対して罪を犯すということがあるのだろうか、ということです。ギリシャ語の聖書を見てみても、また、2,3の英語訳の聖書を見てみても、多くの場合、この箇所は「あなたの兄弟が罪を犯したら」と訳しており、なぜ『聖書−新共同訳−』は、この箇所を「兄弟があなたに対して罪を犯したら・・・」と訳したのか疑問が湧きました。
 今日の説教は少々理屈っぽくなりますが、ご容赦いただきたいと思います。
 例えば、私が誰か信徒を裏切ってしまった場合、それは誰かに対して罪を犯すと言うことではなく、私はその様な裏切りや負い目となる行いをすることによって、神に対して罪を犯したということなのではないでしょうか。「罪を犯す」ということは、神との関係におけることだと思えるのです。逆に考えて、私が誰かに裏切られたりだまされたりしたとします。それは誰かが私に対して罪を犯すと言うことではなく、その様な行為によって神に対して罪を犯すということではないかと思えるのです。もともと「罪」とは「的を外す」という意味で、それは人間に対することではなく、神との間で私たちが御心から外れてしまうことを意味するのですから、今日の聖書日課福音書にある「誰かに罪を犯す」という訳し方に私は違和感を覚えるのです。
 さて、それにもかかわらず「兄弟があなたに対して罪を犯したら・・・」と訳すことが可能であるとすれば、そのように訳す何か特別な意図があるはずです。
 私は、それは、マタイによる福音書がまとめられた当時の、状況に関係するのではないかと思うのです。特に、イエスを救い主と考える信仰者の群れの中に、教会(エクレーシア)についての特別な思い−自己認識−が生まれて来たことに因るのではないかと思われます。
 イスラエルの民は、旧約時代から自分たちを神に選ばれた特別な民族であると考えていました。ところが、起源70年、主イエスが十字架に死んでから40年ほど経ったとき、イスラエルはローマ軍によってエルサレムを占領され、神殿を徹底的に破壊され、国を失ってしまいます。その時代を経て、イエスを救い主と信じる人々は、ただ生まれながらのイスラエル民族として救われるというのではなく、自分たちは主イエスを救い主として受け入れその信仰によって集められた群れであり、イエスが自分たちを民族を越えて救いへと招いて下さった、という認識を深めていったのでした。
 教会は、イスラエルの民族主義に基づいたユダヤ教から離れ、イエスを救い主として信仰告白する「新しい群れ−エクレシア」をつくり、その群れは成長し、また教会としての制度が次第に出来てくるようになります。そして、その群れを治めるのは主イエスであれば、教会に集う人々は皆等しく主イエスによって愛され、平等であり、このイエスの愛に基づく人間としての価値に優劣はないと言う認識が強まってくるのです。
 教会は、そのような信仰者の集まりであり、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、主イエスもその中にいる。」という考えを深め、この信仰を持つ者は、民族の枠を越えて受け入れられます。そして、逆に主の御名によって集まる者として相応しくない行いは、主イエスに対して罪を犯すことになり、教会に対して罪を犯すことになると考えられるようになっていったのではないでしょうか。
 マタイがこの福音書をまとめる時、「人々が主イエスの名によって集まるところには主イエスご自身もそこにおられる」という信仰が生まれてきました。当時の教会が、既に地上の生涯を終えて半世紀近く経った主イエスを自分たちの救い主であるとする強い信仰を持っていたことを伺うことができます。そして、信仰者の集まりである教会の人々に対して何か御心に適わないことをすることは、その人々の中にいる主イエスに対して罪を犯すことになると考えたのです。
 このような時代の状況を背景にして、今日の福音書は、ひとたび教会のメンバーとして主イエスに招かれ受け入れられた人が、神の御心を傷つけたり御心に相応しくない行いをした時にどうすべきかを教えているのです。
 このように理解すると、今日の福音書は、私たちの教会のあり方についても極めて根本的かつ具体的な課題を投げかけていることが分かります。
 その中で、特に今日は二つのことに思いを向けてみましょう。
 一つは、私たちの教会が主イエスに共にいていただくのに相応しく、主の御名によって生きているか、と言うことです。
 私たちの教会は、今日の福音の御言葉に照らし、主イエスが私たちの中にいてくださるのに相応しく祈り、また御心を行うように努めているでしょうか。冒頭に触れたとおり、教会はエクレシア(主イエスに召し出された者の集まり)です。私たちを招いてくださったお方は、主イエスご自身です。それにもかかわらず、もし私たちが主イエスの御心を祈り求めることを忘れたり、私たちの集まりが主イエスの名によって成り立つものであることを忘れれば、教会はこの世の趣味や楽しみのサークルとの区別は無くなり、教会の存在理由は失っわれてしまいます。他でもない私が主イエスに見つけ出されてその交わりの中に加えられたことを覚え、自分自身が先ず主イエスの名によって御心を行うために生きようとすることによって、教会は教会として成長していくのです。主イエスはその様に生きる人と共にいて下さることを約束して下さいました。私たちは主イエスが共にいて下さる喜びに生かされている者であることを、改めて今日の聖書日課福音書を通して確認したいのです。
 そして、今日の福音書から導きを受けるもう一つは、クリスチャンは、初代教会の時代から、教会から迷い出た者をどのように再び教会に迎え入れるべきかを、真剣に考えてきた、ということです。今日の福音書の中にも「罪を犯す」という言葉が出てきますが、この言葉は、先程も触れたとおり、この世の倫理に反することをしたとか法律に触れることをしたと言うことを意味するのではなく、神の御心から離れてしまっていることを意味します。初代教会の人たちは、自分たちが主イエスの名によって祈り御心を行っていく共同体をつくり上げ、この祈りの共同体は主イエスの体であると自己認識しました。そうであるからこそ、初代のクリスチャンは人々が主イエスの体である教会から離れることを「罪」と理解したのでしょう。そして、そこから迷い出た人々を捜し出すことを自分たちの責任とし、失われた人が見つけ出されることに喜びを感じたのではないでしょうか。
 17節には「教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人や罪人と同様に見なしなさい。」と言う言葉があります。この言葉は、その様な人を切り捨てて交わりを絶ち切れという意味ではなく、これまで神を知らなかった人々と同じように考えて、彼らを主イエスの愛をもたらす対象であると捕らえるように教えたのです。
 このように二つのことを採り上げて考えてみても、マタイが示した教会が主イエスに生かされてイエス・キリストの体を創り上げていくことにいかに熱心であったかを思い描くことが出来るでしょう。私たちは教会のその様な長い歴史の中に生かされています。私たちも主の御心を尋ね求めて祈り、この教会を主イエスの体として創り上げていく務めに与りましょう。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 15:27| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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