2018年01月01日

「静かに夜露の降る如く」 ヨハネによる福音書第1章1−14 2017.12.31

「静かに夜露の降る如く」
ヨハネによる福音書第1章1−14 降誕後第一主日       2017.12.31

  今日は、降誕日の直後の主日です。改めて主イエス・キリストのご降誕を静かに思い巡らせてみたいと思います。
 ローマ皇帝アウグストゥスから出た住民登録の勅令のために、人々は自分の生まれ故郷に帰る旅を急いでいます。強いられた旅をする人々が行き交うユダヤの町は、どこもごった返していました。とりわけダビデ家の由緒ある町であったベツレヘムは、住民登録をするために戻って来た人々で溢れかえっていました。人々は、我先に宿を確保しようとして高ぶり、町はいつになく騒がしい姿になっていました。
 臨月を迎えたマリアを連れて旅するヨセフがやっとベツレヘムに着いた頃、町の中には彼らが宿を取る余地はなく、彼らが町からはじき出されるように、体を休めるために見つけた場所は町外れの家畜小屋だったのです。この家畜小屋とは、旅する人がロバやラクダをつないでおくための洞窟のようはところであったと考えられています。
 マリアは、このような場所で子を産み、その子は温かな産湯も産着もないまま、あり合わせの布にくるまれて飼い葉桶の中に寝かされたのでした。
 時々、動物たちの鼻息が聞こえる動物小屋に、幼子の産声が響いた様子が想像されます。そこには、街中のざわめきとは対照的な静けさがありました。
 そして、救い主誕生の知らせを真っ先に受けたのも、住民登録の人々でごった返す町の喧噪から離れた野原の羊飼いだったのです。
 このように最初のクリスマスの日を思い巡らせていると、私は、もし現代にキリストがお生まれになら、このお方のご降誕に気がつくのだろうかと思います。
 もし現代に救い主がお生まれになるのなら、それは今から2000年前のあの日と同じように、力や華やかさや騒がしさに隠されて、私たちに気付き難く見え難い所であり、そのメッセージが届けられるのも、あの時が羊飼いたちの所であったように、町の喧噪から離れた辺境の場所、今の世の動きから弾き出された人や悩みや困難の中にある人に対してなのではないか、と思うのです。
 そして、私はその良い知らせを受けることが出来るのだろうか、などと考えてしまいます。
 このことは単に都会と田舎という事ではなく、私たち一人ひとりの心の中の事として考えてみる必要のあることなのではないでしょうか。
 このようなことを思い巡らしていると、昔のある出来事を思い出しました。
 かつて、私が経験したある音楽会での事です。その音楽会の観客席には多くの子どもも集まっていました。もう演奏が始まろうというのに、会場はいつまでもざわついています。わたしはこの会場の子どもたちが演奏者に心を向けないでいるマナーの悪さにいらいらし始め、また演奏者のことを思うと少々はらはらしておりました。
 その時、演奏者は静かにこう言ったのです。
「わたしたちは、沈黙の緊張感の上に立って演奏したいと思いますので、演奏中はぜひ静かにしていただきたいと思います。」
 わたしは本当にそうだと思いました。このことは、音楽だけではなくこうした礼拝でも、またキリスト降誕を受け入れる心についても言えることだと思いました。その時から「沈黙の緊張感」という言葉は、私の中での大切な言葉になっています。私は、キリストの降誕についても、こうした「沈黙の緊張感」の中で思い巡らせ、受け容れるべきことではないかと考えます。
 この「沈黙の緊張感」を汚れの無い白い紙に例えれば、書道や墨絵もこれと共通していることがよく分かります。紙の白さの上に現れ出た墨の色合いは紙の白さと対比して浮かび上がります。もし紙が汚れていては、書家は筆を手にしても、それを動かそうという意欲が引き出されないし、仮に書いたとしても作品の美しさは紙の汚れに邪魔されるでしょう。音楽の場合も、沈黙の静けさとその緊張感を必要とします。演奏者は、沈黙の緊張感によって引き出されてくる演奏への思いを表現し、それが聴く人は自分の心の深いところにその演奏を共鳴させるからこそ、演奏者と聴衆の間に一体感が生まれるのです。この大切な沈黙が損なわれてしまっているところで演奏のであれば、演奏する人の意欲がどうなるのか、私のような凡人でも少しは分かる気がします。
神さまからの救いのメッセージも、馬小屋の深い静けさの中で、弱く小さな姿をとってこの世に与えられました。日本の古語に「かそけし」ということばがありますが、救い主はまさにかそけき姿をとってこの世界に届けられました。神は、人々を威圧するのでもなく屈服させるわけでもなく、静かに夜露の降る如くに、そっとこの世界に救いのメッセージを届けて下さったのです。
 このメッセージを聴きとることができたのは誰だったでしょう。この恵みにあずかったのはどのような人々だったでしょう。
 それは、ローマ皇帝による住民登録の対象にさえならない無法者である、羊飼いたちでした。おそらく彼らはその日も、夜の静けさの中で、自分の生きざまと自分の心の深みとに届けられるメッセージと出会わざるを得なかったのではないでしょうか。彼らは静けさの中にいたからこそ、町の喧噪の中では決して聞こえてこない神のメッセージを受けることができたのです。
 私は、このことを私たち一人ひとりの心の中の事として考えてみる必要があると思うのです。
 ある哲学者がこのようなことを言っています。誰にでも心の中に密やかなところがあって、人はそこで神に出会い、そこでしか神に出会えない。
 仮に自分が傲慢であってその傲慢さを顧みようとしないなら、わたしたちの心の中には神の宿る余地はありません。私たちがどうしても傲慢になってしまう自分の心の密やかな一隅を見つめて静まるとき、わたしたちはそこに宿り、語りかけてくださる神の小さな声に気づけるのではないでしょうか。
 福音は、声高で華やかなメッセージであるとは限りません。
 キリスト誕生の物語は、どれも静かです。乙女マリアへの受胎告知、馬小屋でのイエスの誕生、羊飼いへの御告げや三人の博士の来訪までどれも静かです。その一方で先を争って宿を求めるベツレヘムの街中の人々や幼子の殺害を企てるヘロデ王がいます。聖書は、静寂の中で神のメッセージを聞き取る人と聞き取れずかえって踏みにじる姿を対照的に描き出します。
 静かにこの世に生まれた御子イエス・キリストを、わたしたちは心の中のどこに迎えようとするのでしょうか。弱く貧しく小さな姿をとって私たちに宿ってこの世に来てくださった救い主を、心の片隅の密やかなところに迎え入れることができますように。
 世俗のクリスマスは、既に去って行きましたが、教会暦のクリスマス(降誕節)は12日間続いています。神の御前に心を静め、私たちの内に来てくださったイエス・キリストを感謝する降誕節を過ごして参りましょう。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 09:33| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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