2018年01月08日

イエスさまの洗礼 マルコによる福音書第1章7〜11節 B年顕現後第1主日 2018.01.07

イエスさまの洗礼 マルコによる福音書第1章7〜11節 B年顕現後第1主日2018.01.07

 今日、顕現後第1主日は、主イエスの洗礼を記念する主日です。3年周期の聖餐式聖書日課福音書では、毎年、マタイ、マルコ、ルカにある主イエスが洗礼をお受けになった箇所が取り上げられています。
 聖書日課B年は、マルコによる福音書を中心に採用されており、今日もマルコのよる福音書から主イエスが洗礼をお受けになった物語が取り上げられています。
 この物語の内容を振り返ってみましょう。
 主イエスは、洗礼者ヨハネが人々に悔い改めの洗礼を授けているところにやって来て、ヨハネから洗礼をお受けになりました。そして、主イエスが水の中から上がったときに、天が裂けて聖霊が降り、天から「これはわたしの愛する子、わたしに心に適う者」という声がした、と言う内容を簡単に記しています。
 主イエスが洗礼をお受けになった場面は、第1章9節から11節の僅かな箇所ですが、この中に、約聖書の沢山の御言葉が凝縮しています。
 今日は旧約聖書の箇所を幾つか当たりながら、主イエスが洗礼を受けられたことは、旧約聖書に時代から待望されていた救い主が現れたことを告げる出来事であるということを確かめたいと思うのです。
 水によって汚れを清めることや生まれ変わりを表現することは、キリスト教に限らず古代から多くの宗教的儀式に採り入れられていました。洗礼者ヨハネの洗礼の意図は、「罪の赦しと悔い改め」にありました。主イエスはそのヨハネの所にやって来られました。1章4節に記されているとおり、主イエスは洗礼者ヨハネが宣べ伝えていた「罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼」をお受けになったのです。
 このことは、旧約聖書の言葉を沢山思い起こさせますが、特にイザヤ書53章12節に記された以下の言葉に注目してみましょう。
 「彼が自らをなげうち、死んで、罪人にひとりに数えられた。」
 主イエスが公に宣教の働きを始る最初になさったことが、罪人の立場にまわってくださることなのでした。勿論、主イエスの中に罪があったわけではありません。主イエスの洗礼は、主イエスは罪の無いお方でありながら、罪ある人の側に身を置いてくださり、ここから主イエスの公の生涯、すなわち神の国を広める働きが始まっていくのです。このお働きは、やはり犯罪人が処刑(しかも極刑)されるしるしである十字架の上にまで続いていきます。主イエスの受洗には、まさにそのような主イエスの御生涯のテーマがここに示されていると言えるでしょう。
 主イエスの生涯は、神の御心と離れることのない生涯でしたが、罪人呼ばわりされる人々と関わりを持つ時、その行いは当時の律法の体系を逸脱することもしばしばでした。例えば、旧約聖書申命記には「重い皮膚病」を患っている人々に近づいたり触れたりすることを禁じることばがありますが、主イエスは清めを求めて近寄って跪く重い皮膚病の人を憐れに思い、手を伸ばして触れて祈り、周りの人を驚かせたのでした。
 また、主イエスは、徴税人や罪人呼ばわりされる人々とも一緒に食事をなさって、当時の敬虔な律法学者たちの批判を浴びることにもなりました。でも、こうした罪人との交わりは、当時落ちこぼれて罪人扱いされていた人々を再び生かします。主イエスは、罪人が罪を赦されて神の愛の恵みの中で生きる喜びへと罪人を導くために、自ら罪人のひとりに数えられたのでした。この主イエスの姿は、旧約聖書イザヤ書で預言されていた主の僕の姿であり、そのお姿は主イエスの宣教の初めに洗礼をお受けになる中にも示されていたと言えます。
 また、主イエスの洗礼は、主イエスに神の霊が与えられる出来事でもありました。エゼキエル書第36章26節にはこのような言葉があります。
 「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊をおく。わたしはお前のたちの体から、石の心を取り除き、肉の心を与える。」
 主イエスが水の洗いを受けて起き上がると、神の霊が鳩のようにが降りてきました。この霊を受けて、主イエスは、旧約の律法の体系を整え強化するお働きではなく、新しい霊の働きを通して人々の命を生き生きと回復する働きへと出ていくのです。主イエスに与えられた神の霊は、本来全ての人に対して注がれているのです。しかし、人間の罪や律法の固い枠は、神の霊の働く機会を小さくしてしまったのです。主イエスが神の心としっかりと結び合うことで神の人との関係は回復されるのです。
 また、ヨエル書3章1節には、「その後、わたしは全ての人にわが霊を注ぐ。」と言っていますが、律法主義によって聖霊の働く余地を無くしていた当時の宗教は、主イエスが洗礼をお受けになることによって、律法の体系によって縛られていた人々の心に神の愛が吹き込まれ、人々に聖霊の働きを確かに感じられるようにしてくださったのです。
 更に、主イエスが水から上がられた時に、天が裂けて天から声が聞こえました。「天が裂ける」とか「天が開く」という言葉も、旧約聖書のいくつかの場面や言葉を想い起こさせます。この表現は当時の天体観に基づいており、この世と神の居られる天の間に蓋のような隔たりがあると考えられていましたが、その隔たりが裂けて神とこの地の世界が一つに直接結ばれることを表現しているのです。使徒言行録の中で、ステファノは「天が開いて人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言って主イエスへの信仰を表明しました。また、旧約聖書の中でも、例えば、イザヤ書63章19節で次のように言っています。イザヤは神の御心あまりにかけ離れたこの世界に身を置いて、この世界から神に向かって呻くように願い求めます。
 「あなたの統治を受けられなくなってから、あなたのみ名で呼ばれない者となってから、わたしたちは久しい時を過ごしています。
 どうか、天を裂いて降ってください。み前に山々が揺れ動くように。」
 イザヤが、神と直接交わりを持って、神の存在を確かに感じたいと思い願った出来事が今、主イエスによって実現していることを福音記者マルコは伝えているのです。
 最後にもう一つ付け加えると、「あなたはわたしの愛する子」と言う天からの声も、今日の旧約聖書日課のイザヤ書第42章1節で、神の正しい裁きを説く者に「見よ、わたしの僕」と言っている箇所を受けて、主イエスが洗礼をお受けになった時に用いられているのです。
 主イエスの洗礼の背景にある旧約聖書の言葉を幾つか見て参りましたが、主イエスが洗礼をお受けになった短い文章の中に、旧約聖書の思想や言葉が凝縮していることが分かります。つまり、福音記者マルコは、旧約聖書が待ち望み来るべきお方として指し示してきた救い主がこのイエスに他ならないと伝えたいのです。しかも、その救い主は罪人の側にまわってくださるお方であり、私たちの王となられた救い主であり、また私たちの僕ともなってくださった救い主であり、神の霊が降ったお方であり、神と一つであり、私たちと神とのつながりを回復してくださった救い主であることなど、主イエスの洗礼の物語は旧約聖書の願いがここに凝縮し、主イエスによってその願いが実現していることが示されています。
 救い主イエスを焦点にして、神の救いの働きが新しい時代に入りました。主イエスによって神の御心が私たちに明らかにされ、また主イエスによって神の働きは世界中に宣べ伝えられていくようになります。私たちは主イエスを通して神に自分の全てを委ね、神と親しく交わりを持って生きることが出来るようになったのです。
 今日の福音書は、主イエスの洗礼の物語によって、主イエスは、旧約聖書の時代からこの世界が待ち望んでいた救い主であり、その救い主であることの意味もただ一つの側面から説明できるお方ではなく、旧約聖書の時代から様々にイメージされ、待ち望まれた姿の全てがこのイエスによって集約されていることを示しています。そして、今日の福音書は、私たちに主イエスの中に本当の救い主の姿を見出すようにと私たちに促しているのです。
 私たちも洗礼の恵みをいただいています。私たちの受ける洗礼は、罪の赦しに留まらず、洗礼によって神と結ばれ、聖霊の力をいただき、天国での幸いを約束されています。神の子主イエスを通して私たちも神と結ばれ、私たちも聖霊の力を受け、主イエスに導かれて生きる者であることの思いを新たにして、新しい年の信仰生活を導かれて参りましょう。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 17:24| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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