2018年02月04日

祈り  マルコによる福音書1章29−39     顕現後第5主日  2018.02.04

祈り   マルコによる福音書1章29−39     顕現後第5主日  2018.02.04

 今日の福音書には、主イエスが、病気の人々を癒し、悪霊を追い出し、福音を宣べ伝えて、休む暇もなくお働きになっておられる様子が記されています。その中で、第1章35節の言葉が、今日の福音書の中心−いわば核となる−言葉になっています。
 「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れたところへ出て行き、そこで祈っておられた。」
 主イエスが病気の人たちを大勢癒し、たくさんの人々の悪霊を追い出してお働きになったその源は、この祈りにありました。
 先主日の聖書日課福音書では、「主イエスが悪霊を追い出す」という事がとりあげられましたが、「悪霊を追い出す」ということは、現代に生きる私たちにとっても決して古くさい事ではありません。
 現代社会は、目に見える因果関係で物事を考えるようになり、実験によって証明できる、言わば括弧付きの「科学的」であることを真理であると考えるようになりました。また、現代人は、いつの間にか、科学的ではないことは真理ではないという暗示にかけられました。そして、現代社会は、直接目で見ることの出来ない大切なことを幾つも切り捨ててしまいました。目に見る事のできない世界を信じて、その大きな存在に向かって祈ることも、多くの現代人が切り捨ててしまったことの一つです。そのような時代に生きる私たちは、今日の聖書日課福音書の中で、主イエスが祈っておられることに目を向け、私たちも祈ることを通して主なる神と絶えず心を通わせながら生きることへと、主イエスによって導かれるようになりたいと思うのです。
 今日の福音書の中で、主イエスは忙しく人々に関わっておられます。そのお姿を聖書の他の箇所では「狐には穴があり鳥には巣があるが、人の子は枕するところもない(マタイ8:19)」と記しています。そのように忙しく人々に関わり続ける主イエスですが、その一方で独りで人里離れた所で祈ることを通して神と深く交わる時を持ち、しかもそれをとても大切にしておられたことが今日の福音書に記されていることに着目したいのです。
祈りは、神と深く心を通わせることであり、私たちもそうすることによって自分の心の中のもっと深い思いや言葉に表せない深い呻きの源を神に触れていただき、それを神に受けとめていただき、自分の全てを神に委ねて生きることが出来るようになるのです。もし私たちがこのようにして自分自身と深く真実に関わることを放棄すれば、私たちはどうして他の人々と真実で落ち着きのある関係をつくり上げることが出来るでしょうか。自分と深く付き合うことの出来ない人が他の人と深く真実な関係を持つことなど出来ないのです。私は、このことが現代人の大きな課題の一つだと思います。
 もし、現代に生きる者として、「神」という言葉が宗教臭く受け入れられないのであれば、「神」という言葉を「自分を自分として生かす根源」「自分を取り替えのきかない一個の人間として愛し抜く存在」とでも置き換えてみましょう。また、「祈り」を「深くありのままの自分に出会うための導き」とでも言い換えてみましょう。
 主イエスは、人々の中に深く関わることとひとりで神に祈ることを、どちらも大切になさいました。私たちもひとりで深く祈ることを通して、自分自身との関わりも、他の人々との関わりも、深く豊かになるように導かれます。
 私たちは、祈りを通して神と向き合い、自分の心の一番奥深くまで神に触れていただき、私たちが自分で自分を理解するよりももっと深く神に自分を理解していただくことができます。そうすることによって初めて自分でも自分をよりしっかりと把握して保つことが出来るようになります。そのように、自分をしっかりと知る人が、相手の人に対しても建設的に支援する関わりが出来るようになるのです。
 私たちは今日の福音書の中に「休む間もなく人々に関わる主イエス」と「独りで祈る主イエス」という両面を見ることが出来ます。私たちはこの対照的な主イエスのお姿の両面をしっかりと理解しておく必要があります。私たちにとっても、祈りによって神と深くつながることと、私たちの周りの人々との交わりの中で神の愛によって生きることは、信仰者として表裏一体、車の両輪のように切り離すことの出来ない大切なことであることを覚えておきたいと思うのです。
 マザー・テレサはカルカッタで、路上で死に逝く人を看取る働きを中心に最も弱い人に仕える生涯をおくりました。彼女はやがてその働きを評価され、1979年にノーベル平和賞を受けていますが、毎朝午前2時から2時間祈る人であったことを忘れてはならないでしょう。
 私たちも祈って生きる人へと導かれるために、もう一箇所、マルコによる福音書から違う箇所を取り上げてみたいと思います。
 それは、9章28−29節です。この箇所で、主イエスは、ひとりの子どもが汚れた霊に取り憑かれてひどく苦しんでいるとき、その子どもに取り憑いた悪霊を追い出して救いました。その後、マルコによる福音書は、弟子と主イエスの様子を次のように記します。
 イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた。イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ。」と言われた。
 主イエスは、ここでも祈ることの大切さを教えておられ、霊に取り憑かれた人に関わる前提として、祈りを強調しておられます。主イエスが「祈りによらなければ」と言っておられるのは、決して呪文を唱えることやまじないをすることではありません。祈れば神がことらの願い事をすべて思いどおりに整えてくれるということでもありません。そうではなく、私たちが祈りを通して深く神に出会い神に生かされることを知ることによって、初めて悪霊に取り憑かれている人をも神に出会わせ、その人を神の力によって生きるように導くことが出来るのであり、自分のことを棚に上げて他人の霊を操作したり悪霊を追い出したりすることなど決して出来ないことを、主イエスは教えておられるのです。
 初めにも申し上げたとおり、今日の福音書は、主イエスが人々に関わって教え癒すお姿と独りで祈りに集中するお姿の両面を描いています。
 福音記者マルコは、きっと、主イエスが人里離れたところで祈りに集中するお姿を幾度も目にし、そこには足を踏み入れ難いほどの気高さを感じたことでしょう。そして、若い弟子であったマルコは、主イエスの言葉と業の力が、祈りから生まれていることを理解していったのではないでしょうか。
 教会は、主イエスのこの祈りの力を基盤にして成長し、主イエスの名によって祈る信仰者を得て、その共同体が世界に広がっていきました。そして教会は、この祈りの力によって修道院や社会事業をも生み出し、悪霊を追い出し、人々を癒し、本当に神が願う世界の実現を教え、その福音を宣べ伝えてきたのでした。
 私たちの教会とここに集う私たち一人ひとりも、人として霊的に成長しようとするなら、忙しさの中にあっても、先ず祈りを通してしっかりと神と向き合うこと、自分自身の本当のあり方はこれでいいのかを神と対話することが求められます。そうすることを通して、私たちは他の人をもキリストと結び合わせる働きに与ることが出来るのです。
 今日のみ言葉に導かれ、私たち一人ひとりが祈りを通して主イエスと一つになることが出来ますように。そして主イエスが神と人に仕えたように、私たちもその働きに与る喜びを与えられたいと思います。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 18:16| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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