2018年02月11日

主イエスの輝き  マルコによる福音書9章2−13     大斎節前主日  2018.02.11

主イエスの輝き
マルコによる福音書9章2−13     大斎節前主日  2018.02.11

 教会の暦では今週の水曜日から大斎節に入ります。顕現節から大斎節に移ろうとするこの主日の聖書日課福音書は、毎年、いわゆる主イエスの変容貌の物語が朗読されています。
 この物語は、マタイ、マルコ、ルカの3福音書にありますが、どの福音書でも、その位置づけは、主イエスがエルサレムに向かって歩んで行かれる直前にあります。山の上で主イエスが真っ白く目映く輝いたこの出来事は、主イエスの御生涯の中で、一つの大きな転換点に位置付けられているのです。
 主イエスは、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人の弟子を連れて、高い山に登られました。弟子たちの見ている前で主イエスのお姿は真っ白く目映く輝いたのでした。そこにはエリヤとモーセが共に現れ、3人は語り合っています。ルカによる福音書の同じ物語の箇所には、彼らが語り合っていたのは「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期についてであった(9章31節)。」と記されています。3人の弟子たちは主イエスのお姿に深く感動しながらも、その出来事の中身をどう受け止めればよいか分からず、何を言えばよいのかも分からず、弟子たちはその場に立ちつくしていたのでした。
 主イエスの公生涯は、ガリラヤから始まりました。そしてこの変容貌の出来事の前までが、ガリラヤ地方での主イエスを記しており、福音書の前半部と言えます。前半部の主イエスは、ガリラヤ地方を中心に、悪霊を追い出し、病人を癒し、教えを説き、様々な奇跡を行って沢山の人を導き救いをお与えになりました。けれどもこの変容貌の出来事の後、後半部の主イエスは、エルサレムに向かって歩み始め、エルサレム神殿ではユダヤ教の指導者たちと激しい論争をし、十字架の上に処刑されてしまうのです。
 マタイ、マルコ、ルカの3福音記者が、この変容貌物語を主イエスのこうした大きな転換点に置いた事には、福音書を編集する上での特別な意図があったと考えられます。その意図とは、福音書を通して、イエスがどのような意味で救い主なのか、そしてイエスはどのような意味での輝きを放つお方であるのかを示すことでした。この物語は、読み手である私たちにも、主イエスの輝きとは何であり、私たちは主イエスの何に、どこに、本当の輝きを見ようとしているのかを問いかけています。
 先ほども少し触れましたが、主イエスは変容貌の出来事の前まで、ガリラヤ地方を中心にお働きになりました。しかし、人々は、主イエスのその働きを見て、主イエスが本来なさろうとしていた思いとは全く違う期待を寄せたり、自分勝手な願い事を満足させるために主イエスを用いようとしたりする人まで出て来たのです。福音書の他の箇所には、多くの人が主イエスの所に集まってくるのを見て、主イエスを王に仕立てようとしたということも記されています。
 でも、それは主イエスの望むことではありませんでした。第8章の後半には、主イエスがそのような状況の中でどのような思いでおられたのか伺える言葉がいくつかあります。例えば、8章34節で主イエスは「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」と言っておられます。この言葉は、人々が主イエスを用いて自分の思いを満足させようとするのに対して、誰もが神から与えられた自分の十字架を負うこと、つまり自分の使命を誠実に全うすべきことを教えている言葉です。
 主イエスの変容貌の出来事は、このような第8章の教えの後に続くのです。つまり、主イエスの白く目映いお姿は、武力や財力によって他の人を支配したり征服したりする事で現れる栄光ではなく、病気の人や弱く貧しくされた人々を愛し抜き、支え抜いて、仕えることから生まれてくる天の輝きを表す出来事なのです。
 現代に於いても、例えばマザーテレサは「自分のもの」として持っていた物は修道女の衣服(サリー)2枚とサンダルだけであったと言われています。これほどに自分から貧しくなり、ノーベル平和賞の賞金も全く自分のものにはしなかったマザーテレサの中に、世界中の人たちが主の栄光の輝きを見ることができました。この輝きは、自分の物欲や名誉欲を満たす生き方からは決して生まれることがありません。また、それは能率や経済性、また合理性を優先させる生き方からも遠く隔たっています。
 もし、マザーテレサが、インドの英語学校の校長を続け、その学校に子どもを学ばせる事ができる高額所得者に支えられる学校で働き続けていたら、彼女を名誉と所得の視点からもっと高く評価する人もいたことでしょう。でも、マザーテレサの輝きはそのような輝きではありませんでした。マザーテレサは、36歳の時に汽車に乗っていると、「修道院を出て貧しい人々と共に住んで、彼らを助けるように。」との神の声を聞いたと伝えれらていますが、この出来事も主イエスが山の上で白く目映く輝いてモーセとエリヤと共に何かを話し合っていたのと同じ出来事であったと言えるのではないでしょうか。
 私たちが「主イエスに従って生きる」と言う時、その内実は何なのでしょうか。主イエスは、貧しさや困難に打ちひしがれて捨てられ人間らしく扱われない人々のために生き抜いて、最後には自分が十字架に架けられて殺されてしまいます。主イエスの変容貌の出来事は、実は自分の命をかけてまで他の人を愛し抜く事に裏打ちされた出来事であったことを示しているのです。その意味で、私たちは、今日の福音書から、主イエスが一見無駄死ににしか思えないような生涯をおくった中に主なる神の栄光の輝きを見る事ができるかどうかを問われているのです。
 ただ自分が満足することを求めたり他人に重荷を負わせることで自分の名誉を保とうとするのなら、私たちは主イエスさまの十字架にも復活にも栄光の輝きを見ることはできません。でも、傲慢さや高いプライドの下にある自分の弱さ、貧しさ、小ささや罪深さを知ってそれを悔い嘆く人にとっては、主イエスがそのような私たちを赦し、愛し、死の先にまで私たちを守り支えて下さることを喜びとすることができます。
 山の上で主イエスが光り輝いている間に雲が表れてそこにいる人々を覆いました。そして雲の中から「これはわたしの愛する子。これに聞け。」という神の声がしました。この言葉は、主イエスが洗礼をお受けになった時に天から聞こえた言葉を連想させます。それは主イエスが公に宣教のお働きを始められた時の言葉です。主イエスが、神の国の訪れを告げ、人々を教え導き、癒しと慰めを与える働きを始めようとする時に、天から聞こえた言葉でした。主イエスは、これからエルサレムに向かって十字架への旅が始まろうとしていますが、その歩みをお始めになる主イエスに、そしてそのイエスに従う3人の弟子たちに、神はもう一度「これはわたしの愛する子」と言われます。更に、神は3人の弟子に「これに聞け」と言っておられます。
 ここでの「聞く」はただ「耳を傾ける」ことを意味するのではなく、「聞き従う」という意味であり、聞いてその通りに行うことを求めていることは明らかです。神は、主イエスが歩んで行かれるのと同じ道を歩むように弟子たちを招いておられるのです。
 私たちも、主イエスさまの栄光の姿をしっかりと見上げて、歩んでいきたいと思うのです。自分の十字架、つまり神が私たち一人ひとりにお与えになっているそれぞれの使命をしっかりと担い、主イエスに導かれることによって、少しずつ主イエスの輝きを自分の身に映し出す恵みを与えられるように成長していきたいと思います。
 大斎節に入ろうとしています。主イエスが十字架の苦しみを越えて、死の先にまで私たちに希望と力を与えてくださっていることを感謝しましょう。私たちも主イエスの栄光の輝きに与ることが出来るように、自分の十字架を担い、主イエスに聞き、生かされる大斎節へと向かって参りましょう。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 21:41| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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