2018年03月12日

イエスの養い ヨハネによる福音書6章4−15     大斎節第4主日  2018.03.11

イエスの養い
ヨハネによる福音書6章4−15     大斎節第4主日  2018.03.11

 主イエスが僅かな数のパンと魚で大勢の人を飽き足らせた物語は、4つの福音書のどれにも記されています。それだけ、昔から主イエスを救い主と信じる人たちが集まるとき、この物語が喜んで語り伝えられていたのでしょう。福音書の他の箇所にも、主イエスが人々と食事する場面がありますが、その食事をとおして、多くの人が主イエスから慰めや励まし、また喜びを与えられていました。私たちもこの聖餐式の中で、同じようにみ言葉とみ糧を受けて満たされる事へと招かれています。
 過ぎ越し祭が近付いていました。イスラエルの民にとって最も大切な祭であるこの過ぎ越し祭をエルサレムで迎えようとして、沢山の人々が旅をしていました。エルサレムに向かう主イエスと弟子たちの許に大勢の人々が集まってきていますが、その多くの人がエルサレムに向かって旅をしていたのでしょう。主イエスはその大勢の群衆をご覧になって、弟子の一人フィリポにお尋ねになりました。「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」。
 フィリポは答えました。「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」。
 私は、フィリポは機転の利く人だったと想像します。フィリポは、人々を見回しておおよその人数を掴み、その人数からいくらかかりそうかまで計算して答えています。
 その当時、一人の人が1日働けばその労賃は1デナリオンでした。今そこには男だけでも五千人ほどが集まっており、女性や子供もいたことを考えれば、この群衆がめいめい少しずつ食べるのに二百デナリオン以上が必要であるというフィリポの計算は妥当なものだったでしょう。二百デナリオンは、一人の人が二百日働いて手にする金額です。あまりに多い群衆の前にフィリポは主イエスにその現状を悲観的に伝えることしか出来ませんでした。
 また、そこにはアンデレもいて、アンデレは主イエスに次のように言っています。「ここに大麦のパン5つと魚2匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」。
 アンデレも、大勢の人を前にして、主イエスの問いかけに否定的に答えるほかありませんでした。
 しかし、主イエスは人々を草の上に座らせ、少年が持っていたパンを受け取り、感謝してから座っている人々に分け与えられ、また魚をも同じようにしてお分けになります。すると、五千人を超える群衆は十分に食べて飽き足りるまでになりました。そればかりではなく、主イエスの言葉に従ってパンの残りを集めてみると、それは十二籠に一杯になったのでした。
 こうして子どもの持っていた大麦のパン五つと魚二匹は、主イエスの御手を通して限りなく増えて、男の人だけでも五千人という大勢の人を養うことが出来たのです。
 弟子のフィリポとアンデレは、「二百デナリオンあっても足りない」、「こんな大勢では僅か五つのパンでは何の役にも立たない」と言いました。二人とも群衆の多さと自分たちの持っている物の少なさを見比べて、何も出来ないでいます。でも、主イエスは少年の持っていた、取るに足りないと思われたパンを取って感謝し、人々に分け与え始めました。ほんの僅かの一人当たり五千分の五にしか過ぎないパンともっと少ない魚が、主イエスの御手を通して人々に分け与えられると、群衆は十分に食べて飽き足りるまでになりました。
 私たちが自分の力だけを頼む時、フィリポやアンデレがそうであったように、五つのパンを五千人で分ければ一人当たりは所詮千分の一に過ぎません。でも、貧しい大麦のパン五つが主イエスの御手に受けられて祝福されるとき、そのパンを受ける者の恵みは限りなく大きくなり、そこにいる人々を飽き足らせるばかりでなく、余りが十二籠に満ちるのです。
 主イエスの時代、食事を共にすることはそこに集う人々がお互いに仲間であることのしるしになりました。私たちもそうです。同じメニューの食事でも、独りの時と親しい人と一緒の時では、その食卓の豊かさにどれだけ違いがあるか、また例え粗末な食事であっても家族や親しい仲間と一緒にする食事がどれほど楽しく豊かになるのか、多くの人が体験していることでしょう。昔の人は食事の席を聖なる場と考え、霊の働く場とも考えました。
 主イエスは、飼う者のない羊のような大勢の人々が主イエスの方にやってくるのをご覧になり、この人たちと一緒に食事をしようとお考えになったのです。
 食事をすることは、命をいただき分け合うことでもあります。私たちが日頃口にしているもので、水と塩以外に命とのつながりの無いものは何一つありません。私たちは多くの命を受けて生かされており、その恵みを忘れてはならないでしょう。そのような私たちであれば、命をお創りになったお方の御心から離れて他の生き物の命を奪って生きることしかできないのなら、それは命をお与えくださる神に対する傲慢であり、命の尊厳を踏みにじることになると言えます。
 人間が命と食物の連鎖の頂点にいるのであれば、人間はただ他の生物を自分のために利用するだけではなく、命の創り主である神に感謝と賛美を捧げることが必要なのではないでしょうか。
 主イエスが五千人を養った奇跡のきっかけは、アンデレが五つのパンと二匹の魚を持つ子どもがいることを主イエスに伝えたことでした。子どもが差し出した僅かなパンと魚が主イエスに受け入れられそのお働きに用いていただけるとき、それは五千分の五はそれだけにとどまらず、無限とも言える大きな働きにの中に役立てられることになります。
 このことは私たち一人一人も同じです。
 私たちは、主なる神さまの御心から離れてしまえば、やがては滅び去る小さな被造物の一つに過ぎません。そのような私たちも神の大きな働きの中に用いられ生かされることによって、神と他の被造物とを喜ばせてなお余りある結果へと導かれていきます。私たち自身は小さく時には無力に思えることもあるでしょう。でも、私たちは主イエスによって受け入れられ、神の大きな働きの中に生きることを許されています。そして、そのように生きることを神は私たちに求めておられるのです。
 神が主イエスを通して私たちを用い生かしてくださろうとするのであれば、私たちはフィリポのようにただ自分の思いの中だけでその可能性を小さくしたり、悲観的になったりして良いでしょうか。また、主イエスが私たちを無限の愛の中で用いてくださろうとしているのに、アンデレのように「たったこれだけでは何になるでしょう」と手をこまねいていて良いでしょうか。神が私たち一人ひとりに与えてくださった命の賜物を私たちは自分で蔑んだり損ねたりするようなことがあってはならないのです。
 主イエスは、少年の捧げた僅かなパンと魚をお受けになり神に感謝しておられます。何という恵みでしょうか。私たちもこの少年と同じように、自分の力を、たとえ自分ではそれが取るに足りないと思えても、そっくりそのまま主のお働きのためにお献げしたいのです。少年の捧げる僅かな献げ物がやがては主イエスのお働きの中で生かされ、その余りでさえ十二の籠に満ちるのです。十二と言う数はイスラエルの部族の数であり、主イエスの弟子の数です。この物語の「十二」とは、取るに足りない小さな者でも主イエスは喜んでお受けくださり、神の豊かな働きの中に用いられることで、イエスの弟子としての働きとなり、また、それは新しいイスラエルを創り上げる働きとなっていることを示していると考えられます。
 私たちもありのままの自分を主にお献げして生かされる者です。主イエスの食卓に集う私たちです。主イエスのみ言葉とみ糧に生かされ、主イエスの祝福の中に生かされて参りましょう。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 05:37| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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