2018年04月05日

トマスを思い巡らせる     

トマスを思い巡らせる

 3年周期の聖餐式聖書日課で主日の聖餐式を行ってると、かつて同じ聖書日課で原稿をつくった説教の視点から抜け出せず、3年前と同じような説教になってしまうことが増えてきた。
 ことに、復活節第2主日は毎年同じ聖書日課福音書が採用されており、せいぜいその前半部をテーマにすることと後半部をテーマにすることを毎年繰り返すことになってしまう自分を感じてきた。今年は何とかそこから脱したいと思い、トマスに関する絵画にどのようなモノがあるのかを調べてみた。私が目にしたほとんどの絵画作品は、トマスがイエスのわき腹に二本の指を入れてその傷口に触れているのだか、私は随分昔から「トマスはイエスの傷跡に触れなかった」と信じており、どの作品にも共感できなかった。
 その中で、ただ一つ、エルンスト・バルラハという人の彫像の作品に感銘を受けた。
 バルラハは、1870年生まれのドイツの彫刻家、画家であり、また劇作家でもあったとのことである。この人の「再会」と題する彫刻では、トマスはややイエスを見上げるようにしてイエスの肩にすがってやや前屈みに立ち、イエスはそのトマスの脇を支えるようにして真っ直ぐに立っている。
 イエスがラザロを甦らせるために、またユダヤの地に向かおうとしている時、そのただならぬ雰囲気を感じたトマスはこう言った。
 「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか(ヨハネ11:16)」。
 しかし、イエスが逮捕される時、弟子たちは一人残らず、イエスを置いて逃げてしまった。トマスもその中の一人だった。
 復活したイエスが、部屋に鍵をかけて閉じこもる弟子たちの中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と告げた時、トマスはそこにいなかった。トマスは、他の弟子たちが「わたしたちは主を見た」と言っても、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。(ヨハネ」20:25)」と言った。
 それから8日の後、イエスはまた弟子たちに姿を現された。あの時と同じように、イエスは弟子たちの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように(20:26)」と言われたのである。トマスはイエスと「再会」した。
 イエスはトマスに「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしの脇腹に入れなさい。(10:27)」と言い、トマスは答えて「わたしの主、わたしの神よ」と言った(20:28)。聖書はそれ以上のことは記していないが、トマスはこの時号泣していただろう。イエスを裏切った弱く醜い者に対しても、十字架で死んだイエスが「神はお前を愛して止まない」と言ってその傷口を示すとき、傷口は罪人を責め立ててその罪を暴く証としてではなく、無限の愛の徴となって人を生かす証になるのである。
 「再会」の像のトマスはイエスを見上げているが、そのトマスはイエスの支え無しには今にもくずおれんばかりであり、この時のトマスにとって、イエスの傷跡を見てそこに手を入れて確かめることはもはや問題にすべきことではなく、イエスの十字架によって自分が贖われ、赦され、愛されて生かされていることを知って、そのイエスに「わたしの主、わたしの神よ。」と、恐らくは号泣しつつ、信仰を告白していることが大切な事なのではないだろうか。
 かつてイスラエルの民は、モーセが独りシナイ山頂で神と語り合っている間に不安になり、目に見える徴を欲しがり、金の子牛を造ってそれを神として扱う過ちを犯した。
 私たちも、もしイエスの十字架と復活を信じるのではなく、復活の主を見て確かめようとするのなら、かつてのイスラエルの民と同じ過ちを犯すことになることを肝に銘じておく必要があるだろう。
 ちなみに『聖書−新共同訳−』では、トマスの信仰告白の箇所は「わたしの主、わたしの神よ。」と訳されているが、ここは呼格(よびかけ)ではなく、主格(主語になる形)であり、「わたしの主、わたしの神。」と呼びかけの「よ」を省略して訳してはどうだろうか。少なくとも私にはその方がピッタリする。
                                    2018.04.05
再会 イエスとトマス バルラハ.jpg
バルラハ『再会』
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 18:06| Comment(0) | 牧師のコラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント