2018年04月29日

フィリポとエチオピアの宦官   使徒言行録第8章26−40   B年 復活節第5主日      2018.04.29

フィリポとエチオピアの宦官
使徒言行録第8章26−40   B年 復活節第5主日      2018.04.29

 復活節の間、聖餐式聖書日課の第一朗読を旧約聖書に換えて使徒言行録を読む習慣があります。それは、主イエスの復活の力を受けた弟子たちが、どのように福音に生かされ、どのように福音を伝えていったかを学ぶためです。
 今日の聖書日課第一朗読は使徒言行録第8章26節からの個所が採り上げられており、フィリポによってエチオビアの高官が福音を受け入れた様子が記されています。
 使徒言行録がまとめられた時代には、現在のスーダン辺りを含むエジプトの南側の一帯がエチオピアと呼ばれていたようです。
 エチオピアの女王カンダケの全財産を管理する高官がいました。この高官はエルサレムに巡礼して帰る途中でした。この人物について第8章27節にはこう記しています。
 「エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財産を管理していたエチオピア人の宦官であった。」
 この宦官は、彼の働きの範囲が女王の財産を管理することを超えないようにと、高い身分や権限と引き替えに去勢された人であったか、あるいは幼い頃からそうした特別な任務のために選ばれ、去勢されて養育を受けた人であったと考えられます。
 このような宦官がいたことは、旧約聖書の中にも幾つか記されているところがありますが、それと関連して旧約聖書申命記第23章2節に次のような記述があることに着目してみたいと思います。
 「睾丸のつぶれた者、陰茎を切断されている者は主の会衆に加わることはできない。」
 イスラエルの人々は、宦官を歓迎してはいなかった様子がうかがえます。事故によってであれ意図してであれ、去勢された人は主の会衆に加わることが出来ないと明記されています。それにも関わらず、使徒言行録にはこのエチオピアの高官が「エルサレムに礼拝に来て帰る途中であった」と記しています。このような人であれば、エルサレムに来て礼拝しようとしても、入れるのはせいぜい異邦人の庭までであり、もしかしたらそこに入ることさえユダヤ人に拒否されたかもしれません。それでもこの宦官はきっと自分なりに巡礼を志し精一杯の礼拝をして帰るところだったのではないでしょうか。
 彼は馬車の中で聖書を朗読していました。イザヤ書の巻物を手に、声に出して第53章の辺りを読んでいました。
 「彼は、羊のように屠殺場に引かれていった。
 毛を刈る者の前で黙している小羊のように。口を開かない。
 卑しめられて、その裁きも行われなかった。
 だれが、その子孫について語れるだろう。
 彼の命は地上から取り去られるからだ。」
 イザヤ書の中に4個所ある「主の僕の歌」と名付けられた部分の中でも、特にイザヤ書52章13節から53章にかけては「苦難の僕の歌」と呼ばれる個所であり、十字架で死んだ主イエスを理解する上で、大切な言葉とされています。
 エルサレムまで礼拝に行ったこの宦官は、聖書のこの言葉が何を意味しているのかは分かりませんでしたが、おそらく、この個所が自分のことと深く重なり合っていたのではいなでしょうか。この短い個所の中に「卑しめられて・・・」とか「だれが、がその子孫について語れるだろう」とか、自分に関わる言葉も幾つか出てくるのです。
 エルサレムではきっとこのように去勢した異邦人になど誰も好意的に関わってくれなかったことでしょう。彼には何のことか分からないけれど、今読んでいる、「卑しめられて、その裁きも行われなかった」という個所は、エルサレムに上っていったにもかかわらず、誰にも相手にされず、神殿を眺めただけで引き上げてくることしかできなかった自分のことを言っているかのように思えたかも知れません。彼はエチオピアでは女王カンダケの全財産を管理するほどの人でありながら、自分が巡礼を志した神の前には卑しめられて、エルサレムの人々にはまともな人間として認めてもらえない自分を痛感していたのではないでしょうか。また、「だれが、その子孫について語れるだろう。」と言う言葉も、聖書の脈絡や意味は別として、彼は宦官であり子孫を残せない自分であり、聖書がそのような自分を鋭く指摘しているかのように思えたかも知れません。
 馬車を進める彼に声を掛ける人がありました。フィリポです。フィリポは宦官に「読んでいることがお分かりになりますか。」と語りかけました。この宦官は「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう。」と言って、フィリポに馬車に乗って自分のそばに座るように頼みました。フィリポはこの宦官と一緒にイザヤ書第53章7−8節を読んで語り合い、旧約聖書のことからイエスの十字架の死と復活に至るまで、神の救いの働きを説き起こしました。
 使徒言行録第8章35節を見ると、「フィリポは口を開き、聖書のこの個所から説き起こして、イエスについて福音を告げ知らせた」と記されています。
 ここで、フィリポと宦官がどのように話して聖書の個所を説き起こしたのかということや、宦官がイエスをどのように理解して受け入れたのについては何も分かりません。でも、この宦官は主イエスを異邦人のしかも宦官である自分にとっても救い主なのだと、受け入れたことは確かなのです。
 主イエスは人々の罪を負って十字架につけられて死にました。このイエスはイザヤ書第53章に記された「苦難の僕」そのものでした。フィリポは、このイエスこそ人々の苦難を負い、卑しめられ、十字架に捨てられて地上から取り去られた「苦難の僕」であり、この宦官にこの「苦難の僕」であるイエスがあなたの耐えきれない重荷も担ってくださっていると説き明かしました。
 そしておそらくフィリポはイザヤ書の次のような言葉にも触れたことでしょう。それはイザヤ書第56章3節の言葉です。
 「主のもとに集ってきた異邦人は言うな
 主はご自分の民とわたしを区別される、と。
 宦官も、言うな
 見よ、わたしは枯れ木にすぎない、と。」
 あなたは、自分が異邦人でありイスラエルの民とは違うから自分はその恵みの中に入ることができないなどと言ってはならない、宦官も自分はもう子孫を残すことの出来ない枯れ木に過ぎないなどと言ってはならない、と神は預言者イザヤを通してこの宦官に語りかけます。
 エチオピアの宦官は、フィリポの説き証しを聞きながら、この言葉はまさに自分のための言葉だと思えたことでしょう。自分は決して神から卑しめられる者ではなく、主イエスが自分の苦難を背負ってくださり、自分もイエスに尊ばれる者であることをしっかりと受け入れたことでしょう。
 フィリポに導かれるまで、宦官はこのイザヤ書の言葉をどう理解すべきか分かりませんでした。それが今、このみ言葉は主イエスが自分の痛みと苦しみを引き受けてくださり自分を尊い人間として生かしてくださっていることを示す言葉として自分の奥深くに入り込み、宦官は喜びが溢れてきました。
 神の前には異邦人もユダヤ人もなく、あなたは大切な一人の人間なのだ、神の前にあなたは枯れ木ではなく私につながるぶどうの枝であり、あなたはわたしにつながって豊かな実を結ぶのだと、この宦官はフィリポを通して教えらました。
 こうして、主イエスの福音はユダヤ人という民族の枠を超えて広がってゆきました。
 私たちは今、復活節を過ごしています。復活の主イエスは必ずしもいつも私たちに直接お姿を示して導いてくださるわけではありません。私たちは、聖書の御言葉に導かれ、御言葉を通して復活の主イエスにお会いするのです。聖書の御言葉は、私たちを罪に定めて卑しめるのではなく、私たちの罪を購って私たちを尊い者として生かしてくださいます。聖書は私たちのために苦難を負い、十字架にお架かりになり、甦ってくださった主イエスさまを証し、私たちもまたエチオピアの高官と同じように主イエスを救い主として受け入れて信じて生きるように招かれていることをしっかりと心に留めることが出来ますように。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 21:46| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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