2018年05月06日

新しい戒め−互いに愛し合う− ヨハネによる福音書15:9−17    B年 復活節第6主日 2018.05.06

 新しい戒め−互いに愛し合う−
ヨハネによる福音書15:9−17    B年 復活節第6主日 2018.05.06

今年はイースターが4月1日でした。使徒言行録第1章3節によれば、主イエスは甦ったあと40日にわたって弟子たちにお姿を現し、弟子たちを力づけました。そして、甦りの日から40日経った日に、主イエスは天に昇って行かれました。今年は復活日から40日経つ日は5月10日であり、今日は主イエスが天に昇って行かれたことを覚える昇天日の直前の主日です。
 今日の聖書日課福音書は、主イエスが弟子たちと別れる前のいわば遺言に当たる言葉です。これから弟子たちは、地上での目に見える主イエスのいない中で、救い主イエスを信じて、その主イエス・キリストに導かれていくことになります。私たちも、主イエスが天にお帰りになった後の時代を生きており、目には見えない主イエスを救い主と信じ、その御言葉に導かれ、その御心が行われるように生きていく者です。今日の聖書日課福音書は、そのように生きていく時、私たちが立ち戻るべき信仰の原点を指し示しています。
 今日の福音書で、主イエスは互いに愛し合うことを教えておられます。第15章12節で「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」と言い、17節でもまた「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」と言っておられます。
 主イエスは、弟子たちに、互いに愛し合うことを掟として与え、また命令しておられます。この「掟」という言葉と「命令」という言葉はどちらも同じ言葉が一つは名詞で、もう一つは動詞で用いられているだけで、意味の違いがあるわけではありません。
 聖書での「掟」について考えてみましょう。
 旧約聖書では、「掟」は「戒め」という言葉でも用いられています。イスラエルの民にとっての「掟」「戒め」は、神から与えられた律法の言葉を意味しています。例えば主なる神はレビ記(22:31)の中で、イスラエルの民に向かって「あなたたちはわたしの戒めを忠実に守りなさ。わたしは主である。」と言っています。この「掟(戒め)」の中心となるのが、イスラエルの民がエジプトでの奴隷状態から救い出されてた後、荒れ野を放浪している時にモーセが神から与えられた「十戒」でした。この十戒を核にして、その周りに具体的な事柄をどうすべきか、律法の言葉が細かく定められ、その細かな一語一句がイスラエルの民の生活の指針となっていきました。イスラエルの民はこの律法を守ることで神の御心から離れないように生きることに努めたのです。
 しかし、こうした律法の言葉はそれが創られた時の精神を忘れると、その文言が独り歩きし始め、人間の自分勝手な思いによって都合の良いように解釈されたり他人を裁くための剣として用いられるようになることも多いのです。イスラエルの民の中でも、異国の人々と交わりを持たざるを得ない人(例えば徴税人)や律法の規程の枠の中では生活することの出来ない立場の人や病人などは、次第に社会からはじき出され除け者にされていくことになりました。
 主イエスの時代のイスラエルの歴史を振り返ってみると、イスラエルの民にとって、神との間に結ばれた契約を神の掟として守り通すことは特別な意味がありました。それは、主イエスの時代、イスラエルはローマの占領下にあり、ヘロデ王もローマ皇帝とそこから遣わされている総督の傀儡政治を前提とした王であったのですが、掟に忠実な人々はこのような政治に不満を募らせローマ軍やヘロデ政権に対する反乱を試み、それを鎮圧するためにローマ軍はエルサレム神殿を占領して破壊し、イスラエルの国は滅亡することになるのです。ユダヤ人たちは自分たちイスラエル民族の一致の象徴であったエルサレム神殿を失いました。その後彼らは、神殿という一致の「場」を失っても、イスラエルの民として民族のアイデンティティを保つために、それまで以上に「掟(戒め)」を大切にするようになっていくのです。
 このようなユダヤ教徒の生き方は、イエスをキリストと信仰告白する人々を二重の意味で苦しめました。一つは、クリスチャンはローマ当局からユダヤ教の一分派と見なされていたので、ローマに反抗するユダヤ人と同じように見なされ、ローマから弾圧される対象になったこと。もう一つは伝統的なユダヤ教徒たちからみるとクリスチャンはユダヤ教の掟に忠実ではないと誤解され、ユクリスチャンはユダヤ教徒たちからも神を冒涜する者として迫害され、ユダヤ教徒の各地の集会施設であった会堂から追放されていくことになるのです。
 ヨハネによる福音書が編集されたのは、起源80年代末から90年代にかけてであったと考えられています。地上での生身のイエスが十字架に付けられて50年(半世紀)を経た時代を生きるクリスチャンにとって、主イエスを救い主とする信仰を保っていくことは容易なことではなかったでしょう。初代のクリスチャンが自分たちの信仰を確認し、生きる勇気を奮い立たせたのは、生前のイエスの残した言葉と行いを思い起こすことによってでした。弟子たちは主イエスのみ言葉と行いを思い起こし、自分たちもイエスの御跡を踏んで生きていこうとする思いを絶えず新しくすることによって教会を育てていったのです。そのような彼らにとって一番中心になった御言葉が「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」という主イエスのみ言葉だったのです。
 当時のユダヤ教が異邦人を排除して民族として団結しようとする中で、民俗宗教の域を出ないユダヤ教は孤立していきました。その一方、キリスト者たちは、主イエスの掟(教え)に倣い、人種や民族を限定せず、職業の違いや貧富の差を問題とせず、全ての人が互いに愛し合う共同体を創りあげるように教え教会を立てあげていきました。その主イエスは、私たちにも、神のお考えになる姿を現すことが出来るように、目の前の隣り人に愛をもって関わる信仰の共同体を創りあげることを命じておられます。そして主イエスはその共同体である教会の角の親石となりました。
 そのことを福音記者ヨハネは第15章13節にあるように、主イエスさまの言葉として「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」と伝えています。ここで主イエスが言っておられる「友」とは、14節を見れば明らかなように「互いに愛し合いなさい」という主イエスの「掟」を行う者のことです。主イエスは、主イエスが示した神の愛を実践する人をご自分の友としてくださるのです。
 主イエスやその弟子たちは、先ほども少し触れたように、ローマ帝国からもユダヤ教の側からも弾圧され迫害され、とても辛く厳しい状況に置かれていました。でもその厳しい中で、クリスチャン集団はその共同体全体で復活したキリストの体を表現し、主イエスの「互いに愛し合いなさい」という命令を実践したのでした。私たちも、主イエスの体である教会の部分としてそれぞれの人が生かされています。私たちはその「互いに愛し合う」ことの内実を創っていくことができるように、毎主日の礼拝で御言葉を受け主イエスの体と血を受けて、養われ、ここから遣わされていくのです。
 たとえ私たち一人ひとりの力は小さくても、私たちは永遠の初めから永遠の終わりまで生きて働く神の大きな歴史の中に用いられて生かされています。私たちは、その神の大きな働きの中に意味づけられ、受け入れられています。それは、16節にあるとおり、私たちが救い主イエスを選んで起きたことではなく、先ず主イエスが私たちを選び神の愛によって生かして下さっている事なのです。
 私たちは、主イエスを通して先ず神に愛されている者であることを知り、その恵みに応え、例え小さな私たちでも神の愛の働きを行うことが出来るように、ここから遣わされていきましょう。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 17:00| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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