2018年08月06日

信仰から信仰へ   ヨハネによる福音書6:24−35   聖霊降臨後第11主日(特定13) 

信仰から信仰へ
ヨハネによる福音書6:24−35   聖霊降臨後第11主日(特定13)  2018.08.05

 今日の聖書日課福音書の個所は、主イエスが5千人にパンを与えた物語と主イエスが湖の上を歩いた物語の後に続いています。
 僅かなパンと魚で多くの人を養ったイエスを目の当たりにした群衆は、更に主イエスの新しいみ業を期待して御許に集まってきます。群衆の中には、先にパンを与えられて満ち足り、主イエスからもっと多くを与えられることを願って主イエスから離れようとしない人々も沢山いたのです。
 そのように集まってくる人々をご覧になって主イエスは言われました。
 「はっきり言っておく。あなたがたはわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」
 ここで言う「しるし」とは神の業を意味するヨハネによる福音書特有の表現です。群衆の多くは、パンを受けてそこに主イエスの神の子としての徴を見たのではありませんでした。彼らはパンを与えられて満腹すると、また満腹することを求めて、あるいはもっと多くを期待して、主イエスを捜すのです。主イエスはそのような群衆の有様を「しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」と言っておられます。言葉を換えて言えば、多くの人々は主イエスの働きとそのしるしを見ても、自分が更に物質的に富むことを求めてしまう群衆の有様を指摘しておられると言うこともできるでしょう。
 主イエスが指摘するこのような姿は、決して今から二千年前のガリラヤ湖畔やカファルナウム周辺の群衆に限ったことではありません。
 第2次世界大戦直後の日本がまだ生活物資や食糧にも事欠いていた頃、「ライス・クリスチャン」という言葉が聞かれました。
 第二次世界大戦直後の日本には、食べる物も着る物もなかなか思うように手に入れられない時代がありました。そのような時代に、海外のララ(Licensed Agencies for Relief in Asia アジア公認救援団体)という団体から沢山の支援物資が日本に届けられました。ことにアメリカの教会は日本の物資や食糧を支援する事に献身的に尽くしてくれました。そのララ物資の多くは英米の宣教師の手を通して日本人に渡ることも多く、多くの日本人が祈りも聖書も二の次三の次で配給される物資を手に入れることを願い、それを受けることが教会員の特権だと考えて洗礼を受ける人々もいたのでした。そうした人々を皮肉を込めて「ライス・クリスチャン」つまり「ご飯目当てのクリスチャン」と呼んだのです。
 一方では、きっかけが何であれ、自分に与えられた物的な恵みを通して信仰へと深く導かれていった人もいます。私たちの周りにもその様な人が沢山いることと思います。しかし、恵みを与えてくださるイエスに付いていけば、パンを手に入れることが出来るしリッチな思いになることも出来るとか、イエスに付いていけば出世もできるし権力を握ることも出来るという考えの域を超えない人々もまた沢山いましたし、主イエスを利用するだけ利用してこれ以上自分の得になることはもう得られないと思えて教会から離れていった人たちもまた沢山いたのです。
 聖書の中の群衆の多くは、パンの奇跡にあずかっても人の思いを超えて恵みをお与え下さるお方の愛の深さにまで目を向けることが出来ませんでした。人々はそのお方から自分の欲しい物を得るばかりで、主イエスの人格には近付こうとしませんでした。こうした人々は主イエスが神の子としてお示しになるしるしを見ても、自分の信仰はそっちのけにして、更に多くを奪うことやより多くの物的な恩恵を受けることを求めて、主イエスの後を追い回しました。
 このような態度は、本来神みの恵によって生かされているはずの人間が、自分の欲望のために神の恵みを自分の中に取り込み、神の恵みを利用しようとする態度であるといえるでしょう。このような人間の傲慢に対しても、神は実に根気強く丁寧に、しかも犠牲的に、人間に関わってくださっています。
 その最も典型的で代表的な例が今日の旧約聖書日課出エジプトの中に見られます。今日の旧約聖書日課の個所は、エジプトを脱出したイスラエルの民の姿が描かれていますが、彼らはエジプトから出て行くとすぐに食糧が乏しくなります。彼らの希望は、不平不満に変わりますが、その時神はウズラとマナによって養ってくださいました。
 イスラエルの民は神の御手によって奇跡的にエジプトを脱出して紅海を渡り、シナイ半島の荒れ野の旅が始まりました。するとイスラエルの民はすぐに食糧が尽き果てモーセとアロンに向かって不平不満を言い始めます。「我々はエジプトに留まっていた方がましだった。モーセは我々を荒れ野で飢え死にさせるために荒れ野に連れ出したのか。」
 神はこのような民の不平不満をお聞きになり、夕方にはウズラを与え、朝にはマナを降らせて、イスラエルの民を支えて下さり、イスラエルの民は飢えをしのぐことが出来ました。主なる神がお与え下さったこの養いは、ただ単にイスラエルの民が美味しいものを食べて荒れ野の生活を不自由なく過ごすことを意図したものではありませんでした。むしろ、イスラエルの民が荒れ野の生活に行き詰まったとき、神は人の思いや力を超えて民を養って下さり、主なる神はイスラエルの民を荒れ野で訓練して、その信仰を練り上げようとなさったのです。
 「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きること」を教えて下さいました。
 旧約聖書出エジプト記のこの物語の中の神も、今日の福音書の主イエスも、人に物を与えてそれで良しとするのではなく、かえって神は人を辛く厳しい状況に置いて訓練し、信仰の成長を試し促す事もなさっています。エジプトを抜け出したイスラエルの民は、主なる神がお示しになるカナンの地に入るまで実に40年の年月を費やしました。これは主なる神のご計画であり、その中でイスラエルの民は自分たちが「神の言葉によって生きる民である」という自覚を深めていったのでした。
 私たちも主なる神さまから色々な恵みをいただきます。私たちは神の恵みにどのように応えるのでしょうか。私たちは自分の物欲や名誉欲を満たすためにますます主なる神を利用するのでしょうか。その様な生き方から脱することの出来ないライスクリスチャンはやがてこの世の富を得る機会が他の場でも増えると、物の豊かな時代が時代の到来と共に教会を離れていきました。
 主イエスは今日の聖書日課福音書であるヨハネによる福音書第6章27節で、こう言っておられます。
 「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ人の子があなたに与える食べ物である。」
 弟子のペトロのことを思い起こしてみましょう。ガリラヤ湖の漁師であったペトロは主イエスによって大漁を与えられました。その時ペトロは、イエスにもっと多くの魚を得ることも求めたのではなく、イエスを信じられずにいた自分の罪深さに気付き、主イエスに従っていく事へと導かれています。ペトロはその後も主イエスに叱られ、更には主イエスを裏切りながらも、ペトロはイエスとの関わりのうちに信仰を深める歩みを続け、初代教会の霊的指導者になっていきました。
 私たちが教会に招かれたきっかけは様々でした。主なる神はそれらのことを通して私たちを朽ちることのない命へと招いておられます。私たちがクリスチャンとして生きるのは、ただクリスチャンでいることの都合良さや便利さを分け合うためではありません。私たちは主なる神の御言葉に養われ祈りの交わりの中で生かされ、本当のこと、正しい事へと歩み、主なる神との交わりを日々深めて生きるように招かれているのです。主イエスが私たちを招いてくださった中にある神の恵みと御心を思い、いつまでもなくならない永遠の命の至る信仰の歩みを導かれて参りましょう。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 05:29| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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