2018年08月30日

信仰の再確認     ヨシュア24:14−25          2018.08.26 (特定16)

信仰の再確認 
ヨシュア24:14−25     (特定16)     2018.08.26

 今日の旧約聖書日課より、ヨシュア記第24章15節をもう一度読んでみます。
 「もし主に仕えたくないというならば、川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます。」
 今日はこの御言葉から、私たちも信仰の自覚を新たにしたいと思います。
 はじめに、ヨシュアがどのような場面でこの言葉を告げているのかを振り返ってみましょう。
 エジプトの地で奴隷であったイスラエルの民は、自分たちの力によってではなく、神の力によって奇跡的にエジプトを抜け出すことができました。そして40年に渡って荒れ野での放浪の生活を続けた後、約束の地カナンに入り込み、既にその地に住んでいた人々(先住民)と戦って、その土地を自分たちの住む場所にしていきました。彼らは「乳と密との流れる地」とまで歌い上げ夢に見た地を神から授けられ、彼らはこの土地を各部族ごとに割り当てて、これでやっと落ち着いた定住の生活を始めることができることの喜びに満たされていたことと思います。
 しかし、ヨシュアはこのような時にこそ生まれてくる、イスラエルの民の新たな信仰的課題を見据えていました。放浪と侵略の生活を終えてこれまでとは違う生活が始まると、そこに新しい生活の様式や習慣がうまれ、それに伴って民の意識も変わってくることになり、人々の心にはこれまでになかった安堵とともに気の緩みも生まれてきます。当然そこには、今までなかった思いや考えが生まれてくる可能性も予想されます。それに加えて、この地には先に住み着いていた民族の土着の宗教があります。そしてそのような土着宗教がイスラエルの民の生活に入り込めば、これまで神の民として生きてきた信仰の根幹を揺るがされることも考えられます。
 これまで長い放浪と戦いを強いられた末に定住の生活を始めようとする今、ヨシュアは全イスラエルをシケムに集めました。シケムはイスラエルの民にとって由緒ある所です。昔イスラエル民族の父であるアブラハムは神に召し出され、行き先も示されず故郷を捨ててわずかな家族と家畜を連れて旅に出ました。そして初めて主の祭壇を築いたのがこのシケムでした。主なる神はアブラハムにシケムで「わたしはあなたの子孫にこの地を与える」と言って下さったのでした。その後、実に数百年を経て主なる神はその約束を成し遂げて下さいました。イスラエルの民がその地でこれから定住の生活を始めるにあたり、ヨシュアは民全体に向かって、自分たちが何故今ここに在るのかをもう一度思い起し、主に仕える生活を始めることができるように信仰の再決断を迫るのです。
 「あなたがたは、私たちに奇跡を行い、マナを降らせ、絶えず共にいて導いて下さった主なる神に仕えるのか、それともそれを喜びとせずあなた方は他の神々に仕えるのか、あなた方は今日選び取りなさい。」とヨシュアは言います。
このことは、「ヤハウェ信仰の再決断」とでも言えるでしょう。
 ヨシュアがこのように言って信仰の再決断を促すのは何故でしょうか。
 イスラエルの民はかつてはエジプトの地で奴隷になっていました。その民がモーセをリーダーとしてエジプトを脱出した後、40年にわたって荒れ野での放浪の生活を強いられましたが、後継者ヨシュアによってカナンの地に侵入する時にはその地を取り戻すための戦いを余儀なくされてきました。それはイスラエルの民にとって辛く苦しい経験でしたが、その中で彼らは「人はパンだけで生きるのではなく神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」ことをはじめ、多くの信仰的な鍛錬を受けたのでした。そしてこの地を与えられてこれから腰を落ち着けて定住の生活していく目途が立ちました。それは大きな恵みであり感謝すべき事なのですが、その一方でヨシュアは定住の生活がイスラエルの民にとって信仰の基盤を大きく揺さぶられる問題であることを見通していたのです。
 それまでイスラエルの民は長い間奴隷であったり、放浪の生活をしてきましたので、自分で所有できる財産はごく限られたものでしかありませんでした。ところが、彼らがかつては「乳と密の流れるところ」とまで言って夢見た土地での生活が始まると、彼らの生活は当然土地を耕して種を蒔き収穫を上げる生活に変わっていきます。すると奴隷であったり放浪の生活では財産にすることなど考えられなかった土地そのものが彼らの財産になり、もし収穫が上がれば倉を造って収穫した穀物を自分の財産にし商品にすることさえできるようになるのです。これまで奴隷として呻き放浪の民として嘆き、ただ天よりの導きを頼み神の御心を求めて生きてきた民が、自分の土地を得ること、土地を拡げること、そこでより多くの収穫を得ることを求めるように変わっていくことをヨシュアは見通していたのでしょう。貧困や厳しい生活環境から抜け出して救われることは、人が生きていく上で大切なことは言うまでもありません。でも、ヨシュアはそれらの変化の中でイスラエルの民の信仰や意識も変わっていくであろうことを見通しました。そこには、イスラエルの民の生活の中心が、主なる神の御心によって生かされることから離れて、自分の富を増やしそれにより富める者が貧しい者を財力によって支配したり、富める者の意識が神の御心から離れて弱く貧しい人々の人権さえ奪い取る社会へと移り変わっていく危険をも含んでいます。
 当時、カナンの地はバアルという農業の神、豊穣多産の神を祭る宗教が支配していました。この世で多くの収穫を上げて豊かになりその富で酒や性の遊び戯れをする土地神の宗教であるバアルが、これからのイスラエルの民にとって大きな誘惑となることは明らかです。その様な状況の中で、ヨシュアはイスラエルの民に徹底して「あなたがたはどの神に仕えて礼拝するのか」と問うて、イスラエルの民の信仰の明確な自覚を促しています。
 今日の旧約聖書日課の箇所を見てみると、ヨシュアとイスラエルの民とのやりとりには非常に興味深いものがあります。ヨシュアが自分と家族は主に仕えるがあなた方はどうするのかとイスラエルの民に問うと、民は18節で「わたしたちも主に仕えます。」と言います。ヨシュアは更に21節で「あなたがたは主に仕え通すことはできないのではないか」と問いかけますが、民はそれに応えて「いいえ、わたしたちは主を礼拝します。」と言うのです。ヨシュアは「今あなた方がその様に答えたが、そのことの証人はあなた方自身である」と自覚を促して、更に、「それではあなたたちのもとにある外国の神々を取り除き、主に心を傾けなさい。」と言います。民はこれに応えて「わたしたちの神、主にわたしたちは仕え、その声に聞き従います。」と言っています。このようなやりとりの中で、イスラエルの民は十戒によって主なる神との間に立てた契約をもう一度明確にし、自分のこととしていきます。
 先ほども少し触れましたが、ヨシュアは主なる神に仕えるという選びと決断をいつも保ち続けることがどれほど大切なことなのかをよく知っていました。ヨシュアはその事を知るが故に幾度も問いかけて民に応答を求めます。そして主に仕えるという選びと決断をより明確にして、イスラエルの民のヤハウェ神への信仰を堅固なものにしています。
 ヨシュアの時代ばかりではなく私たちの生きる現代の世界にも、人を本当の信仰によって生きることから引き離して、一時の物の豊かさに誘惑するものが満ち溢れています。私たちは今日の聖所日課から、自分の信仰を歪めたり風化させたりせずに、絶えず自分の信仰を自覚化し新たにしていくことを促されています。
 私たちの生きている世界では多くのことが数字で表す経済的効果を判断の軸とし、その基準に照らして評価することが当たり前になっています。また、武力を神とし、より殺傷能力の強い強い兵器をより多く持つ者が弱い者の生き方までも支配し規定しようとしています。このような世界の中で、私たちは誰を本当の神として仕えようとするのでしょうか。
 主なる神は、今日の旧約聖書日課のヨシュアの言葉によって私たちにも信仰の自覚と再決断を迫っています。24章14節以下で、ヨシュアは「あなたたちの先祖が川の向こう側やエジプトで仕えていた神々を除き去って、主に仕えなさい。あなたたちが仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。」と言います。「わたしたちは主に仕えます」と答える民に向かってヨシュアは更に「それでは、あなたたちのもとにある外国の神々を取り除き、イスラエルの神、主に心を向けなさい。」と信仰の具体的生活の中での徹底を促します。
 今日の聖書日課のヨシュアの呼びかけに応えて、私たちもで「わたしたちの神、主にわたしたちは仕え、その声に聞き従います。」とお答えし、主なる神への信仰を新たにされたいと思います。 
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 05:08| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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