2018年09月10日

開けよ マルコによる福音書第7章31−37   (特定18)  2018.09.09

開けよ 
マルコによる福音書第7章31−37            2018.09.09

 神学生時代に旧約聖書の言葉であるヘブライ語を学ぶ余裕がなかった私は、その後もヘブライ語を学ぶことなく過ごしてしまいました。それでも私はイエスの時代の言葉をしゃべることができます。「エッファタ」、「タリタ、クム」、それに「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」。
 これらは、ヘブライ語の中でも当時の日常語(日用語)であったアラム語であり、マルコによる福音書はイエスが語られたこれらの言葉をそのまま原語で用いており、この福音書の読み手である私たちにもその場の臨場感と共に、「その時、イエスが発したのはこの言葉だった」ということをそのまま伝えようとしたのではないでしょうか。
 主イエスは、あちこちの町や村を巡り歩いて人々に神に国の教えを説き、また、人びとを癒したり悪霊を追い出す働きをなさいました。主イエスがガリラヤ湖畔にやって来られたとき、人々は主イエスのところに耳が聞こえず舌の回らない人を連れてきて、その人に手を置いてくださるようにと願いました。主イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出して、耳を聞こえるようにし舌のもつれを解いてくださいました。
 耳が聞こえず口の利けない人の世界とは、他の人々とのコミュニケーションが遮断されている世界であり、それ故に心も閉ざされて動きのない状態になっていることを意味しているのではないでしょうか。
 主イエスが宣べ伝えておられた天の国とは、人びとの心が開かれ、お互いに本当の自分を示し合い、聞き合い語り合い、心が結び合う世界です。主イエスはその様な世界を実現するために生涯をお献げになったとも言うことができます。
 私たちはどのようなときに自分の心が開かれる経験をし、またどのようなときに心が閉ざされる経験をしているでしょうか。
 もし私たちが、今自分の生きている世界にウソや偽りがある事を感じたら、自分を守るために防衛的になり、お決まりの言葉やその場しのぎの言葉で上辺を装い、自分の心の中を隠して、その結果ありのままの自分を表現することをやめて心を閉ざすでしょう。そして互いに相手の腹の中を探り合い、時には相手を威嚇したりけなしたりもすることになるでしょう。そうしていては、本当の自分を開いて互いに深く語り合い理解し合うことも共感し合うこともなくなります。そして、次第に孤独の中に入り込んでいくことになります。「耳が聞こえず、舌の回らない人」とは単に身体的機能としての聴力が無い事や舌が動かない人のことを言っているのではなく、今申し上げたような意味での豊かな心の通い合いを失ってしまっている人のことを言っているようにも思えてきます。主イエスは、きっと聞くことも話すこともできない人の苦しさや悲しさに、またそのような状況を生み出す世界に胸を痛めておられたことでしょう。
 主イエスは連れ出されてきたこの人を群衆の中から連れ出して二人だけの場をつくり、この人の両耳に指を差し入れ更にご自分の唾で濡らした指でこの人の舌に触れました。このような一連の動作はその当時の逐霊師たちがしばしば行っていた悪魔払いの所作であり、主イエスの特別な所作ではなかったようです。主イエスはそれに加えて深く息をして「エッファタ」と言われたのでした。
 今日の聖所日課福音書の中の、二つの言葉に注目してみたいと思います。
 その一つは、「深く息をつき」という言葉です。この言葉は聖書の他の箇所に「うめく」と訳されて出てきます。例えば、パウロはローマの信徒への手紙第8章23節で「霊の初穂を戴いているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。」、また28節で「わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」とこの言葉が用いられています。つまり、主イエスは目の前に連れ出されてきたこの人の耳も口も閉ざされて深い孤独の中にいる姿をご覧になり、胸を痛めて、呻くような思いで祈りの言葉を口にされた、とマルコは伝えているのです。
 そしてもう一つ注目したい言葉は、その時に主イエスが発せられた「エッファタ」という言葉です。この言葉は当時主イエスが日頃用いておられたイスラエルの日常語であるアラム語です。はじめにも触れたとおり、マルコは主イエスが「エッファタ」と言われた言葉をそのまま臨場感を残して伝えます。そして、「これは「開け」という意味である」と説明を加えています。主イエスが発せられた「エッファタ」とは、他の人と交流できずに閉じこもっている孤独な世界から解き放たれて開かれよ、と言う意味なのだと、福音記者マルコは読み手である私たちに伝えているのです。
 深く息をつく主イエス、そして「開けよ」と言うイエス、ここから主イエスのお働きの源が少し見えてくる気がします。
 主イエスの時代には、耳が聞こえないとか口がきけないということは、神から罰を受けた徴が身に現れていると考えられたり、神から見放された人に悪霊が取り憑きその悪霊に支配されていることと考えられ、それは「汚れ」の徴とも見なされました。
 主イエスは今その人の正面に立たれます。そして、その人の苦しみや悲しみをご自身で引き受けて、その人の苦しみや悲しみよりももっと深く呻いて、「開けよ」と宣言してくださいます。それは、神が私たちに与えてくださった一人一人の実存を回復し、神を根底に据えた人びとの交わりに中に私たちを招こうとする宣言でもあるのです。
 もし私たちの心が固く閉ざされて、他の人の言葉を聴こうとせず話しかけようともしないのなら、そこからは神の望む愛の世界は開かれてこないでしょう。私たちの世界に対話と心の交流が生まれるとしたら、私たちは先ず自分の心を開き相手の人を信頼して、自分を開いていくことが必要なのです。私たちは、私たちがいがみ合い憎み合い心を閉ざすとき、そこに立つ主イエスが深い呻きをともなって「開けよ」と言っておられるお姿を思い起こす必要があるのです。
 私たちはその愛と信頼の究極の姿を十字架の主イエスに見ることができます。主イエスを通して神の御心が現れ出た世界では、一人ひとりの目も耳も口も開かれて、他の人との間に愛に裏打ちされた対話が生まれてきます。そこでは、全ての人が恐れなく自分を開いて表現し、それを分け合う事ができるのです。主イエスは、耳が聞こえず口に聞けない人を癒して、そこに神の国の姿が開かれたことを、人びとにお示しになりました。
 主イエスがお生まれになる七百年以上も前に、預言者イザヤは主なる神の御心が回復されたときの姿を思い描いて次のように歌いました。今日の旧約聖書日課のイザヤ書第35章5〜6節です。
  「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。
  そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。
  口の利けなかった人が喜び歌う。
  荒れ野に水が湧き出で、荒れ地に川が流れる。」
 今日の福音書は、昔イザヤがイメージして歌った世界が主イエスによって今、開かれたことを告げています。私たちは、主イエスが開いてくださった神の国の中に生かされています。そして、この世界に、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開くことが実現するように、そのための働き人になることを主イエスに求められています。
 私たちは、自由にものを見て聞いて表現できることがどれほど大切であるかを身をもって知っているはずです。あるいは、そうできない不健康さや不自由さを身をもって知っているはずです。そして、本当の事を見て聞いて表現する自由を獲得するためにどれほど険しい道のりを歩まなければないかについて、私たちは主イエスさまの十字架を通して知っています。
 私たちは自分の口を開くとき、主なる神への感謝と賛美を表す者でありたいと思います。また、私たちが口を開くとき、深い呻きを伴うほどの思いを込めて他の人々のために執り成して祈る者でありたいと思います。主イエスは、私たちのためにも深く息をついて「エッファタ」(開けよ)と祈っていてくださいます。
 主イエスの愛によって目も耳も口の開かれて、神の国の働きに与り、主なる神への感謝と賛美へと向かうことができますように。
 今日の福音書の御言葉に応えて、「主よ、私たちの口を開いてください。私たちは主の誉れを表します。」と信仰を表明し、主の働きを担い、信仰の道を歩んで参りましょう。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 05:39| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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