2018年10月07日

力   2018.10.07

 力
                                           小野寺達
 カトリック教会の信仰者であった作家の故遠藤周作氏は、自分の信仰を深く見つめつつ、自分の思うイエス(「私のイエス」)の姿を幾つかの作品の中に描き出しています。遠藤氏がそれらの作品の中で描くイエスは、奇跡や癒やしの業は何もできないけれど、相手に寄り添ってその人を受け入れどこまでも共にいる人として描かれることが多いように思われます。そして、そのように描かれるイエスの印象は、弱々しく物足りなさを感じる、という人も多いようです。
 かつて、ある教会の機関誌の中に、次のような一文を目にしたことがあります。
 「奇跡を行い、神の教えを説き、病の人を癒やしてきたイエスが十字架の上で何もできずに死んでいく姿の弱さに失望した。」
 でも、私は遠藤周作氏が描くイエスは決して弱くはないし、何もできなかったのではないと思います。もし、神の意志を貫徹する強さがなければ、イエスは十字架につくこともなかったのではないか、と私は考えます。
 イエスの力とは、物理学的な数量の大きさで例えられる力ではないのです。
 幼稚園の園長でもある私は、かつて遠足で次のような経験をしました。
幾つかの幼稚園や保育所が同じ公園に遠足に来ていました。幾つかの遊具の前に色々な園の子どもたちが順番待ちの列をつくっています。その列の一つに、ある園の子どもが割り込んできました。たまたまそこに居合わせた私は、思わず「みんな順番を待って並んでいるのだから、あなたは一番後ろに並びなさい。」と言いました。
すると、恐らくその子どもの所属する園の先生らしい人同士の声が私の頭の後ろから聞こえてきました。
「うちの子どもたちは逞しいわね。」
私は、グッと堪えましたが、怒鳴りつけてやりたい気持ちになりました(実際にはしませんでしたが・・・)。
「それは逞しさではなくて、厚かましさでしょ!あなたの園ではどんな子を育てたいのですか!」
イエスが神の御心を生きるということは、自分一人が他人より多くを得るために厚かましく生きることや力によって他人を従えることではありませんでした。目の前にいる人が自分のせいではないのに貧しくされ、汚れたものとされ、生きることが困難になっているのであれば、その人と私との間に、神がそこに存在している姿が現れ出るようにと祈りつつ、その実現のために自分ができることを貫いて生きたのがイエスです。しかもイエスはそれを暴力によってではなく、愛し抜くことによって実現なさいました。イエスは、暴力的な力によっては究極の平和は得られず、神の御心は完成しないと考えていたのでしょう。その結果、自分が十字架に付けられることになると分かっていても、自分の目の前にいる人に神の御心が現れ出るようにと祈りながら、その人にかかわり続けたのがイエスです。
私は園児と礼拝しますが、礼拝の中で、時々次のような歌詞の聖歌を歌います。
 「神さま ください 信じる力を
 みんなと一緒に 生きる力を」
この歌を元気な声で歌う子どもたちも、おそらく思春期を迎える頃から、遠藤周作氏の描くようなイエス像については、「そんな生き方じゃ世の中を生き抜いていけない。」と思う日が来るかもしれません。また、「信じることや愛することは強いことではなく、現実に立ち向かう力にならない。それが何の役に立つの。」と悩む日が来るかもしれません。
現代は、国の政治の世界でもイジメの世界でも、力を誇示する者の時代であり、力を恐れる人々は力を誇示する者にすり寄って生きようとしていますし、その力に抵抗する者を仲間外れにしようとする時代です。
そのような時代の中で、生きていく強さを身に付けることとは、暴力的で厚かましい力を身に付けていくことではなく、弱い者も小さい者も大切にされて共に生きていくことのできる世界を創り出すことに労を厭わない強さを身に付けることではないでしょうか。そして、恐れずにそれを実行していく力を身に付けることが、生きる力を身に付けることであると私は思うのです。
その力を名付ければ、「愛力」と言えるかもしれません。そんな言葉はありませんが、まさにこの「愛力」こそイエスの力なのです。
イエスは、自分がそのような愛の力によって生きれば、体制を維持しようとするユダヤ教の指導者たちの反感を買い、迫害され殺されることになると分かっていました。でも、イエスはその生き方を貫き、人を愛し抜き、そのような生き方の先に何があるのかを示してくださいました。
イエスの伝えた救いは、私たちが呪文を唱えるように祈ればその願いが直ぐに満たされるという魔法のような救いではなく、神の愛の力によって一人ひとりの命が大切にされ、その交わりの中で自分として生きる喜びを獲得していく、という救いなのです。もし、イエスに期待して失望するのであれば、自分はイエスに何を求めどのように生きていこうとしているのかを謙虚に振り返ってみる必要があるのではないでしょうか。
教会は、救い主イエスを自分の救い主として受け入れた者の集まりです。
私たちはそれぞれに、そのイエスにどのような力を見てイエスを救い主と告白し、イエスを通して何が実現することを願い求めているのでしょう。
『草苑』(水戸聖ステパノ教会月報)2018年10月号
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 22:58| Comment(0) | 牧師のコラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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