2018年10月07日

究極の他者イエス マルコ10:2−9,創世記2:18−22  2018.10.07

究極の他者イエス
マルコによる福音書10:2−9 創世記2:18−22  B特22        2018.10.07

 今日の聖書日課は、旧約聖書、使徒書、福音書ともに、私たちが生きる上での「相手、他者」について教えています。ことに、旧約聖書日課の箇所と、福音書の最後の部分の言葉は結婚式の時にもよく読まれる箇所ですが、今日は旧約聖書日課を中心に人が生きる上での他者、相手ということについて教えられ、導かれたいと思います。
 初めの人アダムが創られ、エデンの園に住むことを許されました。でも、アダムは孤独でした。創世記の第1章には神がお創りになった世界はとても良かったと記されています。その素晴らしい世界にいてもアダムは孤独なのです。神は「人が独りでいるのは良くない」と言われます。アダムだけではなく、人は誰でも、他の人との交わりがなかったら、思い考えることは次第に現実から離れて、独り善がりになり、更に自分勝手になってしまうことも多いのです。もし人が、生まれた後あらゆる事をたった独りでやっていかなければならないのなら、おそらく3日と生きていられないでしょう。あるいはまた、生まれたばかりの赤ちゃんが、たとえどれほど豊富な栄養を摂取できたとしても、もし、人から言葉もかけられずあやされることもなく視線を交わす相手もなく、ただ寝かされているだけだとしたら、その赤ちゃんは情緒の安定した豊かな人に育つことは困難になってしまいます。
 私たちは、もしたった独りで居るしかないとしたら、たとえそれがエデンの園の中であったとしても、何と寂しく不幸なことでしょう。人は何不自由のない暮らしをしていても、もし本当に心を通わせる相手が一人も居なかったら、不安定になり精神的に病理的な言動を起こすことにもつながっていくことでしょう。また、せっかく他者との豊かな交わりに生きる可能性を与えられているにもかかわらず、人と共に生きることのできない寂しさややるせなさを感じている人は意外と多いのではないでしょうか。
 創世記の第1章で、主なる神は野の全ての獣や空の鳥を創り、人にその管理をお任せになりました。でも、野の獣や空の鳥は、人の究極的な相手にはなり得ませんでした。このような人の姿をご覧になって、神は人を深い眠りに落とし、その人が深く眠り込んだとき、その人の体からあばら骨の一部を抜き取りその骨で相手となる女の人をお創りになったのでした。
 なぜ、主なる神はこんな事をなさったのでしょう。
 主が人の体からあばら骨を取り出したことに着目してみましょう。昔、ユダヤの人々は人間の感情は胸から発する(感情の座は胸にある)と考えました。日本語でも「腹が立つ」「胸が痛む」「頭にくる」と言うように、私たちはしばしば感情の動きを体のある部分を用いて表現します。主なる神は、人の胸の中をガードするあばら骨の一部を抜き取って、その骨で相手となる女の人をお創りになったのです。つまり、神は、人の心、人の感情、情動の固い守りを少しはずし、その守りを薄くして、人の相手になる存在をお創りになったのです。こうして人は自分の感じていることや思っていることを他の人に伝えるように、そして相手の言動に自分の心が共感し、その思いをまた目の前の相手に伝えて共に生きるための「相手」を創って下さったのです。人はお互いに深く心が通い合う存在であり、お互いに相手の心の内を理解し合ってこそ、自分が生きていることを実感し喜び合える存在として創られたのです。私たちは、もし自分の本当の気持ちをいつも押し隠すだけで他の人と分かち合おうとしないのなら、その人がたとえどれほど多弁であっても、どこか空々しく虚しい思いになるのではないでしょうか。
 主なる神さまが人のあばら骨の一部を抜き取って創られた「相手」のことを聖書では「助ける者」と訳しています。この言葉は「ヘルパー」とか「援助する人」という意味ではなく、「パートナー」とか「コンパニオン」という意味を持つ言葉です。今日の旧約聖書日課の箇所で、人(アダム)は自分のお手伝いさんや下僕を与えられたのではなく、お互いに心を開き、分かち合い、理解し合う存在、共に生きる相手を与えられたのです。
 このパートナーが連れてこられたとき、アダムは言いました。
 「これこそ私の骨の骨、私の肉に肉。」
 相手はまさに自分の分身なのです。お互いに自分を分け合い、心を開いて語り合い、理解し合える時、その相手は互いにまさに自分の分身なのです。アダムは更に続けて言います。「これをこそ女(イシャー)と呼ぼう。まさに男(イシュ)から取られたものだから。」神が骨を分けて創られた男と女は、神がお互いのためにお創りになりお与えになった良きパートナーでありコンパニオンなのです。元の言葉であるヘブライ語ではカッコの中にあるように男、女はイシュ、イシャーという言葉であり、発音上でも男と女は共に呼び掛け合い響き合う存在つまり共感を持って理解し合う存在なのです。
 ユダヤ人の哲学者で19世紀後半から20世紀半ばを生きたマルチン・ブーバーという人がいます。この人が人間関係を「我−汝」という言葉で説明していますが、その一文を引用してましょう。
 『世界は人間のとる二つの態度によって二つとなる。その二つとは「我−汝」と「我−それ」の世界である。私たちがある人と向かい合う時、その人の外見、特徴を見抜こうとする。これは「我−それ」の世界である。実際、人間はこのような「我−それ」の関係だけで生きるのは真の人間ではない。その人の全人格を認める「我−汝」の関係が根底になければならない。』
 ブーバーは、神が人のあばら骨から相手となる人間を創り出した神話を的確な哲学の言葉に置き換えていると言えるのではないでしょうか。そしてブーバーは、この「我−汝」の関係に開かれて生きる態度が重要であると指摘しています。私たち人間は自分中心に独りで生きることによってではなく、他者との交わりに中で自分と相手の命を育み、そこに人間としての価値を示すのです。アダムは、そのような意味で相手となる人を見た時、「ついに、これこそ、わたしの骨の骨、肉の肉。」と言っているのです。
 しかし、創世記を今日の日課の先まで読み進めていくと、神が人をせっかくこのように生きる可能性を開いて下さったのに、罪を犯す人を描きます。あらゆる良き物に囲まれたエデンの園にいてさえ、人は神とのつながりを忘れ罪を犯すのです。そして、お互いに罪の責任を他者になすり付け合い傷付け合う姿、少しも本当の自分を開かず、分かち合わず、心に壁をつくり、自分を固く防衛して傷つけ合う者へと成り下がる姿を描きます。人はたとえ良き助ける者が与えられても、神の御心に開かれていなければ、それだけでは罪の中をさまよい歩く者に過ぎないことを、聖書は物語るのです。
 創世記は更にカインとアベルの物語へと続きます。エデンの園を追放された人間は神の御心から離れ、自分のパートナーのことを顧みず、その存在を否定し、カインは弟アベルを抹殺して知らぬ顔をするという身勝手で傲慢な者へと成り下がって行きます。そして人々の中に不信感が生まれ、心を開いて分かち合うことを止め、お互いは相手を自分の欲望と野心を満たすために利用する道具としか考えなくなるのです。
 それでは、お互いを信頼して怖れなく心を開いて愛によって共鳴し合う世界は永遠に失われてしまったのでしょうか。もしそうだとしたら、それは回復出来るのでしょうか。人が自分の力では回復できなくなってしまったこの信頼の関係を、神は主イエスを通して取り戻して下さいました。
主なる神は、主イエスに貧しいお姿を取らせ、神が人を愛し信頼してくださるしるしを飼い葉桶の中にお与えくださいました。それは、たとえ私たちがどんなに孤独になり自分を閉ざすことがあろうと、神は自分を開き、人の世界に入り込み、主イエスが私たちの助け手となって下さるためでした。主イエスは、徴税人、病を負った人、汚れたもの扱いされる人等と共にいて、その人々と「我−汝」の関係をとってどこまでも共にいて下さり、誰もが神から与えられた自分の命を全うして生きることが出来るように仕えて下さいました。そして、最期には誰一人主イエスのパートナーになる者などいない中で、十字架の上で他者の罪の苦しみを担い、罪人の姿をとって死んで行かれました。こうして主イエスは、ただ一人孤独のうちに見捨てられて死に行く人とも共にいて下さり、死の先にまで共にいて下さる事を身をもって示して下さったのです。このような「究極のパートナー」である主イエスに生かされて、限りある私たちでも、お互いに助け手になり、パートナーになれる道を開かれたのです。
 私たちはこの主イエスを自分の良き同伴者として、主イエスまを通して神の前に自分の全てを開き、生きる幸いを与えられています。主によって生かされ、お互いに「良き助け手」として仕え合う交わりを、教会の中に育て上げていきましょう。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 23:07| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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