2018年10月22日

「いちばん上になりたい者は」 (マルコ10:35−45) B年特定24            2018.10.21

「いちばん上になりたい者は」 (マルコ10:35−45)B年特定24            2018.10.21
  

 今日の福音書より、マルコによる福音書第10章43節と44節をもう一度読んでみましょう。「あなたがたの間で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者はすべての人の僕になりなさい。」
 『聖書-新共同訳-』では、今日の福音書の箇所に、「ヤコブとヨハネの願い」という小見出しがついています。
 弟子のヤコブとヨハネが主イエスの所の進み出て「やがてあなたが栄光をお受けになるときに、わたしたちをあなたの左右の座に着かせてください」と願いました。主イエスは二人の願いに「偉くなりたい者は皆に仕える者になり、上に立ちたいのなら全ての人の僕になりなさい」と教えておられます。
 この物語は、多くの場合、弟子たちの無理解を描いていると説明されます。
 主イエスが十字架に向かう途上におられるにもかかわらず、弟子たちはその重大さに気付かず、自分たちの中で誰が偉いか、主イエスがエルサレムに行ってユダヤ教の指導者たちを従えて君臨することになったら、その側近として誰が相応しいかを論じたりしています。今日の福音書の箇所でも、ヤコブとヨハネは他の弟子たちを出し抜いて主イエスに「左右の座に着かせて欲しい」と願い出ていることに他の弟子たちが腹を立てたりしている姿を描き、イエスが誰にも理解されない中で十字架に向かって行かれることをハイライトさせていると説明されます。 そのように読むことは、ある意味、正しい読み方だと言えるでしょう。今日の聖書日課福音書をそのように読み取る必要もあることを踏まえつつ、今日は少し視点を変えたところから、この物語を考えて導きを受けたいと思います。
 「マルコによる福音書」は四つの福音書の中で最も早く成立したと考えられていますが、現在のような福音書として編集された時代を特定するのは難しく、紀元50年代から70年代前半にかけてのかなり幅広い範囲の中で編集されたと考えられています。主イエスが十字架の死を遂げて復活してから20数年から40年ほど経った頃ということになります。その時代を考えてみますと、イエスと直に接した人々が次第に少なくなり、その一方でイエスが生きて弟子たちと行動されていた頃にはなかった課題が信仰者たちの中に生まれてきたことも想像できます。そうであれば、私たちが福音書を読もうとするとき、紀元70年頃の教会がどのような課題をもって、その課題を主イエスの教えに基づいてどう乗り越えようとしたのか、解決しようとしていたのか、という視点から聖書の読んでみることにも大きな意味があるということを踏まえておきたいのです。
 言葉を換えれば、私たちはこの福音書から、生前のイエスを思い巡らせるだけではなく、福音記者マルコは紀元50年代後半から70年代の人々に、この福音書を通して何を伝えようとしたのかを考えてみることも、聖書のメッセージを理解する上で興味深いことではないでしょうか。
 このような点から考えてみると、先ほども少し触れましたが、マルコによる福音書が編集された時期は主イエスを直接には知らない新しい信徒が増えてきている時期であり、また、地中海沿岸をはじめとする各地に信徒の集まりが生まれ次第に教会として組織化されてくる時期でもありました。教会が信仰共同体であり主イエスを基盤として成り立つ集団であれば、信徒は主イエスのことを
広く伝えていく必要があると同時に、教会を信仰の共同体として運営していく原点をしっかりと理解して、互いにそのことを確認しておく必要がありました。その確認を怠るとき、教会は一見教会のようでありながらもその内実は教会ではなくなってしまうのです。
 そのような事例はいつの時代にもあることで、いくらでもその例を挙げることが出来るでしょう。私たちが生きる日本でも、例えばある宗教団体が特定の政党の下部組織になって信仰より政治的な利益を求めるようになったり、病院や学校が設立の精神を忘れて資産運用を目的とするようになって社会問題化することなど、具体例を挙げたらきりがないほどです。
 マルコによる福音書が編集された時代にも、主イエスの弟子たちがその信仰者の群れをまとめていこうとすれば、当然その時代の中でぶつかる問題や課題がありました。
 今日の福音書の中で、ヤコブとヨハネはイエスに願い出て次のように言いました。「栄光をお受けになるとき、一人をあなたの右に、もう一人をあなたの左に座らせてください。」
 この言葉が既にイエスが十字架にお掛かりになって死に復活した後30年ほど経って編集された言葉であることに注目してみましょう。この言葉は、主イエスが天にお帰りになって主なる神の右に座しておられるという信仰をもとに読まれる言葉なのです。弟子たちは、主イエスが既にいない中で、誰がチーフになるべきなのかを考えなければならない状況にあります。その状況で、イエスの左右の座に誰が就くべきなのかを考える時に、何をその判断の根拠にすべきなのかを今日の福音書は教えているのです。
 更に41節を見ると他の10人の弟子たちもこのようなヤコブとヨハネのことを知って腹を立てたと言うことが記されています。この場面だけを取りあげてみれば、聖書の中にも弟子たちの下心や野心が人間臭い争いを起こしているように見えるかもしれません。でも、ある集団が人数の上でも組織の上でもそれなりに大きくなっていけば、誰かが中心になって、全体を見渡しながらその集団をどのように運営していくかが当然の課題になります。また、集団が大きくなっていけば、そこに集まる人がどのような事でも全員で話し合って決議したり運営していくことが難しくなり、誰かが責任を持って代表として意志決定していく事も必要になってきます。それはイエスの弟子集団にとっても例外ではありませんでした。
 でも、そのような時にも、いやそのような時だからこそ、教会が教会であるために絶えず立ち戻るべき所、誰が指導者となるのかを考える時の拠り所が求められるのです。そして、その時に立脚点とすべき言葉が今日の福音書の第10章43節、44節なのです。
 「あなた方の間で偉くなりたい者は皆に仕える者になり、一番上になりたい者は全ての人の僕になりなさい。」
 福音記者マルコは、ここに登場するヤコブやヨハネのことを他の弟子たちを出し抜いて高い地位に着こうとした人であるとして批判したり非難するためにこの出来事を紹介しているわけではないのです。
 このヤコブは教会の指導者として信仰の戦いを貫き、紀元44年にヘロデ・アグリッパよって殺されています。イエスの十字架から10年が過ぎ、マルコによる福音書は更にそれから少なくとも10年以上が経ってから編集されています。そしてこの福音書が編集される頃には、他の多くの弟子たちも神と人々の僕となって働き抜いて殺されていきます。イエスの左右の座に着くということは、決してこの世での権力を握るとか財力によって世の中を自分の思い通りに動かすと言うことではなくて、むしろ人々の弱さや困難を我が事として引き受け、神から与えられたその人の命が神としっかりと結びついて生きられるように、神と人々に仕えることによって、神から与えられる祝福が「イエスの左右の座」の意味する事であると言うことが出来るでしょう。
 私たちの教区主教であった八代崇主教様が、かつてこんな事を話して下さったことがありました。
 若い頃イギリスに留学した時、生意気盛りであった自分はイギリスでの自分の指導教授にこんな事を言った。「イギリスと英国聖公会の繁栄はイギリスの帝国主義時代の産物で、今の教会もその上に乗っかっているに過ぎないのではないか。」そうしたらその先生は静かに「地下の礼拝堂へ行って見てきなさい」とだけ答えた。言われたとおりに行ってみて、自分は頭を殴られたような衝撃を受けた。そこには英国からアジアやアフリカに出かけていって殉教した教役者や宣教師たちを記念するためにその名前が刻まれたタブレットが数え切れないほど並んでいた。英国教会は王朝の権力によってではなく、このように数え切れない主の僕が命懸けで宣教したことによって存在しているのだ。それを知って自分はいくらか謙虚になれたように思う、と。
 主イエスの栄光の座の左右にいるのは、王室などの高位の人々でしょうか。それとも帝国主義に便乗して第三世界で財産を築いた人々なのでしょうか。そうではなく、主の僕として御心を現すために働いて苦難を負って殉教していった人たちこそ主の栄光の座に相応しいのです。
 今日の旧約聖書日課にはイザヤ書53章が用いられています。ここは「苦難の僕」の姿が記されている箇所です。人々の罪を我が事のように自分の身に引き受け、他の人の苦難を負って黙って歩む主の僕の姿が描かれています。主イエスが生きて十字架に死んで甦るまで、誰もこんな苦難を負う人の中に「主の僕」の姿など見出すことが出来ませんでした。目立たずに、でも深く確実に、他の人々に仕えてその人を支え続ける主の僕こそ神の光を放つのであり、後の世にあってはその人が主イエスの栄光の座の左右に着座すると聖書は私たちに教えています。
 私たちは今日の聖書日課から、昔の弟子たちだけではなく、私たちが生きていく上で立つべきところがどこなのかを教えられています。
 「皆に仕える者になりなさい。」「全ての人の僕になりなさい。」
 そしてそのように生きようとする私たちを支えて下さるのは、仕えられるためにではなく仕えるためにこの世に来られ、私たちのために身代金としてご自分の命を献げて下さった主イエスであることを私たちは覚えたいのです。私たちのために仕える者となり僕として生きぬいて下さった主イエスは、その極みの姿を十字架に示し、甦って今は主なる神の右におられます。私たちはこの主イエスに迎えられて、主と共に御国に生きる恵みを与えられています。この主イエスによって、日々の歩みが神と人々に仕え天の国の実現のために働く者へと導かれるよう、僕として生きる力を今日のみ言葉から与えられ養われて参りましょう。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 08:20| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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