2018年10月28日

私たちの叫びとイエスの招き マルコによる福音書第10章46−52   2018年10月28日 B年特定25

私たちの叫びとイエスの招き
マルコによる福音書第10章46−52   2018年10月28日 B年特定25

 今日の聖書日課福音書の中で、エリコの町の門のところで盲人バルティマイは必死に主イエスに叫び求めています。その声が主イエスに届いて、主イエスに呼ばれて、バルティマイは見えるようになりました。
 このバルティマイはエリコの町で物乞いをしていました。エリコはエルサレムから東へ30qほどの所にある古い町で、ヨルダン川に沿った街道を旅してきた人々はこのエリコで一泊してエルサレムに上っていきました。
 過ぎ越し祭が間近になっている時です。エルサレムに通じる街道には、過ぎ越し祭をエルサレムで過ごそうとする人々が大勢います。エリコの町ではこの時期に、巡礼の旅人が増え、その人々を目当てに、施しを得ようと町の門の広場辺りには物乞いをする人が目立っていたことでしょう。バルティマイもきっとそのように物乞いをする一人だったと思われます。
 初めに、主イエスの時代には「目の見えない人」がどのように見なされていたのかについて、理解しておきましょう。ヨハネによる福音書第9章1節からの個所に、主イエスが盲人の目を開いた物語があります。その物語の中で、弟子たちは主イエスにこう尋ねています。
 「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」
 これに対して主イエスは、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」とお答えになって、この生まれつきの盲人を癒したのでした。
 この箇所を見ると、当時の社会で、目が見えないということがどのように考えられていたのかが分かります。それは、目の見えない本人か先祖の誰かが罪を犯しており、その結果、神から受けた罰のしるしが身体に表れて目が見えなくなっていると考えられていました。つまり、盲目は罪の結果と考えられていたのです。
 バルティマイは、町を出入りする人々に向かって物乞いの声を上げていました。しかし、町の人々にとって目の見えないバルティマイは所詮罪人であり、人々は物乞いをする人々に対して無関心を装い、あるいは邪魔者扱いし、このような人を顧みる人は殆どいませんでした。
 道端に座り込んでいるバルティマイの前を、また人々が通り過ぎようとしています。巡礼の旅人らしい一団が通っていくところです。ただ、そこにはいつもとは少し違う雰囲気がありました。気配を伺っていたバルティマイは、その一団の中に主イエスがおられることを察知しました。近頃評判のナザレのイエスです。バルティマイはこのイエスの噂、評判を耳にして、この人なら自分を顧みてくださるだろうし、見えるようにしてくださるに違いないと思っていました。この人によって目の見えない人の目が開かれ、重い皮膚病が清められ、足の不自由な人も立ち上がった話を、バルティマイも聞いていました。そして何よりもバルティマイが一番印象深く覚えているのは、ナザレのイエスが関わってくださるのは、社会からはじき出され、世間から白い目で見られている人たちばかりだと言うことです。
 ナザレのイエスが、今、私の前を通り過ぎようとしておられる、と思うと、バルティマイは大声で叫ばずにはいられませんでした。
 「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」。
 でも、エリコの町の治安や平穏を考える人々は、このバルティマイをを叱り付け黙らせようとします。「罪人のお前は他人に迷惑をかけるな。下がっていろ。」と言って、この人を邪魔者扱いしたことでしょう。またイエスの弟子たちの中にも「エルサレムに向かうわたしたちの先生の歩みを邪魔するな」という傲り高ぶった思いを持つ者もいたかも知れません。周りの人々がバルティマイを黙らせようとしますが、バルティマイはますます激しく主イエスに向かって「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。」と叫び続けす。
 バルティマイは、これまで周りの人々から罪人と呼ばれ、差別され、幾度も不快な言葉を浴びせられてきました。バルティマイは、いつもオドオドしながら道端に座り、いつの間にか自分の本当の気持ちと向き合うことも忘れ、おどおどした本心には蓋をして自分でも見ないようにし、感情を押し殺していたのではないでしょうか。しかし、今、バルティマイは主イエスが自分の前を通り過ぎようとしておられることを知って、抑えきれない思いが心の深みから噴き上がってきました。そして、その思いは大声になりました。人々は叫び始めたバルティマイを押さえつけ黙らせようとしますが、バルティマイはますます大声を上げて叫び続け、とうとうその声は主イエスに届きました。
 主イエスはこう言われました。「あの男を呼んできなさい」(10:49)。
 主イエスのこの言葉に着目してみたいと思います。
 主イエスがバルティマイの前を通り過ぎようとしておられた時と同じように、今、主イエスが私たちの前を通り過ぎようとしておられます。そうだとしたら、今、私たちはどうすべきでしょう。真剣に主イエスに向かって自分の叫びを届けようとしているでしょうか。もし自分の方から主イエスに自分の思いを届けようとしないのなら、主イエスはそのまま通り過ぎていくでしょう。「あの人を呼んできなさい」とおっしゃることもなく通り過ぎてしまうかも知れません。
 バルティマイは周りの人に叫ぶことを叱られ止められても、なお声を張り上げて主イエスを求めて叫び続けました。このバルティマイのように、心の奥深くにある自分の叫びを主イエスに届けることが私たちの信仰生活の初めなのです。もし私たちが他の誰かに邪魔されたとか中傷されたと言って、主イエスに叫び求めることを止めてしまうなら、それは何と愚かなことでしょう。また、もし私たちが自分の深い心の叫びを主イエスに届けることを躊躇ったり怠っているのなら、私たちにどうして主イエスとの真実な関係を深めていくことが出来るでしょう。私たちと神との対話は、私たちの心の中にある深い叫びを主イエスに向かって叫び届けることが初めであり、そうすることから私たちは主イエスの前に呼び出され、そこから主イエスとの真実の対話が始まるのです。
 本当の自分をイエスの前にさらけ出し、自分の心の内をイエスに向かって叫ぶことが信仰の始めであり、祈りの基本であると言えるでしょう。
 主イエスはバルティマイに尋ねました。「何をして欲しいのか。」
 バルティマイは答えます。「先生、目が見えるようになりたいのです。」
 この「見える」は直訳すれば「また(ανα)見えるように」と言うことです。
 先ほどお話ししたように、目が見えないことは本人や先祖の罪がその人に表れていることだとしたら、「また見えるようになる」とは本来あるべきその人の姿が取り戻されると言うことです。当時の考え方によれば、見えなかった人の目が開かれて見えるようになることは、その人の罪が赦されて神の御心としっかり結び合わされることを意味しており、バルティマイの叫びは、「先生、本当の自分になりたいのです。」という思いが込められていると言えます。
 このように考えてみると、私たちは今日の福音書からバルティマイという一人の盲人のことをについて学びながら、実は私たち一人ひとりが歩むべき信仰のプロセスについて教えられていることに気付きます。私たちも主イエスに向かって叫び、立ち上がってイエスに向かって歩きだし、イエスに問われ、イエスに自分の喜びや悲しみや傷みの深い叫びを伝え、救われ、イエスに従っていくのです。
 私たちは、聖餐式の初めに「主よ、憐れみをお与えください(キリエ、エレイソン)」と唱えます。私たちは今日も、バルティマイが主イエスを求めて必死で叫んだのと同じ思いで「主よ、憐れんでください」という言葉でこの礼拝を始めているのです。私たちは主イエスの御前に進み出た時、「何をして欲しいのか」とお尋ねになる主イエスに答えて、願い、訴えたいことが沢山あるはずです。私たちはそれを携えて「主よ、憐れんでください。」と叫びながら信仰の歩みを続けていくのです。
 主イエスに向かって自分の本当の叫びを届け、「私に何をして欲しいのか」と問うて下さる主イエスに向かって更に祈りながら生きていきたいと思います。主イエスから「あなたの信仰があなたを救った」と祝福していただける時を思い描きながら、心の奥底の叫びを主イエスにお届けしましょう。
 主イエスに向かって憐れみを叫び求めて止まない信仰生活を送って参りましょう。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 06:13| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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