2019年01月01日

恵みと慈しみに富む神 出エジプト記第34章1〜9     主イエス命名の日  2019.1.1

恵みと慈しみに富む神
出エジプト記第34章1〜9     主イエス命名の日  2019.1.1


 降誕日から8日目となり、今日は「主イエス命名の日」です。
 今日の旧約聖書日課で、主なる神はご自身をこう説明なさいました。
 「主、主、憐れみ深く恵みに富む神。忍耐強く慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者。(34:6)」
 そして、モーセはこの主なる神に跪きひれ伏してこう祈って言いました。
 「主よ、もしご好意を示してくださいますならば、主よ、わたしたちの中にあって進んでください。(34:9)」
 どのような状況の中でこの言葉が交わされたのかを振り返りながら、私たちもこの新しい年に、憐れみ深く恵みに富む神の導きを受けながら歩んでいくことが出来るように、導きを受けたいと思います。
 イスラエルの民はエジプトの地で奴隷になっていましたが、紀元前1280年の頃、全き神の力と導きによって、いわゆる出エジプトが始まります。イスラエルの民は、当時最強と言われていたエジプト軍の追跡を逃れて紅海を渡りきり、荒れ野の旅を続けてシナイ山の麓までやって来ました。主なる神はモーセをシナイ山に招き、主なる神とイスラエルの民との約束である十戒を示しました。ところが、モーセがシナイ山にいる40日の間に、イスラエルの民は神の御心の反する行いをしてしまうのです。イスラエルの民は、モーセが山に登ったままなかなか降りてこない事に不安になり、麓に残っていたアロンに向かって「私たちに先だって進む神々を、私たちのために造ってくれ」と言い始めたのです。私たちも、神がいる事の確かさがぐらつくと、安心するために目に見える対象を求めたくなるのではないでしょうか。
 アロンは民の訴えをきいて、民が身に付けている金を集めて鋳物にし、雄牛の像をつくりました。そして、祭壇を築き、一同はこの金の小牛を神の宿る台座に見立ててその周りで飲み食いして騒ぎ始めたのです。
 一方、モーセは40日間シナイ山にいて神の言を受け、2枚の石の板に神ご自身の指で記された十戒を授かり、山を降りてきました。イスラエルの民の宿営に戻ってきたモーセは、金の子牛の周りで踊り戯れている民の姿を見て怒り、十戒を記した石板を投げつけて砕いてしまいます。更に彼らが鋳て造った若い牛の像を火で焼いて砕き、粉々にして水の上に撒き散らし、イスラエルの人々に飲ませたのでした。イスラエルの民は、モーセが主なる神とシナイ山の上で約束を交わし合っている真っ最中に、不安になって金の子牛像を造り、主なる神との関係を壊してしまいました。モーセは必死になって主なる神に向かい民が犯した罪の赦しを願い、またこの民を見捨てて離れ去るようなことなく共にいて下さるように祈りました。 
 主なる神はモーセをもう一度シナイ山の頂きに呼び寄せ、契約を結びなおしてくださいます。モーセはもう一度石の板二枚を持ってシナイ山の頂に登っていきました。この時、出エジプト記第34章6節にあるとおり、主はモーセに宣言なさいました。
 「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。」
 5節を見てみると、主はモーセと共にそこに立ち、「主の御名を宣言された。」とあります。つまり、主なる神はご自身の正体を証して、ご自分は「憐れみ深く、恵みに富む神」であり、「慈しみとまことに満ちている」と言って、神ご自身の方から契約を結ぼうとしておられるのです。
 先ほど見てきたとおり、イスラエルの民はモーセを通して主なる神と約束を交わしその誓いを立てたにもかかわらず、その契約を台無しにしてしまいました。このような罪深く弱い民を顧みて、憐れみ深く恵みに富む神はもう一度モーセを通して契約を結び直してくださいました。それは、単に無節操に何をしてもその赦すということではなく、本来は「罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を子、孫に3代4代までも問う」はずの神が、「わたしがあなたを選び、あなたを持ち運ぶ」という思いで、もう一度神との間に生きる出発点へと招いて下さるのです。
 もし、契約や約束事がいい加減なものであれば、この世界は無秩序になって混乱するでしょう。また、もしはじめから守らなくても構わない契約があったとしたら、そんな約束は無いも同然です。私たちが神と結んだ約束や誓いについても同じであり、何一つおろそかにして良いことなどありません。むしろ神と私たち一人ひとりの契約があるからこそ、私たちのこの世界における人と人の契約も成り立つと言えます。契約に忠実であることは、その根拠となる信念に裏付けられているはずです。
 私たち日本人は神観念が薄くその場その場の雰囲気に流されやすく、他人や世間の目が無ければその場限りの都合の良い事を言いやすいと指摘されています。「旅の恥はかき捨て」と言う事も、一人ひとりがしっかりとした神との契約関係に立たない事により、その場限りのご都合主義の日本人の精神を表現している言葉なのかも知れません。もし、私たちが神との契約を破って神の意思を疎かにするなら、私たちは私たちをお創りになった神の裁きに服さねばならない者であることをよく心に留めておく必要があるでしょう。
 モーセは再び神の御前に立ちました。神はご自身をモーセに現して、「憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く慈しみとまことに満ち」と言って、契約を守れなかったイスラエルの民を顧みてくださいます。それでは、イスラエルの民が赦されることで、契約を破って相手に損害を与えたイスラエルの民が負うべきこの罪の責任、契約を守らなかったことの償いは誰がすることになるのでしょう。
 その答えは、やがて主イエスによって示されるのです。
 神は単にイスラエル民族のためだけではなく、罪ある全ての人のために目に見えるお方となってこの世に来て下さいました。主イエスは、神であるのに人となり、憐れみ深く恵みに富むお働きを、忍耐強く、慈しみとまことに満ちた生涯を通してお示しになりました。神の御心は、具体的な人となって示されました。その人は、イエス(ヤハウェ救い)と言う名を与えられ、イエスはその名の通りの生涯を送って神の御心を示し、その結果、最期には十字架にお架かりになりました。私たちが契約に違反し主なる神との約束を台無しにした結果、本来私たちが自分で果たすべき責任、自分自身が負うべき罪の結果を、私たちに代わって主イエスが引き受けて下さり、本来なら私たちの罪を主の前に三代四代後まで赦されずにその償いの働きを負うはずの私たちがその罪を赦されたのです。こうして主なる神は救いの約束である私たちとの契約を、解消するのではなく、主イエスを通して確かなものである事を明らかにして下さったのです。このような神の恵みと慈しみに基づいて、私たちは「憐れみ深く恵みに富む神」「忍耐強く慈しみとまことに満ちる神」と私たちの方から主なる神を誉め称える事が出来るのです。
 新しい年を迎えました。1月1日は降誕日から8日目であり、救い主がイエス(ヤハウェは救い)という名を与えられた事を覚える祝日です。一年の初めに当たり、私たちは主イエスが「神は我が救い」である事を身をもって示してくださったことを感謝し、イエスの名を私たちの心に刻み、私たちが洗礼、堅信礼のおりに神と交わした契約の言葉を再確認しましょう。出エジプト記34章9節にあるモーセの言葉を私たちの心に刻みつけて、新しい年のそれぞれの歩みを始めて参りましょう。
「主よ、もしご好意を示してくださいますならば、主よ、私たちの中にあって進んで下さい。」
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 18:21| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント