2019年01月30日

「恵みの年」の宣言  ルカによる福音書第4章14〜21 C年 顕現後第3主日   2019.1.27

「恵みの年」の宣言
ルカによる福音書第4章14〜21 C年 顕現後第3主日   2019.1.27

 主イエスの宣教の働きはガリラヤ地方から始まりました。主イエスは、ガリラヤの町々、村々を巡り歩いて神の国を説き、癒やしや清めのお働きをなさいました。その当時、ガリラヤ地方はイスラエルの首都エルサレムからみれば「辺境の地」でした。この地方で主イエスの評判は直ぐに知れ渡り、多くの人が主イエスの許に集まってくるようになっていました。
 今日の聖書日課福音書は、主イエスがある安息日に会堂(シナゴーグ)にお入りになって、聖書を読み、教えを説いたときの場面です。その日、主イエスが朗読し、教えを説いた御言葉はイザヤ書第61章1節と2節です。今日の福音書の中では、ルカによる福音書第4章18節以下がその引用になっています。18節の途中からお読みしてみます。
「主が私を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を告げ、
 目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、
 主の恵みの年を告げるためである。」
 この箇所の中で、今日、特に注目したいのは、19節にある「主の恵みの年」という言葉です。
 この「恵みの年」とは「ヨベルの年」とも言われてます。主イエスの時代やもっと古いイスラエルの人々は、この「恵みの年」「ヨベルの年」という言葉からすぐに思い浮かべることがありました。それは、50年に一度やってくる年のことで、元々「ヨベル」とは「雄羊の角」を意味しており、50年に一度やってくるこの年の訪れがその角笛によって告知されたのでした。この年は「解放の年」とも呼ばれ、「ヨベル」は英語の「ジュビリー」という言葉の語源にもなっています。
 50年に一度の年がくると、イスラエルの律法に基づいて、国中の全ての人が完全に自由にされ、奴隷は解放され、借金は帳消しにされるのです。この「ヨベルの年」については、レビ記25章9節以下に載っていますので、是非後で詳しく読んでみて下さい。
 このラッパの音と共に奴隷であった人は完全に自由解放の身になります。また借金のかたに取った土地や財産はみな無条件にもとの持ち主に戻されます。イスラエルの民は、神から受け継いだ財産をこの様なやり方で財産を管理し、権力が一人の人の手の内に集まることを防いだのでした。また、生まれながらに先祖が抱えて引き継いだ負債によって新しく生まれた人の一生が無駄になったり空しくなったりすることがないようにもしたのでした。このような「恵みの年(ジュビリーの年)」を50年に1度設定した土台になる考えは、今申し上げたとおり、人は皆等しく神によって創られた存在で、神に創られた世界の中に生かされており、人が人として生きていくことに反する束縛や重荷から解放される必要がある、ということでした。
 ところが、こうした恵みの年(ヨベルの年)は時代が降ってくると行われたはいなかったようなのです。主イエスがガリラヤで宣教の働きをお始めになった時代にも、この「恵みの年」が実行されていた記録はないようで、律法が形式化している時代であったとも言われています。
 福音書の物語を思い起こしてみましょう。
 その頃、安息日には、村々の会堂では集会があり、決まった時間にユダヤ教の教師や村の世話役によって聖書が朗読され教えが説かれました。この日のナザレの会堂では、主イエスが手渡された巻物を受け、イザヤ書第61章の箇所を朗読なさいました。人々はイエスに注目しています。主イエスは「恵みの年」を告げる箇所を短く朗読なさって、その巻物を巻いて係の者にお渡しになりました。人々はイエスが何をお話になるのか注目しています。
 主イエスは開口一番「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき実現した」と話し始めました。会堂の中はざわつきました。
 イエスはこういう意味のことを言ったのです。「主の恵みの年」つまり「ヨベルの年」とは、数字の上で50年が過ぎれば機械的にやってくるようなものではなく、今、ここで、この聖書の言葉を私の言葉として聞く人にはその通りに実現た、と。更に言えば、主イエスは「御言葉を聞くことの中に神が私たちに今この場で働き、私たちを解放し、目を開いてくださる」と言っておられるのです。
 聖書の言葉は、いつか後で私たちの日常生活で役に立つ格言ではありません。聖書の言葉は、私たちがその御言葉を聞いている、今ここに神がおられ、御言葉をとおして働いてくださり、私たちをあらゆる囚われから解放してくださるのであり、その意味で「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、、実現した。」と主イエスは言われたのです。
 主イエスは、イスラエルの律法の中では50年に一度のはずのヨベルの年が、今日、この御言葉を聞くあなたたちの中に実現した、と宣言なさいました。
 これは聞く人々にとって大きな驚きでした。
 ひとつは、旧約聖書の文字の中の上では知っていながらその精神を生きることを忘れていた人々に、主イエスは今こそ神は人があらゆる束縛や重荷から自由になって解き放たれるのだと宣言し、聖書の文字を目覚めさせ聖書の言葉を人々の心に突きつけたことで、人々は驚きました。
 もう一つは、イエスの言う「主の恵みの年」は単に財産を昔のように戻したとか身分が奴隷でなくなったという事柄ではなく、人の財産を奪うことや人の身分を自分の権力の下に置いてその人が人間らしく生きることを妨げていることに無感覚でいるような、人の内面にまで及ぶ人自由と解放を告げていることに、人々は驚きました。
 主イエスはこのような解放の宣言によって、人は本来誰もが神の前に解放されており自由であることを人々に告げておられるのです。主イエスのこの宣言を受けて多くの人が心を揺さぶられました。主イエスの宣言は、人間を神がお与え下さった本来の姿に戻す言葉です。そしてそれは今から2000年近く前の人にとってだけのことではなく、この礼拝の中で聖書の御言葉を受ける私たちにとっても同じ事なのです。
 主イエスの御言葉によって揺さぶられた人の内の幾人かは更に深く主イエスの御言葉を慕い求めて生きるように促されていきました。でも、他の多くの人は主イエスの御言葉によって自分を問われることを拒み、これまでの自分にしがみついて主イエスに抵抗するのです。
 今日の福音書の箇所から更に読み進んでいくと29節で、会堂で主イエスと論争した人々はイエスを山の崖まで連れていってそこから突き落とそうとしたと記しています。
 でも、そのように主イエスの御言葉を拒む人は、自分は心の深いところで神と関わることの何に怖れているのかを、御言葉の前に静まり自分の心に起こっている出来事を深く見つめて祈る必要があるのではないでしょうか。主イエスさまは、主イエスと出会いその御言葉を受け入れることの中に、恵みと解放が訪れることを宣言しておられるのです。
 私たちは、恵みの年を告げる主イエスのこの御言葉を他ならぬ自分の赦しと自由を与えて下さる宣言として受け入れましょう。そして、そのように受け入れることが出来るのなら、私たちはそれをただ自分の内的なことに留めるのではなく、主イエスと共に、神さまのお考えになる世界を実現していくために自分は具体的に何をすべきなのかと祈り求め、神と人々に愛をもって関わっていくことへと促され導かれていきたいのです。
 主イエスの解放の年の御言葉を喜びをもって受け入れ、御言葉によって生かされることへと導かれていきたいと思います。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 04:48| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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