2020年02月05日

召命   マタイによる福音書第4章12〜23節  A年(顕現後第3主日)  2020.01.26

召命
マタイによる福音書第4章12〜23節  A年(顕現後第3主日)  2020.01.26

 今日の聖書日課福音書には、主イエスが公に宣教の働きを始められたとき、最初の弟子をガリラヤ湖畔で召し出された出来事が採り上げられています。
 ガリラヤ湖は、(湖面の面積は霞ヶ浦の4分の3ほどの大きさであり、)南北約21q、東西約12qの竪琴のような形をした大きな湖です。その竪琴の頂点にあたる北のはずれにカファルナウムの町があります。ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネのそれぞれの兄弟はこのカファルナウムに住み、ガリラヤ湖で魚を取って生活をする漁師でした。
 主イエスが彼らに声をおかけになったとき、彼らは自分の仕事の真っ最中でした。ペトロとアンデレは漁の真っ最中であり網を打っていました。また、ヤコブとヨハネは、おそらく漁を終えていたのでしょう、父ゼベダイと一緒に舟の中で網の手入れをしていました。この二組の兄弟は、主イエスの「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」という招きに応えて、すぐに網を捨て、また舟を置いて、主イエスに従っていきました。
 私たちはこのようにして主イエスに召し出された人の話を聞いて何を思うでしょうか。彼らは残された家族や道具の始末も考えない身勝手な者でしょうか。それとも彼らは軽率な者なのでしょうか。様々な言い分や理屈を並べることはいくらでも出来ますが、私たちはこの福音書の物語から、私たちも主イエスの招き(召命)に Yes か No かをはっきりお答えしなければならない時があることを覚えなければなりません。
 もしこの漁師たちが、自分は主イエスの宣教の働きに加わるのに相応しいかどうかを考え、弟子になるための諸条件が備わっているかどうかを考え抜いてからお返事をしますというのであれば、彼らは誰も主イエスの弟子になることはなかったでしょう。
 この物語は、「イエスの招きに応えて従った。」ということをテーマにしていることを、先ずしっかりと押さえておきたいと思います。
 聖書学者の中には、主イエスが先ず漁師を弟子に召し出したことに注目する人がいます。それは、「漁師」を召し出すということは、旧約聖書の言葉を用いながら「新しい世界」が今主イエスによってやって来たことを示している、ということへの注目です。。
 例えば、エレミヤ書第16章16節には「見よ、わたしは多くの漁師を遣わして、彼らを釣り上げさせる。」という言葉がありますし、ハバクク書第1章15節には「彼らはすべての人を鉤(かぎ)にかけて釣り上げ、網に入れて引き寄せ、投網を打って集める」という言葉があります。このように旧約聖書の時代から、神の御心が現れ出る時のイメージとして、多くの人々が集められ釣り上げられる姿が思い描かれていた様子が分かります。
 このことを踏まえて今日の福音書を捉え直してみると、主イエスが天の国を宣べ伝え、天の国の姿を人々に示し始めるとき、まず主イエスによって人々を漁るための漁師が遣わされるという形を取って、ここに神の国が開かれてくる働きが始まったのだと理解することが出来るでしょう。
 その意味で、主イエスに召し出されると言うことは、救いの箱舟の中に入れられてその後安穏として過ごすことが約束されるということではなく、主イエスに救いを約束された者として、例えどんなに小さいことからでも、自分がいる場に自分を通して神の御心が開かれるように生きていくことを主イエスから委ねらることであると言えます。そして、私たちが生きるその一瞬一瞬が自分を通して神の国が今ここに現れ出るのであり、そのようにして開かれる新しい世界に生きるようにという招きを迫られていると言えるかも知れません。
 先ほども少し触れましたが、呼びかけてくださる主イエスにお応えすることは、自分の周りのあらゆる条件が整ったなら可能になるというようなことではなく、弟子となって従っていく中からすべてが整えられてくるのです。
 召し出すことは聖書の源語では καλεω であり、それは英語のcallにあたります。呼ぶ、招く、召し出すなど幅広い意味があります。
 私たちは自分の生活の直中で絶えず主イエスに呼びかけられています。それにも関わらず、私たちが「決心がつかない」とか「召命観がはっきりしない」と言って、自分の心を神に向けることをためらい、恐れていないでしょうか。本当は、主イエスが私たちに何と言っておられるのか分かっているのに、言い訳をして、そこから逃げて、主イエスの本当の声を聞くことを避けることはないでしょうか。
 もし「主イエスが、もっとはっきりと違う形で招いてくださったなら、従いやすいのに。」と言う人がいたとしたら、主なる神は、「いや、私はずっとあなたに呼び続けているのだ」とお答えになるに違いありません。
 今日の福音書の中で、自分の生活の真っ只中で主イエスに召し出されたペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネは、深い考えもなくあまりに気安く軽率に主イエスの招きに応えていった人たちなのでしょうか。そうではありません。彼らは、自分たちは主イエスの呼びかけに応えるに足りる資格や能力が備わっており、お答えする資格があると考えたからついて行けたのでしょうか。そうではありません。
 私たちが人間をとる漁師になる資格があるとしたら、他の誰でもない自分が主イエスに愛されていることを深く受け入れ、その愛に従って生きていこうとする、その一点にあるのです。
 それなのに、「まだその時ではない」とか「従っていけるだけの条件が整わない」などと言って主イエスに従うことを躊躇うことは、その人は天の国を開いていく働きを拒むことになり、招いておられる主イエスに対して大変に失礼な事をしていると言えるのです。
 ペトロが舟を置いて主イエスに従っていった後、ペトロの言動のすべてが完璧であったわけではありません。むしろペトロは失敗を繰り返し、主イエスに叱られています。主イエスはそのペトロを愛しておられ、ペトロは主イエスに導かれて成長していきます。ペトロをはじめとする弟子たちには、召し出されて応えて歩むがゆえに背負わなければならない苦労や試練もあったことでしょう。もし、予想されるそれらの困難がすっかり無くなって安心できるようになったらあなたに従いますと言うのであれば、それは召し出しに応えることではなく、ただ自分の都合の良いように主イエスを利用しようとしているに過ぎないと言えるでしょう。
 ヘブライ人への手紙第11章1−2節に次のような言葉があります。 
 「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。」
 この言葉が示しているように、多くの信仰の先人たちには誰にも信仰によって初めの一歩を踏み出していった回心の時、転換点があるのです。それから先がどうなるのか見通せないような時でも、神が呼んでおられると信じることを、見えない中で神の御心を信じて初めの一歩を踏み出していったのです。
 そして、その先が見えなくても初めの一歩を踏み出すことによって神のご計画が何であったのかが少しずつ悟っていく経験を与えられていくのです。そのような経験は、神の召し出しに応えることによって初めて見えてくることなのではないでしょうか。
 私たちはそれぞれの置かれている家庭や職場の状況は違いますが、それぞれの生活の場で人間をとる漁師として召し出されており、その召し出しに応えて、自分の関わる世界に天の国の姿が表われ出るように、主イエスに従っていく事こそ「人間をとる漁師」になるに相応しいのです。
 私たちも、主イエスの「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。」との招きの言葉に応えて、さらに主イエスに導かれ、天の国の現れを祈りながら、信仰の歩みを進めていくことができますように。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 15:15| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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