2020年02月05日

神殿で献げられる

神殿で献げられる ルカによる福音書2章22−40     被献日      2020.02.02

 今日2月2日は、被献日です。顕現節第4主日に優先して直接主イエスに関する固定祝日を優先して被献日の聖餐式を行っています。
 主イエスがお生まれになって40日目になる日、ヨセフとマリアは幼子イエスと共にエルサレム神殿に宮もうでをして、幼子イエスを主に献げる式を行ったのでした。
 今日の聖書日課の福音書であるルカによる福音書第2章23、24節には、ヨセフとマリアは旧約聖書の教えに従ってエルサレム神殿に宮もうでして、旧約聖書の教えの通りに生け贄の鳩2羽を献げたことが記されています。
 ヨセフとマリアの宮もうでには、二つの意味がありました。
 先ずその一つはルカ2章22節に「両親はその子を主に献げるために」と記されているように、ヨセフとマリアの初子であるイエスを神の許に連れて行って献げることでした。
 旧約聖書の出エジプト記第13章1節からにこう記されているところがあります。
 主はモーセに仰せになった。「すべての初子を聖別して私に献げよ。イスラエルの間で初めに胎を開くものはすべて、人であれ家畜であれ、私のものである。」
 ヨセフとマリアは、彼らの初めての子であるイエスを主なる神のものとしてお献げして、聖別していただくために、エルサレム神殿に上ったのでした。
 二つ目には、ルカ2章22節に「モーセの律法に定められた清めの期間が満ちると」と記されているように、マリアがイエスを出産した後の、いわゆる産後の穢れの40日の期間が過ぎたので、その浄めの献げ物をすることが神殿詣での目的でした。
 このことに関して、レビ記第12章には、「出産についての規定」が載っています。そこには、清めの捧げ物には雄羊一匹を献げ物とするように定められていますが、その8節に「なお、産婦が貧しくて小羊に手が届かない場合には山鳩二羽が若い家鳩二羽をとり、一羽は焼き尽くすいけにえに、もう一羽は清めのいけにえにしなさい。」と記されています。このことから推測されるのは、ヨセフ、マリア、それに幼子イエスの聖家族は、裕福ではなく、小羊を献げ物とするだけの余裕が無く、小羊の代わりに二羽の鳩を献げていることです。この家族は経済的には決して豊かではないけれど、こうして出産後40日に関する規定に忠実であり、主の前に正しくあろうとする家族であったことことが想像できます。
 おそらく、聖家族は、エルサレム神殿でよく見かけられる、平凡なそして質素な宮もうでをしたのでしょう。
 今日はこの箇所から「献げる」ということ、主イエスが献げられたということについて思い巡らせてみたいと思います。
 詳しく調べてみる余裕もありませんでしたが、おそらく人間にとって、自分の最も大切なものを神に献げるという儀式は、人類の歴史と共に古くからあったのではないでしょうか。人間が共同生活をする集落、部族の中から未婚の若い男を、あるいは処女を、生け贄として献げた記録は世界各地に残っており、そのような記録は民族学や人類学の大切な研究史料になっているようです。
 聖書の中では、創世記第22章にアブラハムが妻のサラとの間にやっと生まれたイサクを神の求めに応えて献げるようとした物語があります。モリヤの地でイサクを生け贄として献げようとした寸前のところで、アブラハムは神からその信仰を認められ、イサクは命を落とさずに済みました。
 聖書学者や民族学者の中には、この物語を、他の民族が語り継いでいる人身供犠を内容とする物語と比較して、ユダヤ教は早い時期から生身の人間を生け贄として献げる儀式を克服して、身代わりとなる傷のない羊を献げるようになったと考える人もいるようです。
 神がお受けになったのは、イサクの体ではなく、アブラハムの信仰です。神は、実際に一人息子のイサクの体にナイフを当てることまではアブラハムに求めませんでした。この場面で、主なる神はアブラハムに次のように言っています。
 「自分の息子、自分の独り子を惜しまなかったので、私はあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を空の星のように、海辺の砂のように大いに増やす。」
 神はアブラハムの信仰をお受けになって、アブラハムを祝福なさいました。
 神は私たちにも神の御心に従順であることを求めておられ、それに応えることが自分を献げるという言葉の内実になるのです。
 今日は被献日ですが、「主イエスが神殿に献げられた」ということも、イエスが人身供犠の供え物となることではいことは明かです。「神殿に献げられる」とは、その生涯を神の御心を生きるために捧げるということを意味しているのです。
 主イエスの生涯の意味を考えてみる時、まさに母の胎を最初に開いた傷のない小羊が主なる神のお働きのために献げられたと言える御生涯でした。
 神の小羊である主イエスが、私たちのための生け贄として献げられることによって、私たちは生かされています。そのことに光をあててイエスを捉え直せば、救い主である主イエスの姿がクッキリと浮かび上がってくるのです。
 私たちは、この主イエスによって自分も罪を赦され生かされている者であることが明らかにされます。そして、この小羊の血によって浄められ生かされていることを受け入れて、私たちの罪を贖ってくださった小羊イエスにお応えして生きていこうとする人は、主イエスと同じように自分を神にお献げする生き方へと変えられていくのです。
 使徒パウロもそのような人のひとりでした。パウロは、自分を献げるということについて,ローマの信徒への手紙第12章の始めにこう言っています。
 「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたの理に適った礼拝です。」
 ここでパウロが言う「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げる」ということも、更に2節まで読み進めれば「何が神の御心であるのか、何が善いことで,神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」と言っている事からも分かるとおり、神の御心を行うことそのものが礼拝であり礼拝と同じ行為なのだと言うことなのです。
 英語で「礼拝」を意味するservice という言葉があります。私たちの service が神に向かう時に「礼拝」と訳され、人に向かう時に「奉仕」と訳されることになりますが、このことは別々のことではなくて、同じ一つ service の二つの側面ということなのです。
 その意味で、主イエスが神殿に献げられたということは、イエスが神の御心を行って神と人に仕える者となったということであり、被献日は、主イエスがどのような生涯を送ることになるのかを明確に方向付けられた日であるとも言えるでしょう。
 それは、視点を変えていえば、主イエスが、私たちのためにご自身をお献げになったことを覚え、感謝する日でもあります。そして、主イエスがご自身をお献げになるというテーマはその生涯をとおして貫かれ、十字架にまで続いていきます。
 私たちのためにご自身を献げてくださった主イエスの愛によって生かされ、私たちも神の御心のために自分を用いていただくことへと導かれて参りましょう。 
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 21:46| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント