2020年06月08日

ガリラヤから世界へ 聖霊降臨後第1主日・三位一体主日 マタイによる福音書28:16−20 2020.06.07

ガリラヤから世界へ 聖霊降臨後第1主日・三位一体主日 マタイによる福音書28:16−20
                             2020.06.07
 
 教会暦は、復活節、聖霊降臨日を経て、聖霊降臨後に期節に入りました。聖霊降臨後第1主日は、父と子と聖霊なる三位一体の神を覚える主日です。この主日の聖書日課福音書には、マタイによる福音書の最後の部分から取り上げられています。
 主イエスは、おそらくガリラヤ湖を見下ろすことの出来る小高い山で、弟子たちに最後の言葉を残しておられます。もしかしたら、主イエスが宣教の初めに山に登り「山上の説教」をなさった同じ山の同じ場所で、弟子たちにこの派遣の御言葉をお与えになったのではないかと、私は勝手に想像しています。
 19節、20節をもう一度読んでみましょう。「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
 マタイによる福音書の最後にある主イエスのこのみ言葉は、主イエスの「大宣教命令」と呼ばれています。復活なさった主イエスは、度々弟子たちにお姿を現しましたが、弟子たちはもうこの世で直に主イエスを見ることはなくなる時がきました。その時に、主イエスが弟子たちにお話しになったのがこのみ言葉であり、この「大宣教命令」は、復活の主イエスの遺言、遺訓であると言うことができるでしょう。
 この言葉が語られたのは、ガリラヤ地方の山でした。はじめに、この言葉が語られたのがガリラヤであったことに注目してみましょう。
 主イエスが十字架にお架かりになったのはイスラエルの中心地であるエルサレムであり、「イエスは甦った」という噂もエルサレムから広まりました。ガリラヤ地方はそこから直線で100q近くも離れており、辺境のガリラヤとも言われていました。
 主イエスが弟子たちに最後の宣教命令をお伝えになったのが、エルサレムではなくガリラヤ地方であったのは何故なのでしょうか。そのことを考えるために、マタイによる福音書28章の少し前の部分を見てみましょう。
 主イエスが墓に葬られて、最初に墓に行った婦人たちは、第28章7節にあるように、天使にこう告げられています。
 「急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』」
 また、第28章9節では、主イエスご自身が婦人たちにこう言っておられます。
 「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしは会うことになる。」
 このように、マタイによる福音書は、弟子たちが甦った主イエスにお会いする場所はガリラヤであると伝えています。ガリラヤ地方は、主イエスと弟子たちにとって活動の出発点であり、マタイによる福音書は、弟子たちの召命の原点であるガリラヤをかなり意識しつつ強調しています。
 最初の弟子であるペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネらは、ガリラヤ湖の漁師でした。彼らが「人間を取る漁師」になるように召し出されたはガリラヤ湖のほとりであり、主イエスが山の上から多くの人に教えを説かれたいわゆる山上の説教は、ガリラヤ地方の小高い山でのことであり、徴税人マタイが主イエスに召し出されたのもガリラヤ湖の畔の徴税所でのことでした。
 多くの弟子がかつてガリラヤで主イエスと出会い、それまでの自分を捨てて主イエスに従い、生活を共にしました。弟子たちは、主イエスの慰めと励ましに満ちた言葉を聴き、癒しの業を目の当たりにし、自分たちも癒やされ力づけられ、主イエスの御言葉と御業に神の国の姿が現れることを体験しました。その一方で、主イエスは、ガリラヤからエルサレムに上っていって、祭司長、長老、学者たちからの非難や迫害とその果てのリンチ同然の十字架の死。そして、甦りました。弟子たちにとってこれら全てのことの始まりがガリラヤであり、「福音の初め」はガリラヤであり、ガリラヤはいわば彼らの信仰の出発点を意味していると言えます。
 そして、復活なさった主イエスは、ガリラヤで弟子たちとお会いしました。そのガリラヤを最後に、主イエスは天に昇って行かれます。
 弟子たちにとって、主イエスがもう目の前から見えなくなるのなら、弟子たちの集団はもう解散してしまうのでしょうか。
 そうではありません。召し出された原点に戻り、主イエスの遺言の通り、そこから父と子と聖霊に御名によって生きる歩みが始まるのです。主イエスが命じられた働きへと遣わされるために、弟子たちは、また私たちは、自分の信仰の原点を確認し、ここから全世界への宣教の働きが始まるのです。
 弟子たちは各自の信仰の原点であるガリラヤで甦りの主イエスとお会いし、その主イエスに促されて、自分たちもまた主イエスのように生き、主イエスのことを宣べ伝えて生きていくのです。主イエスはそのように生きる者と共に世の終わりまでいてくださると約束してくださいました。
 弟子たちは、駆り立てられるかのように、主イエスこそ救い主であると宣べ伝えはじめます。主イエスに出会い、主イエスに生かされたことを自覚する弟子たちは、その主イエスを知らせることに突き動かされていきます。
 教会暦に目を向けてみましょう。教会の一年は、降臨節に始まります。そして、主イエスの降誕、洗礼、公生涯、その果ての十字架の死、復活、そして戦主日には聖霊降臨の時を過ごしてきました。これまでの半年を通して、主イエスがこの世界に示して下さった神の国が私たちにももたらされていることを経験して来ました。私たちは、このような教会暦を覚えて礼拝し、聖書の言葉や聖餐を通して主イエスと出会っているのです。そのような出会いの中で、私たちは主イエスによって神さまの御心が現れ出る姿を学び、主イエスと出会いってきました。
 その一方で、主イエスによってもたらされた神の国の姿に照らして、今のこの世界を見渡す時、私たちは神の御心とこの世界との間には大きな断絶があることを認めないわけにはいかないでしょう。
 主なる神は、神の御心とはかけ離れたこの世に、主イエスを遣わしてくださいました。主イエスは神と私たちの間に立って、私たちを執り成し、神と私たちとの間に救いの道を開いてくださいました。私たちはこの主イエスを私たちの信仰の原点として、主イエスを宣べ伝えるためにこの世界に遣わされていきます。その働きを担う者には聖霊が力となって働いてくださいます。
 私たちも、主イエスの弟子となって、大宣教命令を受けてこの世界に派遣されていく者です。私たちもその前提として自分が主イエスと出会い生かされる原点に立ち戻るのです。ガリラヤとはそのように主の働き人が召し出された場であり、信仰生活の原点を表しているのです。
 主イエスが、最後に、ガリラヤの小高い山の上で弟子たちに告げられた「大宣教命令」の言葉を、私たちに与えられた言葉として、もう一度聴きましょう。
 「だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊に名によって洗礼を授け、あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
 主イエスは、その生涯を通して神の御心を示しました。
 主イエスは、この最後の言葉によって、「さあ、今度はあなた方が神の御心を示す出番です。私はそれを行うあなた方と永遠に共にいます。」と弟子たちに、そして、私たちに言っておらるように思われます。
 教会暦ではこれからの約半年間を「聖霊降臨後の期節」を過ごしていきます。世の終わりまで共にいて下さる主イエスの御守りを受け、私たちの思いを遙かに超えて私たちを励まし支えて下さる聖霊によって力付けられ、この世界に「御国が来ますように」「御心が天に行われるとおり地にも行われますように」と祈りつつ、私たちも宣教の歩みを踏み出していきましょう。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 21:10| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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