2020年06月14日

「新しいイスラエル」の形成 マタイによる福音書第9章35節〜第10章8節 A年特定6 2020.06.14

「新しいイスラエル」の形成 マタイによる福音書第9章35節〜第10章8節 A年特定6   2020.06.14
 
 今日の聖書日課の福音書は、主イエスが十二人の弟子を選び派遣する箇所が取り上げられています。
 主イエスが、実際にご自分の特別な弟子として十二人を選んだかどうかは定かではありません。むしろ、もう少し時代が降り、各福音書が一つの文書といて編集されるようになった頃、主イエスの御跡に従う人々の中にある特別な自己認識が生まれてきたために、「イエスの12弟子」と言う考え方が形成されてきたとも考えることができます。
 その自己認識とは、主イエスの御跡に従う人々の集まりを「新しいイスラエル」と考えることでした。
 イスラエルとはユダヤの父祖ヤコブに神が与えた名前です。旧約聖書創世記の中に、ヤコブが神から「イスラエル」という名を与えられた物語があります。イスラエルの父祖とされるアブラハムの息子がイサク、そしてイサクには双子の兄弟エサウとヤコブが生まれており、そして、旧約聖書の中でイスラエルの神を「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と表現している箇所があることを押さえておきましょう。
 ヤコブは本来は家督を受け継ぐはずであった長子のエサウからその権利を譲り受け、ある時このヤコブが神と格闘してイスラエルという名を与えられています。ヤコブ(イスラエル)には子どもが12人与えられています。その名は、ルベン、シメオン、レビ、ユダ、セブルン、イサカル、ガド、ダン、アセル、ナフタリ、ベニヤミン、そしてヨセフです。この十二人がイスラエル十二部族の各父祖であるという十二部族の起源神話です。
 イスラエル民族には、自分たちは「神に選ばれた民」であるという強い自覚と自尊心がありました。イスラエルの民は、かつてモーセの時代に、エジプトで奴隷とされていた時代があり、主なる神が弱く小さな奴隷の民の呻きをお聞きになり深い憐れみを寄せてくださり、その民をエジプトから救い出してくださいました。イスラエルの民には、「我々は神の民、神に選ばれた民」という自己理解が生まれます。しかし、時代と共にその「神に選ばれた民」という自己理解は、民族主義とでも言える方向へと質を変えていきます。
 自分たちは神から選ばれてその救いの中におかれているという自覚と自尊心は、次第に他民族や他国の人々との違いを強調し民族の純粋さを強調するようになります。また、同じイスラエルの民の間でも、選んだ神と選ばれた民との間の契約である「律法」を遵守することを強調するあまり、律法を守れない者はその民として相応しくないと見なされるようになり、そのように見なされた人々は差別され民の中から排除され迫害されるようになっていきました。
 主イエスは、そのように制度化し硬直化した当時の社会からはじき出されたり落ちこぼれた人たちを深く憐み、その人たちにこそ神の愛はもたらされなければならないとお考えになり、その人々のために枕するとこともなくお働きになりました。そして、「収穫は多いが、働き手が少ない。」と言って、十二人の弟子を呼び寄せられたのでした。
 主イエスの弟子の十二人とは、旧約聖書の神に選ばれた民を構成するイスラエル十二部族に替わって、神の御心をこの世に現わすために新しく神の選びを受けた者の集まりという意味がその数字に込められ、その意味で主イエスの御心を行う人の群れを「新しいイスラエル」と位置づける考えが生まれました。
 主イエスを救い主であると受け入れてその信仰を言い表し、主イエスに従って「神の国」の姿をこの世に実現させていこうとする人々の集まりが「新しいイスラエル」であり、その象徴として12弟子の選ばれている言えるのではないかと思います。
 少し細かなことになりますが、今日の聖書日課福音書の中で、第10章1節では「12人の弟子を呼び寄せ」と記し、第10章2節では「十二使徒の名は」と記しています。「弟子」と「使徒」を使い分けて、主イエスの弟子は主イエスによって新しい共同体の形成のために(つまり新しいイスラエルの形成のために)遣わされる者であることを示しているように思われます。
 主イエスの弟子となるためには何か資格や条件が必要なのでしょうか。
 もし、何か資格や条件が必要であるとすれば、それは、今日の使徒書の中にも記されているように、わたしたちは神に愛されている者だと言う信仰なのです。主イエスによって示された神の恵みを受け入れ、その恵みを感謝して生きる意思を表明している者であるかどうかということになるでしょう。
 主イエスが呼び寄せた12人を見れば、みな取るに足りない人たちであり、中には当時の社会における「はみ出し者」もいました。
 徴税人マタイは当時のユダヤを支配するローマ帝国の手先となってイスラエルの民から税金を取り立てる立場にありました。また、熱心党のシモンは神国イスラエルの独立と再建を実現するためなら武力をも用いようとす団体の一員であり、いわばユダヤ国粋主義者でした。他には、ガリラヤ湖の漁師たちもいて、こうした人々が主イエスさまに召し出され、神の愛を人々にもたらす人になっていったのです。弟子たちはその殆どがガリラヤの者であり、イスラエルの中心であり聖地であるエルサレムからみれば田舎者の集まりでした。この十二人の弟子たちの中にはユダヤ教の律法や祭儀の専門家など一人もいませんし、おそらく由緒ある家系の者もいなかったでしょう。これが主イエスの意思を継ぐ者である「新しいイスラエル」の始まりなのです。それぞれの生活の中で、主イエスとの出会いがあり、主イエスに召し出され従ったところに新しい弟子集団が生まれています。
 彼らが主イエスに召し出されたとき、もし熱心党のシモンや徴税人マタイがイエスを利用して自分の主義や主張を広めたり押し通そうとしていたら、弟子集団は「新しいイスラエル」として一致することはできなかったでしょう。
 今日の福音書マタイ9:36にあるように、弟子たちが召し出されて遣わされていくことの根底には、主イエスが飼い主のいない羊のように弱り果て打ちひしがれている人々を深く憐れみ、その人たちのために神の御心を伝え、身をもって示さないわけにはいかない主イエスさまの思いがあったのです。
 私たちも、一人一人が召し出された背景があり、その背景は実にさまざまです。でも、その私たちが、主イエスから「深い憐れみ」を受けて、召し出されたことは誰もが共通しています。そして、それぞれに違う生活の背景を持ちながらも、「イエスは、わたしの救い主です」という信仰を持つことにおいては一つになっています。
 初代教会の指導者であり宣教者であったパウロは、元ユダヤ教ファリサイ派の熱心な人であり、律法を守ることに厳格ではなかったクリスチャンたちを迫害することに息巻いていました。しかし、やがて幻でキリストと出会い、回心して、イエスを救い主と告白して、主イエスに示された神の愛を熱心に伝える人になっていきました。
 そのパウロが、コリントの信徒への手紙T第1章26節以下で次のように言っています。
 あなた方が召されたときに、能力のある者や家柄の良い者を選んだわけではなく、むしろ世の中の無に等しい者や身分の卑しい者や見下されている者をお選びになったのであり、それは、誰一人神の前で自分を誇ることがないようにするためだと言っているのです。
 私たちも、主イエスによって選び出されこうして生かされていることを誇りたいと思います。そして、主イエスによって示された神の愛によって一つである「新しいイスラエル」を造りあげる働きに与ります。神の国は、特定の人種や民族によって成り立つのではなく、主イエスを救い主と信じて受け入れる人々の思いと言葉と行いによって成り立つのです。
 私たちは、例え小さくても、自分の働きをもって主に仕え、主の御心をこの世に示す者として養われて参りましょう。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 23:21| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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