2020年07月05日

イエスの軛を負う  マタイによる福音書11:25−30  聖霊降臨後第5主日(特定9) 2020.07.05

イエスの軛を負う  聖霊降臨後第5主日(特定9) 2020.07.05
マタイによる福音書11:25−30

 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」
 聖書の言葉が、時に、その言葉が出てくる脈絡を越えて、あるいは無関係に、私たちの胸に迫ってくることがあります。
 主イエスが、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と言ってくださったこの言葉が、2000年の時を経て、今の自分に深く入り込んでくることがあります。
 それは、何億年も前に光を放った星が、私たちが何かの思いで夜空を見上げた時に、その光をまさに今の自分のために光っていると感じるように、主イエスの言葉が今の私に語りかけてくるということなのでしょう。
 私たちは生きている限り悩みがあり、悲しみや苦しさが伴います。生きる上での辛さや悩みは決して悪いことではないし、それは罪でもありません。むしろ、私たちが生きているが故に負う悩み、苦しみ、辛さや悲しさをしっかり負わずに、そこから目をそむけたりごまかしたりするところに、悪が入り込んできたり罪が生まれたりするのではないでしょうか。
 そうであれば、私たちは日頃の生活で自分たちが担うべきことをしっかりと担い、主イエスに導かれ伴われて生きていきたいと思うのです。
 今日の福音書の特に後半部分は、主イエスが私たちを本当の自分になって生きていくことが出来るようにと招き、促しておられる御言葉です。
「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎが得られれる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。(マタイ11:29-30)」
 軛とは、牛などの家畜が荷車や鍬を後ろにして引くときに、首にかける横木のことです。人が生きていくということは、誰でも自分の軛を負うことに例えられます。そして、わたしたちが負うべき軛は、誰もが神から与えられた大切な一生をその人としての命を生かしていくという課題ということです。
 言葉に表せば簡単なことですが、実際に自分の軛を負って生きるということを自分の力によって貫こうとすれば、どれほど難しくまた大変なことなのかを感じておられる人も多いのではないでしょうか。
 だからこそ主イエスは「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と言ってくださっているのです。
 私たちは、この主イエスの御言葉を受けて、自分が負うべき軛を正しく負っているのかどうかを振り返ってみたいのです。私たちは本当に神から与えられた軛を負っているのでしょうか。私たちは、神から与えられた自分の命を育むために与えられた各自の軛を負って生きているはずです。その軛の質も重さもそれぞれに違いますが、軛は全ての人に与えらて誰もが担わねばなりません。私たちは、時にそれを正しく担えなくなって、その軛を投げ出したくもなり、自分にも他者にもまた神に対しても、あるべき関係を作れなくなってしまうこともあるかも知れません。
 私たちは、本来に負うべき軛を脇に置いて、例えば見栄を張ることや他人と比較して上に立つことや他人を悪く言ったり見下したりすること考えて、本当に自分の負うべき軛ではない物事に心を奪われてしまうことさえあるのです。そして、自分が神から与えられた本当の軛とは何なのかを見失ってしまっていることもあるでしょう。
 私の恩師が「悩むのなら上手に悩みなさい。建設的に悩みなさい。」と言っておられたことを思い出します。
 「軛」という視点から、パウロのことを考えてみましょう。
 パウロは、かつてはイエスを救い主とする人々を嫌い、その人々を迫害することに息巻いていました。パウロはかつての自分を振り返って、フィリピの信徒への手紙の中で次のように記しています。
 「わたしは8日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの天では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。(同3:5)」
 イエス・キリストと出会う前のパウロは、自分が軛を負うとはこのように生きることだと考えていました。神との間に結んだ契約を全うして、その契約に反する者を厳しく糾弾し、そうすることで神の前に個人的にも民族としても「正しい者」とされてることこそ正しい軛の負い方であると、パウロは考えました。
 しかし、パウロはフィリピ書の中でそれに続けてこう振り返っています。
 「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見なしています。」
 パウロは、自分が迫害する対象としていた人たちが負っていた軛である主イエスに出会いました。そして回心して、パウロもイエス・キリストを軛として負う人に変えられました。パウロはこのような自分を、「もはや自分ではなくキリストがわたしの中に生きている」と言い、「わたしはキリストを着る」という言い方で表現しています。
 パウロは、キリストと出会って回心する前には、律法を自分の軛とし、律法に照らして完璧な者になろうと努めました。しかしその時のパウロは、そうしよう努めれば努めるほど、神の前には完全ではない自分を感じないわけにはいきませんでした。パウロはかつての自分は「律法の義については非のうちどころのない者」であったと言っていますが、今日の使徒書の中に記しているように、実はそのような自分は「わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。」と言っています。パウロは、律法の軛を負って「律法に従おう、律法に反することなく生きよう」とすればするほど、自分の心と体の間に亀裂を深め、神の律法に仕えているつもりなのにそれが罪を産んでしまう自分に苦しまないわけにはいかったのです。パウロは、自分の力を頼みとして神の前に一途に生きようとしたからこそ、それでは完璧にはなれない自分が明らかにされ、更に自分を苦しめる結果になったと言うことが出来るでしょう。
 私たちの中には、このようなパウロの姿を自分の中に見出す人も多いのではないでしょうか。主イエスはこのようなパウロに表れてくださり、また私たちにも出会ってくださいます。
「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎが得られれる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
 主イエスは、私たちが主イエスのみ言葉を義務として受け取ることを望んでおられるのではありませんし、道徳として実践することを願っておられるのでもありません。そうではなく、私たちが主イエスの招きに応じて自分の全てを委ね、その自分を受け容れていただいた結果、主イエスにお応えすることが出来るようになるのです。
 私たちが為すべきことは、主イエスの許に重荷を下ろして自分を委ね、主イエスに愛されている恵みをしっかりと自分の中に受け容れることなのです。私たちが自分の力では負い切れない自分の重荷を主イエスの御許で下ろし、ちょうど親鳥の翼の下で守られる雛のようにイエスの御許で安らぐこと、そのために招いてくださっている主イエスに従うが求められているのです。
 主イエスの招きの言葉を受け、主イエスの大きな愛の中で本当の自分を回復し、主イエスによって受けた愛の軛を負って日々歩んでいくことができますように。その時、私たちはその歩みに一緒に軛を負ってくださる主イエスに気付き、主イエスへの感謝と賛美へと導かれるのです。
 主イエスのもとに進み出て重荷を下ろし、主イエスが共に負ってくださる軛を負い直し、感謝と賛美に導かれて参りましょう。
 願わくは父と子と聖霊の御名によって アーメン
聖霊降臨後第5主日(特定9) 2020.07.05
マタイによる福音書11:25−30

 イエスの軛を負う

 主よ、どうか私たちのところに来て下って私たちの心を治め、共にいて下さり、あなたの御言葉によって私たちを養い、導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」
 聖書の言葉が、時に、その言葉が出てくる脈絡を越えて、あるいは無関係に、私たちの胸に迫ってくることがあります。
 主イエスが、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と言ってくださったこの言葉が、2000年の時を経て、今の自分に深く入り込んでくることがあります。
 それは、何億年も前に光を放った星が、私たちが何かの思いで夜空を見上げた時に、その光をまさに今の自分のために光っていると感じるように、主イエスの言葉が今の私に語りかけてくるということなのでしょう。
 私たちは生きている限り悩みがあり、悲しみや苦しさが伴います。生きる上での辛さや悩みは決して悪いことではないし、それは罪でもありません。むしろ、私たちが生きているが故に負う悩み、苦しみ、辛さや悲しさをしっかり負わずに、そこから目をそむけたりごまかしたりするところに、悪が入り込んできたり罪が生まれたりするのではないでしょうか。
 そうであれば、私たちは日頃の生活で自分たちが担うべきことをしっかりと担い、主イエスに導かれ伴われて生きていきたいと思うのです。
 今日の福音書の特に後半部分は、主イエスが私たちを本当の自分になって生きていくことが出来るようにと招き、促しておられる御言葉です。
「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎが得られれる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。(マタイ11:29-30)」
 軛とは、牛などの家畜が荷車や鍬を後ろにして引くときに、首にかける横木のことです。人が生きていくということは、誰でも自分の軛を負うことに例えられます。そして、わたしたちが負うべき軛は、誰もが神から与えられた大切な一生をその人としての命を生かしていくという課題ということです。
 言葉に表せば簡単なことですが、実際に自分の軛を負って生きるということを自分の力によって貫こうとすれば、どれほど難しくまた大変なことなのかを感じておられる人も多いのではないでしょうか。
 だからこそ主イエスは「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と言ってくださっているのです。
 私たちは、この主イエスの御言葉を受けて、自分が負うべき軛を正しく負っているのかどうかを振り返ってみたいのです。私たちは本当に神から与えられた軛を負っているのでしょうか。私たちは、神から与えられた自分の命を育むために与えられた各自の軛を負って生きているはずです。その軛の質も重さもそれぞれに違いますが、軛は全ての人に与えらて誰もが担わねばなりません。私たちは、時にそれを正しく担えなくなって、その軛を投げ出したくもなり、自分にも他者にもまた神に対しても、あるべき関係を作れなくなってしまうこともあるかも知れません。
 私たちは、本来に負うべき軛を脇に置いて、例えば見栄を張ることや他人と比較して上に立つことや他人を悪く言ったり見下したりすること考えて、本当に自分の負うべき軛ではない物事に心を奪われてしまうことさえあるのです。そして、自分が神から与えられた本当の軛とは何なのかを見失ってしまっていることもあるでしょう。
 私の恩師が「悩むのなら上手に悩みなさい。建設的に悩みなさい。」と言っておられたことを思い出します。
 「軛」という視点から、パウロのことを考えてみましょう。
 パウロは、かつてはイエスを救い主とする人々を嫌い、その人々を迫害することに息巻いていました。パウロはかつての自分を振り返って、フィリピの信徒への手紙の中で次のように記しています。
 「わたしは8日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの天では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。(同3:5)」
 イエス・キリストと出会う前のパウロは、自分が軛を負うとはこのように生きることだと考えていました。神との間に結んだ契約を全うして、その契約に反する者を厳しく糾弾し、そうすることで神の前に個人的にも民族としても「正しい者」とされてることこそ正しい軛の負い方であると、パウロは考えました。
 しかし、パウロはフィリピ書の中でそれに続けてこう振り返っています。
 「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見なしています。」
 パウロは、自分が迫害する対象としていた人たちが負っていた軛である主イエスに出会いました。そして回心して、パウロもイエス・キリストを軛として負う人に変えられました。パウロはこのような自分を、「もはや自分ではなくキリストがわたしの中に生きている」と言い、「わたしはキリストを着る」という言い方で表現しています。
 パウロは、キリストと出会って回心する前には、律法を自分の軛とし、律法に照らして完璧な者になろうと努めました。しかしその時のパウロは、そうしよう努めれば努めるほど、神の前には完全ではない自分を感じないわけにはいきませんでした。パウロはかつての自分は「律法の義については非のうちどころのない者」であったと言っていますが、今日の使徒書の中に記しているように、実はそのような自分は「わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。」と言っています。パウロは、律法の軛を負って「律法に従おう、律法に反することなく生きよう」とすればするほど、自分の心と体の間に亀裂を深め、神の律法に仕えているつもりなのにそれが罪を産んでしまう自分に苦しまないわけにはいかったのです。パウロは、自分の力を頼みとして神の前に一途に生きようとしたからこそ、それでは完璧にはなれない自分が明らかにされ、更に自分を苦しめる結果になったと言うことが出来るでしょう。
 私たちの中には、このようなパウロの姿を自分の中に見出す人も多いのではないでしょうか。主イエスはこのようなパウロに表れてくださり、また私たちにも出会ってくださいます。
「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎが得られれる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
 主イエスは、私たちが主イエスのみ言葉を義務として受け取ることを望んでおられるのではありませんし、道徳として実践することを願っておられるのでもありません。そうではなく、私たちが主イエスの招きに応じて自分の全てを委ね、その自分を受け容れていただいた結果、主イエスにお応えすることが出来るようになるのです。
 私たちが為すべきことは、主イエスの許に重荷を下ろして自分を委ね、主イエスに愛されている恵みをしっかりと自分の中に受け容れることなのです。私たちが自分の力では負い切れない自分の重荷を主イエスの御許で下ろし、ちょうど親鳥の翼の下で守られる雛のようにイエスの御許で安らぐこと、そのために招いてくださっている主イエスに従うが求められているのです。
 主イエスの招きの言葉を受け、主イエスの大きな愛の中で本当の自分を回復し、主イエスによって受けた愛の軛を負って日々歩んでいくことができますように。その時、私たちはその歩みに一緒に軛を負ってくださる主イエスに気付き、主イエスへの感謝と賛美へと導かれるのです。
 主イエスのもとに進み出て重荷を下ろし、主イエスが共に負ってくださる軛を負い直し、感謝と賛美に導かれて参りましょう。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 22:10| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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