2020年07月12日

御言葉の種蒔き マタイによる福音書13:1-9,18−23 聖霊降臨後第6主日(特定10) 2020.07.12

御言葉の種蒔き マタイによる福音書13:1-9,18−23 聖霊降臨後第6主日(特定10) 2020.07.12 
 
 今日の聖書日課福音書の、マタイによる福音書第13章1節以下には、主イエスが「種を蒔く人のたとえ話」をなさった箇所です。
 ガリラヤ湖畔におられる主イエスの周りに、大勢の人が集まってきました。主イエスは湖畔から舟を出し、その舟に腰を下ろして、そこから話し始められました。
 主イエスの話は、第13章3節にあるとおり、「種蒔く人が種を蒔きに出ていった。」という言葉で始まります。そして18節を見ると、例えの中の「種」は「御国の言葉」であることが分かります。主イエスは御言葉を宣べ伝える事を種蒔きに例え、蒔かれた御言葉の種が色々な人の心に落ちていることを伝え、その御言葉を受け取る者の心の姿、つまり私たちの信仰のあり方を振り返ることを促し、それとともに御言葉の種を蒔き続ける神の熱い思いを私たちに伝えています。
 私たちが御言葉によって育まれることの大切さを考えるために、私がかつて目にしたある出来事をお話したいと思います。
 もう、20年近くも前のことになりますが、私は、ある駅で電車を待っている時に、次のような場面に出会い、何とも言えない重い気持ちになったことがありました。
 プラットホームに駅員のアナウンスが流れました。
 「次の電車は、信号機故障のため5分ほど遅れております。お客様にはお急ぎのところ、ご迷惑をおかけ致しまして誠に申し訳ございません。到着まで今しばらくお待ちください。」
 するとまだ五歳くらいと思われる男の子が、ホームをうろつきながら、誰かに言い掛りをつけるかのように、とても刺々しい口調で独り言を言い出したのです。
 「何だよ、勝手に遅れやがって。早く来いってんだよ。まだ来ねえんかよ。ぶっとばすぞ、てめえ。ナメんじゃねえよ。」
 同じホームで列をつくって電車の到着を待っていた人々が驚いてその子に目をやりました。やがて駅員の「間もなく電車が参ります。電車が遅れまして大変ご迷惑をおかけ致しております。」というアナウンスが流れると、週刊誌を見ていた父親らしい人が「おい、フラフラしてんじゃねえよ。早くこっち来い。おいていくぞ、バカ野郎!」と言ってその子どもを呼び寄せていました。ホームで列を作っていた人々は互いに顔を見合わせました。その親子の口調がそっくりであったことは容易に想像できるでしょう。
 言葉は情報を伝える働きをします。そればかりでなく、私たちがお互いの思いや考えを理解し合うためにも用います。また、言葉は、自分の感情、気持ち、考えを自分で把握して自分を保つためにも用います。更に、言葉は自分の気持ちや周囲の状況を適切にも不適切にも把握し、それを記憶して、周りのことに適切に係わっていく働きもします。人間は他者との適切なコミュニケーションによって成長しますが、言葉は私たちに勇気や慰めを与える一方で、不適切な言葉によって人を傷つけ落胆させる働きもします。特に小さな子供の場合、言葉を獲得していくことと自分の身の回りのことについての理解を深めていくことには密接な関係があり、精神的に安定した人間に育つには、状況を正確に表現する言葉や肯定的で受容的な言葉が与えられる必要があることは、心理学的にも明らかなことです。
 先の駅での出来事は、日頃より子どもたちにどのような言葉を与えるべきかを教えている事例であると言えるでしょう。子どもたちが、蒔かれた言葉によって、心の中に何を育てつつどのような世界を作っていくのかを考えると、胸が痛む思いになります。
 もう一つ、言葉について思い巡らせるための例を挙げてみます。
 ヘレン・ケラーは、1歳7ヶ月の時に熱病によって視覚と聴覚を失って5年あまり混乱の時を過ごしていましたが、7歳の頃にサリバン女史の支援を受けるようになり、指文字によって言葉を獲得していきました。彼女が「水:WATER」という言葉を実物とその意味を結びつけて理解した時の感動は、その後の彼女の秩序ある物事の理解と精神的な成長に大きな影響を与えています。ヘレン・ケラーはその日のうちに幾つかの言葉を獲得し、混乱の中に過ごした自分への後悔にも似た思いと共に自分を意識したと語っています。こうしたことからも、人は良い言葉によって育まれることの大切さに思いを広げてみることができます。そして、私たちが用いる言語の根源には、「はじめに言葉があった」と聖書が伝える神の言葉ロゴズがあることを私たちは信じているのです。
 今日の聖書日課福音書の「種蒔く人のたとえ」が、私たちは日頃から周りの人々にどのような言葉をかけているのか、自分はどのような言葉を受けて来て今があるのか。改めて振り返らないわけにはいかない思いになります。
 主イエスは、良い土地に落ちた御言葉は、百倍、六十倍、三十倍の実を結ぶと教えてくださいました。人は本来、誰もがみなどんな種でも受け入れて宿す「良い土地」の状態で生まれてきます。幼い子どもの心は、御言葉の種を受け入れて成長させるのに相応しい「良い土地」です。でも、人の心は「良い土地」であるからこそ、そこには麦の成長を邪魔する雑草も生え易く、そのまま放っておくといつの間にか茨の地に変わってしまう可能性があることを、私たちはよくよく心に留めておかなくてはならないでしょう。
 主イエスが語っておられる「種」である「御言葉」とは、礼拝での「説教」や聖書の内容に限られるものではありません。むしろ他の人々が日頃の生活の中で経験していることに、私たちがどれだけ寄り添って、どのような言葉をかけているのかということが大切なのかも知れません。私たちは日頃から、もし主イエスがこの状況におられたならどのように言葉をかけるのだろうかと考え、他の人に寄り添い、その人の心に育つ言葉を掛ける事ができるように努めたいと思うのです。このことは、主イエスの御言葉に生かされる者として、いつも心に留めておくべき大切なことであると思います。
 主イエスが御言葉を「種」に例えたとおり、み言葉には命があります。私たちが教会に集い御言葉に生かされる者です。お互いを自分と同じように大切にして、神から受けたみ言葉の種を育て、その御言葉の種を人々に蒔いています。また、私たちは、御言葉の種を蒔きながら、人々の心にみ言葉の種が宿り、育っていくように祈ります。そして、み言葉によって自分を整えられ、秩序づけられて、互いに人としての成長の過程を生きているのです。
 テモテへの手紙Uの第4章2節に次の言葉があります。
 「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。」
 御言葉の種は、他の人を支配したり操作するために蒔かれるのではありません。蒔いた結果はすぐには目に見えないかもしれません。蒔かれたみ言葉の種は耕した大地のような心には確かに定着していきます。蒔かれたみ言葉の落ちるところは、その人によって発芽や成長の違いはあっても、いつか必ず豊かな実りを与えられるでしょう。そうであれば、私たち自身がみ言葉の種を自分の心にしっかりと迎え入れ、育んでいく者でありたいのです。
 主イエスのみ言葉によって養われる私たちは、時が良くても悪くても、悪い時にはなおさら、心を込めて御言葉の種蒔きをすることが出来るように遣わされていきます。豊かな神の御言葉が人々の心に迎え入れられ、その御言葉が思いと言葉と行いの原点になり、更に多くの実を結びますように。私たちは御言葉の豊かな実りの時を祈りながら、御言葉の種を蒔き続けて参りましょう。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 14:36| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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