2020年09月02日

主イエスの叱責 マタイによる福音書16:21−27 聖霊降臨後第13主日(特定17)

主イエスの叱責 マタイによる福音書16:21−27 聖霊降臨後第13主日(特定17) 2020.08.30
 
 今日の聖書日課福音書を含むマタイによる福音書の第16章は、この福音書全体の中での大きな節目になっている箇所です。
 マタイによる福音書全体を見渡してみましょう。主イエスの宣教のお働きはガリラヤ地方から始まりました。主イエスは、ガリラヤ地方で、たくさんの奇跡をなさり、人々を癒し、神の国についての教えを説かれました。その主イエスのお働きは、ある意味で華々しくもありました。多くの人々がそのイエスに感動し、共感し、それぞれに自分の夢や希望をそのイエスに託し、多くの人がこのイエスこそ自分たちの希望を叶え夢を実現してくれるお方であると思うようになりました。
 そして、前半部分を締めくくるように、先主日の聖書日課福音書の中で、弟子のペトロは、主イエスの「あなた方は私を何者だというのか」との問いに答えて、「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰告白しました。
 その脈絡から今日の聖書日課福音書に目を向けると、この箇所は主イエスがペトロを始めとする弟子たちの信仰を更にもう一歩先の次元へとお導きになろうとしておられる箇所と言うことも出来るでしょう。
 今日の福音書の箇所は、「そのときから、イエスは、・・・し始められた」という言葉で始まっていますが、この言葉はマタイによる福音書において大きな新しい段落が始まる冒頭に置かれる「編集句」です。
 マタイによる福音書は、この編集句によって後半へと入っていきます。
 ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です。」と答えたメシア(救い主)とは、どのような意味でのメシアなのかを示す段落へ、つまり、ご自身の受難と死を通して天の国を与えてくださるメシアであることを身をもってお示しになる段落へと進んでいくその始まりの部分にこの編集句が置かれています。
 主イエスは、ご自身の受難を予告し始めます。今日の聖書日課福音書は主イエスの「第1回目の受難予告」とも呼ばれている箇所です。
 主イエスの受難の予告の言葉を聞いたペトロは、主イエスを脇に引っ張っていって、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」と言って主イエスをいさめ始めました。
 すると、ペトロは主イエスに「サタン、引き下がれ」とまで言われて叱られています。これがマタイによる福音書における後半の始まりです。
 私たちは、ペトロの信仰告白とこのように叱られることをどう捉えればよいのでしょう。ペトロの信仰告白は意味のないことになってしまったのでしょうか。主イエスはペトロや他の弟子たちを否定して叱りつけているのでしょうか。
 そうではありません。むしろペトロとペトロに代表される信仰告白をする者の集まりが、主イエスにとって叱るに値するからこそ、そして叱らなければならないからこそ、主イエスは叱っておられるのです。
 今日の福音書の中で、ペトロは、主イエスの受難予告の意味を理解できず、受難を予告する主イエスに「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と言いました。これに対して主イエスは振り向いてペトロにこう言っておられます。「サタン、引き下がれ」。
 私たちはこの言葉から、主イエスさまが宣教を始める前に荒れ野で40日40夜断食して、悪魔の試みに合われた時のことを連想します。
 今日の福音書の中では、主イエスが受難の予告をすることに心を痛めたペトロがイエスを心配して真剣にイエスに向かって話しかけています。でも主イエスは、そのようなペトロの中にさえサタンの働きを見抜いたのです。主イエスは、あの時の悪魔の誘いと同じ誘惑をペトロの言動の中に見抜いておられます。主イエスに見えるのは、ペトロの中の「神のことを思わず、人間のことを思っている」姿であり、それは、神の救いの働きが進むことより、自分の願いが満たされることを願うペトロの姿であったと言えるでしょう。サタンは絶えず尤もらしく、理屈が通り、正しさが現れ出るかのように働き、そうすることによって人を神の思いからいつの間にか引き離すように私たちに迫るのです。
 ここで注意しておきたいことがあります。それは、ここで主イエスが「サタン、引き下がれ」と言っておられるのは、主イエスがペトロの人間性や人格まで否定してペトロをサタン呼ばわりしているのではない、と言うことです。
 それは、日本語には訳されていないのですが、原文のこの箇所 「υπαγε οπισω μου ヒュパゲ オピソー ムー」 を直訳すれば、「わたしの後ろに下がれ」ということであり、多くの英語訳でもここは Get behind me. と訳されているのです。主イエスがペトロに向けたこの言葉には「わたしの後に」という語がしっかりと入っていて、更に、この「わたしの後に」という言葉は、このすぐ後の24節の中にも用いられています。そこは、「わたしについて来たい者は」という所であり、その部分を直訳すれば「わたしの後から来ることを望む者は」となります。主イエスは、ここにも先ほどと同じ οπισω μου (behind me)という言葉を用いて、ペトロが主イエスに従って来ることを前提にして、「私の後ろに回ってついてきなさい。」とお叱りになっていることが表されています。このように、この箇所は、荒れ野でサタンに「サタン、引き下がれ ヒュパゲ サタナ」と宣言したこととは全く違う意味を含んでいることが分かるのです。
 そうであれば、ペトロにとってまたペトロに代表される信仰告白をする群れに連なる私たちにとって、主イエスに叱られることは、どのような意味を持つのでしょうか。
 主イエスは、ペトロを叱った直後に、弟子たちにこう言っておられます。
 「わたしについて来たい者は自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」
 主イエスは、自分の負うべき自分の十字架を負って信仰の歩みを正しく歩むように、御心とは違うことへと向かいそうになる時に、つまり私たちが「罪」に引き込まれそうになる時に、主イエスはお叱りになるのです。
 聖書の世界での「罪」とは、もとの意味が「的外れ」であり、自分の生き方が神の御心から離れたり、かけがえのない自分の命が自分として生きていない姿を言うのです。人は弱く、神の御心が何であるかを考えているようでようでありながら、この時のペトロのように自分のことしか考えられず、時に傲慢になり、不遜になり、虚栄を張り、あるいは恨み、サタンの誘惑に引き込まれ易いのです。そのような私たちは、主イエスから「サタン、退け。わたしの後から従ってきなさい」と声をかけられ、本当の自分に引き戻され、改めて導きを受けながら歩んで行く必要があるのです。
 ペトロは、主イエスに叱責されましたが、それは視点を変えてみれば、ペトロはそれほどに主イエスに導きを受けているのです。主イエスは、ペトロがサタンの誘惑と支配とに負けないように、ペトロを叱り、我が身を振り返らせています。主イエスは、ペトロが自分の思いではなく神の御心を求めて生きるように、ペトロに関わり、ペトロを育くむのです。
 この主イエスの愛は、今、ここで私たちにも注がれています。
 ヘブライ人への手紙第12章5、6節に次のような言葉があります。 
 「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。
 主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。
 なぜなら、主は愛する者を鍛え、
 子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」
 主イエスは、私たちを導き、絶えず私たちを本当の自分として生きるように導き、神とつながって、主イエスに従うように、私たちを招き続けておられます。
 主イエスは、時に「疲れた者、重荷を負う者は、誰でも私のもとに来なさい」と優しく私たちを招き、また時に「サタン、引き下って、自分の重荷を背負って私についてきなさい」と厳しく私たちを軌道修正させ、私たちに関わり続け、導いていて下さいます。
 主なる神の大きな御手の中で、主イエスによって絶えず信仰を新たにされる者でありたいと思います。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 05:18| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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