2020年09月07日

私たちの教会 マタイによる福音書18:15−20  聖霊降臨後第14主日(特定18) 2002.09.08

私たちの教会
マタイによる福音書18:15−20  聖霊降臨後第14主日(特定18) 2002.09.08

 マタイによる福音書第18章は、「教会」という言葉が一つの大きなテーマになっています。
 ここで用いられている「教会」という言葉は、これまでにも度々触れてきたように、聖堂(建物)を意味するのではなく、そこに集う人々の群れを意味しています。「教会」は原語のギリシャ語で"εκκλησια"(エクレーシア)であり、英語の call コール に相当する καλεω カレオー 「呼ぶ、招く、名付ける」を語源として、エクレーシアは「呼び出された人々の集まり」を意味しています。教会には「私たちは神に招かれた者の集まり」という自己理解があるのです。
 そのようなことを前置きとして、今日の聖書日課福音書を読み始めると、私は一つのことが気にかかってしまいます。それは、私たちは神に対して罪を犯すのであり、他の人に対して罪を犯すということがあるのだろうか、ということです。
 この箇所を自分のこととして考えてみると、私が誰かを裏切ってしまうとか、私が教会に対してしてはいけないことをしてしまったということならあるとしても、それは誰かに対して罪を犯すということではなく、私はその様な裏切りや悪事をすることによって、神に対して罪を犯しているのだと思うのです。
 「罪を犯す」とは、神との関係が断絶すること、神を拒否することです。逆に、私が誰かに裏切られたりだまされたりして腹立たしい思いをすることもあるかもしれませんが、それはある人が私に対して罪を犯したということではなく、その人がその様な行為によって神に対して罪を犯すということなのではないでしょうか。「罪を犯す」とは人間に対することではなく、神との間で私たちが御心から外れてしまうこと、神から目を背けてしまうことを意味しており、「罪を犯す」という言葉は人を主語にして用いられるものではないように思えるのです。
 それにもかかわらず、日本語訳の聖書がこの箇所を敢えて「兄弟があなたに対して罪を犯したら・・・」と訳しているのには、ある特別な意図があるはずです。
 マタイによる福音書が一つの文書として編集されるようになる頃、イエスを救い主とする信仰者の群れ(教会)の中に、自分たちの群れについての特別な思いが生まれ始めており、それが「教会(エクレーシア)」という言葉と共に自分たちの信仰と教会を建てあげていこうとする思いを深めていったことが想像されます。
 主イエスの時代、イスラエルのことにユダヤ教の中枢を担う人々は、自分たちを神に選ばれた特別な民族であると考えて、その枠組みとしての律法を守ることによって国をまとめていこうと考えました。
 しかし、イスラエルは、占領するローマ帝国との関係が紀元60年代後半に尖鋭化し戦闘状態になり、70年にローマ軍によってエルサレム神殿を徹底的に破壊され、イスラエルは国を失ってしまいました。
 この戦争の難を逃れた多くのイスラエル人は世界の各地に離散していきますが、エルサレム神殿を失った民は、例え神殿を失っても律法と預言の書によって−つまり旧約聖書によって−どこにいても安息日を守り、御言葉を聞いて一致と団結を保とうとしたのでした。
 この流れの中で、イエスを救い主と信じて告白する人々の集まりは、イスラエルの民が離散した各地にもうけていた会堂で礼拝することを許されていたのですが、やがてクリスチャンは正統なユダヤ教を継承する人々から異端扱いされ、各地の会堂から追放されて、「ナザレ派は呪われよ」と言われるようになってしまうのです。
 その中で、クリスチャンは、自分たちは主イエスを救い主と信じて信仰を告白しその交わりによって成り立つ共同体が教会であり、イエスが自分たちをその交わりに招いて下さった、という認識を強め、深めていきます。その拠点となったのはクリスチャンの家庭つまり「家の教会」であったと考えられています。
 こうして、イエスを救い主と信じて告白する者の集まりは、イスラエルの民族主義に基づいたユダヤ教から離れ、「新しい共同体(εκκλησια)」を形成し始めました。その群れは広がり、また次第にその組織化し始め、新しい規範や習慣も生まれてきます。そして、その群れを治めるのはお招きになった主イエスであれば、教会に集う人々の中に、私たちは主イエスの前には誰でも平等であり、一人ひとりの人間としての大切さには優劣はない、誰も失われてはならないという認識が強まってくるのです。
 信仰者の集まりとは、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、主イエスもその中にいる」集まりです。このような集まりに相応しい者は民族の枠を越えて受け入れられ、また逆に主の御名によって集まる者として相応しくない行いは主イエスに対して罪を犯すことになると考えられるようになっていったのでしょう。
 マタイによる福音書が次第に一つの文書にまとめられる時、人々が主イエスの名によって集まるところには主イエスご自身もそこにおられるという信仰的な共通理解があり、その思いが言葉になってここに入れられたのでしょう。このことは、主イエスが地上の生涯を終えて半世紀近く経った時代に、主イエスを自分たちの救い主であると信仰を告白する人々が、いつも共にいて下さる主イエスに導かれているという思いを一つにして表してたと言えるでしょう。そして、信仰者の集まりである教会の人々に対して何か御心に適わないことをすることは、その人々と共にいる主イエスに対して罪を犯すことになると考えたのです。
 このような時代の状況を背景にして、今日の聖書日課福音書は、ひとたび教会のメンバーとして主イエスに招かれ受け入れられた人が神の御心を傷つけたり御心に相応しくない行いをした時にどうすべきかを教えているのです。
 今日の聖書日課福音書をこのように理解すると、は、私たちの教会のあり方についても、極めて根本的でありかつ具体的な課題を投げかけていることが分かります。
 その中で、特に今日は二つのことに思いを向けてみましょう。
 一つは、私たちの教会が、主イエスに共にいていただくのに相応しく、主の御名によって生きているか、ということです。
 私たちの教会は、今日の御言葉に照らし、主イエスが私たちの中にいてくださるのに相応しく祈り、また御心を行うように努めているでしょうか。
 教会は、「主イエスに召し出された者の集まり」であり、私たちを招いてくださったのは、主イエスご自身です。たとえ、きっかけは誰かに誘われたり、キリスト教や聖書についての興味関心であったとしても、その人々を招き、召し出し、信仰の歩みに導くのは主イエスご自身です。それにも関わらず、もし私たちが、主イエスの御名によって祈ることを怠たり、身をもって信仰を表すことをしないのであれば、教会はこの世の趣味や楽しみのサークルほどの魅力も存在理由もなくなってしまうでしょう。他でもない私たち自身が主イエスに見つけ出されてその交わりに招き入れたれた者であることを確認したいのです。自分自身が先ず主イエスの名によって祈り、御心を行うために生きることによって、教会は教会として成長させていただけるのです。主イエスはその様に生きる人と共にいて下さることを約束して下さいました。私たちは主イエスが共にいて下さる喜びに生かされている者であることを、改めて今日の聖書日課福音書から確認したいのです。
 そして、今日の福音書から導きを受けるもう一つは、クリスチャンは教会から迷い出た者をどのように再び教会に迎え入れるべきかを、初代教会の時代から真剣に考えてきた、ということです。今日の福音書の中にも「罪を犯す」という言葉が出てきますが、この言葉はこの世の倫理に反することをしたとか法律に違反したことを意味するのではなく、神の御心から離れていることを意味する言葉です。初代教会の人たちは、自分たちが主イエスの名によって祈りそこに示されたことを実行していく共同体をつくり上げ、この祈りの共同体は主イエスの体であると考えました。私たち一人ひとりはその体の一部を構成しています。初代のクリスチャンは人々が主イエスの体である教会から離れることを「罪」と考え、そこから迷い出した人々をたずねて見つけ出すことを自分たちの責任とし、失われた人が見つけ出されることを天の喜びとしたのです。
 17節には「教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人や罪人と同様に見なしなさい。」という言葉がありますが、この言葉はその様な人を切り捨てて放っておきなさいという意味ではなく、群れから離れて戻ろうとしない人をまだ神を知らない人々と同じようにみなし、彼らに主イエスの愛を告げ知らせる対象にすべきであると捕らえたのです。
 このように二つのことを採り上げてみても、マタイが示した教会が主イエスに生かされてイエスの体としての教会を創り上げていくことにいかに熱心であったかが分かります。
 私たちは、教会の2000年に及ぶ長いつながりの中で、その先端に生かされています。私たちも主イエスの御心を思い巡らせて祈り、主イエスの御名によってこの教会をキリストの体として建てあげていく務めをこの地において与らせていただけるように祈り求めるのです。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 04:59| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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