2020年09月14日

完全な赦し マタイによる福音書18:21−35  聖霊降臨後第17主日(特定19) 2020.09.13

完全な赦し  マタイによる福音書18:21−35  聖霊降臨後第17主日(特定19) 2020.09.13
 
 「七回どころか七の七〇倍まで赦しなさい。」
 小学生時代にかけ算を覚えた頃、この聖句が出てくると、少しふざけて「七の七〇倍は490だから、491回目には赦さなくていいんだ。」などと言った記憶があります。勿論、7の70倍までも赦すという事は、回数の問題ではなく、徹底して赦し抜くことを意味していることは、小学生でも分かります。しかし、それが私たちにとってどれほど困難なことであるか、赦そうまたは赦されたいという思いを持つ人であれば、誰でも経験していることなのではないでしょうか。
 今日の福音書の始め方で、ペトロは主イエスに次のように尋ねています。
 「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」
 当時、ユダヤ教では、神は人間の同じ罪を三度までなら赦してくださると考えていました。ペトロはユダヤ教のそうした教えを知った上で、自分ではその考えを遙かに超えた寛容の思いを込めて、主イエスに「七回までですか。」と尋ねたのでしょう。でも、主イエスはペトロに「七回どころか七の七〇倍まで赦しなさい。」と教えられました。
 このような完全な赦しを与えられるとしたら、私たちが赦される立場になった時、心にどのような出来事が起こるでしょうか。
 私は、二つの反応があるのではないかと思います。
 一つは、赦しについて理解しないままに、相手の赦しに乗じて、罪を犯すことに無感覚になり、罪を重ねる反応であり、もう一つは、相手の赦しに感謝して、もう2度とそのような罪を犯すまいと決心する反応です。
 作家の椎名麟三が、自伝的な文章の中で次のようなことを記しています。
 友人がクリスチャンになった椎名麟三に「もし、何をしても赦されるのなら、ますます悪事にはまっていくのではないか。」と尋ねてきた時に、「本当の赦しをいただいた者はそんなことはしなくなる者なのだ。」と応じています。
 「赦されているのに更に罪の質を深めていく者」と「そのようなことはしなくなる者」との両者の違いは何によって起こってくるのでしょう。
 私は、その答は罪を犯すということをどれだけ重大なことと思うのか、また、罪を赦されることの感謝と嬉しさの実感がどれだけあるのかどうか、に係っているのではないかと思います。
 今日の聖書日課福音書では、主イエスがペトロに七の七〇倍までも赦すことを伝えた後、次の例え話をしておられる構成になっています。
 ある王が、家来たちに貸したお金の清算をすることにしました。1万タラントンの借金をしている家来が王の前に連れ出されました。王はこの家来に自分の妻子や持ち物を皆売り払ってお金を返すように命じました。しかしこの家来は、王の前にひれ伏して「どうか待ってください。きっと全部お返しします。」願います。そこで王はこの男を憐れに思ってその借金を帳消しにしてやりました。
 この男が赦されて出ていくと、自分が100デナリオンの金を貸している仲間に出会います。その時、この男は仲間を捕まえて首を絞めて「借金を返せ」と迫るのです。相手が「返すから待ってくれ」としきりに頼んでも、その言葉にも耳を貸さず、この男は仲間を牢に引っ張っていき、返すまではそこから出さないことにして牢に入れてしまいました。
 主人はこの話を聞いて、一度は赦してやったこの家来を呼んで、「私がお前を憐れんだように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」と言って、この家来を牢役人に引き渡したのでした。
 この例えの家来は、主人である王から七の七〇倍以上の赦しを与えられながら、ほんの少しの負債を返せない自分の仲間を赦しませんでした。自分の力では一生掛かっても返すことの出来ない負債のある者が、その返済を迫られた時には、それを逃れるために必死になって赦しを願うのに、一たびその危機的な場を逃れられれば、自分が赦されていることを忘れ、あるいは棚に上げ、他人の小さな負い目を責め立てています。
 主イエスは、このようなたとえ話をなさり、その中での主君の言葉として、「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」と言っておられます。
 しばしば私たち日本人の課題として指摘されることがあります。それは、日本人には罪の意識が薄いということです。それは、正しいことや本当のことに基づいた判断より、その場の雰囲気を円満に保つことを優先させることにつながっています。
 ある社会学者は、こうした日本人の社会秩序は「罪意識」には拠らず「恥の意識」によって成り立っていると指摘しました。もしそうだとしたら、本当に私たちは主イエスの十字架の死によって完全な赦しを与えられているという信仰をもっているのかどうか、その信仰を土台にして生きることを本当に自分のものにしてできているのかという疑問の前に立たされることになります。それは、恥をかかずに済めば、償いきれない重い罪に対する責任を引き受けることもなく、罪を重ねることにもつながっていくのではないでしょうか。
 今日の福音書の「仲間を赦さない家来の例え」で、多くの負債を免れながら僅かな額を返済しない仲間を赦さないこの家来は、主君の赦しを実は本当には理解していなかったのです。それ以前に、自分が主君に対して負っている返済不能な借金の重みを少しも理解していないのではないでしょうか。そのような罪の自覚のない者に、どうして赦しを与えられている感謝が生まれるでしょう。主イエスさまは、この例えで他の人に対する償いきれないほどの具体的な負い目を1タラントンという借金に例えているのであり、この借金に例えられるような具体的な負い目が赦された体験を通して、私たちは具体的な人間の背後におられる神の赦しを実感できるのです。私たちは、罪の自覚が生じるところに神の赦しを実感を伴って知ることが出来るのです。ちなみに、1タラントンは当時の約20年分の労賃であり、1万タラントンの借金という例えは、返済不能の負債であることをの例えていることが分かります。
 私たちが忘れてはならないのは、負債が帳消しにされるとは、その1万タラントンは誰かが肩代わりしてその損失を引き受けているということです。
 しかも、このような「赦し」が成り立つには、誰かが罪の結果を引き受けて痛み、その傷や損失を引き受けることことになります。
 今日の聖書日課福音書で、この例え話の1万タラントンという大きな損失は、誰が引き受けているのでしょう。私たちに代わって十字架の上にご自身の命を捧げて埋め合わせをしてくださったのが主イエスです。私たちはその十字架によって負債を全て赦され、そればかりではなく、神に対して負債だらけの私たちを主なる神は痛みながら愛してくださっていることをマタイによる福音書は教えています。
 私たちは、このように、大きな赦しの恵みを神からいただいています。この恵みによって、私たちが神に対して犯してしまった罪は、変えられない過去の傷になって残るのではなく、神の赦しと愛に出会う通路にしていただけるのです。
 この恵みに与った者は、罪を重ねることなく、赦しを与えて下さった神への感謝とその喜びの中に生きる事へと導かれるでしょう。かつて罪人であった私たちは、主イエスによって七度を七〇倍する以上に赦され、愛され、認められ、受け入れられているのです。主イエスによって示された完全な赦しを土台にして、「あなた方は互いに赦し合い愛し合いなさい。」と教えられています。
 神のお与え下さった赦しの中で、私たちが豊かに共に生かされ、生きることの感謝と喜びが人々の中に新たにされるように仕えることは、「御国が来ますように。御心が天に行われるとおり、地にも行われますように。」と祈る事につながっています。その意味で、完全な赦しは、無節操を生み出すためにではなく、神から与えられた掛け替えのない命に立ち返るための神からの招きであることを確認しておきたいと思います。
 主イエスはご自身の十字架を通して神の無条件の赦しを示し、私たちを招き続けていて下さいます。神の完全な赦しに与った者として、互いに愛し合うことへと導かれて参りたいと思います。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 09:25| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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