2020年10月06日

「角の親石」  マタイによる福音書21:33〜43   A年特定22 2020.10.05

「角の親石」  マタイによる福音書21:33〜43   A年特定22  2020.10.05

 今日の聖書日課福音書から導きを受けるために、初めにぶどう園について考えてみましょう。
 イスラエルの人々は、旧約聖書の時代からイスラエルの国を神から管理を委ねられた「ぶどう園」に例えてきました。
 ぶどうは、そのまま食べることもありますが、多くは干しぶどうにしたりぶどう酒をつくるために用いられました。特にぶどう酒の場合は、収穫したぶどうの実を搾ってそのまま置いておくとその絞り汁はひとりでに発酵してぶどう酒になります。昔の人々はこのようにしてぶどう酒が出来ることを化学的な発酵の観点から理解したのではなく、搾ったぶどう液に「霊」が宿ることとして理解していました。英語のスピリットという言葉には霊という意味と共に酒という意味もあります。ぶどうは、果物の中でも特に発酵しやすく、それは神の霊を宿す性質のある食べ物であると理解されていた当時のことを考えてみると、イスラエルの民が自分の国を「ぶどう園」に例え、その働きに使命を持つ人々が自分たちを「ぶどう園の働き人」と例えたことには深い意味があったことが想像できます。
 今日の旧約聖書日課は、イザヤ書第5章から取り上げられています。イザヤは次のようにブドウ園の例えを用いて預言します。
 「わたしは歌おう、わたしの愛する者のために。そのぶどう畑の愛の歌を。
 わたしの愛する者は、肥沃な丘にぶどう畑を持っていた。」
 主イエスも、ぶどう園を例えにして、いくつかの教えを説いておられます。今日の聖書日課福音書は、聖書新共同訳では、「ぶどう園と農夫」のたとえという小見出しがついています。「ぶどう園の農夫と後継ぎ」の話です。
 この例え話を簡単に振り返ってみましょう。
 主人は、ぶどう園をその設備まですっかり整えて、農夫たちに任せて旅に出ました。収穫の時期が近づいた頃、主人はその収穫を受け取るために自分の僕を農夫たちの所に遣わしました。ところが、ぶどう園を任された農夫たちは、主人が遣わした僕を捕まえて袋だたきにし、また他の僕を石打にして殺してしまいました。主人は、前よりも多くの僕をぶどう園に遣わしますが、ぶどう園の農夫たちはその僕たちのこともまた同じ目に遭わせてしまいます。とうとう、主人は自分の息子なら敬ってくれるだろうと、自分の一人息子をそのぶどう園に遣わします。ところが、農夫たちはその息子を見て「この一人息子を殺してしまえばぶどう園は自分たちのものになる。さあ、こいつを殺してしまおう。」と話し合い、一人息子を捕らえ、ぶどう園の外に放り出して殺してしまうのです。こうして捨てられた息子は、新しく生まれる神の国の礎石になるのです。
 主イエスの時代には、イスラエルの指導者たちは、宗教的にも政治的にも、エルサレム神殿を中心にして民族の一致と団結を図ろうとしていました。
 その中心となり権力を握っていたのが神殿の祭司長や民の長老や律法の専門家たちでした。しかし、彼らは神殿の権威の上にあぐらをかき、自分たちの利益を求めたり、自分の都合の良いように律法を解釈することに心を奪われ、弱くされた人や貧しい人々のことなど顧みようとはしませんでした。そうした権力者たちに対して昔から沢山の預言者が神の言葉を語りました。ある預言者は神殿の指導者たちを糾弾する言葉を放ち、他の預言者はイスラエルの指導者や民衆に向かって神の御心に立ち戻るように勧め、また他の預言者は彼らに悔い改めを促す言葉を取り次ぎました。しかし、神殿の権力者たちは預言者の言葉を聞かず、拒否し、預言者たちを弾圧し迫害を加え、今日の福音書のぶどう園の主人に遣わされた僕たちのように、沢山の預言者たちが殺されていきました。そして、ぶどう園の主人の独り息子のようにお働きになった主イエスを十字架の上に捨て去り、彼らはユダヤ教の権威が自分たちの手の中にあるかのように振る舞い続けたのでした。
 しかし、神の独り子である主イエスが十字架の上に殺されて、神の国の実現を目指す働きはそこで終わってしまったわけではありませんでした。
 主イエスの働きが十字架の上に放り出されて終わったかのように見えても、何の権威もない弱く小さな人々によって、新しいぶどう園の働きが十字架の出来事から始まり受け継がれていくのです。十字架に示された主なる神の愛は各地に散らされている人々に届けられ、やがてその群れは新しい集団を作りだし、教会として成長し始めます。そのことをマタイは、第21章42節に
 「家を建てる者の捨てた石、これが角の親石となった。
 これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。」
と記しているのです。これは、詩編第118編22節23節の言葉です。
 イスラエルの指導者たちが考えるぶどう園は、自分たちは神に選ばれたと自負する者たちが我が物顔に振る舞うぶどう園に成り下がり、御心を忘れ、遣わされた独り子を拒み、その独り子を十字架の上に捨て去りました。エルサレム神殿の指導者たちは、自分たちの握る権力の中に神の御心を閉じこめようとしました。主イエスが示した神の愛を拒否し、神の御心との間にある大きな断絶が明らかになりました。主なる神は主イエスの十字架の出来事を通して、イスラエル民族の枠を越えて神の御心を世界中に拡げてくださったのです。
 主なる神の救いの歴史は、イスラエルの民の中に始まり、異国の民へそして世界へと広がっていきました。 今日の福音書の最後の部分で主イエスはこう言っておられます。
 「だから、行っておくが、神の国の福音はあなたたちから取り上げられ、そ れにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。」
 それは、この世界の中でのキリスト教の大きな流れであると同時に、私たち一人ひとりの心の歴史でもあるのではないでしょうか。
 ここで主イエスが言っておられる「民族」とは、ある特定の人種や部族を意味しているのではなく、主なる神の御心を行いその実を結ぶことに出来る人々の集まりを意味している事は明らかです。私たちの教会も、主の御心に相応しい実を結べるよう求められています。こうして教会に招かれている私たち一人ひとりも、またこの礼拝堂も、主が用意してくださったぶどう園です。このぶどう園の働きによって主の御心に相応しい実を結び、その実を主のご用のために納めることを私たちは求められているのです。
 主なる神のお働きは、人の欲と罪のためにぶどう園の外に捨てられてしまったかのように見えても、独り子主イエスの働きは平和と愛に満ちた世界を作りだすための「角の親石」となって、私たちの働きを支えていて下さいます。神ご自身が人の罪のために傷み苦しみながらも、なおその先に御心を行う人を起こし、その人たちを心の底から支える「親石」となって下さっているのです。あらゆる困難や挫折の先に、それに勝る喜びと平和を与えてくださるために、主なる神は働いておられます。私たちは、神の愛を受け、御心の実を結び、その実を主の御前に喜んでお献げできるよう、今日の福音書の御言葉を一人ひとり深く受け止めましょう。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 00:22| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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