2020年11月03日

諸聖徒日を感謝して  マタイによる福音書5:1〜12    2020.11.01

諸聖徒日を感謝して マタイによる福音書5:1〜12    2020.11.01

 今年は、今日11月1日が主日と重なり、今日は教会の主要祝日である諸聖徒日として、ことに本教会関係逝去者を覚えて聖餐式を致しております。
 はじめに、「諸聖徒日」が教会暦の中に公に制定されるに至った歴史を振り返ってみましょう。
 教会が殉教者や信仰の偉人を覚えて聖餐式を行うことは、初代教会からの伝統でした。主イエスの直弟子たちやその後継者たちの、殉教の日や逝去の日を記念して、教会は聖餐式を行って参りました。キリスト者の群れである教会は、命と信仰の継承者を大切にして、その記念の日を覚え、年ごとに生きる者も逝去した者も主にあって一つであることを聖餐式の中で確認し感謝してきたと言えます。教会がそのように記念すべき逝去者は次第に数を増していき、5世紀半ばの文書史料には、「5000人の殉教者たちに割り当てることのできる日はもう一日も残っていない。」と記されるほどになっていました。
 キリスト教は紀元380年にローマの国教となりましたが、キリスト教はローマ帝国に占領されている人々の信じる宗教であり、4世紀初めの頃まで、幾度となく激しい迫害に見舞われてきました。
 キリスト教は、ローマ帝国に支配された被征服民族であるイスラエルの民の宗教であるユダヤ教の流れから生まれ、キリスト教はローマの側からもユダヤ教の側からも迫害を受ける時期がありました。主イエスの十字架と復活から実に300年近い時を経て、313年にローマ皇帝コンスタンティヌスは「ミラノの勅令」によってキリスト教を公認し、392年には皇帝テオドシウスがキリスト教を国教として逆に他の宗教を禁じるようになりました。
 それから2世紀以上経った紀元605年の頃、当時のローマ皇帝ポーカスはある建物を教会に献納したいと教皇ボニファティウスに申し出たのです。この建物は、ご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、パンテオンと呼ばれる建物で、日本語に訳せば「すべての神々」という名の建物です。
 この「パンテオン」は、キリスト教がローマの国教となる前は、文字通りギリシャ・ローマ世界のすべての神々がまつられる神殿であり、円形をしたこの建物の中心にはローマ皇帝の像が据えられ、その周りにローマが占領した異教の神々の像がこのローマ皇帝に服従するように配置されていたのです。この建物を寄進された教皇ボニファティウスは、異教の偶像をすべて取り払い、このパンテオンを聖マリアとすべての殉教者のために奉献して「聖マリアと諸殉教者聖堂」と名付けました。そして、この建物を祝別して、主の働きのために献げる式を5月に執り行うことを公布しました。しかし、こと時をローマで迎えようと余りに多くの人がローマに集まり、ローマはたちまち食料が不足してしまい、この祝祭は延期されました。そして、穀物や果物の収穫の済んだ11月1日に改めてパンテオン祝別の礼拝を行い、教皇ボニファティウスはこの日を「全世界の教会ですべての聖人のために厳かに祝う日」と定めたのでした。
 こうした流れから、教会は11月1日を「神に仕える人々のうちに現れたキリストのくすしき御業を告げ知らせる日」として、全ての聖人(Saint)を覚えて、その聖人たちをとおして現されたキリストの働きを感謝するようになったのです。私たちもまた、この日には信仰の先達のために祈り、私たちも諸聖徒の働きを覚えて、主の働きに用いられる器とされるように祈っております。
 さて、諸聖徒日の聖餐式聖書日課もそのような意図のもとに、福音書は、マタイによる福音書第5章の冒頭の箇所が選ばれています。この箇所は、マタイによる福音書第5章から7章の、いわゆる「山上の説教」の始めの部分であり、主イエスが「心の貧しい人々は幸いである」から始まる「8つの幸い」について教えておられる箇所です。
 主イエスは、ガリラヤの小高い山の上で、弟子たちと大勢の群衆を前に教えを宣べ始めます。先ず、第一声、主イエスは「心の貧しい人々は、幸いである」とお話しになりました。
 「心が貧しい」とはどういうことでしょうか。ある訳本ではこういう言葉が用いられています。
 「ただ神により頼む人々は幸いだ。天の国はその人たちのものだから。」
 つまり、自分の人間としての貧しさ、乏しさを知って、神に寄りすがる人々こそ幸いであると主イエスは言っておられるのです。
 例えば、心の貧しさを自覚しないのなら、そこに独りよがりや傲慢が生まれて来ます。端から見て、その人の罪が明らかなのにそれを自分で認められないとすれば、その独りよがりや傲慢さは、神さまの静かで小さな働きかけを拒んだりはね除けたりすることになるでしょう。それとは対照的に自分の人としての貧しさや乏しさを知ってそれを認める人は、そこに働いてくださる神の恵みをつかみ取り、感謝するでしょう。その時、心の貧しさや乏しさは、神の恵みが働く通路にさえ変えられていくことになるのです。
 また、私たちはこの世で、仮にどれほど有能であってもまた業績を上げようとも、一生の終わりに誰もが皆「心を貧しく」しなければならない時、言い換えれば「全く神により頼む」ことしかできない時が来るのです。その時、心の貧しさを知る者は、神に全幅の信頼を置いて自分の全てを神に委ねることができるでしょう。「心の貧しさ」は、その人を天の国とつなぐことになります。主イエスは、天の国はそのように自分の貧しさを知って神に依り頼む者のものだと教えてくださいました。
 今日は諸聖徒日です。この日に私たちは、私たちの先輩方がその生き方と死に方をとおして証ししてくれたことを覚え、感謝するのです。
 このような意味での「心の貧しさ」を受け入れて生きることは、私たちの諸先輩を見上げる時、決して人間として恥ずかしいことや惨めになるようなことではないことが分かります。むしろ、鎧で身を固めて本当の自分を隠し、「心の貧しさ」を開こうとしないところに偽物の世界をつくり出し、自分の中にも他の人との関係にも真実になれない問題の重大さに気付かなければならないでしょう。
 信仰の先人は、自分の貧しさを知り、自分の貧しさを主に委ね、主にすがって生きることによって、自分を通して主の栄光が現れ出ることを示してくださいました。そして、私たちも自分を主に委ねて生きる時に、貧しい私たちを通して神のお働きが表れて、私たちに天の国が約束されることを覚えたいのです。
 自分の貧しさを受け止めた一人の作家をご紹介しましょう。
 作家の椎名憐三がクリスチャンであったことはご存知の方も多いかと思います。この人は、若い頃に共産主義思想に傾倒していましたが、やがてキリスト教信仰をもって生涯を全うしました。彼は洗礼を受けた後、「私はもうこれで死の間際に思い切りジタバタすることができる。イエスがいてくださるのだから、どうであっても安心だ。」と言ったと伝えられています。
 私たちは、神との繋がりの中で生かされています。だから、慎ましく模範的に生きるように強いられるのではなく、自分の中にある恐れも怯えも恥ずかしさも悔いも、全てを知って受け容れてくださるお方の前で、ありのままの等身大の自分として、自分の貧しさを認めて素直に生きることが許されています。天の国はそのように生きる者に約束されているのです。
 そのように、私たちも心の貧しい自分がそのままそっくり神の前に差し出して委ねるとき、そこに天の国の姿が一つ現れでることを覚えたいと思います。
 主イエスは、そのような貧しさに生きる人こそしっかりと神とつながり神の祝福にあずかるのに相応しいと教えてくださり、また主イエスご自身も十字架の死に至るまで徹底して貧しく生きてくださいました。そのイエスを救い主として受け入れて導かれた聖人たちも、人の業としては誇ることなど何も無く、ただ自分を通してお働きになった神を誇り、自分は弱く貧しいからこそ主の御業が働く器として用いられ、その事をただ神に感謝するだけである、聖人とはそのような人々を言うのではないでしょうか。
 私たちも、ただ主に依り頼み、その貧しさを通して主の栄光のために用いられる喜びにあずからせていただけますように。
 諸聖徒日の特祷をもう一度祈りましょう。 
 全能の神よ、あなたは、主に選ばれた人びとを結び合わせ、御子イエス・キリストの体である公会に連ね、その交わりにあずからせてくださいました。どうか私たちに恵みを与え、祝福された聖徒たちにならって常に清く正しく生き、終わりの日に主を愛する者のために備えられた大きな喜びにあずからせてください。主イエス・キリストによってお願い致します。アーメン
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 10:52| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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