2020年11月15日

神からの賜物  マタイによる福音書25:14-15、19-29  2020.11.15

神からの賜物   マタイによる福音書25:14-15、19-29  A年特定28  2020.11.15


今の日本でタレントとして知られる人とは、「特にバラエティ番組のパネリストとしてテレビ番組などマスメディアに出演する有名人」のことです。この「タレント」という言葉は、元々特別な能力、才能を意味する言葉であり、その語源をたずねれば今日の福音書に出てくる「タラントン」というお金の単位にさかのぼります。今の日本を振り返ってみると、高額所得者がタレントであるかのような、そしてそれを持つことで人間の価値まで決まるかのような感が強く、タレント(才能)が本当に才能ある人として評価されているのかを疑いたくなるような状況にあるように思えてきます。
 私たちは、今日の聖書日課福音書から、自分の内なる財産である色々な才能(タレント)についても、また外なる財産である金銭や証券また不動産についても、それらは主なる神から与えられまた託されているものであることを教えられます。そして、私たちは、今日の聖書日課福音書から、タレントが神の御心に沿って用いられ生かされることの必要性と大切さを学びます。 
 神は、私たち人間がこの世界で神に御心を実現し、顕現するようにそのタレントを用いることを願っておられるのではないでしょうか。タレント(つまりそれぞれのひとが持つ賜物である才能や技量)は、神が一人ひとりの人に与えてくださった固有の財産であり、各自がその賜物を用いて、神の御心がこの世界に実現するように祈りつつ努める時に、そのタレントは大きな意味を持つ働きとなります。
 各自が与えられた技量、才能を精一杯神の国の実現他のために用いる働きをする人のことを、今日の福音書は「忠実な良い僕だ、よくやった。おまえは少しのもに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」と表現しているように,私には思えます。
 ある主人が自分の財産を僕たちに預けて旅に出ました。僕はその力に応じて、ある者は5タラントン、ある者は2タラントン、ある者は1タラントン預けられました。かなりの日数が経って主人が戻ってきました。主人は僕たちを集めて「さあ、私が預けたタラントンをあなた方はどのように用いたのか、見せて貰おう。清算をしよう。」と言いました。
 5タラントンを預かった僕は、その5タラントンを元手に5タラントンを儲けて主人の前に10タラントンを差し出しました。2タラントン預かった僕も、その2タラントンを元手に2タラントンを儲けて4タラントンを差し出しました。主人はこの僕たちに「忠実な良い僕だ。お前は少しのものに忠実であったから多くのものを管理させよう。私と一緒に喜んでくれ。」と言いました。
 ところが、1タラントン預かっていた僕は「ご主人様、あなたは厳しい人ですから、私は預かったタラントンをそのまま土の中に埋めて隠しておきました。これがそのお金です。そっくりそのままお返しします。」と言って1タラントンをそのまま主人に差し出しました。すると、主人は、「お前は怠け者の悪い僕だ。それならその1タラントンを取り上げて10タラントン持っている者に与えよう。」と言ったのでした。この箇所では、主人が長い旅に出かける時に、自分の僕たちにそれぞれの力に応じてタラントンを預けたという設定になっています。1タラントンは当時の六千日分の労賃であり、おおざっぱに計算して1タラントンは約20年分の労賃と言うことになります。今日の福音書の中で、これほど多額なタラントンを与えられている僕についても主人は「おまえは少しのものに忠実であったから・・・」と言います。それは、一人ひとりが神から託されている賜物がいかに尊く重大であるかを示しているとも言えるでしょう。
 私は、この譬えのタラントンを金銭で考えるのではなく、畑に蒔くべき麦の種に置き換えて考えてみると、主イエスが教えておられることがよく理解できるように思います。
 畑の主人は、旅に出る前にそれぞれにとても多い分量の麦の種を渡し、収穫を得るように言いつけたのでした。主人が帰って来た時にその成果を報告させました。多くの人が何倍もの収穫を得ている中、ある人はその種をただそのまま眠らせていた、と譬えてみると、ここで主イエスのお話になっていることの意味がよく分かるように思うのです。
 私たちは、神さまから与えられるタラントンは、例え生まれつき備えられているとしても、可能性の種のように与えられています。多くの場合、そのタラントンは、お金のようにそのまま保管できるものではなく、育み、磨きをかけていく可能性として与えられているのではないでしょうか。そのタラントンがどのように生かされるかによって、神の国の働きに役立つことにもなれば、ただ自分勝手な欲望を満たす道具にもなってしまうことにもなるように思えます。そう考えてみると、今日のタラントンの例えは、ただ神から任された自分の才能をこの世的な出世や資産を増やすために用いることを勧める例え話ではなく、神からそれぞれに与えられた自分の人生の恵みを感謝し、その恵みを神にお捧げすることによって天の国の姿を示すことを教えた物語であると言えます。
 この恵みは、例えばパウロによれば、人の長所として捕らえられることを通してだけではなく、弱さや醜さと思えることを通してさえ働きます。パウロはコリントの信徒への手紙U第12章で次のように言っています。
 パウロは、自分で自分のことを誇らないように、神は「わたしの身に一つのとげをお与えになった、自分はそのとげを離れさせてくださるように三度頼んだけれど、主は「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮させるのだ」とパウロに言われたのでした。だから、キリストの力が自分の内に宿るように、むしろ自分の弱さを大いに喜んで誇ろうではないかと言っています。
 神の御業とその恵みは、時には、人の目から見て不都合と思われることをとおしてさえ、豊かに働きます。そして、人の目には一見不利に見えたり不都合に思われることさえ、神はその人のタラントンとして備えてくださっているのです。
 最近、久しぶりに『ヘレン・ケラーはどう教育されたか』という題のサリバン女史のレポートなどを集めた本を読み返してみました。その中で、サリバン女史が、ヘレン・ケラーの感覚の鋭さについて記している箇所が印象的でした。サリバン女史は、ヘレン・ケラーの目が見えず耳が聞こえないが故にその場の気配や人の表情や感情を察知する力が研ぎ澄まされ、その力の極めて鋭敏であり正確であることを指摘しています。ヘレン・ケラーの潜在的なタラントンが、目が見えず耳が聞こえないが故に、顕現していると言えるのではないかと、私には思えます。
 私たちは、神からどんなタレントをどれほど与えられているでしょうか。それを無駄にしないようにするためには、不必要に尻込みすることなく、謙遜を隠れ蓑にして出来ることから逃げ出すことなく、神の御心が現れ出るように励み、また支え合い、愛し合っていくことが求められます。そして、そこに「天の国」の姿が現れ出てくることを、主イエスは今日の聖書日課福音書を通して教えておられるように思えてきます。
 時に私たちは自分で気づかぬ間にも神の恵みはずっと働いていてくださったことに気づかされることもあります。神が私たちに託されているタラントンは実に多種多様であり、その可能性や力量について自分から制限したり小さくしてしまうことのないように、絶えず感謝をもって用いる者でありたいと思うのです。私たち一人ひとりが神の前に輝き、与えられているタラントンが神の平和をつくりだす働きへと用いられ生かされるように祈り求め、派遣されていきましょう。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 21:32| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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