2020年12月28日

 贖い主が与えられた ガラテヤの信徒への手紙第4章4〜7 降誕後1   2020.12.27

 贖い主が与えられた   ガラテヤの信徒への手紙第4章4〜7 降誕後1   2020.12.27

 年中行事としてのクリスマスは、クリスマス・イヴが過ぎると共に去っていきますが、私たちは御子イエス・キリストの降誕を感謝してその恵みを思い巡らせながら過ごしています。私たちにとってのクリスマスは1月6日顕現日まで続きます。
 教会の伝統がこうした教会暦の中にも受け継がれており、私たちは神の大きな働きをこうした教会暦によって思い起こしながら信仰の養いを得ています。
 今日は降誕節第1主日です。今日の聖書日課から使徒書に思いを向け、そこから主イエス・キリストご降誕の意味を考えていましょう。パウロはこのガラテヤの信徒への手紙の中で、イエスが自分にとってどのような意味での救い主であるのかを熱く語っており、それを理解することは、御子の降誕を祝う私たちが御子イエスをどう理解するのかと言うことにもつながってくるからです。
 パウロは、今日の使徒書の中でこう言っています。
 「しかし、時が満ちると、神はその御子を、女から、しかも律法の下に生まれた者として、お遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。」
 パウロは、キリストに出会う前は、ユダヤ教徒であり、それも熱心なファリサイ派の一員でした。ファイリサイ派については、ある聖書辞典の中に「モーセ律法を至上の権威とし、その中に個人的・社会的正義の全教訓を見た」と記されています。パウロにとってはまさに律法の一言一句が自分の救いと社会の正義をもたらすために、厳しく守るべき権威だったのです。パウロは、律法を完全に忠実に実行し自分を律法を当てはめていくことによって、自分は神に完全に受け入れられ、社会に正義が実現すると考えていたのでしょう。
 しかし、そのことに徹して生きようとすればするほど、パウロの内面には大きな亀裂が生まれてきました。誰でも、律法を守ることについて完璧であろうとすればするほど、実はそうではない自分の一面を感じないわけにはいかくなります。
 そのことをパウロは、ローマの信徒への手紙第3章20節にこう言っています。
 「律法を行うことによっては、誰一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」
 例えを用いていえば、真っ白な画用紙を求める時、完全なものを求めれば求めるほど小さな汚れが気になり始めます。すると、全体の白さやその質の良さも受け入れられず、取り除くことの出来ないごく小さな一つの汚れのために全体を否定してしまうことにもなりかねません。
 また、もしその小さな一つの汚れをごまかして、完全であるふりをしたり、完全であると思い込もうとすれば、私たちの中にはありのままの自分と完全であろうとする自分の間に大きな亀裂を生むことになります。そして、自分の中にあるにもかかわらず見ようとしない罪や認められない不完全さは、私たちの心の中に影のように一層大きくなることでしょう。
 ファリサイ派の人々は、律法の枠に収まらな徴税人や遊女たちを嫌い、彼らを罪人としました。ファリサイ派は、律法を守れない人々をそのように断罪することで自分の正当性を保ち、自分の内なる罪に目を向けずに済ませていました。私たちの社会に蔓延するイジメの構造にも同じような一面があると言えます。「あいつは風紀を乱すから」「あいつはまともな話が出来ないから」と自分に不都合なものを排除して自分を正しいものの側に置いて相手を裁き、自分の弱さや不完全さを隠そうとすることになります。
 主イエスは当時ファリサイ派から罪人呼ばわりされる徴税人や遊女たちにも公然と関わっておられました。ファリサイ派はこのような主イエスに猛烈に腹を立て、主イエスを殺す中心的役割を取るようになっていきます。ファリサイ派は、主イエスが当時の罪人とされる人々に祝福を与えることを認められず、そのイエスを何とか抹殺しようと動き始めていきます。
 パウロも、神の前に正しくあろうとすればするほど、自分の中の不完全な部分が一層クローズアップされ、神の前に喜んでいられない自分を感じざるを得なかったのでしょう。律法を全うしようと思えば思うほど、自分の中にある罪を感じざるを得ないとパウロは言っています。
 このような状況にあった自分を振り返って、パウロは「信仰が現れる前には、私たちは律法の元で監視され、イエス・キリストの信仰が示されるまでは閉じ込められていた。」と言っています。
 パウロは、自分を責め立ててくる律法と責め立てられる自分の罪をしっかりと自覚することが出来る人でした。恐ろしいことは、また私たちが気を付けなければならないのは、自分の内側に生まれる亀裂を認めず、或いは無視して、自分の正しさを誇るようになるとき、私たちは、自分にも相手にも理想を押しつけ、また倫理や道徳の名によって、時には神の名まで持ち出して、人の心の痛みを押さえつけたり否定して、不完全さを認められなくなることです。私たちは、自分の力で律法を全うする事など出来ないのに、そうできていると思い込み、またいい聞かせ、律法の壁を作って、実際には神様と心を通わせることから逃げ出す過ちを犯すことにならないように、よく心に留めておかなくてはなりません。
 私たちは本来誰一人神の御前に完全であることなど出来ないし、神との約束を自分の力で全うすることは出来ません。神との間にこのような乖離がある私たち人間は、主なる神を「父よ」と呼ぶことなどとても出来なかったはずなのです。
 その様な私たちに、神は神の方から神と結ばれるための道を与えて下さいました。その事をパウロは今日の使徒書の中で伝えています。
 ガラテヤ書第4章4−5節。「時が満ちると、神はその御子を女から、しかも律法のもとに生まれた者として、お遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、私たちを神の子となさるためでした。」
 たとえて言うなら、罪と死の川があって、神は向こう側に、私たちはこちら側にいるとしましょう。向こう側まで行けば私たちは誰もが神に受け入れられ神と共に永遠に住まうことが出来る、けれども、私たちは自力では誰一人向こう側まで渡れません。その時、主なる神は向こう側からイエスをこちら側に遣わして下さって、このイエスに自分を託して掴まっていれば、誰でも向こう岸へ渡れるようにして下さいました。そのことを信じることで、私たちはイエスの名によって、たとえ罪人であっても全面的に受け入れられ、向こう岸に招かれ、迎えられ、永遠の愛の中に住まうことが出来るのです。なぜなら、主イエスが主なる神に「父よ、この人は私を信じていますので、受け入れても大丈夫ですよ」と言ってくださるからです。それだけではなく、「さあ、あなたも主なる神に向かって、「アッバ、父よ」と叫びなさい。」と言っておられます。神はその様な、向こう岸とこちらをつなぐ救い主を私たちにお与え下さったのだと、パウロは言っています。だから、私たちにとって、神は罪と死の川の遙か遠く向こう岸におられるのではなく、イエス・キリストによって神の御前で「父よ」「お父さん」「アッバ」と身近に呼ぶことが許されているのです。私たちはイエスと一緒に神に向かって「父よ」「アッバ」と呼ぶことができます。
 この世界で罪の中にいて、誰とも分け合えない魂の孤独を抱えていた自分の所に神の子が来て下さって、自分では負いきれなかった罪の荷物を神の子が負って下さって、私たちは神の御前に進み出ることが出来るようにされました。更に第4章7節でパウロは「私たちはこのイエス・キリストによって神の子であるから、神によってたてられた相続人でもあるのだ」と言っています。
 主なる神は、主イエス・キリストを通してこの恵みを私たちに与えて下さいました。
 私たちはもう自分で自分のことも他者のことも「生きるに値しない」などと言って自分を嘆いたり否定してはなりません。それは神の恵みを損なうことです。また私たちは他の人のことを無価値だと決めつけたり蔑んだりしてはなりません。それも神の恵みを損なうことなのです。
 私たちの存在を認め、私たちを受け入れ愛して下さっているしるしは、最も小さく弱いお姿を取って、この世に現れました。この弱く小さなキリストを自分の中に受け入れたとき、パウロは律法と自分の罪の間で苦しむことから解き放たれて、自分の中に生きているのは自分ではなくキリストであると言うまでに変えられ、絶えず神の恵みを誉め讃えて、主イエス・キリストを宣べ伝えるために生涯を捧げるようになっていったのです。これがパウロが伝えるキリスト降誕の意味づけです。
 私たちも御子の御降誕を祝うこの期節に、主イエス・キリストを自分の心に深く迎え入れて、神の恵みに生かされることへと導かれて参りましょう。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 15:00| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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