2021年01月03日

ヘロデ王の大虐殺とイエス  マタイによる福音書第2章13-15,19-23  降誕後第2主日   2021.01.03

ヘロデ王の大虐殺とイエス マタイによる福音書第2章13-15,19-23  降誕後第2主日   2021.01.03

 年が改まった今、日本の中でクリスマスのことを持ち出すことは、新年の松飾りの中に食べ残しのクリスマスケーキを持ち込むかのように思えて、何か相応しくない気がする人もおられるかもしれませんが、私たちは、教会暦の中では、降誕節の12日間の中にいます。
 私たちは、ことに今日の聖書日課福音書から、クリスマスの美しく華やかな「光」の面を見るばかりでなく、クリスマスの辛く苦しい「影」の面にもしっかりと目を向け、主イエスの働きについての理解を深めるように導かれたいと思います。
 占星術の学者たちが東の方から、新しくユダヤの王としてお生まれになったお方を探し求めてエルサレムにやってきました。それを聞いたヘロデ王は不安になりました。
「自分の他の誰が王に?私の王座を奪い取る者が出現したと言うのか!」
 ヘロデは策略を巡らせます。当時、ヘロデはイスラエルを占領して支配していたローマ皇帝に取り入りながら、ローマによるエルサレム侵入によって崩れたままになっていた神殿の再建にも力を注ぎました。ヘロデはそのようにユダヤ人たちからも一定の支持を受けて、安定した地位を保つことに力を注いでいました。そのため、ヘロデは支配するローマ皇帝からも高い評価を得ていたようです。しかし、いつでも狡猾に立ち回るヘロデは、逆にいつも自分は周りの人々から騙されているのではないか、裏切られているのではないかと不安であり、自分の親族のこともいつも疑う人だったのです。実際にこのヘロデ家は、やがてヘロデ王も息子たちも王位をめぐって肉親を殺し合う不幸な王家となっていきます。
 ヘロデ王は、占星術の学者たちが東方からエルサレムにやって来た時、彼らを利用して、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」を探し出して殺そうと考えました。学者たちは幼子イエスと出会い、伏し拝み、贈り物を献げた後、再びヘロデの所には戻らず、別の道を通って帰っていきました。ヘロデはそのことに気付いた時、激しく怒り、ベツレヘムとその周辺にいる2歳以下の男の子を皆殺しにしてしまうのです。幼子イエスもその中で殺されるはずでしたが、聖家族は危ういところでこの災難を逃れることが出来ました。
 マタイによる福音書には、主の天使が夢でヨセフに直ぐにエジプトに逃れるように告げた、と記されています。聖家族はしばらくエジプトに滞在し、ヘロデが死んだ後、ガリラヤのナザレという小さな町でひっそりと暮らし、イエスはそこで成長なさったのです。
 ヘロデの残虐な性格と振る舞いは、聖書の中に記述されていることに留まらず、他の歴史書に残されている記録からも分かります。
 今日の福音書が語っているように、聖家族がすんでの所でヘロデによる殺害を逃ることができ、他の多くの子どもたちがヘロデによって尊い命を奪われたとしたら、主イエスは成長なさる間に何を思いまたどうお考えになっていたのでしょう。それは、私の想像の域を出ませんが、この出来事はヨセフ、マリア、イエスに大きな影響を与えたに違いありません。
 視点を変えてこの出来事を見れば、名もない小さな子どもたちが沢山自分に代わって死んでいるのです。本当にこのような出来事があって、聖家族が何かの拍子でこの大虐殺を免れることが出来たのだとしたら、ヨセフとマリアはイエスが成長する過程でその出来事について幾度も幾度もイエスに語り伝えたに違いありません。そしてイエスご自身も、大人になっていく間に、自分はどう生きるべきなのかを考えるとき、この出来事を抜きにすることは出来なかったのではないでしょうか。
 自分が救われるために自分と同じ年齢の幼い多くの命が奪われており、しかも自分の身代わりになった多くの幼子がいたからこそ今の自分がこうして生きている、と考えたら、イエスは自分の人生を軽々しい選択やいい加減に生きる思いにはなれなかったに違いないのです。
 主イエスは、多くの幼子らの尊い死を無駄にしない人生の選択を迫られたはずです。そして、成人した主イエスは、荒れ野で厳しい断食と祈りの日をお過ごしになった後、病の人、貧しい人、小さくされた人々と共に生きる事へと導かれていったはずです。
 ヘロデによる殺害を逃れたイエスは、その公の生涯を神の国の訪れを身をもって示すことに尽くした末に、ユダヤ教の指導者たちによって十字架につけられて死に、その死を通して更に神の国の姿を示してくださいました。
 こう考えてみると、このような主イエスの生き方は、私たちにとって決して他人事ではありません。例えば、私たちが今生かされているこの世界は、誰にどのようにつくられて受け継がれてきたのでしょう。この世の平和は私たちが自分の手で一朝一夕につくり出した平和ではありません。私たちは、多くの人が体を張って平和を守り血を流し犠牲を払ったことの上に成り立つ平和を生かされています。そのことを語り継がず、学ぼうともせず、軽薄な一時の快楽を平和であるかのように取り違えてはならないのです。
 私が神学生だった時、それは今から35年以上も前のことになりますが、幾人かで雑談していたときに、次のような発言をした仲間がいたことを今でも印象深く覚えています。
 「今、食物が足りなくて一日に4万から5万人の人が死んでいくけれど、これって、神さま、私たちは毎日あなたに5万人の生け贄を捧げますので、私たちに豊かな満ち足りた食べ物を与えて下さいと、身勝手に祈りながら生活していることに等しいのじゃないのかな。」
 その場にいた私たち一同は、一瞬言葉を失って、動かしていた口や手が止まりました。私たちがもしそのように身勝に祈りながら生活しているに過ぎないのだとしたら、それは自分の王座を守るために沢山の幼子を虐殺したヘロデのあり方と同じなのかもしれません。聖なる幼子たちの死は決して遠い過去の物語世界に限られた話ではないのです。今私たちが生かされているのは、この世界は、数え切れない沢山の命のつながりと弱く小さく貧しい者の犠牲に成り立っていることを認めなければならず、それを強いるとすれば、私たちの置かれている立場はあのヘロデに等しいと言えるのです。
 主イエスが私たちに与えてくださった喜びは、単に物の豊かさや争い事の無い中での好き勝手な生き方を享受することではありません。
 私たちは、この降誕節を、神が主イエスを通して示して下さった愛によって生かされることを感謝して過ごしています。主イエスを通して神の愛を受けた私たちは、自分を大切にすることと同時に他の人をも大切にすることへと歩み出すことを促されています。自分の置かれている時と所から、例え小さくても、そこに神の御心が現れ出るように祈りつつ生かされる思いを新たにする時です。
 私たちは、名も知られぬ幼子たちがヘロデによって命を奪われた物語を通して、自分の置かれている状況を振り返ってみるとき、私たちは信仰者としてどう生かされているのかを振り返ることを促され、神の恵みにどのように応答していくべきなのかを神から問われていることに気付きます。
 馬小屋で生まれ十字架の上に血を流してまで私たちを愛しぬき、罪と死から救い出して下さった主イエスを救い主と信じて告白する私たちです。どうか、私たち一人ひとりがこの信仰に根ざし、この世界に生かされている恵みを深く思い、感謝へと導かれますように。そして、主イエスによって示された愛に基づく平和をつくり出していくために祈り仕えることへと歩んで参りましょう。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 21:53| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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