2021年01月10日

主イエスの洗礼  マルコによる福音書第1章7〜11節 顕現後第1主日 2021.01.10

主イエスの洗礼 マルコによる福音書第1章7〜11節 B年顕現後第1主日2021.01.10

 今日、顕現後第1主日は、主イエスの洗礼を記念する主日です。この主日の聖書日課福音書は、毎年、マタイ、マルコ、ルカの各福音書から主イエスが洗礼をお受けになった箇所が採り上げられています。
 聖餐式聖書日課B年の今年は、マルコによる福音書に記された主イエス洗礼の箇所です。
 主イエスは、洗礼者ヨハネが人々に悔い改めの洗礼を授けているところにやって来て、ヨハネから洗礼をお受けになりました。そして、主イエスさまが水の中から上がって来られるときに、天が裂けて聖霊が降り、天から「これはわたしの愛する子、わたしに心に適う者」という声がしました。福音記者マルコは、簡潔に主イエスが洗礼をお受けになったことを伝えています。
 汚れを浄めたり生まれ変わりを表現したりすることを水の洗いで表すことは、古代から多くの宗教的儀式に採り入れられていました。例えば、ガンジス川での沐浴を連想する方も多いでしょう。
 国語辞典では、「沐浴」とは「湯水で身をきよめること」とあり、「禊ぎ」では「身に罪または汚れのある時や、重大な神事などに従う前に、川や海で身を洗い清めること」とあります。日本でも万葉の時代から宮廷に「禊ぎ祓え」の儀式がありました。
 キリスト教の洗礼(バプテスマ)も、文化人類学の中ではそのような「水による洗いの儀式」の一つに括られるかも知れませんが、主イエスが洗礼をお受けになったことは、主イエスによって旧約時代から新しい時代へと移り変わって上での一つの大切な出来事であったと言えます。
 今日は、今日の聖書日課福音書の記事を旧約聖書のいくつかの箇所との関連を確認し、主イエスが洗礼によって神と私たちとの関係を新しく開いて下さったことを学び、その感謝へと導かれたいと思うのです。
 先ほども少し触れたとおり、水による洗い浄めの儀式が様々な文化や宗教の中にあるのなら、洗礼者ヨハネが何を意図して洗礼を授けていたのかということをおさておく必要があります。そのことは、マルコによる福音書第1章4節に次のように記されています。
「洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために、悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。」
 ヨハネが行う洗礼の意図は、「罪の赦し」と「悔い改め」ということでした。
 主イエスは洗礼者ヨハネが宣べ伝えていたこの「罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼」をお受けになりました。主イエスご自身には罪が無いにもかかわらず、洗礼者ヨハネが「罪の赦しを得させるための悔い改め」を意図した洗礼をお受になったのです。
 主イエスがなぜそうなさったのかを思い巡らせる時、私には旧約聖書イザヤ書53章12節の言葉が思い浮かんできます。
 「彼が自らをなげうち、死んで、罪人にひとりに数えられた。」
 主イエスが宣教の働きを始めるに当たり、まず始めになさったことは、罪人の一人に数えられる側に立ってくださることでした。
 主イエスがこうして洗礼をお受けになったことは、罪のない主イエスが罪ある人の側に身を置いてくださり、ここから神の願う姿をこの世界の人々の目に見える働きが始まるのです。この働きはやはり罪人が処刑されるしるしである十字架の上にまで続きます。主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになったことは、まさに主イエスの生涯のテーマがここに示されているのです。
 洗礼によって始まる主イエスの公生涯は、神の御心から離れることはありませんでした。しかし、当時の律法の専門家たちは、イエスを神を冒涜する者であり罪人の極みと見なしました。
 例えば、旧約聖書申命記には「重い皮膚病(規程の病)」を患っている人々に近づいていったり触れたりすることを禁じる言葉がありますが、主イエスはそのような病の人々を憐れに思い、彼らに触れて祈り、周りの人を驚かせ、ユダヤ教の指導者たちや律法の専門家を憤慨させたのでした。
 このような主イエスは旧約聖書イザヤ書で預言されていた神の僕の姿でありながら罪人の一人に数えられる姿であり、このテーマが主イエスの宣教のお働きの始めに先ず洗礼によって示されたのです。
 また、主イエスが水の洗いを受けて水の中から起き上がると、天が避けて神の霊が降りてきました。この霊を受けて、主イエスは旧約の律法を中心にした旧いお働きではなく、神の霊を受けて人々の命を生き生きと回復する働きへと出ていくのです。
 このような世界がくることを、旧約聖書エゼキエル書第36章26節では次の言葉で表現していました。
 「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊をおく。わたしはお前のたちの体から、石の心を取り除き、肉の心を与える。」
 人間の罪が神から与えられている本来の生き生きとした人間の働きを阻んでしまい、律法の固い枠が神の霊の働く機会を奪っていました。主イエスが神の心としっかりと結び合うことで、悔い改める人を神の霊が生かすことを人々の目に見える姿で示して下さったのです。
 更に、洗礼を受けた主イエスが水から上がられた時に、天が裂けて天から声が聞こえました。「天が裂ける」とか「天が開く」という言葉も、旧約聖書のいくつかの場面や言葉を想い起こさせます。この表現は聖書の中に沢山ありますが、これはこの世と神の居られる天の間に蓋のような隔たりがあると考えた当時、その隔たりが裂けて神とこの地の世界が一つに直接結ばれることを表現しているのです。主イエスの洗礼は、主イエスが罪人の一人となって下さることによって天と地を(神と私たちを)直接に結び合わせて下さる出来事だったのです。
 例えばイザヤ書63章19節で、イザヤは次のように神に向かって呻くように願い求めています。
 「あなたの統治を受けられなくなってから、あなたのみ名で呼ばれない者となってから、わたしたちは久しい時を過ごしています。
 どうか、天を裂いて降ってください。み前に山々が揺れ動くように。」
 神と直接交わりを持って、神の存在を確かに感じたいとイザヤが願った出来事が、今、主イエスが私たちの側にいて下さることによって実現していることを福音記者マルコは伝えています。
 更にもう一つ付け加えると、「あなたはわたしの愛する子」と言う天からの声も、今日の旧約聖書日課のイザヤ書第42章1節で、神の正しい裁きを説く者に「見よ、わたしの僕」と言っている箇所や、詩編の第2編7節で新しい王を神が祝福して「お前はわたしの子、今日、わたしはお前を生んだ。」と言っている箇所を受けて、主イエスが洗礼をお受けになった時にそのことが実現したことを示して、この言葉が用いられていると考えられます。
 主イエスが洗礼をお受けになった物語には、この短い表現の中に、旧約聖書の思想や願いの成就が凝縮していることが分かります。旧約聖書時代から待ち望まれ、来るべきお方として預言者たちが指し示してきた救い主が、このイエスに他ならないことを、主イエスの洗礼は伝えています。しかも、その救い主は私たちの罪のために生け贄となられる救い主であり、私たちの王となられた救い主であり、また私たちの僕ともなってくださった救い主であり、神と一つであり、私たちを神と結び合わせてくださる救い主であることなど、言葉に尽くしきれない救い主であることを、主イエス洗礼の物語は示しているのです。
 救い主イエスが地上でのお働きの始めに洗礼をお受けになったことを焦点にして、神の救いの歴史は新しい時代に移り変わり、主イエスによって神の御心が私たちにも明らかにされ、また神の恵みはユダヤの枠を超えて世界中に宣べ伝えられるようになります。
 冒頭に、洗礼者ヨハネの洗礼は「罪の赦しを得させる悔い改めの」しるしとしての洗礼であったことに触れました。主イエスを救い主と信じる私たちにとっての洗礼は、「罪の赦しと悔い改めのしるし」という枠を越えて、主イエスの十字架を通して示された主なる神の永遠の愛の中に結び合わされ、私たちが神に受け容れられ愛されていることのしるしとなりました。
 私たちがいただく洗礼、授かった洗礼は、神と結ばれ、聖霊の力をいただき、天国での幸いを約束されたしるしです。神の子主イエスを通して私たちも神と結ばれ、私たちも聖霊の力を受け、恵みの中に生かされている感謝を改めて思い起こし、「父と子と聖霊の御名によってすべての人々に洗礼を授ける」ための証人としていきていくことができますように。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 21:42| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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