2021年02月05日

汚れた霊を追い出すイエス  マルコによる福音書1:21−28    B年顕現後第4主日 2021.01.31

汚れた霊を追い出すイエス  マルコによる福音書1:21−28 B年顕現後第4主日 2021.01.31


 今日の聖書日課福音書のマルコによる福音書第1章21〜28節には、主イエスがある安息日に、カファルナウムの会堂で、汚れた霊に取りつかれた男の霊を追い出した物語が採り上げられています。
 マルコによる福音書の中で、今日の聖書日課福音書は、主イエスの宣教のお働きのごく始めにあることを確認しておきましょう。主イエスが4人の漁師を弟子になさった後、神の子として具体的になさったことの最初の出来事がこの「汚れた霊に取りつかれた男を癒やす」ことであったと言っても良いでしょう。今日の箇所から少し進んで第1章34節には「多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。とあり、また第1章39節には「そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。」とあります。
 「汚れた霊」や「悪霊」を追い出すことは、主イエスのお働きの中で、大切な位置を占めていたと想像されます。
今の時代に「汚れた霊」、「悪霊」などという言葉を用いれば、非科学的で現実離れした精神世界のことを取り上げるように思われるかも知れませんが、誤解を恐れずに言えば、私には、今の時代はまさに「汚れた霊」に取りつかれた出来事に溢れていると思えるのです。それは、この「汚れた霊」という言葉を他の言葉に置き換えてみると納得できるのではないでしょうか。
 例えば、この「汚れた霊」という言葉を、「人を本来のあるべき姿から引き離して、滅びへと向かわせる力」とか「真実から人を切り離そうとする力」と言い換えてみてはどうでしょうか。
 今日の福音書の箇所で、主イエスはカファルナウムの会堂で教え始めました。すると「汚れた霊」はすぐに言うのです。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。」
 このように「汚れた霊」は神との交わりを断ち切ろうとして働きます。それは、主イエスとの関わりを拒否する力であるとも言えるでしょう。しかもこの「汚れた霊」は、会堂の中に入り込んでいます。
 このように考えてみると、「汚れた霊」は、神を求めず、見えない神を求めようとしない現状人の中に深く入り込んでいると言えるのであり、私たちとも決して無関係なことではないのです。
 「汚れた霊」に取りつかれた人は、人々が主イエスのみ言葉に心を向けようとする時、人々の心をそこから脇へ向けさせようとして働き、正しいことや本当のことから私たちをいつの間にか引き離し、次第に私たちが自分の方から神との交わりから遠ざかり、拒否するように仕向けて働きかけてきます。
 神の御心が実現することより、先ず自分が得をすることや他人のためには労力を使わないことの方が尊いことであるかのように私たちに働きかけてきます。
 そのように働く「汚れた霊」は、どこまでも私たちを愛して関わり続ける主イエスを避け、主イエスが関わってくることに抵抗します。
 なぜなら、主イエスの愛は、人の醜い内面をも照らすことになります。主イエスの愛は人の罪深さや醜さを知らぬふりをして距離を置いてしまう愛ではなく、人の罪も醜さも知り理解した上で、なお愛し抜かれる愛であり、「汚れた霊」は主イエスの愛に照らし出されることを拒むのです。
 本当は、「汚れた霊」の内側にあるのは、見栄を張り、他人と比べての優越感と劣等感であり、空っぽの自分を守るために他人を攻撃する思いであり、私たちがそのような自分で居続けようとするなら、私たちの内面は「汚れた霊」の格好の住みかになることでしょう。
人はそのような自分に内面と向き合うことは、時に怖いし、辛いし、自分でもその自分を認めたくないし、受け入れ難いことであり、汚れた霊は「ナザレのイエスよ、我々に関わらないでくれ、我々を滅ぼしに来たのか」と言いたくなるのでしょう。「汚れた霊」は取りついた者に、「ナザレのイエス、かまわないでくれ。」と叫ばせています。
 聖書が語る「汚れた霊に取りつかれた人」とは、単に昔の非科学的な時代の出来事ではなく、私たちの心にも住み着こうとする大きな悪の力についてなのです。
例えば、薬物やアルコールという悪霊の虜になってそこから脱け出せない人、それが悪いと知っていても手癖が悪くて犯罪を重ねてしまう人、もっと身近にはイジメや怠りまで、この物語が「汚れた霊に取りつかれた人」という言葉で表現する内実は、まさに今日的課題でもあるのです。
 マルコによる福音書第1章25,26節には、主イエスがこの霊をお叱りになると、霊は「この人にけいれんを起こさせ、大声を上げて出て行った」と記されています。「汚れた霊」は人の中に深く食い入って、人がそこから解放されようとすることに激しく抵抗し、またその人が本当の自分を取り戻して生きていくに大きなエネルギーを必要とすることが分ります。
 更に、自分の中から「汚れた霊」を追い出していただいて、もぬけの殻のようになった人には、そこに主イエスの名によって愛の息吹を注ぎ込んでいただく必要があるのです。
 主イエスは、このように汚れた霊を追い出し、この人を通して神の国の姿が一つ実現していくことを示しました。一人の人間が生まれ変わって新たに生きていこうとすることが、どれだけ大変なことであるかを思わされます。そして、悪霊は私たちの生活の中にも入り込み、私たちの心の内側にも住み着こうとしています。
 しかし、私たちは、今日の聖書日課福音書から、主イエスが「汚れた霊」追い出してくださることを知り、主イエスがどこまでも私たちを愛しぬいてくださり、主イエスが十字架の死を通してまで私たちを支え導いてくださることを知っています。私たちは、この主イエスによって、最終的にはあらゆる「悪の霊」から解放され神の国が約束されていることも知っているのです。
 私たちは、既に主イエスに御名によって多くのとらわれや恐れから解き放たれ、聖霊を注がれています。神の御心に相応しい者として導かれたいと思います。主なる神が、小さな私たちを通してさえ、神の国がここに一つ現れ出るように、私たちを用いてくださることを感謝し、「御国が来ますように」祈り求めつつ歩んで参りたいと思います。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 05:10| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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