2021年02月07日

働くことと祈ること  マルコによる福音書1章29−39  顕現後第5主日  2020.02.07

 働くことと祈ること  マルコによる福音書1章29−39     顕現後第5主日  2020.02.07

 今日の福音書には、主イエスが、病気の人々を癒し、悪霊を追い出し、福音を宣べ伝えて、休む暇もなくお働きになっておられる様子が記されています。主イエスは「近くの他の町や村へ行こう。そこでも私は宣教する。私はそのために出てきたのである(1:39)。」と言っておられます。
 その一方で、主イエスが独りで祈るお姿が描かれています。
 「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた(1:35)。」
 主イエスが、病気の人を癒し、悪霊を追い出してお働きになったその源の力は祈りにあったことを思い巡らせてみようと思います。
 福音記者マルコは、今日の聖書日課福音書の中でも、主イエスが忙しく人々に関わっておられる姿を描いていますが、その働きについてマタイによる福音書の中には、「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、だが、人の子には枕するところもない。(マタ8:19)」と言っておられます。そのように人々に関わり続ける主イエスが、その一方で、人里離れた所で祈りを通して神と深く交わる時を大切にしておられたことを、私たちは忘れてはならないでしょう。
 主イエスの生涯は、祈りと人々に関わることとの往復の中にありましたが、私たちは主イエスの祈りの側面をつい忘れやすくなるのではないでしょうか。
祈りは、神と深く心を通わせることであり、私たちも祈ることによって自分の心の深い思いや言葉に表せない深い呻きの源を神に受け容れていただく必要があります。そのような祈りをとおして、その土台の上に自分自身としてしっかり立って生きることが出来るようになります。もし私たちがこのように祈ることを怠るなら、私たちはどうして他の人々に関わる者として、その人々と真実で落ち着きのある関係をつくり上げることが出来るでしょうか。自分と深く付き合うことの出来ない者が他の人と深く真実な関係を持つことは難しいことになるでしょう。
 祈りを通して神と深く交わることは自分と深く関わることにもつながります。神に祈ることは、私たちの心の内側の世界に対する自分の感性を豊かにし、神とのコミュニケーションも他者とのコミュニケーションも深みのある豊かなものにするでしょう。このことは、度々、十字架の縦の棒を神との関係を、横の棒を人との関係を表していると例えられてきました。
 神に祈ることを通して自分の信仰の養いを受けることとその豊かな感性をもって周りの人々に関わりに生きることは深くつながっています。
 政治家や芸能人のお決まりの上滑りの言葉に限らず、私たちも自分の言葉が時々そのような響きになってしまうことを感じることがあるのではないでしょうか。そのような言葉は、まさに自分の中で神との関係と人々の関係が崩れている例であり、祈りのない言葉と言えるのかも知れません。
 かつて、ある心理学者が「心の痛み」と題する講演で次のようなことを語っておられたことを思い出します。
 私たちが自分の心にあることを口にする時、心の中にはそれとは別の沢山の気持ちがあり、また言葉にするとそれに連れて新たな気持ちも引き起こされてきます。
 例えば、正義正論を口にした時に、「そうは言ってもこれを完璧に行うとなると本当は自分にも難しいことだ」とか「今自分は相手を非難するために建前を述べているので、本心では自分でもそこまではできないことは認めねばならない。」という気持ちが湧いてきたりします。それでもなおそれを言葉にする自分に気付いて、神との関係で痛みを覚えることさえあるのです。このような自分の心の動きに気付いて自分を深く見つめる人であれば、その時に言葉にしていない気持ちや表情も含めてその人の存在全体が相手に伝わるのです。しかし、もし自分の話していることが自分の中にどのような思いを生み、相手がどのような思いになるのかについても無頓着なままに、一方的に自分を主張するのなら、例えその内容が正しくても、その人はその正義正論で相手を攻撃しているだけであったり、そのように言う自分を自慢したいだけであったり、自分の弱さを隠そうとしている様子が浮き上がってきます。人は、話し合う時、論じ合う時、自分と相手の心のうちに起こってくる気持ちにも配慮し、とりわけその痛みに気付く必要がある、というのがその話の内容でした。
 私たちは、独りで神と対話する時にも、心の中で自分を顧みたり他の人を思うのです。
 私たちは、祈りを通して神と向き合い、自分の心の一番奥深くまで神に開き、私たちが自分で自分を理解するよりももっと深く神に理解していただくのです。そうすることで、私たちは自分を更にしっかりと把握しながら生きていくことへと導かれるのです。そのように自分をしっかりと知る人が、他の人との関わりに於いても、相手の人としっかりと出会い、相手の人に正面から心と心を向き合わせることによって、相手の人に対しても心の行き交う支援が出来るようになるのでしょう。
 私たちも、祈りによって神と深くつながることと、周りの人々に仕えて生きることは、信仰者として、車の両輪のように切り離すことの出来ない大切なことであることを覚えておきたいのです。
 このことについて、もう一箇所、マルコによる福音書の他の箇所を取り上げてみたいと思います。
 それは、第9章28−29節です。この箇所では、ひとりの子どもが汚れた霊に取り憑かれてひどく苦しんでいました。主イエスはその子どもの悪霊を追い出しますが、その後の主イエスと弟子の会話を次のように記しています。
 『弟子たちはひそかに、「なぜ、私たちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた。イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ追い出すことはできないのだ。」と言われた。』
 主イエスは、ここでも祈ることの大切さを教えておられ、霊に取り憑かれた人に関わる前提として、「祈りによらなければ追い出すことはできない」と祈りを強調しておられます。主イエスがここで「祈りによらなければ」と言っておられるのは、決して呪文を唱えたりまじないをすることではありません。そうではなく、祈りを通して先ず自分が深く神に関わる者となり、自分が神に生かされることによって初めて悪霊に取り憑かれている人を神に出会わせ、その人を神の力によって生きるように導くことが出来るのです。自分を棚に上げて他人の霊を操作することなど決して出来ないことを、主イエスは教えておられるのでしょう。
 教会は、主イエスの名によって祈ることを通して世界に広がってきました。そして、教会はこの祈りの力によって、人々に仕える働きに与り、悪霊を追い出し、人々を癒し、教えを宣べ伝えてきました。
 主イエスに召し出された私たち一人ひとりも、信仰の成長のために、先ず祈りを通してしっかりと神と向き合うことが求められます。そうすることを通して、私たちは他の人のことをもキリストと結び合わせる働きに与ることが出来るのです。
 私たち一人ひとりが祈りを通して主イエスと一つになることが出来ますように。そして主イエスが神と人に仕えたように私たちも主イエスの働きに与る喜びを与えられたいと思います。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 15:47| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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