2021年02月23日

荒れ野のイエス  マルコによる福音書1章9−13   大斎節第1主日  2021.02.21

荒れ野のイエス  マルコによる福音書1章9−13  大斎節第1主日  2021.02.21

 大斎節に入りました。
 大斎節の起源始まりは、復活日に洗礼を受ける人々の準備としてでした。
 主イエスの十字架と復活の出来事から実に300年を経て、キリスト教は迫害される側からローマ帝国に認められるようになります。それはローマ皇帝コンスタンティヌスによって紀元313年に発せられたミラノの勅令によってであり、また392年にはテオドシウス一世により国教令が出され、キリスト教はローマ帝国が迫害する宗教からローマ帝国を宗教的にも文化的にも支える宗教になっていきます。
 帝国の全国民がキリスト教徒であれば、教会の働きは国民すべてを視野に含むことになり、その牧会も広い範囲を視野に入れることになります。すると、教会の働きは一人ひとりを深くケアすることより、「広く」展開されるようになります。そのような時代になると、大斎節は復活日に洗礼を受ける人々の準備の時としてばかりでなく、多くの人への教育、修養の時とする必要が出てきました。
 そして、その期間も40日に定まってきます。大斎節を荒れ野で40日40夜断食して悪魔の誘惑を斥けた主イエスに導かれ、同じように40日間を克己、修養の時として用いるようになりました。
 私たちも、この大斎節を祈りと自己教育の時として、信仰生活をいっそう主の御心に深く結ばれたものとする大斎節を過ごしていきたいと思います。
 マルコによる福音書では、洗礼をお受けになった主イエスが荒れ野で40日間お過ごしになりサタンの誘惑を受けられたことをごく短く記しています。その時、主イエスは「野獣と一緒におられが、天使たちが仕えていた。」と告げています。この箇所を、マタイ、ルカの両福音書と比較してみると、マルコによる福音書は、主イエスの「荒れ野での40日間」の場面がとても簡潔に記していることが分かります。
 例えば、主イエスが荒れ野でどのようにお過ごしになったかということについて、マルコによる福音書は、野獣と共にいたことと主イエスの上に天使の守りがあったことだけが記されているに過ぎません。マタイ、ルカの両福音書では、主イエスが荒れ野で40日間断食している間に、サタンから「神の子なら石ころをパンに替えたらどうだ」という誘惑をはじめ3つの誘惑を受けたことを記していますが、マルコによる福音書はその内容を全く記していません。
 このようなことを念頭においてマルコによる福音書を読んでいくと、この福音書は、主なる神のお働きがイエスを通して坦々とあるいは着々と進んでいることがを簡潔に記しているように見えてきます。
 特にこの箇所で、福音記者マルコは、他の福音書のようにサタンがイエスをどのように誘惑したのかは全く記さないにも関わらず、場所が荒れ野であること、その期間が40日であること、天使がイエスと共にいたことを記しています。この箇所で福音記者マルコが伝えようとしているのはどのようなことなのか、少し解釈を加えてみたいと思います。
 聖書には「40」という数字がしばしば出てきます。その40日や40年は、多くの場合「かなりの長い期間」を意味して用いられ、その期間が過ぎると新しい次元へと移っていく数字としてこの「40」が用いられているように思われます。
 そして、もう一つ悪魔がイエスを誘惑する舞台は、3つの福音書とも「荒れ野」です。
 聖書の世界では「荒れ野」にも特別な意味があります。「荒れ野」は、昔イスラエルの民が奴隷状態であったエジプトから脱出した後、水も食べ物も乏しい中、シナイ半島をさまよったことを連想させますが、その年月は40年でした。荒れ野には人の頼るべき物がありません。人はそこで本当に頼るべきものは何か、何によって人の命は支えられるのかを徹底的に問い返されます。かつてイスラエルの民は荒れ野を40年に渡って引き回され、そのことを通して「人はパンだけで生きる者ではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」ことを教えられたのでした。
 主イエスは荒れ野にいます。食べ物もなく、会話する相手もなく、ただ自分一人が存在する事をくっきりと浮かび上がる場所が荒れ野です。主イエスは荒れ野で徹底的に神に向き合い、自分に向き合い、誘惑してくるサタンに向き合ったのでしょう。
 そうであれば、自分の本当の姿を顕わにされることを恐れる者や、そのようなことには無頓着で権力欲や物欲に導かれている者にとって、荒れ野は耐え難い場所となります。それは、例えば、エジプトを脱出したイスラエルの民が荒れ野の生活を強いられると直ぐに「エジプトで奴隷のまま食べ物が与えられる方が良かった」と嘆く姿になって現れます。そして自分を本当に生かす神の力から目をそむけて、安易な目に見える物や事に頼り、神から目を背け神との関わりから離れようとるする誘惑に負けることのなるのです。
 主イエスは、宣教の始めに荒れ野に導かれ、そこで40日をお過ごしになり、悪魔の誘惑を受けました。聖書の中の様々な「40」がそうであるように、主イエスが荒れ野で過ごされた40日間も主イエスが神と人びとを愛して生きるために自分を振り返り自分と神の関係を練り上げる時であったに違いありません。
 興味深いことに、マルコによる福音書第1章13節によると、主イエスが40日間荒れ野でお過ごしになったとき、「その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。」というのです。私たちは、主イエスが「野獣と一緒におられた」という事について、どのようなイメージを持つでしょうか。
 そのヒントになる言葉を一つ採り上げてみましょう。それは、旧約聖書イザヤ書第11章6節以下の言葉で、平和の王が支配している姿を次のように謳っています。
 「牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる。」
 この御言葉は、私たち日本人にとってはあまり平和な世界をイメージできないかもしれませんが、本来共に生きることが出来そうにもないもの同士が一緒に過ごしている姿を描いています。マルコは、主イエスが荒れ野でただ独り悪魔の誘惑を受けて過ごしておられる時、既に主イエスの周りには平和の王が出現するときの姿が現れ出ていることをこのような表現で伝えているのです。
 福音記者マルコは、主イエスのおられるところには、古い罪の世界、つまり分裂や争いをもたらすものは砕け、すべてのものが共に生きる新しい世界が始まっていることを伝えています。そして、この御言葉を聞く私たちも、主のみ名によって生きることで、古い罪の世界から、新しい平和の世界へと開かれていくように招かれています。
 私たちの生きる世界は、多くの誘惑がついて回ります。その誘惑の力を聖書の世界では「サタン」と呼んでいます。サタンは、神ではないものが神のよう見せて私たちを惑わし、私たちをいつの間に神の御心からずらし、引き離し、背かせることがサタンの目的なのでしょう。倹約より資源の浪費、環境の保全より開発による破壊、兵器のない平和より武力による征服、戦争や分裂へと引きずり込もうとサタンは尤もらしい策略を練っています。私たちはこうした悪魔の試みと戦っていかなくてはなりません。
 荒れ野で過ごす主イエスは野獣と共にいますが、そこには平和があります。そこには天使が仕えています。私たちは現代の荒れ野で生きていく者ですが、荒れ野にあっても平和であり天使が支える主イエスが私たちと共にいてくだるのです。私たちは主イエスの平和にあずかることができるよう、この大斎節の40日を神のみ言葉に生かされ導かれて参りましょう。主なる神に仕え、その先にある主イエス・キリストの復活の力に与ることができますように。祈りを通してしっかりと神と心を通わせる大斎節を過ごして参りましょう。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 05:26| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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