カテゴリー:説教

2019年01月21日

婚宴の祝福  ヨハネよる福音書第2章1−12   顕現後第2主日   2019.01.20

婚宴の祝福
ヨハネよる福音書第2章1−12   顕現後第2主日   2019.01.20

 今日の聖書日課福音書のヨハネによる福音書第2章1節からの箇所には、婚礼の席でブドウ酒が無くなってしまったときに、主イエスが水をブドウ酒に変えてその婚礼を祝された物語が記されています。
 その当時、婚礼の宴は一週間から10日ほど続いたと言われています。その間に家族や親族をはじめ、多くの人が入れ替わり立ち替わり新郎新婦を祝うためにやってきます。ガリラヤ地方のカナで開かれたこの婚宴の中に主イエスと母マリアも居ました。宴もたけなわというとき、マリアはこの喜ばしい宴を支えるはずのブドウ酒か無くなってしまったことを知りました。マリアは主イエスに言います。
 「ブドウ酒がなくなりました。」
 主イエスはその家にある6つの水瓶に水を一杯にするように告げました。家の召使いたちは、主イエスに言われたとおり、6つの瓶に水を満たしました。すると主イエスは召し使いに「さあ、それを汲んで、宴会の世話役のところに持っていきなさい」と言ったのです。召し使いは言われたとおりその水を世話役のところに持っていくと、水は特別上等のブドウ酒に変わっていました。世話役は言いました。「こんなに良いブドウ酒を今までとっておいたのですか。普通は初めに上等のブドウ酒を出して、酔いが回った頃には劣ったものを出すものでしょう。」
 こうして主イエスは、神の子としての最初のしるし(奇跡)をなさり、神の御心を宣べ伝える働きをお始めになっていったのです。
 いつの時代でも、またどこの国でも、婚宴は最も喜びに溢れた華やかな時の一つです。聖書でも幾つかの箇所で、神と人が結び合わされる喜びと感謝を結婚の花婿と花嫁とに例えています。しかし、その宴がどれほど盛大であり華やかであったとしても、それが人の手の業である限り、やがて終わりの時を迎えます。私たちも一生晴れ着を着て宴の上席に座り続けることなど出来ませんし、仮にそうできたとしても、やがてはその人生も終わりの時を迎えることになります。今日の福音書では、婚宴の真っ直中でブドウ酒が尽きてしまいますが、それと同じように、華やかな人生の真っ直中にでも、人生という舞台の「終わりの時」はやって来るのかもしれません。華やかな喜びの宴もいつかは終わります。人生の華やかな時代もいつかは終わります。私たちの体でさえ、例え今はどんなに健康であっても、いつかは尽きる時が来ます。
 それでは、華やかな宴も、またそのような宴に例えられる人生や命そのものも、一切が「無」に帰してそれでお終いなのでしょうか。そして、今日の福音書も、私たちの一生やそこでの出来事が取るに足りないものであり、意味もなくはかない事に過ぎないと教えているのでしょうか。
 そうではありません。
 今日の福音書の中で、主イエスはマリアから「ブドウ酒が無くなりました」との知らせを受けた時、その家にあった6つの瓶に水を満たすように指示しておられますが、この「6つの石の水がめ」に注目してみましょう。その水がめは「ユダヤ人が清めに用いる」ものであると記されています。ユダヤ人は、食事の前には僅かな量の水で、(鶏卵一つほどの量であったと伝えている本もありますが)手を清めていました。それは、衛生の面からのことではなく、ユダヤ教の習慣に従って行われる清めの儀式であって、どこの家でもそのために水がめが置いてあり、そこに水が蓄えられていました。そのかめの数は「6つ」です。数字の7はしばしば象徴的な完全数として用いられます。例えば、主なる神が天地を創造なさった時、7日目に神はお創りになったこの世界を祝福して安息なさっています。そのような数字である7を思いつつ、6つの水がめのことを考えてみると、婚宴の真最中にブドウ酒が尽きてしまっても、何の役にも立たず中途半端に水を蓄えているに過ぎないこの水がめの姿を思い描くことが出来ます。おそらく婚宴の始めには、多くの人がユダヤの清めの習慣に従って手をすすぐためにこの石がめの水を用いたことでしょう。でも、その後、この水はこの喜びの宴の中では用をなさず、顧みられなくなっています。婚宴のブドウ酒が無くなってしまったという危機の場面では、誰もこのような石のかめの水のことなど気に留めていなかったことでしょう。
 でも、この水瓶も主イエスのお働きのために新しく用いられるのです。主イエスは「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われました。召使いたちがその言葉の通りにすると、かめの水は最高級のブドウ酒に変わりました。6つの水がめは、主イエスのお働きに用いられることによってユダヤの習慣をはるかに越えて役立ち、この婚宴を支える大切なブドウ酒を満たす器となったのです。しかも、この水がめの中のブドウ酒は、それまで振る舞われていたブドウ酒よりもずっと質の良いものであり、この婚宴の喜びはなお一層大きくなったことでしょう。
 このようなことから考えて、この物語は、6つの水がめに象徴されるユダヤの習慣が主イエスによって本当の婚宴の喜びと祝福へと変えられたことを伝えていると言えます。しかも、婚宴は旧約聖書の時代から、神と人との喜ばしい関係を表現する例えとしても語られてきました。神と私たちの関係は旧約聖書の律法を形式的に守ることでは十分なものにはなりませんでした。それが主イエスよって、全く質の異なる喜びへと変えられるのです。主イエスによって神と私たちの関係はもっと豊かなものとなり、料理長でさえその恵みがどこから来たのか気付かない中でこの婚宴が祝されています。主イエスのお働きは、目立たないにもかかわらず、宴の根底を、つまり私たちの人生を、確かに支えていただく恵みなのです。
 このようにして主イエスは神の子としての初めてのしるしを表されました。ガリラヤのカナで主イエスが示された最初のしるしは水をブドウ酒に変えるものでした。その主イエスはこの世の御生涯の終わりの時にもブドウ酒を用いて、弟子たちに記念の式を残され、ブドウ酒をご自身の血として弟子たちにお与えになりました。それまでは主なる神さまと人との関係は、律法によって結ばる関係でした。その関係が主イエスの十字架の血によって愛と信頼の関係へと変えられるのです。今日の聖書日課福音書は、私たちと神との関係が、主イエスによって律法に基づく関係から神の愛に基づく祝福へと変わっていくことを教えているのです。
 今日の福音書から、私たちの人生そのものが、その宴であると考えてみましょう。私たちは、この世の舞台の上で生かされています。その宴の真直中にあってさえ、ブドウ酒は尽きるかも知れません。そして私たちは自分の力の限界を知ります。でも、私たちはその時になって、何が、そして誰が、本当に自分を支え祝してくれるのかを考えて、主イエスに生かされていることを改めて知り、このお方を救い主として生きる事へと導かれるのです。主イエスは私たちの人生という宴をご自身の血を流すほどの愛によって支えて下さっています。それは、主イエスご自身の欲望を満たすためではなく、私たちの宴に神の御心が顕されるようにとその宴の台所から、私たちの背後から目立たずに私たちの人生という宴をお支え下さるのです。
 今日の聖餐式を通して私たちは主イエスが用意してくださった体と血を受け、私たちの人生の宴を祝福して支えてくださっている主イエスさまに感謝して、この祝福にお応えする信仰の歩みを進めて参りたいと思います。
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2019年01月19日

主イエスの洗礼  ルカによる福音書第3章15−16、21−22 顕現後第1主日

主イエスの洗礼
ルカによる福音書第3章15−16、21−22 顕現後第1主日   2018.01.13
 
 教会暦では、今日、顕現後第1主日は「主イエス洗礼の日」です。この主日の福音書には、毎年、マタイ、マルコ、ルカの各福音書から、主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになった物語が採り上げられています。
 主イエスが人々に神の国の教えを説き、公けにその働きをお始めになったのは30才の頃であったと考えられています。その頃、洗礼者ヨハネは荒れ野で質素な生活を送りながら人々に悔い改めを説き、ヨルダン川で罪の赦しを得させる洗礼を授けていました。
 新約聖書の原語のギリシャ語で、洗礼はバプテスマと言い、水に浸す、水につけて洗う、浄める、という意味から発生した言葉です。現在は洗礼(バプテスマ)と言うと、殆どの場合、キリスト教の入信式としての洗礼を意味していますが、古来日本でもこれに似た清めの式は、例えば「禊ぎ」などとして見られ、万葉集の中などにも詠まれているようです。川や湖などに身を沈めて、汚れを洗い流して生まれ変わることを象徴的に表す儀式は、キリスト教に限らず、色々な国の文化や習慣、宗教の中にも見ることができます。
 ルカによる福音書第3章3節を見てみると、洗礼者ヨハネが何を意図して人々に洗礼を施していたのかが分かります。そこには「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えていた(3:3)」と記されています。
 悔い改めとは、生きる方向を変えることです。例えば、これまで漠然と漫然と生きていたりいつの間にか自分の利益のことしか考えてこなかった自分に気付いて、そのような生き方を方向転回して自分の生きる方向を神に向けて、神の御心に基づいて生きてくことへと自分を方向付け、神に導かれて生きることへと方向を転換することが悔い改めるということです。
 ですから、洗礼を受けようという思いがある人なら、キリスト教のことをたくさん学んで他の人からの質問にも応えられるような人間になってから洗礼を受けるべきということではなく、神の招きに対して応え、自分の一生をこれから神に導かれて神の助けを受けながら歩んでいこうとする謙虚な決断さえあれば、誰でも洗礼を受けるのに相応しいのです。それでもなお神の招きに応えることを躊躇うのであれば、その人は何がそうさせるのかを神の前に深く自分を振り返り、自分を吟味してみることが必要となるでしょう。
 さて、ヨハネがヨルダン川で洗礼を授けていると、群衆が集まる中に主イエスが来られて洗礼をお受けになりました。マタイによる福音書の並行記事によれば、そこでは洗礼者ヨハネが主イエスに向かって「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。(マタイ3:14)」と言っています。
 私たちも主イエスの洗礼を考える時、ヨハネと同じ疑問にぶつかるのではないでしょうか。主イエスは罪など無いのに、なぜ罪の赦しのための洗礼をわざわざお受けになったのでしょう。福音記者ルカもこの福音書全体を通して、主イエスが本当に正しい人であり神の御心から離れることなど無かったことを証しています。その公生涯の初めに、主イエスは洗礼者ヨハネから「悔い改めの洗礼」を受けておられるのです。
 何故主イエスが洗礼者ヨハネから悔い改めの洗礼を受けたかについて考えるために、主イエスが十字架にお架かりになった時のことを思い起こしてみましょう。
 主イエスは神の国を伝えて生涯を送り,最期には十字架につけられて殺されてしまいますが、後から振り返ってみれば、主イエスには十字架につけられるべき理由は何一つありませんでした。ユダヤ教の指導者たちがイエスを捕まえてポンテオ・ピラトのところに連れて行った時にも、ピラトはイエスを有罪とすべき理由を見つけることは出来ませんでした。また、祭司長たちもピラトを説得することが出来ませんでした。
 ルカ23:22には、次のように記しています。
 「ピラトは三度目に言った。いったい、どんな悪事を働いたというのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。」
 しかし、ユダヤ教の指導者たちはピラトに圧力をかけて、大声で要求し続けて、ピラトはとうとう押し切られて、イエスを十字架につけることを許してしまったのでした。こうして主イエスは、何の罪もなく十字架刑にされて、人々の罪を背負って死んでいくのです。やがて、多くの人は、主イエスのこのような十字架の死が罪ある人の罪を罪無き身に引き受ける救いのしるしになったことを理解し始めるのです。
 罪人が自分の罪を認めず神の御心と永遠に結ばれることがないままに滅びようとする中で、主イエスはご自身の罪など無いにもかかわらず罪人の姿をとり罪人の死の先まで共にいて下さって、罪人を神の国へと連れ戻すしるしとなって下さったのでした。
 罪の赦しの洗礼をお受けになる必要のないお方は、本当なら、十字架について死ぬ必要もないお方でした。
 私たちは、主イエスが洗礼をお受けになった事の意味も、主イエスの十字架の出来事を理解する事を通して初めて理解することが出来ます。主イエスが30才近くで人々に神の国の福音を宣べ伝え始めた公生涯の一番初めに、主イエスは洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになりましたが、それは罪のないお方がこのようにして罪人の側に身を置いて下さるしなのです。主イエスご自身がこの世界の人々の罪を背負って十字架にお架かりになったように、主イエスは私たちの罪の赦しのために公に宣教の働きを始められる時に罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼を受けて下さったのです。そして、このようにして主イエスは罪ある人々の罪をご自身で担い、弱く貧しい人々とどこまでも共にいて下さる宣教の働きを始めてくださったのです。
 今日の旧約聖書日課で読んだとおり、「主の僕」である救い主は、弱く傷つきやすく倒れやすい葦のような私たちをも傷つかず折れないように守り、油が燃え尽きて暗くなっていく灯火のような私たちをも消えないように守り、私たちを神との交わりの中に招き入れて下さいました。その働きの目に見えるしるしとして主イエスは罪がないのに罪人の一人となって罪人の世界に降り、公生涯のはじめに洗礼を受け、罪人と共に生き、罪人のように十字架に身を曝してくださったのでした。
 ここに集う私たちも、水の洗いを受けた時に、主イエスがいつも私たちと共にいてくださる約束を与えられた者であり、またその約束へと招かれている者です。
 主イエスが洗礼を受けて水の中から上がられると聖霊が鳩のようにくだり天の声が聞こえますした。
 「これは、わたしの愛する子、わたしの心に適う者」
 罪人の側に立ち洗礼を受ける主イエスが、神の御心に適う子の姿なのです。私たちもこのイエスの名によって祈ります。また、このイエスの名によって洗礼を受けます。私たちの受ける洗礼は罪の赦しに留まらず、主イエスと共に永遠に生きることの約束です。私たちは、父と子と聖霊の名によって洗礼を授けられ堅信礼の按手を通して聖霊を授けられます。私たちも洗礼と按手とによって神の子とされ「わたしの心に適う者」として祝されるのです。私たちがその御力によって生かされ、主の僕として歩き始める時、主なる神は私たちを「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」として祝福して下さいます。
 宣教の初めに私たち罪ある者の側に回ってくださった主イエスが、いつも私たちと共にいてくださり、私たちも神に愛され神の御心に適うよう者として生きることができるように歩んでくださいます。主イエスに導かれて私たちも主の僕として神の国の働きに尽くし「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天の祝福を受けたいと思います。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 10:29| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年01月06日

私たちの王 マタイによる福音書第2章1−12節  顕現日        2019.01.06

私たちの王
マタイによる福音書第2章1−12節  顕現日        2019.01.06

クリスマスの12日間が過ぎて、教会のカレンダーでは顕現日となりました。 顕現日の起源は、東方教会で主イエスがこの世に神の子としてのお姿を現したことを記念して祝っていたことに始まという説もあります。ロシアやポーランドなどの正教会の伝統では、クリスマスの12日間は家族で静かに主イエスの誕生を心に留めて過ごし、この顕現日に主イエスがこの世界にお姿を現してくださったことを共に喜び祝う習慣があるようです。やがてこの日は、救い主を探して旅をしてきた東の国の学者たちが聖家族を探し当てた日とされたり、神の御子イエスがユダヤの中だけではなく広く異国の人々にも認められたことを祝う日とされるようにもなりました。
 顕現日の聖所日課福音書には、マタイによる福音書第2章1節からの箇所が取り上げられています。この箇所には、いわゆるクリスマス物語の中から、東方の占星術の学者たちが幼子イエスを探し当てて喜びに満たされた物語が記されています。
 学者たちは、エルサレムに来た時こう言いました。
 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。」
 この学者たちに限らず、私たちがいきている限り自分の王を尋ねる旅は誰にでも必要なことであり、私たちもこの学者たちのように本当の王を自分の生きるべき拠り所とし、本当の自分を保ち、喜びに満たされて生きる者でありたいと思うのです。
 自分の王を尋ねることとは、言葉を換えれば、自分の最終的な、究極の判断基準は何なのか、自分が生きる根拠を何に求めるのかと言うことに深く関わっています。私たち人間は弱い者であり、自分では間違いないと思っていた価値観や判断基準も時にはぐらついたり、迷ったりも致します。また、自分を中心に立てればその思いに誘惑されて、エデンの園を追放されたアダムとエバのように、自分の犯した罪の責任を他人に押し付け合うようなこともしてしまいます。でも、人が人として生きる上で、誰もが人間として神の前に正しいこと、意味のあること、人間としての尊厳が失われないことなどを絶えず尋ね求めているはずであり、人の罪深さも、裏返せば、自分は生きたい、誰かに認められたいと思うことの表現であるとも言えます。その生きようとする思いをどう表現するかによって、人は罪を犯すことにもなれば、神に受け入れられ社会的にも認められるものにもなりもします。そうであれば、私たちが誰を、また何を自分の生きる判断の基準にしているか、誰を王としているのかが大切なことになってくるのです。
 今日の福音書の中で、占星術の学者たちは「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか」と言って、王を探し求める旅をしています。彼らは、この世で多くの財産を築き上げさせてくれる王や社会的に高い地位に昇らせてくれる王を自分の生きる拠り所にするのではなく、彼らが自分の人生を本当に意味あり価値のあるものとして全うさせてくださる最終的な拠り所を探し求めて人生の旅をしていると言えるでしょう。
 その当時の占星術の学者とは、現代のテレビ番組の「今日の運勢」などというのとはまったく違い、宇宙天体を始めとする森羅万象の動きを読みとりその中で人がどう生きるべきかを探求する人であり、彼えは哲学者であったと言って良いでしょう。
 その学者たちが、暗闇の中に特別に光を放つ星に導かれて王を探し求め、その当時のユダヤの政治や宗教の中心であるエルサレムにやって来ました。そして、それは旧約聖書ミカ書第5章1節に記されている預言が実現したことだと知ります。彼らはベツレヘムに向かい、その町の片隅で母マリアと共におられる幼子を見出し、喜びに溢れ、この幼子に自分たちの宝を捧げたのでした。
 学者たちが開けた「宝の箱」には彼らの仕事のための道具つまり彼らが生活していくための道具が入っていました。占星術の学者たちは自分の生活を幼子イエスに明け渡したのです。彼らは天体の動きから人々の運命を読み解くことを放棄して、主イエスによって示された神の愛の中に生きることへと回心した、と説明することも出来ます。
 また、学者たちが捧げた三種の贈り物は象徴的な意味が込められていることも指摘されています。黄金は金属の王であり、その性質は変化することなく、まさに王であるイエスに捧げられるに相応しいと考えられました。また乳香は高価な匂い油であり、イスラエルでは昔からこの油を頭に注いで人を聖別する伝統がありました。この油注ぎのことをギリシャ語ではクリスマと言い、油を注がれて聖別された人をキリスト(ヘブライ語でメシア)と言ったのです。やがてイスラエルの人々の中では、こうして油を注がれて(クリスマを受けて)聖別されてイスラエルの救いとなるお方をキリストと呼ぶようになるのです。学者たちはこの幼子に救い主として聖別するための油を捧げて自分たちの信仰を告白したのです。
 もう一つの献げ物は没薬です。没薬は主イエスが十字架につけられたあと、その十字架からアリマタヤのヨセフによって下ろされ、墓に治められる時にこのアリマタヤのヨセフとニコデモによってその御体に没薬とアロエを混ぜたものが塗られたのです。イエスがどのような意味での救い主であるのかを没薬は示しました。学者たちがお捧げしたこれら三種類の捧げ物によって、幼子イエスがどのような意味での王であり救い主であるのかが示されています。
 先ほども少し触れましたが、占星術の学者たちは、これまで宇宙や天体の現象を中心に観察してそこに働く諸霊の力に人の運命を見出してきました。しかし、彼らは幼子主イエスの前にそれらを捧げて明け渡し、イエスを自分の王として生きていくことへと変えられています。
 この様に見てきますと、マタイによる福音書が、異国の占星術の学者たちまでが幼子イエスを自分の王とし救い主としてあがめる物語を示して、読者である私たちに何を伝えているのかは自ずと明らかになって参ります。
 私たちは今日の福音書を通して、主イエスさまを自分の本当の王として探し当て、その王に自分を明け渡して生かされていくことへと促されています。私たちは、今日の福音書から、この世の暴君ヘロデに従うのではなく、救い主と出会って自分の道を帰っていった占星術の学者たちに信仰の歩みを見ることが出来ます。
 聖書の中に、主イエスが弟子たちに次のように問うておられる箇所があります。
「それでは、あなたがたは私を何者だというのか(マタイ16:15)。」
 私たちは、この主イエスの問いにどう答えるのでしょうか。ペトロは「あなたこそ生ける神の子キリストです。」つまり私の王ですと自分の信仰を告白しました。
 多くの人は「王」とか「救い主」という言葉から自分に利益や幸運をもたらしてくれるようなお方を思い描き、誰にすり寄っていけば安全であり有利であると考えます。
 今日の福音書に出てくる異国の学者たち(いわゆる3人の博士)が求めた王は、そのような王ではありませんでした。もし、仮にそのようなお方を求めるのであれば、ヘロデを自分の王とする方が側近として威張ることも出来るでしょうし、この世の利益を得することも多かったことでしょう。でも、学者たちはそのような存在に自分を売り渡して武力や財力の支配下に生きることより、愛に徹して生きていくために馬小屋に生まれてきた小さな救い主を自分の王として選び取ったのです。
 私たちは、主イエスによって見つけ出され選び出され、このお方を王として生きることへと招かれました。この顕現日に、私たちが主イエスのお姿が世界に示されたことを記念することは、私たちが神からこのお方を自分の王とするのかと問われることを意味しています。私たちも3人の学者たちと共に主イエスさまを自分の王として迎え入れ、主イエスに導かれ生かされる喜びに招き入れていただきましょう。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 22:23| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする