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2017年11月12日

正義を洪水のように アモス書第5章18〜24節  2017.11.11

正義を洪水のように
アモス書5:18〜24    A年特定27         2017.11.11

 今日は、聖書日課より、旧約聖書アモス書第5章24節の言葉に注目してみましょう。
 「正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ。」
 私は、アモス書がとても身近な書に思えます。それは、アモス書に記された内容が、ある側面から観れば、戦後成長発展してきた日本の姿と重なってきて、アモスの預言が、古いユダヤの歴史上の言葉に留まらず、今の日本に対する警告でもあると思えるからです。
 はじめに、アモスの時代背景に触れておきましょう。
 アモスは、紀元前750年頃の人であり、イスラエルの南部にあるテコアで羊を飼う人でした。イスラエルの国は紀元前1000年にダビデによって王国の姿が完成しますが、ダビデの子ソロモンの時代が過ぎると、南北に分裂してしまいます。それは、アモスの時代より約150年ほど前の紀元前922年のことでした。
 二つの国は、通常、北イスラエル国と南ユダ国と呼ばれています。北イスラエル国も南ユダ国も、周りの列強国の圧力を受け、エジプト、アッシリアなど周辺の諸大国の盛衰に一喜一憂していました。例えば、どの国と同盟を結んで他の国からの侵略を防ぐかということなど、当時の権力者にとっての大きな課題だったのです。
 分裂してから一世紀半ほどだった北イスラエル王国が、アモス書の舞台になります。
 紀元前786年にヤロブアム二世が北イスラエル国の王位についた当時、イスラエルを脅かしていた軍事大国アッシリアが急に弱体化してきます。北イスラエルの国は、そのおかげで、国力が安定します。ヤロブアム二世はこの時とばかりに貿易を拡大し、国内の産業も発展を遂げ、一時の繁栄を楽しむ人々からはこの時代をダビデやソロモンの時代の再来とも評価されたのでした。
 しかし、このように一見素晴らしい発展を遂げた時代も、違う視点から眺めてみると、国の繁栄は危うく、貧富の差は広がっています。その時代は、アモスの目で見ると、権力は一部上層階級に集中し、不正な政治やその中での汚職が蔓延する時代にもなっていたのです。
 確かに国は一見繁栄し、物が豊かになったようです。しかし、考え直してみると、いったい誰が富を得て豊かになっているのでしょう。いわゆる上層支配者階級の人々ばかりが金持ちになり、次第にあちこちで金銭に物を言わせる横暴がまかり通るようになります。特定の支配者階級による物流の独占と金余りは、土地や物価の高騰を招きます。その結果、借金をしていた人はその利率も高くなって、返済の負担は一層大きくなるのです。一般民衆の生活は、かえって苦しくなり、いっそう貧しい生活を強いられるようになってしまうのです。豊かさを享受するのは、権力や財力の中心にいる人ばかりであって、そのおこぼれに与ることもできず、そこからはじき出された人々は国の繁栄の中でかえって貧しくされ、苦しい生活の中で疲れ果て、また、地方の山村は荒れ廃れていくことになります。
 貧しく弱くされた人々を顧みない権力者たちは、贅沢と貪欲によって腐りきり、賄賂や横領がまかり通り、富裕層の間で物事が取り決められ、政治も、裁判もますます富裕層が自分たちの利益のために利用する手段になっていくのです。そして、こうした悪徳がはびこり巣くうところでは、次第に下層民の呻きや嘆きが聞こえるようになってきます。
 アモスには、国家の繁栄が大きな影を作りだしている姿が見えました。北イスラエル国の聖地ベテルは表面上は大変な賑わいを見せており、そこには多くの参拝者が集まり、神殿の祭司は裕福であり、神殿の財産も膨らんではいるものの、それは民の敬虔な信仰のしるしではないのです。いわゆる有産階級の人々は、肥えた生け贄を献げるのですが、その内実は本当に神を礼拝するのではなく、心の中では富を礼拝し、弱く貧しい人々を救済するのではなく、かえって圧迫していたのです。
 アモス書の第5章21節から23節あたりを読んでみると、当時神殿の祭が華やかに行われていた様子を垣間見ることができます。豊かな穀物や肥えた動物が奉献され、竪琴を掻き鳴らして歌も歌われていたようです。このような、ヤロブアム二世の繁栄する時代のさなか、上流階級が国の繁栄に酔いしれ浮かれている時代に、神は一人の羊飼いアモスを神の御言葉を取り次ぐ人として召し出したのでした。そしてアモスは、そのような上流支配者たちを告発する神の言葉を取り次いだのでした。
 今日の聖書日課のすぐ前のアモス書第5章12節(新共同訳P.1435)で、アモスは支配者たちに次のように言っています。
 「お前たちの咎がどれほど多いか、その罪がどれほど重いか、わたしは知っている。お前たちは正しい者に敵対し、賄賂を取り、町の門で貧しい者の訴えを退けている。」
 今お話ししてきたことを背景にして考えてみると、いかに多くの人が悪の誘惑になびいて不正な富や権力にかしずいていたかが想像できます。また、「町の門」とは当時の市民が裁判をする場でした。裁判でも権力や財力によって不正や不公平が行われていたことがうかがえます。
 支配階級が貧しい人々の土地や財を奪い取ることによって貧しい人々を一層貧しくし、支配者たちは賄賂、横領、略奪によって一層自分の富を増やし、あたかもその富が神の恵みであるかのようにして神殿で捧げ物が献げられるのです。アモスは、そのようにして行われる礼拝にいったいどんな内実があるのかと、権力者に向かって叫びます。
 そして冒頭に読んだように、24節で「正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ。」と訴えるのです。
 時代の背景を考えず、この言葉だけを抜き出してみるとごく平凡で当たり前の言葉ですが、私たちは、アモスがこの言葉で当時の上流支配者階級を厳しく告発していることを思い起こしたいのです。そして、アモスはこのように権力者たちに厳しく語ることによって神殿の祭司たちに弾圧され、神殿から追放されることになっていきます。そして、それから20年足らずのうちに北イスラエル国はアッシリアに侵略されて紀元前722年にあっけなく滅びてしまいます。
 私たちは、このアモスの「正義を洪水のように、恵みを大河のように、尽きることなく流れさせよ。」という叫び声を、今、私たちに向けられた言葉として聞きたいと思うのです。
 今日の聖書日課から、福音書にも触れておきたいと思います。
 今日の福音書は、婚礼の花婿を迎えて祝宴を行う10人の乙女のうち5人は自分のランプの油を十分に準備して待っていて祝宴に与り、あとの5人は油の準備が無く慌てて買いに行っている間に花婿が到着し祝宴に与れなかった、と言う内容です。この例えを通して、主イエスはいつ終わりの日が来るのか誰にも分からないのだから、いつでも主を迎え入れられるように相応しく備えをするように教えておられます。
 今日のアモスの言葉を使えば、主の日が「闇」ではなく「光」となり「輝き」となるように、私たちは主にお会いする時を思い、私たちの生活の中で正義を行い恵みの業に励む者でありたいのです。私たちは、正義の洪水や恵みの大河をはじめから独りで起こせる者ではありません。でも、大河の流れを遡ればもとは小さな湧き水であったり,小さな雨粒の集まりなのです。そして、私たちは十字架の上に独り捨てられながら御心を貫いた主イエスに、正義と恵みの源を見ることが出来ます。それがやがて神の祝福のうちに大河となり洪水のようになって世界に広がっていったことを私たちは知っています。
 私たちはアモスの言葉を受け、主の日を迎える備えを致しましょう。私たちは自分の利益や名誉のために神を求めるのではなく、主イエスによって神の正義と恵みをこの世界に現すことが出来ます。その信仰に立ち帰ることが出来るよう、今日の聖書日課からアモスの預言の言葉を深く心に留めたいと思います
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2017年11月07日

「教える者の権威」  マタイによる福音書23:1〜12  A年特定26

「教える者の権威」 
マタイによる福音書23:1〜12  A年特定26  2017.11.05  

 今日の聖書日課福音書の箇所であるマタイによる福音書第23章は、1節に記されているとおり、主イエスが群衆や弟子たちにお話ししておられる箇所です。この前に箇所まで(マタイによる福音書第22章の終わりまで)、主イエスはユダヤ教の指導者たちをはじめ、沢山の人と激しい論争をしておられた箇所でした。その日が「論争の火曜日」と名付けられていることは,たびたび触れてきました。指導者たちは、主イエスとの論争を通して自分たちの保身的で時に自分を棚に上げた卑劣な態度でイエスを貶めようとする姿を露わにされ、イエスの前から退散していきました。
 その直後に、主イエスは周りの群衆や弟子たちにお話になっています。
 私たちの中には、主イエスは穏やかでこやかな優しいお方というイメージがあって、今日の福音書にあるような主イエスの激しい言葉を受け入れ難く思ってしまうこともあるのではないでしょうか。でも、その内容にしっかりと目を向ければ、それは、当時の律法の専門家やファリサイ派を批判するだけでなく、教会に集う私たちにも厳しい問いかけと促しを与えておられます。
 今日の福音書の、主イエスの言葉を要約すると次のようになると思います。
 「律法の専門家やファリサイ派が口にしていることは正しいが、彼らはそれを実行してはいない。かえって、彼らの行いは天の国への道をふさいでしまっている。」
 主イエスは、当時の律法の専門家やファリサイ派に対して、何故これほどまで厳しいことを言うのでしょう。今日の福音書から、一つの言葉に着目して、主イエスの教えておられることを考えて導かれたいと思います。
 マタイによる福音書第23章2節に「モーセの座」という言葉が出てきます。モーセは、イエスの時代を更に遡って1300年以上昔の人です。モーセの時代にイスラエルの民はエジプトの国で奴隷になっており、その民をエジプトから導き出したリーダーがモーセです。モーセに率いられたイスラエルの民は、エジプトを脱出した後40年にわたり荒れ野を放浪して過ごしましが、イスラエルの民がエジプトを逃れてシナイ半島に入り、しばらくすると、モーセは独りシナイ山に登り、そこで主なる神から十戒を授けられたのです。
 その第一の戒めに約束したように、「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたにはわたしをおいてほかに神があってはならない。」(出エジプト記20:2)(また、ほかに神があるはずがない。)これが、主なる神とイスラエルの民との間の最も大切な関係の理解であり、同時にこれがイスラエルの民の自己理解でした。そしてこの言葉に始まる十戒がイスラエルの民の生きる基盤であり、生活の枠組みです。イスラエルの民にとってその他の律法も皆神とモーセが結んだこの契約を基盤としていると考えました。主イエスさまの時代にも「モーセ」とか「モーセの書」と言う言葉が用いられ、それらは殆どの場合、神とイスラエルの民が結んだ契約とその契約を生活の中に具体的に表す律法を意味していたのです。
 今日の福音書で、主イエスは「律法の専門家やファリサイ派が「モーセの座」についている」と言っておられますが、これは言葉を換えれば、「彼らは神との契約の上にあぐらをかいている」と言うことを意味しているのです。
 彼らは律法の内容については詳しく知っており、その知識に基づいて他の人々を批判したり非難したりはするけれど、律法を守れない人々やそのために社会からはじき出されて悩み苦しむ人々には指一本貸そうとしませんでした。主イエスはその様な律法の専門家やファリサイ派のことを厳しく批判なさったのでした。とりわけ、律法を教えその精神を生きるべき立場にある人が、自分では律法を拡大解釈した言い訳や理屈によって批判を逃れ、他の人々に対しては「お前のここが違う」「お前のそれは正しくない」と言って「モーセの座」から批判するばかりで、律法によって裁かれて身を切られるような思いになっている人にどう関わって迎え入れるのかということには全く無関心であり、痛むこともありませんでした。彼らは主イエスの目から見れば、周りの人々から賞賛され社会的に高い評判を得ることを願って、人目に付くところで大袈裟に祈ってみたり、衣服の房を大きくして熱心さを見せかけ、形の上での敬虔を装っているに過ぎなかったのです。
 本来、「モーセの座」は、律法をとおして神のお考えが現れ出る、神の御心の発信基地であったはずです。その発信基地にいる者たちが、いつの間にかその権威の上にあぐらをかいて、権威は権力に成り代わり、弱い人や貧しい人を切り捨てる構造を維持する基地になってしまっていたのです。
 一つの例を挙げてみましょう。
 律法の中に「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい。」という言葉があります。この言葉によって今自分の生きている社会と自分自身をを振り返ってみると、あまり愛のない姿が見えてきます。その時、律法の専門家たちは社会を上から見下して言うのです。「あなたの生きている社会に愛がありません。」「あなたの生きている社会は冷たい社会です。」「神はあなたの生きている社会を喜びません。」そして、愛に飢え乾いている人に愛とは何かをあれこれと説明するのです。それは、まるで食べ物が無くてお腹を空かせている人を前に、あなたはどのような栄養が足りないから何をどのように食べるべきかを教えながら、水一杯飲ませずに飢え乾いた人をそのまま帰らせるようなものです。今、目の前に飢え乾いた人がいたとして、必要なのはあれこれの説明より黙って差し出される暖かなスープと一切れのパンではないでしょうか。
 主イエスは他の人の上に立って教える人は、黙ってスープとパンを差し出す人のように、「仕える者になりなさい」と教えておられるのです。
 律法の専門家やファリサイ派は律法を知り尽くしそれを実行している側に自分の身を置いてはいるけれど、主イエスの目から見ると、彼らは権力の上に居座っている人にしか見えません。彼らは「モーセの座」の内実を神の御心から離れたこの世の権力の座にしてしまいました。律法の専門家たちは「あの人は偉い、あの人は立派だ」ともてはやされることを好みます。そして、ちやほやされていないと腹を立てて他人に罪を負わせ、自分に都合良く律法を解釈をして、自分たちとは違う立場の人を悪者に仕立て上げていくことさえしたのでした。彼らは神殿の論争でイエスを追い出すことができず、主イエスを何とかして殺そうと相談し始めるのです。
 主イエスは、神を愛し人を愛することに全く妥協なさいませんでした。その愛は、ユダヤ教指導者たちの悪や不正や怠惰を見過ごしませんでした。
 そのような愛の厳しさの故に、私たちも、時に、その愛に照らし出される事が怖くなったり苦痛になったりもします。なぜなら本当の愛に照らされることは、私たちの本当の姿が浮き彫りにされてきて、それまで当然のことのようにして犯してきた罪に新たに気づかされて愕然としたりすることだってあり得るのです。でも、それは、私たちが主イエスの本当の愛に生かされていこうとするなら、主イエスとの関わりの中で本当の自分が神の愛されて生きていこうとするなら、醜い自分をも認めて生まれ変わることは必要なことなのです。そして、私たちには、自分の罪に働いてくださった神の愛を知ることを通して神に対する感謝と讃美が生まれてくるのです。
 私たちが主イエスのことを人々に伝え教えることが出来るとしたら、それは私たちが愛について語ることによってだけではなく、神の御心のために自分を用いてくださいと祈りながら神と人々に仕えて行くことによってなのではないでしょうか。
 私たちは聖書を通して、神が私たちを愛してくださったことを教えられました。神の愛を受け入れ、愛に満たされ、私たちも隣り人に仕えることによって主イエスの働きにあずかり、主の栄光のために生かされるように導かれましょう。
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古い契約を超越する  マタイによる福音書22:34〜46  A年特定25 愛

古い契約を超越する愛
  マタイによる福音書22:34〜46   A年特定25    2017.10.29

 主イエスは、今日の聖書日課福音書で、ファリサイ派の質問に答えて「神を愛すること」と「隣人を愛すること」の二つは分けることのできない最も大切な掟であると教えておられます。
 始めに「掟」ということについて考えましょう。
 この「掟」の成立には、根底に神とイスラエルの民の関わりの歴史があります。モーセの時代に、イスラエルの民はエジプトで奴隷になっていました。その奴隷の民は、神の力によって、奇跡的にエジプトを脱出することができました。彼らはその中にも働いた大きく不思議な力を「主なる神」の働きであると信じます。40年に渡る荒れ野の放浪の中での度重なる奇跡の経験を通して、イスラエルの民は、自分たちを「神に選ばれた民族」であると認識するようになっていきます。
 イスラエルの民は、人の思いを遙かに超えて働く「主なる神」との関係を正しく保つことが必要であると考えました。そして、神との関係を正しく保つための約束事を取り決めるのです。それは十戒を中心とした律法として体系化していきます。この体系の中で神としっかり結びつき、神との約束を守ることで、永遠から永遠にまでお働きになる神に守られ受け入れられることだと考えました。そのように生きることが「神に選ばれた民」として生きるに相応しいとイスラエルの民は考えたのでした。
 しかし、時代と共にこの「選民意識」は、神に選ばれた者としての特権を享受する事に移り変わっていきます。彼らは律法の文言を自分の都合の良いように解釈して、神に選ばれた者としての特権をいつでも自分の手許におくことばかりを考える者に成り下がっていたのです。
 今日の福音書の中で、律法の専門家は主イエスに次のように尋ねています。
 「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」
 ユダヤ教のラビ(教師)によれば、律法の内容は613であり、そのうちの365が「してはならない」という禁止命令、残りの248が「しなければならない」という実行命令に分けられました。その中のどれが重要かという事を議論することはラビ達にとっても大した意味のある課題ではありませんでした。なぜなら、そのすべてが神との間に結ばれた約束であり、その全体を守ることで神との結びつきに完全性を表現すると考えられていたからです。それは613という数の中身についても、禁止命令の「365」が一年間を意味する数字であり、実行命令の「248」が人体にある骨の総数であるとされていたことを考えても、「613」という掟の内容が完全不可欠であるとは言い難いことは明らかでしょう。
 主イエスに向かって敢えて「律法の中でどの掟が最も重要でしょうか」と質問をすることには、35節にも記されているとおり「イエスを試そう」とする意図がありました。律法の専門家たちは、もし主イエスがその613の中のどれか一つを最も重要な掟として取り出せば、それをイエスを困らせる手掛かりにしようという下心があったのです。
 この質問に対して、主イエスはどうお答えになったのでしょう。
 主イエスは、二つのことをお答えになりました。
 その内容は、37節の「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」ということ、また、39節の「隣人を自分のように愛しなさい。」ということでした。それに続けて主イエスは、40節にあるとおり、「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」と言われたのでした。
 この箇所の「律法全体と預言者」とは、旧約聖書全体を意味します。つまり、旧約聖書全体は、「全身全霊で神を愛することと隣人を自分のように愛すること」の二つに集約され、神への愛と隣り人への愛は切り離すことのできない一つのことだと主イエスはいっておられます。
 主イエスによれば、旧約聖書の律法は神の「愛」に基づいているのであり、人が神の愛から離れてしまえば、仮に表面的には掟を守っているように見えても、613の掟は意味を失うことになります。掟を文言通りに実行しても、その行いが愛に裏打ちされていないのなら、それは形式を整えることに過ぎず、神との関係が良い状態にあるとは言えないのです。
 律法は、神に愛されている事を自覚する者が神を愛し、自分と同じように神に愛されている隣人を愛する事を具体的な体系にして出来上がったはずです。しかし、主イエスと論争するユダヤ教の担い手たちは、律法の精神を忘れ、律法の一字一句をまるで儀式の手順のようにして守り、また守らせようとしていたのです。
 今日の聖書日課福音書の中で、主イエスは、「神への愛」と「隣人への愛」は、切り離すことのできない一つのことであることを教え、その内実を失っているエルサレム神殿の指導者たちを鋭く批判したのでした。
 神の愛は、民族を越え、時代を超えて、誰にでも同じように注がれています。神の愛を受け、愛をお与え下さる神を愛し、自分と同じように神に愛されている隣人を愛し、この二つを一つのこととして行うことが神の御心に応えるということです。このことが律法の前提であり、その各項目はそのことの具体的な表現になっているはずです。すべてのことは律法の細かな文言に発するのではなく、神の愛に始まり、そしてまた全てのことは神の愛によって一つにされるのです。主イエスは、こうしてすべての人が、永遠から永遠へと働く神との関係を保ち、またその関係が回復されることを願って、人々に関わり続けた、と言えるでしょう。
 このような理解に基づいて今日の福音書の後半(41節以下)を読めば、その意味することも自ずと明らかになります。
 当時、イスラエルの人々は、救い主(キリスト)はダビデの末裔として現れると考えていました。でも、主イエスはご自身が単に血筋の上でダビデ家の子孫であるということに留まるお方ではありません。
 言葉を換えれば、この福音書を記したマタイは、主イエスは旧約聖書の内容(律法と預言)を完成するお方であり、血筋の上でのダビデの子孫であることを超える救い主であり、また、神の子であると、私たちに伝えているのです。
 主イエスがエルサレムに神殿で指導者たちを相手にこの論争をなさったのは、火曜日のことであり、その翌々日の木曜日に捕らえられ、金曜日には十字架につけられます。この十字架には人びとの罪の極みが顕れています。主イエスは十字架の上からも、自分に対して罪を犯す人を愛しぬき、赦し抜いて、主なる神との関係を少しも崩すことなく、私たちに救いの道を示し続けてくださいました。
 主イエスと神殿の指導者たちの論争は終わり、勝ち目のない指導者たちは主イエスを殺すますます強め、主イエスを十字架に追いやる事になります。それを知りつつ、主イエスはなおエルサレムに留まり、十字架につけられます。その出来事は、「律法と預言者」を完成し、イスラエルの律法を超越する神の愛と赦しを私たちに示しすものになりました。イエスは「ダビデの子」でありながら、「ダビデの子」を超越する救い主なのです。主イエスは、身をもって神と人を愛することを十字架の上から私たちに示して下さいました。
 やがて、主イエスを救い主と信じる人々によって、神のみ業は語り継がれ、信仰共同体を形成し、たとえ小さな私たちでもイエスを救い主として受け入れる者は、神の永遠の働きの中で生かされる希望と喜びを得ています。
 私たちは、主イエスによって示された愛の中に生かされ、神の愛をこの世界に示していくのです。
 神の愛に生かされ、神の愛にお応えして神と隣人を愛することが出来るように導かれて参りましょう。
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