カテゴリー:説教

2018年09月24日

最も小さい者のために(特定20)

最も小さい者のために マルコによる福音書第9章30−37(特定20)           2018.09.23

 今日の聖書日課福音書から、2個所読んでみましょう。
 マルコによる福音書第9章35節、「いちばん先になりたいと思う者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」
 同じく、第9章37節、「わたしの名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」
 今日の聖書日課福音書を見てみると、弟子たちはこれから起ころうとしている主イエスの受難と復活のことを理解できず、エルサレムに上っていくことに気持ちを高ぶらせていた様子が読み取れます。
 私たちは、先主日の聖書日課福音書で、弟子のペトロが主イエスの受難予告を受け入れられずイエスをいさめ始めたときに、主イエスに厳しく叱られた箇所から導きを受けました。今日の聖書日課福音書の箇所でも、弟子たちはその時のペトロと同じように、主イエスがなぜエルサレムに上って行こうとしておられるのか分からないまま、エルサレムに上るイエスに期待して気持ちを高揚させていました。
 これから主イエスと共にエルサレムに上って行けば、直ぐにでもイエスがユダヤ教の指導者たちの上に立つことになり、自分たちもそのイエスの側で高い地位につくことができると弟子たちは考えていたのでしょう。
 弟子たちは主イエスに「途中で何を議論していたのか。」と問いかけられ、自分たちの心の内にある出世や権力を求める思いを露わにされることになります。この問いによって、弟子たちは自分たちの浮かれた思いに水をかけられたような気持ちにもなったような姿も想像されます。
 弟子たちは、主イエスの受難と復活のことについては怖くて尋ねることができずにいながら、いよいよエルサレムに向かうことで気持ちを高ぶらせ、主イエスの思いとは全く違うことを論じ合う自分たちでいたことに気付かされるのです。
 マルコによる福音書を更に読み進めていくと、第10章35節には、弟子のヤコブとヨハネが主イエスのところに進み出て、主イエスが天下を取ったら私たちをあなたの左右の座に着かせてくださいと願い、それを知った他の弟子たちが憤慨したという物語が出てきます。このように弟子たちはそれぞれに主イエスに自分勝手な期待や願いを寄せてそれが満たされることを求めるに過ぎない者であり、主イエスの本当の思いはなかなか理解されませんでした。
 主イエスは、このような弟子たちを前にして、主イエスは幼子の手を取り彼らの真ん中に立たせ、そしてその幼子を抱き上げて言われました。
 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」
 その当時は、まだ現代のような子供の人権とか人格などという思想はありませんでした。現代では、幼子は大人になるまで保護され養育される存在と考えられます。しかし、当時の幼子のイメージは、先ず第一にまだ働き手になっていない足手まといな存在であり、それは「無力、無価値」と言うことであり、早く大人の仕事を助ける働き手になることを求められていました。
 しかし、主イエスはこの世に生きる者は誰でも神に愛されている大切な存在であるとお考えになり、労働力としては無価値と見なされる小さな存在にも神から等しく愛が注がれており、弱く小さな存在こそ神の御心の中で生かされるべきであると教えられたのです。
 主イエスは、弱く小さな、そしてその当時は役に立たない無価値な存在と思われていた子供の手を取って、更に抱き上げておられます。そして「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」と言われました。
 主イエスは、今、弟子たちの真ん中におられ、幼子を抱いておられます。そのお姿を思い浮かべてみると、弟子たちが主イエスに目を向けると弟子たちの目には主イエスと共にいる幼子が映ります。また、弟子たちが最も小さく弱い者である幼子に目を向けると、その幼子を抱いておられる主イエスが自ずと目に入ってきます。
 このことは絵画的な表現に留まることではなく、私たちの生活の中にあっても、私たちは最も小さく貧しくされた人々に目を向けるときにその人々と共におられる主イエスを見ることになり、私たちが主イエスを見ようとするときに主イエスが抱いている最も貧しく小さくされた人々が目に入ってくるのです。
 弱く小さな者を受け入れることは主イエスを受け入れることであり、主イエスを受け入れることは弱く小さな存在を受け入れることなのです。そして、私たちは、弱く小さな存在を受け入れることは、自分の中の弱く小さく無価値で醜い部分を受け入れることと深くつながっていることを覚えたいと思うのです。主イエスは、私たちの中の最も弱く貧しく醜く小さなところに共にいてくださいます。
 私たちの心のそのような最も弱く貧しく醜く小さなところで私たちは主イエスにお会いすることができるのです。
 もし、自分の中の弱さ、小ささ、醜さを受け入れることが出来ないなら、他の人の中にある似たような弱さ、小ささ、醜さを見た時、私たちはその人を受け入れることができなくなります。そして時にはその人を傷つけたり虐げたり、あるいは無視したりしてその場を逃れようとするでしょう。そうであれば、どうしてそこから自分の内側にキリストの平和が生まれてくるでしょう。また相手との間にキリストの平和が生まれてくるでしょう。自分の中にある弱さ、小ささ、醜さ、貧しさが主イエスによって受け入れられ、たとえそのような私であっても神に受け入れられていることを知ることができる時、私たちは主イエスを通して神に愛され大切にされている目の前の弱く小さな存在を愛することが出来るのであり、その人と共におられる主イエスを見出すことが出来るようになるのです。もし私たちが自分の醜さや弱さを認められないなら、私たちはどうして他の人の弱さや醜さを受け入れそこに働く主イエスさまを見出すことが出来るでしょうか。
 主イエスは、弟子たちが自分たちの中で誰が一番偉いかを論じ合う時、最も弱く小さくされた存在を見つめるように教えておられます。
 もし私たちが、上下関係や優劣の尺度の中に生き、いつも自分が他の人よりも優位に立とうとするような生き方を続けるのなら、私たちには弱さや貧しさと共におられるキリストは見えてこないでしょう。
 主イエスさまは、マタイによる福音書第25章40節で次のように教えておられます。「わたしの兄弟である最も小さい者のひとりにしたのはわたしにしてくれたことなのである。」
 この御言葉の中にも、主イエスが最も小さい者と共におられ、最も小さく弱い者を通して主イエスが働いておられることがよく示されています。私たちが神に仕えるとは、祭壇奉仕や礼拝奉仕をすることに限られたことではありません。私たちが弱く小さい人々に仕えることが主イエスに仕えることだと主イエスは教えてくださいました。
 主イエスは人間の小ささ、弱さ、貧しさ、醜さに強く共感し、人々がその小ささ、弱さ、貧しさ、醜さを通してしっかりと神と結び合うように徹底して仕えてお働きになり、その目に見える徴として、主イエスはエルサレムでの十字架の死と復活を遂げることになるのです。
 エルサレムに向かう主イエスの歩みは、当時の弟子たちが期待するような権力を手に入れる歩みではなく、弱く小さく貧しい人々の嘆きや苦しみをご自分で担う歩みでした。主イエスは権力や財力や政治力に拠ってではなく、人々の弱さ、小ささ、貧しさ、醜くさを担い、そこに神の御心を示してくださいました。主イエスがそうしてくださったのは、弱さや貧しさを担う私たちを招くためであったことを覚え、私たちの弱さや小ささが主イエスによって抱き上げられ祝されることを感謝したいと思います。
 そして私たちが他の人の弱さや貧しさに出会う時、そこに働く主イエスまにお仕えすることが出来るように召し出されていく者となりますように。
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2018年09月17日

信仰の告白 マルコによる福音書第8章27−38 (特定19)       2018.09.16

信仰の告白 
マルコによる福音書第8章27−38(特定19)       2018.09.16
  

 今日の聖書日課福音書から、マルコによる福音書第8章29節の言葉に注目したいと思います。「それではあなたがたはわたしを何者だというのか。」
はじめに、このみ言葉がマルコによる福音書全体の中で、どのような位置にあるのかを確かめておきましょう。
 今日の聖書日課福音書の箇所も含めて、マルコによる福音書の第8章の後半から第9章の前半にかけては、主イエスの大きな転換点を記していると言えます。 主イエスの公の働きはガリラヤから始まりました。今日の聖書日課での舞台もガリラヤ地方です。
 洗礼者ヨハネによって新しい時代の幕開けが告げられ、神の子主イエスは既に来られていることが伝えられました。主イエスは病の人を癒し、汚れた霊に取り憑かれたその霊を追い出し、貧しく小さくされた人々の解放と罪の赦しを宣言し、これまでのユダヤ教の教えを越えて人々が神の愛の中に生かされていることを教えました。そして、多くの人々がこのイエスの働きの中に神の国が確かに到来していると信じるようになりました。
 しかし、このイエスに注目する多くの人々は、次第に主イエスが本当になさろうとしていたこととは違う期待を寄せるようになっていきます。中には、このイエスによって自分の願いを実現しようとする人も現れてきました。そして、沢山の人がイエスが自分の思いどおりに動かないことに不満を抱き、イエスのもとから離れるようになりました。
 主イエスは宣教の働きの舞台をガリラヤからエルサレム移そうとなさいます。イスラエルの人々にとってエルサレムは聖地であり、政治的にも宗教的にもイスラエルの民の中心となる所でした。主イエスには、自分がエルサレムに行くことは、殺されることであると分かっていました。
 主イエスがエルサレムに向かう度がもうすぐ始まろうとしています。
 その主イエスが、弟子たちに問います。「あなたがたは私を何者だと言うのか。」
 イエスの問いは、やがて十字架につけられるイエスを誰であると告白するのか、と言うことです。この時の弟子たちには、まだ主イエスがこのようにお尋ねになる本意が理解できていませんでした。そのことは、今日の聖書日課福音書の後半にある主イエスとペトロのやりとりを見ていけば良く分かります。
 主イエスは弟子たちに「あなたがたは私を何者だと言うのか」と問います。
 ペトロは主イエスのこの問いに応えて「あなたはメシア(救い主)です。」と言っていますが、この後、主イエスがご自分の受難のことを話し出すとペトロはその話を受け入れることができませんでした。ペトロはイエスを脇へ引っ張っていき、イエスをいさめるように「そんな話はやめてください」と言い出しますが、そのペトロはイエスに「サタン、引き下がれ。」とまで言われて叱られてしまいます。
 このように、ペトロをはじめとする弟子たちは、この時にはまだ主イエスの宣教の根本にあること、ことに受難と十字架の死、復活について、理解していたとは言い難い状態でした。
 そのような状態のペトロが「あなたはメシア(救い主)です」と答えたことは、無意味なことだったのでしょうか。そうではありません。
 主イエスが、エルサレムに向かおうとする今こそ、弟子たちがイエスを誰ととらえ、誰であると告白するのかが、大切な事になるのです。
 他の例を挙げれば、私たちが結婚相手を選んでその人との結婚を願いその申し出をしようとするとき、あるいはあの仕事を自分の生涯の仕事としてあそこで働きたいと就職先を決めようとするとき、私たちはその相手の人や組織のこと全てを知ってから決断をしたり、自分の思いを表明するのではありません。もし、そうしようとしたら主イエスへの信仰を告白することは一生できないことになるに違いありません。
 告白をするということは、自分の生涯をそこに捧げて生きようとする決意を表明することです。結婚の意志や就職の意志を表明することは、大切な事であり、必要不可欠のことであり、避けて通ってはいけないことなのです。
 それと同様のことを、主イエスは、エルサレムに上ろうとするこの時に、弟子たちに「あなたがたは私を何者だと言うのか」と問う形で求めておられるのです。そして、ペトロをはじめ弟子たちにとっての生涯は、これからずっと、このイエスの「あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」という問に答え続けていく生涯になるのです。
 私たちもこの時のペトロと同じように、「わたしは、天地の造り主全能の父である神を信じます。この世の贖い主、み子イエス・キリストを信じます。命の与え主、聖霊を信じます。」と信仰の告白をして、洗礼を受け、堅信の恵みに与りました。そして、礼拝のたびにニケヤ信経や使徒信経によって信仰の告白を致します。
 私たちも、今は主イエスの理解が不十分であったとしても、「あなたはメシアです」と信仰告白を致します。それは、この箇所の後のペトロを見れば分かるとおり、完全でもなければ時には逃げ出してしまうようなどうしようもなく情けない私のことさえもあなたは見捨てず、愛し抜いてくださり、わたしが神の御心に立ち戻るように絶えず招き続けてくださいます。そのあなたこそ、私の救い主ですという信仰の告白なのです。
 違う面から言えば、私たち信仰者は、信仰告白をすることを通して不完全で不信仰な自分を少しずつ正され強められていく者であると言えるでしょう。
 信仰を持つことは、それで必ずしも平穏無事な生活が約束されたり、いつも自分の気に入った生活を保証されることではありません。むしろ、私たちがどのような信仰を持ちそのような態度で生きるのかということの中に、私たちの信仰の質が現れ出てくると言えるでしょう。
 今日の聖書日課福音書から、私たちもペトロと共に、「あなたはメシア(救い主)です」とお答えし、主イエスに伴われ、導かれ、養いを受けながら信仰の道を歩んでいく思いを新たに致しましょう。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 21:28| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年09月10日

開けよ マルコによる福音書第7章31−37   (特定18)  2018.09.09

開けよ 
マルコによる福音書第7章31−37            2018.09.09

 神学生時代に旧約聖書の言葉であるヘブライ語を学ぶ余裕がなかった私は、その後もヘブライ語を学ぶことなく過ごしてしまいました。それでも私はイエスの時代の言葉をしゃべることができます。「エッファタ」、「タリタ、クム」、それに「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」。
 これらは、ヘブライ語の中でも当時の日常語(日用語)であったアラム語であり、マルコによる福音書はイエスが語られたこれらの言葉をそのまま原語で用いており、この福音書の読み手である私たちにもその場の臨場感と共に、「その時、イエスが発したのはこの言葉だった」ということをそのまま伝えようとしたのではないでしょうか。
 主イエスは、あちこちの町や村を巡り歩いて人々に神に国の教えを説き、また、人びとを癒したり悪霊を追い出す働きをなさいました。主イエスがガリラヤ湖畔にやって来られたとき、人々は主イエスのところに耳が聞こえず舌の回らない人を連れてきて、その人に手を置いてくださるようにと願いました。主イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出して、耳を聞こえるようにし舌のもつれを解いてくださいました。
 耳が聞こえず口の利けない人の世界とは、他の人々とのコミュニケーションが遮断されている世界であり、それ故に心も閉ざされて動きのない状態になっていることを意味しているのではないでしょうか。
 主イエスが宣べ伝えておられた天の国とは、人びとの心が開かれ、お互いに本当の自分を示し合い、聞き合い語り合い、心が結び合う世界です。主イエスはその様な世界を実現するために生涯をお献げになったとも言うことができます。
 私たちはどのようなときに自分の心が開かれる経験をし、またどのようなときに心が閉ざされる経験をしているでしょうか。
 もし私たちが、今自分の生きている世界にウソや偽りがある事を感じたら、自分を守るために防衛的になり、お決まりの言葉やその場しのぎの言葉で上辺を装い、自分の心の中を隠して、その結果ありのままの自分を表現することをやめて心を閉ざすでしょう。そして互いに相手の腹の中を探り合い、時には相手を威嚇したりけなしたりもすることになるでしょう。そうしていては、本当の自分を開いて互いに深く語り合い理解し合うことも共感し合うこともなくなります。そして、次第に孤独の中に入り込んでいくことになります。「耳が聞こえず、舌の回らない人」とは単に身体的機能としての聴力が無い事や舌が動かない人のことを言っているのではなく、今申し上げたような意味での豊かな心の通い合いを失ってしまっている人のことを言っているようにも思えてきます。主イエスは、きっと聞くことも話すこともできない人の苦しさや悲しさに、またそのような状況を生み出す世界に胸を痛めておられたことでしょう。
 主イエスは連れ出されてきたこの人を群衆の中から連れ出して二人だけの場をつくり、この人の両耳に指を差し入れ更にご自分の唾で濡らした指でこの人の舌に触れました。このような一連の動作はその当時の逐霊師たちがしばしば行っていた悪魔払いの所作であり、主イエスの特別な所作ではなかったようです。主イエスはそれに加えて深く息をして「エッファタ」と言われたのでした。
 今日の聖所日課福音書の中の、二つの言葉に注目してみたいと思います。
 その一つは、「深く息をつき」という言葉です。この言葉は聖書の他の箇所に「うめく」と訳されて出てきます。例えば、パウロはローマの信徒への手紙第8章23節で「霊の初穂を戴いているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。」、また28節で「わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」とこの言葉が用いられています。つまり、主イエスは目の前に連れ出されてきたこの人の耳も口も閉ざされて深い孤独の中にいる姿をご覧になり、胸を痛めて、呻くような思いで祈りの言葉を口にされた、とマルコは伝えているのです。
 そしてもう一つ注目したい言葉は、その時に主イエスが発せられた「エッファタ」という言葉です。この言葉は当時主イエスが日頃用いておられたイスラエルの日常語であるアラム語です。はじめにも触れたとおり、マルコは主イエスが「エッファタ」と言われた言葉をそのまま臨場感を残して伝えます。そして、「これは「開け」という意味である」と説明を加えています。主イエスが発せられた「エッファタ」とは、他の人と交流できずに閉じこもっている孤独な世界から解き放たれて開かれよ、と言う意味なのだと、福音記者マルコは読み手である私たちに伝えているのです。
 深く息をつく主イエス、そして「開けよ」と言うイエス、ここから主イエスのお働きの源が少し見えてくる気がします。
 主イエスの時代には、耳が聞こえないとか口がきけないということは、神から罰を受けた徴が身に現れていると考えられたり、神から見放された人に悪霊が取り憑きその悪霊に支配されていることと考えられ、それは「汚れ」の徴とも見なされました。
 主イエスは今その人の正面に立たれます。そして、その人の苦しみや悲しみをご自身で引き受けて、その人の苦しみや悲しみよりももっと深く呻いて、「開けよ」と宣言してくださいます。それは、神が私たちに与えてくださった一人一人の実存を回復し、神を根底に据えた人びとの交わりに中に私たちを招こうとする宣言でもあるのです。
 もし私たちの心が固く閉ざされて、他の人の言葉を聴こうとせず話しかけようともしないのなら、そこからは神の望む愛の世界は開かれてこないでしょう。私たちの世界に対話と心の交流が生まれるとしたら、私たちは先ず自分の心を開き相手の人を信頼して、自分を開いていくことが必要なのです。私たちは、私たちがいがみ合い憎み合い心を閉ざすとき、そこに立つ主イエスが深い呻きをともなって「開けよ」と言っておられるお姿を思い起こす必要があるのです。
 私たちはその愛と信頼の究極の姿を十字架の主イエスに見ることができます。主イエスを通して神の御心が現れ出た世界では、一人ひとりの目も耳も口も開かれて、他の人との間に愛に裏打ちされた対話が生まれてきます。そこでは、全ての人が恐れなく自分を開いて表現し、それを分け合う事ができるのです。主イエスは、耳が聞こえず口に聞けない人を癒して、そこに神の国の姿が開かれたことを、人びとにお示しになりました。
 主イエスがお生まれになる七百年以上も前に、預言者イザヤは主なる神の御心が回復されたときの姿を思い描いて次のように歌いました。今日の旧約聖書日課のイザヤ書第35章5〜6節です。
  「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。
  そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。
  口の利けなかった人が喜び歌う。
  荒れ野に水が湧き出で、荒れ地に川が流れる。」
 今日の福音書は、昔イザヤがイメージして歌った世界が主イエスによって今、開かれたことを告げています。私たちは、主イエスが開いてくださった神の国の中に生かされています。そして、この世界に、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開くことが実現するように、そのための働き人になることを主イエスに求められています。
 私たちは、自由にものを見て聞いて表現できることがどれほど大切であるかを身をもって知っているはずです。あるいは、そうできない不健康さや不自由さを身をもって知っているはずです。そして、本当の事を見て聞いて表現する自由を獲得するためにどれほど険しい道のりを歩まなければないかについて、私たちは主イエスさまの十字架を通して知っています。
 私たちは自分の口を開くとき、主なる神への感謝と賛美を表す者でありたいと思います。また、私たちが口を開くとき、深い呻きを伴うほどの思いを込めて他の人々のために執り成して祈る者でありたいと思います。主イエスは、私たちのためにも深く息をついて「エッファタ」(開けよ)と祈っていてくださいます。
 主イエスの愛によって目も耳も口の開かれて、神の国の働きに与り、主なる神への感謝と賛美へと向かうことができますように。
 今日の福音書の御言葉に応えて、「主よ、私たちの口を開いてください。私たちは主の誉れを表します。」と信仰を表明し、主の働きを担い、信仰の道を歩んで参りましょう。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 05:39| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする