カテゴリー:説教

2019年03月17日

エルサレムに向かうイエス ルカによる福音書第13章31−35  大斎節第2主日   2019.03.17

エルサレムに向かうイエス
ルカによる福音書第13章31−35  大斎節第2主日   2019.03.17

 主イエスはエルサレムに向かっておられます。神の国の教えを説き、人々を癒し慰める旅をしながら、主イエスはエルサレムに向かって歩んでおられます。するとそこへファリサイ派の人々が何人かやってきて、「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています。」と伝えました。ファリサイ派は、主イエスの教えや行いが当時の社会秩序を乱して神を侮辱することにつながると考えて、日頃の主イエスの行いや教えに反感を持っていました。
 「ここを立ち去ってください」というファリサイ派の言葉は、ファリサイ派の人々がイエスを守ろうとした言葉ではなく、主イエスと弟子たちの一行がエルサレムに上っていくのを何とかしてやめさせようとした言葉であると考えられます。
 ここに名前の出てくるヘロデは、ヘロデ・アンティパスで、ヘロデ大王の息子に当たります。父のヘロデ大王は、イエスが生まれた時に「新しい王が生まれた」と聞いて、自分の王座を守るためにベツレヘム周辺の2歳以下の男の子を惨殺した男です。その子であるヘロデ・アンティパスは、当時ガリラヤ地方とペレヤ地方の領主であり、ローマの権力の下でその操り人形になって、自分に割り当てられた地方を治めていました。ヘロデは、それだけに自分の領地にいざこざが起こることや領主としての力量を問われるような問題が持ち上がることを嫌いました。ヘロデは、自分の治めていたガリラヤ出身のイエスがエルサレムに上って行って何か騒動にでもなれば、ガリラヤの領主である自分の評判が落ちることになるとでも考えたのでしょう。ヘロデは親子2代に渡ってイエスの命をねらうことになりました。
 当時の様子を記したユダヤの歴史書の中に、このヘロデ・アンティパスについてこう記されているところがあります。「ヘロデ・アンティパスは静かな生活を愛した。」
 私たちは、このヘロデ・アンティパスの愛した「静かな生活」の内実をよく見据えておく必要があります。このヘロデ・アンティパスは、自分の兄弟の妻を奪いました。そのことを批判した洗礼者ヨハネの首をはねることを許可した人物です。でも、周りの人たちはこのヘロデを恐れて何も言いませんでした。その中で、洗礼者ヨハネはヘロデのことを公然と批判し、ヘロデは洗礼者ヨハネを捕らえて牢獄に入れたのでした。
 このヘロデが、エルサレムに向かっておられるイエスを何とかして捕らえて殺そうとしています。もし、ヘロデを「静かな生活を愛する人」だと言うことが出来るとしたら、ヘロデの愛したその「静けさ」の中身は、落ち着いた平和のことではなく、他の人々を威圧し、自分の不道徳を批判する人を弾圧し、神の御心を示そうとする人を迫害するところに成り立つ、重苦しい、不自由な「静けさ」でした。
 ファリサイ派の人がヘロデのことを持ち出して主イエスに話しかけてきたことには、主イエスがエルサレムに上っていくことを何とかして止めさせようとした下心が伺えます。ファリサイ派には、ナザレ出身の田舎者イエスが当時のユダヤ教の制度やその根幹にある律法を批判しているように映りました。ファリサイ派にも、そのようなイエスによって聖なる都エルサレムに波風を立たられたくない、という意図があったのでしょう。
 それに対して、主イエスは言っておられます。
 「わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外のところで死ぬことはあり得ないからだ。」
 ここで主イエスが言っておられる「進まねばならない」という言葉は、文法的に見れば、単なる未来や意志や義務を表す言葉ではなく、「わたしが進んで行くことは神のお考えによって必ずそうなる」という強い意味の言葉です。つまり、主イエスがこれからエルサレムに上って行くことは、神のお考えによって定められていることです。主イエスがエルサレムに上っていくことは、自分を殺そうとする者がいるということや、エルサレムに行ったらその指導者が自分を迫害するなどと言うことで左右されることではないのです。いや、主イエスがエルサレムに行くことによって、むしろイエスを殺す者たちも神が御心を成し遂げる役割をはたすことに用いられることになり、人の罪がこの世界に顕わにされることを通して神は御心をこの世界に完成することになる、と言っておられるのです。主イエスはそのことをよくご存知の上で、それでも、この世界に御心を表す神のご計画によって、エルサレムへ、十字架へと向かって、歩みを進めておられるのです。
 このように、今日の福音書には主イエスがエルサレムに向かう固い意志が伺えます。自分に都合がいいかどうか、自分にとって心地よいことかどうか、自分にとって利益になるかどうかという次元を遙かに越えて、主イエスは自分を通して神の御心が行われることを祈り求めてエルサレムへと向かうお姿をここにはっきりと示しおられます。
 そして、それだけに御心が行われることを阻もうとするヘロデやファリサイ派に対して、主イエスは非常に厳しい言葉を彼らに向けておられるのです。主イエスのその思いは、政治的にも宗教的にも中心地であった首都エルサレムそのものを批判する言葉によって、象徴的に表現されています。
 主イエスはエルサレムを「預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ」とまで言っておられます。
 エルサレムは紀元前1000年の頃、ダビデ王の時代にイスラエルの首都とされ、その子ソロモンの時に神殿が建てられ、それ以来イスラエルの中心であり続けてきました。エルサレムは詩編の中などではしばしば「神の都」として賛美されてきました。しかし、主イエスは、このように「神の都」「神の国」と呼ばれるエルサレムで、預言者を通して語られた神の言葉が踏みにじられ、無視され、多くの預言者が殺されてきたことを指摘しておられます。
 私たちはこの主イエスの厳しい言葉を、単に昔の言葉としてではなく、今日、自分に向けられた言葉として聞かなければなりません。なぜなら、紀元70年にエルサレム神殿がローマによって占領された後、キリスト者にとっての神殿はあのエルサレムの建物ではなく、主イエスご自身が信仰者の神殿となり、私たち自身が聖霊を宿す宮になっているのです。
 主イエスご自身が神の御心が現れ出る新しい神殿となり、その神殿は十字架に架けられた後3日目に再興され、このイエスを救い主として信じて生きる者は「生ける神殿」とされることを、クリスチャンはずっと引きついています。
 私たちが神の言葉を真剣に受け止め受け入れようとするとき、ヘロデ・アンティパスが偽りの静けさの中にいられなくなったのとちょうど同じように、安穏としていられなくなるはずです。御言葉を真剣に受け止めることは、罪の中にどっぷりと浸かって安穏としていた自分が、あのヘロデのように、露わにされることにつながります。更に主イエスのみ言葉は私たちに悔い改めを促します。その時に多くの人は、この場面のファリサイ派のように御言葉を避け、あるいは御言葉に反発し、その源である主イエスを十字架に架けることになるでしょう。
 ヘロデは御言葉を突きつけた洗礼者ヨハネを弾圧しました。また、ファリサイ派の人々もユダヤ教のしきたりや習慣を優先する伝統の番人となり、自分は少しも変わろうとせず、主イエスはこのようなファリサイ派の人々を「白く塗られた墓」とまで言って、自分の内に命を宿さない生き方を批判しておられます。
 彼らは、自分たちの好む耳触り良い言葉だけを受け入れて、自分の存在を根底から振り動かされるような厳しい預言者の言葉は抹殺して済ませていました。
 主イエスは、今、エルサレムに向かって更に歩んで行かれます。主イエスがご自身の命を賭けて十字架に向かっています。私たちが神の言葉によって自分の生き方を根底から問われ、揺り動かされ、本当に神の御心に適う者となるように、主イエスは神の御心をエルサレムで、十字架の上で示すために進んでおられます。
 ヘロデやファリサイ派の人々にとっては、エルサレムに向かう主イエスは邪魔者であり、厄介者でした。私たちにとって、神の言葉は今どのように働いているのでしょう。神の言葉は、自分の生き方を補強したりそのために利用したりする道具にすぎないのでしょうか。それとも自分を生かす源と信じて御言葉に自分を委ねるのでしょうか。
 主イエスは、エルサレムへ向かう歩みを最後まで続けられ、十字架と復活によってその歩みを完成して下さいました。「めん鳥が雛を御翼の下に集めるように」私たちを完全な赦しと祝福の中に招いてくださっています。
 教会の暦は、主イエスの十字架に向かって進んでいます。私たちは、十字架に向かう主イエスに伴われて、主イエスの愛に生かされる者として、主の御心を表す道を歩み、主イエスの甦りの命の与らせていただきましょう。
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2019年03月12日

神の口から出る言葉で生きる   ルカによる福音書第4章1−13   C年 大斎節第1主日   2019.03.10

神の口から出る言葉で生きる
ルカによる福音書第4章1−13   C年 大斎節第1主日   2019.03.10

 大斎節に入り、最初の主日を迎えました。今日の聖書日課福音書は、ルカによる福音書第4章1節からです。この箇所には、主イエスが宣教の働きを公に始める前に荒れ野で40日間断食をなさり、そこで悪魔から誘惑をお受けになった物語が取り上げられています。
 はじめに「悪魔」と言うことについて考えてみましょう。皆さんは「悪魔」という言葉からどのようなことを想像なさるでしょうか。悪魔を絵にしようとすれば、虫歯菌のイラストに描かれているような、全身真っ黒でキバがあり、黒いマントを羽織ったドラキュラのような姿を思い描くかもしれません。もし、実際にそのようなものが私たちの目の前に姿を現したら、ゾッとするでしょう。でも、もし悪魔がいつもそのような姿なのであれば、私たちは直ぐに警戒態勢に入ることもできます。
 私たちは、悪魔とは、そこに悪魔がいるとは思えず、それが悪魔だとは気付かないようなところから働きかけをしてくるということを、肝に銘じていなくてはなりません。
 悪魔は直ぐにそれと分かる姿をとって私たちに近づいてくるのではありません。そして、それが悪魔の仕業だと直ぐに分かるような方法で私たちを誘惑してくることもないでしょう。悪魔は、巧妙な詐欺の手口にも似て、時に尤もらしく、時に私たちがつい心を許すように迫ってきて、いつの間にか私たちを神の御心から引き離し、人格までを変えようと、巧みに迫ってくるのではないでしょうか。
 私たちは、今日の福音書から悪魔の試みについて思い巡らせて、そうした悪魔の試みを退けられた主イエスの導きを受けたいと思います。
 主イエスは荒れ野で40日40夜、断食してお過ごしになりました。きっと体は疲れ果てて、石がパンに見えるほどの幻覚さえおこしておられたのではないでしょうか。悪魔は主イエスに話しかけてきました。
 「あなたが神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」
 この誘惑の言葉を、主イエスの生きる根拠を変えるように迫る誘惑の言葉として捕らえましょう。
 今、主イエスは荒れ野におられます。ゴロゴロとした石に囲まれて、空腹になり、それでもその中で神と向き合い、これから神の子としてお始めになる働きについて考え抜いておられます。悪魔は主イエスに、そんな生き方はもう止めて腹を満たしまずは食べる必要を満たすように、と勧めてきます。
 尤もらしい誘いです。でも、もし神の御言葉を忘れてパンだけを求める人の生き方がどのように変わっていくのかについて、私たちはこの日本の戦後の歴史と共に身に染みて知っているはずです。第二次世界大戦の末期からその後、殆どの日本人は何でも良いからとにかく腹に入れて飢えを凌ぎたいと思っていました。その当時は「栄養失調」という言葉がしばしば聞かれました。やがて、その国の中で、メタボという言葉が聞かれるようになり、多くの人が飽食の中で痩せることを求めて、栄養補給ではなく痩せるための薬やサプリメントのためにお金を出しています。
 国境なき医師団の現在広報されている栄養治療食は一食分33.3円です。それに対して、広告によれば、最高級ペットフードと言われる[A(仮名)]は小型犬一食あたり309円、[B(仮名)]は289円、[C(仮名)]は250円です。1匹の犬や猫を養うためのペットフードの値段は、貧困と飢餓に苦しむ難民が口にする補給食の価格の5倍以上することが分かります。このような状況に何かおかしい、どこかヘンだと思う人がいる一方で、更により美味しい食を求める事に心を奪われる人は多く、テレビのグルメ番組は高い視聴率を稼いでいます。
 悪魔は主イエスに、荒れ野での生活はもうお終いにして、毎日のパンを手に入れる事を大切にして生きたらどうだ、と迫るのです。
 このような悪魔の誘惑に対して、主イエスは申命記第8章3節の言葉を引用して「『人はパンだけで生きる者ではない』と書いてある」とお答えになりました。悪魔が石をパンに変えるように誘惑したことは、モーセが神との間に契約を結びその約束である十の戒めを刻んだ石の板を忘れさせ、日々の肉体的な満足の中にイエスを留めようとしたことであると言えます。
 神がお創りになったこの世界の中で、世界の9割の人が世界の食糧や資源の1割を用いる一方、世界の1割の人が世界の食糧や資源9割を占有して浪費し、あたかも神の祝福を手中にしているかのように振る舞う姿を、主イエスはどのようにお感じになっておられるか私たちは思い巡らせてみる必要があるでしょう。悪魔は私たちにパンを大きくすることに気持ちを向けさせて、私たちを物欲の虜にして、いつの間にか私たちを神の言葉から引き離し、やがては分裂、憎しみ、滅びへと私たちを引きずり込もうとしている事に、私たちは気付かねばなりません。しかも、その様に迫る悪魔は、進歩発展とか豊かさという衣を身にまとい、悪魔のゾッとするような正体を巧みに隠しているのです。私たちは、悪魔の「石をパンに変えてみたらどうだ」という誘惑が私たちの生活の中に入り込んで来るということをよくよく心得ておかなければなりません。
 悪魔は主イエスに「石をパンに変えよ」と言います。石を基盤とした生き方とは、十戒を刻んだ石版に象徴される神との約束を自分の生活の中心に据えることと言えます。悪魔は神との契約を基盤に据えた生き方から、日々のパンを求めることを基盤に据えた生き方へと生活の根底を移すように巧みに働きかけてきます。
 主イエスは、主に祈りの中で「わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください」と祈ることを教えてくださいました。私たちが毎日食べなければならない食物を求めてはならない等とは言っておられません。神の口から出る一つひとつの言葉を忘れてただ物欲を大きくしていくことは、悪魔の罠にはまる事になり、神に対しても人に対しても傲慢になり、人が生きる本当の意味を見失うことになることを主イエスはしっかりと見据えておられます。
 私たちは「神の口から出る一つひとつの言葉で生きるものである」ことの理解をもう一度新たにしたいのです。そして、私たちが仕えるべき神の御心を尋ねるために神の口から出る一つひとつの言葉を受けて思い巡らし、その言葉を私たちが物事を考え判断していく時の基盤とし枠組みとしていくための訓練を日々積み重ねていく必要があるのではないでしょうか。
 私はこの頃、もし自分が主イエスの物を見方や感じ方で生きたら、自分には何が見えて何を感じて何を考えるのだろうかと思うことがあります。そして、もし仮にそう出来たとして、自分は今の世界の状況を喜べるだろうか、それとも悲しんだり苦しんだりするのだろうかとも考えます。でも、主イエスではない私たちは、御言葉を学びつつ主イエスの教えと生き方を思い巡らせ、自分の生き方と考え方を御言葉に照らし出し、神の御前に自分を捧げて受け取っていただくほかないのです。
 神の口から出る一つひとつ言葉を吟味して生きる事が出来るようになる時、私たちは知らないうちに悪魔を拝むことからも解放され、人目を引いたり注目されることや自己顕示する欲望からも自由になることが出来るのではないでしょうか。悪魔の誘惑を心に留め、御言葉に養われ、導かれる大斎節を過ごしましょう。
 40日40夜断食して悪魔の誘惑を退けられた主イエスに導かれて、私たちも神の御言葉によって養われ、ますます清くなり、主の栄光を現す事が出来ますように。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 22:27| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年03月05日

イエスの輝き   ルカによる福音書第9章28-36    C年 大斎節前主日    2019.03.03

イエスの輝きを見出す
ルカによる福音書第9章28-36    C年 大斎節前主日    2019.03.03

 大斎節を直前に控えたこの主日の聖書日課福音書には、毎年いわゆる「主イエスの変容貌」の物語が用いられています。
 マタイ、マルコ、ルカの3つの福音書で、物語の内容に少しずつ違いはありますが、毎年読まれていますので、その粗筋については皆さん良く知っておられることと思います。
 主イエスがペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人の弟子を連れて山に登って祈っておられると、主イエスのお姿が真っ白くまばゆく輝き、主イエスはモーセとエリヤと何かをお話になっていました。この姿を見て感激したペトロたちはそこに小屋を建てて主イエスの栄光のお姿をそこに留めておきたいと思うのですが、主イエスは弟子たちにそのことを誰にも言わないようにとお話になったのです。
 この物語を理解する上で、一つの視点を与えられたいと思いますが、皆さんは「隠し絵」とか「だまし絵」と呼ばれる絵画や図をご存知でしょう。たとえば、紙の中央に左右対称の花瓶が一つ描かれているように見える絵が、見方を変えると花瓶の部分は単なる背景でになって、左右の背景に見えていた部分が向かい合った二人の横顔に見えてくるような絵や図があります。
 私は、聖書の物語はこの「隠し絵、だまし絵」に似たところがあるように思います。いや、もしかしたら聖書の描く主イエスの生き方は「隠し絵、だまし絵」そのものであるとも思うことがあるのです。
 聖書の中心的なテーマの一つは、苦難の僕の中に救い主の姿があるということであり、今日の聖書日課福音書の「主イエスの変容貌」の物語は、聖書に隠されている「隠し絵、だまし絵」の中に潜む救い主の姿をクローズアップした箇所であると言えるように思います。
 主イエスの日頃のお働きは、人々の目から見れば、決して華やかなものではありませんでした。生きる望みを失った人々を訪ね、捨てられた人々を探し出し、埃にまみれて各地を巡り歩いて神の御心を伝えておられ、「狐には穴があり鳥には巣があるが、人の子は枕するところもない」というほどにしてお過ごしになりました。主イエスの生涯は、多くの奇跡を行い、力強い説教をし、たくさんの人々に癒しと力付けをお与えになっておられ、華やかな生き方であったように見えながら、主イエスは最期にはわずかな弟子を残して人々に見放され、弟子たちもイエスを裏切り、主イエスは十字架の上に捨てられるようにして死んでいきました。多くの人は主イエスの十字架のお姿を見て、あざ笑い、罵り、「あの男は神の子と呼ばれながら結局何も出来なかった」と言いました。そのような人々の中には、「隠し絵、だまし絵」をただ一面的にしか見ることの出来なかった姿が現れています。
 その一方、主イエスの十字架の出来事を見ていた人の中の一人である百人隊長は言いました。「本当に、この人は正しい人だった(ルカ23:47)。」
 百人隊長は、イエスが十字架に付けられたという同じ一つの出来事を違う視点から見ることによって、このイエスに現されたれた「正しい人」つまり神の子の姿を見たのです。
 イエスという男が十字架にかけられ殺されたと言う一つの出来事の中に、多くの人は「貧しい者を助けようとして神の子とされた上に、見捨てられたバカな男が処刑された」と言う意味しか見て取れませんでした。それは「隠し絵、だまし絵」の誰の目にも見える一面です。でも、主イエスの、失敗であり、挫折であり、敗北に見える十字架の上に、ほんの一握りの人は「本当に神の子である」者のの姿、「本当に正しい人」の姿を見たのです。
 そのような視点をもって、今日の福音書「主イエスの変容貌」の物語を見てみましょう。
 主イエスに連れられて山に登った3人の弟子は、主イエスがモーセとエリヤと一緒に話し合っているのを目にします。ところが、32節にあるとおり、その時「ペトロと仲間は、ひどく眠かった」と記されているのです。3人の弟子たちは、ここで主イエスがモーセやエリヤと話し合っておられる話の中味を本当に理解できていたら、眠くなどなってはいなかったことでしょう。人は緊張したり感激している時に眠くなったりはしません。たとえば同じ講演を聞いている人々の中にも、ある人はその内容を深く自分のこととして身を乗り出すようにしている時に、他の人は興味を持てずに眠くなるということがあります。この場面で、主イエスが話しておられるのは「エルサレムで遂げようとしておられる最期について(9:31)」でした。主イエスはこの場面で、これからエルサレムに行ってそこで十字架にかけられて死ぬことになるという事をモーセとエリヤと話しているのです。モーセとエリヤと言えば旧約聖書の律法と預言を代表する人であり、ここで話し合われている内容は、主イエスが旧約聖書時代からの神の御心をエルサレムでの十字架の死によって完成するという事です。そのことが話し合われている時にペトロたちは眠くて仕方がありません。ペトロたちにはまだこの時には主イエスの十字架の意味を理解できていないのです。それと対比するかのように、ペトロたちは真っ白に栄光に輝くお姿の主イエスのことには感激してこの山の上に小屋を建てて何としてもそこに留めたいと考えます。自分が主イエスに期待している栄光のお姿が現れれば、それをいつまでも留めておきたいペトロの姿がここに表れていると言えるでしょうます。
 私たちは誰でも人の華やかな面、輝かしい面を見がちです。そしてその華やかさや輝きを自分の所に留めておきたいと思います。それは決して悪いことではありませんが、私たちは主イエスのどこに輝きを見るべきなのでしょうか。また、私たちは主イエスの何を誇りとすべきなのでしょうか。人々に仕え、ご自分を与え尽くして、最期には十字架にかけられて死ぬ事になる主イエスを、私たちは栄光あるお方として誇ることができるのでしょうか。
 日本の社会福祉の父と呼ばれこと児童福祉の草分けとされる糸賀一雄(1914年3月29日-1968年9月18日)という人がいます。この人は知的にハンディキャップを持った子どものために「近江学園」という施設を作り、「この子らに世の光を」というスローガンを掲げて彼らを救済する運動を始めました。しかし、糸賀氏はハンディキャップを持つ子どもたちによって変えられ、スローガンを「この子らに世の光を」から「この子らを世の光に」とするのです。この人の中に、初めは恵まれない子どもたちに対して明るい世の光を与えよう、知恵遅れの子どものために社会がもっと援助しよう、という考えがありました。でも、糸賀氏は子どもたちと関わり子どもと出会うことによって、この子どもたちこそ世の光なのだと悟るのです。むしろ社会が切り捨てているこの子どもたちこそ本当の光を示している、この子どもたちを世の光にしなくてはならないと考えるように変えられていくのです。
 今の世の中は、出来るだけ時間を掛けずに物事を処理していく力や経済的に効果を上げる力が大きければ、高い評価を受けることになります。また、社会的に高い地位についたり政治的な権力を握ることが人生の成功者であるかのように評価されます。
 そのような世界に生きる私たちに今日の福音書は問いかけてます。
 あなたはどこに主イエスの輝きを見ようとしているのですか。
 私たちは主イエスからこの問いかけを与えられることによって、私たちが生きる大切な意味を「隠し絵、だまし絵」の中に見出すことが出来るようになるのです。
 たとえば、経済的に高い収入を得ること以外に人生の成功はないと思う人には、例え粗末な食べ物あっても豊かな会話のある食卓を囲む人々の中にある幸せを見ることは出来ないでしょう。生徒のテスト成績しか眼中にない教師の心には生徒を人間的に大きく育むはずの青年期の悩みを受け取り援助していく関わりを生徒との間につくることも難しいでしょう。すると、そのような人は自分のことも他人のことも、収入の多さや偏差値の高さによって人を一面的に測り、人としての存在の重さや生きていることそのものの価値を見ることが出来なくなってしまいます。
 主なる神は、山の上で主イエスのお姿を目映く白く輝かせ、主イエスが貧しく弱い人々を愛し抜いて生きる中に現れる栄光をペトロたち3人の弟子の前に現されたのです。たとえその結果が、当時の政治的宗教的指導者に憎まれ恨まれて殺されることになろうとも、貧しく弱い人たちに神の御心が現れるようにと、人々を愛しぬき仕えぬいた主イエスにこそ神の輝きがあるのだということを、今日の福音書は教えているのです。
 大斎節を前に、私たちは一人ひとりがどのように自分の十字架を負って主イエスの御跡に従うべきかを顧みてみましょう。そして、主イエスの受難の向こうにある復活の命にあずかることが出来るよう、祈りと修養により絶えず神の御心に立ち返る大斎節に向かって参りましょう。
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