カテゴリー:牧師のコラム

2017年09月04日

教会の規範、習慣、雰囲気のことなど

教会の規範、習慣、雰囲気のことなど
司祭 ヨハネ 小野寺 達
 ある組織で、毎月の報告書の提出が義務づけられているのに、「オレ、今月も出さなかったよ、ハハハ・・・」という人がいるとします。そのような働き方やその態度が当たり前になると、その組織はどうなっていくでしょう。他のメンバーの中には、「何だ!あの報告書は出さなくても構わない程度のものなのか。僕も適当に書いて出せばいいし、提出期限も守らなくていいんだ。彼が提出しなくても上司は何も言わないようだし・・・」という人が生まれてくるかもしれません。こうしてその組織にマイナスの規範、習慣、雰囲気が生まれてきます。
また、ある事務所のトイレに「きれいに使いましょう」という貼り紙がしてあります。ところが、そのトイレの棚は埃だらけ、手洗いシンクは水垢と石鹸カスで汚れ放題。床には薄汚れた雑巾が落ちているのか置いてあるのか。こうしてこの団体に、トイレは汚れたまま放置され、マイナスの規範、習慣、雰囲気が醸し出されてきます。
こうしたマイナスの規範、習慣、雰囲気は、教会の中にも入り込んでくることを、私たちはよくよく気をつけていなければなりません。
礼拝の時に、聖書を開かなくてもいい、聖歌は周りに合わせて口を動かす程度に歌えばいい、祈祷書の祈りの言葉はボソボソと唱える程度でいい、献金は自分が痛まない程度にすればいい等々、誰に教わったわけでもないのに、いつの間にか沈滞ムードに支配されてしまう教会もあるのです。
各自がチョット振り返ってみれば、たとえ小さなことからでもプラスの規範、習慣、雰囲気を作っていく糸口はあるのではないでしょうか。
教会に(他の組織でも)プラスの規範、習慣、雰囲気を作っていくためには、それなりの努力と工夫が必要です。怠けていたり自分の殻の中に閉じ籠もっていたい人から足を引っ張られたり陰で悪口を言われることだってあるかもしれません。
でも、教会には「み国が来ますように。み心が天に行われるとおり、地にも行われますように。」ということにおける信仰による一致とヴィジョンがあります。
このヴィジョンを実現するために、私は何ができるだろう、何をすることを神から求められているのだろう、と祈り求め、始めの小さな一歩を歩み出すことで、教会の中にプラスの規範、習慣、雰囲気が少しずつ出来始めるのだと思います。時には各自のヴィジョンの違いを語り合い、理解し合い、受け止め合っていかねばならないでしょう。そのような時にも、意見の違う相手を頭ごなしに否定したり拒否するのではなく(それはマイナスの規範を作り出します)、粘り強くその作業を貫くことが必要になりますが、そうした対話の作業そのものが、教会の良い規範、習慣、雰囲気を作るための大切なプロセスになるのです。
私たちの教会のプラス面、マイナス面をそれぞれに考えてみてください。そして、そこに「私はどのように関わっているのか、関わるべきなのか」を思い巡らせてみてください。
 『草苑』水戸聖ステパノ教会月報 2017年9月号 No.552 
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2017年08月14日

リードオルガンのことなど  2017.08.06

リードオルガンのことなど
司祭 ヨハネ 小野寺 達
 現在、水戸聖ステパノ教会の聖堂にもう一台のリードオルガンが置かれています。このオルガンは一時預かりのもので、来年の3月には他の場所に引き取られる見通しです。
このオルガンは、アメリカのMason&Hamlin Company(メイソン&ハムリン社)製で、110年前に誕生した歴史あるものです。オルガンの一つ一つに記されている製造番号から製作年が確定または推定できるのです。
 なぜ、このオルガンがこの教会にあるのかについては他の機会にゆずり、ここではそのオルガン製作会社のことなどを記し、多くの方にリードオルガンへの関心をもって頂きたいと思います。
 鍵盤楽器の設計と製造の会社であるメイソン&ハムリン社は、1854年にマサチューセッツ州ボストンに設立されました。
 設立者のひとりヘンリー・メイソンは、ピアニストでもありました。彼の父親は清教徒の流れにある有名な作曲家また教育者のローウェル・メイソンです。この人は、アメリカの公立学校に音楽を初めて採り入れた人であり、また「アメリカの教会音楽の父」と呼ばれており、聖歌の作曲および出版に携わった人として世界中で知られています。日本聖公会の現行『聖歌集』にも以下の作品が含まれています(49よろこびの日よ、光の日よ(編曲),69諸人こぞりて(和声),395,493愛の業は楽しきかな(編曲),450救い主よわが罪をば(作曲),519主よみもとに近づかん(作曲))。『古今聖歌集』にはそれらの他にも多くの人に馴染みの聖歌も2,3掲載されていました。
 一方、エモンズ・ハムリンは、メカニックの技術と発明に卓越した力を発揮し、クラリネットやバイオリンなどの楽器に似た音をオルガンで出す方法を発明しました。彼は更にこの技術を発展させ、ヘンリー・メイソンと共に「オルガン・ハーモニウム」と呼ばれる新しい楽器を製作する目的で会社を設立したのです。それが先に記したとおり、1854年のことでした。
 ハーモニウムとリードオルガンを構造上の違いから厳密に区別して言う場合もあるようですが、多くの場合は同じものを意味して用いられているようです。
 同社は1867年のパリ万博展で、ハーモニウムで第1位を獲得して教会音楽の伝統あるヨーロッパ諸国の楽器制作者を驚かせ、その後も世界の音楽界を牽引する働きをしてきました。1881年同社はピアノ製作に踏み切り、以降ピアノの制作においても随所に新しい工夫を見せ、多くの革新をもたらしてきました。一方、ハーモニウム(リードオルガン)の製作は1927年に終了しています。
 日本におけるリードオルガンの現状について少し触れておきましょう。
 リードオルガンは、日本のキリスト教会と学校教育の中で、ピアノがまだ普及しない時期(明治期から昭和20年代)に、沢山輸入され、日本でも製作され、聖堂や教室に置かれて用いられてきました。このオルガンは、パイプオルガンに比べて運搬、設置、調律,維持が容易であり、大量に生産して用いられました。しかし、やがて、ことに第2次世界大戦後、次第にピアノが普及するにつれて、リードオルガンはその流れの中で大量に廃棄されてしまいます。専門家の中には「リードオルガンは楽器としての固有の位置を確保できなかった」と評価する人もいるようです。リードオルガンが廃棄される時期は、日本の戦後の経済復興とともにピアノが普及する時期と重なり、またその時期は、長く使われてきたリードオルガンの部品に傷みが出てその交換や修理が必要となる時期と重なっていたようにも思われます。この時代、「リードオルガンよりもピアノへ」、「リードオルガンよりもパイプオルガンへ」という流れの中で、大量生産される以前に作られていた名器もその多くが廃棄されてしまいました。こうした現状は今も続いていると言えるのではないでしょうか。
 しかし、リードオルガンは決してピアノやパイプオルガンの代用品ではありませんが、ことに日本では、リードオルガンよりパイプオルガンの方が高級であり聖堂に相応しいという印象を持つ人も多く、また近年はキーボードなどの電子楽器の普及もあり、多くのリードオルガンが、例えばふいごが破れたりペダルとふいごをつなぐベルトが切れたりというような故障を起こしたまま、どこか片隅に追いやられている場合も少なくないのではないでしょうか。
 こうした事態を憂慮し、またこの楽器をしっかりと後世に残し使っていこうとする人々の集まりも出来ていますし、有志によって演奏方法や楽器メインテナンスについての講習会も行われています。
 教会音楽も時代と共に移り変わり、現代では、ピアノ、ドラム、弦楽器、その他電子楽器なども採り入れる教会もあるようです。
 しかし、ピアノは鍵盤を押し続けても音が弱くなっていきますので、会衆の聖歌やチャントをリードするには不向きです。パイプオルガンは日本のような寒暖差と湿度差の大きな気候では音質の維持がきわめて難しくそれをするには費用がかかります。また、音量の調節が基本的に難しいため、小さな聖堂ではパイプオルガンの音量が会衆の歌声を消してしまうことにもなりかねません。
リードオルガンは、チャントや聖歌を歌いながら聖餐式を行う聖公会の礼拝をしていく上で、ことに礼拝の会衆が数十名程度の教会では、大切な役割を担ってきましたし、これからもその役割は変わらないでしょう。
 もし、かつて製作された最高級のリードオルガンを今あらたにつくるとすれば、最高級のパイプオルガンと同じ程度の費用がかかるとも言われます。
多くの人にリードオルガンへの関心をもって頂き、使用と維持について関心をもっていただけると嬉しいです。
                          『草苑』(水戸聖ステパノ教会月報)2017.08月号
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 09:23| Comment(0) | 牧師のコラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月04日

礼拝すること

礼拝すること

 『メディアにむしばまれる子どもたち』(田澤雄作著、教文館)という本を読んでいて、以下の言葉に出会いました。引用書のタイトルからも推察されると思いますが、この本は礼拝や聖歌についての本ではないことをはじめにお断わりしておきます。
「一緒に歌うことは、人間の心に素敵な影響を与えます。誰かと一緒に歌うとき、身体の芯、心が震える体験をします。みんなで一緒に歌うことは、複数の命の核が共振する現象であり、私よりももっと古い私が、身体ごと共鳴する現象です。「人は歌う、口から悪魔的な力を、最後の勇気を、絞り出すために」。家族やお友だちと一緒に、声を合わせて歌うということは、とても素晴らしいことだと思います。歌えば、言葉が自然に獲得されていきます。一緒に歌うということは、自他を越えて、共に感じる営みではないでしょうか。」(前掲書p.177より)
 この引用文を読んでくださる方の中にも、その内容に共感と共に賛同なさる方がたくさんいらっしゃるのではないでしょうか。
ことに、礼拝の中で歌われる聖歌を通して、その歌詞と曲が自分の心と一つとなって、しかも同じ信仰を持つ仲間の表現と一つとなって、それが神に捧げられる経験になるとき、自分はキリスト教徒であり教会人であることの恵みを感じます。
「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。(マタイ18:20)」のみ言葉が思い出されます。
この経験は、自分一人で得ることは出来ませんし、創り出すことも出来ません。
仮に、幾人かが集まって馴染みの歌をうたったとしても直ぐに「複数の命の核が共振する」わけではないし、その経験を創り出そうと力んでもなかなかそうできないこともあります。また、自分一人がそうできたと悦に入っているのに、他の人は少ししらけたような経験をする場合だってあるでしょう。
でも、礼拝に集まる人々の心には、一緒に聖歌を歌い祈ることを求める思いがあるのではないでしょうか。独りで祈るだけでなく、教会の聖堂で共に祈り、聖歌を歌うことには、先に引用したような思いを満たす働きがあります。共に礼拝することは、信仰者が「複数の命の核」を「共振」させたいからであり、聖霊の力によって「身体の芯、心が震える体験」を求めるという一面があるように思います。
ここから「礼拝を大切にする」ということの意味を思い巡らせることが出来ます。
ちょうど、運動選手が試合に臨む前に、準備運動をし、本番のパフォーマンスをイメージアップし、最高のプレーが出来るように備えるのと同じように、また音楽の演奏家や声楽家がコンサートを前にして相応しく適切な準備をするのと同じように、礼拝に臨む私たちも、それに相応しい準備をし、それぞれに共に心を一つにして歌い祈ることで主の霊に触れ、互いの命の核を共振させ、その場を神にお献げするように努めていきたと思うのです。
昔から、礼拝の心得として、毎主日の礼拝に出席すべし、遅刻すべからず、聖堂内での私語を慎むべし、聖堂を神の家と心得よ、朗読される聖書箇所や歌われる聖歌の箇所を予習しておくべし等々のことが言われてきています。これらのことは、ただ形式的、教条的な義務のことではありません。礼拝を共に創り上げてそこで起こる信仰体験を共有しようとするなら、それに相応しい準備をすることが当然であり、必要なのです。
そのような意味で、礼拝は教会に集う者がみんなで創り上げていくものであり、礼拝をとおして与えられる豊かさは何ものにも代え難いものであり、そのようにして神との交わりを得ようとすれば、それなりの準備をして礼拝に臨むことはごくたり前のことであり、そこに思いを向ける集中力も求められます。
私たち一人ひとりは、なぜ教会に来るのでしょう。礼拝で何を得ようとしているのでしょう。
「豊かな礼拝」をすることは、現代の教会の大きな課題の一つです。その豊かさは、奇抜なことをしたり目先を変えたことをすることによってではなく、共に礼拝する中で、「身体の芯、心が震える体験が得られ、複数の命の核が共振し、私が身体ごと共鳴する現象」を信仰によって与えられる豊かさである、と思うのです。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 16:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 牧師のコラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする