カテゴリー:牧師のコラム

2017年12月17日

イエスさまはカウンセラー

 ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。
 ひとりの男の子がわたしたちのために与えられた。
 権威が彼の肩にある。
 その名は、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と唱えられる。
           (イザヤ9・5)
 
 もう、20年以上も前のことになるでしょうか。私が自分でも牧師になるなどとは夢にも思わず、カウンセリングの勉強をしていた頃のことです。英語訳の聖書の中に「カウンセラー」という言葉があることを知ったとき、私が感じた驚きと喜びを今でもよく覚えています。その言葉は、冒頭のイザヤ書の聖句の中で「指導者」と訳されています。
 やがて、ヘンデルの『メサイア』の中でこの箇所が歌われるのを初めて聴いた時、私は鳥肌が立ちました。その時以来、私は『メサイア』を聴くたびに、この箇所にくるといつも涙が出たり鳥肌が立つのを禁じ得ません。
 『メサイア』の一二番の合唱では、
「私たちのためにみどりごが生まれた。私たちのためにひとりの男の子が与えられた。私たちのために (For unto us)……」と繰り返しながら高揚してきた旋律は、一段と高らかに私たちのために生まれた「驚くべき指導者 (Wnderful Counsellor)」を歌い上げているのです。
 カウンセラーは、近年人気の職種だそうです。でも、もしその動機が単なる憧れだったり自分の寂しさを裏返しにして他人に関わろうとする程度のことなら、私はカウンセラー志望者に「やめた方がいいですよ」と言うでしょう。カウンセラーは、他人の痛みを自分に引き受ける仕事です。時には、相手の心理的な苦悩がこちらに乗り移るほどの経験をします。相手の話を聞いていてこちらの胃が痛んだり胸が痛むなど日常茶飯事で、相手の症状までこちらに現れることもまれではありません。そんな弱い人はカウンセラーにならない方が良いとも言える一方、相手のことを実感をもって受けとめられないほど鈍感な人はカウンセラーなどできないとも言えます。
 しかし、私たちは自分の痛みを知る程度にしか、他人の痛みを知ることも共感することもできないという限界があるのです。本当の癒やしを求める人を前にして、わたしたちは自分の力を頼みにしようとすればするほど、本当は何もできないのではないでしょうか。
 それでも「私は他人に共感できます。相手と共にいられます。私こそカウンセラーに相応しい。」と言う人がいれば、そういう人は大体相手が迷惑がっていることに気付いていないのです。所詮、私たちは自分の力で他人を助けることの出来る存在ではないのです。
 しかし、無力な私たちでも、相手との関係の中に生きて共に働いてくださるお方によって、自分も赦され受け入れられていることを知るとき、自分も相手もお互いにこのお方からのメッセージを受けながら共に生きることができるのです。メサイア(救い主)であるイエスさまは、私たちにとってこのような「驚くべき指導者(Wonderful Counsellor)」なのです。
 私たちは自分が痛む程度にしか他の人を理解できないけれど、このお方は違います。イエスさまは、馬小屋で最も貧しい姿をとってこの世に来てくださいました。そして枕するところもない生涯をおくり、罪無きにもかかわらず、ただ一人十字架の上に捨てられて、人の罪の行く末の極みを味わい尽くされたのです。このお方なら、私たちがこの世界で味わう苦しみや悲しみを共感してくださるばかりではなく、私たちだけでは共に行くことのできない遙か彼方の世界にまで、いつも共にいてくださるのです。
 このお方がお生まれになるとき、身に覚えのないマリアの懐妊に悩むヨセフに、天使が告げました。
 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。
 その名はインマヌエルと呼ばれる。」
 この名は、「神は我々と共におられる」という意味である、と聖書は伝えています。
神さまは、神ご自身が私たちと共にいてくださることを、ひとりのみどりごを通して示してくださいました。このようなカウンセラーである主イエスさまがどこまでも共にいてくださるのことによって、私たちは自分の負うべき重荷をもう一度背負いなおして、自分の足で歩くことができるのです。
                     【立教小学校P通1996・12・20 No.2150】
                       
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 07:14| Comment(0) | 牧師のコラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月06日

I am OK,You are OK.  2017年12月

 I am OK,You are OK.
司祭 ヨハネ 小野寺 達  

 標題の言葉は、今から50年ほど前に発行され日本でも翻訳出版された本のタイトルでもあります。
精神分析の流れをくむ心理療法家が、標題の言葉を用いて対人関係を理解する上での分かりやすい枠組みを提示しました。(その本がまだ出回っているかどうか分かりませんが、訳が酷いので購入はお薦めしません。)
その基本的な考えは、「私はOK」、「あなたはOK」、「私はnot OK」、「あなたは not OK」という自分と相手の計4つの枠組みで対人関係の質、状態を考えようとするものです。
 その4つの枠組みについて簡単に見てみましょう。
 「I am OK, you are OK.」は、自分と他者を認め、受け入れ、肯定して共に生きていこうとする歩みにつながります。
 「I am OK, you are not OK.」は、他罰的で、相手を批判したり非難したりしながら自分を保つ態度になり、時に高圧的になり相手のあら探しをすることで自分を保つことにもつながります。ある民族が他民族を侮辱するようなことにもこうした構造がありますが、いつも他者と比較して優位に立っていたい人にもこのような心の構えがあるものです。
 「I am not OK, you are OK.」とは、自分をダメな者であるというところに身を置いて、自分から「どうせ自分は・・・」とか「私はいつも否定される」というシナリオの中で、「私は不幸です」と訴えながら生きることなどはその一例です。
 「I am not OK, you are not OK.」は、「どうせ二人は花の咲かない枯れススキ」というように、互いの傷口をなめ合いながら停滞する生き方であり、「落ちこぼれの集まり」などはその事例であり、それは謙遜とは違います。
 そして、こうした生き方のスタンスは、その人がこれまでの生き方のどこかでそうなるように選び取って身に付けてきたのであり、その過去を整理し、新しく決断し直すことで、自他共に自分の人生の主人公になって再出発できるということがこの心理療法グループの基本的な主張です。
自分がより本当の自分になって「I am OK, you are OK.」と、自分と相手の自己実現のために生きることができれば、人間として素敵なことだと思います。
 さて、このような視点から教会に集う私たちを振り返ってみると、どのように自分をとらえ直すことができるでしょうか。
 教会は、イエス・キリストによって、それぞれに贖われ、I am OK.を生き、You are OK.を生きています。全ての人がイエス・キリストによって、神からYou are OK! と宣言されているのです。言い方を変えれば、神は「あなたを愛しています。あなたは生きるに値します。」と言われ、その下支えの上で私たちは生きているのです。
 そうであれば、私たちは、自分のことも他人のことも、「not OK」 という態度や言動を慎み、神の望む姿が表れ出るように自分は今ここで何をすべきかを考えねばなりません。
 もし、他の人の中に、至らなさや不十分さを見たら、その人に神の御心が現れ出るには自分にはどんな支援ができるか、またどのように関わることができるのかを考え、そこに伴う痛みを共に負うことが望まれるのです。
 私たちがこのような視点から自分を振り返ってみると、「自分を愛するように隣人を愛すること(ルカ10:27)」についての理解も深まることでしょう。イエスの教えと生き方が自分にとっても身近なことであることも分かります。
 いつも他人の悪口を言いたくなる自分、賛成できないことがあると相手に攻撃的になってしまう自分、自分と違う意見の人を批判したくなってしまう自分、相手の成功を妬んでしまう自分、誰の心にもそのような一面があります。そのような自分を感じる時、仮にその相手が赤ちゃんであっても、「神は私も相手も愛しておられ、ここに御国の姿が現れ出ることを願っていてくださる」と自分に言い聞かせてください。ともに OK であることを自覚し、神の国の小さな実現につとめて参りましょう。
        『草苑』水戸聖ステパノ教会月報 2017年12月号
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 06:40| Comment(0) | 牧師のコラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月07日

すべての人の魂の日(諸魂日)に思う  2017年11月5日

すべての人の魂の日(諸魂日)に思う

 先日、ラジオで次のような投稿が紹介されていました。
 6歳になる娘が、唐突に「ねえ、お母さん、人間はみんな死ぬの?私も死ぬの?わたし、死ぬのこわいな。」と言いだして、私はうろたえました。やっとの思いで「そうね、私も死ぬのはこわいわ。」と言って娘を抱きしめるほか何もできませんでした。
 この放送を聞きながら、私が子どもから同じように尋ねられたらどう答えられるだろうかと思いました。この問いには、正しい答などありません。その時の子どもの思いや背景、また語られている状況によって答は違ってくでしょう。
 ただ、私がそのお母さんの立場だったら、「私も死ぬのはこわいわ」とは言わなかっただろうと思います。
死の先のことは誰にも分りません。分らないことは時に人を不安にさせるけれど、分らないことは必ずしもその全てが怖いことや悪いことではありません。分らないことは、分らないままそこにとどまるしかなく、もし分るようにして解決できることなら、その努力をしていくことが必要です。
 それでも分らないことがあるのなら、それについてあれこれ色づけをせずに委ねるほかないと思います。私は、人には分らない死の先のことについて、イエスが「父よ」と呼んだ神に委ねたいと思っていますし、もし我が子が死について尋ねてきたら、上記のように答えたいと思います。
 幼子も自我が芽生えてくると、自分の心の中にも理解の及ばない深い領域があることを感じ始めます。その領域は、時に、影のような、魔物のような存在となって、子どもの自我を脅かしてくることもあります。「死」について意識することも、その領域に関することなのではないでしょうか。
 かつて、ある方が「委ねることのできないのは傲慢なことだ」と、例えで話してくださいました。
 その人によれば、飛行機を操縦できない人が飛行機に乗れば目的地まで自分をパイロットに委ねるほかなく、自分の知識や技術ではとても操縦できない飛行機で目的地に運ぶ人を信頼せずにそのパイロットや乗組員を批判することは傲慢なことだと言うのです。
 もっともな例えだと思います。この例えから、私たちは「委ねる」ということの一面を学ぶことができます。
 こうした例えから思い巡らせてみると、もし自分に委ねる相手がいなかったら、私は死を前にしたとき、精神的な苦しさや不安に自分が押し潰されるのではないかと想像します。
 私は生まれた年の降誕日に、自分の知らないうちに、洗礼を授けられた者であり、思春期には「オレのことなのに、断りもなく勝手に洗礼など授けて・・・」と反発したこともありました。でも、今では、自分が意識する以前に神の恵みに委ねられたことや、自覚的にもイエスを救い主と信じる信仰に導かれたことを感謝しています。
 教会暦では、古くから11月1日を諸聖徒日(主にあって逝去したすべての聖人を記念する日)、11月2日を諸魂日(逝去した全ての人の魂のために祈る日)としてきました。
 それぞれの人が、自分の思いによらず、神の定めによって、それぞれにこの世に生を受けまた召されていきます。私もその中の一人ですが、委ねるお方がありそのお方が私の全てを知っていてくださいます。この信仰によって、私の死に対する恐れは限りなく軽減されています。
 世を去った人々の魂が主の御許で安らかでありますように。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 04:28| Comment(0) | 牧師のコラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする