カテゴリー:牧師のコラム

2018年04月24日

良い羊飼いの導き

良い羊飼いの導き      
ヨハネによる福音書第10章11−16
 
 羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。(ヨハネ10:12)

 復活節第4主日は「良い羊飼い」の主日とされ、聖書日課福音書は毎年ヨハネによる福音書第10章の中から、その一部が配当されいる。
 この日のための説教準備は、上記の聖書の言葉から、自分でも思わぬ方向へ進んでしまった。そのきっかけとなったのが冒頭の聖句の中の「置き去りにして逃げる」という言葉だった。
 弟子のペトロにとって、冒頭の主イエスの言葉は、生涯胸に突き刺さるものであったに違いない。
 イエスが十字架につけられる前の晩に捕縛されて大祭司の館で取り調べられているときに、ペトロはこっそりとその館に入り込んでいた。館の人々に紛れ込んでたき火に当たっていたペトロは、「お前もあの男の弟子の一人だろう」と問い詰められ、思わず「あの男のことなど知らない」と言ってしまった。しかもそれは3度であった。
 ペトロは復活した主イエスから「わたしの小羊を飼いなさい」、「わたしの羊の世話をしなさい」、「わたしの羊を飼いなさい」と言われているが、このように3度言われていることは、ペトロがイエスを「知らない」と3度否んだことに対応していると考えられている。
 やがて、ペトロが牧者となり、多くの人々に主イエスのことを伝えながら多くの人々の牧会者として生きていくとき、「このような自分が主イエスの羊を飼う牧者であって良いのか」と幾度も自問せざるを得なかったはずである。冒頭の「置き去りにして逃げ去る」という言葉は、かつての弱く臆病であった自分を思い出させる辛い言葉となっていたはずであり、ペトロにとってそうであらねばならない。
 イエスが十字架にかけられる前の晩、ペトロはイエスの受難予告を否定して「あなたのためなら命を捨てます(ヨハネ13:37)」とまで言ってみせたが、結果は上述のとおり、イエスを3度否定する言葉を吐いてしまった。
 他の福音書によれば、イエスが捕縛されるとき、ペトロをはじめとする弟子たちはみなイエスを置き去りにして逃げ去ってしまい、そのこと一つとってもイエスの十字架を巡る出来事は弟子たちの弱さ、醜さ、卑劣さをえぐり出すのに十分であろう。。
 もし、ペトロはイエスから赦しを得られなければ、またイエスから「わたしの羊を飼いなさい」と言っていただけなければ、ペトロは主イエスのための牧者でなくて雇い人に過ぎず、かつて狼が来るのを見て逃げ去り自分の飼い主を否定した自分を抱え自分を責めながら生きていかねばならなかっただろう。そのようなペトロは、自分で自分を「わたしはイエスの羊を預かる牧者である」などとは、とても言うことができなかっただろう。
 しかし、羊飼いイエスは、そのペトロをさえ赦し、愛し、主イエスの羊を飼うことをペトロに託された。
 ペトロは、かつては自分が羊飼いではなくだだの雇い人であり、狼の前にしっぽを巻いて逃げていく臆病な者であったことを自覚している。でも、ペトロがそのことを自覚しているからこそ、主イエスはペトロを牧者として召し出したのである。ペトロは、どのように主イエスの愛が自分に働き、自分を再度立たせてくださったのかを知っており、そのことを知る者であるからこそ、主イエスはペトロに自分の羊を飼うことを託されたのである。
 ペトロは、自分の力を頼みとして主イエスの羊を飼うのではない。ペトロは、主イエスに3度問われたことに答えているように、自分の力で主イエスの愛を実践できるのではなく、本来であれば失格者であり牧者として相応しくない者のことさえ主イエスは赦して愛し抜いてくださり、ペトロはその恵みを知る者であるからこそ、そして自分に与えられたイエスの愛は自分にだけではなく囲いの外にいるすべての羊にも及ぶことを知るものであるからこそ、主イエスはペトロにその使命を与えておられるのである。
 「牧師」などと呼ばれていると自分があたかも「牧者」であるように思えてくるが、牧師とは自分もかつては迷い出ていた羊に過ぎず、イエスに赦された者であることに思いを向けずに勤めてはならないのではなかろうか。
2018.04.23
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 10:21| Comment(0) | 牧師のコラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月05日

トマスを思い巡らせる     

トマスを思い巡らせる

 3年周期の聖餐式聖書日課で主日の聖餐式を行ってると、かつて同じ聖書日課で原稿をつくった説教の視点から抜け出せず、3年前と同じような説教になってしまうことが増えてきた。
 ことに、復活節第2主日は毎年同じ聖書日課福音書が採用されており、せいぜいその前半部をテーマにすることと後半部をテーマにすることを毎年繰り返すことになってしまう自分を感じてきた。今年は何とかそこから脱したいと思い、トマスに関する絵画にどのようなモノがあるのかを調べてみた。私が目にしたほとんどの絵画作品は、トマスがイエスのわき腹に二本の指を入れてその傷口に触れているのだか、私は随分昔から「トマスはイエスの傷跡に触れなかった」と信じており、どの作品にも共感できなかった。
 その中で、ただ一つ、エルンスト・バルラハという人の彫像の作品に感銘を受けた。
 バルラハは、1870年生まれのドイツの彫刻家、画家であり、また劇作家でもあったとのことである。この人の「再会」と題する彫刻では、トマスはややイエスを見上げるようにしてイエスの肩にすがってやや前屈みに立ち、イエスはそのトマスの脇を支えるようにして真っ直ぐに立っている。
 イエスがラザロを甦らせるために、またユダヤの地に向かおうとしている時、そのただならぬ雰囲気を感じたトマスはこう言った。
 「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか(ヨハネ11:16)」。
 しかし、イエスが逮捕される時、弟子たちは一人残らず、イエスを置いて逃げてしまった。トマスもその中の一人だった。
 復活したイエスが、部屋に鍵をかけて閉じこもる弟子たちの中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と告げた時、トマスはそこにいなかった。トマスは、他の弟子たちが「わたしたちは主を見た」と言っても、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。(ヨハネ」20:25)」と言った。
 それから8日の後、イエスはまた弟子たちに姿を現された。あの時と同じように、イエスは弟子たちの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように(20:26)」と言われたのである。トマスはイエスと「再会」した。
 イエスはトマスに「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしの脇腹に入れなさい。(10:27)」と言い、トマスは答えて「わたしの主、わたしの神よ」と言った(20:28)。聖書はそれ以上のことは記していないが、トマスはこの時号泣していただろう。イエスを裏切った弱く醜い者に対しても、十字架で死んだイエスが「神はお前を愛して止まない」と言ってその傷口を示すとき、傷口は罪人を責め立ててその罪を暴く証としてではなく、無限の愛の徴となって人を生かす証になるのである。
 「再会」の像のトマスはイエスを見上げているが、そのトマスはイエスの支え無しには今にもくずおれんばかりであり、この時のトマスにとって、イエスの傷跡を見てそこに手を入れて確かめることはもはや問題にすべきことではなく、イエスの十字架によって自分が贖われ、赦され、愛されて生かされていることを知って、そのイエスに「わたしの主、わたしの神よ。」と、恐らくは号泣しつつ、信仰を告白していることが大切な事なのではないだろうか。
 かつてイスラエルの民は、モーセが独りシナイ山頂で神と語り合っている間に不安になり、目に見える徴を欲しがり、金の子牛を造ってそれを神として扱う過ちを犯した。
 私たちも、もしイエスの十字架と復活を信じるのではなく、復活の主を見て確かめようとするのなら、かつてのイスラエルの民と同じ過ちを犯すことになることを肝に銘じておく必要があるだろう。
 ちなみに『聖書−新共同訳−』では、トマスの信仰告白の箇所は「わたしの主、わたしの神よ。」と訳されているが、ここは呼格(よびかけ)ではなく、主格(主語になる形)であり、「わたしの主、わたしの神。」と呼びかけの「よ」を省略して訳してはどうだろうか。少なくとも私にはその方がピッタリする。
                                    2018.04.05
再会 イエスとトマス バルラハ.jpg
バルラハ『再会』
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 18:06| Comment(0) | 牧師のコラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月01日

「死と再生」・祝ご復活    2018.4.1

「死と再生」・祝ご復活
                  司祭 ヨハネ 小野寺 達

 私たちは、時の流れの中に生かされています。車窓から眺める景色がどんどん後ろに流れていくように、生きている今の一瞬が直ぐに過去のものになっていく連続の中に私たちは生きており、生かされていると言えるでしょう。
 そうであれば、私たちは時の流れの中で、絶えず今の自分は過去のものとなり、新しい自分として新たに生まれながら生きているということになります。そのように、私たちは一瞬一瞬の「死と再生」を生きる中、もう少しハッキリとした「死と再生」を経験する時があります。
 例えば、幼稚園生である自分は死んで小学生の自分に生まれ変わり、学生であった自分は死んで社会人としての自分に生まれ変わり、独身者としての自分が死んで妻帯者として生まれ変わり、これまで自信を持ってきた自分が打ちのめされ、失敗を経験した新しい人として再び生き直すというように、それまでの古い自分が過去のものとなり新しいステージ(段階)の自分に生きるという一生をおくります。
誰でも自分の人生を振り返ってみると、この「死と再生」というテーマをしっかり生きることは大切なことであり、結構大変なことだと思えてくるのではないでしょうか。
 それにもかかわらず、私たちは時々こうした「死と再生」のテーマをうまく生きられない時があります。
一つの例を挙げましょう。
 ある高校生3年生が、進学するでもなく就職するでもないままに卒業式を迎えました。彼は、年齢の上では既に立派な成人ですが、気持ちの上では、少年期でやり残したことや出来なかったこと、乗り越えてこなかったことが未整理のままになっており、「一個の少年に死んで一人前の青年に生まれ変わる」ことができなかったという一面があるのでしょう。
 厳しい言い方をすれば、彼に必要なのは「甘ったれの自分に死んで、自分の生き方に責任を持って生きる人」に生まれ変わることであり、そのための助けが必要ならば、自分から然るべき人にその助けを願い求める人に生まれ変わることではないでしょうか。
 私たちは、時々、自分の思い通りではない状況の中で生きていかなければなりません。その時に大切なことは、自分の思い通りではないその状況を嘆いたりそこから逃げ出したりするのではなく、自分には好ましくない状況の中でも、置かれたその状況の中で、自分を通して神さまの御心が現れ出るよう生き抜いていく態度であり、そのように生き抜く先に新しい本当の自分として生きることが始まり、そこに深い「死と再生」があるのです。これは、口で言うほど簡単なことではありませんが、主イエスは十字架の死を通してその真実を示してくださいました。
 イエス・キリストは、徹底して自分を通して神の御心が現れ出るように生き抜いた末に、その生き方が神を侮辱すると考える人々によって十字架の上に磔にされて殺されてしまいました。イエスを通して示された神の働きはこれで終わってしまったのではなく、3日後に復活し、死を乗りこえて更に新しく働いていくのです。その力は、私たちが様々な「死と再生」を生き抜いていくための力であり、支えでもあります。仮に、失敗しても挫折しても、神と自分に偽りなく生きていこうとするのであれば、神は復活の力によってその人を支えぬいてくださり、再び立ち上がらせてくださるでしょう。神は私たちの中に復活の力となって宿ってくださいます。
 やがて、私たちは、この世の人としては死ぬ時がきますが、その時に私たちは主イエスに伴われて甦り、永遠の命へと生かされるのです。
 神が私たちを愛して止まない力は、主イエスを復活させて絶対的な神の愛を示してくださいました。
 主イエス・キリストのご復活を感謝しお喜び申し上げます。
                           『草苑』水戸聖ステパノ教会月報 2018年4月号
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 17:33| Comment(0) | 牧師のコラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする