カテゴリー:牧師のコラム

2018年08月06日

日々の食事のように 2018.08.05

日々の食事のように
司祭 ヨハネ 小野寺 達

 あなたは、5年前の今日と同じ日に何を食べたか覚えていますか。多くの人は覚えていないでしょう。それが普通です。中にはその問いに対して「そんなこと誰が覚えているものですか。毎日の平凡な食事の内容の一つひとつを全て覚えていることなんてあり得ないし、その必要もありません。」と反発したくなる人だっていることでしょう。その通りです。
 でも、5年前の同じ日の食事の内容を覚えていないからと言って、その日の食事が必要なかったということではないし、意味がなかったわけでもありません。
 毎日の食事の内容まで覚える必要などありませんが、日々、できるだけ質の良い食事をすることの大切さについては、異論をはさむ人はいないでしょう。そして、5年前の同じ日の食事もきっとそのようなものであったことでしょう。
 また、色々な事情で、時には、コンビニ弁当で済ませなければならかたったり、いつもと同じ時間に食事ができない日もあるかもしれません。それでも、毎日できるだけ多種類の質の良い食材を用いた食事を適量、できることなら独りでではなく家族や親しい人と一緒にすることは大切な事であり、必要な事であることは、誰もが認めることでしょう。
 こうした食事のことと同じことが、私たちの信仰の養成についても言えるのです。
 あなたは、3年前の今日と同じ日に、どんな祈りを献げたか覚えていますか。覚えていないでしょう。主日礼拝で聴いた説教をみな覚えていますか。その必要はないし、その日に開いた聖書の箇所と内容も忘れてしまっているかもしれません。そして、またその箇所を開いたときに「聖書の中にこんなお話しがあったのか。この箇所は初めて読んだ気がする。」ということだってあるかもしれません。だからといって、3年前に祈ったことや聖書を読んだこと、また説教を聴いたことが無駄だったというわけではありません。
 日々、祈り、聖書を読むことを習慣づけ、主日礼拝の出席を心がける中で、少しずつ養われる大切なものがあります。
 時々、「特に幼少期から青年期までの人に対する宗教教育や信仰教育は必要ない。」という意見や「信仰告白することや洗礼を受けるかどうかということについては、本人が大きくなってから本人の意志と決断に任せれば良い。」という意見を聞きますが、私はその意見には賛成できません。仮に最終的な信仰の告白は一人ひとりに委ねられるとしても、委ねられた本人が選び取って決断するための判断材料を与えるためにも、幼少期からの宗教教育は必要であり、無関心でいてはならないことなのではないでしょうか。
 親は子供に良質の食事を与えて子供を健康に育てる責任がありますが、それはただ体のことに限りません。ことに精神的、宗教的な知識や感性についても、日々の食事の大切さと同様のことが言えます。
 仮に、最終的にイエス・キリストを自分の救い主として信仰告白するかどうかは本人の意志と決断に委ねるとしても、その前提となる育成を怠って良いということはなく、その育成のためには、日々の食事と同じように、幼い頃から信仰の養いとなる教育、祈り、交わりなどが必要となるのです。
しかし、今の日本の学校教育ではその点についての教育は行われておらず、その一方で、その隙間をぬって、極めて偏向的で一面的な国家主義的な精神教育が入り込もうとしていることに注意を払わねばならないでしょう。
 「信仰の告白と洗礼についての決断は本人の意思に任せる」という人は、自分の子どもにその決断を任せるに足る十分な教育を施しているでしょうか。体の成長に必要な食事のように、霊的成長に必要な糧を日々与えているでしょうか。その成長がないまま、間違った精神教育についての批判力や抵抗力も無いままに偏向的な体制に絡め取られていく危険がつきまとっているにもかかわらず、家庭での宗教教育に手をこまねいていることは、子どもたちを自由に育てていることとは違うのです。
 毎日の平凡に見える食事が子どもたちの身体を育むのと同じように、私たちは子どもの霊的成長のために、日々の生活の中で子どもたちのために何を与えるべきでしょうか。
 私は、夏休み中にスマホやパソコンに向かって独りで電子ゲームばかりしている幼子から青年までの姿を思い浮かべ、日々の精神的宗教的な養いを受ける機会が与えられない子どもたちの体と心の育ちについて憂慮しています。
 精神的宗教的教育は、長い訓話や難しい言葉での祈りを必要とはしないでしょう。
 例えば、毎日の水遣りを心がけていたら朝顔がきれいな花を咲かせたことや、友だちや家族との会話の中での相手のふとした言葉に癒やされたり傷ついたりした経験が精神的宗教的な感性を深めていくことにもつながります。家庭での食事の前に毎日献げる小さな感謝の祈りの習慣が子どもの宗教心を育てることにもつながるでしょう。絵本を読む楽しさの中にも宗教的養いが潜んでいるかもしれません。時々は就寝前の子どもに読み聞かせる絵本を選ぶとき、聖書物語を入れることもあって良いかもしれません。親として、自分はどんな場で神の臨在を感じるのか、子どもに話してみるのも良いでしょう。
 各家庭で、また仲間が集まるとき、日々の食事と同じように霊の糧を分かち合う時が持たれることを願っています。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 05:20| Comment(0) | 牧師のコラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月01日

普通のことに対する感謝

普通のことに対する感謝

 先日、交通事故に遭いました。それも、教区婦人会静想日の帰り道のこと、6月27日の午後4時過ぎのことでした。
 上述のように、前橋聖マッテア教会で開催された教区婦人会主催の静想日は、小職の講話と短い静想での約2時間の時を過ごし、その後の昼食と歓談も含めて、とても満たされた思いで帰途につきました。そして、私たち4人の乗った車は北関東道を走行し、間もなく栃木、茨城両県境の大政山トンネルをぬけようとする時に、突然にバーンという音と共に体にもショックを受け、「アッ!」と思った3秒ほど後に、もう一度、同じバーンという衝撃を受けました。「まさか!」と思いましたが、本当のことでした。
居眠り運転の車に追突されたのです。後で聞いたことですが、後ろの車を運転していた人は居眠りをして私たちの車に追突し、慌ててブレーキと間違えてアクセルを踏み込み、2度目の追突を起こしたとか。幸いにも、車は左右にぶれることなく、停止させることができました。運転していたのは私ではありませんでしたが・・・。
 そのことを、ここに詳しく書くつもりもありませんが、同乗の4名、相手方は1名、大怪我にならなかったのは何よりでした。
その翌日、愛恩幼稚園の教職員の朝の会でいつものように始業の祈りをしました。普段は園長が、特に決まっているわけではありませんが、下記のような言葉で祈ります。
 「天の父なる神さま、夕べの暗い間も見守りを与えてくださり、こうして祈りをもって一日を始めることの出来る恵みを感謝致します。どうかこの一日も主の守りと導きのうちに(以下略・・・。)」
 「祈りをもって一日を始めることの出来る恵みを感謝」という言葉を唱えつつ、私はいつもと違う感謝を思いました。「祈りをもって一日を始めること」は、日々のごく当たり前のことでした。その実感を忘れてしまい、その言葉でおきまりの言葉にして祈ることになりがちです。
でも、その朝の思いは特別でした。仮に、怪我が重くて入院していたら、その日はその言葉で祈れませんでした。自分が加害者になる可能性だって日々の中に潜んでいます。もし、今回の事故でも、もっと酷い目に遭っていたら、その日はその言葉で祈る状況になかったでしょうし、その気持ちも起こらなかったでしょう。
 ある流行歌に「♪何でもないようなことが、幸せだったと思う〜♪」という歌詞があって、私の息子たちが口ずさんでいたのは、もう10年以上も前のことだったでしょうか。ふと、その歌詞を思い出しました。
 改めて、毎日の当たり前のことが当たり前に行われる恵みを実感致しました。私たちが、日々当たり前のことを坦々と行っていくことができるのは、それを支える沢山の人とその力があるからで、その感謝ができない世界は、味気なくなってしまいます。
私は、日々の祈りを習慣化することと形式化することはまったく違うことであることを今回の出来事から再確認しました。毎日の生活が当たり前のように流れていくことは、何と恵まれたことでしょう。そしてそれを感謝をもって保っていくことは、どれほど素晴らしいことか考え直してみる必要があるのかもしれません。
 朝、目が覚めたとき、「主よ、わたしたちの口を開いてください。わたしたちは、主の誉れを現わします。」と、一言の祈りをもって一日を始められますように。そして一日の終わりに、与えられた平凡な事に潜む大きな恵みを感謝して、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」と祈りつつ眠ることができますように。
 普通のことを感謝しつつ、自分に与えられた働きを進めていく力を養っていくことができますように。
『草苑』水戸聖ステパノ教会月報 2018.07.01 巻頭文
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 14:49| Comment(0) | 牧師のコラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月11日

伝統、伝承  2018年6月3日

伝統、伝承
       
司祭 小野寺 達

 
先月より、スポーツの好きな私にとって、何とも印象の悪いニュースが流れています。
5月6日に行われた日本大学と関西学院大学のアメリカンフットボールの試合で、日本大学の学生選手がコーチングスタッフの指示を受け、相手チームの学生選手に対して悪質なタックルをして怪我を負わせました。勿論ルール違反(反則)であり、そのプレーについての問題点や批判がSNSに流れはじめました。
私もテレビのニュースで、このプレーのビデオが流れるのを見て、明らかに限度を越えた悪質な反則であると思いました。
しかも、その件についての日本大学の対応、コメント、謝罪などが、後手に回っただけでなく、アメリカンフットボール部監督とコーチの記者会見、学長の記者会見、テレビ放映された理事長のテレビ記者インタビューなどがあまりに大学組織と指導者側の保身を印象づけるものでした。また、反則プレーをした学生選手自らが記者会見を行って自分の反則プレーを認めて置かれた状況などを述べることになり、世間の日本大学に対する批判は収まることなく、まさに「炎上」状態になりました。
5月29日には、日本大学アメフト部学生現役部員学生による声明文が出されたり、関東学生アメフト連盟理事会により、同大学同部元監督、元コーチ、チームに対する処分が発表されたりしましたので、「炎上」はやや「鎮火」の動きもありますが、この事件はいろいろな課題を提示する結果となりました。
わたしが、本稿であえてこの問題を取り上げたのは、組織の伝統、伝承について、教会組織としても気をつけるべき、考えるべき点があるからです。
100名を超える大きな組織で日本での頂点をめざし、全員がその目標に向かって思いを一つにすることは難しいものと思います。全体を束ねる者がどのような理念によってその組織を動かしていくのか、そこに監督の手腕が問われることになります。
チームは学生組織です。そのチームでの教育と養成の在り方は、そこで育つ学生の組織運営や選手育成の考え方に影響を与えます。そして、そこで育った人の中から沢山の指導者が生まれてくるのです。
彼らが受けた教育と養成の中身を知らない人たちは、日本のトップレベルのチームの一員であった人の指導とその在り方に期待することでしょう。
しかし、彼らが受けた指導の内実が、実際には高校で活躍した有望選手をスポーツ推薦の特待生としてスカウトし、あとは暴力と罵声が蔓延する中で盲目的に練習した程度であれば、その指導を受けた人がまたそのようなスタイルでの指導を繰り返す危険があることを踏まえておかねばならないでしょう。
「全体の大きな目標のために働け。」「自分の小さな目標など捨てろ。」「チーム一丸となるために自分を犠牲にしろ。」などのスローガンによって奴隷のように扱われたり、仮に選手として華やかな舞台に立っても「お前は反則してでも相手を潰さなければ出場させる意味はない。」と強い圧力をかけられて自分の能力を思う存分発揮してプレーをしたいという気持ちとは程遠い思いでグラウンドに立たされ、その学生を思うと、また、学生選手にそのようにさせる組織を思うと、組織全体の不健康さを思わずにはいられません。
また、そうすることがチームに貢献することであるかのように教育された人がまた指導者になって、同じことを次世代の人に強いていくという伝承の再生産を、どこかで断ち切らなければなりません。
この問題を単に一つの大学体育会クラブ活動の問題としてとらえるのではなく、文化や価値や信仰をどのように引き継いで今の世に生かし伝えていくべきかという問題として考えてみると、この事件はとても重大な意味を持っていると思います。あのような組織の中で人の教育と再生産が行われていってはなりません。その結果がどうであるのかを身をもって知っている人も多いことでしょう。
自分たちの教会とは何か、教会として伝えていくべきもの、守り育てていくべきものについて、深く思い巡らせる機会にしてみたいと思います。
        『草苑』水戸聖ステパノ教会月報2018年6月号
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 17:38| Comment(0) | 牧師のコラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする