カテゴリー:牧師のコラム

2018年07月01日

普通のことに対する感謝

普通のことに対する感謝

 先日、交通事故に遭いました。それも、教区婦人会静想日の帰り道のこと、6月27日の午後4時過ぎのことでした。
 上述のように、前橋聖マッテア教会で開催された教区婦人会主催の静想日は、小職の講話と短い静想での約2時間の時を過ごし、その後の昼食と歓談も含めて、とても満たされた思いで帰途につきました。そして、私たち4人の乗った車は北関東道を走行し、間もなく栃木、茨城両県境の大政山トンネルをぬけようとする時に、突然にバーンという音と共に体にもショックを受け、「アッ!」と思った3秒ほど後に、もう一度、同じバーンという衝撃を受けました。「まさか!」と思いましたが、本当のことでした。
居眠り運転の車に追突されたのです。後で聞いたことですが、後ろの車を運転していた人は居眠りをして私たちの車に追突し、慌ててブレーキと間違えてアクセルを踏み込み、2度目の追突を起こしたとか。幸いにも、車は左右にぶれることなく、停止させることができました。運転していたのは私ではありませんでしたが・・・。
 そのことを、ここに詳しく書くつもりもありませんが、同乗の4名、相手方は1名、大怪我にならなかったのは何よりでした。
その翌日、愛恩幼稚園の教職員の朝の会でいつものように始業の祈りをしました。普段は園長が、特に決まっているわけではありませんが、下記のような言葉で祈ります。
 「天の父なる神さま、夕べの暗い間も見守りを与えてくださり、こうして祈りをもって一日を始めることの出来る恵みを感謝致します。どうかこの一日も主の守りと導きのうちに(以下略・・・。)」
 「祈りをもって一日を始めることの出来る恵みを感謝」という言葉を唱えつつ、私はいつもと違う感謝を思いました。「祈りをもって一日を始めること」は、日々のごく当たり前のことでした。その実感を忘れてしまい、その言葉でおきまりの言葉にして祈ることになりがちです。
でも、その朝の思いは特別でした。仮に、怪我が重くて入院していたら、その日はその言葉で祈れませんでした。自分が加害者になる可能性だって日々の中に潜んでいます。もし、今回の事故でも、もっと酷い目に遭っていたら、その日はその言葉で祈る状況になかったでしょうし、その気持ちも起こらなかったでしょう。
 ある流行歌に「♪何でもないようなことが、幸せだったと思う〜♪」という歌詞があって、私の息子たちが口ずさんでいたのは、もう10年以上も前のことだったでしょうか。ふと、その歌詞を思い出しました。
 改めて、毎日の当たり前のことが当たり前に行われる恵みを実感致しました。私たちが、日々当たり前のことを坦々と行っていくことができるのは、それを支える沢山の人とその力があるからで、その感謝ができない世界は、味気なくなってしまいます。
私は、日々の祈りを習慣化することと形式化することはまったく違うことであることを今回の出来事から再確認しました。毎日の生活が当たり前のように流れていくことは、何と恵まれたことでしょう。そしてそれを感謝をもって保っていくことは、どれほど素晴らしいことか考え直してみる必要があるのかもしれません。
 朝、目が覚めたとき、「主よ、わたしたちの口を開いてください。わたしたちは、主の誉れを現わします。」と、一言の祈りをもって一日を始められますように。そして一日の終わりに、与えられた平凡な事に潜む大きな恵みを感謝して、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」と祈りつつ眠ることができますように。
 普通のことを感謝しつつ、自分に与えられた働きを進めていく力を養っていくことができますように。
『草苑』水戸聖ステパノ教会月報 2018.07.01 巻頭文
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 14:49| Comment(0) | 牧師のコラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月11日

伝統、伝承  2018年6月3日

伝統、伝承
       
司祭 小野寺 達

 
先月より、スポーツの好きな私にとって、何とも印象の悪いニュースが流れています。
5月6日に行われた日本大学と関西学院大学のアメリカンフットボールの試合で、日本大学の学生選手がコーチングスタッフの指示を受け、相手チームの学生選手に対して悪質なタックルをして怪我を負わせました。勿論ルール違反(反則)であり、そのプレーについての問題点や批判がSNSに流れはじめました。
私もテレビのニュースで、このプレーのビデオが流れるのを見て、明らかに限度を越えた悪質な反則であると思いました。
しかも、その件についての日本大学の対応、コメント、謝罪などが、後手に回っただけでなく、アメリカンフットボール部監督とコーチの記者会見、学長の記者会見、テレビ放映された理事長のテレビ記者インタビューなどがあまりに大学組織と指導者側の保身を印象づけるものでした。また、反則プレーをした学生選手自らが記者会見を行って自分の反則プレーを認めて置かれた状況などを述べることになり、世間の日本大学に対する批判は収まることなく、まさに「炎上」状態になりました。
5月29日には、日本大学アメフト部学生現役部員学生による声明文が出されたり、関東学生アメフト連盟理事会により、同大学同部元監督、元コーチ、チームに対する処分が発表されたりしましたので、「炎上」はやや「鎮火」の動きもありますが、この事件はいろいろな課題を提示する結果となりました。
わたしが、本稿であえてこの問題を取り上げたのは、組織の伝統、伝承について、教会組織としても気をつけるべき、考えるべき点があるからです。
100名を超える大きな組織で日本での頂点をめざし、全員がその目標に向かって思いを一つにすることは難しいものと思います。全体を束ねる者がどのような理念によってその組織を動かしていくのか、そこに監督の手腕が問われることになります。
チームは学生組織です。そのチームでの教育と養成の在り方は、そこで育つ学生の組織運営や選手育成の考え方に影響を与えます。そして、そこで育った人の中から沢山の指導者が生まれてくるのです。
彼らが受けた教育と養成の中身を知らない人たちは、日本のトップレベルのチームの一員であった人の指導とその在り方に期待することでしょう。
しかし、彼らが受けた指導の内実が、実際には高校で活躍した有望選手をスポーツ推薦の特待生としてスカウトし、あとは暴力と罵声が蔓延する中で盲目的に練習した程度であれば、その指導を受けた人がまたそのようなスタイルでの指導を繰り返す危険があることを踏まえておかねばならないでしょう。
「全体の大きな目標のために働け。」「自分の小さな目標など捨てろ。」「チーム一丸となるために自分を犠牲にしろ。」などのスローガンによって奴隷のように扱われたり、仮に選手として華やかな舞台に立っても「お前は反則してでも相手を潰さなければ出場させる意味はない。」と強い圧力をかけられて自分の能力を思う存分発揮してプレーをしたいという気持ちとは程遠い思いでグラウンドに立たされ、その学生を思うと、また、学生選手にそのようにさせる組織を思うと、組織全体の不健康さを思わずにはいられません。
また、そうすることがチームに貢献することであるかのように教育された人がまた指導者になって、同じことを次世代の人に強いていくという伝承の再生産を、どこかで断ち切らなければなりません。
この問題を単に一つの大学体育会クラブ活動の問題としてとらえるのではなく、文化や価値や信仰をどのように引き継いで今の世に生かし伝えていくべきかという問題として考えてみると、この事件はとても重大な意味を持っていると思います。あのような組織の中で人の教育と再生産が行われていってはなりません。その結果がどうであるのかを身をもって知っている人も多いことでしょう。
自分たちの教会とは何か、教会として伝えていくべきもの、守り育てていくべきものについて、深く思い巡らせる機会にしてみたいと思います。
        『草苑』水戸聖ステパノ教会月報2018年6月号
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 17:38| Comment(0) | 牧師のコラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月24日

良い羊飼いの導き

良い羊飼いの導き      
ヨハネによる福音書第10章11−16
 
 羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。(ヨハネ10:12)

 復活節第4主日は「良い羊飼い」の主日とされ、聖書日課福音書は毎年ヨハネによる福音書第10章の中から、その一部が配当されいる。
 この日のための説教準備は、上記の聖書の言葉から、自分でも思わぬ方向へ進んでしまった。そのきっかけとなったのが冒頭の聖句の中の「置き去りにして逃げる」という言葉だった。
 弟子のペトロにとって、冒頭の主イエスの言葉は、生涯胸に突き刺さるものであったに違いない。
 イエスが十字架につけられる前の晩に捕縛されて大祭司の館で取り調べられているときに、ペトロはこっそりとその館に入り込んでいた。館の人々に紛れ込んでたき火に当たっていたペトロは、「お前もあの男の弟子の一人だろう」と問い詰められ、思わず「あの男のことなど知らない」と言ってしまった。しかもそれは3度であった。
 ペトロは復活した主イエスから「わたしの小羊を飼いなさい」、「わたしの羊の世話をしなさい」、「わたしの羊を飼いなさい」と言われているが、このように3度言われていることは、ペトロがイエスを「知らない」と3度否んだことに対応していると考えられている。
 やがて、ペトロが牧者となり、多くの人々に主イエスのことを伝えながら多くの人々の牧会者として生きていくとき、「このような自分が主イエスの羊を飼う牧者であって良いのか」と幾度も自問せざるを得なかったはずである。冒頭の「置き去りにして逃げ去る」という言葉は、かつての弱く臆病であった自分を思い出させる辛い言葉となっていたはずであり、ペトロにとってそうであらねばならない。
 イエスが十字架にかけられる前の晩、ペトロはイエスの受難予告を否定して「あなたのためなら命を捨てます(ヨハネ13:37)」とまで言ってみせたが、結果は上述のとおり、イエスを3度否定する言葉を吐いてしまった。
 他の福音書によれば、イエスが捕縛されるとき、ペトロをはじめとする弟子たちはみなイエスを置き去りにして逃げ去ってしまい、そのこと一つとってもイエスの十字架を巡る出来事は弟子たちの弱さ、醜さ、卑劣さをえぐり出すのに十分であろう。。
 もし、ペトロはイエスから赦しを得られなければ、またイエスから「わたしの羊を飼いなさい」と言っていただけなければ、ペトロは主イエスのための牧者でなくて雇い人に過ぎず、かつて狼が来るのを見て逃げ去り自分の飼い主を否定した自分を抱え自分を責めながら生きていかねばならなかっただろう。そのようなペトロは、自分で自分を「わたしはイエスの羊を預かる牧者である」などとは、とても言うことができなかっただろう。
 しかし、羊飼いイエスは、そのペトロをさえ赦し、愛し、主イエスの羊を飼うことをペトロに託された。
 ペトロは、かつては自分が羊飼いではなくだだの雇い人であり、狼の前にしっぽを巻いて逃げていく臆病な者であったことを自覚している。でも、ペトロがそのことを自覚しているからこそ、主イエスはペトロを牧者として召し出したのである。ペトロは、どのように主イエスの愛が自分に働き、自分を再度立たせてくださったのかを知っており、そのことを知る者であるからこそ、主イエスはペトロに自分の羊を飼うことを託されたのである。
 ペトロは、自分の力を頼みとして主イエスの羊を飼うのではない。ペトロは、主イエスに3度問われたことに答えているように、自分の力で主イエスの愛を実践できるのではなく、本来であれば失格者であり牧者として相応しくない者のことさえ主イエスは赦して愛し抜いてくださり、ペトロはその恵みを知る者であるからこそ、そして自分に与えられたイエスの愛は自分にだけではなく囲いの外にいるすべての羊にも及ぶことを知るものであるからこそ、主イエスはペトロにその使命を与えておられるのである。
 「牧師」などと呼ばれていると自分があたかも「牧者」であるように思えてくるが、牧師とは自分もかつては迷い出ていた羊に過ぎず、イエスに赦された者であることに思いを向けずに勤めてはならないのではなかろうか。
2018.04.23
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 10:21| Comment(0) | 牧師のコラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする