2020年09月02日

主イエスの叱責 マタイによる福音書16:21−27 聖霊降臨後第13主日(特定17)

主イエスの叱責 マタイによる福音書16:21−27 聖霊降臨後第13主日(特定17) 2020.08.30
 
 今日の聖書日課福音書を含むマタイによる福音書の第16章は、この福音書全体の中での大きな節目になっている箇所です。
 マタイによる福音書全体を見渡してみましょう。主イエスの宣教のお働きはガリラヤ地方から始まりました。主イエスは、ガリラヤ地方で、たくさんの奇跡をなさり、人々を癒し、神の国についての教えを説かれました。その主イエスのお働きは、ある意味で華々しくもありました。多くの人々がそのイエスに感動し、共感し、それぞれに自分の夢や希望をそのイエスに託し、多くの人がこのイエスこそ自分たちの希望を叶え夢を実現してくれるお方であると思うようになりました。
 そして、前半部分を締めくくるように、先主日の聖書日課福音書の中で、弟子のペトロは、主イエスの「あなた方は私を何者だというのか」との問いに答えて、「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰告白しました。
 その脈絡から今日の聖書日課福音書に目を向けると、この箇所は主イエスがペトロを始めとする弟子たちの信仰を更にもう一歩先の次元へとお導きになろうとしておられる箇所と言うことも出来るでしょう。
 今日の福音書の箇所は、「そのときから、イエスは、・・・し始められた」という言葉で始まっていますが、この言葉はマタイによる福音書において大きな新しい段落が始まる冒頭に置かれる「編集句」です。
 マタイによる福音書は、この編集句によって後半へと入っていきます。
 ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です。」と答えたメシア(救い主)とは、どのような意味でのメシアなのかを示す段落へ、つまり、ご自身の受難と死を通して天の国を与えてくださるメシアであることを身をもってお示しになる段落へと進んでいくその始まりの部分にこの編集句が置かれています。
 主イエスは、ご自身の受難を予告し始めます。今日の聖書日課福音書は主イエスの「第1回目の受難予告」とも呼ばれている箇所です。
 主イエスの受難の予告の言葉を聞いたペトロは、主イエスを脇に引っ張っていって、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」と言って主イエスをいさめ始めました。
 すると、ペトロは主イエスに「サタン、引き下がれ」とまで言われて叱られています。これがマタイによる福音書における後半の始まりです。
 私たちは、ペトロの信仰告白とこのように叱られることをどう捉えればよいのでしょう。ペトロの信仰告白は意味のないことになってしまったのでしょうか。主イエスはペトロや他の弟子たちを否定して叱りつけているのでしょうか。
 そうではありません。むしろペトロとペトロに代表される信仰告白をする者の集まりが、主イエスにとって叱るに値するからこそ、そして叱らなければならないからこそ、主イエスは叱っておられるのです。
 今日の福音書の中で、ペトロは、主イエスの受難予告の意味を理解できず、受難を予告する主イエスに「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と言いました。これに対して主イエスは振り向いてペトロにこう言っておられます。「サタン、引き下がれ」。
 私たちはこの言葉から、主イエスさまが宣教を始める前に荒れ野で40日40夜断食して、悪魔の試みに合われた時のことを連想します。
 今日の福音書の中では、主イエスが受難の予告をすることに心を痛めたペトロがイエスを心配して真剣にイエスに向かって話しかけています。でも主イエスは、そのようなペトロの中にさえサタンの働きを見抜いたのです。主イエスは、あの時の悪魔の誘いと同じ誘惑をペトロの言動の中に見抜いておられます。主イエスに見えるのは、ペトロの中の「神のことを思わず、人間のことを思っている」姿であり、それは、神の救いの働きが進むことより、自分の願いが満たされることを願うペトロの姿であったと言えるでしょう。サタンは絶えず尤もらしく、理屈が通り、正しさが現れ出るかのように働き、そうすることによって人を神の思いからいつの間にか引き離すように私たちに迫るのです。
 ここで注意しておきたいことがあります。それは、ここで主イエスが「サタン、引き下がれ」と言っておられるのは、主イエスがペトロの人間性や人格まで否定してペトロをサタン呼ばわりしているのではない、と言うことです。
 それは、日本語には訳されていないのですが、原文のこの箇所 「υπαγε οπισω μου ヒュパゲ オピソー ムー」 を直訳すれば、「わたしの後ろに下がれ」ということであり、多くの英語訳でもここは Get behind me. と訳されているのです。主イエスがペトロに向けたこの言葉には「わたしの後に」という語がしっかりと入っていて、更に、この「わたしの後に」という言葉は、このすぐ後の24節の中にも用いられています。そこは、「わたしについて来たい者は」という所であり、その部分を直訳すれば「わたしの後から来ることを望む者は」となります。主イエスは、ここにも先ほどと同じ οπισω μου (behind me)という言葉を用いて、ペトロが主イエスに従って来ることを前提にして、「私の後ろに回ってついてきなさい。」とお叱りになっていることが表されています。このように、この箇所は、荒れ野でサタンに「サタン、引き下がれ ヒュパゲ サタナ」と宣言したこととは全く違う意味を含んでいることが分かるのです。
 そうであれば、ペトロにとってまたペトロに代表される信仰告白をする群れに連なる私たちにとって、主イエスに叱られることは、どのような意味を持つのでしょうか。
 主イエスは、ペトロを叱った直後に、弟子たちにこう言っておられます。
 「わたしについて来たい者は自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」
 主イエスは、自分の負うべき自分の十字架を負って信仰の歩みを正しく歩むように、御心とは違うことへと向かいそうになる時に、つまり私たちが「罪」に引き込まれそうになる時に、主イエスはお叱りになるのです。
 聖書の世界での「罪」とは、もとの意味が「的外れ」であり、自分の生き方が神の御心から離れたり、かけがえのない自分の命が自分として生きていない姿を言うのです。人は弱く、神の御心が何であるかを考えているようでようでありながら、この時のペトロのように自分のことしか考えられず、時に傲慢になり、不遜になり、虚栄を張り、あるいは恨み、サタンの誘惑に引き込まれ易いのです。そのような私たちは、主イエスから「サタン、退け。わたしの後から従ってきなさい」と声をかけられ、本当の自分に引き戻され、改めて導きを受けながら歩んで行く必要があるのです。
 ペトロは、主イエスに叱責されましたが、それは視点を変えてみれば、ペトロはそれほどに主イエスに導きを受けているのです。主イエスは、ペトロがサタンの誘惑と支配とに負けないように、ペトロを叱り、我が身を振り返らせています。主イエスは、ペトロが自分の思いではなく神の御心を求めて生きるように、ペトロに関わり、ペトロを育くむのです。
 この主イエスの愛は、今、ここで私たちにも注がれています。
 ヘブライ人への手紙第12章5、6節に次のような言葉があります。 
 「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。
 主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。
 なぜなら、主は愛する者を鍛え、
 子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」
 主イエスは、私たちを導き、絶えず私たちを本当の自分として生きるように導き、神とつながって、主イエスに従うように、私たちを招き続けておられます。
 主イエスは、時に「疲れた者、重荷を負う者は、誰でも私のもとに来なさい」と優しく私たちを招き、また時に「サタン、引き下って、自分の重荷を背負って私についてきなさい」と厳しく私たちを軌道修正させ、私たちに関わり続け、導いていて下さいます。
 主なる神の大きな御手の中で、主イエスによって絶えず信仰を新たにされる者でありたいと思います。
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2020年08月24日

信じて従うこと マタイによる福音書16:13−20 聖霊降臨後第12主日(特定16) 2020.08.23

信じて従うこと マタイによる福音書16:13−20 聖霊降臨後第12主日(特定16) 2020.08.23
 
 今日の聖書日課福音書の箇所は、マタイによる福音書全体の中で、一つの大きな締めくくりに位置づけられていることを確認したいと思います。
 今日の聖書日課福音書の直ぐ後の第16章21節に注目してください。
 「この時から、イエスは、ご自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。」
 もう一箇所、マタイによる福音書第4章17節にも注目してみましょう。
 「その時から、イエスは「悔い改めよ。天の国は近づいた。」と言って宣べ伝え始められた。」
 「この時から」、「その時から」と違う言葉に訳されていたり、日本語では主語と述語の間にいろいろな言葉が入って、原文の文体が感じ取りにくくなってしまいますが、原語のギリシャ語では、どちらも同じ言い回しであり、英語訳ではどちらも " From that time Jesus began to ・・" であり、両者は同じ文章で始まっています。聖書の中には、このような決まり言葉が幾つかあって、それは「定型句」とか「編集句」と呼ばれています。
 多くの聖書学者は、今注目した2箇所の「その時から、イエスは、○○し始めた。」は、マタイによる福音書の大きな段落の転換部分、新しい段落が始まる所で用いられる言葉であると指摘しています。
 この定型句の一つ目(4:17)は、主イエスが、荒れ野で40日40夜断食して、悪魔の誘惑に打ち勝ち、これからガリラヤ地方での宣教の働きが公に始まろうとするところで用いられています。
 そして、もう一箇所が今日の聖書日課福音書の直後(16:21)に出てきます。
 ここは、ガリラヤ地方を中心とした主イエスの宣教の働きが、今日の福音書の箇所で締めくくられ、この後、主イエスはエルサレムに上っていって、当局者たちの手によって十字架に付けられそして復活することへと動いていくのです。
 今日の聖書日課福音書は、マタイによる福音書全体の中でも、前半部−つまりガリラヤを中心とした主イエスの宣教の働き−の締めくくりとなる箇所であり、今日の聖書日課福音書の主イエスとペトロの対話はマタイによる福音書前半部分を集約する大切な箇所であり、前半部のクライマックスであると言うことも出来ると思います。
 そして、この後、主イエスは十字架にお架かりになるためにエルサレムに上って歩み始められるのです。
 マタイによる福音書をこのように段落分けした時の前半部は、主イエスの宣教の働きの舞台は、ガリラヤ地方でした。やがて、その働きは、近隣の地方にまで広がりました。主イエスが教えを説かれ、人々を癒し、慰めや励ましをお与えになると、ガリラヤ周辺の人々ばかりでなく異国の人々までが主イエスに期待し、色々な願いを主イエスに向けるようになってきました。主イエスと弟子たちの一行は、ガリラヤ地方一帯を巡りながら、湖畔から40qほど離れたフィリポ・カイサリアの地に来ました。
 カイサリアは、ガリラヤ地方を治めていた領主ヘロデがローマ皇帝カイサル・アウグストスから授かった町で、ヘロデはこの町に皇帝カイサルの名を付けて皇帝のご機嫌を取り、更にヘロデ大王の息子フィリポがこの町を再建した時に、ローマ皇帝と自分の名誉のために、また地中海沿岸にもある同じ名の町カイサリアと区別するために、フィリポ・カイサリアと呼ぶようになったのです。
 主イエスが弟子たちにこう尋ねました。
 「人々は、人の子のことを何者だと言っているか。」
 弟子たちは答えました。「洗礼者のヨハネだという人もいますし、エリヤだという人もいます。また、『エレミヤだ』とか『預言者のひとりだ』と言う人もいます。」
 その答えを受けて、主イエスは更こうお尋ねになりました。「それでは、あなた方はわたしを何者だと言うのか。」
 主イエスのこの問いに対して、ペトロが自分の信仰を告白し「あなたは救い主、生ける神の子です。」と答えています。ペトロは弟子を代表して答えていると思われますが、主イエスはこの同じ問いを「あなたは私を何者だというのか。」と弟子たち一人ひとりに問いかけ、そして、私たち一人ひとりにも向けておられます。私たちは、主イエスの弟子として、主イエスの問いかけにどのように答えるのでしょうか。
 これまで、主イエスの宣教の働きは、当時のイスラエルの中に大きな波紋を呼び起こし、主イエスについて様々な評判や評価が生まれてきました。
 ガリラヤから少し距離を取ったところで、主イエスは弟子たちに、人々は私のことを何と言っているのかと問いました。弟子たちにとってこのことに答えることは、比較的簡単なことだったでしょう。そこに自分を関わらせず、世間では主イエスをどう言っているかを語れば良いからです。
 私たちも主イエスが何者であるかについて、色々に論じることが出来るでしょう。主イエスの教えや奇跡、また癒しの働きについて納得する解釈を加えたり、歴史上の人物としてのイエスを論じることも出来るでしょう。でも、私たちが問われるのは、「それでは他の誰でもないあなたは、私を何者だというのか。」ということであり、私が自分にとってのイエスとは何者かを主イエスにお答えすることなのです。
 そして、この問いに答えることが、マタイによる福音書の前半部が締めくくられるのとちょうど同じように、私たちの信仰生活が次のステップに進んでいけるかどうかに関わってくるのです。
 主イエスが「それではあなた方は私を何者がと言うのか」と問うておられることの意味を他の例をあげて考えてみましょう。
 お付き合いをしている若い男女がいるとします。お互いに相手のことをもっとよく知って、理解し合って、結婚しようという思いも生まれて来ているとします。そのカップルの一人が「あなたは私のことをどう思うのか」と尋ねたとします。尋ねられた相手は、核心となる答を相手に誠実に返さなければなりません。お互いにそのようにする必要があるでしょう。
 私にとって、あなたは生涯を共にしたい人であり、もし許されるのなら、喜びにも悲しみにも、健やかな時も病める時も、あなたを愛し、敬い、神の導きの中で共に生きていきたいと相手に告げなければなりません。これは、「人々がわたしを何者だ言っているか」ということに答えることではなく、「それではあなた私を何者だと言うのか」というに答えることであり、この問いと答えなしには、二人はその次の歩みへと踏み出していくことは出来ないでしょう。
 これと同じことが、主イエスと弟子たちの関係について、更には主イエスと私たちの関係についても言えるのです。
 「ある人はあなたを洗礼者ヨハネだと言っています。」「ある人はあなたをエリヤだと言っています。」「エレミヤだと言っている人もいます。」「預言者の一人だ。」それぞれが聖書に裏付けられた立派な説明です。
 でも、主イエスが、弟子たちに、そして私たちに、問いかけておられるのは、「それではあなたがたは私を何者だというのか。」と言うことです。
 ペトロが答えます。「あなたはメシア(キリスト=救い主)、生ける神の子です。」
 これは「あなたこそわたしの救い主であり、生ける神が示してくださったとおりの神の子です。私は生涯あなたに従って参ります。」という、ペトロの信仰の表明、信仰告白です。
 主イエスはこのように自分の信仰を告白するペトロを祝して、19節にあるとおり、ペトロに天の国の鍵を授けておられます。
 「鍵を授ける」とは、その当時、王が信頼する家臣に宮廷に出入りする者たちの通行を管理させその鍵を託したことに由来します。その鍵を受けた者は王の代理者として執務し、宮廷に入ろうとする者の通行を許可するか禁ずるかの判断も任せられることを意味しました。
 主イエスは、イエスを神の子また救い主と告白するペトロを認め、このペトロに、神と人々とを間に立って、主イエスを救い主であると信仰告白する者を天の国に迎え入れる権威をお授けになったのです。
 先ほどの、若い男女の例えで言えば、やがて彼らは共に住む家の鍵を持ち合って一つの家で生活を共にすることを喜びとするように、主イエスはイエスに対する信仰を表明する者に天の国に共に住まうことを許し、信仰告白を共にする教会にその者を迎え入れる権限を与えてくださったと言えるでしょう。
 私たちは「あなた方は私を何者だというのか」という主イエスの問いに対して、「あなたは生ける神の子、メシアです」と自分の信仰を表明することによって、主イエスを救い主として生きる次の段階へと歩んでいけるように導かれていきたいのです。私たちの教会が、主イエスに対する信仰告白を土台とし、人々を天の国へと迎え入れる権威を授けられた教会として、相応しくこの教会を建て上げていきたいのです。
 私たちがそのような信仰告白が出来る時、私たちの信仰生活における主イエスの受難、十字架、復活は、他ならぬ私のためであることを理解し、その感謝と賛美が新たに生まれてくるのです。このことは、マタイによる福音書における二つ目の「その時からイエスは・・」という定型句に始まる後半を生きていくことと深く重なってくるのです。
 私たちが礼拝の中で唱える使徒信経やニケヤ信経は、教会の土台である信仰告白が教会の歴史の中で次第に形を整え、洗礼を受けようとする人や礼拝に集まった人々が聖書の御言葉を受けた後に共に唱えることができるように発展してきたものです。私たちは、イエスこそ救い主であり生ける神の子であることを一同で告白し、主イエスとの交わりを深め、主の働き人として自分の生活の場へと遣わされていきます。私たちは、主イエスに向かって「あなたこそ生ける神の子、キリストです」と信仰を告白をし、その恵みのしるしを受けて、信仰生活を導かれて参りましょう。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 09:30| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年08月17日

カナンの女の信仰  マタイによる福音書15:21−28

カナンの女の信仰  マタイによる福音書15:21−28  聖霊降臨後第11主日(特定15) 2020.08.16
  
 今日の聖書日課福音書は、カナンの婦人が、主イエスに娘の癒やしを熱心に願い求めた物語の箇所です。
 主イエスは、ファリサイ派の人々や律法学者たちと激しく論じ合った後、その場から離れ、ティルスとシドンの地方に足を運んで行かれ、そこでカナンの女と出会います。
 カナン人とは、イスラエルの人々がこの地に住み着く前からパレスチナ一帯に定住していた先住民であり、イスラエルの民にとっては異邦人でした。
 イエスの時代からは千数百年も前のことになりますが、イスラエルの民はエジプトの地で奴隷になっていました。モーセの時代に奇跡的にエジプトを脱出したイスラエルの民は、カナンの人々の住んでいた土地に戻ってくることができ、先住民を征服するようにしながら自分たちの領土を拡げていきました。エジプトを出てから40年間に渡って放浪の生活をしてきたイスラエルの民に比べて、パレスチナに定着しておもに農業を営んでいたカナン人は高い農耕技術をもち、文化的にも資産の上でも、イスラエルの民よりはるかに豊かであったと伝えられています。イスラエルの民は、土着のカナン人から麦やぶどうの栽培など農耕の技術を学んで採り入れていったのでした。しかし、そのことは、イスラエルの民にとって、信仰を揺さぶられる経験にもなったのです。イスラエルの民が、パレスチナに定住し始めると、主なる神への信仰(ヤハウェ信仰)は、カナン宗教である収穫の神、多産の神によって誘惑されることになるのです。イスラエルの民をエジプトから導き出してくださった主なる神への信仰はいつの間にかカナン土着の農業神に絡め取られ変質する危険がつきまといました。預言者はイスラエルの民の生活から土着宗教の農業神の文化や習慣を出来るだけ排除し、イスラエルの民が主なる神への純粋な信仰を守るように促し戦う必要に迫られたのでした。
 これも旧約時代の紀元前860年頃の話になりますが、その当時イスラエルの王であったアハブはシドンの女王イゼベルを王妃として迎え、豊かな実りの神バアルを礼拝しています。これに対して預言者エリヤはアハブとイゼベルに命を狙われながらもイスラエルの神ヤハウェへの信仰を堅く保つように異教の神を礼拝するアハブ王を糾弾して戦ったのでした。
 歴史的には今申し上げてきたような背景もあって、主イエスの時代にも、イスラエル民族の純粋性を保ち、主なる神への信仰を守ろうとする人々がいました。彼らは、カナン人をはじめとする異国人を嫌い、極力交わりを避けて生活していました。ことにイスラエルの民の中でも熱心で敬虔な信仰を持つファリサイ派の人々や信仰の具体的な枠となる律法と古くからの言い伝えを堅く守ろうとする律法学者たちは、その枠から落ちこぼれる人々を罪人として排除し、また異国人を汚れた者とみなして交わりを持たなかったのです。
 カナンの女がイスラエルの人である主イエスのところにやって来て叫びました。「主よ、ダビデの子よ、私を憐れんでください。」
 カナン人がイスラエル人に向かって願い事をすることなど、とても理解しがたいことであり、またイスラエルの指導者たちにとって、それは許し難いことでもありました。
 このカナンの女は、主イエスに向かって「主よ、ダビデの子よ」とまで言って叫んでいます。これは、イスラエルの人々にとっても驚きでした。
 「主よ」とは、イスラエルの民が主なる神に向かって呼びかけて祈る時の言葉であり、「ダビデの子」とは、イスラエルを王国として統一して繁栄させた王ダビデのような救い主が再び出現することを願って、イスラエルの人たちが「来たるべき救い主」という思いを込めて用いた言葉です。その言葉を異邦人の女が主イエスに対して用いています。つまり、異邦人の女がイエスを自分の救い主として信仰告白しているのであり、イエスを取り巻く人々の中にはこの異邦人の言葉に違和感を覚え、中には不快な思いになる人がいたことも想像されます。
 主イエスはこの異邦人を軽く拒否するかのように「私はイスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と応えておられます。主イエスは、自分はイスラエルの民の中にあって、飼い主のいない羊のような人のために遣わされていると言っておられるのです。
 主イエスは、この婦人にご自分の使命はイスラエルの民を救いに導くことにあることを、小犬とパンに例え、「子どもたちのパンを取って、小犬たちに投げてやるのはよくない」と伝えました。
 当時、イスラエルでは、犬とはゴミや他の動物の死体をあさって食べたりする野犬を意味し、「汚れた動物」とされ、ペットとして飼われることはありませんでした。当時のイスラエルと異国人との関係を考えると、この主イエスの言葉は、神の救いの働きはイスラエルの子らにもたらされるのであり、汚れた民とされる異国人に及ぶものではないと言っているように理解することもできるでしょう。主イエスご自身はこのようにお考えにはならなかったであろうということは、この後のキリスト教の拡大の仕方を見れば明らかなことではありますが、エルサレム神殿の担い手たち、ことにファリサイ派や律法学者たちは救いはイスラエル民族に実現すると考えていたのです。
 主イエスの言葉を受けたカナンの女は、自分を取るに足りない小犬に例え、「主よ、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」と言って、異邦人である自分も主イエスの恵みに与ることができると、自分の信仰を表明しています。
 主イエスが神の国をこの世に表していこうとする働きは、主イエスの復活の後に、イスラエル民族の枠を越え、宗教の枠を越えて、世界中に広がっていきます。しかし、その初期には、イエスの使徒たちの中にも、宣教はイスラエル民族の中だけに限定すべきだと考える人々が沢山いたことは、使徒言行録の中にも記されています。彼らの中には、主イエスの教えや生き方はあくまでも神に選ばれたイスラエル民族が保持するユダヤ教の中にあってこそ意味があり、イエスを通して示された神の愛を受けるのもイスラエル民族に限られる、と主張する者も多かったのです。
 やがて主イエスの生きた時代から半世紀近くが経って、この福音書が文字になって編集されてくる頃に、異国のカナンの女に救いが与えられたこの物語を削除したくなる人も決して少なくなかったであとうと私は勝手に想像しています。
 しかし、主イエスご自身が教え、福音書が伝えようとするのは、神の救いのご計画はイスラエルの民に限られるのではなく、一途に主イエスにすがる異国の女にも与えられており、主イエスが与えてくださった救いは生まれた国や民族に関わらず、全ての人に及んでおり、主イエスを救い主と仰いで生きようとする全ての人に及んでいるということなのです。
 今日の聖書日課福音書の箇所は、主イエスのお働きがイスラエルの枠を越えて世界に広がっていく最初の出来事がここに起こったことを伝えていると言えるでしょう。
 そして、この「カナンの女の信仰」の物語は、主イエスご自身はイスラエルの外にまで神の国を宣べ伝えることはなかったけれど、イスラエルに限らず異国の人をも含め全ての人が神の愛のもとで自分を取り戻して生きることを示す救い主であることを伝えていると言えるでしょう。
 主イエスは、ユダヤの律法の枠から落ちこぼれて切り捨てられた人々の中にある信仰を認め、その人々に関わり、そこに神の国が来るようにと祈りお働きになりました。
 主イエスは、カナンの婦人が娘の癒しを求めて止まない姿をご覧になり、イエスこそ救ってくださると求めて止まないこの婦人の信仰を、「女よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」と賞賛されました。
 自分の小ささ、弱さを知り、取るに足りない自分でも、主に向かって叫ばないわけにはいかない思いがこの婦人の信仰です。そして、主イエスとの交わりを求めて止まない一途な思いこそ信仰の中心なのです。主イエスは異国人のその信仰を認めておられます。
 私たちは一人ひとりが主イエスを求めて止まない信仰の本質を改めて確認し、主イエスを求める信仰を養われ、主イエスの祝福を得ることができますように。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 20:59| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする