2020年06月22日

恐れずイエスを証しする マタイによる福音書10:24−33 聖霊降臨後第3主日(特定7) 2020.6.21

恐れずイエスを証しする マタイによる福音書10:24−33 聖霊降臨後第3主日(特定7) 2020.6.21
                             
 私たちは、今日の聖書日課福音書から「恐れずに救い主イエスを宣べ伝える」ことについて導きを受けたいと思います。
 先ず、この箇所がどのような流れの中に置かれているのかを眺めておきましょう。
マタイによる福音書第10章5節を見てみると、「イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。」と記されており、今日の福音書の箇所は、主イエスがお選びになった十二弟子を派遣するに当たり、心に留めるべきことなどを伝えておられる中での言葉であることが分かります。
 そのような流れの中で、主イエスは第10章17節で「わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。」と言っておられます。主イエスが、「弟子であるあなた方ににそっと教えたことを、あなたがたは人々の前ではっきりと告げ知らせなさい。わたしが耳元でそっとあなたがたに教えたことを、あなた方は誰にもはっきりと聞こえるように言い広めなさい。」という意味で言っておられることが分かります。主イエスは、弟子たちに、人々の前ではっきりと神の御心を語り示すように勧め、教えておられるのです。
 このような流れの中で、主イエスは幾度も「恐れるな」と言っておられます。主イエスの名によって派遣される弟子たちには、きっと大きな不安や恐れがあり、また、主イエスを伝える働きを担うが故の様々な恐れが生じてきたのでしょう。
 弟子たちは、様々な恐れを抱えながらも、人々の前ではっきりと主イエスが救い主であることを伝えていく使命を与えられています。
 マタイによる福音書が編集された時代は、主イエスさまが十字架につけられてから約半世を過ぎた頃であると考えられています。当時、主イエスを救い主であると自分の信仰を表明する人は、ユダヤ教の権力者たちから弾圧され、迫害を受けたる時代になりつつありました。そのような中で、弟子たちは、目先の弾圧や迫害を恐れずに、この世界の歴史を支配し私たちの魂までを支配しておられる神に従い、神に生かされている者としてしっかり自分の信仰を表明するようにと主イエスの御言葉を心に据えていたのでしょう。
 今日の福音書の最後の部分を読んでみましょう。
 「だから、誰でも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないという者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」
 その当時も、恐れの故に自分がイエスの仲間であることを隠し、イエスの教えを語ることには口を閉ざす者もあったのかも知れません。
 私は、このことを考えると、もう30年以上も前のことになりますが、故八代崇主教が、私がまだ補佐の教役者として定住していた教会を管理してくださり、ある主日礼拝の説教の中で話してくださったことを思い出します。
 それは、長い間神戸で婦人宣教師をしてたリーという名の英国人のことです。 日本が満州事変から第二次世界大戦へと動いていく頃、日本にとってことにリー宣教師女史の母国イギリスや日本聖公会の運営を担っていたアメリカは連合国の中心にあり、言わば日本の敵国となり、「鬼畜米英」などという言葉も用いられる時代になっていきます。日本では、キリスト教が敵国の宗教であると一括りにされ、とりわけ聖公会は戦争相手国の教会であると見なされました。周囲の目を気にした信徒の中にはいつの間にか教会から離れていく者も多かったのです。
 神戸がまだ爆撃される前のこと、リー女史が市電に乗っている時、教会員でキリスト教の学校教師をしている人が同じ市電に乗っているのに気付き、彼女はその人に声をかけようとすると、その相手の人は、「あなたなど知りませんヨ。」というような態度で離れていったというのです。
 また、ある牧師は、英国人主教に取り入って用いられ、留学までさせてもらい、帰国後は他の邦人聖職や信徒を見下すようであったのが、戦争が始まると牧師を辞めて大東亜省という英語を使って仕事の出来る役所に入り、これまで共に過ごした聖職や教会員には何の関係もない素振りであったというのです。しかも、戦争が終われば一転して教会に戻り、英語を使って進駐軍に取り入って、物資の不足した時代にも羽振りを利かせていたというのです。
 八代崇主教は、女性宣教師リー女史の日記を戦時下の日本を理解する上での貴重な資料であるとお考えになっておられ、その一端を、主日礼拝の説教の中でご紹介くださったのです。
 戦争当時、多くの日本人がアメリカやイギリスの人を敵国人として敵視する中で、アメリカ人やイギリス人と関係を持つことスパイであると密告されたり、英語を使うことさえ禁じられた時代でもありました。かつてはどれほど世話になったか分からないほどであっても、一般人の前ではその人を知らないそぶりをして保身し、真理を捨てて目先の自分の利用できる都合の良い人にすり寄っていく生き方をして真理を口にしなくなるような生き方をする人はいつの時代にも多いのではないでしょうか。
 八代崇主教は、戦時下の日本人クリスチャンを批判するためにその話をなさったのではなく、恐れず主イエスを証していくことがどれほど厳しく難しいことなのかをお話しくださったのだと思います。私たちは誰でもこうした状況に置かれたとき、多くの人の前で主イエスの側に立つことをためらい、恐れるのではないでしょうか。
 私たちは、主イエスから、絶えず「あなたが守るべき真理は何か、あなたが声を上げて語るべき真理は何か」と問われている、と言うことも出来るのです。
 主イエスの一番の弟子であるペトロも、主イエスが捕らえられて大祭司の館の庭で取り調べを受けている時に、館の者に「お前もあのイエスの仲間だろう」と問い詰められて、3度「知らない」と言ってしまいました。主イエスが最後の晩餐の席で受難の予告をなさった時、ペトロは「死んでもあなたに従う覚悟は出来ています」とまで言っています。その時のペトロは、決して嘘をついたのではなく、本心でそう思っていたのでしょう。でも、私たち人間の心は弱く不確かです。いざという時に主イエスを裏切り否認する言葉を吐いたり、かつては外国人の知り合いがいることを自慢するほどであったあった人も、恩人である外国人を知らぬふりをするほどに弱いのです。
 やがて、ペトロが、人々の前で主イエスの証人として大胆に自分を表明できるようになったのは、主イエスが甦り、ペトロたちに聖霊が与えられたからでした。主イエスの十字架の死と甦り、昇天、そして聖霊が与えられるという一連の出来事を経験することによって、ペトロはやっと主イエスの派遣の言葉、ことに「恐れるな」ということを実感を持って受け入れることが出来るようになったのではないでしょうか。
 今日の福音書の最後の箇所で、誰でも人々の前で主イエスの側に立つことをはっきりと表明する人については、主イエスもまたその人のことを天の父の前で主イエスの仲間だとはっきりと表明して下さる、と言っておられます。「だから、恐れるな」とも言っておられます。
 自分の側からはまだまだ力が足りなかったり大きな力の前に恐れをなすような私たちですが、主イエスは主なる神の御前で、私たちの側に立って「この人は私の仲間」であると言ってくださいます。主イエスは、裏切ることなく、見捨てることなく、私たちを主イエスの仲間であると言ってくださいます。
 主イエスは、神の御心から離れてしまう者の側にまわって、十字架の上から祈り執り成してくださいました。そして今も天の国で父なる神の右におられ、主イエスの信仰を告白する者のために執り成していてくださいます。主イエスに愛され守られて力付けられ、主イエスを恐れずに証しする者になれるよう祈り求めまた導かれて参りましょう。
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2020年06月14日

「新しいイスラエル」の形成 マタイによる福音書第9章35節〜第10章8節 A年特定6 2020.06.14

「新しいイスラエル」の形成 マタイによる福音書第9章35節〜第10章8節 A年特定6   2020.06.14
 
 今日の聖書日課の福音書は、主イエスが十二人の弟子を選び派遣する箇所が取り上げられています。
 主イエスが、実際にご自分の特別な弟子として十二人を選んだかどうかは定かではありません。むしろ、もう少し時代が降り、各福音書が一つの文書といて編集されるようになった頃、主イエスの御跡に従う人々の中にある特別な自己認識が生まれてきたために、「イエスの12弟子」と言う考え方が形成されてきたとも考えることができます。
 その自己認識とは、主イエスの御跡に従う人々の集まりを「新しいイスラエル」と考えることでした。
 イスラエルとはユダヤの父祖ヤコブに神が与えた名前です。旧約聖書創世記の中に、ヤコブが神から「イスラエル」という名を与えられた物語があります。イスラエルの父祖とされるアブラハムの息子がイサク、そしてイサクには双子の兄弟エサウとヤコブが生まれており、そして、旧約聖書の中でイスラエルの神を「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と表現している箇所があることを押さえておきましょう。
 ヤコブは本来は家督を受け継ぐはずであった長子のエサウからその権利を譲り受け、ある時このヤコブが神と格闘してイスラエルという名を与えられています。ヤコブ(イスラエル)には子どもが12人与えられています。その名は、ルベン、シメオン、レビ、ユダ、セブルン、イサカル、ガド、ダン、アセル、ナフタリ、ベニヤミン、そしてヨセフです。この十二人がイスラエル十二部族の各父祖であるという十二部族の起源神話です。
 イスラエル民族には、自分たちは「神に選ばれた民」であるという強い自覚と自尊心がありました。イスラエルの民は、かつてモーセの時代に、エジプトで奴隷とされていた時代があり、主なる神が弱く小さな奴隷の民の呻きをお聞きになり深い憐れみを寄せてくださり、その民をエジプトから救い出してくださいました。イスラエルの民には、「我々は神の民、神に選ばれた民」という自己理解が生まれます。しかし、時代と共にその「神に選ばれた民」という自己理解は、民族主義とでも言える方向へと質を変えていきます。
 自分たちは神から選ばれてその救いの中におかれているという自覚と自尊心は、次第に他民族や他国の人々との違いを強調し民族の純粋さを強調するようになります。また、同じイスラエルの民の間でも、選んだ神と選ばれた民との間の契約である「律法」を遵守することを強調するあまり、律法を守れない者はその民として相応しくないと見なされるようになり、そのように見なされた人々は差別され民の中から排除され迫害されるようになっていきました。
 主イエスは、そのように制度化し硬直化した当時の社会からはじき出されたり落ちこぼれた人たちを深く憐み、その人たちにこそ神の愛はもたらされなければならないとお考えになり、その人々のために枕するとこともなくお働きになりました。そして、「収穫は多いが、働き手が少ない。」と言って、十二人の弟子を呼び寄せられたのでした。
 主イエスの弟子の十二人とは、旧約聖書の神に選ばれた民を構成するイスラエル十二部族に替わって、神の御心をこの世に現わすために新しく神の選びを受けた者の集まりという意味がその数字に込められ、その意味で主イエスの御心を行う人の群れを「新しいイスラエル」と位置づける考えが生まれました。
 主イエスを救い主であると受け入れてその信仰を言い表し、主イエスに従って「神の国」の姿をこの世に実現させていこうとする人々の集まりが「新しいイスラエル」であり、その象徴として12弟子の選ばれている言えるのではないかと思います。
 少し細かなことになりますが、今日の聖書日課福音書の中で、第10章1節では「12人の弟子を呼び寄せ」と記し、第10章2節では「十二使徒の名は」と記しています。「弟子」と「使徒」を使い分けて、主イエスの弟子は主イエスによって新しい共同体の形成のために(つまり新しいイスラエルの形成のために)遣わされる者であることを示しているように思われます。
 主イエスの弟子となるためには何か資格や条件が必要なのでしょうか。
 もし、何か資格や条件が必要であるとすれば、それは、今日の使徒書の中にも記されているように、わたしたちは神に愛されている者だと言う信仰なのです。主イエスによって示された神の恵みを受け入れ、その恵みを感謝して生きる意思を表明している者であるかどうかということになるでしょう。
 主イエスが呼び寄せた12人を見れば、みな取るに足りない人たちであり、中には当時の社会における「はみ出し者」もいました。
 徴税人マタイは当時のユダヤを支配するローマ帝国の手先となってイスラエルの民から税金を取り立てる立場にありました。また、熱心党のシモンは神国イスラエルの独立と再建を実現するためなら武力をも用いようとす団体の一員であり、いわばユダヤ国粋主義者でした。他には、ガリラヤ湖の漁師たちもいて、こうした人々が主イエスさまに召し出され、神の愛を人々にもたらす人になっていったのです。弟子たちはその殆どがガリラヤの者であり、イスラエルの中心であり聖地であるエルサレムからみれば田舎者の集まりでした。この十二人の弟子たちの中にはユダヤ教の律法や祭儀の専門家など一人もいませんし、おそらく由緒ある家系の者もいなかったでしょう。これが主イエスの意思を継ぐ者である「新しいイスラエル」の始まりなのです。それぞれの生活の中で、主イエスとの出会いがあり、主イエスに召し出され従ったところに新しい弟子集団が生まれています。
 彼らが主イエスに召し出されたとき、もし熱心党のシモンや徴税人マタイがイエスを利用して自分の主義や主張を広めたり押し通そうとしていたら、弟子集団は「新しいイスラエル」として一致することはできなかったでしょう。
 今日の福音書マタイ9:36にあるように、弟子たちが召し出されて遣わされていくことの根底には、主イエスが飼い主のいない羊のように弱り果て打ちひしがれている人々を深く憐れみ、その人たちのために神の御心を伝え、身をもって示さないわけにはいかない主イエスさまの思いがあったのです。
 私たちも、一人一人が召し出された背景があり、その背景は実にさまざまです。でも、その私たちが、主イエスから「深い憐れみ」を受けて、召し出されたことは誰もが共通しています。そして、それぞれに違う生活の背景を持ちながらも、「イエスは、わたしの救い主です」という信仰を持つことにおいては一つになっています。
 初代教会の指導者であり宣教者であったパウロは、元ユダヤ教ファリサイ派の熱心な人であり、律法を守ることに厳格ではなかったクリスチャンたちを迫害することに息巻いていました。しかし、やがて幻でキリストと出会い、回心して、イエスを救い主と告白して、主イエスに示された神の愛を熱心に伝える人になっていきました。
 そのパウロが、コリントの信徒への手紙T第1章26節以下で次のように言っています。
 あなた方が召されたときに、能力のある者や家柄の良い者を選んだわけではなく、むしろ世の中の無に等しい者や身分の卑しい者や見下されている者をお選びになったのであり、それは、誰一人神の前で自分を誇ることがないようにするためだと言っているのです。
 私たちも、主イエスによって選び出されこうして生かされていることを誇りたいと思います。そして、主イエスによって示された神の愛によって一つである「新しいイスラエル」を造りあげる働きに与ります。神の国は、特定の人種や民族によって成り立つのではなく、主イエスを救い主と信じて受け入れる人々の思いと言葉と行いによって成り立つのです。
 私たちは、例え小さくても、自分の働きをもって主に仕え、主の御心をこの世に示す者として養われて参りましょう。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 23:21| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年06月08日

ガリラヤから世界へ 聖霊降臨後第1主日・三位一体主日 マタイによる福音書28:16−20 2020.06.07

ガリラヤから世界へ 聖霊降臨後第1主日・三位一体主日 マタイによる福音書28:16−20
                             2020.06.07
 
 教会暦は、復活節、聖霊降臨日を経て、聖霊降臨後に期節に入りました。聖霊降臨後第1主日は、父と子と聖霊なる三位一体の神を覚える主日です。この主日の聖書日課福音書には、マタイによる福音書の最後の部分から取り上げられています。
 主イエスは、おそらくガリラヤ湖を見下ろすことの出来る小高い山で、弟子たちに最後の言葉を残しておられます。もしかしたら、主イエスが宣教の初めに山に登り「山上の説教」をなさった同じ山の同じ場所で、弟子たちにこの派遣の御言葉をお与えになったのではないかと、私は勝手に想像しています。
 19節、20節をもう一度読んでみましょう。「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
 マタイによる福音書の最後にある主イエスのこのみ言葉は、主イエスの「大宣教命令」と呼ばれています。復活なさった主イエスは、度々弟子たちにお姿を現しましたが、弟子たちはもうこの世で直に主イエスを見ることはなくなる時がきました。その時に、主イエスが弟子たちにお話しになったのがこのみ言葉であり、この「大宣教命令」は、復活の主イエスの遺言、遺訓であると言うことができるでしょう。
 この言葉が語られたのは、ガリラヤ地方の山でした。はじめに、この言葉が語られたのがガリラヤであったことに注目してみましょう。
 主イエスが十字架にお架かりになったのはイスラエルの中心地であるエルサレムであり、「イエスは甦った」という噂もエルサレムから広まりました。ガリラヤ地方はそこから直線で100q近くも離れており、辺境のガリラヤとも言われていました。
 主イエスが弟子たちに最後の宣教命令をお伝えになったのが、エルサレムではなくガリラヤ地方であったのは何故なのでしょうか。そのことを考えるために、マタイによる福音書28章の少し前の部分を見てみましょう。
 主イエスが墓に葬られて、最初に墓に行った婦人たちは、第28章7節にあるように、天使にこう告げられています。
 「急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』」
 また、第28章9節では、主イエスご自身が婦人たちにこう言っておられます。
 「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしは会うことになる。」
 このように、マタイによる福音書は、弟子たちが甦った主イエスにお会いする場所はガリラヤであると伝えています。ガリラヤ地方は、主イエスと弟子たちにとって活動の出発点であり、マタイによる福音書は、弟子たちの召命の原点であるガリラヤをかなり意識しつつ強調しています。
 最初の弟子であるペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネらは、ガリラヤ湖の漁師でした。彼らが「人間を取る漁師」になるように召し出されたはガリラヤ湖のほとりであり、主イエスが山の上から多くの人に教えを説かれたいわゆる山上の説教は、ガリラヤ地方の小高い山でのことであり、徴税人マタイが主イエスに召し出されたのもガリラヤ湖の畔の徴税所でのことでした。
 多くの弟子がかつてガリラヤで主イエスと出会い、それまでの自分を捨てて主イエスに従い、生活を共にしました。弟子たちは、主イエスの慰めと励ましに満ちた言葉を聴き、癒しの業を目の当たりにし、自分たちも癒やされ力づけられ、主イエスの御言葉と御業に神の国の姿が現れることを体験しました。その一方で、主イエスは、ガリラヤからエルサレムに上っていって、祭司長、長老、学者たちからの非難や迫害とその果てのリンチ同然の十字架の死。そして、甦りました。弟子たちにとってこれら全てのことの始まりがガリラヤであり、「福音の初め」はガリラヤであり、ガリラヤはいわば彼らの信仰の出発点を意味していると言えます。
 そして、復活なさった主イエスは、ガリラヤで弟子たちとお会いしました。そのガリラヤを最後に、主イエスは天に昇って行かれます。
 弟子たちにとって、主イエスがもう目の前から見えなくなるのなら、弟子たちの集団はもう解散してしまうのでしょうか。
 そうではありません。召し出された原点に戻り、主イエスの遺言の通り、そこから父と子と聖霊に御名によって生きる歩みが始まるのです。主イエスが命じられた働きへと遣わされるために、弟子たちは、また私たちは、自分の信仰の原点を確認し、ここから全世界への宣教の働きが始まるのです。
 弟子たちは各自の信仰の原点であるガリラヤで甦りの主イエスとお会いし、その主イエスに促されて、自分たちもまた主イエスのように生き、主イエスのことを宣べ伝えて生きていくのです。主イエスはそのように生きる者と共に世の終わりまでいてくださると約束してくださいました。
 弟子たちは、駆り立てられるかのように、主イエスこそ救い主であると宣べ伝えはじめます。主イエスに出会い、主イエスに生かされたことを自覚する弟子たちは、その主イエスを知らせることに突き動かされていきます。
 教会暦に目を向けてみましょう。教会の一年は、降臨節に始まります。そして、主イエスの降誕、洗礼、公生涯、その果ての十字架の死、復活、そして戦主日には聖霊降臨の時を過ごしてきました。これまでの半年を通して、主イエスがこの世界に示して下さった神の国が私たちにももたらされていることを経験して来ました。私たちは、このような教会暦を覚えて礼拝し、聖書の言葉や聖餐を通して主イエスと出会っているのです。そのような出会いの中で、私たちは主イエスによって神さまの御心が現れ出る姿を学び、主イエスと出会いってきました。
 その一方で、主イエスによってもたらされた神の国の姿に照らして、今のこの世界を見渡す時、私たちは神の御心とこの世界との間には大きな断絶があることを認めないわけにはいかないでしょう。
 主なる神は、神の御心とはかけ離れたこの世に、主イエスを遣わしてくださいました。主イエスは神と私たちの間に立って、私たちを執り成し、神と私たちとの間に救いの道を開いてくださいました。私たちはこの主イエスを私たちの信仰の原点として、主イエスを宣べ伝えるためにこの世界に遣わされていきます。その働きを担う者には聖霊が力となって働いてくださいます。
 私たちも、主イエスの弟子となって、大宣教命令を受けてこの世界に派遣されていく者です。私たちもその前提として自分が主イエスと出会い生かされる原点に立ち戻るのです。ガリラヤとはそのように主の働き人が召し出された場であり、信仰生活の原点を表しているのです。
 主イエスが、最後に、ガリラヤの小高い山の上で弟子たちに告げられた「大宣教命令」の言葉を、私たちに与えられた言葉として、もう一度聴きましょう。
 「だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊に名によって洗礼を授け、あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
 主イエスは、その生涯を通して神の御心を示しました。
 主イエスは、この最後の言葉によって、「さあ、今度はあなた方が神の御心を示す出番です。私はそれを行うあなた方と永遠に共にいます。」と弟子たちに、そして、私たちに言っておらるように思われます。
 教会暦ではこれからの約半年間を「聖霊降臨後の期節」を過ごしていきます。世の終わりまで共にいて下さる主イエスの御守りを受け、私たちの思いを遙かに超えて私たちを励まし支えて下さる聖霊によって力付けられ、この世界に「御国が来ますように」「御心が天に行われるとおり地にも行われますように」と祈りつつ、私たちも宣教の歩みを踏み出していきましょう。
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