2020年12月23日

お言葉のとおりこの身に ルカによる福音書第1章26〜36  B年降臨節第4主日 2020.12.20

お言葉のとおりこの身に ルカによる福音書第1章26〜36  B年降臨節第4主日 2020.12.20

 聖餐式日課B年の降臨節聖書日課福音書は、「受胎告知」の物語が取上げられています。
 天使ガブリエルがナザレのマリアに現れたのは突然のことでした。マリアはヨセフと婚約関係にありました。ガブリエルはマリアの所に神のご計画を告げるために遣わされたのでした。
 天使はこう言いました。
 「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる。」
 マリアはこの言葉に戸惑いました。「なぜ、今、わたしのところに!?」「その言葉は何のこと?」
 天使ガブリエルがマリアに告げたのは、とても理解し難くまた受け入れ難いことでした。
 「あなたは身ごもって男の子を産む。その子をイエスの名付けなさい。」
 細かなことですが、私たちの聖書には訳されていないのですが、原文の言葉では、31節の「あなたは身ごもって・・・」という言葉の前に「見よιδου」という言葉が付いているのです。この「見よ」は、例えば日本語でも何か大切なことを話す前に「いいですか!」と付け加えるのに似て、注意を喚起する場面で用いられます。天使ガブリエルは、マリアに(そしてこの福音書を読む私たちに)「見よ」と呼びかけ、大切な神の言葉に注目するように促しています。
 この「見よ」に続く天使ガブリエルの言葉は、マリアの想像の範囲を遙かに超える内容でした。
 まだ結婚していないマリアが、身ごもって男の子を産む、と言うのです。しかも、その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、あなたが産んだ子に父ダビデの王座を与える。彼は永遠にヤコブの家(つまりイスラエル)を治め、その支配は終わることがない。」と言うのです。
 マリアは、あまりに突然に、しかもとても信じられず受け容れ難いことを告げられて、思わず拒否せずにはいられませんでした。
 「どうして、そのようなことがあり得ましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」
 マリアは、神の働きが時には人の思いを超えて人に迫ることは承知していたでしょう。そしてそこに恵みがあり救いがあることも知っていたはずです。でも、それがガリラヤの片田舎の平凡な私に起きるなんてあり得ないこと、しかも自分がまるで未婚の母のようになって、生まれてくる子どもが天の王座に着くなど、とても納得できることではありませんでした。
 聖書はマリアが丁寧な口調で応じているように訳していますが、「そんなことあり得ません!」というのがマリアの反応だったのではないでしょうか。マリアは驚きうろたえて、思わず天使の言葉をはねつけたことでしょう。
 「そんなこと、あり得ません。私はまだヨセフと夫婦になっていません。」
しかし、天使ガブリエルは神の意思とその計画をそのまま過不足なく伝えます。それが天使の務めです。そして、マリアはこの知らせをそのままに受け容れることでマリア自身として生きることになります。
 話は少し逸れますが、神は私たちもそれぞれに神の勤めを負わせます。しかし、私たちも、天使の言葉を聞いて驚き戸惑ったマリアのように、示されたメッセージを拒み、色々な理屈をつけてその勤めを逃れようとします。
 「私にはとてもそんなことできないから。」、「伝えても、分ってもらえないから。」、「私がそれをやっても、大した意味ないから。」と言い訳し、神の意思を受け容れるを躊躇い、大切なことを伝えず、当たり障りのない言葉でその場を装うことになります。その場は、上辺は保たれたようでありながら、そこに神の御心が現れ出る機会が失われていきます。それが積み重なっていくといつの間にかすっかり神の御心から離れたことにもなりかねないのです。
 天使ガブリエルは、しっかりと、過不足なく神の言葉を伝えます。「聖霊があなたに宿り、いと高き方の力があなたを覆う。」と続けます。
 マリアは言いました。「わたしは主のはしため(仕え女)です。お言葉どおり、この身に成りますように。」
 マリアは、驚き、狼狽え、天使の言葉を拒んだ末に、やっとその言葉を受け入れました。
 私は、マリアがこの天使の言葉を本当に受け入れるのは、もっとずっと後になってのことだったのではないかと思うのです。でも、天使ガブリエルが「見よ」と言ってマリアと向き合い、天使がマリアに伝えた神の意思は、マリアの魂を目覚めさせ、マリアの心はしっかりと神に向き合ったことは確かです。
 先ほど、31節にある天使の言葉の始まる箇所には、原文では「見よ」という言葉があるとお伝えしましたが、実はもう一つ38節のマリアの言葉にも、この「見よιδου」があるのです。
 「見よ、わたしは主のはしため」。
 天使ガブリエルの「見よ、あなたは身ごもって男の子を産む」に応じて、マリアは「見よ、わたしは主のはしため。お言葉どおり、この身に成りますように。」と言っています。神の言葉を告げる天使ガブリエルとその言葉を受けたマリアの思いがここで一つになっています。それぞれにこの「見よ」と言う短い言葉を用いて大切なことを伝え合い、天使ガブリエルとマリアが心を一つにしている姿がここに表現されています。
 マリアは自分を「主のはしため」と言っていますが、この「はしため」という言葉について少し思い巡らせてみたいと思います。『聖書−聖書協会共同訳』では「仕え女」と訳されています
 この言葉の原語は、女性名詞形「δουλη」男性名詞形「δουλοs」で、売買の対象にもなる奴隷や召使いを意味しています。パウロも自分を「キリストの僕」という意味でこの δουλοs という言葉を頻繁に用いています。パウロはキリストに自分の生涯を献げて生きる者、罪人である自分がキリストに贖われてキリストのものとなった自分を「主の僕」と言っています。パウロがこの言葉を用いて自分を説明するのと同じように、マリアも主の僕であり主の仕え女なのです。
 奴隷であれば、主人の意のままを行うことが自分の勤めです。神の御心をそのままに行なう使命がありますが、それは単に自分の思考を停止して主人の操り人形になることではなく、神の意思を実現するために積極的に主人の願うことを実行するのです。そのようにして、神の御心が自分を通して実現するように徹するのが 主のδουλοs僕、主の仕え女 δουλη なのです。
 マリアは、天使の御告げを受け入れ、神の子と呼ばれるようになる子を産み育てる者であることを決心しました。マリアがこのお告げに応えることによって、マリアを通して神の御心が実現し、マリアは他の誰にも代わることのないマリアとして生きることになります。
 この後、マリアはエリサベトを訪ねますが、エリサベトはこう言ってマリアを祝福しました。
「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、何と幸いでしょう。」
 マリアはこの祝福を受けて喜んで主をたたえて歌います。
 「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、このはしため δουλη にも 目を留めてくださったからです。」
 やがてこのマリアから生まれ育ったイエスは、マリアと同じように主なる神の御心を生き抜き、十字架の上からさえ自分を十字架につける者を執り成し、悔い改める罪人に共にパラダイスにいる約束を宣言する生涯を送りました。
 このお方の生まれにも、育ちにも、その根底にはマリアが神の御心を受け入れて、神の御心に徹する生き方があったと言えます。
 マリアの「お言葉のとおりになりますように」という生き方は、イエスの十字架の言葉「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます。」という生き方を育んでいきます。
 私たち一人ひとりにも、それぞれに神から与えらえた僕δουλοs, δουλη としての使命があります。マリアにはマリアの特別な使命があり、私たち一人ひとりにもそれぞれに神から与えられた使命があります。主の天使は、私たちにもその使命に生きように促しています。
 その使命に生きる者に天使ガブリエルは言います。
 「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。」と。
 御心を行う者に聖霊が降り、神の力が私たちを包むのです。
 私たちは、「わたしは主の僕です。お言葉どおり、この身に成りますように」と答えることを恵みとすることが出来ますように。そして、いと高き方の力に包まれて自分の生涯を歩むことへと導かれていくことができますように。
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2020年12月14日

イエスを証する洗礼者ヨハネ    ヨハネによる福音書第1章6−8,19−28節  降臨節第3主日B年   2020.12.13

イエスを証する洗礼者ヨハネ   ヨハネによる福音書第1章6−8,19−28節  降臨節第3主日B年
                           2020.12.13
 
 降臨節第3主日の福音書は、先週の福音書に引き続き、私たちが主イエスを迎え入れる備えをするように導いています。洗礼者ヨハネが救い主である主イエスを指し示している箇所が取り上げられています。
 私たちは、先週の福音書でも洗礼者ヨハネのことを学びましたが、そこでは、救い主を迎えるために、悔い改めて道を整えるように促す洗礼者ヨハネの言葉を聴くことが「福音の初め」であることを教えられました。私たちが心の道を整えて真っ直ぐにし、主イエスを迎える備えをするように促されました。私たちは、今日の聖書日課福音書で、洗礼者ヨハネが主イエスを指し示して生きる姿を示されています。洗礼者ヨハネの指し示す主イエスを救い主として迎え入れる備えを進めたいと思います。
 ヨハネによる福音書第1章7節と8節に、洗礼者ヨハネは「光について証しをするために来た」という言葉が出てきます。この箇所だけではなく、ヨハネによる福音書の始めの方には、洗礼者ヨハネが主イエスの「証しをする」と言う言葉が幾度も出てきます。この「証する」という言葉は、「身をもって示す」という意味で、「殉教する」という意味でも用いられます。洗礼者ヨハネはエルサレムの指導者たちから「あなたはどなたですか。」と尋ねられた時、1章20節で「わたしはメシアではない。」とはっきりと言い、更に23節で「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。」とはっきり答えています。
 洗礼者ヨハネは「自分はメシアではない」と言っていますが、この「メシア」という言葉は、元々イスラエルの人々が用いていた「油を注ぐこと」に由来するヘブライ語で、「油注がれた人」という意味の言葉です。旧約聖書の時代から、イスラエルの祭司長や王が即位する時にその人に油を注いで祈り聖別しました。やがて時代が経ち、この「油注がれた者・メシア」という言葉は特別な期待と意味が付け加わるようになっていきます。そして、新約聖書の時代になる頃には、イスラエルの民を救い出す「救い主」を意味するようになりました。そして、このヘブライ語がギリシャ語に訳されると、油注ぎのことを「クリスマ」、油注がれた人を「クリストス」と言うようになるのです。
 主イエスの時代に、イスラエルの中にはメシア(キリスト)が待ち望まれていました。当時、イスラエルの国はローマ帝国に占領されてその属領となり、イスラエルの民は政治的に独立を回復することを願い、ローマ帝国へのテロや反乱もあり、民は精神的にも不安定になっていました。そのような時代の中で、多くの人が人々を導き方向付け、希望を与えるメシア(キリスト)の出現を待ち望んでいました。中には時に乗じて自分をメシア(キリスト)であると言って社会を混乱させる者も現れていました。
 当時のイスラエルに限らず、世界の歴史の中で、情勢が不安定になると、民衆の心をつかむ魅力的は思想によって世の中を動かそうとする者が現れます。その中には、世界を自分の思い通りにすることを目論み、民衆を間違った方向に扇動する者も出てきます。
 20世紀になってからでさえ、経済的に困窮したドイツにルドルフ・ヒットラーが現れて、後から振り返ってみればとても20世紀の出来事とは思えないようなことさえ起こります。
 洗礼者ヨハネも多くの人に指示されますが、ヨハネはハッキリと「私はメシアではない」と言っています。ヨハネは自分を「荒れ野で呼ばわる声」であると自己規定し、主イエスを指し示し、主イエスを証しすることに徹しました。洗礼者ヨハネはそこに立って揺れることもブレることもなくしっかりと主イエスを指し示す生涯を送りました。ヨハネは、第1章27節で「その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履き物のひもを解く資格もない。」とまで言って、主イエスを証することにしっかりと立っています。この言葉は、謙遜したり自分を卑下している言葉ではなく、洗礼者ヨハネが自分が何者であるのかをしっかりと認識し、その働きを全うしようとするところに表された言葉であると言えるでしょう。
 この洗礼者ヨハネを、今日の福音書は第1章8節で「彼は光ではなく、光について証しをするために来た。」と言っています。福音記者ヨハネは、主イエスを「光」として捉え、そのイエスを指し示す洗礼者ヨハネを「彼は光そのものではなく、光を指し示し、その光を映し出すためにこの世に生きた」と意味づけます。
 このことを考える時に、主イエスを太陽に、洗礼者ヨハネを月に例えて考えてみると、この両者の関係はより明確に理解できるのではないでしょうか。
 月は自分では光を放ちませんが、太陽の光を受けて照らし出されることでその存在を示すことが出来ます。仮に輝いている月を見てその光を誉める人がいても、月は自分が光を出しているかのように自分を誇ってはならないのです。月の光は月そのものの光ではなく、月は太陽の光を受けてそれを反射しているからです。もし「光」を誉め称えるのであれば、光源である太陽が誉め称えられるべきで、太陽の光を反射して映し出されている月は自分をそのように照らしてくれる太陽にその栄光を帰して、その上で太陽の光を反射することで美しさが浮かび上がることを感謝すべきなのです。
 そして、今日の福音書が示している「光」は、単に物理的な光のことではなく、「み言葉のうちにある命」のことなのです。この命の光は、第1章9節に記されているように、「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らす」のです。先ほどの太陽と月の例えで言えば、私たちは、主イエスを太陽としてその光によって照らし出される月のように位置付けられます。
 この例えに引きつけて言えば、私たち人間は自分が光の源になることはあり得ません。でも、神は私たちを神の似姿に創ってくださいました。それは、私たち人間がまことの光である主イエスを映し出すことが出来るように創られたことにつながっていきます。私たちが神の光である命の言葉を受けて神の輝きを映し出す時、私たちは人としても最も輝くことができるのです。
 旧約聖書創世記の始めに、アダムとエバが初めての罪を犯した物語があります。神との約束を破って知恵の木の実を食べてしまったアダムとエバは、神である主の顔を避けて園の木の間に身を隠しました。ここに罪を犯した者が神の輝きを受けることを避けようとする姿が描かれており、そのような人間の態度は神の御心を映し出せなくなっていることが示されています。
 この、アダムとエバを見れば分かるとおり、私たちが神の御言葉から遠ざかって神の御前に進み出ることをためらったり怠ったりするのであれば、私たちも神の光を映し出して輝くことが出来なくなるでしょう。先の太陽と月の関係で言えば、太陽の光が当たらない後ろの半分は暗闇の中にあります。私たちも主イエスの御言葉に自分を照らすことなく神の御心に背を向けてしまうのなら、私たちは、暗闇の中にあり、自分の居場所を確かめることも出来なくなり、自分が歩むべき方向を見失うことになるでしょう。
 光は例え小さな一点の光であっても、真っ暗闇の中で私たちを導いてくれます。この光を指し示して証ししたのが洗礼者ヨハネであり、私たちはこの主日にヨハネに促されてこの世の光である主イエスに心を向け迎え入れるように導かれております。
 私たちは主イエスの御言葉の光に照らされて、自分を献げて主イエスの救いを証しできる信仰者へと導かれ育まれて参りましょう。
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2020年12月06日

救い主を迎える備え マルコによる福音書第1章1〜8節 降臨節第2主日  2020.12.06

 救い主を迎える備え マルコによる福音書第1章1〜8節 降臨節第2主日 2020.12.06
 
 主イエス・キリストのご降誕を祝う日(クリスマス)の備えの時を過ごしています。今日はその二つ目の主日、降臨節第2主日です。
 この主日は「主の道を備えよ」という事がテーマになっています。
 マルコによる福音書には、主イエスの誕生物語はありません。マルコによる福音書は、主イエスの公生涯を、つまり成人した主イエスが神の国を実現する働きを公になさったことを記しています。
 マルコによる福音書は、マタイやルカの福音書に記されているような所謂クリスマス物語はなく、主イエスの公生涯から始まっています。
 「神の子イエス・キリストの福音」は、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えたことに始まっています。洗礼者ヨハネは主イエスの先駆けとして現れ、救い主を迎えるためには悔い改めてそのしるしとしての洗礼を受けるように、人々に大声で伝え促しています。
 洗礼者ヨハネは、救い主を指し示した人であり、旧約聖書と新約聖書をつなぐ時代を生きた人であると言えます。
 マルコによる福音書に限らず福音書は、洗礼者ヨハネを旧約聖書からの流れの中に「旧約時代の最後の預言者」と位置づけ、主イエス・キリストの福音は旧約時代からの脈絡の中で、神の御心が実現したこととして説明しています。
 洗礼者ヨハネは、旧約聖書には登場しませんが、旧約聖書の中には、今日の福音書の箇所に関連する箇所がいくつかあります。
 その一つは、マラキ書第3章1節です。マラキ書は旧約聖書39書の最後に置かれている小さな預言書であり、そこには次のような言葉があります。
 「見よ、わたしは使者を送る。彼は我が前に道を備える。あなたたちが待望している主は突如、その聖所に来られる。」と記されていますが、更に3:23以下には次のような言葉があります。「見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に、子の心を父の向けさせる。わたしが来て、破滅をもってこの地を撃つことがないように。」
 預言者マラキは、主なる神がこの世を破滅で終わらせることにならないように、神としっかり心を交わし合うことが出来るように、神は審きの日の前に、使者として預言者エリヤをもう一度遣わす、と言っています。
 マルコによる福音書では、このエリヤと洗礼者ヨハネを重ね合わせ、洗礼者ヨハネこそエリヤの再来であると位置づけています。福音記者マルコは、終わりの時の審きである主イエスの先駆けとして来ることになっているエリヤは、この洗礼者ヨハネなのだと位置づけて洗礼者ヨハネを登場させています。それは、洗礼者ヨハネの姿に着目してみると分かってくることで、この福音書が記された時代の人々にはすぐに連想できることでもありました。
 旧約聖書列王記下第1章にその物語があります。紀元前850年頃の王アハズヤと預言者エリヤの話です。ある時、アハズヤ王は部屋の欄干から落ちて動けなくなってしまいました。アハズヤは異教の神であるバアル・ゼブブに使者を遣わして、治るかどうかを尋ねさせようとしたのです。しかしその遣いの者は途中で主なる神の預言者に出くわしてこう言われたのです。
 「お前たちは異教の神バアル・ゼブブの所に出かけようとしているが、イスラエルには神がいないとでも言うつもりなのか。戻って、もう王はベッドから降りることもなく死ぬと伝えよ。」アハズヤは戻ってきた遣いの者たちに尋ねました。「お前たちにそう言ったのはどんな男か。」彼らが「毛衣を着て、腰には革帯を締めていました。」と答えると、アハズヤは「それはティシュベ人のエリヤだ」と言ったのでした。やがてエリヤの言葉のとおりアハズヤ王はベッドから降りることもなく死んだのでした。このエリヤの姿(格好)が洗礼者ヨハネと同じなのです。福音記者マルコは神の子が来る先駆けとしてエリヤが来るという言い伝えをベースにして、神の子主イエスの先駆けとして洗礼者ヨハネが姿を現し、神の子を迎え入れる準備として悔い改めるように叫んだことを伝えているのです。福音記者マルコはこのような描き方で福音書をスタートし、主イエスによって新しい時代が始まったことを伝えています。洗礼者ヨハネは、他の例えで言えば、明けの明星となって、これまでの夜の時代が終わり光の時代が来ることを人々に示していると言えます。
 しかしその当時、イスラエルの国はローマ帝国に占領されてローマの属領となり、ローマから派遣される総督によって統治されていました。そのため、イスラエルの人々が「神の国を回復する」とか「救い主が現れる」ということを考えると、多くの人が先ず思い浮かべたのはローマからの政治的解放であり、イスラエルが国としての独立を勝ち取るための政治的指導者の出現のことでした。そのような中、洗礼者ヨハネは一人ひとりの悔い改めを説きました。
 洗礼者ヨハネにとっても、イスラエルの国がローマの支配から独立を取り戻すことは大きな関心事であったかもしれません。信仰を確かにすることは政治的な関心を捨てることではありません。むしろ、信仰を具体的に表現すれば、神の御心とかけ離れた政治的な不正や腐敗に対して憤ったり、私たちの生きる世界が神の望む姿になるように自分も努めることは大切なことでしょう。洗礼者ヨハネも、やがてヘロデ王の不正を正面から指摘して、捕らえられることになっていきます。人は時間的にも空間的にも限られた中でこの世に命を与えられ、その中で自分の生きる場所に神の御心が実現するように生きていくのです。
 洗礼者ヨハネは、私たちが救い主を迎えるために必要なことは、先ず悔い改めることであると指摘します。
 今日の福音書には、多くの人が洗礼者ヨハネの勧めに従って罪の赦しを得るための洗礼を受けるた様子が描かれています。福音書を記したマルコは、人々に救いをもたらす神の子は、政治的な独立を勝ち取るために働くお方ではなく、私たちの罪を赦して私たちを愛し抜いてくださるお方であることを示しました。福音記者マルコは、私たちが悔い改めて主イエスを迎え入れることによって命へと導かれると教えます。洗礼者ヨハネは、救い主イエス・キリストを迎え入れるために、私たちはまず自分の罪を認めその汚れを洗い清めるために洗礼を受けるように勧めます。神の子イエス・キリストとの交わりはそこから始まることを洗礼者ヨハネは伝えています。
 もし、私たちが誰か大切なお客様を自分の家にお招きするとしたら、私たちは部屋や玄関を掃除したり、必要であればお茶や食事の用意もするでしょう。私たちはそのことを喜んでそれをするはずです。その準備と同じように、私たちは救い主を迎えるのに一番相応しい準備をする時を、今、教会暦の中で過ごしています。
 福音書を読み進めていくと、どの福音書でも、そこに証しされている主イエスは、この世に深く入り込んだ悪とその行く末である死と戦い、十字架の上で死に渡されることになろうと人々を赦し抜き、甦ってくださったことにまで行き着きます。神は私たちを罪と死の世界に渡すことなく、私たちに神の御心に生きる喜びを与えてくださいました。その救い主にある喜びを伝えているのが福音書です。
 救い主イエスを迎えるために、その道を整え、その道筋を真っ直ぐにせよ、と今日の福音書は私たちを導いています。
 ことにマルコによる福音書では、福音とは、私たちを受け入れ、赦し、愛し抜いて、罪とその結果である死を滅ぼしてくださった主イエスそのものです。その福音の初めは、まず私たちが心を正して救い主を迎えるための通路を真っ直ぐにすることであると洗礼者ヨハネは訴えています。
 心からの感謝と喜びをもって神の子イエス・キリストのご降誕を迎えることが出来るよう、自分を整え準備を進めて参りましょう。
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