2020年10月06日

儀式とステージ

儀式とステージ

 もう10月なのに、ふと「今、何月だったかな?」と思うことがあります。自分の年齢のせいなのかなとも思うのですが、今年の諸状況を思うと、必ずしも年齢のせいだけではないようにも思えます。
 私が考える「今年の諸状況」とは、新型コロナウイルス感染症の防止対策のため、今年の3月以降、教会でも沢山の行事や集会を中止したりその規模を縮小したりしながら過ごしていることです。幼稚園でも同様です。
 幼稚園では、卒園式や入園式を簡素に行い、春の遠足やお泊まり会をはじめとする幾つかの行事を中止し、約2ヶ月間にわたって多くの子どもたちが通園を控えました。例年であれば、その間に行われている春の遠足、父の日参観、年長児のお泊まり会などの諸行事もありませんでした。
我が家でも、いわゆるお盆休みの時期には毎年子どもたちが親元に集まって1日か2日を過ごしてきましたが(ちょうどその時が私たち夫婦のそれぞれの誕生日にも重なっています)、今年は誰も来ることが出来ませんでした。テレビをつけてみても、夏の甲子園は例年とは違う姿で、私の夏を演出してくれるものにはなりませんでした。
今年の夏は記録的な暑さになりましたが、日々のことを坦々と行った他には特に印象に残る出来事のごく少ない夏を過ごして9月を迎えました。9月になって、幼稚園には夏休み中の預かり保育期間とは違う活気が戻りましたが、私の中には夏らしい思い出がなく、まるで週末が開けた月曜日のような感覚での第2期(9月)が始まったわけです。
 教会では、新型コロナウイルス感染症が拡大し始めた今年の春の頃、すなわち大斎節に入った頃から、礼拝(公祷)と集会を自粛するようになりました。主日にも、聖餐式を控えて、通常では行われることのない「司祭が司式するみ言葉の礼拝」を行い、その中で聖歌の歌唱や詩編の交唱を割愛して、できるだけ簡素な形での礼拝を継続してきました。6月から聖餐式は再開していますが、聖歌やチャントを歌わず、一部を割愛する形式はでの礼拝はまだしばらく続きそうです。
教区の各教会では、主イエスの十字架に思いを向ける聖週や復活の喜びを分かち合う時にも、今年は「そっと」過ごしました。北関東教区の恒例行事でもある「教区信徒一致の日合同礼拝」は、案内書の発送直前にまで準備も進んでいましたが、新型コロナウイルスの感染者数増加に鑑み、一度は延期にして開催できる日を探ってきましたが、コロナ禍がなかなか収束せず、残念ながら今年は中止になってしまいました。
例年であれば、合同礼拝では各教会から集う仲間が心を一つにして礼拝し、その後は教区婦人会主催バザーその他で、仲間が健在であることを確認したり親交を持ったりするはずでしたが、今年はその機会を失ってしまいました。「信徒・教役者の集い」も、当初、9月の連休に予定して、講師との打ち合わせも進んでいましたが、同じように中止になりました。
 多くの人が、不要不急の外出を控え、主日礼拝の出席も控えて過ごしています。
 こうした日常は、私だけではなく誰にも、ちょっと言い過ぎかもしれませんが、濃淡や起伏のない生活になっていることでしょう。その中でも、為すべきことを堅実に行っていくことは大切なことであり、そのように努めてはいますが、今年は、私も、これまで生活の節目になってきたはずの行事や特別な日が極端に少なくなっています。
 私が「今、何月だったかな?」と思うのは、例えば、毎年復活日の礼拝で歌っている聖歌を礼拝の中で歌わなかったり、幼稚園で毎年遠足に行っている時期に行っていなかったりという今年の状態と深く繋がっていると思うのです。
我が家のことでも、3人の息子とその家族が集まって、孫も一緒に賑やかに食事をして、その後は深夜まで延々と話し続ける日がないままに、今夏が過ぎてしまいました。コロナウイルスの感染リスクを避けて生活することはやむを得ないことですが、その生活を続けることで、本来ならば得られるはずの経験が得られず、ある意味、単調な日々を強いられたわけです。そのような生活の季節感のなさや単調さが、記録的な暑さの一夏を過ごしても、「今、何月だったかな。」とふと感じる要因なのではないでしょうか。
 このように振り返ってみると、今年は私にとって大切であった「儀式」が行われてこなかったと言えます。その儀式とは、公の行事の場合もありますし、私の個人的な節目となる出来事である場合もあります。いずれにしても、その儀式は私の心の中にけじめや節目をつくり、次のステージへと向かわせる大切な出来事であることを再認識しています。
「儀式」は、日々の坦々とした生活とは違う出来事の経験となって、私たちの中で、特別な色濃い節目をつくります。「今年の○○は良かったね。」、「次の○○でまた会いましょう。」と、その経験を家族や仲間と共有し、その経験を次の○○を待ちながらまた日々の生活を過ごすことになります。日々の生活の中でまた力を蓄え、次の出来事を心待ちにしながら過ごすことになります。
 毎日の生活を坦々と営むことの大切さと共に、その生活を刺激し彩る「儀式」の大切さを痛感するこの頃です。

 (水戸聖ステパノ教会月報『草苑』2020.10.05 第589号)
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2020年07月05日

「コロナ対策」の「新しい生活様式」という言葉に思う

 
 2020年の上半期には、新型コロナウイルス感染症拡大防止のために、物質的にも精神的にも多くのエネルギーを費やしてきました。このウイルス撲滅は難しく、これからはこのウイルスと共存が必要であるとして、そのための「新しい生活様式」が提唱されています。その「様式」は、感染リスクを避けるために、お互いに距離を取り、互いに接触の機会を少なくする項目が沢山挙げられています。
私は、この「新しい生活様式」という言葉が出る度に、ある種の苛立ちと共に人の成長についての不安を強くしています。と言うのも、私は、人は「大切な他者」とのスキンシップ、視線、言葉のやりとり等による触れ合いと心の交流によって心身の成長と健康を保つことができると考えるからです。
 「新しい生活様式」とは、そうした一面に目をつぶってでも、新型コロナウイルスの感染リスクを下げて、互いに生命を守らなければならないという危機的な状況に対処する必要から生じた言葉であることを踏まえておきたいと思います。これまでの生活様式を「新しい生活様式」へと転換する必要があるしても、これはあくまでもコロナ対策であり、将来に渡って造りあげていくべき「新しい生活様式」ではないと思うのです。
私の極めて個人的なことを記します。
私の父親は、第2次世界大戦の兵役から帰還した後、肺結核を患いました。かなりの大病でしたが、戦後の物資不足の時代を何とか乗り越えて、健康を回復することができました。私は、父親の闘病時代に生まれており、自分の命があることは、ある意味、奇跡的なことです。
私が4歳の頃、父親は長い入院生活から戻って来ました。父の背中には、両肩甲骨に沿って切開と縫合の大きな傷跡がありました。これが私の父親についての最初の記憶です。私は生まれてから4歳近くまで父親不在で育ち、退院した父親は私たち子どもの結核罹患や陽転に神経質で、家族との接触を避けて過ごしていました。私の家族は、父親と「密」を避けていたのです。それは仕方のないことでしたが、結果、私は父親になつかずに育ちました。
 私が4歳の頃のこと、父親に客人があり、話をしている二人のどちらが自分の父親なのか見分けがつかなかった経験があります。私は、幼な心に、父親との関係が疎遠であることに気付いた衝撃を今でも忘れません。
私は、閉じこもりがちな自分の性格は、その頃の父子関係が大きく影響していると思っています。今更、自分の性格を他人のせいにするつもりはありませんし、このような私が生きていることは、父親との関係のことも含めて、神の恵みの中で生かされていることであると思っています。でも、因果関係で言えば、きっと上記のような説明もできると思っています。
 今、新型コロナウイルス感染防止の「新しい生活様式」が提唱されていますが、その主要な課題が「3密を避ける」、「対人関係の距離を取り関わりを希薄にする」ということです。生活様式をその方向にシフトするための具体案などがテレビや新聞などで紹介されていますが、この提言に触れると、私は自分の人間関係の在り方についてのコンプレックスを刺激される思いになります。
私は、人は母親をはじめとする「重要な他者」との密な関係の中でこそ心身共に成長するのであり、人が「生きる」ということは他者と様々に関係を結び、それを積極的かつ肯定的に構築していくことだと考えます。
しかし、「コロナ対策」として提唱される「新しい生活様式」は、その関係を分断し、引き離し疎遠にしていくことになります。それは、現段階ではウイルス感染を防ぐためには有効でしょう。しかし私は、その「新しい生活様式」に、現在の「コロナ禍」を回避する以上の意味を感じることができず、それを「新しい生活様式」と呼ぶことに違和感を拭えないのです。
 現在の新型コロナウイルス感染症の再拡大を防ぐための生活様式を言い表すのに、「新しい生活様式」という言葉よりもっと適切な言葉があるのではないでしょうか。
例えば、「コロナ感染回避の留意点」とか「感染防止の生活方法」という程度の言葉の方が私には相応しく思えます。そして、人間の命をウイルス感染から守るべき課題を克服した後には、人間同士が生きている実感を相互に認め合い喜び合える「生活様式」を創り上げていくべきであると思うのです。
 いわゆる「濃厚接触を避けること」、「不特定多数が集まる場所への出入りを避けること」、「テレワークをすること」などは、現在のコロナ危機対応として有効であることは誰もが否定しないでしょう。でも、私にはそれらをこれからの「新しい生活様式」にすべきだとは思えないのです。
 たとえば、今回の「コロナ禍」を契機に、オンライン通信を積極的に用いることなどは情報交換を速やかにすることにもなり、有効活用すべき分野はあります。でも、私には、他者との距離を取って密な接触を避けることをこれからの「新しい生活様式」にすべきとは考えられません。
 子育てにおいては、スマホやテレビが乳幼児の知覚や感覚を養う主役にはなり得ず、もしそれが可能だとしても、人が生きる上での基本的な判断軸をそちらに転換して良いのかどうかは、人間にとっての大きな課題です。また、乳幼児期の子育てや老人介護においてスキンシップの大切さが再認識されています。私は、現在提唱されている「新しい生活様式」が強調されればされるほど、子どもや老人など介護や心身のケアを必要とする人間には、「重要な他者」の存在とその人々との「密」な関係が不可欠であると言わずにはいられなくなります。こうした人々のことも視野に含めて「新しい生活様式」とはどのような生活様式になるのかについてのヴィジョンを共有する必要があると思います。
蛇足になりますが、私は、「夜の接待を伴う飲食」を推奨する思いはありません。またその場が「ウイルス感染の温床」の一つであることも明らかでしょう。幼少期の母親をはじめとする重要な他者との「密」を欠いた人間は、青年期に入る頃に、幼い時代の身体的接触を取り戻そうとするかのように身体的接触(性的行為)を求めることになるが、その基底にあるのは幼稚な精神なのだ、と表現した人がいます。
 当面の「コロナ禍」を克服することは大切なことであり、感染防止の配慮はかなり長期にわたって継続しなければならないでしょう。
 でも、対人関係のヴィジョンは、ただ経済を回復して維持するだけではないはずです。
 大袈裟になりますが、新型コロナウイルス感染症を経験した人類がこれからどんな生活様式を創り上げていくべきか、後代に何を引き継いでいくべきか、という課題を神から与えられているのではないでしょうか。
状況が時々刻々と変わる中で記すこの文章が的外れにならないことを願いつつ。
(2020年7月5日水戸聖ステパノ教会月報『草苑』第586号所収)
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2020年03月12日

水戸聖ステパノ教会の主日礼拝実施の状況(2020年12月6日現在)

水戸聖ステパノ教会では、茨城県や水戸市の新型コロナウィルス感染の状況をみながら、礼拝実施の判断をしております。


礼拝については、
以下のように、感染防止に心がけながら、今後の礼拝実施について判断して参ります。

日曜日
午前 9 時〜   日曜学校(子どもたちのために礼拝と集まり)
午前10時30分〜 主日礼拝(「聖餐式」または「み言葉の礼拝」)

当教会では、以下の点についての配慮をしながら行っております。
但し、状況によって変更する場合があります。



 新型コロナウィルス感染症は、全国的に収束が見慣れない状況にあります。
 教会の諸活動におきましても多くの制限を強いられております。
 本教会におきましては、引き続き、いくつかの点に留意しながら礼拝を行っていく予定です。
 ・発熱や咳の出る方は出席を控えてください。
 ・来会の折には、手を洗い、備え付けの(またはご持参の)アルコールなどによる手指の消毒をしてください。
 ・マスクを着用してください。
 ・できるだけ、間隔を開けてお座りください。
 ・聖堂後ろの扉は開けたままにし、台所の換気扇を回します。
  エアコンを用いながら窓を開けて換気を行います。
  特に、冬期には聖堂内での防寒具の着用を認めております。
 ・聖餐式における分餐は、インティンクションに限定します。
 ・聖歌は、自粛の中で、歌唱は最低限にとどめています。
 ・ルーブリックに従って、聖餐式の中の(旧約日課朗読、詩編ほか)いくつかを省略します。
 ・司式者は、聖餐式中の所作などのいくつかを省略します。
 ・礼拝後のティータイム、食事会などは当面休止します。
 ・どなたでも出席できますが、新しくおいでの方は、住所、氏名などの連絡先を記入していただきます。
  また、できるだけ礼拝開始時刻前においでになり、牧師または教会員にご出席の旨をお伝えください。
 
  もし、皆さまに緊急のご用件などありましたら遠慮なくご連絡いただければ幸いです。
 
  2020年12月6日
             〒310-0021 水戸市 南町 3−4−44
               日本聖公会北関東教区 水戸聖ステパノ教会
             牧師 司祭 ヨハネ 小野寺 達
                           



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