2019年05月21日

愛し合いなさいという掟   ヨハネによる福音書第13章31−35   C年 復活節第5主日  2019.05.19

愛し合いなさいという掟
ヨハネによる福音書第13章31−35   C年 復活節第5主日  2019.05.19

 教会の暦では、復活節も後半になろうとしています。復活節のテーマは、主イエスの甦りの喜びであることは言うまでもありませんが、後半では甦りの主イエスとの別れもテーマになってきます。
 主イエスの弟子たちは、主イエスが十字架の上で死んで墓に葬られた時、これで主イエスの神の国を宣べ伝える働きは終わってしまったと思ったことでしょう。でも、主イエスのお働きはそこで全てが終わってしまったのではありませんでした。主イエスは、ご自分がエルサレムに上って行って、当時のユダヤ教の指導者たちによって殺され3日後に甦ることになっているということを幾度か予告しておられ、弟子たちはそのことを聞いていたはずです。
 主イエスが十字架の上で死んだ時、弟子たちは自分たちの弱さや醜さを明らかにされて押し潰されそうになりながらも、主イエスの予告したとおりに3日後には甦えられ、弟子たちはその主イエスにお会いしました。弟子たちは神の愛の確かさを確認し、その愛に生きる人へと導かれていきました。
 やがて弟子たちは、主イエスと同じように、喜びをもって神の国を宣べ伝え、復活なさった救い主イエスの教えと行いを世界の人々に伝えるようになっていっていきました。
 弟子たちが復活の主イエスとお会いして、それまでとは別人になったかのように力強く生きるようになったのは、周りの人の目には不思議なことでした。 先程も触れたとおり、主イエスが十字架に処刑されてしまったことは、その時の弟子たちには何もかもが終わってしまったことに思えたことでしょう。イエスの神の国運動は十字架の死で挫折し、ガリラヤ湖の漁師であった彼らは舟も網もおいて主イエスに従ってきたのに、その希望も突然に絶たれ、弟子たちにはもうそれで全てが終わったことかのように思えたことでしょう。
 しかし、十字架から3日後、主イエスの十字架は、生前の主イエスの予告のとおり、神の完全な愛と赦しがこの世の罪と死に対する勝利であることのしるしになったのです。弟子たちは主イエスが甦ったことを世界に伝え、この世に生きる人々に洗礼を授けて、主イエスの愛によって生かされることを受け入れて生きる者となるように、エルサレムから世界へと、救い主イエスを宣べ伝える働きへと突き動かされていったのです。
 かつての弟子たちは、主イエスの後から主イエスについていきながら、やがてイエスがエルサレムで頂点に立ったときには自分たちもその側近として君臨することができると考えていたのでしょう。その同じ弟子たちが、甦った主イエスのことを力強く勇敢に宣べ伝えることへと突き動かされていきました。そこには、人々の目には信じられない弟子たちの姿がありますが、その源には主イエスの復活の出来事があったのです。
 弟子たちは、イエスにすがりイエスに頼ることから、イエスの愛を知って、その愛によって自立した者として生まれ変わるのです。
 弟子たちが甦った主イエスから受けた宣教の力は、時や所を限定されたものではありませんでした。
 今日の聖書日課の使徒言行録第13章44節からの個所は、パウロとバルナバたちが宣教の旅をした所謂パウロの第一回の宣教旅行と呼ばれている部分から取り上げられていますが、今日の聖書日課の舞台であるピシディアのアンティオキアはイスラエルからは陸路で800q以上も離れています。また、当時の資料から年代を照合してみると、その時期は主イエスの復活の後、既に13年近く経って行われたと考えられます。そのような時の流れがあってもパウロが伝えたことは、今もこの場に生きて働いてくださる甦りの主イエスのことであり、復活された主イエスは、時を問わず、所を問わず、神の御心を行う人々と共にいてくださり神の御心を行う人を力付けてくださることでした。
 その主イエスの約束の言葉が、今日の福音書日課の中で伝えられています。主イエスは弟子たちとお別れになる時に弟子たちに新しい掟をお与えになりました。
 ヨハネによる福音書第13章34節です。
 「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」
 これが、主イエスが弟子たちにお与えになった新しい掟です。
 地上のイエスが天に帰り、世界の救い主となって私たちに愛を実践する力をお与えくださいます。だから、あなたがたは互いに愛し合いなさいと、主イエスは命じておられるのです。
 この「掟」とは、命令、指令のことです。組織の上に立つ者がその組織の成員に実行すべきこととして指示することが「掟」です。ここで主イエスが与えている掟は、「愛し合いなさい」ということです。しかし、この命令は主イエスが私たちに一方的に義務として与える命令ではなく、主イエスがそのように命じられる前提があるのです。その前提は「私があなたがを愛したように」ということです。
 私たちは、何もない状態でただ突然に一方的にこの命令を与えらたのではなく、私たちは復活の主イエスを通して神の愛を与えられているのであり、愛を受けた者がその愛を人と人の関係の中に現していきなさいという命令を受けているのです。
 この愛を譬えて言えば、神から与えられた愛の十字架の縦の棒とわたしたちが互いに愛し合う横の棒が調和して主イエスの掟が示されるのです。
 甦った主イエスは愛の中に、十字架の縦の棒と横の棒が交わる所にいてくださり、私たちがお互いを大切にし合う中で、私たちはそこにおられる主イエスによって力付けられ育てられていくのです。
 この掟は私たちにも有効なものです。十字架の上から私たちを愛しぬいてくださった愛によって私たちも生かされています。そのお方を救い主であると信仰を告白して洗礼を受けた者として、私たちはこの「掟」を受けるのです。
 私たちもその愛によって互いに愛し合う時、主イエスが私たちの中に働いてくださり、私たちの思いを超えた大きな力となってくださいます。主イエスの復活の力は、私たちが倒れた時、くじけた時、弟子たちを生かした力と同じ力となり、私たちの思いを超えて働いてくださいます。主イエスの甦りの力は今から二千年前の弟子たちだけに与えられたものではなく、私たちが互いに仕え合う中に復活の力となってその姿を示して下さいます。
 私たちが愛し合う時、甦りの主イエスは私たち人間の力を遙かに超えて、私たちを生かしてくださいます。教会はその愛の共同体なのです。教会は、主イエスによって示された神の愛に生かされている者が、私たちを生かしてくださる神に向かって感謝賛美を捧げる礼拝共同体なのです。
 今日の聖書日課福音書は、主イエスがこれから十字架にお架かりになることをお話しなさる流れの中に位置づけられています。私たちもあの日の弟子たちのように、主イエスを失ったかのような、目の前の主イエスが分からなくなるような経験をすることがあるかも知れません。でも、主イエスはそのようなしばらくの艱難の後に、はっきりと主イエスと出会うときを与えてくださることを掟の中に約束して下さいました。目に見える主イエスが弟子たちの前から去っていくことは、私たちが互いに愛し合うことによって、見えない主イエスの愛の力に生かされるようになるためであることを今日の福音書は私たちに教えています。
 復活された主イエスは今は私たちの目に見えないけれど、私たちが互いに愛し合う中にいてくださることを約束してくださっています。主イエスが私たちを支えていてくださることを信じて、主イエスがお与え下さった新しい掟を全うし、主イエスによ与えられた神の愛の大きさと力とを示していく器として用いられる喜びを与えられますように。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 20:03| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年05月15日

羊飼いに聞き従う ヨハネによる福音書第10章22−30   C年 復活節第4主日  2019.05.12

羊飼いに聞き従う
ヨハネによる福音書第10章22−30   C年 復活節第4主日  2019.05.12

 今日の主日は、良き羊飼い主イエスを覚える主日です。今日の聖書日課福音書のヨハネによる福音書第10章26、27節で、主イエスは当時のユダヤ教の指導者に次のようにご自身を羊飼いに、また主イエスに聞き従う人を羊にたとえておられます。
 「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。」
 今日の福音書の場面は、第10章22節に、神殿奉献記念祭の行われてる冬の頃であったと記されています。福音記者ヨハネがわざわざこのことを記している意図を考えるためにも、始めに「神殿奉献記念祭」について触れておきましょう。
 パレスチナには、昔から複雑で難しい歴史がありますが、イスラエルはサウル、ダビデの時代にここに王国をつくりました。その後、この地域はたびたび周辺の国に攻撃され占領された歴史があります。イスラエル王国はソロモンの治世の後に南北に分裂しますが、紀元前722年にはアッシリアによって北王国が滅ぼされ、細々と残っていた南ユダ国も紀元前586年にバビロニアによって滅ぼされ、多くの人が捕虜となって遠くバビロニアまで連行されていきました。そのバビロニアが滅びると、パレスチナは紀元前330年頃にはマケドニアのアレキサンダー大王の支配下になり、紀元前2世紀半ばにはシリアに支配されます。このような歴史の中でエルサレム神殿も度々荒らされ破壊されています。
 ことに紀元前168年、シリアのアンティオコス王朝に4世エピファネスは、ユダヤ教の根絶をはかりユダヤ人の宗教的慣習を一切禁止したと言われます。更にこのアンティオコス4世エピファネスは、占領したエルサレム神殿に異教の神の祭壇を築いてその礼拝を強要します。この異教の神はオリュンポスの神ゼウスであり、旧約聖書ダニエル書の中ではこの異教の神が、「憎むべき荒廃をもたらすもの」(ダニエル11:31)と呼ばれています。この時の様子については、旧約聖書続編のマカバイ記(Tマカバイ1:10-64,4:36-58、Uマカバイ6:2,10:1-8)に記されていますので、目を通してみるとよいでしょう。
 シリアの国は、アンティオコス4世エピファネスが死ぬと王位継承の問題で力を落とし、その時に乗じてユダのマカバイ一族はエルサレムを奪い返し、紀元前165年12月25日にイスラエルの民はエルサレム神殿を清めて神の祭壇を回復しました。こうしてユダ・マカベアがエルサレムを奪回して神殿を神に奉献したことを記念し、イスラエルの民の間で年ごとに記念礼拝が行われるようになります。この記念礼拝が、「神殿奉献記念祭」です。
 本来神殿はイスラエルの人々が信じる主なる神ヤハウェを礼拝する聖なる場所であり、イスラエルの民にとって神殿はダビデの願いでありソロモンの時代からの民族の誇りでもありました。それが異国の支配者の手によって荒らされ、異国の神をまつる場所にされてその礼拝を強要されることは、耐え難い屈辱でした。
 紀元前165年、マカバイによって独立を回復し、エルサレムの神殿を主なる神を礼拝する場所として回復して主なる神にお献げする事は、イスラエルの民にとってどれほどの喜びであったか私たちの想像を超えていると思います。
 今日の福音書の舞台はこのエルサレム神殿であり、時はその神殿奉献記念祭が行われている時でした。
 しかし、ユダ・マカベアから1世紀半以上過ぎた主イエスの時代は、大きく変わっていました。イスラエルの国が、紀元前63年にローマ帝国に占領され、また政治的独立は奪われて、この地方はローマの占領地となりその属州として治められていました。ローマ皇帝は、イスラエルの民が神殿でヤハウェを礼拝することは黙認したようですが、そのような状況の中で、ユダヤ教の指導者たちは自分の権力と利益を守ることに腐心し、神殿奉献祭を行う喜びも失せて、神殿は支配者たちが特権を守る利益を得る場に成り下がっていました。
 紀元前63年頃ローマに攻め込まれた時に傷んだエルサレム神殿は、策略家であった領主ヘロデの時代に補修工事が始まり、主イエスの時代にもその工事は続いていました。次第に修復されていく神殿で、その年の神殿奉献記念祭も上辺は賑々しく行われていたことでしょう。
 でも、主イエスの目から見ると、エルサレム神殿は神の霊に満ちた聖なる場ではありませんでした。ユダヤ教の祭司長たちや律法学者たちが自分の権力を誇り、その自分を人々に見せつける場になっていたのです。彼らが気に掛けるのは、神の御声ではなく、ローマ総督や領主ヘロデの顔色であり、自分の利益になるかどうかと言うことであり、彼らにとっての羊である民を守る思いは乏しく、民に向かって親しい招きの声も上げることがありませんでした。
 ヨハネによる福音書第2章13節以下には、主イエスがいわゆる「宮清め」をなさった事が記されています。主イエスは、当時のエルサレム神殿が神の御心を表す場でなく商売の家になっている様子をご覧になって、縄で鞭をつくり生け贄として捧げらるために法外な値段で売られている動物を追い出し、両替人の金を撒き散らしてその台を倒し、「わたしの父の家を商売の家としてはならない」と言って、彼らを厳しく批判したのでした。主イエスの目には、荘厳な神殿の内実が実は自分の利益を貪る「強盗の住みか」に見えたのでしょう。
 わたしたちの物の見方や考え方は、どこから見るかによって変わります。主イエスの弟子たちも、初めから弟子として相応しくものを見て考えることができたわけではありません。例えば、ペトロは召し出された後も、幾度も失敗したり主イエスに叱られたりしながらも、イエスのみ声を聞き主イエスに従い続けることによってやがて指導的な宣教者になっていきます。
 私たちが主イエスのみ声を聞くことについても同じです。何が本当に御心に適うことなのか、どうすることが本当に神の御心をこの世に示すことになるのを、絶えず祈り求める中から、私たちは次第に主イエスのみ声を聞き分けることが出来るように育てられていくのです。
 私たちは主イエスの御声を聞いて従うことによって、神の御心にかなう歩みが少しずつ可能になり、他の人にも主イエスの御声を聞くように促し導くことが可能になるのです。
 今日の福音書の舞台であるエルサレム神殿では、神殿奉献記念祭が行われています。沢山の人が集まり、立派な儀式が行われていたことでしょう。でも、神殿の担い手たちが神のみ声を聞こうとせず、民を導くこともしていません。主イエスはそのような当時のユダヤ教の指導者たちに、よい羊飼いの譬えを用いながら、神のみ声を聞き分けて主なる神に従うことの大切さを語り、また、主イエスのみ声を聞き分けて従う者となるように私たちを導いておられます。
 私たちは、祈りを通して主イエスの御声を聞き分けて、主イエスに従って歩んでいるでしょうか。羊飼いである主イエスの御声を初めから聞き分け聞き取れる人などいません。でも、羊飼い主イエスの御声を聞いてその御心が何であるかを祈りの中から求めようと歩む人はやがては確実に主イエスの御声に導かれるようになるでしょう。羊は、羊飼いに養われ導かれながら、羊飼いへの信頼を次第に強めていくのです。
 そして、今日の福音10:28で主イエスが言っておられるように、良き羊飼い主イエスに導かれて「彼らは決して滅びず、誰も彼らをわたしの手から奪うことはできない。」という世界へと招かれるのです。
 今、私たちの生きる世界は、多くのことを能率、対費用効果など経済的価値に換算して得か損かということを判断基準にし、その結果貧富の差をはじめ格差が広がっています。これに対して、主イエスは羊飼いが自分の羊すべてに名前をつけその性格や健康状態も把握しているように、私たちを知り、私たちの名を呼んで導いておられます。私たちは、青草も水場もない荒れ野を歩まなければならない時もありますが、主イエスはいつも私たちの良き羊飼いとして、私たちを導き続けておられます。良き羊飼いの御声は、決して声高ではないし、いつも耳障りの良い言葉になるとは限りません。でも、羊飼い主イエスは、迷い出た羊である私たちを死の果てまで探し求め、連れ戻し、失ったものが生き返ったのだからと言って天に祝宴を設けてくださいます。良き羊飼い主イエスの御声をしっかりと聞き分け、聞き従い、朽ちることのない命の喜びへと導かれて参りましょう。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 17:42| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年05月06日

聖書の内容は全部そのまま信じるべきでしょうか?

 その答えを私から申し上げる前に、あなたにとって「信じる」とはどういうことかを振り返ってください。他の言葉に置き換えると、「信じる」とはあなたにとってどんな言葉になりますか。
 一般論ではなく、あなたには、「全部そのまま信じてはいけません」と申し上げた方が良さそうです。
 聖書は科学の教科書ではありませんから。また、聖書(ことに旧約聖書)は古い時代からの移り変わりの中でしるされており、その中で思想的にも成長、成熟していく歴史があり、その視点から見ればその思想に矛盾する箇所も沢山ありますし、時代の中で自己理解も変化していきます。その一部だけを切り取って「信じる」ことは正しい読み方、信じ方ではありません。
 例えば、聖書(創世記の始めの箇所)の中で、神は六日で天地を創造しますが、これは科学的事実を記しているのではありませんから、そのままあなたの信じ方で信じてはいけません。この物語を通して聖書は読み手に何を伝えようとしたのかを学ぶと、聖書は真実を伝えていることが理解できるでしょう。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 05:49| Comment(0) | Q and A | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする