2018年07月01日

少女を起こすみ言葉   マルコ5:22-24,35-43 B年特定8 2018.07.01

B年特定8 マルコ5:22-24,35-43 2018.07.01
少女を起こすみ言葉

 今日の聖書日課福音書は、主イエスが会堂長ヤイロの娘を生き返らせた物語の箇所です。イエスの時代には、それぞれの町や村にその地に住む人々の集まる会堂がありました。政治と宗教が分離していない当時の会堂は、現代の教会聖堂と公民館の性格を合わせたような働きをしていました。人々はこの会堂で安息日の礼拝をはじめとする礼拝や律法教育などの集会をしました。その世話役をしていたのがヤイロのような会堂長です。会堂長は専門の祭司職ではなく、建物の管理をしたり礼拝の運営を仕切る役割を執り、現在の教会委員の礼拝担当のような立場にあるひとであり、長老の中から選ばれた人でした。
 このようなユダヤ教の会堂で一般信徒の中で指導的な立場にいたのがファリサイ派であり、福音書の中ではこのような人々をしばしば「ファリサイ派や律法の専門家」と表現しています。ですから、会堂長ヤイロもその様なファリサイ派の律法に通じた人の一人であったと考えられます。当時のファリサイ派が主イエスを憎みやがて会堂から追放したことを考えると、ヤイロが主イエスに近づくことやイエスの足下にひれ伏して何かを懇願することなどファリサイ派の人びとや長老たちにとっては赦しがたいことであったに違いありません。
 会堂長ヤイロの娘は瀕死の病に伏していました。ヤイロは自分の町にイエスが来ていることを知ると、大勢の群衆をかき分けて主イエスの所に走り寄って、足元にひれ伏してこう言って頼みました。
 「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、お出でになって手を置いてやってください。そうすれば娘は助かり、生きるでしょう。」
 ヤイロはイエスを案内して娘の寝ている家へと急ごうとします。しかし、家から使いの者が来てこう言ったのです。
 「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」
 ヤイロは驚き嘆きましたが、その話を脇で聞いていた主イエスはヤイロに向かって言いました。
 「恐れることはない。ただ信じなさい。」
 そして、主イエスはヤイロの家に向かって歩き始めます。ヤイロの家では、既に「泣き女」たちもいて、沢山の人が泣きわめて騒いでいました。その当時、人の死を悼んで大袈裟に泣いて周囲の人びとの悲しみを引き出す「泣き女」がいたのです。主イエスは家の中に入っていき、その人々に向かって言いました。
 「なぜ泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」
 これを聞いた多くの人は主イエスを馬鹿にして笑いました。
 しかし、主イエスは、子供の両親とペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人の弟子だけを残して、他の人たちをみな家の外に出して、死んだ娘のいる部屋に入っていきました。そして、その子供の手を取り「タリタ、クム」(少女よ、起きなさい)と言われました。すると死んでいたヤイロの娘はすぐに起きあがって歩き出したのでした。
 私はこの箇所を読んでいると、福音記者マルコがこの箇所を記した思いが伝わって来るような気がしてきます。それは、福音記者マルコが当時のユダヤ教の教えや習慣を記してその限界をつたえ、主イエスがその限界を超えて働く救い主であることを伝えようとしている、と言うことです。
 そのユダヤ教の限界とは次のようなことです。
 当時、イスラエルの律法の専門家たちは、自分たちが神に選ばれた民であることを自負し、神との間の約束である十戒を中心とした律法の文言を細微に渡り解釈してその枠のとおりに生きることが神との約束を守ることであり、天の国を受け継ぐことになると考えていました。しかし、そのような律法による完全主義は、本来誰でも不完全である私たちの中に不安や恐れを生じさせることになります。ちょうど真っ白な紙にある汚れはどんなに小さくても目について気になるのと同じように、神の前に完全であろうとすれば神との約束の細かな点にまで神経質にならざるを得ず、そのうち神との契約の基本的な精神を忘れ、律法の細かな点にまでこだわることが律法を守ることであるかのような生き方をするようになり、更にはそれを他の人に強いるのが当時のファリサイ派の人びとだったのです。
 しかも、人間の死が神からの罰であると考えられたり悪の力に飲み込まれることであると考えられていた時代であれば、ヤイロの娘のように幼い子供の死については、例えヤイロがどれほど律法に忠実な人であったとしても、神の罰を受けたとか、罪の結果が娘に表れたと、批判されることになります。ヤイロはただ嘆き悲しむほかなかったことでしょう。当時の会堂長ヤイロにとって幼い娘の病や死は「全ての終わり」でしかなく、ヤイロにとって娘の死は神からの一方的な契約の解消されることを意味する経験になったたことでしょう。
 しかし、主イエスは「恐れることはない。ただ信じなさい。」と言っておられます。「恐れるな」は、先週の福音書のテーマでもあり、先週は広田主教も「恐れるな」に触れて説教してくださいました。
 今日の聖書の個所の中で、主イエスはヤイロとその周りにいた人々に、イエスの言葉を通して神に信頼すことがどれほど大切なのかを教え、死は終わりではなく次に主イエスによって立ち上がるための眠りであることをお示しになったのです。
 言葉を換えれば、福音記者マルコは、当時のイスラエルの人々にとって、死が滅びとしてしか考えられなかったのに、死は人の一生を無意味にしたり無価値にしてしまうことではなく、主イエスを信頼する者は例え死んでもその眠りの先に神の前に起き上がることになり、決して死を永遠の滅びと考えて嘆くことはないと、その読み手である私たちに伝えているのです。
 私たちは、今日の福音書から、私たちが日々の生活の中で色々な困難や不都合に出会った時にも、主イエスは「恐れることはない。ただ信じなさい。」と言っておられることを覚えたいと思います。私たちも主なる神を信頼することによって、そこから先の世界が開かれては来るのです。主イエスが死を命に変えてくださることを信じて、私たちは落胆や絶望から更にその先に導かれ、主イエスがお示しになる新しい世界が見えてくるのです。
 もし私たちが、今日の福音書をただ単にヤイロの娘が蘇生した物語ととらえるなら、生物としての一生は誰でもいつかは終わる時が来るのであり、それではこの物語をただのセンセーショナルな話の一つとしてしか考えないことになります。福音記者マルコは読み手である私たちにそのような思い込みを強めさせてイエスを救い主であることの暗示をかけさせようとしてこの福音書を記したのではありません。
 会堂長のヤイロは主イエスを信頼しました。他の人びとが主イエスの言動を馬鹿にしているような場面でも、ヤイロは主イエスを信頼し従っていったのです。そのように主イエスを信じて生きることがヤイロに希望を与え、実際に新しい命の世界が主イエスによって与えられ、開かれてくるのです。そして主イエスは神さまに信頼して生きるヤイロたちを祝福してくださるのです。
 主イエスは、信頼する私たちを落胆や困惑、絶望から起きあがらせ、再び歩み出させる救い主です。
 今日の聖書の御言葉は、主イエスを信じることによって私たちを起きあがらせ、私たちを新しく生まれ変わらせることへと導いています。そして聖書が記しているように、主イエスの御言葉は私たちに死を超えた神の力を与えて下さり、主イエスは私たちの心を強くして生きられるように私たちを見守り、導き、励まします。
 私たちはこの主イエスの言葉を自分の心に深く迎え入れて、主イエスを救い主と信じる信仰を強められたいと思います。そして、この世界に主なる神のお考えを実行していく希望と信頼を強めていただきたいと思います。

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2018年06月17日

神の国の拡がり    マルコによる福音書4:26−34 2018.06.17

神の国の拡がり
B年 特定6 マルコによる福音書4:26−34 2018.06.17

 今日の福音書は、主イエスがなさった短い例え話の箇所で、「種」を題材にした二つの例え話が並んでいます。主イエスは、しばしば例えでお話しをしておられます。今日の福音書の第4章33節には「イエスは人びとの聞く力に応じて、このように多くの例えでみ言葉を語られた。」と記されていますし、それに続けて福音記者マルコは「たとえを用いずに語ることはなかった」と、主イエスが人々にお話しをなさる時にはいつも例え話をしておられたことを強調しています。
 人が生きることを深く考えたり、生きる意味を改めて自分に問い返すとき、また目に見えない心の深い領域の事を表現しようとするとき、その表現は論理や科学的な説明で語ることにはならず、譬えや象徴によって表現する事になるのではないか、と私は思うのです。
 一方、ファリサイ派の人びとのように、律法の文言を細かな箇所まで念入りに解釈して人の行動の基準にしようとすると、そうすればするほど律法の言葉はその根底にある命から離れて、人間が律法の解釈の枠の中に縛り付けられることになってしまいます。主イエスが例えでお話しになったことは、単に身近な題材を用いてお話しになったということではなく、例えや象徴によってしか語ることの出来ない深い意味を含んだことを伝えようとしておられたからではないでしょうか。
 今日の福音書の特に前半を見てみると、主イエスは神の国が人の思いを遙かに超えて神ご自身のお働きによって確実に広がり成長していく事を語っておられます。
 この例えを学ぶための前提として、私たちは主イエスご自身がこの種のような生涯を過ごされたことを踏まえておきたいと思います。
 簡単に主イエスの生涯を振り返ってみましょう。
 小さな種が一粒地面に落ちるように、主イエスは貧しく弱いお姿をとってこの世に生まれました。その人が成人となり30才を過ぎた頃、人びとに神の国を伝え,この世に神の国の姿を示そうと宣教活動を始めました。この人は次第に下層民や弱者に支持され、この人を新しい王として期待する人々まで出てきました。しかし、時の権力者たちはイエスによって体制が揺らぐことを恐れて、イエスを十字架に磔にして殺してしまったのです。この世の権力の前では全く無力に思えたイエスの働きは、弱く臆病だった弟子たちを力付け、その働きは弟子たちに受け継がれ、多くの人を悔い改めさせ、更にその人々も「種」となり、はじめに蒔かれた小さな種は実を結んで新たな種を増やし、その種はいつの間にかあちこちで芽を出し葉を茂らせ花を咲かせ更に実を結ぶほどに、世界に広がっていったのです。
 パレスチナに生えるカラシ菜の種は、砂粒のように小さい種です。私がこれまでに見た種のうち、一番小さいのがこのカラシ菜の種か松葉ボタンの種です。砂の一粒のように小さなカラシ菜でも、発芽するとその成長は早く、人の背丈を超えるほどになり、一年草であるにも関わらず、樹木のように見えるほどになり、ことにガリラヤ湖の周辺では高さ3メートルにもなり、枝のように別れた茎の陰では実際に鳥が巣を作ることもあると言うことです。大きく育ったカラシ菜の枝葉の中に鳥が翼を休め巣を作るように、主イエス一人の働きに始まった神の国を実現する運動の中で、多くの人が安らぎを得、慰めを与えられ、自分を再発見し、また自分を取り戻すことが出来たのです。
 主イエスは、ガリラヤで宣教を始めた頃、「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と言っておられます。イエスのお働きによって始まった神の国実現の働きは、更に地に落ちて芽を出して実を結びながら、次第に世界に広がっていきました。
 このお方の宣教のお働きの期間は短く、3年間程度あるいは一年と少しであったとも考えられます。そのような短い宣教の働きの末の十字架の死は、まさに十字架の上に蒔かれた一粒の種そのものでした。このイエスによって行われた神の国実現の運動は、イエスの死によって終わったのではなく、ここから始まったと言えます。この宣教の働きは、厳しい迫害と弾圧を受けながらもその命を失うことなく、かえって力をつけ広がっていく奇跡を生みました。
 主イエスは、ヨハネによる福音書の中で、「一粒の麦は地に落ちて死ななければ一粒のままである。だが死ねば多くの実を結ぶ。」とも言っておられます。カラシ種であれ麦の種であれ、自分の殻の中に閉じこもっているだけなら、その種は一粒のまま干からびてやがて命を無くしていくことでしょう。しかし、種粒が自分の殻を破り芽を出し成長していくと、いつか沢山に実を結ぶことになります。そのプログラムは、その種の中に用意され、その生長の条件が整えば、またその条件を邪魔することがなければ、神の御心によって実現していくのです。
 主イエスが神の国を「成長する種」に例えられたとおり、神の国を実現する働きは、主イエスの生涯を通してこの地にはっきりと示され、弟子たちによって更に多くの実を結び、その種が蒔かれるように広がり、やがてこの地にもその福音の種が蒔かれ、私たちはその実りの恵みを受けているのです。
 しかし、もし私たちが自分の欲望を満足させることしか考えられなかったり自分の弱さや貧しさに向き合うことが出来ないなら、私たちは単に神の国を利用する者、食い物にする者に過ぎず、神の国の種とは違う毒麦の種を撒き散らすことに成り下がってしまうでしょう。
 主イエスがこの地上で貧しいお姿をと取って宣教の働きに枕するところもない日々をお過ごしになっていた頃、弟子たちはまだ主イエスのお考えやお働きを本当には理解できてはいませんでした。弟子たちは主イエスが十字架にお架かりになった姿を目の当たりにし、そこに示してくださった愛が他ならぬ自分にも向けられており、その愛によって自分の罪と汚れは完全に清められていることを知り、弟子たちは生まれ変わっていったのです。そして、主イエスの愛に生かされて、自分も小さな種粒のようになり、殻を破り新しい命に生まれ変わっていくのです。
 弟子たちも、主イエスによって始まった神の国実現の働きを受け継ぎ、多くの弟子たちが宣教の働きに遣わされていきました。そして、それぞれの地で殉教の死を遂げるまでになります。その弟子たちも、かつては主イエスが捕まるときには皆蜘蛛の子を散らすように逃げ去った者であり、弱く醜い者にすぎませんでした。
 このような弟子たちが主イエスの愛によって強くされ、自分たちも主イエスに続く一粒の種となりました。この弟子たちの姿を見て、初代教会の歴史家は「キリスト者の殉教の血は、キリストを伝える種である」と言ったのでした。
 私たちも、それぞれの生活の中で神の国を証しすることを求められています。私たちが周りの人々に主イエスの働きを伝え、主イエスによって生かされている自分を伝えることが、自分の殻を破って一粒の種として育っていくことに繋がります。私たちの働きがカラシ菜の種のように小さい働きであっても、自分の殻を破って生きる私たちを神ご自身がそのプログラムの中で育んでくださり、神さまのプログラムの中で多くの実を結ばせてくださるのではないでしょうか。
 私たちは十字架の上に蒔かれた一粒の愛の種を受け入れ、神の国の実現のために働き証しすることを通して、主イエスによって示された永遠の命へと導かれて参りましょう。
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2018年06月11日

伝統、伝承  2018年6月3日

伝統、伝承
       
司祭 小野寺 達

 
先月より、スポーツの好きな私にとって、何とも印象の悪いニュースが流れています。
5月6日に行われた日本大学と関西学院大学のアメリカンフットボールの試合で、日本大学の学生選手がコーチングスタッフの指示を受け、相手チームの学生選手に対して悪質なタックルをして怪我を負わせました。勿論ルール違反(反則)であり、そのプレーについての問題点や批判がSNSに流れはじめました。
私もテレビのニュースで、このプレーのビデオが流れるのを見て、明らかに限度を越えた悪質な反則であると思いました。
しかも、その件についての日本大学の対応、コメント、謝罪などが、後手に回っただけでなく、アメリカンフットボール部監督とコーチの記者会見、学長の記者会見、テレビ放映された理事長のテレビ記者インタビューなどがあまりに大学組織と指導者側の保身を印象づけるものでした。また、反則プレーをした学生選手自らが記者会見を行って自分の反則プレーを認めて置かれた状況などを述べることになり、世間の日本大学に対する批判は収まることなく、まさに「炎上」状態になりました。
5月29日には、日本大学アメフト部学生現役部員学生による声明文が出されたり、関東学生アメフト連盟理事会により、同大学同部元監督、元コーチ、チームに対する処分が発表されたりしましたので、「炎上」はやや「鎮火」の動きもありますが、この事件はいろいろな課題を提示する結果となりました。
わたしが、本稿であえてこの問題を取り上げたのは、組織の伝統、伝承について、教会組織としても気をつけるべき、考えるべき点があるからです。
100名を超える大きな組織で日本での頂点をめざし、全員がその目標に向かって思いを一つにすることは難しいものと思います。全体を束ねる者がどのような理念によってその組織を動かしていくのか、そこに監督の手腕が問われることになります。
チームは学生組織です。そのチームでの教育と養成の在り方は、そこで育つ学生の組織運営や選手育成の考え方に影響を与えます。そして、そこで育った人の中から沢山の指導者が生まれてくるのです。
彼らが受けた教育と養成の中身を知らない人たちは、日本のトップレベルのチームの一員であった人の指導とその在り方に期待することでしょう。
しかし、彼らが受けた指導の内実が、実際には高校で活躍した有望選手をスポーツ推薦の特待生としてスカウトし、あとは暴力と罵声が蔓延する中で盲目的に練習した程度であれば、その指導を受けた人がまたそのようなスタイルでの指導を繰り返す危険があることを踏まえておかねばならないでしょう。
「全体の大きな目標のために働け。」「自分の小さな目標など捨てろ。」「チーム一丸となるために自分を犠牲にしろ。」などのスローガンによって奴隷のように扱われたり、仮に選手として華やかな舞台に立っても「お前は反則してでも相手を潰さなければ出場させる意味はない。」と強い圧力をかけられて自分の能力を思う存分発揮してプレーをしたいという気持ちとは程遠い思いでグラウンドに立たされ、その学生を思うと、また、学生選手にそのようにさせる組織を思うと、組織全体の不健康さを思わずにはいられません。
また、そうすることがチームに貢献することであるかのように教育された人がまた指導者になって、同じことを次世代の人に強いていくという伝承の再生産を、どこかで断ち切らなければなりません。
この問題を単に一つの大学体育会クラブ活動の問題としてとらえるのではなく、文化や価値や信仰をどのように引き継いで今の世に生かし伝えていくべきかという問題として考えてみると、この事件はとても重大な意味を持っていると思います。あのような組織の中で人の教育と再生産が行われていってはなりません。その結果がどうであるのかを身をもって知っている人も多いことでしょう。
自分たちの教会とは何か、教会として伝えていくべきもの、守り育てていくべきものについて、深く思い巡らせる機会にしてみたいと思います。
        『草苑』水戸聖ステパノ教会月報2018年6月号
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 17:38| Comment(0) | 牧師のコラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする