2018年09月09日

私たちの交わり    マルコによる福音書7:1-8,14-15,21-23  2018.09.02

 私たちの交わり                      2018.09.02
(特定17 マルコによる福音書7:1-8,14-15,21-23)

 長く教会生活を続けてこられた方は、きっと「コイノニア」という言葉をお聞きになったことがあるでしょう。この言葉は「交わり」を意味し、聖書の中にもよく出てきますし、教会報を「コイノニア」と名付けている教会もあります。
 パウロも手紙の中でしばしばこの言葉を用いています。例えば、パウロはコリントの信徒への手紙T第1章9節で「神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。」と言い、ここでも「コイノニア(交わり)」という言葉を用いています。
 この「コイノニア」という言葉の語根になっているのは「コイノス(koinos)」という言葉ですが、この「コイノス」には「共有の、共通の」という意味があるのですが、もともとこの「コイノス」には「汚れた」、「不浄な」という意味が含まれていました。「朱に交われば赤くなる」という諺がありますが、まさにその諺の「交わる」が「コイノス」です。
 「コイノニア(交わり」は、その関係の中で醸し出される雰囲気、習慣、価値観などがあり、私たちも教会の交わりをとおして、互いの信仰を支え合い、育み合う教会を形成していくことを心がけたいと思います。
 今日の福音書の箇所で、主イエスは当時のユダヤ教の指導者たちを批判しておられます。彼らが人々と交わり教える中で、かえってその人々を神から引き離しその生活を苦しめていることを厳しく批判しておられるのです。
 マルコによる福音書第7章20節で主イエスは「人から出てくるものこそ、人を汚す。」と言っておられますが、この「汚す」が「コイノス」です。主イエスの目から見ると、ファリサイ派の律法に通じた人たちが本当は神の御心からはほど遠く、彼らと交わる他の人びとを神の御心から引き離している姿がよくみえたのでしょう。しかし、彼らはそれに気付かずまた気付こうともせず、彼らを批判する主イエスを憎み、イエスを十字架へと追いやることになっていくのです。
 さて、今日の福音書の箇所は、弟子たちが主イエスの許で手を洗わずに、つまり清めを行わないで、汚れたまま食事を始めたことについて、ファリサイ派の人びとが批判をしたことから始まっています。福音記者マルコがここで「洗わない手で食事をする」と言っているのは、衛生上の問題について言っているのではありません。そうではなく、それは、当時のユダヤ教の宗教的な儀式を行わないで食事を始めたと言うことであり、主イエスの弟子たちがその浄めの儀式をせずに食事を始めたことについてファリサイ派の人びとが批判したと言うことなのです。
 少し「ファリサイ派」について振り返っておきましょう。
 聖書の中でファリサイ派はイエスや弟子たちを批判する勢力として描かれています。そのために、ファリサイ派は当時の社会の中で悪者であったような印象を持つ人もいるかも知れませんが、必ずしもそうではありません。むしろファリサイ派は真面目であり、熱心であり、律法に忠実に生きようとし、またそのように民衆を指導し、民衆もファリサイ派に敬意を払っていたと言う一面もあります。ファリサイ派は、旧約聖書の律法を守って生活をすることに熱心であり、そうすることによって神に受け入れられると考えていました。しかし、律法はイスラエルの民の中で主イエスの時代よりも何百年も前に成立したものであり、変わりゆく時代の中で律法に対して忠実であろうとすれば、律法を時代の中で適用させていくための研究して、その時代に相応しく解釈しなおしてくことが必要になります。ファリサイ派はそのことに熱心であり、律法の細かな点にまで解釈を加えて律法に忠実であろうとしていたのです。その意味で、ファリサイ派は旧約聖書の教えに極めて熱心であろうとしていたとも言えるでしょう。
 しかし、主イエスは、こうしたファリサイ派の考え方や生き方が実は社会の底辺に生きる人びとをかえって苦しめ、そのように律法を事細かな点にまで忠実に生きていくことのできない人々の人生を奪い取っていることを見抜いておられたのです。
 「ファリサイ」とは「分離する」という意味の言葉であり、ファリサイ派自身がそう名乗ったとも言われています。ファリサイ派は自分たちを、律法を守ることのできない汚れた民とは違う「分けられた者」と位置づけました。彼らが律法の解釈とその実践に熱心であればあるほど、他の人びとを差別し罪人扱いすることになっていきます。そのようにしてファリサイ派の熱心さはかえって律法の基本的な精神や神の意思から人を引き離し、更に事細かな解釈の追求に走り、いつの間にかイスラエルの民の中に、ことに社会の底辺に生きる人びととの間に、疎外と差別的な体質を作りだしていったのでした。
 ファリサイ派の人々は、ことに市場へ行ったりして人混みの中から戻ってくると、金銭や品物のやりとりをしている中で、それと知らないうちに、罪人呼ばわりされている人や異邦人とすれ違ったり体が触れたりした可能性もあるので、食べ物を口にする前には清めの儀式を行う必要があると考えました。それは、衛生上丁寧に手を洗うということではなく、右手の拳の上から決まったやり方で、スプーン一杯ほどの水をかける儀式であり、彼らはそれを念入りにおこなったのです。
 あるとき、イエスの弟子たちはこの儀式を行わないで食事を始めたようでした。ファリサイ派は、この時とばかりに弟子たちのことを批判しました。主イエスはこのようなファリサイ派の姿を「あなたたちは神の掟を棄てて、人間の言い伝えを守っている。」と言って、ファリサイ派を真っ向から批判なさったのです。
 旧約聖書の律法の中に、例えば申命記第14章3節以下などに「清い動物と汚れた動物」が列記されており、汚れた動物は「食べてはならない」と指示されています。しかし、主イエスの弟子であるペトロは幻の中で「神が清めた物を、清くないなどと言ってはならない」と告げられました。それはペトロが、単に食べ物のことに限らず、イスラエルの民以外の人びとにも全ての人を神が祝しておられることを知らされた大切な出来事でした。
 主イエスにとって、当時ファリサイが重んじていた「汚れと清め」の伝承は全く無意味なものでした。自分を掟を守る清い者の立場に置いてそうできない人と区別することは主イエスの目から見ると、むしろ傲慢であり、神が本当に願っておられることではなかったのです。神が求めておられる交わりは、他の人びとに対する共感や憐れみの思いを深くすることであり、そのような交わりが互いを浄めることになるのです。
 神はお創りになったこの世界の全てを祝し、それらが生かされることを願っておられるはずです。神は私たち人間を被造物の中でも特別な存在として作ってくださいました。私たちは他の動植物以上に自分が誰であるかを知り、相手が誰であるかを知り、この世界と私たちをお創りになったお方を認識する能力を持っており、その交わりの中で生かされる存在なのです。そのような私たちは、主イエスの十字架の苦しみと死によって贖われ、神のものとされ、神と人びととの交わり(コイノニア)の中で生かされていることを知っているのです。
 今日の福音書の第7章21節に列挙されているように、本当に汚れたものは私たちが神の御心から離れたときに心の内に生まれてくるのであり、それが他の人をも汚すのです。その人を汚す心の姿を聖書は「罪」と呼んでいます。
 主イエスは、このようなファリサイ派の「汚れと清め」についての考えとその上に立って社会の底辺の人びとを差別する当時のユダヤ教の指導者たちを厳しく批判なさったのでした。
 私たちが主イエスに生かされ導かれるのは、私たちが特別な御利益を得たり自分たちだけが清められて他の人びとを差別して神の御前に優位に立つためではありません。主イエスが全ての人を大切な一人の人と認めてくださり、人を差別したり苦しめたりする力に対してご自分の血を流し、十字架の上にご自分の身を曝してまで「罪」と戦い、その先の死に打ち勝ってくださいました。私たちはその命に預かり、主イエスとの交わり(コイノニア)に生かされ、そしてここから派遣されて人びととの交わり(コイノニア)を創っていくのです。
 主イエスの体と血の糧を受けてその交わりに預かり、感謝して神の御心に適う交わりの実現のためにここから遣わされていきましょう。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 06:58| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月30日

信仰の再確認     ヨシュア24:14−25          2018.08.26 (特定16)

信仰の再確認 
ヨシュア24:14−25     (特定16)     2018.08.26

 今日の旧約聖書日課より、ヨシュア記第24章15節をもう一度読んでみます。
 「もし主に仕えたくないというならば、川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます。」
 今日はこの御言葉から、私たちも信仰の自覚を新たにしたいと思います。
 はじめに、ヨシュアがどのような場面でこの言葉を告げているのかを振り返ってみましょう。
 エジプトの地で奴隷であったイスラエルの民は、自分たちの力によってではなく、神の力によって奇跡的にエジプトを抜け出すことができました。そして40年に渡って荒れ野での放浪の生活を続けた後、約束の地カナンに入り込み、既にその地に住んでいた人々(先住民)と戦って、その土地を自分たちの住む場所にしていきました。彼らは「乳と密との流れる地」とまで歌い上げ夢に見た地を神から授けられ、彼らはこの土地を各部族ごとに割り当てて、これでやっと落ち着いた定住の生活を始めることができることの喜びに満たされていたことと思います。
 しかし、ヨシュアはこのような時にこそ生まれてくる、イスラエルの民の新たな信仰的課題を見据えていました。放浪と侵略の生活を終えてこれまでとは違う生活が始まると、そこに新しい生活の様式や習慣がうまれ、それに伴って民の意識も変わってくることになり、人々の心にはこれまでになかった安堵とともに気の緩みも生まれてきます。当然そこには、今までなかった思いや考えが生まれてくる可能性も予想されます。それに加えて、この地には先に住み着いていた民族の土着の宗教があります。そしてそのような土着宗教がイスラエルの民の生活に入り込めば、これまで神の民として生きてきた信仰の根幹を揺るがされることも考えられます。
 これまで長い放浪と戦いを強いられた末に定住の生活を始めようとする今、ヨシュアは全イスラエルをシケムに集めました。シケムはイスラエルの民にとって由緒ある所です。昔イスラエル民族の父であるアブラハムは神に召し出され、行き先も示されず故郷を捨ててわずかな家族と家畜を連れて旅に出ました。そして初めて主の祭壇を築いたのがこのシケムでした。主なる神はアブラハムにシケムで「わたしはあなたの子孫にこの地を与える」と言って下さったのでした。その後、実に数百年を経て主なる神はその約束を成し遂げて下さいました。イスラエルの民がその地でこれから定住の生活を始めるにあたり、ヨシュアは民全体に向かって、自分たちが何故今ここに在るのかをもう一度思い起し、主に仕える生活を始めることができるように信仰の再決断を迫るのです。
 「あなたがたは、私たちに奇跡を行い、マナを降らせ、絶えず共にいて導いて下さった主なる神に仕えるのか、それともそれを喜びとせずあなた方は他の神々に仕えるのか、あなた方は今日選び取りなさい。」とヨシュアは言います。
このことは、「ヤハウェ信仰の再決断」とでも言えるでしょう。
 ヨシュアがこのように言って信仰の再決断を促すのは何故でしょうか。
 イスラエルの民はかつてはエジプトの地で奴隷になっていました。その民がモーセをリーダーとしてエジプトを脱出した後、40年にわたって荒れ野での放浪の生活を強いられましたが、後継者ヨシュアによってカナンの地に侵入する時にはその地を取り戻すための戦いを余儀なくされてきました。それはイスラエルの民にとって辛く苦しい経験でしたが、その中で彼らは「人はパンだけで生きるのではなく神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」ことをはじめ、多くの信仰的な鍛錬を受けたのでした。そしてこの地を与えられてこれから腰を落ち着けて定住の生活していく目途が立ちました。それは大きな恵みであり感謝すべき事なのですが、その一方でヨシュアは定住の生活がイスラエルの民にとって信仰の基盤を大きく揺さぶられる問題であることを見通していたのです。
 それまでイスラエルの民は長い間奴隷であったり、放浪の生活をしてきましたので、自分で所有できる財産はごく限られたものでしかありませんでした。ところが、彼らがかつては「乳と密の流れるところ」とまで言って夢見た土地での生活が始まると、彼らの生活は当然土地を耕して種を蒔き収穫を上げる生活に変わっていきます。すると奴隷であったり放浪の生活では財産にすることなど考えられなかった土地そのものが彼らの財産になり、もし収穫が上がれば倉を造って収穫した穀物を自分の財産にし商品にすることさえできるようになるのです。これまで奴隷として呻き放浪の民として嘆き、ただ天よりの導きを頼み神の御心を求めて生きてきた民が、自分の土地を得ること、土地を拡げること、そこでより多くの収穫を得ることを求めるように変わっていくことをヨシュアは見通していたのでしょう。貧困や厳しい生活環境から抜け出して救われることは、人が生きていく上で大切なことは言うまでもありません。でも、ヨシュアはそれらの変化の中でイスラエルの民の信仰や意識も変わっていくであろうことを見通しました。そこには、イスラエルの民の生活の中心が、主なる神の御心によって生かされることから離れて、自分の富を増やしそれにより富める者が貧しい者を財力によって支配したり、富める者の意識が神の御心から離れて弱く貧しい人々の人権さえ奪い取る社会へと移り変わっていく危険をも含んでいます。
 当時、カナンの地はバアルという農業の神、豊穣多産の神を祭る宗教が支配していました。この世で多くの収穫を上げて豊かになりその富で酒や性の遊び戯れをする土地神の宗教であるバアルが、これからのイスラエルの民にとって大きな誘惑となることは明らかです。その様な状況の中で、ヨシュアはイスラエルの民に徹底して「あなたがたはどの神に仕えて礼拝するのか」と問うて、イスラエルの民の信仰の明確な自覚を促しています。
 今日の旧約聖書日課の箇所を見てみると、ヨシュアとイスラエルの民とのやりとりには非常に興味深いものがあります。ヨシュアが自分と家族は主に仕えるがあなた方はどうするのかとイスラエルの民に問うと、民は18節で「わたしたちも主に仕えます。」と言います。ヨシュアは更に21節で「あなたがたは主に仕え通すことはできないのではないか」と問いかけますが、民はそれに応えて「いいえ、わたしたちは主を礼拝します。」と言うのです。ヨシュアは「今あなた方がその様に答えたが、そのことの証人はあなた方自身である」と自覚を促して、更に、「それではあなたたちのもとにある外国の神々を取り除き、主に心を傾けなさい。」と言います。民はこれに応えて「わたしたちの神、主にわたしたちは仕え、その声に聞き従います。」と言っています。このようなやりとりの中で、イスラエルの民は十戒によって主なる神との間に立てた契約をもう一度明確にし、自分のこととしていきます。
 先ほども少し触れましたが、ヨシュアは主なる神に仕えるという選びと決断をいつも保ち続けることがどれほど大切なことなのかをよく知っていました。ヨシュアはその事を知るが故に幾度も問いかけて民に応答を求めます。そして主に仕えるという選びと決断をより明確にして、イスラエルの民のヤハウェ神への信仰を堅固なものにしています。
 ヨシュアの時代ばかりではなく私たちの生きる現代の世界にも、人を本当の信仰によって生きることから引き離して、一時の物の豊かさに誘惑するものが満ち溢れています。私たちは今日の聖所日課から、自分の信仰を歪めたり風化させたりせずに、絶えず自分の信仰を自覚化し新たにしていくことを促されています。
 私たちの生きている世界では多くのことが数字で表す経済的効果を判断の軸とし、その基準に照らして評価することが当たり前になっています。また、武力を神とし、より殺傷能力の強い強い兵器をより多く持つ者が弱い者の生き方までも支配し規定しようとしています。このような世界の中で、私たちは誰を本当の神として仕えようとするのでしょうか。
 主なる神は、今日の旧約聖書日課のヨシュアの言葉によって私たちにも信仰の自覚と再決断を迫っています。24章14節以下で、ヨシュアは「あなたたちの先祖が川の向こう側やエジプトで仕えていた神々を除き去って、主に仕えなさい。あなたたちが仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。」と言います。「わたしたちは主に仕えます」と答える民に向かってヨシュアは更に「それでは、あなたたちのもとにある外国の神々を取り除き、イスラエルの神、主に心を向けなさい。」と信仰の具体的生活の中での徹底を促します。
 今日の聖書日課のヨシュアの呼びかけに応えて、私たちもで「わたしたちの神、主にわたしたちは仕え、その声に聞き従います。」とお答えし、主なる神への信仰を新たにされたいと思います。 
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 05:08| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月23日

永遠の命を与えるイエス ヨハネによる福音書6:53−59 B年特定15       2018.08.19

永遠の命を与えるイエス
ヨハネによる福音書6:53−59 B年特定15       2018.08.19

 初めに、今日の福音書の部分(ヨハネ6:53−54)をもう一度お読みします。
 「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲むものは永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。」
 このみ言葉は、初期のキリスト者が迫害を受ける口実にされたみ言葉です。クリスチャンは密会を開いて人の肉を食べて血を飲んでいると言いがかりをつけられ、弾圧されたのでした。
 私は、今日の説教の準備をしながら、「永遠の命」という言葉をどのように説明できるだろうかと考えました。それだけではなく、自分でもこの言葉をどれほど理解できているのだろうか、とも思い続けました。
 ヨハネによる福音書が編集された時代や状況を考えてみても、きっと現代を生きる私たちには想像できないような宇宙観、世界観、人生観があって、その脈絡の中からこの「永遠の命」という言葉に特別な意味が込められて用いられるようになったのだろうと想像します。
 今日の聖書日課福音書から「永遠の命」について思い巡らせ、私たちも神の永遠の愛の中に生かされるように導きを受けたいと思います。
 私たち人間は、自分の意志と自覚によってこの世に生まれて来た人はいません。私たち人間も他の動植物も、みな自分の意志によってではなく、時代を超えた命のつながりの中でこの世に命を与えられています。
 この命は、全ての動植物に言えることであり、生物としての命という側面があります。生物としての命であれば、それが本人にとって満足できた一生であれ呪いたくなった一生であれ、自然の営みとして、やがて生き物としての細胞を維持していく活動は終わるときが来ます。そのことは、私たち人間も含めて全ての生物に言えることです。私たち人間は、そのことを認識します。人間には他の生物には無い秀でた特徴があって、人間は命について考え、その大切さを知り、自分の命を自覚して、それに相応しく生きていこうとする力があるという特徴があります。私たちは自分がこの世に命を与えられていることを自覚しています。その命に、時間的にも空間的にも限りがあることも、他の生物以上に自覚しています。
 人間は、この世に命のあることそのものが尊いことを認識し、神の栄光を現すことができることを認識しています。
 私たち人間も、生物の一種である限り、この世に命を与えられて生きていることのが尊さとその限界を知っています。そして、私たち人間はただ生物体として生命が保たれていても、それだけでは生きているとは言えない一面があることも自覚しています。
 旧約聖書の初めに、人間は天地創造の6日目に「神の似姿」につくられたと記されています。人間は、生物体としての限界の中にありながらも、他の生物以上に、物事を考え理解し、更に天然自然現象を遙かに超えて道具を創り出し、生きることの意味を考え、それを継承しながら生きています。
 しかし、私たちは、神さまから与えられたそのような特別な恵みを、神の御心の通りに用いることから離れて、自分だけが他の人より多くの利益を得ようとしたり、他人を欺いたり出し抜いたり裏切ったり傷つけたりするために用いてしまいます。神から与えられた知恵や経験という特別な恵みを神の御心から離れて用いるようになってしまいました。人間がそのような力を神の御心から離れることを「罪」と呼びました。「罪」とは、道徳的な悪を行うことを意味するだけではなく、神の御心から離れた姿を意味しており、私たち人間には自分の力で罪を始末できない状態に、つまり、再び神との正しい関係を回復できなくなっておりました。
 永遠の初めから終わりまでお働きになる神の御心から離れた人間の営みは、例えそれが一時の繁栄を謳歌したとしても、そこで手にしたものを天国も地獄にも持っていくことは出来ません。私たち人間がこの世の生涯を閉じる時、この世に命を受けたことや人生を送ったことの意味や価値は何であったのかを神から問われることになります。
 私たちは、この世で得た物を全て手放して有りの儘の自分が神の御前に立つことになります。その時、神は私たちに何を問い、どのように判断し、私たちをどのように迎え入れてくださるのでしょうか。
 私たちは、主イエスを救い主とする信仰を持つがゆえに、そっくりそのままの自分を神に迎え入れていただくことができます。この「命」のことを聖書は「永遠の命」と呼んでいるのです。そして、私たちは、この「永遠の命」を単に死に直面する時だけのこととしてではなく、日々の生活も全てが主イエスを通して良しとされ、神に受け入れられ、愛されているという確信の中に生かされているのです。この信仰をもつ私たちは、この世にあって神の国の姿が自分を通して現れ出るように生かされ、神の国を人々に告げ知らせ、示して生きることを促されています。
 私たちが自分の生物体としての生涯を終えるとき、「自分はこの世に命を与えられて良かった」「生きてきて良かった」と自分を絶対的に肯定して全てを神に委ねることができるでしょうか。主イエスは、「できる」と言われます。いや、そればかりではなく既にあなたはそうされて生きているのだと言っておられます。
 人は生まれた環境でその人の人生を大きく左右されます。生まれた時代や地域の状況、自分の親族や両親の状況によってもその人の人生観や基本的な生活観も方向付けられます。私たちの中にも、時にはそうした自分の環境を怨みたくなったり、変えることのできない自分の過去を呪いたくなる人もいるかも知れません。でも、神は主イエスをとおして、全ての人を愛していてくださり、それぞれの人が取り替えることのできない大切な一人であることを教えてくださり、「永遠の命」へと招いていてくださいます。
 主イエスは、そのことを教えてくださるために、ご自身を十字架の上に献げてくださいました。この主イエスをとおして示された「命」を福音記者ヨハネは「永遠の命」という言葉を用いて示しているのです。
 主イエスによってこの「命」を与えられたという信仰によって生かされている人びとは、主イエスの愛を確認する感謝の礼拝として、聖餐式という形を取り引き継いできました。私たちがこの礼拝の中で主イエスご自身の肉を食べその血を飲むということは、私たちの人生が神によって愛され肯定されていることを確認することにつながります。私たちは、私たちの体の中に主イエスに宿っていただくのです。そうすることによって、私たちは他ならぬ自分が永遠の神の愛の中に生かされていることを受け止め、喜びも悲しみも全て正面から向き合っていくことができるようになります。その意味でも、私たちが毎主日聖餐式(ユーカリスト:感謝の祭儀)を行うことは、私たちが神から与えられた自分の命を大切に育てていくことと深くつながっているのです。
 今日の福音書の中で主イエスは「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲むものは永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。」と言っておられますが、「永遠の命」とは単に肉体的な不老長寿を意味するのではなく、私たちに与えられた命が他に二つと無い大切なものとして神の前にしっかりと受け止めていただき、価値あるものとして意味づけていただく命のことであることを覚えたいと思います。主イエスを通して与えられた神の愛のしるしが、私たちをしっかりと支えて生かしてくださり、最終的には神の御前に私たちの全てを何一つ欠けるところのないものとして受け入れていただけるのです。
 赤ちゃんが一人前の人間となっていく過程を見ても、自分を見失っていた人がもう一度新たな自分を取り戻して生かされるようになる過程を見ても、自分を遙かに超えた大きな存在に守られ愛されることが必要であることが分かります。その愛の源である主イエスによって、私たちは「永遠の命」を認識し受け入れることができるようにされました。
 主イエスの体と血によって、神の愛を確認し、その愛に生かされ、永遠の命へと導かれましょう。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 03:05| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする