2021年04月26日

牧師交代のお知らせ

 2021年3月に牧師の小野寺達司祭は定年により水戸聖ステパノ教会を離任し埼玉の東松山聖ルカ教会へ向かわれました。


 https://www.saint-luke.church/


 後任には藤井文宏司祭が4月から着任しました。

 今後とも当ブログ及び水戸聖ステパノ教会をよろしくお願いいたします。

posted by 水戸聖ステパノ教会 at 12:10| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年05月06日

聖書の内容は全部そのまま信じるべきでしょうか?

 その答えを私から申し上げる前に、あなたにとって「信じる」とはどういうことかを振り返ってください。他の言葉に置き換えると、「信じる」とはあなたにとってどんな言葉になりますか。
 一般論ではなく、あなたには、「聖書の内容の全てをそのまま信じて良いわけではありません。」と申し上げた方が良さそうです。
 聖書は科学の教科書ではありませんから。また、聖書(ことに旧約聖書)は古い時代からの移り変わりの中でしるされており、その中で思想的にも成長、成熟していく歴史があり、その視点から見れば、その思想に矛盾する箇所も沢山ありますし、時代の中で自己理解も変化していきます。その一部だけを切り取って「信じる」ことは正しい読み方、信じ方ではありません。
 例えば、聖書(創世記の始めの箇所)の中で、神は六日で天地を創造しますが、これは科学的事実を記しているのではありませんから、そのままあなたの信じ方で信じてはいけません。この物語を通して聖書は読み手に何を伝えようとしたのかを学ぶと、聖書は真実を伝えていることが理解できるでしょう。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 05:49| Comment(0) | Q and A | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年04月30日

牧師、神父、司祭などの呼称に違いはありますか?

 私もいろいろに呼ばれています。
 辞書レベルのことは、面倒でも『広辞苑』のような比較的大きな辞書を引いてください。それぞれ載っていますので、その知識で十分です。
 私は、日本聖公会の司祭ですが、それは誰が認めたのでしょう。教会が認め、教区主教が司祭按手式の中で私に手を置いて(按手して)私は司祭に叙任されました。この叙任によって、私が司祭という職位にあることは生涯変わりません。その司祭である私が今は教会に派遣されて牧師として働いています。私たちの教会は、北関東教区として一つの体であり、司祭は主教によって具体的宣教の働きのために各地の教会に派遣され牧師として働くわけです。
 つまり司祭は教会の「職位」であり、牧師は司祭としての「職務」の一つであると言えます。
 神父とは、教区司祭と修道司祭の総称のように用いられる言葉で、おもにカトリック教会の司祭の呼称で、聖公会の司祭にはあまり「神父」という呼称を用いません。でも、聖公会のアングロ・カトリック的立場から、「神父」という言葉を用いている人もいます。
 余談になりますが、遠藤周作氏の小説『沈黙』をご存知ですか。
 キリシタン迫害の時代に日本に潜伏した宣教師が転ぶ(棄教する)物語です。あの話の最後の方で、転んでしまった宣教師のところに裏切り者のキチジローがやってきて、赦罪(罪の赦しの祈り)を求めます。転んだ神父が執り成しをして赦罪の宣言をすることは有効?それとも無効?
 答えは深いですね。
 司祭になるための按手が有効であったら、神父が転ぼうがキリストを裏切ろうが、司祭であることは消えないのであって、キチジローのために祈り宣言された赦罪は有効であると言えます、が、司祭は主教(司教)によって具体的な働きのために派遣されるのであり、司教は棄教者が牧師として勝手に働くことを認めないでしょう。司教が認めていない司祭の祈りは有効でしょうか。その答も深いですね。
 さて、あなたはこの神父の働きを神の愛を具現する働きとして有効であるとお考えですか。それとも教会が認めていない人の業であり無効とお考えですか。
 そうそう、まだ口の回らない稚き子が私のことを「チンプチャン」と呼んでくれました。案外本質を突いているかも。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 15:49| Comment(0) | Q and A | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする