2019年01月06日

私たちの王 マタイによる福音書第2章1−12節  顕現日        2019.01.06

私たちの王
マタイによる福音書第2章1−12節  顕現日        2019.01.06

クリスマスの12日間が過ぎて、教会のカレンダーでは顕現日となりました。 顕現日の起源は、東方教会で主イエスがこの世に神の子としてのお姿を現したことを記念して祝っていたことに始まという説もあります。ロシアやポーランドなどの正教会の伝統では、クリスマスの12日間は家族で静かに主イエスの誕生を心に留めて過ごし、この顕現日に主イエスがこの世界にお姿を現してくださったことを共に喜び祝う習慣があるようです。やがてこの日は、救い主を探して旅をしてきた東の国の学者たちが聖家族を探し当てた日とされたり、神の御子イエスがユダヤの中だけではなく広く異国の人々にも認められたことを祝う日とされるようにもなりました。
 顕現日の聖所日課福音書には、マタイによる福音書第2章1節からの箇所が取り上げられています。この箇所には、いわゆるクリスマス物語の中から、東方の占星術の学者たちが幼子イエスを探し当てて喜びに満たされた物語が記されています。
 学者たちは、エルサレムに来た時こう言いました。
 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。」
 この学者たちに限らず、私たちがいきている限り自分の王を尋ねる旅は誰にでも必要なことであり、私たちもこの学者たちのように本当の王を自分の生きるべき拠り所とし、本当の自分を保ち、喜びに満たされて生きる者でありたいと思うのです。
 自分の王を尋ねることとは、言葉を換えれば、自分の最終的な、究極の判断基準は何なのか、自分が生きる根拠を何に求めるのかと言うことに深く関わっています。私たち人間は弱い者であり、自分では間違いないと思っていた価値観や判断基準も時にはぐらついたり、迷ったりも致します。また、自分を中心に立てればその思いに誘惑されて、エデンの園を追放されたアダムとエバのように、自分の犯した罪の責任を他人に押し付け合うようなこともしてしまいます。でも、人が人として生きる上で、誰もが人間として神の前に正しいこと、意味のあること、人間としての尊厳が失われないことなどを絶えず尋ね求めているはずであり、人の罪深さも、裏返せば、自分は生きたい、誰かに認められたいと思うことの表現であるとも言えます。その生きようとする思いをどう表現するかによって、人は罪を犯すことにもなれば、神に受け入れられ社会的にも認められるものにもなりもします。そうであれば、私たちが誰を、また何を自分の生きる判断の基準にしているか、誰を王としているのかが大切なことになってくるのです。
 今日の福音書の中で、占星術の学者たちは「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか」と言って、王を探し求める旅をしています。彼らは、この世で多くの財産を築き上げさせてくれる王や社会的に高い地位に昇らせてくれる王を自分の生きる拠り所にするのではなく、彼らが自分の人生を本当に意味あり価値のあるものとして全うさせてくださる最終的な拠り所を探し求めて人生の旅をしていると言えるでしょう。
 その当時の占星術の学者とは、現代のテレビ番組の「今日の運勢」などというのとはまったく違い、宇宙天体を始めとする森羅万象の動きを読みとりその中で人がどう生きるべきかを探求する人であり、彼えは哲学者であったと言って良いでしょう。
 その学者たちが、暗闇の中に特別に光を放つ星に導かれて王を探し求め、その当時のユダヤの政治や宗教の中心であるエルサレムにやって来ました。そして、それは旧約聖書ミカ書第5章1節に記されている預言が実現したことだと知ります。彼らはベツレヘムに向かい、その町の片隅で母マリアと共におられる幼子を見出し、喜びに溢れ、この幼子に自分たちの宝を捧げたのでした。
 学者たちが開けた「宝の箱」には彼らの仕事のための道具つまり彼らが生活していくための道具が入っていました。占星術の学者たちは自分の生活を幼子イエスに明け渡したのです。彼らは天体の動きから人々の運命を読み解くことを放棄して、主イエスによって示された神の愛の中に生きることへと回心した、と説明することも出来ます。
 また、学者たちが捧げた三種の贈り物は象徴的な意味が込められていることも指摘されています。黄金は金属の王であり、その性質は変化することなく、まさに王であるイエスに捧げられるに相応しいと考えられました。また乳香は高価な匂い油であり、イスラエルでは昔からこの油を頭に注いで人を聖別する伝統がありました。この油注ぎのことをギリシャ語ではクリスマと言い、油を注がれて聖別された人をキリスト(ヘブライ語でメシア)と言ったのです。やがてイスラエルの人々の中では、こうして油を注がれて(クリスマを受けて)聖別されてイスラエルの救いとなるお方をキリストと呼ぶようになるのです。学者たちはこの幼子に救い主として聖別するための油を捧げて自分たちの信仰を告白したのです。
 もう一つの献げ物は没薬です。没薬は主イエスが十字架につけられたあと、その十字架からアリマタヤのヨセフによって下ろされ、墓に治められる時にこのアリマタヤのヨセフとニコデモによってその御体に没薬とアロエを混ぜたものが塗られたのです。イエスがどのような意味での救い主であるのかを没薬は示しました。学者たちがお捧げしたこれら三種類の捧げ物によって、幼子イエスがどのような意味での王であり救い主であるのかが示されています。
 先ほども少し触れましたが、占星術の学者たちは、これまで宇宙や天体の現象を中心に観察してそこに働く諸霊の力に人の運命を見出してきました。しかし、彼らは幼子主イエスの前にそれらを捧げて明け渡し、イエスを自分の王として生きていくことへと変えられています。
 この様に見てきますと、マタイによる福音書が、異国の占星術の学者たちまでが幼子イエスを自分の王とし救い主としてあがめる物語を示して、読者である私たちに何を伝えているのかは自ずと明らかになって参ります。
 私たちは今日の福音書を通して、主イエスさまを自分の本当の王として探し当て、その王に自分を明け渡して生かされていくことへと促されています。私たちは、今日の福音書から、この世の暴君ヘロデに従うのではなく、救い主と出会って自分の道を帰っていった占星術の学者たちに信仰の歩みを見ることが出来ます。
 聖書の中に、主イエスが弟子たちに次のように問うておられる箇所があります。
「それでは、あなたがたは私を何者だというのか(マタイ16:15)。」
 私たちは、この主イエスの問いにどう答えるのでしょうか。ペトロは「あなたこそ生ける神の子キリストです。」つまり私の王ですと自分の信仰を告白しました。
 多くの人は「王」とか「救い主」という言葉から自分に利益や幸運をもたらしてくれるようなお方を思い描き、誰にすり寄っていけば安全であり有利であると考えます。
 今日の福音書に出てくる異国の学者たち(いわゆる3人の博士)が求めた王は、そのような王ではありませんでした。もし、仮にそのようなお方を求めるのであれば、ヘロデを自分の王とする方が側近として威張ることも出来るでしょうし、この世の利益を得することも多かったことでしょう。でも、学者たちはそのような存在に自分を売り渡して武力や財力の支配下に生きることより、愛に徹して生きていくために馬小屋に生まれてきた小さな救い主を自分の王として選び取ったのです。
 私たちは、主イエスによって見つけ出され選び出され、このお方を王として生きることへと招かれました。この顕現日に、私たちが主イエスのお姿が世界に示されたことを記念することは、私たちが神からこのお方を自分の王とするのかと問われることを意味しています。私たちも3人の学者たちと共に主イエスさまを自分の王として迎え入れ、主イエスに導かれ生かされる喜びに招き入れていただきましょう。
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2019年01月01日

恵みと慈しみに富む神 出エジプト記第34章1〜9     主イエス命名の日  2019.1.1

恵みと慈しみに富む神
出エジプト記第34章1〜9     主イエス命名の日  2019.1.1


 降誕日から8日目となり、今日は「主イエス命名の日」です。
 今日の旧約聖書日課で、主なる神はご自身をこう説明なさいました。
 「主、主、憐れみ深く恵みに富む神。忍耐強く慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者。(34:6)」
 そして、モーセはこの主なる神に跪きひれ伏してこう祈って言いました。
 「主よ、もしご好意を示してくださいますならば、主よ、わたしたちの中にあって進んでください。(34:9)」
 どのような状況の中でこの言葉が交わされたのかを振り返りながら、私たちもこの新しい年に、憐れみ深く恵みに富む神の導きを受けながら歩んでいくことが出来るように、導きを受けたいと思います。
 イスラエルの民はエジプトの地で奴隷になっていましたが、紀元前1280年の頃、全き神の力と導きによって、いわゆる出エジプトが始まります。イスラエルの民は、当時最強と言われていたエジプト軍の追跡を逃れて紅海を渡りきり、荒れ野の旅を続けてシナイ山の麓までやって来ました。主なる神はモーセをシナイ山に招き、主なる神とイスラエルの民との約束である十戒を示しました。ところが、モーセがシナイ山にいる40日の間に、イスラエルの民は神の御心の反する行いをしてしまうのです。イスラエルの民は、モーセが山に登ったままなかなか降りてこない事に不安になり、麓に残っていたアロンに向かって「私たちに先だって進む神々を、私たちのために造ってくれ」と言い始めたのです。私たちも、神がいる事の確かさがぐらつくと、安心するために目に見える対象を求めたくなるのではないでしょうか。
 アロンは民の訴えをきいて、民が身に付けている金を集めて鋳物にし、雄牛の像をつくりました。そして、祭壇を築き、一同はこの金の小牛を神の宿る台座に見立ててその周りで飲み食いして騒ぎ始めたのです。
 一方、モーセは40日間シナイ山にいて神の言を受け、2枚の石の板に神ご自身の指で記された十戒を授かり、山を降りてきました。イスラエルの民の宿営に戻ってきたモーセは、金の子牛の周りで踊り戯れている民の姿を見て怒り、十戒を記した石板を投げつけて砕いてしまいます。更に彼らが鋳て造った若い牛の像を火で焼いて砕き、粉々にして水の上に撒き散らし、イスラエルの人々に飲ませたのでした。イスラエルの民は、モーセが主なる神とシナイ山の上で約束を交わし合っている真っ最中に、不安になって金の子牛像を造り、主なる神との関係を壊してしまいました。モーセは必死になって主なる神に向かい民が犯した罪の赦しを願い、またこの民を見捨てて離れ去るようなことなく共にいて下さるように祈りました。 
 主なる神はモーセをもう一度シナイ山の頂きに呼び寄せ、契約を結びなおしてくださいます。モーセはもう一度石の板二枚を持ってシナイ山の頂に登っていきました。この時、出エジプト記第34章6節にあるとおり、主はモーセに宣言なさいました。
 「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。」
 5節を見てみると、主はモーセと共にそこに立ち、「主の御名を宣言された。」とあります。つまり、主なる神はご自身の正体を証して、ご自分は「憐れみ深く、恵みに富む神」であり、「慈しみとまことに満ちている」と言って、神ご自身の方から契約を結ぼうとしておられるのです。
 先ほど見てきたとおり、イスラエルの民はモーセを通して主なる神と約束を交わしその誓いを立てたにもかかわらず、その契約を台無しにしてしまいました。このような罪深く弱い民を顧みて、憐れみ深く恵みに富む神はもう一度モーセを通して契約を結び直してくださいました。それは、単に無節操に何をしてもその赦すということではなく、本来は「罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を子、孫に3代4代までも問う」はずの神が、「わたしがあなたを選び、あなたを持ち運ぶ」という思いで、もう一度神との間に生きる出発点へと招いて下さるのです。
 もし、契約や約束事がいい加減なものであれば、この世界は無秩序になって混乱するでしょう。また、もしはじめから守らなくても構わない契約があったとしたら、そんな約束は無いも同然です。私たちが神と結んだ約束や誓いについても同じであり、何一つおろそかにして良いことなどありません。むしろ神と私たち一人ひとりの契約があるからこそ、私たちのこの世界における人と人の契約も成り立つと言えます。契約に忠実であることは、その根拠となる信念に裏付けられているはずです。
 私たち日本人は神観念が薄くその場その場の雰囲気に流されやすく、他人や世間の目が無ければその場限りの都合の良い事を言いやすいと指摘されています。「旅の恥はかき捨て」と言う事も、一人ひとりがしっかりとした神との契約関係に立たない事により、その場限りのご都合主義の日本人の精神を表現している言葉なのかも知れません。もし、私たちが神との契約を破って神の意思を疎かにするなら、私たちは私たちをお創りになった神の裁きに服さねばならない者であることをよく心に留めておく必要があるでしょう。
 モーセは再び神の御前に立ちました。神はご自身をモーセに現して、「憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く慈しみとまことに満ち」と言って、契約を守れなかったイスラエルの民を顧みてくださいます。それでは、イスラエルの民が赦されることで、契約を破って相手に損害を与えたイスラエルの民が負うべきこの罪の責任、契約を守らなかったことの償いは誰がすることになるのでしょう。
 その答えは、やがて主イエスによって示されるのです。
 神は単にイスラエル民族のためだけではなく、罪ある全ての人のために目に見えるお方となってこの世に来て下さいました。主イエスは、神であるのに人となり、憐れみ深く恵みに富むお働きを、忍耐強く、慈しみとまことに満ちた生涯を通してお示しになりました。神の御心は、具体的な人となって示されました。その人は、イエス(ヤハウェ救い)と言う名を与えられ、イエスはその名の通りの生涯を送って神の御心を示し、その結果、最期には十字架にお架かりになりました。私たちが契約に違反し主なる神との約束を台無しにした結果、本来私たちが自分で果たすべき責任、自分自身が負うべき罪の結果を、私たちに代わって主イエスが引き受けて下さり、本来なら私たちの罪を主の前に三代四代後まで赦されずにその償いの働きを負うはずの私たちがその罪を赦されたのです。こうして主なる神は救いの約束である私たちとの契約を、解消するのではなく、主イエスを通して確かなものである事を明らかにして下さったのです。このような神の恵みと慈しみに基づいて、私たちは「憐れみ深く恵みに富む神」「忍耐強く慈しみとまことに満ちる神」と私たちの方から主なる神を誉め称える事が出来るのです。
 新しい年を迎えました。1月1日は降誕日から8日目であり、救い主がイエス(ヤハウェは救い)という名を与えられた事を覚える祝日です。一年の初めに当たり、私たちは主イエスが「神は我が救い」である事を身をもって示してくださったことを感謝し、イエスの名を私たちの心に刻み、私たちが洗礼、堅信礼のおりに神と交わした契約の言葉を再確認しましょう。出エジプト記34章9節にあるモーセの言葉を私たちの心に刻みつけて、新しい年のそれぞれの歩みを始めて参りましょう。
「主よ、もしご好意を示してくださいますならば、主よ、私たちの中にあって進んで下さい。」
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2018年12月30日

降誕節を生きる  ヨハネによる福音書第1章1〜18 C年降誕後1  2018.12.30

降誕節を生きる
ヨハネによる福音書第1章1〜18 C年降誕後1  2018.12.30

 降誕日の直後の主日です。降誕後第1主日を迎えました。
 かつて、クリスマス・イヴ礼拝に出席した小学生が、礼拝後の茶話会で私にこう話しかけてきました。
 「日本のクリスマスはイヴだけで終わっちゃうけど、本当のクリスマスは明日なんだよね。」
 私は「その通り。そしてクリスマスは12日間続いて、世界はこの時が一番平和なんだよ。」と答えました。
 今年も、主イエスのいない年中行事のクリスマスは、イヴのお飾りがなくなると共に過ぎていきました。でも、クリスマスのことで大切な事は、御子イエス・キリストの誕生によって、神の御心がこの世界に具体的に示された事をしっかりと受け止める事であり、信仰者のクリスマスは12日間、1月6日の顕現日の前日まで続きます。
 教会暦の一年は、主イエス・キリストを迎えるための4つの主日を過ごすことに始まり、私たちは今、主イエス・キリストのご降誕を祝う平和の時を過ごしています。
 降臨節、降誕節が、教会暦の上で、一年の初めに置かれいるのは、私たちがイエス・キリストを迎え入れてこれから信仰生活が始まっていくことに位置づけら、意味づけられているように思われます。皆さんは、いかがお考えでしょうか。
 私たちはこのような教会暦の中にも教会の伝統が受け継がれていることを大切にして、その精神を生きることを受け継ぎ、また後世にも引き継いでいきたいと思うのです。
 
 教会暦の降誕節の12日を考える上で、小さな絵本のお話をしましょう。
 それは、『クリスマスの祈り The Legend of the Cristmas Prayer (ブライアン・モーガン著』(いのちのことば社)という絵本です。
 クリスマスが近づく頃、ある男が、自分が他の人に贈ることの出来る最高のプレゼントは何かを考えますが、行き着いたのは、
 「きっとお金で買えないほどのねうちのある贈り物があるにちがいない。」ということであり、クリスマスの12日の一日一日の祈りの言葉を羊皮紙に書いていきます。
 例えば、1日目は
「クリスマスの1日目に 君のために喜びを祈ろう。あふれるばかりの喜びと、心うるうおす笑い声を。笑い声は病をいやし 喜びはたましいを高く舞いあげる。」
 そして、2日目は吐息を、3日目は涙を、4日目は静けさを、5日目は知恵を、更に、忍耐、勇気、あわれみ、働く喜びなどが祈られ、12日目には
「クリスマスの12日目に 君のために愛を祈ろう。心の底から湧きでる愛を。くらしのなかで行き交う人にいつも愛を与えることができるように。」と書き上げます。
 でも、ここで男はこれらの宝はみなすでに贈ろうとする友の中にあるもので、この言葉を書く度に、それらの言葉が自分の心にもしっかりと刻まれていたことに気付きます。
 やがてこのクリスマスの祈りは、この男のことは忘れ去られていく中、書き写されて他の多くの人から人へと届けられ、贈る人にも贈られる人にも豊かで暖かな心が拡がり、この本を手にするあなたも暖かな心になりますように、と結ばれてこの本は終わります。

 私は、絵本としての評価は別にして、この本を通して、クリスマスの12日間について、ことに私たちの降誕節の過ごし方について思い巡らせることが出来ました。
 今日の福音書の中で「言は自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」(1:11)とあります。世の中はクリスマスを季節の行事のように祝いながらも、イエスをキリストとして受け入れてはいません。そのような中でも教会は、粛々と淡々と、主イエスが闇の中の光として世に来られたことを語り続け、その光が世界の隅々にまで行きわたりますようにと祈るのです。
 この世が主イエスを認めなくても、民が受け入れなくても、神が主イエスを敢えて貧しく小さなお姿でお与え下さって私たちを熱い思いで愛してくださっている事を覚え、教会は時が良くても悪くても、主イエスによって与えられた救いについて思い巡らせて祈り、伝えていく使命を与えられているのです。
 私たちは、貧しく小さいお姿でこの世に宿って下さった主イエスによって神の愛を示されました。私たちはそのようにしてまで独り子を惜しまない神の愛を伝えられ、そのキリストを受け入れました。私たちは、私たち自身の中にある心の闇を見つめて、またその一方で、主イエスを自分の心の闇に迎え入れることで、今まで見えていなかった多くの事を新しい目で見る事ができるように導かれたいのです。
 この世界に生きている動物は、それぞれの種類によって認識できる光の波長が違います。例えば、人間の目には紫外線は見えないけれど、チョウには紫外線は可視光線であり、その見え方で、チョウは花の種類を見分け、雄と雌の違いをすぐに識別しています。このことを比喩として言えば、私たちは主イエスを通して示された神の愛を受けて、私たちはその愛の目でこの世の出来事を見ることで、その視点からこの世に神の愛をもたらす生き方へと促されていきます。
 例えば、今まで拒んでいたイエスについて、見ようとしなかったイエスについて思い巡らせ、イエスの名によって祈ることによって、見える世界が新しい拡がりをもたらすことへとつながっていきます。
 先程紹介した絵本の中で、男が他の人に贈る最高のプレゼントを思い巡らせることを通して、この世の富としては決して手に入れることのできないものに気付き、相手のために祈ることへ、そしてそれは届ける人も届けられる人も心豊かに温かくされることが示されていました。
 それまでは、例えば、得か損か、高いか安いか、勝ちか負けか、上に立つか従うか、自分の思いどおりかどうか、気に入るかどうかと言うようなことを判断基準にして、その枠で見える中で生きて来た者が、主イエスを迎え入れることによって見えてくる世界とそこに生かされる感謝と喜びによって、教会は生かされ歩んでいきたいのです。
 降誕節の12日間は、私たちが主イエスによって神から与えられた「愛」を自分の判断の基準にして生きられるように、主イエスを私たちの馬小屋のような粗末で汚れて他の人には触れないで欲しいような所にも迎え入れて、その喜びを確認して過ごす期節です。
 馬小屋のような粗末な場所であっても、そこを宣教の始めの場所としてこの世に来られた御子主イエスを迎え入れ、見つめて、神の愛の視点を養われましょう。そして私たちが生きていく判断基準も私たちの内に宿ってくださった主イエスに基づくものとなるよう、祈り求めていきたいと思います。
 もう一度今日の特祷を捧げ、私たちが神の愛によって目を開かれ、神の愛を映し出す働きに与る思いを新たに致しましょう。
 全能の神よ、あなたは驚くべき御業によりわたしたちをみかたちに似せて造られ、更に驚くべき御業により、御子イエス・キリストによってその似姿を回復してくださいました。どうか、主が人性をとってわたしたちのうちに来られたように、私たちも主の神性にあずからせてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 17:19| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする