2020年02月05日

「神の小羊」を証しする ヨハネによる福音書第1章29〜41節  顕現後第2主日   2020.1.19

「神の小羊」を証しする
ヨハネによる福音書第1章29〜41節  顕現後第2主日   2020.1.19

 今日の聖書日課福音書には、主イエスがいわゆる公生涯のお働きを始められる時に、洗礼者ヨハネがその主イエスを指し示している様子が取り上げられています。
 聖書の4つの福音書は、どれも主イエスの宣教のお働きが始まろうとする時に、その先駆けとして洗礼者ヨハネが出てきます。
 イスラエルの歴史の流れの中で、洗礼者ヨハネはその歴史の大きな転換点にいて、救い主イエスを指し示して生きた人と位置づけることができるでしょう。
 洗礼者ヨハネは、教会暦の中では、主イエスの御降誕を待ち望む降臨節の時にも毎年のように取り上げられています。
 その時は洗礼者ヨハネは「荒れ野で叫ぶ者の声」としてまた「主の道を整える者」として登場しました。それは、洗礼者ヨハネが主イエスの時代より前に生きていた人として位置づけられ、自分の後から来る救い主イエスを指し示す者としてヨハネが意味づけられるからです。
 また、顕現節に入り、先主日は洗礼者ヨハネが主イエスに洗礼を授ける人として紹介されました。そしてこの顕現後第2主日では、主イエスが公に宣教のお働きを始められた時に、洗礼者ヨハネが主イエスにお会いした時の様子が描かれています。主イエスと出会った洗礼者ヨハネは、主イエスのことを大きな声で人々に紹介して、このお方が誰であるかを証言しています。
 洗礼者ヨハネが主イエスをどのように言って証ししているか、その内容に目を向けてみましょう。
 今日の福音書の中で、洗礼者ヨハネは主イエスのことを「わたしはこの方を知らなかった」と言っています。しかも、31節と33節で、ヨハネは2度「わたしはこの方を知らなかった」と言い、それに「しかし」と続けて自分が主イエスの何を見て何を経験して、このお方をどのように考えているのかを証言しています。
 ヨハネは主イエスを29節で「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と言い、また36節で「見よ、神の小羊だ」と言っているように、洗礼者ヨハネは主イエスを神の小羊として人々に紹介しています。
 この「小羊」について触れておきましょう。
 羊という言葉は聖書の中に沢山出てきます。イスラエルの民は伝統的に半遊牧の民であったこともあり、旧約聖書の時代から羊にまつわる話や羊を例えに用いる話も聖書の中に幾つも載っています。主イエスもご自身を良い羊飼いに例えて、私たちは良い羊飼い主イエスに従う羊の群れであるという自己理解もあります。その時に用いられる羊という言葉はプロバトン(προβατον:sheep)という言葉です。一方、洗礼者ヨハネがこの箇所で用いている「神の小羊」とアムノス(αμνοs)という特別な言葉であって、生け贄として捧げられる汚れのない羊を意味し、英語では lamb が近いのかもしれません。そして、このアムノスは新約聖書の中ではこの箇所で洗礼者ヨハネの言葉として2回出てきていますが、そのほかには2箇所だけ、計4回用いられるだけなのです。
 その他の2箇所のうちの1箇所は、使徒言行録第8章32節です。
 そこにはこう記されています。「彼は、羊(プロバトン:sheep)のように屠り場に引かれていった。毛を刈る者の前に黙している小羊(アムノス:lamb)のように、口を開かない。」
 この箇所は、旧約聖書イザヤ書第53章の「主の僕の歌」の一つで「苦難の僕の歌」と言われている箇所の引用です。使徒言行録の中では、異邦人エチオピアの宦官がこの箇所を読みながらも理解できないでいた時、フィリポがこの箇所を説き起こして説明して、この「小羊」とはイエスのことであると知らせました。そして、この異邦人が洗礼を受けることへと導かれていきました。押し黙って人々の苦難を負う「主の僕」の姿は、屠り場に連れて行かれる小羊のようで、そのように私たちの苦難を負い贖ってくださる主イエスは「小羊」だと表現する場面でこの「アムノス」が用いられています。
 「小羊(アムノス)」が他にもう一箇所用いられているのは、ペトロの手紙T第1章19節です。そこには以下のように記されています。
 「・・・あなたがたが・・・贖われたのは、・・・きずや汚れのない小羊(アムノス)
のようなキリストの尊い血によるのです。」
 この箇所は、出エジプト記に記された大切な出来事を思い起こさせます。イスラエルの民がエジプトで奴隷であった時に主なる神によって救い出され、イスラエルの民がエジプトを出発しました。その場面で、神はモーセを通して奴隷であったイスラエルの民に命じられました。その命令とは、イスラエルの民がエジプトを脱出しようとする前夜、闇の中で、主なる神はその地に住む人ものの中から人間であれ動物であれ長子の命を奪うことにするから、イスラエルの家の者はそのような目に遭うことのないように目印として小羊の血を各家の柱と鴨居に塗っておくようにということでした。そして、エジプト人の長子が神に討たれて混乱する中、イスラエルの民はエジプトを出発することが出来たのです。やがてイスラエルの民はこの小羊の血を目印として、神はそれを信じて行う者には罰を与えずに過ぎ越してくださったことを記念するようになります。彼らは、自分たちの先祖が救い出された日を覚え、春分の日の頃の満月の日に過越の祭を祝うようになるのです。そしてやがて来たるべき救い主を人々の罪を贖う「過ぎ越の小羊(アムノス)」として待ち望むようになるのです。洗礼者ヨハネはこの過ぎ越の小羊こそ主イエスであると証言しています。
 洗礼者ヨハネは、このように、特別な意味で用いられる小羊(アムノス)という言葉を使って、自分が出会った主イエスを「見よ、神の小羊だ」と人々に告げ知らせています。
 主イエスご自身は、罪や汚れのないお方であるにもかかわらず、洗礼者ヨハネが授けていた悔い改めと罪の赦しのしるしとしての洗礼をお受けになり、罪人の一人に数えられる側に立って下さいました。そして、神が私たちといつも共にいてくださることを示してくださり、ご自身が本来負う必要のない苦難を背負い、やがて屠り場に連れて行かれる小羊のように十字架におかかりになるのです。
 洗礼者ヨハネは、自分はこの主イエスを指し示すために生かされる者であることを自覚します。そしてヨハネは「自分は水で洗礼を授けたが、主イエスこそ聖霊によって洗礼を授ける人である。」と言って、主イエスを指し示す「指」の働きを担います。洗礼者ヨハネは、この主イエスこそ、犠牲の小羊となって、すべての人を罪から救い出してくださることを大声で人々に伝えています。
 私たちは、降臨節から始まる教会暦の中で、洗礼者ヨハネの呼びかけによって、主イエスにお会いするのに相応しくされる降臨節を過ごし、この世に来られた主イエス・キリストを迎えて祝う降誕日と降誕節を過ごし、顕現節の初め(先主日)には、主イエスが公生涯の始めに洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになって、神の子イエスはいつも私たちと共にいてくださること学びました。そして今日顕現節第2主日に、私たちは、洗礼者ヨハネから主イエスが私たちの罪を贖い清めて下さる「神の小羊」であることを示されています。
 ヨハネは、主イエスこそ人々の苦難を担ってくださる「神の小羊」であり、神の怒りと罰を赦し浄めてくださる「神の小羊」であると教えています。私たちも洗礼者ヨハネから、神の小羊主イエスさまを指し示されています。私たちは、洗礼者ヨハネの指し示す神の小羊にしっかりと目を向け、「神の小羊」を迎え入れてその養いを受け、主イエスを自分の主、また救い主として証ししていくことが出来ますように。
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2020年01月12日

イエスの洗礼 マタイによる福音書第3章13−17   顕現後第1主日    2020.01.12

イエスの洗礼 マタイによる福音書第3章13−17   顕現後第1主日    2020.01.12

 教会暦は、主イエス・キリストの御降誕を祝う降誕節から、主イエスの公生涯のお働きに学ぶ顕現節に入りました。顕現後第1主日は、主イエスの公生涯が始まる最初の主日であり、「主イエス洗礼の日」です。
 今日の聖書日課福音書は、主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになった物語が取り上げられています。私たちはこの主日に、主イエスが罪のないお方であるにもかかわらず、敢えて罪人の側に回って洗礼を受けて下さったことを学び、罪ある私たちとも共にいて下さる主イエスによって導かれる思いを新たにしたいと思います。
 現在の聖餐式聖書日課は3年周期であり、今年はA年です。福音書にはマタイによる福音書を中心に採用されています。
 マタイによる福音書の中心となるテーマの一つは「共にいてくださる神」ということです。主イエスが、ヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けたことも、罪の無い神の子が罪ある者と共にいてくださることのしるしとなることでした。
 マタイによる福音書の始めの箇所と終わりに着目してみると、始めの箇所では主イエスの誕生を「インマヌエル−神は私たちと共にいます−」という出来事であることが記され、また、マタイによる福音書の一番最後の箇所で、甦った主イエスは弟子たちに「見よ、私は世の終わりまでいつもあなた方と共にいる」と言っておられることが記されています。
 このように、マタイによる福音書は、父親となるヨセフに産まれてくる幼子をイエスと名付けるように告げた天使がその子は「インマヌエル−神が共におられる−」と告げたことに始まり、甦りの主イエスが世の終わりまで共にいてくださるという約束で終わっています。マタイによる福音書は、例えて言えば、「神が共におられる」という大きな括弧の中でイエスの生涯を描いている、と言えます。
 今日の聖書日課福音書で、主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けたことを記しるしていますが、少し前の第3章11節でヨハネは「私は、悔い改めに導くために、あなたがたに水で洗礼を授けている」と言っています。その言葉のとおり、ヨハネが授けていたのは罪を告白して悔い改めのしるしとしとなる洗礼でした。主イエスがこの洗礼を受けられたということは、罪の無い主イエスが罪人の側に回り、これから始まる公生涯を罪ある者と共に生きてくださるしるしを身に受けられたということなのです。
 イエスの父親となるヨセフは、イエスの誕生の前に、夢で天使から「生まれてくる子はインマヌエルと呼ばれる」と告げられました。その子どもが30歳になる頃に宣教の働きを始めますが、その最初に、敢えて私たち罪人の側に回って「罪の赦しのしるし」となる洗礼をお受けになったのです。
 私たちは、日頃の生活の中で、「相手の立場に立つ」とか「相手の身になる」という言葉をしばしば使います。でも、もし私たちが本当にそうしようとすれば、その難しさを感じないわけにはいかないのではないでしょうか。
 人はよく、表面上は仲の良さを装いながらも、当の本人のいない所で、その人の悪口を言ったり陰口をたたきます。こうしたことは相手の立場に立つこととは正反対のことです。私たちは、一見親しく見える人同士でさえ、相手の話はろくに聞かず、理解もせず、自分の思いだけを相手に向かって吐き出して意気投合したつもりになり、実は少しも相手と出会えてもいなければ理解し合えてもいないと言うことさえ多いのではないでしょうか。
 私たちが他の人の話を聞くこと一つとっても、私たちが一歩立ち止まって、相手の人がどんな背景からどんな気持ちを伴ってそのことを口にしているのかを改めて考え直してみると、相手の話を聞いてその人を理解することがいかに大切なことであり、また難しいことなのかを認めないわけにはいきません。それでも、私たちは主イエスに共にいていただきながら何とかそのようにしようと努めるところに神の恵みが働きます。
 パウロは、人と共にいることとを「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」と教えていますが、その根底には主イエスの生涯と十字架があったのです。
 主イエスが、インマヌエル(神が我らと共にいます)というお姿をとって下さって、ヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになったことは、神が私たちの喜びにも悲しみにもどこまでも共にして下さることのしるしです。主イエスは、私たちの悲しみや苦しさをご自身で引き受けてくださり、私たちの罪も一緒に背負って下さって、私たちを罪の中にとどめず、私たちが主イエスとの交わりの中で、愛と赦しを得て、本当の自分を回復出来るように、どこまでも関わり続けて下さり、支え続けて下さいます。
 主イエスはその証として、ご自身は罪がないにもかかわらず、罪人の側に回り、私たちと同じ地平に立ち、私たちの罪の背景を知り、私たちと共にいてくださる徴を洗礼によって示して下さいました。そして主イエスは、この洗礼をお受けになった後に、当時の社会に中で見捨てられた人、虐げられている人、落ちこぼれてしまった人たちとどこまでも共にいて、その人たちの人生を回復する働きを始めていかれるのです。
 主イエスが洗礼者ヨハネの前に現れて洗礼をお受けになろうとした時、ヨハネは驚き、尻込みしてこう言いました。
 「私こそあなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、私のところへ来られたのですか。」
 これに対して、主イエスはお答えになりました。
 「今は止めないでほしい(そうさせてもらいたい)。正しいことをすべて行うのは(すべてを正しく行うのは)我々にふさわしいことです。」
 主イエスはここで、正しいことをすべて行うのは「我々に」ふさわしいと、複数形で答えておられることに注目してみましょう。
 神さまが私たち一人ひとりに与えて下さった使命とそのご計画は、人それぞれの顔立ちが違うのと同じように、それぞれに固有であり、仮に表面的には同じ仕事をしてもその意味は一人ひとり違うはずです。私たちはそれぞれに与えられた固有の人生を、インマヌエルととなえられるお方に伴われて歩んでいます。私たちが正しく神の御心を行おうとする時、その傍らにはいつも主イエスがいて下さることを、主イエスはここで「我々」という言葉を用いて示しておられるのです。主イエスがヨハネから洗礼をお受けになることは、イエス個人のことではなく、主イエスと私たちにとっての大切な事柄なのです。
 主イエスが洗礼をお受けになって水から上がると、すぐに天が裂けて神の霊がイエスに降りました。当時は、天はドームのようになっていて、神はその天蓋の上からこの世界を支配しておられるという天体観、宇宙観の時代でした。主イエスが洗礼を受けて、他の人々と共にいますことをお示しになったことは、天の神とこの世のイエスの間に隔てのない完全に一致することであることを、神自らがお示しになったのです。更に主なる神は、この主イエスを「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」と言って祝福しておられます。神の願いは、人が罪の中に滅びることではなく、裁かれることでもなく、インマヌエルによって再び正しく生きる力を得ることであり、そのことが今、こうして地上に示されたことは天の喜びでもあるのです。
 主イエスが神と私たちとの間にある罪の隔てを取り除いてくださって、私たちはこのお方を信じる信仰によって、誰でも、分け隔て無く、神の御前に進み出ることが出来るようになりました。私たちが一人ひとりの大きな違いを超えて互いに一つとなり共にいることが出来るのは、インマヌエルである主イエスがいて下さるからです。私たちの足りないところも、過ちも、主イエスによって補われ、赦されて、インマヌエルであるこのお方が私たちの中にいて下さるから、私たちはこうして一つになって祈ることが出来るのです。その集まりが主イエス・キリストの体となり、本当の教会の姿となるのです。
 主イエスが洗礼をお受けになり、私たちと共にいて下さる生涯をお始め下さった恵みを共に感謝しましょう。そして、私たちも教会の良い交わりを築き、この地に主が共にいて下さることを示せるように育まれて参りましょう。主イエスがすべての人を洗礼の恵みへと招いておられます。主イエスと共に生きる喜びと感謝をもって、洗礼の喜びを伝えていくことができますように。

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2020年01月07日

「ヘロデの虐殺を逃れて」 マタイによる福音書第2章13-15,19-23節 A年(降誕後第2主日) 2020.01.05

「ヘロデの虐殺を逃れて」 マタイによる福音書第2章13-15,19-23節       A年(降誕後第2主日) 2020.01.05

 私たちは、クリスマスの12日間を過ごしています。その間に今日の福音書の個所を読む事になりますが、私はこの箇所を読むたびに、主イエスの誕生にまつわるこんな悲惨な話があることに辛い思いになります。
 日本でのクリスマスは、12月24日のクリスマス・イヴの賑やかさが過ぎるのと共に去ってしまいますが、教会暦での降誕節は12月25日から始まって12日間続きます。この降誕節の中で、12月25日が主イエスご降誕の日に始まり、26日が「最初の殉教者聖ステパノ日」、27日が「福音記者聖ヨハネ日」、28日ヘロデの兵士らによって虐殺された幼子を記念する「聖なる幼子の日」です。更に1月1日の「主イエス命名の日」があり、私たちはこれらの日を含めた12日間を通して主イエスのご降誕を深く思い巡らせる時を過ごしています。
 今日の聖書日課福音書は、ヘロデによって多くの幼子が殺害された物語が取りあげられています。私たちは皆、今日の福音書の箇所から、ヘロデ大王の狡猾さと残虐さ、それに猜疑心の強さを思うのではないでしょうか。
 ヘロデ大王は、対外的には支配者であるローマの動きを気にしながら振る舞い、当時のローマの権力者たちからは比較的に良い評価を受けていました。ところが、内に対しては自分の王位を守るために妻の弟や妻の母親などを殺し、イスラエルの正当な王位継承者を抹殺して我が身を守りました。更には本来ヘロデ王には祭司長を任免する権利などなど無かったにもかかわらず、自分の親族を祭司長に任命するような横暴な面があり、それに反発する神殿指導者たちを追放し、弾圧するような人でもありました。そのようなヘロデ大王をはじめとするヘロデ家の狂気と病理について、曾野綾子氏が『ヘロデ』と題した小説でもとりあげています。
 今日の聖書日課福音書には、東の国の占星術の学者たちが、エルサレムにやって来た時のヘロデの対応が記されています。旅をしてエルサレムに来た学者たちは、こう尋ねました。
 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」
 マタイによる福音書第2章3節を見ると、「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。」と記されています。先ほど紹介したように、学者たちのこの言葉は、ねたみも強く疑り深いヘロデの気持ちを逆撫でする事になりました。ヘロデには、自分以外に王がいてはならないし、もし王座を狙うような者がいれば、生かしておけなかったのです。そこでヘロデはこの学者たちに次のように言いました。
 「見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう。」
 ヘロデは心にもないことを言い、その情報を得たら早速その「ユダヤ人の王として生まれた方」の命を奪い取る腹づもりだったのでしょう。
 ところが、この学者たちは幼子イエスを見つけ、喜びに満たされ、礼拝し、自分の宝物を献げて、別の道を通って自分たちの国に帰っていきました。これを知って腹を立てたヘロデは、ベツレヘムとその周辺の2歳にならない幼子を皆殺しにしました。当時、ベツレヘムは小さな田舎町で、ある聖書学者は実際にヘロデの兵士たちによって幼子が殺されていたとしたら、その数は15人から20人程度であっただろうと推測しいます。いずれにしても、一人の領主が自分の座を守るために、多くの幼子の命を奪ったのでした。
 この時、ヨセフは夢でお告げを受けて家族はエジプトに逃れ、幼子イエスの命は助かりました。
 マタイが記したこの物語から、「聖家族には神の守りがあった」とか「神の子はその一生が神の御手にあった」と簡単に言うことも出来るかとは思いますが、私はこの物語をその様な言葉でまとめてしまいたくはありません。このヘロデ王による幼子虐殺の出来事は、この後主イエスが生きていく上で大きな影響を与えたであろうと思います。
 イスラエルの民が子どもを教育する時、自分たちが何故今ここに生かされているのかと考えることをとても大切にします。イスラエルの民は、自分たちの先祖が昔エジプトの地で奴隷であり、その弱く小さな民を主なる神は選び、エジプトの地から救い出して下さったことを代々に渡って語り継いでいます。そして、そのようにして救われた民なのだから、十戒を中心にした律法を守ることを大切にし、子孫にもその事をしっかり語り継いで、そのような民のひとりとしてどのように生きるべきかを教育していくことに心掛けていました。
 また、旧約聖書の民であるイスラエルの人々は、何故今の自分が存在するのか、それは何によって守られ生かされているからなのかを考え、伝えていくことを大切にしていました。自分たちのルーツをいつも思い起こして、アイデンティティを確認していたと言えるでしょう。そのような文化の中にいたイエスの父であるヨセフも、イエスが生まれた頃にヘロデ王がベツレヘムとその周辺の子どもを虐殺したことや、聖家族はその難を逃れてエジプトで過ごして助かったことなどを折あるごとにイエスに語り継いだに違いないのです。そしてそのことはイエスが自分の命はなぜこの世にあるのか、何のために生かされていて、自分がどのように生きるべきかを考えるときの大きな導きになったに違いないのです。
 主イエスが成長して自分を振り返るようになったとき、多くの幼子の命の犠牲の上に自分の命があることを考えないわけにはいかなかったはずです。そして、イエスは、自分がどのように生きることが幼いうちに自分の身代わりになるようにして命を奪われた人々の事も考えないわけにいかなかったはずなのです。また、今生かされている自分がどのように生きることで幼い内にヘロデに殺された人たちに意味を与えたりその死に報いることになるのかを考えないわけにないかなかったはずなのです。ヘロデの兵士によって殺された多くの幼子の命と引き替えに自分の命があることを考えるとき、イエスは神の子としてこの世に御心を示し、人の命が大切なものでありその生涯が神によって祝されなければならないことをイエスは人々に伝え、神と人に仕えて生きる一生を送らないわけにはいかなかったのだと思うのです。そして、ヘロデが自分の王座のために多くの人の命を奪ったのとは対照的に、主イエスは多くの人々の命のために自分の命を十字架の上に差し出すことになりました。
 やがて教会は、ヘロデによって殺された子どもたちを特別に記念するようになりました。それが「聖なる幼子の日」です。あたかも神の子の身代わりのように殺されていった子どもたちを記念する日です。未だ2歳にならないうちに殺された子どもたちは、その名も分からず、詳しい人数も分かりませんが、教会はその子どもたちを「聖なる幼子」と呼んで記念しています。この子どもたちは自分たちの意図した働きではありませんでしたが、救い主を助け生かす上で大切な貢献をしたのです。こうしてイエスとその両親は、ヘロデの陰謀による危機を逃れて、しばらくの時をエジプトで過ごし、ヘロデ大王の死後ナザレで暮らすことになりました。イエスはナザレで育ち、その後成人して公に神の国を宣べ伝えるようになっていきます。ヘロデの陰謀を逃れた聖家族には幼子たちの死が痛みとして残っていたはずです。その痛みが主イエスがどのように公生涯を送るのかに深く影響を与え、神の御心とは何かを考え導かれるる通路になったと言えるでしょう。
 私たちも神さまの大きな御手の中に用いられ生かされるとき、自分の一生が無駄ではなく聖なるものとされます。
 主イエスのご降誕を感謝し、私たち一人ひとりも主イエスを通して表された主なる神の御心に応え、神さまの働きにあずかる事を通して主なる神に祝されたいと思います。 
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