2019年02月26日

愛によって開く  ルカによる福音書第6章27−38   C年 顕現後第6主日   2019.2.24

愛によって開く
ルカによる福音書第6章27−38   C年 顕現後第6主日   2019.2.24

 主イエスは今日の福音書を通して私たちに「愛すること」を教えておられます。しかも徹底した愛を行うように教えておられます。
 今日の聖書日課福音書の中に、次のようなみ言葉があります。
 「あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたがたの頬を打つ者にはもう一方の頬を向けなさい。上着を奪い取る者には下着をも拒んではならない。」とまで言って、徹底的に人を愛するように教えておられます。「敵を愛しなさい」という言葉も2度(27節と35節に)用いています。
 このように、ある意味、厳しいみ言葉を受けて、私たちの頭や心には、色々な反応が起こります。例えば、「このような平和主義や無抵抗主義には限界がある、明らかに不義不正をなすがままにさせるのは愚かなことだ、このような愛は悪の広がりを抑えることができていないではないか。理想論としては分かるけれど実際に悪のはびこる世界でこうしていては生きていけない」というような思いがよぎった人もいるのではないでしょうか。
 でも、主イエスは、実行不可能なきれい事や遠い理想を語っておられるのではなく、私たちに差し迫った教えを与えておられることを覚えたいと思います。
 私は、主イエスの「あなたの敵を愛しなさい」という言葉に出会うと、いつも思い浮かべる一冊の本があります。それは、マルチン・ルーサー・キング牧師の『汝の敵を愛せよ』という説教集です。マルチン・ルーサー・キング牧師についてはもう多くの方がご存知でしょう。彼はアメリカで人種差別の撤廃や平和運動に精力的に働き、1964年にノーベル平和賞を受賞しました。しかし、その4年後に、白人のテロリストに撃たれて39歳の若さで世を去りました。この人の『汝の敵を愛せよ』という題の説教集の中に、このテーマの説教があるのです。私はその説教を読んだとき、差別され虐げらる人がこんなにも広い視野を持って世界の平和を考えているのかと、心を打たれました。
 その説教の中で、キング牧師は次のように言っています。
 「私たちはこれまであまりにも長い間、物事に対して、いわゆる実践的な方法ばかりを追求してきたので、そのためにずるずると一層深刻な混乱と無秩序におちいってしまった。現代は憎しみと暴力に屈服して崩壊した社会の残骸で満ちている。私たちの国を救い、そして人類を救うために、私たちは別の道を求めなければならない。」
実際に差別や虐待がはびこる世界の中で平和を実現していこうとすると、多くの困難に出会い、多くの人はこう考えます。「平和主義や無抵抗には限界がある。それではますます暴力や差別を許し、拡げることになる。」そして人は「平和を維持する」ことを名目に暴力を認め、敵対する者との間に一層深刻な混乱と無秩序をつくり出してしまいます。そのことは、核兵器で相手を押さえたり牽制しようとする世界の動きにもいえることでしょう。
 マルチン・ルーサー・キングは、そのような憎しみや暴力によらない「別の道」が必要であり、その「別の道」こそ「敵を愛する」ことだと言いました。そして、私たちが自分の敵を愛するべき根拠をキング牧師はこう述べます。
 少し長くなりますが、引用してみましょう。
 「暗闇は暗闇を駆逐することはできないのであって、ただ光だけが出来るのだ。・・・憎しみは憎しみを駆逐することは出来ないのであって、ただ愛だけが出来るのだ。・・・憎しみは憎しみを増し、暴力は暴力を増し、頑なさは破壊の一途をたどりつつ頑なさを増していくのである。したがってイエスがあなたの敵を愛せよと言われるとき、最終的には避けられない深い教えを述べておられるのだ。私たちは、自分の敵を愛さなければならないほど現代の社会の行き詰まりに直面しているのではないだろうか。」
 私たちがイスラエルを含む中東の問題を考えてみても、朝鮮半島の問題を考えてみても、あるいはもっと私たちに身近な集団や人間関係を考えてみても、もう50年以上も前にキング牧師が語ったことは真理であり、むしろ人が人を愛さなければ解決しない問題は、一層深刻な状況になっていると言えるでしょう。
 憎しみや暴力を愛に変えられない場合にはどんなに破壊的なことが起こり、自分だけしか愛せないときにはどんな破局をもたらすのか、この世界の歴史が語っています。そのような遠いことを例に挙げなくても、私たちの周りにも、具体的な働きをもって愛を行動に表していく努力をすることもなく、傍観するだけでその状況を他人のせいにして批判するだけ、という生き方をする人も多いのではないでしょうか。このことは、こうして説教するわたしにとっても他人事ではないのです。
 もし何か身近な問題について「それは私の問題ではない」という人がいれば、その人こそ自分の中に他人を愛せない傲慢さが潜んでいるかもしれないことを振り返ってみる必要があります。
 私たちは、主イエスの「あなたの敵を愛せよ」という御言葉によって、「愛なき世界が私たちを分裂へ破滅へと引きずり込もうとしているそのただ中で、あなたは愛に基づいてどのように生きているのか」という厳しい問いが与えられていることを心に留めたいのです。
 ことに、敵を愛すると言うことは、私たちが生かされているこの世界を(この地球とそこに自分と同じように生きている命を)愛するということのひとつの現れであり、また、私たちが自分と相手を愛することは、人間として互いに成長していくことと深く関わっているのです。
 私たちは他の人を愛することを通して自分を愛することを学びます。また自分を愛することで、他の人を愛することもできるようになっていきます。もし、それを自分一人の業としてしようとするのであれば、「人を愛する」と言っても結局は自分とせいぜい気の合う仲間だけで自分に都合の良い環境を整える以上にはならないでしょう。そしてそのような人たちが作り出す社会は自分のために愛し自分のために奪い自分のために満足する自分中心から抜け出すことが出来ないでしょう。
 このような私たちであるにもかかわらず、主イエスは「あなた方は敵を愛しなさい」と教えておられます。この教えが遠い理想論ではないことを主イエスご自身が身をもって私たちに示してくださいました。
 私たちは自分を愛する以上に他の人を愛せないのだとしたら、私たちはなぜ敵をも愛することができるようになるのでしょう。
 主イエスは、深い罪の中にあった私たちのことも愛してくださっています。私たちが主イエスの愛によって自分が赦されていることを知るとき、私たちは初めて他の人を心から愛することが出来る者に変えられていきます。そして、この世界に主なる神の御心が行われるように生きることへと方向付けられます。このように生きてこそ私たちは自分の敵をも愛することに歩み出していけます。愛のない世界で憎しみ、分裂、仕返しを強くしていく今の世界を、愛によって乗り越え、神の御心をそれぞれのところから開いていくことを主イエスは願っておられるのではないでしょうか。
 愛とは、単なる好き嫌いの次元を越えて、お互いが共に神の御心を現す器になるように相手に関わり抜くことです。今日の特祷で「愛が神から与えられる最も優れた賜物です」と祈りました。私たちが神から戴いた愛の賜物によって、私たちの置かれた状況を絶えず御心に適う世界を開いていく働きのためにいかされるように祈り求めて参りましょう。
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2019年02月18日

富める者の不幸 ルカよる福音書第6章17−26     顕現後第6主日   2019.02.17

富める者の不幸
ルカよる福音書第6章17−26     顕現後第6主日   2019.02.17
 
 今日の福音書で、主イエスは、貧しい人々の幸いとそれに続けて富める人々の不幸について話しておられます。
 今日の聖書日課の後半の箇所をマタイによる福音書の並行箇所と比較してみましょう。
 マタイによる福音書5章1節からには、「心の貧しい人々は幸いである」という言葉で始まる「山上の説教」があります。マタイによる福音書のこの箇所を「山上の垂訓」とか「山上の説教」と言うのに対して、ルカによる福音書の今日の聖書日課となっている個所は「平地の説教」と呼ばれています。
 それは、マタイによる福音書5章からの個所は、「イエスはこの群衆を見て、山に登られた」という言葉で始まっているように、主イエスが山上で多くの群衆にお話しをなさっていることからそのように呼ばれ、山が神の顕現する場所と考えられていたからです。旧約聖書の出エジプト記の中でも、モーセが十戒を授かった場所がシナイ山の頂であったことなどにも、山が神の臨在の場という考えが背景にあることが分かります。
 マタイによる福音書の「山上の説教」の中で、主イエスが貧しい人々の幸いをお話しになっているのに対して、ルカによる福音書6章では、17節で「イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。」という流れの中で、主イエスが教えを宣べておられます。そのために、今日の聖書日課福音書の後半は、「平地の説教」の個所とも呼ばれています。そして「平地」とは、まさに主イエスが人々と関わり共の生きておられる場所であり、主イエスが人の低いところにまで降りてきて下さっていることを表していると言えます。
 この両福音書の並行箇所は、山上と平地と対照的な場面設定になっているだけでなく、内容の面でも、大きな違いが見られる箇所があります。マタイによる福音書の「山上の説教」では主イエスが8つの幸いからお話しを始めているのに対して、ルカによる福音書の方では同じように「幸い」について伝えながらそれに加えて「不幸」についてもはっきりと告げていることです。
 ルカによる福音書とマタイによる福音書には、どちらにも同じように貧しい者に対する主イエスの眼差しがありますが、ルカによる福音書では、この箇所に限らず、「富める者」に対する厳しいほどの警告を強調していることを理解しておきたいのです。
 例えば、主イエスの母マリアがイエスを胎内に宿して神を誉め称えて歌ったいわゆる「マリアの賛歌」の中で、次のように言っています。
 ルカによる福音書第1章51節以下の箇所です。
 「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、
 権力のある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、
 飢えた人を良い物で見たし、富める者を空腹のまま追い返されます。」
 これは本当にマリアがうたった歌なのかと思うほどの内容です。
 私たちは時に福音を誤解します。私たちは、権力を得ることや満腹することや自分の力で何かを成し遂げて笑うことが、自分が神に守られていることの証しであり神の祝福を受けていることの証しであると思うことがあります。でも、主イエスはそのようには言っておられず、むしろ、貧しさや空腹や打ちひしがれて泣く者こそ幸いなのだと言っておられます。
 富める者に対する警告は、ルカによる福音書では、他にも、例えば「金持ちとラザロ」(ルカ16:19-)などにも見られます。その箇所の金持ちは、自分の家の門前にいた貧しいラザロに対して特に暴力を振るったり悪口を浴びせたりしてはいませんが、ふたりの死後は一転して、ラザロはアブラハムの懐におり金持ちは陰府に苦しんでいます。
 私たちは、権力を持つことや物的に豊かであることはそれが神の祝福の姿を証ししていると思うことさえありますが、主イエスは権力者や富める者が神の祝福を受けることはそれ程容易いことではないと教えておられます。また、富める者が知らない間に神の御心から離れてしまう恐ろしさについてもよくよく心得ておかなければならないのではないでしょうか。
 こうした視点をもって説教の準備をしていると、トルストイの小品集にある一つの物語に触れたくなりました。私は、昔その物語を読んだ時の衝撃を今でも忘れません。それは、「大悪魔と小悪魔」の話です。
 大悪魔が小悪魔に、ぶどう園の農夫を悪人にするように命じました。小悪魔はぶどう園に出かけて行って、その農夫に嫌がらせを始めます。ブドウ園に石ころや瓦礫を投げ込んだり、雑草の種を蒔いたりさんざんにイタズラををするのですが、農夫はそれに負けずますますぶどう園を整えて更に収穫を上げるのです。とうとう小悪魔は諦めて大悪魔のところに戻っていって、自分にはあの農夫を悪人にすることは出来なかったと言いました。すると大悪魔は、そんなやり方ではだめだと言って出て行って、農夫に毎年大収穫を与えました。農夫は自分のぶどう園を大きくし更に収穫を上げて沢山の良いブドウ酒を造り、次第に毎晩のようにそのブドウ酒を飲んで暮らすようになりました。そうしていつの間にかこの農夫は豊かさの中に浸ることに溺れて働く必要を感じなくなり、働く喜びを忘れ、毎日ブドウ酒に酔いしれ、いつの間にか人生を見失うことになるのです。
 私には、トルストイが描くこの小さな物語は、富める者の不幸を教えているように思えます。先ほど私は、福音記者ルカは富める者や満腹している者の「不幸」を宣言する主イエスを描いていると言いました。
 その宣言の部分であるルカによる福音書第6章24節を直訳してみると次のようになります。
 「しかし、ああ(この部分は「嘆かわしい!」という感嘆詞なのです。)、富めるあなたたち。あなた方は自分の慰めをえている。」
 このように読む事が正しいとすれば、この個所で主イエスは、富める者や満腹する者が自分の恵まれた現状にしがみつき、かえってその富に溺れたり自分中心になって神の御心から離れてしまう事に対して、深い嘆きや憤りを表しておられると言うことができるでしょう。
 こうした視点をもって今の世界の情勢を眺めてみるとき、先進国と言われている国々が地球資源をはじめとする富を独占し、多くの国と人々を貧しくしている姿が明らかにされ、主イエスはそのことに対する嘆きと憤りを顕わにしておられるようにさえ思えてきます。地球資源の9割を1割の先進国と自称する人々が消費し、残りの1割を地球の9割の人がやっと用いています。そして私たちは、本来は地球の全てにちょうど行き渡るはずの資源を独り占めにしている側の最たる立場にあることを忘れてはならないでしょう。
 私たちは今日の福音書をどのように読んで何を受け止めるべきなのでしょう。
 金銭や食べる物に満ち足りて笑っている者は自分がそれ以上になお豊かになることにしか目を向けられなくなり、いつしか神とつながる細いパイプを欲望によって詰まらせてしまっていると例えられます。そして、豊かで満ち足りている人ほど神を忘れ、自分を過信し、悪に対して無防備になり、時には自らそれと気付かずに悪に走り貧しい人々から奪い取っていることに気付こうともしないことさえあるのです。そして、物を豊かに所有する人間は、豊かである自分を誇って神とつながる細いパイプの詰まりを一層ひどくしてしまうほどに嘆かわしい者になりやすいのだと主イエスは警告しておられるように思われます。主イエスは、弟子たちもまた私たちも自分の力を頼みとしてはそのように罪から逃れられない者である事をよくよくご存知だったのです。他の人を出し抜いてでも奪ってでも、自分が豊かであろうとするところに人の深い罪が現れている事を主イエスは知っておられ、主イエスはそのような罪人である私たちに代わって罪人の行く末である十字架の死を引き受けて下さいました。
 私たちは自分の弱さや貧しさを知って認めることが出来るとき、その弱さや貧しさにひび割れてしまった土の器の割れ目から、主イエスの赦しの恵みが染み込んでくる事に気付くことが出来ます。
 悪魔の誘惑は色々な所に巧妙に仕掛けられており、とりわけ物的な富を得る中に仕掛けられています。富める者や満腹する者の不幸を宣言する主イエスの御言葉を深く受け止め、私たちの信仰を絶えず問い返し、物の豊かさへと導かれるのではなく、神の御国を求めて主イエスに従う思いを日々新しくされて参りたいと思います。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 21:43| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年02月11日

ペトロの召命 −恵みを信仰に− ルカよる福音書第5章1−11     顕現後第5主日   2019.02.10

 ペトロの召命 −恵みを信仰に−
ルカよる福音書第5章1−11     顕現後第5主日   2019.02.10

 今日の聖書日課福音書には、最初の弟子となるシモン・ペトロが主イエスに召し出された物語が取り上げられています。
 シモン・ペトロやアンデレ、ゼベダイの子ヤコブとヨハネは、ガリラヤ湖で魚を獲る漁師でした。漁をするのは深夜から明け方までで、日がのぼると漁は終ります。その日、シモン・ペトロたちは夜通し苦労して漁をしても、ただの一匹すら獲れませんでした。彼らが舟を上がって網を洗っていた時のことです。主イエスが近づいて来られました。大勢の人がイエスの話を聞こうとして、追いかけるようについてきています。主イエスはペトロに舟を出して岸から少し漕ぎ出すようにとお願いなさいました。ペトロは言われるままに主イエスを乗せて舟を出すと、主イエスは舟の中で腰を下ろし、そこから岸辺にいる大勢の人々にお話しなさいました。話し終えると、主イエスは、ペトロにそのまま沖へ漕ぎ出して漁をするようにと言ったのです。ペトロは驚き戸惑いました。
 「なぜ?自分は長年この湖で漁をしてきた。今日は不漁だったし、既に日も高くなっているのに。しかもこのお方は大工の息子ではないか。私はこの湖を知り尽くしているし、今朝まで一晩中網を打っても魚は獲れなかった。もう網も洗い終わっているのに、このお方はなぜ網を降ろしてみよなどと、面倒なことを仰有るのだろう。」
 ペトロは漁師としてのプライドが潰される思いであったかも知れません。その一方で、ペトロは主イエスの特別なお力を知っており、このお方の言うことなら従ってみようという思いもあっただろうと思います。ペトロがそう思うのは、今日の聖書日課福音書の前のルカ4:38〜に記された出来事があったからです。
 ペトロの姑が高熱に苦しんでいた時、主イエスが彼女の熱を追い出すと直ぐに熱は下がって元気になり、起きあがって主イエスと一同をもてなしたのでした。
 ペトロは主イエスの言葉に従って、自分の意志によってではなく、主イエスの言葉に従って網を降ろしてみました。結果は網が破れんばかりの大漁でした。自分のいる舟だけでは手におえず、岸にいる仲間にも助けを求めました。どちらの舟も沈みそうになるほど、魚で一杯になりました。
 この時、シモン・ペトロは主イエスの足下にひれ伏して言います。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」。
 主イエスは「怖れることはない、今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」と言ってペトロを招きます。ペトロはいっさいを捨てて主イエスに従っていきました。
 これが、主イエスの初めの弟子になったシモン・ペトロの召命の物語です。
 このように召し出されたシモン・ペトロは、この後どのように生きていくことになったでしょう。簡単に振り返ってみましょう。
 主イエスの12弟子の中で、聖書に登場する回数が最も多いのはこのペトロです。主イエスが弟子と一緒におられる大切な場面では、必ずこのペトロの名前が出てきます。多くの場面で、ペトロは弟子を代表して、主イエスに尋ね、主イエスから尋ねられ、時には主イエスに「サタン、引き下がれ」と言われて叱られてもいます(マタイ16:23)。
 主イエスのお姿が、山の上で真っ白く輝くほどに変えられた時、それは「主イエスの変容貌(ルカ9:28)」と呼ばれる出来事ですが、その時も、また十字架にお架かりになる前の晩にゲツセマネで祈っていた時(マタイ26:40)も、ペトロは主イエスのすぐ近くにいました。また、主イエスが十字架にお架かりになる予告をなさった時にその言葉にいち早く反応したのもペトロでした(マタイ26:30)。主イエスが捕らえられて大祭司の館で取り調べを受けている時、ペトロはその館に入り込んで様子を伺い、イエスの仲間であることを見破られて、主イエスのことを「知らない」と言いました(ルカ22:54)。更に、主イエスの遺体を納めた墓が空になっているという知らせを受けた時、その墓に急ぎ、誰よりも先に墓の中に入った(ヨハネ20:6)のもペトロであり、甦った主イエスから「わたしの羊の世話をしなさい」と教会の群れを牧することを託されたのもペトロでした(ヨハネ21:15〜)。
 使徒言行録に拠れば、ペトロは主イエスの御心を宣べ伝えるのはユダヤ人の範囲に留めるべき事ではなく、その福音は異国の人々にももたらされるべきであるとのお告げを受け、「どんな国の人びとでも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。」(使徒10:35)と言うようになりました。
 そして、その後の伝説によれば、ペトロは遠くローマにまで伝道し、最後には迫害下のローマで捕らえられ、「自分はイエスよりもっと苦しんで死なねばならない」と頭を下にした「逆さ十字架」の刑によって殉教していきました。その地に現在のローマ・カトリックの総本山とも言えるサン・ピエトロ教会が建てられています。
 このような生涯を送ったシモン・ペトロの信仰の始まり、使徒としての始まりが、今日の福音書の「召命物語」なのです。
 主イエスの御言葉に従って網を打ち、大漁を得たときの、ペトロに目を向けてみましょう。ペトロは主イエスにこう告白しています。
 「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです。」
 ここでペトロが告白する「罪深さ」とは、犯罪歴があるとか律法に反する行為を沢山行いながらそれを隠してきたということではありません。本田哲郎神父は、この「罪深い者」という言葉を「道をふみはずした者」と訳しています。その訳のとおり、この場面のペトロは自分が神の御心からあまりに遠い者であることを思い知らされたのです。ペトロは主イエスを舟に乗せて、岸辺の群衆に話をする主イエスの言葉を主イエスの一番近くで聞きました。そしてその直後には、御言葉に渋々従うような形で、自分の考えではとても実行することはなかった昼間の漁をして、思いもよらぬ大漁を与えられました。ペトロは主イエスによってこれまでの自分を根底から問われ、揺さぶられ、畏れつつ主イエスに従っていく事へと導かれているのです。
 イエスのみ言葉とみ業によって、ペトロは自分の罪を浮き彫りにされました。イエスの御前にいる時、ペトロはイエスにすべてを見通され、見通された自分はあまりに主イエスとは隔たりがあることを感じないわけにはいかなかったのでしょう。ペトロは主イエスの足もとにひれ伏して自分の罪深さを告白しています。
 これは、自分を卑下することではありません。また、神は私たちにいたずらに自分の存在を否定することを求めておられることでもありません。そうではなく、ペトロが自分の罪と弱さを知って恐れおののきを自覚することから、そこに働く神の大きな恵みを感謝する思いへと導かれていくのです。自分は本当はそれを受けるに値しない者であるという思いは、そのような自分にも働いてくださる愛への感謝へと導かれているのです。
 先ほどもペトロの生涯を振り返ってみた中にも明らかなとおり、ペトロはこの大漁を与えられた出来事によって直ぐに完璧な信仰を持ったわけではありません。ペトロはこの後も幾度も失敗したり主イエスに叱られたりしながら、そのたびに自分の信仰をより深く確かなものにしていっているのです。
 私たちもそうであるべきなのです。私たちは神から思わぬ恵みを戴いたとき、その恵みを単なる物欲が満たされた出来事として捉えるのでしょうか。そうあれば、私たちは神にもっと欲深く物を求めるようになり、やがては自分の欲望を満たしてくれないイエスに失望し不満を大きくすることになるでしょう。ペトロも神のことを思わず人のことを思うとき、主イエスから「サタン、引き下がれ」とまで言われて叱られました。ペトロは様々な失敗を繰り返しながらも、主イエスから与えられた恵みをとおして、より真実に深く近づいていったのではないでしょうか。ペトロは、主イエスに従うことを通して、主なる神との人格的な交わりを深め、その信仰を練り上げていく事へと導かれています。
 私たちも、主イエスとの交わりをとおして、罪の自覚と共にそこに増し加わる恵みを受け、感謝し、主に導かれて歩む信仰を強められて参りましょう。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 05:50| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする