2018年10月14日

富める青年とイエス   マルコ10:17−27(B年特定23)          2018.10.14

富める青年とイエス
マルコ10:17−27(B年特定23)          2018.10.14


 主イエスに走り寄って跪き尋ねる人がありました。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには何をすればよいでしょうか。」
 私たちが今日の福音書を理解し導きを受けるために、一つの言葉の意味に着目してみましょう。皆さんは「永遠の命」という言葉をどのように理解しておられるでしょうか。聖書に出てくる「永遠」という言葉は、時間的に果てしなく続くと言うよりも、「時間や空間を超越した」という意味に近いのです。言葉を換えれば、「永遠」とは「エンドレス」のことではなく「時や所が変わってもぐらつくことのない不変不滅の真理」を意味していると言えるでしょう。
 私たち人間も生物であり哺乳動物の一種であり、生物としての命を維持する営みはいつか終わる時が来ますが、自分がこの世界に命を与えられて生きたことは消えることのない意味があり価値があるということは何によって確かになるのでしょうか。
 今日の福音書の中で、主イエスに「永遠の命を受け継ぐには何をすればよいでしょうか。」と尋ねるこの人は、この世に命を与えられて生きることに、つまり自分の人生に、誠実であり真剣であったのかもしれません。
 この物語と並行する話は、マタイによる福音書にもルカによる福音書にも載っています。主イエスを訪ねたこの人は、マタイによる福音書では「青年」であり、ルカによる福音書では「金持ちの議員」です。この人は、きっと若くして財を築き、地位も名誉も手に入れていたことでしょう。でも、この人の心の中には「永遠の命」と自分との間に埋めることの出来ない深い心のミゾがあったのです。
 この人に限らず、人は誰でも心の底では「変わることのない確かさ」を求めて生きているのではないでしょうか。そうであればこそ、私たちは物事に感動もし、涙を流したり笑ったりもいたします。しかし、私たちは時にそれをどのように求めたらよいのか分からず、一時凌ぎの憂さ晴らしや質の低い快楽を求めて自分を誤魔化したり装ったりしていることも多いのではないでしょうか。
 私たちは皆、自分の一生が終わる時、築いた財産も得た地位や名誉も全てを手放すことになります。その時のことを思って、自分は何者なのだろうか、自分がこの世に生きた本当の証しは何なのかと、自分に問い返すのです。
 今日の福音書に出てくる青年は、自分を見つめ直す時、言いようのない虚しさやはかなさを感じないわけにはいかなかったのでしょう。永遠の命についての実感を確かめるためにどれほど律法に忠実に生活してみても、この人は永遠の命についての確信を得られませんでした。そして、この人は主イエスに近づいていきます。この人は、これまでの自分に更に何を積み重ねればよいのかと思いつつ、主イエスに近づいていきました。
 主イエスは、この人の質問に答えて十戒の後半言葉をお示しになりました。
 主イエスは、「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」と言われました。これらは十戒の中の後ろの7つの戒めであり、人との関係を示す掟です。
 彼はすかさず「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました。」と模範的に応えます。彼は実際そのようにしてきたのでしょう。でも、彼の心は満たされず、不安なのです。主イエスには、この人が、自分の力で永遠の命を獲得しようとしている姿が見えたのでしょう。所詮、限りある存在である者が、お金や物でも掻き集めるかのように「永遠」を求めても、それは永遠にはなりません。仮に「永遠なるもの」があってこの人がそれを手に入れたとしても、限りある私たちは何時かはそれを手放して神の前に立たなくてはなりません。私たちは、自分の力によって「永遠なるもの」を獲得できるのではなく、私たちが永遠なるお方の働きに捉えられて、この永遠なるお方に受け入れられ、そのお方に自分を意味づけられてはじめて、人の限界を超えて生きる事になるのです。その「永遠なるお方」は、十字架の上で私たちを赦し抜き、愛し抜き、その結果空しく滅んだかのようでありながらも、甦って私たちに永遠の命を示してくださったのでした。
 私は、このような青年の姿から、回心する前のパウロを連想するのですが、皆さんはいかがでしょう。パウロは回心する前に自分を振り返り「律法の義については非の打ちどころのない者でした(フィリピ3:6)。」と言い、それに続けて「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです(同3:7)。」と振り返っています。
 今日の聖書日課福音書では、主イエスは21節で、自分の力で永遠の命を受け継ごうともがいているかつてのパウロのような青年を見つめ、慈しんでおられます。
 この「慈しむ」という言葉は原語のギリシャ語では神の絶対的な愛を表すアガペー(αγαπη)という言葉の動詞形が用いられています。つまり、主イエスがこの人に「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。」と言っておられるのは、そのように出来ないでいるこの人を裁いて切り捨てるためではなく、この人を愛し、慈しみ、この人の望む永遠の命へとお招きになっておられることの表れなのです。
 いや、むしろそのように自分からは永遠の命とは繋がれないこの人のために、神は主イエスを通して神の方から繋がりを持ち、永遠の命を与えて下さるために、「私はあなたのために十字架に付こう」と言って下さっているのです。
 主イエスは「貧しい人々に施しなさい」と言っておられますが、これは「主イエスの愛を受けている者として、受けたあなたの愛を示しなさい。そこに新しい命の世界が開かれるのです。」と言うことです。永遠の命は、それを得ることを求めることで得られるのではなく、自分がそれを求めることで周りの人々を貧しさや弱さの中に追い込んでしまう人々に気づき、その人々に仕えることによって、神から与えられるのだと主イエスは教えておられるのです。
 永遠の命を受け継ぐことは、自分のこれまでの生き方の上に主イエスの教えを付け加えることで可能となるのではなく、主イエスに出会ってこれまでの自分中心の生き方を砕かれ、主イエスに全てを委ねる事によって初めて可能なことであり、今日の福音書を通して私たちはその様な生き方へと変えられる覚悟があるのかを問われているのです。
 多くの方は「フランシスの祈り」をご存知でしょう。マザー・テレサも好んでこの言葉で祈っていたと伝えられていますが、この祈りの後半部分をご紹介したいと思います。
  慰められるよりも慰めることを、
  理解されるよりも理解することを、
  愛されるよりも愛することを、わたしたちに求めさせてください。
  わたしたちは、与えることによって与えられ、赦すことによって赦され、
  自分の命を捧げることによって、永遠の命に生きるものとされるからです。
 この「フランシスの祈り」の根底に、主イエスが十字架と復活を通して示してくださった神の愛のお働きがあることは明らかです。この祈りには、今日の福音書の主イエスの教えにも共通するものが含まれています。
 主イエスは、この富める若者に、自分が永遠の命を得るためには何を上乗せすればよいのかを考えるのではなく、目の前の小さな存在に自分から積極的に仕える中に救いがあることをお教えになりました。
 私たちも、こうして神の前に進み出ることが出来るのは、神ご自身が人の貧しさや弱さをご覧になって私たちの中の貧しさにまで降りてきてくださり、救いをお与え下さったからです。私たちが「永遠の命」を受けることも神の側からの愛の出来事なのです。
 私たちは自分中心に更に「救いの保証」を積み上げようとするのでしょうか。それとも、貧しく小さな所に居られるキリストに私たちの方から近づこうとするのでしょうか。主イエスからこのことを指摘される時、私たちは聖書の中の富める若者のように主イエスから悲しんで立ち去るのでしょうか、主イエスの御言葉に従うのでしょうか。
 主イエスはご自身が貧しいお姿をとって私たちのところに来て下さり、命を投げ出して下さいました。私たちは、ご自身をさえ与えつくしてくださった主イエスにお応えするために召し出されているのです。自分のために主イエスを用いるのではなく、貧しく小さな所におられる主イエスに従い仕えるために、主イエスに導かれていきましょう。私たちも小さく貧しい存在に過ぎませんが、主イエスを通して神の前に受け入れられ、時も所も超えて掛け替えのない大切な存在とされています。
 主イエスが、私たちが自分の負うべき十字架を共に負って歩んで下さいます。私たちは貧しく小さな人々の中におられる主イエスに仕え、神の国の働きの中に私たちが生かされ、永遠の命へと招き入れていただきましょう。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 23:04| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年10月07日

究極の他者イエス マルコ10:2−9,創世記2:18−22  2018.10.07

究極の他者イエス
マルコによる福音書10:2−9 創世記2:18−22  B特22        2018.10.07

 今日の聖書日課は、旧約聖書、使徒書、福音書ともに、私たちが生きる上での「相手、他者」について教えています。ことに、旧約聖書日課の箇所と、福音書の最後の部分の言葉は結婚式の時にもよく読まれる箇所ですが、今日は旧約聖書日課を中心に人が生きる上での他者、相手ということについて教えられ、導かれたいと思います。
 初めの人アダムが創られ、エデンの園に住むことを許されました。でも、アダムは孤独でした。創世記の第1章には神がお創りになった世界はとても良かったと記されています。その素晴らしい世界にいてもアダムは孤独なのです。神は「人が独りでいるのは良くない」と言われます。アダムだけではなく、人は誰でも、他の人との交わりがなかったら、思い考えることは次第に現実から離れて、独り善がりになり、更に自分勝手になってしまうことも多いのです。もし人が、生まれた後あらゆる事をたった独りでやっていかなければならないのなら、おそらく3日と生きていられないでしょう。あるいはまた、生まれたばかりの赤ちゃんが、たとえどれほど豊富な栄養を摂取できたとしても、もし、人から言葉もかけられずあやされることもなく視線を交わす相手もなく、ただ寝かされているだけだとしたら、その赤ちゃんは情緒の安定した豊かな人に育つことは困難になってしまいます。
 私たちは、もしたった独りで居るしかないとしたら、たとえそれがエデンの園の中であったとしても、何と寂しく不幸なことでしょう。人は何不自由のない暮らしをしていても、もし本当に心を通わせる相手が一人も居なかったら、不安定になり精神的に病理的な言動を起こすことにもつながっていくことでしょう。また、せっかく他者との豊かな交わりに生きる可能性を与えられているにもかかわらず、人と共に生きることのできない寂しさややるせなさを感じている人は意外と多いのではないでしょうか。
 創世記の第1章で、主なる神は野の全ての獣や空の鳥を創り、人にその管理をお任せになりました。でも、野の獣や空の鳥は、人の究極的な相手にはなり得ませんでした。このような人の姿をご覧になって、神は人を深い眠りに落とし、その人が深く眠り込んだとき、その人の体からあばら骨の一部を抜き取りその骨で相手となる女の人をお創りになったのでした。
 なぜ、主なる神はこんな事をなさったのでしょう。
 主が人の体からあばら骨を取り出したことに着目してみましょう。昔、ユダヤの人々は人間の感情は胸から発する(感情の座は胸にある)と考えました。日本語でも「腹が立つ」「胸が痛む」「頭にくる」と言うように、私たちはしばしば感情の動きを体のある部分を用いて表現します。主なる神は、人の胸の中をガードするあばら骨の一部を抜き取って、その骨で相手となる女の人をお創りになったのです。つまり、神は、人の心、人の感情、情動の固い守りを少しはずし、その守りを薄くして、人の相手になる存在をお創りになったのです。こうして人は自分の感じていることや思っていることを他の人に伝えるように、そして相手の言動に自分の心が共感し、その思いをまた目の前の相手に伝えて共に生きるための「相手」を創って下さったのです。人はお互いに深く心が通い合う存在であり、お互いに相手の心の内を理解し合ってこそ、自分が生きていることを実感し喜び合える存在として創られたのです。私たちは、もし自分の本当の気持ちをいつも押し隠すだけで他の人と分かち合おうとしないのなら、その人がたとえどれほど多弁であっても、どこか空々しく虚しい思いになるのではないでしょうか。
 主なる神さまが人のあばら骨の一部を抜き取って創られた「相手」のことを聖書では「助ける者」と訳しています。この言葉は「ヘルパー」とか「援助する人」という意味ではなく、「パートナー」とか「コンパニオン」という意味を持つ言葉です。今日の旧約聖書日課の箇所で、人(アダム)は自分のお手伝いさんや下僕を与えられたのではなく、お互いに心を開き、分かち合い、理解し合う存在、共に生きる相手を与えられたのです。
 このパートナーが連れてこられたとき、アダムは言いました。
 「これこそ私の骨の骨、私の肉に肉。」
 相手はまさに自分の分身なのです。お互いに自分を分け合い、心を開いて語り合い、理解し合える時、その相手は互いにまさに自分の分身なのです。アダムは更に続けて言います。「これをこそ女(イシャー)と呼ぼう。まさに男(イシュ)から取られたものだから。」神が骨を分けて創られた男と女は、神がお互いのためにお創りになりお与えになった良きパートナーでありコンパニオンなのです。元の言葉であるヘブライ語ではカッコの中にあるように男、女はイシュ、イシャーという言葉であり、発音上でも男と女は共に呼び掛け合い響き合う存在つまり共感を持って理解し合う存在なのです。
 ユダヤ人の哲学者で19世紀後半から20世紀半ばを生きたマルチン・ブーバーという人がいます。この人が人間関係を「我−汝」という言葉で説明していますが、その一文を引用してましょう。
 『世界は人間のとる二つの態度によって二つとなる。その二つとは「我−汝」と「我−それ」の世界である。私たちがある人と向かい合う時、その人の外見、特徴を見抜こうとする。これは「我−それ」の世界である。実際、人間はこのような「我−それ」の関係だけで生きるのは真の人間ではない。その人の全人格を認める「我−汝」の関係が根底になければならない。』
 ブーバーは、神が人のあばら骨から相手となる人間を創り出した神話を的確な哲学の言葉に置き換えていると言えるのではないでしょうか。そしてブーバーは、この「我−汝」の関係に開かれて生きる態度が重要であると指摘しています。私たち人間は自分中心に独りで生きることによってではなく、他者との交わりに中で自分と相手の命を育み、そこに人間としての価値を示すのです。アダムは、そのような意味で相手となる人を見た時、「ついに、これこそ、わたしの骨の骨、肉の肉。」と言っているのです。
 しかし、創世記を今日の日課の先まで読み進めていくと、神が人をせっかくこのように生きる可能性を開いて下さったのに、罪を犯す人を描きます。あらゆる良き物に囲まれたエデンの園にいてさえ、人は神とのつながりを忘れ罪を犯すのです。そして、お互いに罪の責任を他者になすり付け合い傷付け合う姿、少しも本当の自分を開かず、分かち合わず、心に壁をつくり、自分を固く防衛して傷つけ合う者へと成り下がる姿を描きます。人はたとえ良き助ける者が与えられても、神の御心に開かれていなければ、それだけでは罪の中をさまよい歩く者に過ぎないことを、聖書は物語るのです。
 創世記は更にカインとアベルの物語へと続きます。エデンの園を追放された人間は神の御心から離れ、自分のパートナーのことを顧みず、その存在を否定し、カインは弟アベルを抹殺して知らぬ顔をするという身勝手で傲慢な者へと成り下がって行きます。そして人々の中に不信感が生まれ、心を開いて分かち合うことを止め、お互いは相手を自分の欲望と野心を満たすために利用する道具としか考えなくなるのです。
 それでは、お互いを信頼して怖れなく心を開いて愛によって共鳴し合う世界は永遠に失われてしまったのでしょうか。もしそうだとしたら、それは回復出来るのでしょうか。人が自分の力では回復できなくなってしまったこの信頼の関係を、神は主イエスを通して取り戻して下さいました。
主なる神は、主イエスに貧しいお姿を取らせ、神が人を愛し信頼してくださるしるしを飼い葉桶の中にお与えくださいました。それは、たとえ私たちがどんなに孤独になり自分を閉ざすことがあろうと、神は自分を開き、人の世界に入り込み、主イエスが私たちの助け手となって下さるためでした。主イエスは、徴税人、病を負った人、汚れたもの扱いされる人等と共にいて、その人々と「我−汝」の関係をとってどこまでも共にいて下さり、誰もが神から与えられた自分の命を全うして生きることが出来るように仕えて下さいました。そして、最期には誰一人主イエスのパートナーになる者などいない中で、十字架の上で他者の罪の苦しみを担い、罪人の姿をとって死んで行かれました。こうして主イエスは、ただ一人孤独のうちに見捨てられて死に行く人とも共にいて下さり、死の先にまで共にいて下さる事を身をもって示して下さったのです。このような「究極のパートナー」である主イエスに生かされて、限りある私たちでも、お互いに助け手になり、パートナーになれる道を開かれたのです。
 私たちはこの主イエスを自分の良き同伴者として、主イエスまを通して神の前に自分の全てを開き、生きる幸いを与えられています。主によって生かされ、お互いに「良き助け手」として仕え合う交わりを、教会の中に育て上げていきましょう。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 23:07| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

力   2018.10.07

 力
                                           小野寺達
 カトリック教会の信仰者であった作家の故遠藤周作氏は、自分の信仰を深く見つめつつ、自分の思うイエス(「私のイエス」)の姿を幾つかの作品の中に描き出しています。遠藤氏がそれらの作品の中で描くイエスは、奇跡や癒やしの業は何もできないけれど、相手に寄り添ってその人を受け入れどこまでも共にいる人として描かれることが多いように思われます。そして、そのように描かれるイエスの印象は、弱々しく物足りなさを感じる、という人も多いようです。
 かつて、ある教会の機関誌の中に、次のような一文を目にしたことがあります。
 「奇跡を行い、神の教えを説き、病の人を癒やしてきたイエスが十字架の上で何もできずに死んでいく姿の弱さに失望した。」
 でも、私は遠藤周作氏が描くイエスは決して弱くはないし、何もできなかったのではないと思います。もし、神の意志を貫徹する強さがなければ、イエスは十字架につくこともなかったのではないか、と私は考えます。
 イエスの力とは、物理学的な数量の大きさで例えられる力ではないのです。
 幼稚園の園長でもある私は、かつて遠足で次のような経験をしました。
幾つかの幼稚園や保育所が同じ公園に遠足に来ていました。幾つかの遊具の前に色々な園の子どもたちが順番待ちの列をつくっています。その列の一つに、ある園の子どもが割り込んできました。たまたまそこに居合わせた私は、思わず「みんな順番を待って並んでいるのだから、あなたは一番後ろに並びなさい。」と言いました。
すると、恐らくその子どもの所属する園の先生らしい人同士の声が私の頭の後ろから聞こえてきました。
「うちの子どもたちは逞しいわね。」
私は、グッと堪えましたが、怒鳴りつけてやりたい気持ちになりました(実際にはしませんでしたが・・・)。
「それは逞しさではなくて、厚かましさでしょ!あなたの園ではどんな子を育てたいのですか!」
イエスが神の御心を生きるということは、自分一人が他人より多くを得るために厚かましく生きることや力によって他人を従えることではありませんでした。目の前にいる人が自分のせいではないのに貧しくされ、汚れたものとされ、生きることが困難になっているのであれば、その人と私との間に、神がそこに存在している姿が現れ出るようにと祈りつつ、その実現のために自分ができることを貫いて生きたのがイエスです。しかもイエスはそれを暴力によってではなく、愛し抜くことによって実現なさいました。イエスは、暴力的な力によっては究極の平和は得られず、神の御心は完成しないと考えていたのでしょう。その結果、自分が十字架に付けられることになると分かっていても、自分の目の前にいる人に神の御心が現れ出るようにと祈りながら、その人にかかわり続けたのがイエスです。
私は園児と礼拝しますが、礼拝の中で、時々次のような歌詞の聖歌を歌います。
 「神さま ください 信じる力を
 みんなと一緒に 生きる力を」
この歌を元気な声で歌う子どもたちも、おそらく思春期を迎える頃から、遠藤周作氏の描くようなイエス像については、「そんな生き方じゃ世の中を生き抜いていけない。」と思う日が来るかもしれません。また、「信じることや愛することは強いことではなく、現実に立ち向かう力にならない。それが何の役に立つの。」と悩む日が来るかもしれません。
現代は、国の政治の世界でもイジメの世界でも、力を誇示する者の時代であり、力を恐れる人々は力を誇示する者にすり寄って生きようとしていますし、その力に抵抗する者を仲間外れにしようとする時代です。
そのような時代の中で、生きていく強さを身に付けることとは、暴力的で厚かましい力を身に付けていくことではなく、弱い者も小さい者も大切にされて共に生きていくことのできる世界を創り出すことに労を厭わない強さを身に付けることではないでしょうか。そして、恐れずにそれを実行していく力を身に付けることが、生きる力を身に付けることであると私は思うのです。
その力を名付ければ、「愛力」と言えるかもしれません。そんな言葉はありませんが、まさにこの「愛力」こそイエスの力なのです。
イエスは、自分がそのような愛の力によって生きれば、体制を維持しようとするユダヤ教の指導者たちの反感を買い、迫害され殺されることになると分かっていました。でも、イエスはその生き方を貫き、人を愛し抜き、そのような生き方の先に何があるのかを示してくださいました。
イエスの伝えた救いは、私たちが呪文を唱えるように祈ればその願いが直ぐに満たされるという魔法のような救いではなく、神の愛の力によって一人ひとりの命が大切にされ、その交わりの中で自分として生きる喜びを獲得していく、という救いなのです。もし、イエスに期待して失望するのであれば、自分はイエスに何を求めどのように生きていこうとしているのかを謙虚に振り返ってみる必要があるのではないでしょうか。
教会は、救い主イエスを自分の救い主として受け入れた者の集まりです。
私たちはそれぞれに、そのイエスにどのような力を見てイエスを救い主と告白し、イエスを通して何が実現することを願い求めているのでしょう。
『草苑』(水戸聖ステパノ教会月報)2018年10月号
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 22:58| Comment(0) | 牧師のコラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする