2017年12月24日

「お言葉どおり、この身に成りますように」 ルカによる福音書第1章26−38節 

「お言葉どおり、この身に成りますように」
ルカによる福音書第1章26−38節   B年 降臨節第4主日  2017.12.24

今日の福音書には、いわゆる受胎告知の物語が取り上げられています。天使ガブリエルがマリアに現れ、マリアにこう告げたのでした。
 「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」
 マタイによる福音書の第1章の物語の中に、また、このルカによる福音書の第1章の中に、マリアはヨセフの許婚であったことが記されています。
 天使ガブリエルはマリアの前に姿を現してこう言いました。「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる。」29節によれば、マリアはこの言葉に戸惑ったのです。そして驚き、おそれおののきながら天使ガブリエルの「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」という言葉を聞いたことでしょう。マリアは一度は「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしはまだ男の人を知りませんのに。」と言いますが、最後には天使ガブリエルに従って「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と答えました。
 当時の社会のことを思えば、マリアがどれほど心を揺さぶられたであろうかを想像できます。いや、それはきっと私たちの想像の域を超えているのではないでしょうか。
 その当時、婚約は結婚に等しく見なされていた反面、未婚の女が子を宿すことは著しく社会の秩序に反することと考えられました。マタイによる福音書第1章では、夫になるはずのヨセフがマリアの受胎について悩み抜き、一度は離縁する決心をしたことが記されています。未婚者の受胎は、当時のイスラエル社会の中で、離縁に留まらず、場合によっては姦通の罪を犯した者として町の外に引き出されて石打の刑に処せられることにも成りかねませんでした。それにも関わらずマリアは、天使のみ告げを受けて「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」と答えます。
 「お言葉どおりこの身に成りますよう。」
 それは、深い呻きを伴う祈りの言葉であったに違いありません。
 私たちは今日の福音書の箇所を読むとき、28節で天使ガブリエルの「おめでとう、恵まれた方」という言葉を聞くと、この言だけを切り取って、マリアがまるで大きな幸運を手にした女性であるように考えてしまいます。また、今日の福音書のすぐ後の箇所で、マリアがエリサベトから祝福の言葉を受けていることを知ったり、マリアが神を誉め讃えて「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」と歌うのをきけば、私たちはマリアが幸運で幸福で明るく過ごして天国に迎えられる人であったかのように思えるかも知れません。
 でも、イエスの母マリアは、見方によれば、決して幸運でもないし幸福でもなく、むしろ生涯にわたって重荷を負い、イエスの母としての辛さや苦しさをも味わいつくしたのではないでしょうか。
 この受胎告知の日の後、やがて訪れるナザレからベツレヘムへの強いられた長い旅。子を産むための場所もなく身を横たえたのは、旅する人々がロバやラクダをつないでおく街外れの動物小屋。マリアが周りの人々の刺すような視線を受けながら育て上げた息子は、やがて30才を越えた頃に神の国の運動に走り家族を離れていきました。そのような我が子に会いに行くと、我が子から返って言葉は「わたしの母、兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである。」でした。それはマリアにとって親子関係を否定されるように響く言葉になったかも知れません。それでも、マリアはイエスの母親として息子を愛し続けたことでしょう。やがてイエスはエルサレムに上り、そこで理不尽にもユダヤ教の権力者ちの手によってローマに対する反乱を起こした犯罪人に仕立てられ、十字架刑に処せられてしまうのです。母マリアは我が子が十字架刑で死んでいく様を見ました。
 「お言葉どおり、この身に成りますように。」
 こう言って、自分の全てを主に委ねて生きたマリアの一生はなんと辛く悲しいことでしょう。このような母親から生まれ育った息子は、ある意味マリアと同じように、全てを主に委ねて生涯を送るのです。
 イエスも、自分が殺されることになる前の晩に、オリーブ山で地の汗を流して祈りました。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」そして、イエスは十字架につけられた最期にも「父よ、わたしの霊を御手に委ねます。」と叫んで息を引き取りました。
 マリアから生まれマリアに育てられたイエスは、母親と同じように自分を神に委ねて一生を過ごします。イエスの最期は無惨な死であり、その時にもあの時の自分と同じように全てを主なる神に委ねる息子イエスの姿をマリアは仰ぐことになるのです。それは、マリアが天使ガブリエルに、「お言葉のとおりになりますように」と答えてから33年近くが経っ頃のことになります。
 マリアは、受胎告知を受けた時ばかりでなく、おそらくその一生を「お言葉どおりこの身に成りますように」と祈り通したことでしょうし、そう祈らないわけにはいかな生涯だったことでしょう。
 そして、イエスは幼い頃から、母マリアの腕の中で、繰り返し繰り返しこのように祈る母親の言葉を聞いて育ったはずです。
 「お言葉どおり、この身に成りますように。」
 天使ガブリエルは、マリアに受胎を告げる時、「おめでとう、恵まれた方」と呼びかけ、更に「あなたは神から恵みをいただいた」と言います。マリアは自分をとおして、まるで私生児のように子供が生まれてくることを告げられた時、「いったい、なぜ、これが恵みなのですか!」と叫ばずにはいられない思いになったことでしょう。天使ガブリエルの言う「恵み」はどこに現れるのでしょう。それは、神のみ言葉の実現のために徹底して生きたイエスの十字架の死とよみがえりによって、イエスを救い主と受け入れ、神のみ言葉が実現するように生きた人々が生まれてくることによって、初めてするのです。
 神の働きが自分の身をとおして行われるのですから、時にその働きは人間の常識や予想を遙かに超えることになります。マリアの場合もそうでした。イエスの場合もそうでした。私たちも神の言葉が実現するように働き、そのことによって生かされる時、その働きはマリアと同じように「おめでとう、恵まれた方」と天の祝福をいただく者とされるのです。
 マリアは自分を「身分の低い、主のはした女」と言いました。そのマリアは、多くの苦労を担う生涯で、自分の身を通して神の御心が成し遂げられる出来事の中に、神の祝福を与えられながら生きたと言えるでしょう。
 マリアが天使ガブリエルから告げられた恵みは、神に選ばれ、神の働きに招かれた者が受ける「恵み」です。マリアはそれを初めから望んでいたわけではないでしょう。ここには、一方的な神からの選びがあります。
 主イエスもヨハネによる福音書第15章16節で、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」と言っておられます。この「選び」の「恵み」に対してマリアは「お言葉どおりこの身に成りますように」と応えているのです。
 私たちも、この世界に命を与えられ、この世の舞台に送り出されています。私たちは、神に選ばれ、神に招かれたことを自覚して生きる者として、教会に集います。私たちは、マリアと同じ恵みと祝福の中に生かされています。
 私たちも、「神よ、私を御心を現す器として用いてください。」「お言葉どおり、この身に成りますように。」と祈りつつ生かされて参りましょう。
 貧しく低いお姿をとり、この世に神の御心を現すためにおいでくださった主イエスの降誕を喜びをもって迎える備えを致しましょう。
 


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2017年12月18日

救い主を証しする ヨハネによる福音書第1章6−8,19−28節   2017.12.17 降臨節第3主日

救い主を証しする
ヨハネによる福音書第1章6−8,19−28節        2017.12.17  降臨節第3主日
 
 降臨節第3主日の福音書は、洗礼者ヨハネが主イエスを「来るべきお方」として指し示しる箇所です。この箇所から、私たちは主イエスを救い主として迎える備えをするように促しを受けています。
 私たちは、先主日に、マルコによる福音書の冒頭の箇所から、洗礼者ヨハネのことを学びました。その中で、私たちは、救い主イエスを迎えるために、洗礼者ヨハネの呼びかけに応えて、「悔い改めて救い主を迎える道筋を整える」ことを学び、それが神の子イエス・キリストと出会う「福音の初め」であることを示されました。私たちは自分の心の道筋を真っ直ぐにして、主イエスを迎える備えをするように促されています。
 今日は、福音書に示された洗礼者ヨハネの姿から、主イエスを指し示して証しして生きることを学び、私たちも主イエスの光を映し出して生きることへと導かれたいと思います。
 今日の福音書から、ヨハネによる福音書第1章の7節と8節に注目してみましょう。ここに、洗礼者ヨハネは「光について証しをするために来た」という言葉が出てきます。ここだけではなく、ヨハネによる福音書の始めの方には、洗礼者ヨハネが主イエスの「証しをする」と言う言葉が幾度も出てきます。この「証しする」という言葉は、「身をもって示す」、「断言する」という意味で、それに徹した結果である「殉教する」という意味をも含んでいます。
 洗礼者ヨハネはエルサレムの指導者たちから「あなたはどなたですか」と尋ねられた時、1章20節で「わたしはメシアではない。」と言い、更に23節で「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。」とはっきり答えています。このような言葉にも、ヨハネが自分をどのように位置づけていたのかがはっきりと表れています。
 ここで用いられている「メシア」という言葉は、元々イスラエルの人々が用いていた「油を注ぐこと」に由来するヘブライ語で、「油注がれた人」のことを意味します。
 旧約聖書の時代、イスラエルの人々は特に祭司や王が即位する時にその人に油を注いで祈り聖別しました。
 話は少し横道に逸れますが、旧約聖書サムエル記上の後半に、「油注がれた方」という言葉が幾つも出てくる箇所がありますので、触れておきたいと思います。その箇所は、イスラエル王国をつくりあげた初代の王サウルとそれをまとめ上げたダビデの物語で、王サウルは次第に力をつけたダビデが自分の王座を狙っているという被害妄想が拡がり、ダビデはサウルから命を狙われるようになります。ダビデは追われる身でありながらも逆に幾度もサウルの命を奪うことのできる状況になります。ダビデの部下はサウルを殺すようにダビデに進言することもありますが、ダビデは「彼は主が油を注がれた方なのだ」と言って、サウルをかばうのです(サム上24:7、11)。ここに、主に名によって油注がれることの重さ、大切さを垣間見ることができるでしょう。
 この「メシア」という言葉には、次第に特別な期待と意味が付け加わり、新約聖書の時代には、イスラエルの民を救い出す「救い主」を意味するようになりました。そして、このメシアというヘブライ語がギリシャ語に訳されると、油注ぎのことを「クリスマ」と言い、油注がれた人のことを「クリストス(キリスト)」と言うようになるのです。
 主イエスさまの時代は、イスラエルの中でメシア(キリスト)が待ち望まれていた時代でした。イスラエルの国はローマの国に占領されてその属領となり、その中で多くの人が政治的にも独立を回復することを願って、ローマ帝国への抵抗運動や反乱も頻発し、民は精神的にも不安定になっていました。そのような時代に、多くの人がメシア(キリスト)の出現を待ち望んでいたのです。中には自分がメシア(キリスト)であると言ういわゆる「偽キリスト」も現れ、社会を混乱させていました。また、過去の歴史の中で、多くの人が周りから「この人はメシアではないか」と着目されもてはやされているうちに、自分でもすっかりメシアであるかのように成り上がる者やメシアを気取って振る舞ったりする者が現れることもありました。そのような人の中には、自分の周りの世界を自分の思い通りにすることを目論み、民衆を間違った方向に扇動する者もありました。
 でも、洗礼者ヨハネは主イエスを指し示し、主イエスさまを証しすることに自分を限定し、その働きに徹したのです。洗礼者ヨハネはしっかりと主イエスさまを証しして、1章27節で「その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履き物のひもを解く資格もない。」とまで言っています。当時、履き物のひもを解くのは、奴隷の仕事でした。この言葉はヨハネの謙遜の言葉ではありません。そうではなく、洗礼者ヨハネが自分が何者であるのかをしっかりと把握した上で、その使命に徹する姿を表していることを、私たちは理解しておきたいのです。
 そのような洗礼者ヨハネのことを、福音記者ヨハネは第1章8節に「彼は光ではなく、光について証しをするために来た。」と言っています。ここでは主イエスを「光」に例え、洗礼者ヨハネを「彼は光そのものではなく、光を指し示し、その光を映し出すことに徹した」と伝えています。洗礼者ヨハネは、自分を光源ではなく、あくまでも光源を指し示す者として強調しています。
 このヨハネのような自己規定は大切なことで、主イエスを太陽に、洗礼者ヨハネを明けの明星である金星に例えて考えてみると、その関係はよりハッキリとしてくるのではないでしょうか。
 惑星は自分では光の源を持っていないので自分の光で輝くことは出来ません。でも、金星は太陽の光を受けることによって、その正体をはっきりと示すことが出来ます。仮に輝いている金星を見てその光を誉める人がいても、金星は自分の力によって輝いているかのように自分を誇ることはできません。なぜなら、金星の光は金星そのものの光ではなく、太陽の光を受けてそれを反射しているに過ぎません。もし「光」を誉め称えるのであれば、光源である太陽が誉め称えられるべきで、太陽の光を反射して映し出されている金星は自分をそのように照らしてくれる太陽にその栄光を帰するべきなのです。明けの明星は太陽の光を受けて夜明けの星となり、やがて太陽が昇るとその使命を終わるように、洗礼者ヨハネは救い主の出現を人々に示しすことに徹したのでした。
 今日の福音書が示している「光」は、単に物理的な光のことではなく「み言葉のうちにある命」のことであり、それがイエスであることは言うまでもありません。この命の光は、第1章9節に記されているように「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らす」のです。太陽と惑星の例えで言えば、私たちは、主イエスを太陽としてその光によって照らし出される惑星として位置付けられます。私たちも、自分が光源になることは出来ません。神は私たち人間を神の似姿に創ってくださいました。神は私たちを、まことの光である主イエスを映し出すように創ってくださったのです。私たちが神の光である命の言葉を受けて神の輝きを映し出す時、私たちは人としても最も輝くのです。しかも私たちが神の光の前に曇りの無い存在となって神の御前に進み出る時、私たちは神のみ栄えのために神の御心を映し出すことが出来るのです。
 私たちが神から自分を遠ざけたりすれば、私たちは神の光を映し出して輝くことが出来なくなる者であることをよく心に留めておきたいと思うのです。
 旧約聖書創世記のはじめにある、アダムが神との約束を破ってしまった時の話を思い起こしてみましょう。アダムは罪を犯した自分に気付いたとき、神の顔を避けて園の木の間に隠れました。アダムは神と心を通わせることを恐れたのです。ここに人の罪の姿が描かれています。
 神の惑星に例えられる私たちが、もし神の御心に背を向けてしまうのなら、私たちは暗闇の中にあり、自分の居場所を確かめることも出来なくなり、自分が歩むべき方向を知ることができなくなってしまうでしょう。
 洗礼者ヨハネは、光である主イエスを指し示して証しすることに徹しました。私たちはこの主日に、洗礼者ヨハネに促されてこの世の光である主イエスに心を向け、正面からイエスの光を受けて救い主イエスの光を人々に映し出す者となるように、その救い主を迎え入れるように導かれております。
 「彼は証をするために来た。光について証をするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである」と今日の福音書は私たちを促しています。私たちも主イエスの御言葉の光に照らされて、自分をとおして主イエスを映し出し、証しする信仰者へと導かれて参りましょう。
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2017年12月17日

イエスさまはカウンセラー

 ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。
 ひとりの男の子がわたしたちのために与えられた。
 権威が彼の肩にある。
 その名は、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と唱えられる。
           (イザヤ9・5)
 
 もう、20年以上も前のことになるでしょうか。私が自分でも牧師になるなどとは夢にも思わず、カウンセリングの勉強をしていた頃のことです。英語訳の聖書の中に「カウンセラー」という言葉があることを知ったとき、私が感じた驚きと喜びを今でもよく覚えています。その言葉は、冒頭のイザヤ書の聖句の中で「指導者」と訳されています。
 やがて、ヘンデルの『メサイア』の中でこの箇所が歌われるのを初めて聴いた時、私は鳥肌が立ちました。その時以来、私は『メサイア』を聴くたびに、この箇所にくるといつも涙が出たり鳥肌が立つのを禁じ得ません。
 『メサイア』の一二番の合唱では、
「私たちのためにみどりごが生まれた。私たちのためにひとりの男の子が与えられた。私たちのために (For unto us)……」と繰り返しながら高揚してきた旋律は、一段と高らかに私たちのために生まれた「驚くべき指導者 (Wnderful Counsellor)」を歌い上げているのです。
 カウンセラーは、近年人気の職種だそうです。でも、もしその動機が単なる憧れだったり自分の寂しさを裏返しにして他人に関わろうとする程度のことなら、私はカウンセラー志望者に「やめた方がいいですよ」と言うでしょう。カウンセラーは、他人の痛みを自分に引き受ける仕事です。時には、相手の心理的な苦悩がこちらに乗り移るほどの経験をします。相手の話を聞いていてこちらの胃が痛んだり胸が痛むなど日常茶飯事で、相手の症状までこちらに現れることもまれではありません。そんな弱い人はカウンセラーにならない方が良いとも言える一方、相手のことを実感をもって受けとめられないほど鈍感な人はカウンセラーなどできないとも言えます。
 しかし、私たちは自分の痛みを知る程度にしか、他人の痛みを知ることも共感することもできないという限界があるのです。本当の癒やしを求める人を前にして、わたしたちは自分の力を頼みにしようとすればするほど、本当は何もできないのではないでしょうか。
 それでも「私は他人に共感できます。相手と共にいられます。私こそカウンセラーに相応しい。」と言う人がいれば、そういう人は大体相手が迷惑がっていることに気付いていないのです。所詮、私たちは自分の力で他人を助けることの出来る存在ではないのです。
 しかし、無力な私たちでも、相手との関係の中に生きて共に働いてくださるお方によって、自分も赦され受け入れられていることを知るとき、自分も相手もお互いにこのお方からのメッセージを受けながら共に生きることができるのです。メサイア(救い主)であるイエスさまは、私たちにとってこのような「驚くべき指導者(Wonderful Counsellor)」なのです。
 私たちは自分が痛む程度にしか他の人を理解できないけれど、このお方は違います。イエスさまは、馬小屋で最も貧しい姿をとってこの世に来てくださいました。そして枕するところもない生涯をおくり、罪無きにもかかわらず、ただ一人十字架の上に捨てられて、人の罪の行く末の極みを味わい尽くされたのです。このお方なら、私たちがこの世界で味わう苦しみや悲しみを共感してくださるばかりではなく、私たちだけでは共に行くことのできない遙か彼方の世界にまで、いつも共にいてくださるのです。
 このお方がお生まれになるとき、身に覚えのないマリアの懐妊に悩むヨセフに、天使が告げました。
 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。
 その名はインマヌエルと呼ばれる。」
 この名は、「神は我々と共におられる」という意味である、と聖書は伝えています。
神さまは、神ご自身が私たちと共にいてくださることを、ひとりのみどりごを通して示してくださいました。このようなカウンセラーである主イエスさまがどこまでも共にいてくださるのことによって、私たちは自分の負うべき重荷をもう一度背負いなおして、自分の足で歩くことができるのです。
                     【立教小学校P通1996・12・20 No.2150】
                       
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 07:14| Comment(0) | 牧師のコラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする