2018年09月30日

主の名によって生きる  マルコによる福音書9:38−43   2018.09.30 

主の名によって生きる 
マルコ9:38−43  B年特定21              2018.09.30

 今日の福音書から、私たちが主イエスの御名によって生きることへと導きを受けましょう。
 今日の福音書の中で、主イエスは「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」と言っておられます。主イエスさまがそのように言われたのは、以下のような背景がありました。
 ある時、弟子たちは悪魔払いをする一人の祈祷師(逐霊師)に出会いました。その祈祷師は、おそらくそれまで主イエスには出会ったことはありませんでしたが、イエスの評判は耳にしていたのでしょう。この祈祷師は、イエスの名を使って悪霊を追い払うことを思いついたのでした。
 現代に生きる私たちは「誰かの名によって悪霊を追い出す」と言うことがなかなか理解できない面がありますが、実は私たちも他の人の名によって自分の願う状況を創り出すということをたびたびしていることなのです。
 例えばある家庭で、言うことを聞かずに我が儘を言う子供を前にした母親は、その子供に向かって「お父さんにあなたのこと言いますよ」と言うと、そこに父親がいなくても子供は母親に従順になることがあります。また、ある会社では会議の席で自分の意見を通したい時に、部長は「社長もよく言っていることだけど・・・」と、本当は社長がそのように考えているかどうかは別として、社長の名を持ち出して、他の人の意見を牽制することなどもよくあることなのです。
 今から2千年前の人たちの考え方によれば、先の母親と子供の例では母親は父の名を用いて子供に働く我が儘の悪霊を押さえつけていることになり、会議の席の部長の例では社長の名を用いて他の社員が反対意見を言う霊を支配しているということになるわけです。
 逐霊師は、例えば熱を出して寝込んでいる人を前にした時に、その人に取り憑いて熱を出す霊を追い払うために、その霊よりもっと格上の人や霊の名を用いて追い出すのです。今日の福音書に出てくる悪魔祓いの祈祷師は、悪霊を追い出す働きをする時に、主イエスの名を用いていたのです。
 弟子のヨハネはその祈祷師に出会った時、彼を問いつめました。
 「あなたは勝手に私たちの先生であるイエスの名前を使っているが、あなたは誰にことわってイエスの名を使っているのか。私たちはこれから主イエスのお供をしてエルサレムに上っていくのだけれど、あなたは本当に私たちの先生についてくる気があるのか。その気がないのなら勝手にイエスの名を使うのはやめてもらおう。」
 そして、ヨハネはこのことを得意になってイエスに報告したのでした。
 「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせました。」(9:38)
 主イエスからお褒めの言葉をいただけるだろうと思っていたのに、ヨハネはこう言われたのでした。「やめさせることはない。わたしたちに逆らわない者はわたしたちの味方なのである。」(9:40)
 今日の福音書の箇所の脈絡の中で、ヨハネをはじめとする弟子たちは、心の中で「イエスに従っていけば万事がうまくいって、自分もエルサレムでイエスさまと一緒に権力の座に着くことが出来る」と思っている様子が窺えます。それは、自分をイエスに委ねてイエスに従っていこうとすることの表れでもありましたが、弟子たちはイエスに従うことによって特別は恩恵にあずかることが出来るという思いも見え隠れしています。
 このことは主イエスの弟子にとってだけの問題ではなく、主イエスに従って生きていこうとする全ての人にとっての問題なのではないでしょうか。私たちは信仰者として全てのことを主イエスの名によって思い考え行動しています。父と子と聖霊に御名によって洗礼を受けてキリストと結ばれた者であれば、誰でもキリストの名によってこの世に遣わされているのであって、それは、聖餐式の最後に「ハレルヤ、主と共にいきましょう。」「ハレルヤ、主に御名によって」と言葉を交わし合ってこの世界に遣わされていくことの中にも表現されているのです。そうであれば、私たちが主イエスさまの名によって生きることとは、礼拝している時や教会の活動の中だけに限られたことではなく、私たちのありとあらゆる時と所に主イエスが共におられることを身をもって示していくことになると言えるのです。そして、私たちが主イエスの名によって本当にイエスのお考えになり望んでおられる姿をこの世界に表していけるかどうかが信仰者としての課題となってくるのです。
 主イエスは弟子のヨハネにこう言われました。「わたしたちに逆らわない者はわたしたちの味方なのである。」
 この個所をもとのギリシャ語を見てみますと、「わたしたちに反対しない者はわたしたちに向いている、関係している」と言う意味で、英語の聖書では、he who is not against us is for us. と訳しているものもあります。
 つまり、ここは主なる神さまに逆らってその働きを邪魔するのでないのなら、その人は主イエスが天の国を実現する働きに方向付けられているということにもなります。ヨハネをはじめとする弟子たちは、イエスを知らずにイエスの名前だけを利用するのは主イエスの仲間として相応しくないのだからその名を用いることは許せないと考えたのに対して、イエスご自身は逆らわない者は味方であり仲間になる者なのだとお考えになったのです。
 主イエスがその様に言う根拠は何でしょうか。
 主イエスはこれからエルサレムに向かって行かれます。そこで主イエスは捕らえられ、苦しめられ、人々に見捨てられて十字架に架けられるのです。この十字架は、私たちの罪のために神と私たちに関係が断絶してしまって私たちの力では回復できなくなった神と私たちの関係を、主イエスの愛と赦しによって神の方から回復してくださるしるしになるのです。この十字架の故に私たちは誰でも無条件にキリストに属する者となり、キリストの名によって生きる者とされました。主イエスの十字架の故に、私たちは誰でも皆イエス・キリストの名によって神と結ばれて生きることができるのです。
 私たちは主イエスが十字架を通して示して下さった神の愛なしには、誰も自分を神の側置くことなど出来ません。主イエスを通して示された神の愛に照らされなければ、私たちは皆神に敵対し、主イエスに逆らい主イエスを十字架につける者であることを認めないわけにはいかない者なのです。
 しかし、そのような私たちを赦し、私たちが逆らったり反抗したりするよりももっと深く神の方から私たちを愛し、赦し、支えてくださっています。私たちはこの愛によって罪の側から主イエスの側へと、つまり神に敵対する側から神に方向付けられ神に関係する者へと招かれているのです。そうであれば、私たちはこの愛の招きを他の人々に伝えずにいることがどうして出来るでしょう。私たちは主イエスによって与えられた神の愛を知る時、このイエスの名によって生きる恵みを心から感謝することが出来るのです。
 「逆らわない者はイエスの味方である」というみ言葉は、私たちに宣教の大きな可能性を示します。このみ言葉によって、神の愛が世界中のあらゆる人に及んでいることを改めて思うとき、主イエスに逆らわない全ての人が神の救いのみ手の中にあることが分かります。いや、主イエスに逆らい拒む人のことさえ、主イエスは十字架の上から血を流し傷みをもって招いておられることが分かるのです。
 主イエスの十字架の完全性と普遍性は、ユダヤの民族主義の枠を越えて、すべての人に対する恵みとなって世界中に拡がっていきました。こうしてキリスト者の集まりはユダヤ教から排斥されながらも世界に拡がり、私たちもその恵みを受けて、イエスの名によって生かされる恵みに与ることができたのです。
 かつてはユダヤ教の民族主義の枠からは異邦人であった私たちも、主イエスの十字架と復活によって、生かされています。「イエスの名によって生きる者に逆らわない者は見方」なのであれば、私たちはこの恵みを知らずにいる人々や、その名を知りながらまだ本当の恵みに与っていない人々のために、まだまだ働く必要があるのではないでしょうか。
 主イエスのみ言葉とみ糧を受けて、「ハレルヤ、主の御名によって」と、感謝と共にそれぞれの生活の場へと派遣されていきましょう。
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2018年09月24日

最も小さい者のために(特定20)

最も小さい者のために マルコによる福音書第9章30−37(特定20)           2018.09.23

 今日の聖書日課福音書から、2個所読んでみましょう。
 マルコによる福音書第9章35節、「いちばん先になりたいと思う者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」
 同じく、第9章37節、「わたしの名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」
 今日の聖書日課福音書を見てみると、弟子たちはこれから起ころうとしている主イエスの受難と復活のことを理解できず、エルサレムに上っていくことに気持ちを高ぶらせていた様子が読み取れます。
 私たちは、先主日の聖書日課福音書で、弟子のペトロが主イエスの受難予告を受け入れられずイエスをいさめ始めたときに、主イエスに厳しく叱られた箇所から導きを受けました。今日の聖書日課福音書の箇所でも、弟子たちはその時のペトロと同じように、主イエスがなぜエルサレムに上って行こうとしておられるのか分からないまま、エルサレムに上るイエスに期待して気持ちを高揚させていました。
 これから主イエスと共にエルサレムに上って行けば、直ぐにでもイエスがユダヤ教の指導者たちの上に立つことになり、自分たちもそのイエスの側で高い地位につくことができると弟子たちは考えていたのでしょう。
 弟子たちは主イエスに「途中で何を議論していたのか。」と問いかけられ、自分たちの心の内にある出世や権力を求める思いを露わにされることになります。この問いによって、弟子たちは自分たちの浮かれた思いに水をかけられたような気持ちにもなったような姿も想像されます。
 弟子たちは、主イエスの受難と復活のことについては怖くて尋ねることができずにいながら、いよいよエルサレムに向かうことで気持ちを高ぶらせ、主イエスの思いとは全く違うことを論じ合う自分たちでいたことに気付かされるのです。
 マルコによる福音書を更に読み進めていくと、第10章35節には、弟子のヤコブとヨハネが主イエスのところに進み出て、主イエスが天下を取ったら私たちをあなたの左右の座に着かせてくださいと願い、それを知った他の弟子たちが憤慨したという物語が出てきます。このように弟子たちはそれぞれに主イエスに自分勝手な期待や願いを寄せてそれが満たされることを求めるに過ぎない者であり、主イエスの本当の思いはなかなか理解されませんでした。
 主イエスは、このような弟子たちを前にして、主イエスは幼子の手を取り彼らの真ん中に立たせ、そしてその幼子を抱き上げて言われました。
 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」
 その当時は、まだ現代のような子供の人権とか人格などという思想はありませんでした。現代では、幼子は大人になるまで保護され養育される存在と考えられます。しかし、当時の幼子のイメージは、先ず第一にまだ働き手になっていない足手まといな存在であり、それは「無力、無価値」と言うことであり、早く大人の仕事を助ける働き手になることを求められていました。
 しかし、主イエスはこの世に生きる者は誰でも神に愛されている大切な存在であるとお考えになり、労働力としては無価値と見なされる小さな存在にも神から等しく愛が注がれており、弱く小さな存在こそ神の御心の中で生かされるべきであると教えられたのです。
 主イエスは、弱く小さな、そしてその当時は役に立たない無価値な存在と思われていた子供の手を取って、更に抱き上げておられます。そして「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」と言われました。
 主イエスは、今、弟子たちの真ん中におられ、幼子を抱いておられます。そのお姿を思い浮かべてみると、弟子たちが主イエスに目を向けると弟子たちの目には主イエスと共にいる幼子が映ります。また、弟子たちが最も小さく弱い者である幼子に目を向けると、その幼子を抱いておられる主イエスが自ずと目に入ってきます。
 このことは絵画的な表現に留まることではなく、私たちの生活の中にあっても、私たちは最も小さく貧しくされた人々に目を向けるときにその人々と共におられる主イエスを見ることになり、私たちが主イエスを見ようとするときに主イエスが抱いている最も貧しく小さくされた人々が目に入ってくるのです。
 弱く小さな者を受け入れることは主イエスを受け入れることであり、主イエスを受け入れることは弱く小さな存在を受け入れることなのです。そして、私たちは、弱く小さな存在を受け入れることは、自分の中の弱く小さく無価値で醜い部分を受け入れることと深くつながっていることを覚えたいと思うのです。主イエスは、私たちの中の最も弱く貧しく醜く小さなところに共にいてくださいます。
 私たちの心のそのような最も弱く貧しく醜く小さなところで私たちは主イエスにお会いすることができるのです。
 もし、自分の中の弱さ、小ささ、醜さを受け入れることが出来ないなら、他の人の中にある似たような弱さ、小ささ、醜さを見た時、私たちはその人を受け入れることができなくなります。そして時にはその人を傷つけたり虐げたり、あるいは無視したりしてその場を逃れようとするでしょう。そうであれば、どうしてそこから自分の内側にキリストの平和が生まれてくるでしょう。また相手との間にキリストの平和が生まれてくるでしょう。自分の中にある弱さ、小ささ、醜さ、貧しさが主イエスによって受け入れられ、たとえそのような私であっても神に受け入れられていることを知ることができる時、私たちは主イエスを通して神に愛され大切にされている目の前の弱く小さな存在を愛することが出来るのであり、その人と共におられる主イエスを見出すことが出来るようになるのです。もし私たちが自分の醜さや弱さを認められないなら、私たちはどうして他の人の弱さや醜さを受け入れそこに働く主イエスさまを見出すことが出来るでしょうか。
 主イエスは、弟子たちが自分たちの中で誰が一番偉いかを論じ合う時、最も弱く小さくされた存在を見つめるように教えておられます。
 もし私たちが、上下関係や優劣の尺度の中に生き、いつも自分が他の人よりも優位に立とうとするような生き方を続けるのなら、私たちには弱さや貧しさと共におられるキリストは見えてこないでしょう。
 主イエスさまは、マタイによる福音書第25章40節で次のように教えておられます。「わたしの兄弟である最も小さい者のひとりにしたのはわたしにしてくれたことなのである。」
 この御言葉の中にも、主イエスが最も小さい者と共におられ、最も小さく弱い者を通して主イエスが働いておられることがよく示されています。私たちが神に仕えるとは、祭壇奉仕や礼拝奉仕をすることに限られたことではありません。私たちが弱く小さい人々に仕えることが主イエスに仕えることだと主イエスは教えてくださいました。
 主イエスは人間の小ささ、弱さ、貧しさ、醜さに強く共感し、人々がその小ささ、弱さ、貧しさ、醜さを通してしっかりと神と結び合うように徹底して仕えてお働きになり、その目に見える徴として、主イエスはエルサレムでの十字架の死と復活を遂げることになるのです。
 エルサレムに向かう主イエスの歩みは、当時の弟子たちが期待するような権力を手に入れる歩みではなく、弱く小さく貧しい人々の嘆きや苦しみをご自分で担う歩みでした。主イエスは権力や財力や政治力に拠ってではなく、人々の弱さ、小ささ、貧しさ、醜くさを担い、そこに神の御心を示してくださいました。主イエスがそうしてくださったのは、弱さや貧しさを担う私たちを招くためであったことを覚え、私たちの弱さや小ささが主イエスによって抱き上げられ祝されることを感謝したいと思います。
 そして私たちが他の人の弱さや貧しさに出会う時、そこに働く主イエスまにお仕えすることが出来るように召し出されていく者となりますように。
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2018年09月17日

信仰の告白 マルコによる福音書第8章27−38 (特定19)       2018.09.16

信仰の告白 
マルコによる福音書第8章27−38(特定19)       2018.09.16
  

 今日の聖書日課福音書から、マルコによる福音書第8章29節の言葉に注目したいと思います。「それではあなたがたはわたしを何者だというのか。」
はじめに、このみ言葉がマルコによる福音書全体の中で、どのような位置にあるのかを確かめておきましょう。
 今日の聖書日課福音書の箇所も含めて、マルコによる福音書の第8章の後半から第9章の前半にかけては、主イエスの大きな転換点を記していると言えます。 主イエスの公の働きはガリラヤから始まりました。今日の聖書日課での舞台もガリラヤ地方です。
 洗礼者ヨハネによって新しい時代の幕開けが告げられ、神の子主イエスは既に来られていることが伝えられました。主イエスは病の人を癒し、汚れた霊に取り憑かれたその霊を追い出し、貧しく小さくされた人々の解放と罪の赦しを宣言し、これまでのユダヤ教の教えを越えて人々が神の愛の中に生かされていることを教えました。そして、多くの人々がこのイエスの働きの中に神の国が確かに到来していると信じるようになりました。
 しかし、このイエスに注目する多くの人々は、次第に主イエスが本当になさろうとしていたこととは違う期待を寄せるようになっていきます。中には、このイエスによって自分の願いを実現しようとする人も現れてきました。そして、沢山の人がイエスが自分の思いどおりに動かないことに不満を抱き、イエスのもとから離れるようになりました。
 主イエスは宣教の働きの舞台をガリラヤからエルサレム移そうとなさいます。イスラエルの人々にとってエルサレムは聖地であり、政治的にも宗教的にもイスラエルの民の中心となる所でした。主イエスには、自分がエルサレムに行くことは、殺されることであると分かっていました。
 主イエスがエルサレムに向かう度がもうすぐ始まろうとしています。
 その主イエスが、弟子たちに問います。「あなたがたは私を何者だと言うのか。」
 イエスの問いは、やがて十字架につけられるイエスを誰であると告白するのか、と言うことです。この時の弟子たちには、まだ主イエスがこのようにお尋ねになる本意が理解できていませんでした。そのことは、今日の聖書日課福音書の後半にある主イエスとペトロのやりとりを見ていけば良く分かります。
 主イエスは弟子たちに「あなたがたは私を何者だと言うのか」と問います。
 ペトロは主イエスのこの問いに応えて「あなたはメシア(救い主)です。」と言っていますが、この後、主イエスがご自分の受難のことを話し出すとペトロはその話を受け入れることができませんでした。ペトロはイエスを脇へ引っ張っていき、イエスをいさめるように「そんな話はやめてください」と言い出しますが、そのペトロはイエスに「サタン、引き下がれ。」とまで言われて叱られてしまいます。
 このように、ペトロをはじめとする弟子たちは、この時にはまだ主イエスの宣教の根本にあること、ことに受難と十字架の死、復活について、理解していたとは言い難い状態でした。
 そのような状態のペトロが「あなたはメシア(救い主)です」と答えたことは、無意味なことだったのでしょうか。そうではありません。
 主イエスが、エルサレムに向かおうとする今こそ、弟子たちがイエスを誰ととらえ、誰であると告白するのかが、大切な事になるのです。
 他の例を挙げれば、私たちが結婚相手を選んでその人との結婚を願いその申し出をしようとするとき、あるいはあの仕事を自分の生涯の仕事としてあそこで働きたいと就職先を決めようとするとき、私たちはその相手の人や組織のこと全てを知ってから決断をしたり、自分の思いを表明するのではありません。もし、そうしようとしたら主イエスへの信仰を告白することは一生できないことになるに違いありません。
 告白をするということは、自分の生涯をそこに捧げて生きようとする決意を表明することです。結婚の意志や就職の意志を表明することは、大切な事であり、必要不可欠のことであり、避けて通ってはいけないことなのです。
 それと同様のことを、主イエスは、エルサレムに上ろうとするこの時に、弟子たちに「あなたがたは私を何者だと言うのか」と問う形で求めておられるのです。そして、ペトロをはじめ弟子たちにとっての生涯は、これからずっと、このイエスの「あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」という問に答え続けていく生涯になるのです。
 私たちもこの時のペトロと同じように、「わたしは、天地の造り主全能の父である神を信じます。この世の贖い主、み子イエス・キリストを信じます。命の与え主、聖霊を信じます。」と信仰の告白をして、洗礼を受け、堅信の恵みに与りました。そして、礼拝のたびにニケヤ信経や使徒信経によって信仰の告白を致します。
 私たちも、今は主イエスの理解が不十分であったとしても、「あなたはメシアです」と信仰告白を致します。それは、この箇所の後のペトロを見れば分かるとおり、完全でもなければ時には逃げ出してしまうようなどうしようもなく情けない私のことさえもあなたは見捨てず、愛し抜いてくださり、わたしが神の御心に立ち戻るように絶えず招き続けてくださいます。そのあなたこそ、私の救い主ですという信仰の告白なのです。
 違う面から言えば、私たち信仰者は、信仰告白をすることを通して不完全で不信仰な自分を少しずつ正され強められていく者であると言えるでしょう。
 信仰を持つことは、それで必ずしも平穏無事な生活が約束されたり、いつも自分の気に入った生活を保証されることではありません。むしろ、私たちがどのような信仰を持ちそのような態度で生きるのかということの中に、私たちの信仰の質が現れ出てくると言えるでしょう。
 今日の聖書日課福音書から、私たちもペトロと共に、「あなたはメシア(救い主)です」とお答えし、主イエスに伴われ、導かれ、養いを受けながら信仰の道を歩んでいく思いを新たに致しましょう。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 21:28| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする