2018年06月10日

皮の衣  創世記3::21   2018.06.10

「皮」の衣 創世記3:21

  
 本日は、私の勤務する土浦聖バルナバ教会の主日礼拝には、広田勝一教教区主教が来臨され、聖餐式の説教をしてくださいました。私は今日の説教原稿を作りませんでしたので、本欄の6月10日分の説教掲載はありません。
 代わりに、小文を掲載します。
 
「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。(創世記3::21)」
 「この小さな一文にこんなメッセージが隠れていたのか!」と気付かされたのは、もう数年前のことでした。
 日本聖公会の管区が主催したある会合に講師としてお招きした関田寛雄先生(日本基督教団巡回牧師)は、発題講話の中で、この箇所に触れてお話しくださった時のことです。私は、それまでにもこの箇所は幾度も読んでいながら、その意味を思い巡らせることもなく読み流していたことを恥ずかしくさえ思いました。
 創世記第3章は、いわゆる人間の堕罪物語です。
 蛇に誘惑されて、エバは神との約束によって食べることを禁じられた知恵の木の実を食べ、アダムもエバから渡された木の実を食べてしまいました。その時、「二人の目が開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆う者とした(第3章7節)。」のでした。
 詳しくは触れませんが、ここにはアダムとエバの保身と責任転嫁の姿が描かれています。そのような、その場しのぎに取り繕うしるしが、彼らが綴り合わせた「いちじくの葉」です。
 彼ら二人は、神から隠れようとしたり、罪を明らかにされれば言い訳して自分の過ちを認めることもできずに、その責任を女に、神に、蛇に転嫁しています。ここには、自分で自分の過ちを引き受けられずにその場しのぎに取り繕う醜さと見苦しさが浮き彫りにされています。
 神は彼らをエデンの園から追放しました。その時に「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた」のでした。
 その場を取り繕って慌てて身に付けたいちじくの葉では、直ぐに干からび風がふけば飛ばされてしまいます。そんな知恵しか持ち合わせていたい人間に対して、神は「皮の衣」を作って着せてくださったのです。
 人は、直ぐに保身と責任転嫁に走ります。敢えて名を出して記しますが、この5月6日に起こった日本大学アメリカンフットボール部の悪質反則プレー事件に於ける監督やコーチの事後対応は、聖書の記す「最初の罪」に人がどのように振る舞ったのかに共通する保身と責任転嫁そのものの姿が現れ出ています。
 神は、アダムとエバをエデンの園から追放しますが、保身して責任転嫁してしまうほどに弱く醜く生きざるを得ない彼らに皮の衣を与えました。
 その場しのぎの取り繕いで直ぐに干からびて吹っ飛んでしまうような生き方を身に付けるのではなく、弱く醜くしか生きられない自分を認めて神の与える衣にて装うように神はこの二人に皮の衣を作って着せたのです。
 私はその後にも、関田寛雄先生の講演、講話で、上記の話をお聞きする機会があり、その度に私たちの弱さや醜さに対して神がどのような思いでいてくださるのかを深く考えさせられました。
 もし、今日の主日礼拝に説教原稿を準備していたら、今日は旧約聖書日課から上記のことを伝える説教原稿を準備していたと思います。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 18:10| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月03日

人のための安息日    マルコによる福音書第2章23−28  B年 聖霊降臨後第2主日   2018.06.03

人のための安息日
マルコによる福音書第2章23−28  B年 聖霊降臨後第2主日   2018.06.03
 
 今日の聖書日課福音書の終わりの部分をもう一度読んで見ます。27,28節です。
 「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」
 主イエスの宣教の働きはガリラヤ地方から始まりました。神の国の訪れを説き、病の人を癒やし悪霊に取り憑かれている人の悪霊を追い出し、文字どおり寝食を忘れてのお働きでした。
 ある安息日のこと、主イエスと弟子たちは麦畑を通っておられました。当時、パレスチナの麦畑は、日本の麦畑のように整然と列をなす麦畑の中にしっかりとした道があったわけではなく、原文では「道をつくる」と読むこともできるように、一面にばらまいた麦が収穫の時を迎える頃、その一面の麦畑の中を縫って歩く姿を思い描いた方が相応しいという説明もあります。麦の穂が色づいて、収穫が迫った季節の出来事であったと思われます。
 弟子たちは歩きながら麦の穂を摘んでその麦を食べ始めました。マタイによる福音書にもこの物語の並行記事がありますが、そちらでは彼らが麦の穂を摘んで食べ始めたのは空腹であったからだと説明しています。きっと主イエスも弟子たちも枕するところもない働きに、空腹と疲れを感じておられてのではないでしょうか。
 ファリサイ派の人々は弟子たちが麦の穂を摘んだのを見て、この時とばかりに、主イエスに訴えてきました。
 「ご覧なさい。なぜ彼らは安息日にしてはならないことをするのか」(24節)。
 このファリサイ派の言う「安息日にしてはならないこと」とは何でしょう。また、この訴えに対してお応えになっている主イエスの言っていることはどのような意味なのでしょう。そのことを考えるために、今日の旧約聖書日課の中の十戒の第4の戒め、安息日についての教えを見てみましょう。
 安息日については、申命記第5章12節〜15節に、ほかの戒めに比べて、かなり長い文章が記されています。少し長くなりますが、読んでみましょう。
 「安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおり、6日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。あなたはかつてエジプトで奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るように命じられたのである。」
 第4の戒めは安息日についてです。第1から3の戒めが神と人々の関係における戒めで、第5の戒め以降が人と人の関係における戒めで、その間にあるのがこの安息日のことです。神と人をリンクさせるのが安息日であると説明することもできます。
 主イエスも弟子たちも、ファリサイ派も十戒のことはよく知っていました。そしせ安息日については、かつて自分たちの先祖をエジプトから解放してくださった主なる神に思いを集中し、ほかの作業は休む日です。でも、その精神をどのように表現するのかということでは、主イエスとファリサイ派の人々の間には大きな違いがありました。
 申命記では、安息日は家族ばかりでなく、雇い人や奴隷も、家畜も異国人も休むようにと言っています。この日には、神がお造りになったすべてのものが、あらゆる束縛から解放され、すべてのものが神を賛美する日であり、その解放者である主なる神への思い、つまり信仰を新たにすることが安息日の意味です。
 この日、私たちは神がやがて救いの働きを完成させてくださる日を先取りしてこの安息日に表し、やがて来たるべきその日を待ち望む信仰を確認するのです。
 安息日がこのような日であれば、主イエスは飢えた者が安息日にも飢えたままで放って置かれたり、罪や悩みの中にある人や病の人がそのままにされていてはならないとお考えになりました。安息日だかと言って「何もしてはならない」という状況に留めおかれることを良しとされず、主イエスはそのような人々に深い憐れみを寄せておられたのです。主イエスにとって、そうした人々がそのままに放置されることは神の御心ではなかったのです。
 そうであれば、この第4戒は、「安息日には何もするな」ということではなく、この日にこそ、神の祝福は実現されていなければならないのです。
 しかし、ファリサイ派はこの時とばかりに、それを批判の口実にするのです。
 ファリサイ派は主イエスに「あなたの弟子たちは、安息日の戒めに反することをしているではないか。」と言います。
 その当時、他の人の麦畑で麦の穂を摘むことは赦されていました。他にも、貧しい人々のために、刈り入れの時に全ての穂を刈り尽くしてはいけないことや、落とした穂は改めて拾い上げてはいけないことなどが定められていました。ここでファリサイ派が批判したのは、イエスの弟子たちが、その日が安息日であるにも関わらず、刈り入れ作業をしたと言うことなのでした。
 これに対して、主イエスは旧約聖書にある、ダビデのある話によって彼らにお応えになったのでした。25節で主イエスはこう言っておられます。
 「ダビデが、自分の供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。」
 その話とは、サムエル記上第21章にある、以下のような物語です。
 福音記者マルコは、この物語に登場する大祭司をアビヤタルと記していますが、実際の大祭司はアヒメレクであることは明かです。
 イスラエルの国が、サウルを初代の王として王国となり、周辺の国々からの侵略から領土を守っている頃、若いダビデは目覚ましい働きをして人々の信望を得るようになりました。サウル王はそのダビデによって自分の王位が危うくされることを恐れ、ダビデを殺そうと考えるようになりました。サウルは被害妄想を強くしダビデを捕らえようとしますが、ダビデは「サウル王は神によって立てられた王なのだから」と逃れるばかりで、自分からサウル王に反逆することはありませんでした。追っ手を逃れるダビデは、献身的に自分に仕える者たちの飢え渇きをそのままにしておくことができず、ある時、独りでこっそりと神殿の祭司アヒメレクのところに出向きます。ダビデは神殿の祭司を頼って、供の者のために食べ物を手に入れようとするのです。でもその時には、あいにく大祭司の所には何も食べ物が何もありませんでした。ただ、有ったのは、神殿に供えられたパン、聖別されたパンだけでした。このパンは、安息日の礼拝で聖別して供えられ、古い備えのパンは律法によって祭司だけが食べることを許されていました。けれど、ダビデの姿を見たこの大祭司アヒメレクは「もし、あなたがたが、私たち祭司と同じように身を清めた生活をしているのなら、この聖別したパンを差し上げましょう。」と言ったのでした。
 これに対してダビデは、自分も供の者も身が清いことを誓い、神殿で聖別され本来なら食べることを許されていないパンを受けとり、供の者と食べたのでした。
 この時の神殿の大祭司アヒメレクは、律法の規則に従ってダビデの要求を退けることをせず、飢えた者や乾く者が目の前にいればその者たちがそのまま失われてはならないと考え、聖別したパンであってもダビデに与えることが神の御心だと判断したのでしょう。
 主イエスは、このダビデの物語をひいて、ファリサイ派に対して25節で「あなたたちはこのダビデの話を読んだことがないのか。」と答えているのです。
 こうした点を合わせ考えると、十戒を中心とした律法の精神とは何かが少し見えてくるように思えます。
 人々が飢え乾いているのであれば満たされること、罪を犯したままでいるのであれば悔い改めて赦されること、神がお与えくださる憐れみと祝福がすべての人に及びすべての人が神をほめたたえるようになることこそ、律法の精神の目指すことなのです。神の御心が実現している姿がそこに開かれていくように願ってやまない思いが律法の精神であり、また主イエスの思いでもありました
 ファリサイ派は、安息日の戒めを細かなことにまで細則を作って人々に守らせ、自分たちではその解釈を拡大して逃れる道を備えました。一方、イエスは安息日は人を通して神の御心が現れ出る日、御心が行われる日であると教えられました。主イエスは、「安息日は人のために定められた。」と言っておられます。
 主イエスは、今日この安息日にも私たちを憐れみ、祝福のうちに置いてくださるために私たちを招いくださっています。
 主イエスにお応えし、私たちは主イエスが供えてくださる糧によって養われ導かれ、神の御心を身をもって証しする者となって歩むことができますように。
 今日は、この安息日に、神の祝福を信じて、主イエスの群れに加わろうとするお二人の洗礼式を行います。共に主イエスの祝福に与りましょう。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 13:58| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月02日

新しく生まれる   三位一体主日   ヨハネによる福音書3:1−16   2018.05.27

新しく生まれる
B年 三位一体主日   ヨハネによる福音書3:1−16   2018.05.27

  今日の福音書の中から、ヨハネによる福音書第3章16節をもう一度お読みしてみましょう。
 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
 この言葉は、「福音の要約」と呼ばれいます。その言葉のとおり、聖書のメッセージの核心を、つまり主イエスがこの世に生きた意味、目的が何であったのかを端的に示しています。
 今日の福音書は、ファリサイ派のニコデモという人が主イエスを訪ねてきたことから始まっています。
 ニコデモは、ユダヤ議会の議員でした。サンヘドリンと呼ばれたユダヤ議会は大祭司を議長とする71人によって構成され、司法、立法、行政の担い手をはっきりと分けて考えない時代の中では、国の決議、裁判の機関でした。ニコデモはその議会の構成する議員の一人であり、聖書辞典によれば、議員は血統の上でユダヤ人であり、かつ財力や見識のある者が終身職として議員になったとの説明もありました。
 ニコデモはファリサイ派の一員でした。ファリサイ派は、神との間に結ばれた契約の具体的な規則である律法を厳格に守ることを通して神に受け入れられると考えていました。彼らは、神との契約の対象外である異邦人や律法を守れない下級社会民を排除し、自らを「分けられた者」を意味するペルシームという言葉からファリサイを名乗っていたのです。そして下層民や異邦人とは違う自分たちこそ永遠の命が約束されているという強い自負を持っていたのでした。
 その一員であるニコデモが、ある晩主イエスを訪ねてきました。昼間の人目を避けるように、夜、そっと主イエスを訪ねるニコデモの心の内に何があったのでしょう。その思いを推測してみると、ユダヤ議会の議員として何不足のない人生を送っているようでありながら、心の奥底には当時評判のイエスを訪問しないわけにはいかない「何か」があったのでしょう。
 福音記者ヨハネは今日の箇所の直前に(2:24)「イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである」と記しています。ニコデモの心に潜んでいたのは、不安かも知れないし、癒しがたい心の傷であったかも知れないし、あるいは自分でも掴みきれない自分の心の深い闇に関することであったかも知れません。
 でも、ニコデモはファリサイ派の知識人らしく、また議員に相応しく、あたかもイエスの教えをよく理解している者であるかのように振る舞ってイエスに話しかけました。第3章2節の言葉です。
 「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、誰も行うことはできないからです。」
 ニコデモの言葉の限りでは、本当にその通りであり、主イエスは神の許からこの世に来た教師であると言えますし、確かに神が共におられます。でも、ニコデモは主イエスと話していくうちに、自分がファリサイ派の律法の枠の中で自分を守ってきただけで、神の愛を全く知らない自分の姿を顕わにされてくるのです。
 これまで、ニコデモは、いつも救われている者の側、強い者の側、正しい者の側に立って生きてきました。そのようなニコデモには、初めのうち主イエスの言っておられることが理解できません。主イエスは、第3章5節で「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」と言っておられますが、ニコデモは「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」と的外れの応答をしています。ニコデモは主イエスの言う「新たに生まれる」ということを理解できないでいます。
 ニコデモは、これまでイスラエルの身分の高い知識人として生きて来ました。ユダヤの律法で自分の身を守り、時にはその律法を鎧にしたり隠れ蓑にしたりして、生きてきたのではないでしょうか。初めてイエスを訪ねた時にもニコデモは知識人としての自分を前面に押し出しているように見えます。弱さを隠し、自分の中の貧しさを理解せず、正統なユダヤ教の信仰を持つ議員としてふるまっています。今、夜の闇の中で、主イエスの愛がニコデモを照らします。主イエスの愛が照らすのは、議員の肩書きや業績ではなく、ニコデモという人間そのものであり、生きることにともなう悲しみや苦しみの実感であり、ニコデモが自分でも掴みきれない心の奥深くにある癒しへの求があって、主イエスにはそれば見えているのです。
 ニコデモにとって、自分でどれだけ自分の心の内側を正しく把握していたかは別として、その深い心の闇の問題こそが、主イエスを夜にこっそりとの訪ねないわけにはいかない動機だったはずでした。
 それまでのニコデモには、自分を律法の枠に当てはめて律法の文言の通りに生きることが「永遠の命」に至る道であると思えました。しかし、主イエスはそうではなく、独り子主イエスをとおして与えられている神の愛をあなたが受け入れることが永遠の命に至る道だと言われるのです。永遠の命とは、律法の文言となって外側から人を規制するものではなく、私たちの心の奥深い内側に宿って私たちを生かす命の力です。それは、物理の実験のようにある一定の条件が整った場で行えば誰がやっても同じ結果が起こるという意味での真理ではなく、主なる神が他の誰でもないあなたに与えてくださった愛を受け入れることによって、神と完全に結ばれて与えられる喜びであり、癒やしであり、本当の自分として生きる力であると言えるでしょう。
 ニコデモは、ユダヤ議会議員や律法の教師という鎧を身にまとってはいるものの、その内側は、イエスに揺さぶられ、「本当の自分は生きているのか」という問いを主イエスから突きつけられている思いになっていたのでしょう。
 この時に夜イエスを訪ねてイエスとの交わりを得たニコデモは、やがてイエスの愛を十字架の出来事の中に目の当たりにします。そしてこのイエスを通して示された愛が自分にも与えられていることを受け入れる時が来ます。
 ニコデモは主イエスが十字架の上で息を引き取られたとき、ピラトに願い出て、主イエスの遺体を十字架から降ろし、埋葬したのです。かつては夜こっそりとイエスを訪問した知識人が、十字架を通して示された神の愛にふれ、イエスの遺体の引き取りを申し出ます。ニコデモは、こうして公然と自分が十字架につけられたイエスの仲間であることを示し、イエスは救い主であり、永遠の命の与え主であり、自分を新しく生まれ変わらせたお方であることを、身をもって証しすることになるのです。
 このことによって、ニコデモはユダヤ議会から追放される事になります。それでもニコデモはイエスを通して真理を見つめなおし、本当の神の愛を受け入れ、新たに生まれ変わって生きる者とされました。
 私たちもニコデモのような信仰の歩みを促されています。神が主イエスを通して私たちを愛してくださるのは、私たちがその愛によって古い自分を解き放たれて、日々新たにされて生きるためです。
 神は主イエスをお与えになったほどに私たちを愛してくださいました。私たち一人一人が神に受け入れられ愛されています。このイエスを救い主として恐れなく証しする者へと育まれて参りましょう。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 23:34| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする