2019年12月31日

神の愛を受信する  2019.12.29  ヨハネによる福音書第1章1〜18節  A年(降誕後第1主日)

神の愛を受信する    ヨハネによる福音書第1章1〜18節  A年(降誕後第1主日) 2019.12.29

 
 「初めに言があった。言は神と共にあった。この言は、初めに神とともにあった。」
 ヨハネによる福音書はこのように始まっていきます。この箇所は、毎年、クリスマスの聖書日課として読まれています。
 かつて、先代の主教さまに、子どもたちが沢山いる礼拝での説教をお願いした時、ある道具を手にしながら説教をしてくださいました。その道具とは、一つは携帯ラジオ、もう一つは玩具のラジコンカーでした。
 ラジオのスイッチを入れてダイヤルを合わせると、ただ一つだけではなく、その周波数によって幾つもの放送を受信できます。ラジオの電波は目には見えないけれど、それぞれの放送局が何かのメッセージを送るために、電波を用いています。私たちがある番組を受信しようとすれば、その電波の中から正しくダイヤルを合わせることが必要になります。それと同じように、私たちも神が私たちを生かすために与え続けている神の力を受けられるように、たくさんの電波の中から正しい電波を受けて日々の生活を霊的に整える事が必要になるのです。
 また、ラジコンカーも、車は目には見えない電波を受けて、その操作盤を動かす人の思いが車に伝わり、車が動きます。わたしたちも神が発しておられるメッセージを受けるためには、神の恵みを自分からも受けるためのチャンネル合わせが必要なのです。
 その主教さまは、「私たちも、聖書を学び祈ることによって、神の御心に合う生き方を自ら設定するようにつとめ、注がれている神の恵みを受信できるようになって、福音の喜びに満たされるようになりたい。」とお話しして下さいました。
 ヨハネによる福音書の冒頭の言葉も、そのラジオやラジコンカーのたとえで言えば、人間の方ではまだ神のメッセージを受信できるような状況になっていない時にも、神はこの世に生きる私たちに、愛の電波を絶えることなく発信し続けてくださいました。そして今もなお神はこの電波を発信していてくださり、これからもずっと「愛の電波」の発信は続くことでしょう。その愛の電波のことを、ヨハネによる福音書では「言(ことば)」と名付けているのです。
 「言(ことば)」という単語を「神が発信する愛の電波」と置き換えて、今日の福音書の冒頭の部分を読んでみると次のようになるでしょう。
 「神が発信する愛の電波は初めからありました。電波は神と共にありました。愛の電波は神ご自身でした。この愛の電波は、初めに神と共にありました。万物は愛の電波によって成り立っています。成ったもので言によらずに成ったものは何一つありません。愛の電波の内に命がありました。」
 しかし、「神の愛の電波」は人々になかなかその実体が理解されませんでした。それは人の目には見えず、人はこの電波だけを抜き出して目に見て確かめることが出来ないからです。私たちがこの愛の電波を確かめるためには、その電波をキャッチするための、チャンネル合わせが必要になります。電波を受信した時にも、電波そのものを見るのではなく、電波を音なり映像なり動力に変換してはじめて、その電波が働いていることを確かめられるのです。
 神さまがこの世に送ってくださる「愛」についてもこれと同じことが言えます。神は天地をお造りになったその初めからこの世界と人々を祝福し、愛し、関わり続けてきてくださいました。
 でも、私たち人間は、神さまの送る愛そのものを自分たちの目でしっかりと見て確認することが出来ませんでした。人は神の愛が感じられなくなったり確かめられなくなったりすると、安易に目に見えるもの、触れて確かめられるものにすがって、安心したくなります。
 出エジプトの民も、荒れ野での生活が始まり、しかもモーセがシナイ山に登ってその姿が目に見えなくなった時、その不安と心細さのゆえに、金を集めて子牛の像を造り、それを神のしるしとして金の子牛の周りで踊り戯れました。見えないロゴスを信じられず、認めることが出来なかったからと言えます。私たちは目に見える確かな徴が欲しくなってしまいます。神から離れて神を見失い、偶像を神のように奉り、愛ではない物を愛であるかのように感じて、その幻想の中に生きようとしてしまいます。私たちの周りにも、本当は神からの愛によって癒されるべきなのに、力のある者に寄りすがり、アルコールに溺れ、他人を困らせて自分が注目を集めることによって、一時の快楽を得たり不安を紛らわせたりする人たちを見かけます。それでは、神の愛を受信する感性はますます鈍くなり、神の愛を映し出す力は錆び付く一方になるでしょう。
 主イエスの時代の律法学者たちも、文字の上では愛を論じてはいたものの、神のお与えくださる本当の愛を実感してはいませんでした。また、自分の身を守ることばかりを考える祭司長たちにとって、神の愛に生きることは面倒くさいことであり、そのことを指摘されれば、指摘する人を攻撃することになっていきました。。
 そのような人々の支配する世に、神は、人の目に見える姿をとってご自身の愛を具体的に示して下さいました。それが「言は肉となる」ということでした。主イエスは、人の上に立って人を支配し君臨するお姿ではなく、貧しく小さなお姿を取り、神の愛を示してくださいました。ヨハネによる福音書は、第1章14節に「私たちはその栄光を見た」と記しています。
 旧約聖書の時代に、人々は律法の文字を通して、「神を愛し人を愛すること」を教えられましたが、文字だけで厳格に「愛すべきこと」という文言を叩き込まれても、人は腹の底から愛することを理解できるようにはなれませんでした。
 日陰に置かれた石ころに「お前は冷たい。温かくなれ」と百回言うよりも、その石が温かくなるように日の当たるところに置いてあげなさい、という譬えがあります。主イエスとの交わりの中で、沢山の人が神の愛にふれ、自分も愛されていることを知り、愛する人へと変えられていきました。
 文字の上でしか知らなかった「神の愛」がどのようなものなのか、人々は実際にイエスを通して神に愛されることによって、身をもって愛を知り、今度は自分が愛する者へと変えられていくのです。
 律法によって「愛せよ」と幾度厳しく突き付けられても愛を実感できなかった人々は、律法を守れない人々を裁くようになります。律法を守れず裁かれた人々は、自分を見失い、否定し、彷徨い始めます。でも、そのような人々も、イエスによって自分も愛し抜かれていることを知り、そのことを受け容れた時、本当の自分を取り戻して、神の愛に生きることが出来るように変えられ、育てられていくのです。
 神の愛の電波は、貧しく小さな姿を取って、貧しく小さな者のうちに住まい、私たちを支え生かして下さいます。今日の福音書で「言が世に来た」こと、「言は肉となった」ということは、神の愛が主イエスをとおして、具体的にこの世界に働いたこと、私たち皆がその愛を受ける資格を持つ者であることを示されたということを意味しています。
 私たちはこの世で、時には弱り、時には悲しみにも出会います。でも、私たちは既に目に見える神の愛が与えられ、神の愛は私たちの中に深く宿っていて下さいます。馬小屋の飼い葉桶の中に、神の愛の姿を宿して下さった恵みを深く受けとめ、私たちも神さまの愛の電波を受信するために、しっかりとその電波にチャンネルを合わせましょう。神の言が私たちのところに来て下さった喜び、その感謝をお捧することができますように。
 主イエス・キリストのご降誕の喜びを分かち合い、今日の聖餐にあずかりましょう。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 09:59| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月23日

共におられる神 マタイによる福音書第1章18〜25   A年降臨節第4主日 2019.12.22

共におられる神 マタイによる福音書第1章18〜25   A年降臨節第4主日 2019.12.22
 
 今日の聖書日課福音書より、もう一度、マタイによる福音書第1章23節のみ言葉を心に留めたいと思います。
 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。これは、『神は私たちと共におられる』という意味である。」
 青年ヨセフは、マリアとの結婚を控え、希望に満ちた幸せな時を過ごしていたことでしょう。ヨセフはマリアとささやかな家庭を築き新しい生活を始める期待に胸をふくらませていたと思われます。当時の婚約は律法の上で結婚に等しい重みがあり、今の婚約より遙かに社会的な拘束力も強いものでした。
 その大切な時期に、ヨセフの知らないうちに、婚約者のマリアが身籠もったのです。ヨセフは驚き、真っ暗闇の底に突き落とされるような思いに襲われたことでしょう。「自分の知らないうちに婚約者マリアが身籠もるとは。私はどうすればいいのだ。」と言って頭を抱え、戸惑い、悲しみ、憤るヨセフを想像します。
 マタイによる福音書第1章19節には、「夫ヨセフは正しい人であったので」と記されています。ヨセフは当時の律法に基づいて正しく生きていた人で、婚約期間中も律法に忠実にその規定に基づいて生活していたはずです。そのヨセフには婚約者のマリアが「姦淫の罪」を犯したなどとはとても考えられません。しかし、ヨセフの目の前には、確かに身籠もっている自分の婚約者マリアがいます。
 もしマリアが姦淫の罪を犯したのであれば、「正しい人」であるヨセフが選ぶべき道は2つありました。一つは、法廷に訴え出ることでした。旧約聖書の申命記第22章、第24章などには妻の姦淫に関する事柄も載っています。でも、ここでヨセフがマリアを法廷に訴えることは、ヨセフがマリアを信じていないことを公にすることになります。それでは、マリアはいっそう苦しむでしょう。でも、いずれにしても、やがてマリアが身籠もっていることは誰の目にも明らかになりますから、ヨセフが訴え出ればマリアは石打によって処刑される可能性もあります。そんなことはヨセフの望みではありませんでした。
 そこでヨセフはもう一つの道を選びました。
 それは、マリアとの結婚を密かに解消して離縁することでした。ヨセフはマリアのことを公にはせず、律法に従ってわずかな証人を立て、マリアに離縁状を渡し、ヨセフがマリアの基から離れていくという決断です。ヨセフはマリアが身籠もった責任を自分が引き受けて、人々の批判や中傷を自分が受けることにして、マリアと別れてひっそりと生きていく事に決めたのです。正しい人ヨセフにとってこれが自分に出来る限界でした。この後、マリアが子どもを抱えてどう生きていくのか、マリアとその子が未婚の母と子という負い目を背負って生きていく厳しさなど、ヨセフには分かっていても、マリアと密かに離縁するのがその時のヨセフには一番理にかなったことであり、それ以外にはどうすることも出来ないまでにヨセフは追い込まれていました。
 しかし、このような悩みと困難の中で、主の天使がヨセフの夢に現れて、「恐れずマリアを迎えなさい。マリアに宿った子は聖霊の働きによる。」とお告げになりました。
 福音記者マタイは、この出来事について、旧約聖書イザヤ書第7章14節の言葉を引用して、「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」ということが実現する事なのだと語ります。そしてインマヌエルとは「神は我々と共におられる」という意味であると説明しています。
 ヨセフは自分の悩みと困難の真っ直中で、また、その困難と悩みを通して「神は我々と共におられる」と呼ばれるお方がマリアを通して生まれることを告げられました。そして、ヨセフは、自分がインマヌエルと呼ばれる救い主の父親となるために選ばれていることを知り、マリア懐妊の事実を受け入れたのでした。ヨセフは、自分にも主なる神が共にいてくださることを確信したことでしょう。
 マタイによる福音書は、先ず第1章1節からイエス・キリストの系図があり、その直後に今日の福音書の個所があります。イエス・キリストの系図の中に、当時いわば「穢れた者」とされた者が幾人か混じっています。また、当時の考えによれば、系図を男性によって繋ぐことが当然でしたが、今日の聖書日課福音書の個所のように、イエスの出生が父親ヨセフを通してではなく乙女マリアの名を記し、しかもそれを公にすることは、イエスが父親不明の生まれであることを公にすることに他なりませんでした。普通であればこうした記述は伏せておきたいことであったり、出来ることなら他の人に知らせずに済ませたいことであるはずです。福音記者マタイはこの福音書によって主イエスの生涯を記し、このイエスこそキリスト(救い主)であることを人々に知らせていますが、その福音書の始まりに敢えてイエスは「汚れ」の混じる「罪の子」としての命をつなぐ中から世に生まれたことを伝えています。
 それは、それぞれに与えられてこの世を生きてく者が、たたとえどんな境遇で生まれようと、その宿命を負って生きなければならない者であろうと、「神我らと共におられる」と呼ばれるお方が、その人々と共に、つまり私たちと共にいてくださることを示してくださっているということなのです。
 そのようにしてお生まれになった主イエスは、やがてインマヌエル(神は我らと共にいます)をこの世に実現する働きを始めていきます。その生涯は、ことに病の人々や障害を負った人々など、その当時は悪霊に取り憑かれたと見なされて罪人扱いされていた人々と共に生きて、その痛みや悲しみを共に負う生涯でした。
 私たちは他の人と共にいることの大切さを知ると同時にその難しさを覚えざるを得ません。私たちは、日々の生活の中のごく身近なことでさえ自分の周りの人たちに自分の本当の思いを理解されない時に歯がゆさや苛立たしさを感じます。主イエスの時代の重い皮膚病の人たちや罪人呼ばわりされ差別されている人々と共に生きる道を歩まれました。そのような人たちが周りから理解されずにさげすまれ、認められないことで味わう絶望感は私たちの想像を遙かに超えて深いものであったと思われます。主イエスはそのような人々とも共に生きる事をお選びになり、その人々の重荷を共に担い味わって過ごされ、身をもってインマヌエル(神は私たちと共にいます)という姿を示してくださいました。そして、最後には十字架の上から、絶望のうちに死に逝く人とさえ共におられることをお示しになりました。
 私たちは、自分の中にある痛みを深く内省する時、他の人々の痛みに対しても少しは共にいることができるようになれるかもしれません。その一方で、どんなに他の人と共に生きようとしても、他の人との間には共にいることの出来ない隔たりや溝があることを感じることもあるでしょう。主イエスは、そのような他の人との間の埋めることの出来ない断絶した孤独感や他の人々が踏み込むことの出来ない奥底にまでも共にいて下さるために、敢えて貧しく汚れた姿をとってこの世界に来て下さいました。
 マタイによる福音書の最後、第28章20節で主イエスはこう言っておられます。「わたしは世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる。」
 神は、主イエスのお生まれの時に、神は私たちと共にいてくださることをヨセフに知らせました。主イエスはそのご生涯を「自分は神に見捨てられている」と思い悩む人々と共に過ごして「神は私たちと共にいます」ことを身をもってお示しになり、主イエスを救い主と信じる人々が世界に宣教の働きに出ていく時にも主イエスはその人と共に世の終わりまで共にいてくださると約束して下さったのです。
 私たちは、主イエス・キリストのご降誕の日を迎えるにあたり、インマヌエルの主イエスをお与えくださった神の恵みを思い起こしたいと思います。一人ひとりその恵みを心に留め、主イエスがいつも私たちと共にいてくださることを喜び、感謝し、祝うクリスマスを迎えましょう。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 09:40| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月12日

平和への感性  イザヤ書11章1〜10節    A年降臨節第2主日    2019.12.08

イザヤ書11章1〜10節    A年降臨節第2主日    2019.12.08

 平和への感性

 降臨節第2主日になりました。私たちは、主イエス御降誕の日を迎える準備の時を過ごしています。今日の3つの聖書日課は、私たちが正義と平和を創り出す働きへと歩んで行くことができるよう、悔い改めることを促しています。
 旧約聖書日課のイザヤ書に注目してみましょう。
 今日の旧約聖書日課のイザヤ書第11章1節からの個所には、聖書新共同訳では「平和の王」という見出しが付いています。イザヤ書全体は66章から成る大きな書で、大きく三つに分けられますが、第1章から第39章までの部分は、紀元前700年頃にイザヤが預言した言葉であると考えられています。
 その時代に至るイスラエルの歴史を簡単に振り返ってみると、イスラエルは第2代の王であるダビデの時代統一した王国になりますが、その子どもソロモンが紀元前922年に死んだ後、王国は南北に分裂してしまいます。それからちょうど200年経った紀元前722年に北イスラエル国はアッシリアに占領されて滅び、更に紀元前701年には南のユダ国もアッシリアの従属国となっていきます。イスラエルを含む中東一帯はアッシリア帝国が支配する時代になりますが、アッシリアは強力な軍事力によって周辺諸国を圧倒し、その結果、中東一帯の争いは治まり、この地域に「アッシリアの平和」が訪れようとしていました。紀元前700年から紀元前650年頃の間のアッシリア帝国による諸国制圧の時代は「アッシリアの平和」の時代と呼ばれます。
 その頃、預言者イザヤは、軍事力を中心にした平和とは違う平和を訴えるのです。イザヤの説く平和は、武力で制圧することで争いがなくなるという意味での平和ではなく、天地の創り主である主なる神に源を持つ平和です。
 イスラエルの民にとって「アッシリアの平和」は、本当にその平和を喜べる時代ではありませんでした。イスラエルの民の中でも、国の独立とそれに基づく自立を願う人びとは、自分たちが他の国に征服された民であることを受け入れられず、何とかしてその支配を打ち破り、独立して自治を取り戻したいと願い、テロを起こす者もいたり、武力によってアッシリアに対抗しようと密かな企てを起こす者も出てきていました。しかし、預言者イザヤはそのような武力によって平和を創り出すことはできないことを見抜き、人びとに向かって主なる神の霊を源にして生かされるように主張したのです。
 イザヤは11章1節にあるように、「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。」と預言しました。
 「エッサイの株」ということについて触れておきましょう。
 イザヤの時代から約300年前、ちょうど紀元前1000年の時、主なる神はエッサイの子であるダビデを選び王とします。そして、イスラエルは第2代の王となるダビデによって統一した王国になりました。
 サムエルは初代の王であったサウルの後継者を探し、ベツレヘムのエッサイの家を訪ねます。サムエルはエッサイの息子たちの中から王とすべき人を捜しますが、神は王とすべき者をお示しになりません。サムエルはエッサイに「あなたの息子はこれだけですか」と尋ねますが、エッサイは「末の子が羊の番をしています」と応えました。サムエルはその末息子ダビデを連れて来させました。その時、主は「彼に油を注ぎなさい。これがその人だ」(サム上16:13)と告げ、サムエルはダビデに油を注いで、王になるべき者として聖別したのでした。「エッサイの株」とは、ダビデ家、ダビデの末裔を意味する言葉になっていきます。
 かつてダビデの時代にイスラエルは一つの王国になりましたが、その国が占領されて滅亡するかもしれない危機に瀕していても、ダビデの子孫から必ず新しく油注がれる者が起こされるとイザヤは預言しています。
 話は脇に逸れますが、この油注がれた者をメシアと呼んでいましたが、時代が経つ中でメシアは救世主の意味になっていきます。ヘブライ語のメシアをギリシャ語訳すれば「クリストス」であり、キリストは「油注がれた者」に発する「救世主」を意味する言葉になっていったのです。
 主なる神は王を選ぶ時に、武力、財力、外なる容姿によってではなく、羊を飼う者であったダビデを王として選びました。主なる神さまによって選ばれた人の上に主の霊が降りてその人に留まるのだと人びとに告げています。その人は11章2節に記されているような7つの霊の賜物、即ち知恵と識別の霊、思慮と勇気に霊、主を知り、畏れ敬う霊を受けて、それによって本当の平和を実現するのだとイザヤは言うのです。
 そして、これらの霊によって治められる世界は、6節にあるとおり、野獣と家畜が共に生きるイメージで語られており、それらを導くのは小さい子どもであるとイザヤは神のお考えを取り次ぎます。神がお選びになり主の霊を与えられた者が治める時、そこに働く原理は力の強い者が弱い者を支配し制圧して保たれる平和ではなく、弱く貧しく小さい者もありのままの自分を伸びやかに表現して生きることを原理とするのです。
 更にイザヤは、そのような理念を基本とする世界は「乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる」ようなイメージの世界なのだと言います。
 旧約聖書の創世記の初めには、はじめに創られた人であるアダムとエバがヘビの誘いに乗って禁断の木の実を食べて人間に罪が入り込んだ物語が記されています。その物語は、人が神から与えられた知恵が神から離れ、人間が自分を守り他者を裏切り支配するためにその知恵が用いられるようになると、そこに罪が入り込み罪が人を支配することを教えています。
 イザヤの言葉は、他の人を攻撃したり、操作して支配しようとする思いから自由である時に、神に創られたものは神の許に皆共存することを暗示しています。また、聖書の他の箇所を見てみると、蝮やヘビはイスラエルに攻め入ろうとする国やその王を表す意味でも用いられており、イザヤはこの個所で、武力と争いを完全に放棄した幼子のような在り方が、周りの人々と共に生きていく上でどれほど大切なことであるのかを語っているのです。
 このような表現によってイザヤが預言するのは、神が選び神のご計画のうちに現れる救い主は一切の暴力を否定する平和の主であり、国々はそのお方によって一つとされるということなのです。
 イザヤが預言したのは主イエスがお生まれになる700年も前のことであり、イザヤ自身がはっきりと主イエスを念頭に置いて預言したかどうかは分かりません。でも、主イエスは700年近くも前に既にイザヤが権力によらない平和を語ったことを知っておられました。そして、主イエスはイザヤを通して告げられた正義と平和を「神を愛し、隣人を自分のように愛する」ことによって実現してお働きになったのです。その結果、主イエスは権力者たちによって律法に背く者として裁かれ、十字架につけられしまいます。それでも主イエスは、その十字架の上からさえ御心を行うことを忘れず、最後には自分の全てを神に委ねて死んでいったのでした。
 イザヤが昔「エッサイの根から起こされる者」について語った時、イザヤは700年後に生まれるイエスをはっきりと意識していたかどうか分かりませんが、私たちは主イエスさまのお生まれ、生き様と死に様の中に神の御心が表れていることを知っています。そこから遡って旧約聖書の言葉を読んでみる時、イザヤの預言の中にやがて来たるべき救い主イエスのお姿があることをはっきりと確認することが出来るのです。
 先日、アフガニスタンでの医療奉仕に尽くしてこられた中村哲氏が襲撃され命を落としました。平和への貢献を武器によって破壊する罪は、昔も今も変わらないように思えます。
 主イエスがこの地上での生涯をお過ごしになったのは「ローマの平和」の時代でしたが、その平和も武力による平和でした。ローマによって征服された小さな属領で生まれた主イエスを救い主とする信仰は、その生涯と死の後、神と隣人を愛する人びとによってローマの世界に広く拡がり、やがて世界を動かす力になりました。
 私たちが、救い主を迎えようとする時、私たちがお迎えする救い主は、武力でもなく金銭によってでもなく、自分の存在を掛けて隣り人を愛することを通して神の御心をお示し下さった平和の主イエスであることをしっかりと確認し、イザヤの思い描いた平和の君としての御子の訪れを待ち望む者でありたいと思います。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 14:36| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする