2019年02月04日

エレミヤの召命   エレミヤ書第1章4〜10   C年 顕現後第4主日   2019.02.03  

エレミヤの召命   エレミヤ書第1章4〜10   C年 顕現後第4主日   2019.02.03
 
 今日の旧約聖書日課には、エレミヤ書のはじめの部分が取り上げられています。エレミヤは、若いときに主に召し出され、40年近く神の言葉を取り次いで働きました。エレミヤ書全体を読み通してみると、その生涯は辛く、苦しく、悲しくさえ感じられてきます。今日の旧約聖書日課はそのような預言者エレミヤが主なる神に召し出された箇所です。
 今日の聖書日課旧約は、エレミヤ書第1章4節からですが、お手許に聖書をお持ちの方は是非聖書のこの箇所をお開きください。旧約聖書p.1172です。
 まず、今日の聖書日課の前エレミヤ書第1章1節から3節を見てみましょう。
 この箇所から、エレミヤがどのような時代に生きたのか、またエレミヤがどのような家系の人であったのかが少し分かります。
 その第1章1節には、エレミヤはアナトトの祭司ヒルキヤの子であったと記されています。アナトトはエルサレムから北へ5キロメートルほどに位置する町で、レビ族の為に割り当てられました。祭司の務めは世襲制であり、イスラエル12部族の中のレビ族が担っていました。親のヒルキヤから子どものエレミヤへ、そしてその務めはエレミヤの子どもに受け継がれていくはずの家系にエレミヤは生まれ育ったのでした。そして、そのような背景を持つエレミヤが主の召し出しを受けて預言者としての働きを始めたのは、第1章2節によれば、「ヨシヤの時代、その治世の第13年のこと」でした。
 ヨシヤ王のこの時代、もしエレミヤが父ヒルキヤの祭司職を受け継ぎ、立身出世していこうとするなら、それは良い条件が整った時代だったと思われます。ユダ国の王ヨシヤは、その治世の第12年、つまりエレミヤが神の召し出しを受ける前の年に大きな宗教改革を行いました。この改革で王ヨシヤは神殿での礼拝を行うように徹底します。そうすることで国民の意識を一つにしようとする政治的な思いを含んだ礼拝の徹底であり強制であったと言えるかもしれません。その流れの中で、神殿での礼拝は重んじられ、当然その働きを担う祭司たちは社会的にも宗教的にも重んじられ、地位や名声も高まっていくことが考えられました。
 エレミヤが主の召し出しを受けたのはそのような時代でした。主の言葉がエレミヤに臨みます。今日の旧約聖書日課の箇所です。
 「わたしはあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。
 母の胎から生まれる前に
 わたしはあなたを聖別し諸国民の預言者として立てた。」
 これを聞いてエレミヤは尻込みします。アナトトに住む神殿祭司の息子であったエレミヤには「生まれる前から主なる神が自分を知り抜いておられ、狙いを付けて、諸国民に主の御言葉を取り次ぐために、主なる神ご自身がこうして自分に迫ってきている」などと、どうして信じられるでしょう。
 しかし、主なる神は人の思いを満たすためではなく、主ご自身の思いとご計画を成し遂げるために、エレミヤをとらえ「預言者として立てる」と言われるのです。更には、第1章10節にあるように、非常に重く厳しい預言の働きを、若いエレミヤに命じられるのです。
 「見よ、今日、あなたに諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。
 抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、あるいは建て、植えるために。」
 主は、エレミヤに、周辺の国々の興隆、繁栄から衰退、滅亡まで、全てについて主なる神のお考えを伝えるために権威を与え、主の言葉をエレミヤに授けます。
 若くてまだ力も経験もないエレミヤに、全世界を治める主の言葉を伝える使命が与えられますが、エレミヤには自分と世界をつなぐ言葉などとても語れないと思えます。もし、あるとすれば、それはただ主なる神が一方的にエレミヤを選び、主が一方的にエレミヤを預言者として立てて聖別なさると言うことだけです。
 私たちも、クリスチャンとして召されて神の御心のために働くのは、私たちに何か特別な才能とか資格があってそれを神さまが気に入ってくださったからなのではありません。
 エレミヤが召命を受けたとき、エレミヤは恐れおののき、尻込みしました。私たちも、もし神の御前で自分の小ささや罪深さと神の召し出しの重さをくらべたら、決して自分が主の言葉を取り次いだり神の働きを行うのに相応しいなどとは言えません。私たちは、弱い者であるが故に、また小さく罪深い者であるが故に、主なる神はその弱さ、小ささ、罪の赦しを通して、主ご自身が私たちの内に働いてくださる事を知って、その恵みを喜びとして生きているだけなのではないでしょうか。
 ヨハネによる福音書の第15章16節で、主イエスさまがこう言っておられる言葉があります。
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」
 私たちが、神を選んで、とらえて、神との交わりを得たのではなく、例え初めのうちはそう思えても、主なる神ご自身の方から弱く、小さく、罪ある私たちを選んでくださり、捕らえてくださり、用いてくださっていることが分かるようになります。
 エレミヤは、「ああ、わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者に過ぎませんから。」と言います。
 その時、主なる神は9節にあるように、ご自分の手を伸ばして、エレミヤの口に触れ、こう言われます。
 「見よ、わたしはあなたの口にわたしの言葉を授ける。」
 主なる神ご自身がエレミヤを選び、主なる神ご自身が語るべき言葉をエレミヤに授けておられます。このようにして、主なる神がお遣わしになるのだから、誰の所へ、何処へ遣わされようとも、行って語るべきことを全て語れ、と主なる神はエレミヤに命じておられます。
 こうして召し出されたエレミヤは、主なる神の言葉を取り次ぐ器となります。エレミヤ自身が語るのではなく、エレミヤが口にする言葉は主がエレミヤを通して語られるのです。
 エレミヤが主の言葉を取り次いで語れば、それを聞く人びとの心に何らかの大きな出来事を引きおこします。エレミヤは人々のその反応をもまた背負うことになります。それは多くの場合、喜びや感謝ではなく、恨みや反発や抵抗となってエレミヤに返ってきます。でも、そのような務めを担う者に対して、主の約束があるのです。
 「彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す。」
 もはやエレミヤが語るのではなく、若くて、弱くて小ささを自覚するエレミヤを通して主ご自身が語るのです。主ご自身が弱く小さな器を通して強く大胆にお働きくださるのだから、主ご自身がその人と共にいて必ず救い出し、その責任を主ご自身が引き受けてくださる、と神はエレミヤに約束なさいます。
 主なる神は、ご自身の御手を伸ばしてエレミヤに語るべき言葉をお与えになりました。その同じ主なる神が私たちにも働いておられます。また、主なる神は主イエスを通してご自身のお体を裂いてくださり、私たちに命を与えてくださいます。
 「わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す」とエレミヤに約束された主の言葉は、私たち一人一人にも向けられています。「わたしがあなたと共にいて必ず救い出す」と言ってくださる主なる神の言葉を、私たち一人一人に向けられた召し出しの言葉として受け入れ、共にいてくださる神に導かれて日々の歩みを御心に適うものとなるように歩んで参りましょう。
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2019年01月30日

「恵みの年」の宣言  ルカによる福音書第4章14〜21 C年 顕現後第3主日   2019.1.27

「恵みの年」の宣言
ルカによる福音書第4章14〜21 C年 顕現後第3主日   2019.1.27

 主イエスの宣教の働きはガリラヤ地方から始まりました。主イエスは、ガリラヤの町々、村々を巡り歩いて神の国を説き、癒やしや清めのお働きをなさいました。その当時、ガリラヤ地方はイスラエルの首都エルサレムからみれば「辺境の地」でした。この地方で主イエスの評判は直ぐに知れ渡り、多くの人が主イエスの許に集まってくるようになっていました。
 今日の聖書日課福音書は、主イエスがある安息日に会堂(シナゴーグ)にお入りになって、聖書を読み、教えを説いたときの場面です。その日、主イエスが朗読し、教えを説いた御言葉はイザヤ書第61章1節と2節です。今日の福音書の中では、ルカによる福音書第4章18節以下がその引用になっています。18節の途中からお読みしてみます。
「主が私を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を告げ、
 目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、
 主の恵みの年を告げるためである。」
 この箇所の中で、今日、特に注目したいのは、19節にある「主の恵みの年」という言葉です。
 この「恵みの年」とは「ヨベルの年」とも言われてます。主イエスの時代やもっと古いイスラエルの人々は、この「恵みの年」「ヨベルの年」という言葉からすぐに思い浮かべることがありました。それは、50年に一度やってくる年のことで、元々「ヨベル」とは「雄羊の角」を意味しており、50年に一度やってくるこの年の訪れがその角笛によって告知されたのでした。この年は「解放の年」とも呼ばれ、「ヨベル」は英語の「ジュビリー」という言葉の語源にもなっています。
 50年に一度の年がくると、イスラエルの律法に基づいて、国中の全ての人が完全に自由にされ、奴隷は解放され、借金は帳消しにされるのです。この「ヨベルの年」については、レビ記25章9節以下に載っていますので、是非後で詳しく読んでみて下さい。
 このラッパの音と共に奴隷であった人は完全に自由解放の身になります。また借金のかたに取った土地や財産はみな無条件にもとの持ち主に戻されます。イスラエルの民は、神から受け継いだ財産をこの様なやり方で財産を管理し、権力が一人の人の手の内に集まることを防いだのでした。また、生まれながらに先祖が抱えて引き継いだ負債によって新しく生まれた人の一生が無駄になったり空しくなったりすることがないようにもしたのでした。このような「恵みの年(ジュビリーの年)」を50年に1度設定した土台になる考えは、今申し上げたとおり、人は皆等しく神によって創られた存在で、神に創られた世界の中に生かされており、人が人として生きていくことに反する束縛や重荷から解放される必要がある、ということでした。
 ところが、こうした恵みの年(ヨベルの年)は時代が降ってくると行われたはいなかったようなのです。主イエスがガリラヤで宣教の働きをお始めになった時代にも、この「恵みの年」が実行されていた記録はないようで、律法が形式化している時代であったとも言われています。
 福音書の物語を思い起こしてみましょう。
 その頃、安息日には、村々の会堂では集会があり、決まった時間にユダヤ教の教師や村の世話役によって聖書が朗読され教えが説かれました。この日のナザレの会堂では、主イエスが手渡された巻物を受け、イザヤ書第61章の箇所を朗読なさいました。人々はイエスに注目しています。主イエスは「恵みの年」を告げる箇所を短く朗読なさって、その巻物を巻いて係の者にお渡しになりました。人々はイエスが何をお話になるのか注目しています。
 主イエスは開口一番「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき実現した」と話し始めました。会堂の中はざわつきました。
 イエスはこういう意味のことを言ったのです。「主の恵みの年」つまり「ヨベルの年」とは、数字の上で50年が過ぎれば機械的にやってくるようなものではなく、今、ここで、この聖書の言葉を私の言葉として聞く人にはその通りに実現た、と。更に言えば、主イエスは「御言葉を聞くことの中に神が私たちに今この場で働き、私たちを解放し、目を開いてくださる」と言っておられるのです。
 聖書の言葉は、いつか後で私たちの日常生活で役に立つ格言ではありません。聖書の言葉は、私たちがその御言葉を聞いている、今ここに神がおられ、御言葉をとおして働いてくださり、私たちをあらゆる囚われから解放してくださるのであり、その意味で「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、、実現した。」と主イエスは言われたのです。
 主イエスは、イスラエルの律法の中では50年に一度のはずのヨベルの年が、今日、この御言葉を聞くあなたたちの中に実現した、と宣言なさいました。
 これは聞く人々にとって大きな驚きでした。
 ひとつは、旧約聖書の文字の中の上では知っていながらその精神を生きることを忘れていた人々に、主イエスは今こそ神は人があらゆる束縛や重荷から自由になって解き放たれるのだと宣言し、聖書の文字を目覚めさせ聖書の言葉を人々の心に突きつけたことで、人々は驚きました。
 もう一つは、イエスの言う「主の恵みの年」は単に財産を昔のように戻したとか身分が奴隷でなくなったという事柄ではなく、人の財産を奪うことや人の身分を自分の権力の下に置いてその人が人間らしく生きることを妨げていることに無感覚でいるような、人の内面にまで及ぶ人自由と解放を告げていることに、人々は驚きました。
 主イエスはこのような解放の宣言によって、人は本来誰もが神の前に解放されており自由であることを人々に告げておられるのです。主イエスのこの宣言を受けて多くの人が心を揺さぶられました。主イエスの宣言は、人間を神がお与え下さった本来の姿に戻す言葉です。そしてそれは今から2000年近く前の人にとってだけのことではなく、この礼拝の中で聖書の御言葉を受ける私たちにとっても同じ事なのです。
 主イエスの御言葉によって揺さぶられた人の内の幾人かは更に深く主イエスの御言葉を慕い求めて生きるように促されていきました。でも、他の多くの人は主イエスの御言葉によって自分を問われることを拒み、これまでの自分にしがみついて主イエスに抵抗するのです。
 今日の福音書の箇所から更に読み進んでいくと29節で、会堂で主イエスと論争した人々はイエスを山の崖まで連れていってそこから突き落とそうとしたと記しています。
 でも、そのように主イエスの御言葉を拒む人は、自分は心の深いところで神と関わることの何に怖れているのかを、御言葉の前に静まり自分の心に起こっている出来事を深く見つめて祈る必要があるのではないでしょうか。主イエスさまは、主イエスと出会いその御言葉を受け入れることの中に、恵みと解放が訪れることを宣言しておられるのです。
 私たちは、恵みの年を告げる主イエスのこの御言葉を他ならぬ自分の赦しと自由を与えて下さる宣言として受け入れましょう。そして、そのように受け入れることが出来るのなら、私たちはそれをただ自分の内的なことに留めるのではなく、主イエスと共に、神さまのお考えになる世界を実現していくために自分は具体的に何をすべきなのかと祈り求め、神と人々に愛をもって関わっていくことへと促され導かれていきたいのです。
 主イエスの解放の年の御言葉を喜びをもって受け入れ、御言葉によって生かされることへと導かれていきたいと思います。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 04:48| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年01月21日

婚宴の祝福  ヨハネよる福音書第2章1−12   顕現後第2主日   2019.01.20

婚宴の祝福
ヨハネよる福音書第2章1−12   顕現後第2主日   2019.01.20

 今日の聖書日課福音書のヨハネによる福音書第2章1節からの箇所には、婚礼の席でブドウ酒が無くなってしまったときに、主イエスが水をブドウ酒に変えてその婚礼を祝された物語が記されています。
 その当時、婚礼の宴は一週間から10日ほど続いたと言われています。その間に家族や親族をはじめ、多くの人が入れ替わり立ち替わり新郎新婦を祝うためにやってきます。ガリラヤ地方のカナで開かれたこの婚宴の中に主イエスと母マリアも居ました。宴もたけなわというとき、マリアはこの喜ばしい宴を支えるはずのブドウ酒か無くなってしまったことを知りました。マリアは主イエスに言います。
 「ブドウ酒がなくなりました。」
 主イエスはその家にある6つの水瓶に水を一杯にするように告げました。家の召使いたちは、主イエスに言われたとおり、6つの瓶に水を満たしました。すると主イエスは召し使いに「さあ、それを汲んで、宴会の世話役のところに持っていきなさい」と言ったのです。召し使いは言われたとおりその水を世話役のところに持っていくと、水は特別上等のブドウ酒に変わっていました。世話役は言いました。「こんなに良いブドウ酒を今までとっておいたのですか。普通は初めに上等のブドウ酒を出して、酔いが回った頃には劣ったものを出すものでしょう。」
 こうして主イエスは、神の子としての最初のしるし(奇跡)をなさり、神の御心を宣べ伝える働きをお始めになっていったのです。
 いつの時代でも、またどこの国でも、婚宴は最も喜びに溢れた華やかな時の一つです。聖書でも幾つかの箇所で、神と人が結び合わされる喜びと感謝を結婚の花婿と花嫁とに例えています。しかし、その宴がどれほど盛大であり華やかであったとしても、それが人の手の業である限り、やがて終わりの時を迎えます。私たちも一生晴れ着を着て宴の上席に座り続けることなど出来ませんし、仮にそうできたとしても、やがてはその人生も終わりの時を迎えることになります。今日の福音書では、婚宴の真っ直中でブドウ酒が尽きてしまいますが、それと同じように、華やかな人生の真っ直中にでも、人生という舞台の「終わりの時」はやって来るのかもしれません。華やかな喜びの宴もいつかは終わります。人生の華やかな時代もいつかは終わります。私たちの体でさえ、例え今はどんなに健康であっても、いつかは尽きる時が来ます。
 それでは、華やかな宴も、またそのような宴に例えられる人生や命そのものも、一切が「無」に帰してそれでお終いなのでしょうか。そして、今日の福音書も、私たちの一生やそこでの出来事が取るに足りないものであり、意味もなくはかない事に過ぎないと教えているのでしょうか。
 そうではありません。
 今日の福音書の中で、主イエスはマリアから「ブドウ酒が無くなりました」との知らせを受けた時、その家にあった6つの瓶に水を満たすように指示しておられますが、この「6つの石の水がめ」に注目してみましょう。その水がめは「ユダヤ人が清めに用いる」ものであると記されています。ユダヤ人は、食事の前には僅かな量の水で、(鶏卵一つほどの量であったと伝えている本もありますが)手を清めていました。それは、衛生の面からのことではなく、ユダヤ教の習慣に従って行われる清めの儀式であって、どこの家でもそのために水がめが置いてあり、そこに水が蓄えられていました。そのかめの数は「6つ」です。数字の7はしばしば象徴的な完全数として用いられます。例えば、主なる神が天地を創造なさった時、7日目に神はお創りになったこの世界を祝福して安息なさっています。そのような数字である7を思いつつ、6つの水がめのことを考えてみると、婚宴の真最中にブドウ酒が尽きてしまっても、何の役にも立たず中途半端に水を蓄えているに過ぎないこの水がめの姿を思い描くことが出来ます。おそらく婚宴の始めには、多くの人がユダヤの清めの習慣に従って手をすすぐためにこの石がめの水を用いたことでしょう。でも、その後、この水はこの喜びの宴の中では用をなさず、顧みられなくなっています。婚宴のブドウ酒が無くなってしまったという危機の場面では、誰もこのような石のかめの水のことなど気に留めていなかったことでしょう。
 でも、この水瓶も主イエスのお働きのために新しく用いられるのです。主イエスは「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われました。召使いたちがその言葉の通りにすると、かめの水は最高級のブドウ酒に変わりました。6つの水がめは、主イエスのお働きに用いられることによってユダヤの習慣をはるかに越えて役立ち、この婚宴を支える大切なブドウ酒を満たす器となったのです。しかも、この水がめの中のブドウ酒は、それまで振る舞われていたブドウ酒よりもずっと質の良いものであり、この婚宴の喜びはなお一層大きくなったことでしょう。
 このようなことから考えて、この物語は、6つの水がめに象徴されるユダヤの習慣が主イエスによって本当の婚宴の喜びと祝福へと変えられたことを伝えていると言えます。しかも、婚宴は旧約聖書の時代から、神と人との喜ばしい関係を表現する例えとしても語られてきました。神と私たちの関係は旧約聖書の律法を形式的に守ることでは十分なものにはなりませんでした。それが主イエスよって、全く質の異なる喜びへと変えられるのです。主イエスによって神と私たちの関係はもっと豊かなものとなり、料理長でさえその恵みがどこから来たのか気付かない中でこの婚宴が祝されています。主イエスのお働きは、目立たないにもかかわらず、宴の根底を、つまり私たちの人生を、確かに支えていただく恵みなのです。
 このようにして主イエスは神の子としての初めてのしるしを表されました。ガリラヤのカナで主イエスが示された最初のしるしは水をブドウ酒に変えるものでした。その主イエスはこの世の御生涯の終わりの時にもブドウ酒を用いて、弟子たちに記念の式を残され、ブドウ酒をご自身の血として弟子たちにお与えになりました。それまでは主なる神さまと人との関係は、律法によって結ばる関係でした。その関係が主イエスの十字架の血によって愛と信頼の関係へと変えられるのです。今日の聖書日課福音書は、私たちと神との関係が、主イエスによって律法に基づく関係から神の愛に基づく祝福へと変わっていくことを教えているのです。
 今日の福音書から、私たちの人生そのものが、その宴であると考えてみましょう。私たちは、この世の舞台の上で生かされています。その宴の真直中にあってさえ、ブドウ酒は尽きるかも知れません。そして私たちは自分の力の限界を知ります。でも、私たちはその時になって、何が、そして誰が、本当に自分を支え祝してくれるのかを考えて、主イエスに生かされていることを改めて知り、このお方を救い主として生きる事へと導かれるのです。主イエスは私たちの人生という宴をご自身の血を流すほどの愛によって支えて下さっています。それは、主イエスご自身の欲望を満たすためではなく、私たちの宴に神の御心が顕されるようにとその宴の台所から、私たちの背後から目立たずに私たちの人生という宴をお支え下さるのです。
 今日の聖餐式を通して私たちは主イエスが用意してくださった体と血を受け、私たちの人生の宴を祝福して支えてくださっている主イエスさまに感謝して、この祝福にお応えする信仰の歩みを進めて参りたいと思います。
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