2020年08月09日

預言者の務め  ヨナ書2:2−10  聖霊降臨後第13主日(特定14)  2020.08.09

預言者の務め  ヨナ書2:2−10  聖霊降臨後第13主日(特定14)  2020.08.09
 
 今日は、福音書から離れて、旧約聖書日課のヨナ書から学び導きを受けたいと思います。ヨナ書は旧約聖書の中で「預言書」の中に分類されていますが、物語としての面白さもあり、私は、幼稚園で、夏休みが近づく頃に、毎年のように、海に行く機会も多いと思われる子どもたちにヨナの物語を話しています。
 今日の聖書日課はヨナ書の第2章が取り上げられていますが、第2章2節に「ヨナは魚の腹の中から自分の神である主に祈って、言った」と始まっています。
 このようにヨナが「魚の腹の中から自分の神である主に祈る」に至る過程を簡単に振り替えてみましょう。
 ヨナは、神の言葉を述べ伝える人でした。神は預言者ヨナに「大いなる都ニネベへ行ってこれに呼びかけよ」と話しかけてこられました。ニネベはアッシリア帝国の首都であり、チグリス川の中ほどにある大きな町であり、イスラエルの人々には「非常に大きな町」として知れ渡っていました。
 紀元前705年に当時の王センナケリブが首都に定め紀元前612年に滅亡するまで繁栄を極めた町であると伝えられています。ヨナ書の中の「ニネベ」とは、人間の創り上げた文明とそれを誇って高慢になる人間の姿を象徴すると考えられます。
 ヨナは、主なる神から、ニネベに行ってニネベの悪を伝えるように命じられましたが、ニネベへ行くことを嫌がり、この使命から逃れようとしてニネベとは反対方向に向かうために、人々に紛れてヤッファの港からタルシシュへ向かう船に乗りこんでしまいました。ところが、船が港を出ると大風が吹いて海は大荒れになり、船は沈むばかりに揺れ始めます。人々はみな自分の神に祈り荷物を捨てて船を軽くしようとするのですが、ヨナは船底に隠れて寝込んでいました。ヨナは船長に起こされ自分の神に祈るように促され、また、人々はこの災難の原因が誰にあるのかをはっきりさせるためにくじを引くことになりました。すると、ヨナがそのくじに当たりました。ヨナは自分がなぜこの船に乗っているのかを彼らに話し、自分を海に投げ込むように告げました。人々はヨナの言葉どおりにするほかなく、ヨナを海に放り込みました。すると、それまで荒れ狂っていた海は静まり、船の人々は神を恐れ敬ったのでした。
 ここで神の言葉を語らなかった預言者ヨナの命運は尽きたと言えるでしょう。
 このような第1章を受けて、第2章はヨナが巨大な魚に呑み込まれ、三日三晩その魚の腹の中で祈っていた言葉が取り上げられています。
 今日は、この言葉の一つひとつを吟味する余裕はありませんが、ヨナが大きな魚のお腹の中で、改心し祈っていることに注目してみましょう。ヨナは、7節で「しかし、わが神、主よ、あなたは命を滅びの穴から引き上げてくださった」と祈り、また10節で「わたしは感謝の声をあげ、いけにえをささげて、誓ったことを果たそう。救いは主にこそある。」と祈っています。ヨナは、自分が神から与えられた使命を知りながらそこから逃れて隠れることは、死に呑み込まれることに等しい事を悟りました。
 ヨナは、三日三晩大きな坂の腹の中で祈り通しました。主なる神は魚に命じて、ヨナを陸に吐き出させました。ヨナはニネベに向かいます。
 物語は第3章に入ります。主なる神はもう一度ヨナに臨みます。
 「さあ、立って、あの大いなる都ニネベに行き、私があなたに語る宣言を告げよ。」
 ヨナは主の命令どおり、直ちにニネベに向かいました。ニネベは大きな都で一回りするのに3日かかりました。
 ヨナは、主から「このニネベの町の悪がわたしの元に届いてる。」と告げられていたので、ニネベの人々に向かって「あと40日すれば、ニネベの都は滅びる。」と告げて回りました。するとニネベの人々はヨナの言葉によって王も大臣も心を入れ替え、町には断食が呼びかけられました。
 町中は王と大臣の名によって出された布告に従い、みな悪を離れ、不法を捨てて、ひたすら神に祈りをささげたのでした。
 主なる神はニネベの人々が悪の道から離れたことをご覧になって思い直され、宣告した災いを降すのを思い直し、そうはなさらなかったのです。
 ヨナは神のなさったことに不満でした。自分が神から託された言葉を取り次いで語ったのに、神はその通りになさらず、語ったことが実現しなかったことをヨナは怒り、主なる神に次のように訴えたのでした。
 「あなたはわたしを用いてあなたの裁きを訴えました。それなのにわたしが伝えたあなたのみ言葉は実現しなかったのです。あなたのみ言葉が実現せず、わたしは面目丸つぶれです。」
 ヨナは、都ニネベの町の外に小屋を建て、日差しを避けて小屋の中から都に何が起こるのか眺めていました。すると、「とうごま」の蔓が伸びてきて、照りつける日差しを遮る木陰ができ、ヨナは喜んでいました。しかし、神はこのとうごまの木を虫に食い荒らさせて、とうごまは枯れてしまいます。ヨナは焼け付く日差しと熱風に耐えきれず、主なる神に向かって「生きているよりも、死ぬ方がましです。」と不満を訴えますが、主なる神はヨナにこうお告げになりました。
 「お前は自分が育てたわけでもないとうごまさえ惜しんでいるのなら、わたしがこの都ニネベを惜しまずにいられようか。そこには十二万人以上の右も左もわきまえぬ沢山の人と家畜がいるのだから。」
 以上がヨナ書のあらすじです。
 私はこのヨナ書から、預言者の使命とは何かを教えられているように思います。つまり主なる神の御心を知り主なる神の御心を自分の使命として生きる者は、他の人々の中で何を大切にして生きるべきかを問われているように思います。
 人間は弱い者であり、神の御心が何かを真剣に考えるとき、第1章に記されているヨナのように、神のみ前から逃げ出して人々の間に隠れたり、一人船底に逃げて隠れていたくなるような者なのかもしれません。そして、真剣に人々に神の御心を取り次いでいる間にも、第4章に描かれているヨナのように、つい自分中心になって、主の御心が成し遂げられることよりも自分の面子が保たれることや自分の業績が認められることを求めてしまう者なのではないでしょうか。
 ヨナ書の舞台になっているニネベは、はじめに少し触れたとおり、古代アッシリアの大都市で繁栄の象徴として語られる町でした。殊にイスラエルの民にとって、ニネベは自分たちの存在を脅かす国の大都市であり、選民意識を強く持つイスラエルの民からみれば、ニネベが救われる物語など本来受け入れ難いものであったに違いありません。そのような異国の町についてさえ、主なる神が本当に求めておられるのは、人々が神の御心に立ち返ってその神の御心によって生きることにあります。預言者の働きは、事態が自分が予告したとおりになって自分の「してやったり!」という思いが満たされることではありません。
 私たちが生きることは、主の祈りの言葉にあるとおり、「御心が天に行われるとおり、地にも行われますように」と生きることであり、御心が行われるように生きる自分を姿を人々に見せつけたり、御心に従って生きる自分を誇ることが目的ではないのです。
 このように考えてみると、わたしたちは自分の信仰生活はヨナの姿に重なってくるのです。
 ヨナ書の最後は、「あなたはとうごまさえも惜しんでいるが、わたしはニネベの町を惜しまずにいられようか」という神の言葉で終わっていますが、この言葉にヨナがどのように反応したのかは記されていません。
 主なる神は、ご自分に対する信仰を持つ人だけが救われることを願うのではなく、異教の人も、悪を離れて御心に立ち返って生きることを切に願っておられます。そして、神は、私たちがたとえその働き人として不完全であっても、私たちを用いてくださっていろいろな経験や気づきを与えてくださり、「御国が来ますように」とその器となって生きるように導いてくださっているのではないでしょうか。
 私たちもヨナと同じように、主なる神から与えられた使命の重さに逃げ出したくなったり、神に向かって不平や不満を口にしたくなったりも致します。それにも関わらず、主なる神はご自身御手によってお創りになったこの世界とそこに生きるものすべてを愛し慈しんでおられることを改めて思い起こしてみましょう。そして、み言葉を取り次ぎこの世界に証ししていく私たち一人ひとりが、主なる神に等しく愛され生かされていることを受け入れ、神の御心をこの世界に示していくことへと生かされて参りましょう。
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2020年08月03日

5つのパンと2匹の魚 5つのパンと2匹の魚  聖霊降臨後第9主日(特定13) 2020.08.02

マタイによる福音書14:13−21
5つのパンと2匹の魚  聖霊降臨後第9主日(特定13) 2020.08.02
 
今日の聖書日課の福音書には、主イエスが僅か5つのパンと2匹の魚をお受けになって、5千人を養い、みんなが満腹し、その残りだけでも12の籠に一杯になった物語です。この話は、聖書の中でも最も有名な奇跡物語の一つであり、4つの福音書全てに採り上げられています。それだけ昔からこの物語によって多くの人が励ましを与えられ力付けられて来たのです。しかし、この物語は、現代人にとってはあまりに荒唐無稽な話に思われ、その意味するところがなかなか理解されなくなってしまっているように思われます。
 私はこの物語を読んでいると、主イエスが教えてくださっていることやなさることは、未来に開かれ希望に溢れていることを思い、この物語によって自分が自由にされ、力付けられる思いが強められるのです。
 この物語をもう少し詳しく振り返ってみましょう。
 主イエスの周りには沢山の人々が集まってきました。主イエスの話をもっと聞いて慰められたい、力付けられたいと思う人や、主イエスに病気を治していただきたい、癒していただきたいと願う人が大勢いたのです。主イエスがどこへ行ってもそうした大勢の人が後を追ってきます。主イエスはその人たちをご覧になって心を痛めて、病気の人たちに手を置いて祈ったりしておられました。いつの間にか日も傾き始めます。弟子たちは、もう暗くなってくるし、こんなに大勢の人たちが一体どのようにして食事をしたり夜を過ごすのだろうと思うと心配になり、主イエスさまに言いました。
 「もう夕方になりました。こんなに寂しいところに大勢の人がいても食べる物もありません。もう家に帰るように皆に言いましょう。そうすれば彼らはそれぞれに村に行って食べる物を手に入れることも出来るでしょう。」
 すると、主イエスは弟子たちにこう言ったのです。「帰らせることはない。あなたがたがこの人たちに食べる物を与えなさい。」
 弟子たちは驚いて主イエスに言いました。
 「こんなに大勢の人がいて、食べる物はパンが5つと魚が2匹だけ。これしかないのに、こんな大勢の人のためにはいったい何の役に立つでしょう。」
 主イエスは言いました。「それをここに持ってきなさい。」
 そしてみんなを草の上に座らせて、主イエスはそのパンと魚を取って、祈りをささげ、パンを裂いて弟子たちにお渡しになりました。弟子たちはその周りに座った人たちにパンを与えていくと、沢山いた人たちみんながお腹一杯になり、残りを集めると12籠に一杯になったのです。そのパンを食べた人は、男の人だけでも5千人もいたのでした。
 主イエスは、このようにして大勢の人々にパンと魚を与えて養ってくださいました。
 弟子たちは、主イエスに「あなた方が食べ物を与えなさい。」と言われ、困惑したことでしょう。男の人だけでも5千人をこんなに大勢の人を前にして、弟子たちは5つのパンと2匹の魚だけでは何の役にも立たないと考えて、弟子たちは主イエスに「ここにはパン5つと魚2匹しかありません。」と訴えました。今、目の前にあるパンと魚をそのままみんなに分けるとしたら、男の人だけでも5千分の5、つまり千分の一にしかならず、それでは誰も何も食べられないのと同じ事です。
 でも、主イエスは「それをここに持ってきなさい」と言われます。弟子たちにとってはほんの僅かで役に立たないと思えるものでも、主イエスはその食べ物をお受けになり、神さまを誉め称えて感謝しパンを裂いて弟子たちを通してみんなにお与えになろうとしておられます。
 私たちは先主日の聖書日課福音書で「天の国はからし種に似ている」と教えられました。砂粒ほどの小さな種でも、その中に命があり、神さまのご計画によって育つと、その背丈は5メートル近くにもなり、そこに鳥が来て実をついばんだり羽を休め、鳥が巣を作るほどにもなるというたとえ話しでした。主イエスは「天の国はからし種に似ている。」と教えてくださいました。
 神さまのお考えにかなうことであれば、初めのうちは砂粒ほどの可能性しかないように見える小さな事からでも、神はその働きを育て、鳥が巣を作るほど豊かにして下さるのです。
 今日の奇跡の物語でも、はじめはパンも魚もほんの少しで、人の目にはそれだけでは何の役にも立たないように見えました。でも、主イエスさまは、僅かなパンと魚であっても、それを神さまの働きのために献げられている事をお喜びになり、そのままお受けくださいます。すると、僅かで何の役にも立たないように思えたパンや魚でも、沢山の人を養うことへとその働きはひろがっていくのです。そして、主イエスさまがいてくださるところは神の国の豊かさが広がり尽きないことを、主イエスさまご自身がパンと魚を沢山ふやして教えてくださったのです。人の目には取るに足りないと思える僅かなものや小さいものでも、神さまの働きのために用いられるとき、こうして天の国の姿を現すまでなることを、主イエスさまご自身が示してくださったのです。
 私たちも、一人ひとりの力は弱かったり限りがあるけれど、だからといって主イエスさまはそのような私たちを「ダメだ」と言ったり「必要ない」とは言いません。主イエスさまは、五千人を前にした5つのパンでさえみんながお腹一杯になり喜びに満たされるために使ってくださるのです。私たちも自分の心、考え、持ち物など神さまの大きな働きの中で使っていただこうとする時、主イエスさまはそれを喜んでお受けくださり、そこに天の国の姿が現れてくるのです。
 しかも、残ったパンの屑は、集めると一二の籠にいっぱいになりました。「一二」とは、イスラエルの部族の数であり主イエスさまの働きを引き継ぐ使徒の数です。主イエスさまの手から増えたパンが一二の籠に満ちあふれているという事は、主イエスさまが人々を憐れむ思いが具体的な働きとなるとき、それを受け継ぐ弟子たちの中に大きくなり、溢れて引き継がれていくことを示しています。
 この説教の準備をしていると、そのイメージは、先週の聖書日課福音書から受けたメッセージと重なってきました。先週の聖書日課福音書では、神の国とは、小さなからし菜の種が鳥が巣を作る場所になるまでに育つことに例えられていました。そして、今日の福音書では、天の国は主イエスの手によって僅か5つのパンと2匹の魚さえ起こされ育つことを教えられます。
 この二つのことを考えると、天の国は主イエスの御言葉の成長にあると同時に、御心を行うところに実現していくことを教えられていることが分かります。
 私たちは、天の国の大きな働きの中に置かれており、たとえ一人ひとりが弱く小さいとしても、私たちは神さまのお考えの中で天の国を実現する働きの中に置かれていることを喜び感謝することが出来るのです。弟子たちが、「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」と言ったとき、主イエスは「それをここに持ってきなさい。」と言われました。「ここ」とは、主イエスのおられる場所です。僅かなパンと魚も主イエスの手に受け取っていただけるのです。それが、小さいからとか少ないからとか、決して馬鹿にされたり粗末にされたりしないことが分かります。小さな自分が神さまの大きな働きの中で用いられ生かされ、やがて予想もできなかった大きな働きになっていきます。
 僅かなパンと魚でも天の国の大きな働きに用いて生かしてくださる主イエスに、私たちも自分自身をお献げし、神さまの豊かで大きな働きの中に生かされる喜びに導かれましょう。
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「天の国」のたとえ  マタイによる福音書13:31−33,44−49a 2020.07.26

「天の国」のたとえ  
マタイによる福音書13:31−33,44−49a   聖霊降臨後第8主日(特定12) 2020.07.26
 
 主イエスは、今日の聖書日課福音書で、「天の国」について、いくつかの例えによって語っておられます。
 主イエスが用いた例えの題材は、からし種、パン種、畑に隠された宝、見つけた良い真珠を何としてでも手に入れようとする商人、魚を囲み入れる網、などです。
 これらを合わせて考えてみると、初めのうちは小さくかつ隠された神の御心が直ぐにはそれと分からないけれど、それは何物にも替えられない大切なことで、一度その素晴らしさを知れば、その実現のために人を促し、やがてはその実現に努めた者が神の恵みに満たされることになる、というイメージがおぼろげながら浮かんできます。
 例えの題材は、どれも当時の日々の生活の中で、人々が目にすることでした。
 その中でも、先ず「からし菜」という植物について取り上げてみましょう。
 「からし種」という植物は、日本語で言えば「菜の花」と言う程度の意味で、アブラナ科の植物全般を指す言葉です。パレスチナではこのアブラナ科の植物を育て、その種から「菜種油」を搾り取りました。特に「クロガラシ」は、一年草でありながら4〜5mの見上げるような背丈となり、そこに鳥がやってきて種をついばむようになります。このように育つ「からし菜」を人々は「からしの木」と呼びました。それほど大きく育つクロガラシですが、その種の大きさは、砂粒ほどに小さいのです。
 主イエスはこの植物を例えにして天の国について語っておられます。
 からし菜の種は、砂粒ほどの小さい種ですが、その一粒の中には人の目には不思議に思える生命力と命のプログラムが内在しています。種の外側からは見えないけれど、どのように芽を出し葉を出し花を咲かせて実を結ぶのか、その種粒の中に神の計画が見事にプログラムされています。私たちが種を育てる時に出来ることは、この神の計画が最も良い姿になるようにすることであり、人がそのプログラムを無理に変更することはできません。私たちがすべき事は、種そのものの持っている成長力が十分に引き出せるように水、土、陽の光といった条件を整える事です。そうすることによって、種は予め神の定めた力によって芽を出し、茎が育ち、葉を繁らせます。人が花が咲くようにからし菜のつぼみを無理矢理開ければ花は咲くどころか、邪魔するだけになってしまうでしょう。
 主イエスは「天の国はからし種に似ている」と言われました。天の国とは、どこか特定に領土や地域を意味しているのではなく、神さまの御心が支配し、神さまの御心によって治められている姿のことを意味します。そこでは、休み所もなく空を飛び回っていた鳥が羽を休め、安心して巣を作ることさえ出来ると、主イエスは言っておられます。
 私たちは、自分の目の前にある大きな課題やその困難の前で、自分の弱さや力のなさを感じる時があります。神さまの御心を自分の身を通して示していこうとしても、自分一人の力ではどうにもならないと思えるような時もあるでしょう。そのような私たちに、主イエスは「天の国はからし種のようなもの」であると言ってくださっています。私たちは、周囲の厳しい現実の中で悲観的になって立ちつくしてしまうのではなく、たとえ見た目にはどんなに小さな可能性であっても、それが「からし種」(つまり神が予め用意されたプログラム)であれば、その現実を生き抜くことが天の国の実現につながるのです。今はからし種の一粒のように小さく見えようとも、そのからし種が神の御心を将来に展望する本物の種であれば、いつかは神さまのご計画によって大きな実りが与えられることを確信して生きていくことができます。
 「からし種」の例えは、私たちが現実に立ち向かっていく勇気と希望を与えてくれています。例えからし種一粒のように小さな思いであっても、もしそれが神の御心であれば、その希望は少しずつ状況を変え、難しいと思われる現実を動かし、神の御心へと向かう変化を生み出します。
 この「からし種」の例えは、ただの例えに留まらず、主イエスご自身が十字架の死と復活を通して神の国が実現することをも暗示していると考えることが出来ます。
 主イエスが十字架の上で示してくださったお姿の中に、神の子の姿を見出し、そこに神の国が生まれていることを見た人がいました。そして、主イエスこそこの世界の命の種であると理解した人々が次第にそのグループを成長させ、そこで多くの人々が憩いと安らぎを得て、新しく生きる力を得るようになりました。このからし種の木の中の巣こそが初代の教会です。先ず主イエス自身が、「からし種」の一粒のようになってこの世界にまかれ、その教えと生き方はやがて大きな木に育ちました。ここに天の国の姿があります。
 「天の国」の例えの後半部分第13章44節以下には、天の国の素晴らしさを知った者がそれを得るために全てを投げ打つ姿が例えで表現されています。
 第13章44節の御言葉に注目してみましょう。「喜びのあまり、行って持ち物をすっかり売り払い、その畑を買う。」
 また、46節には、「出かけていって持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」とあります。
 主イエスの教えと行いの中に天の国の姿を見た人は、それまでの生き方を変えられました。主イエスによって示された神の御心を実現していくことは、私たちが何を自分の生きる拠り所とするのか、自分が最終的には何によって生きる意味が与えられるのかということに深く関わっているのです。
 畑の中に宝物を見つけた人は、持ち物をすっかり売り払ってでもその畑を買います。その人は、畑に隠されていた宝物を掘り出してあとは遊んで暮らすのでしょうか。そうではありません。
 また、良い真珠を見つけた商人は、自分の持ち物をすっかり売り払ってその真珠を買いますが、その商人も最高の真珠を手に入れた後はそれに満足して何もしないで生活するのでしょうか。そうではありません。畑の宝物とは年毎の収穫であり、畑を手にした人は喜んで働くのです。また、最高の真珠を手に入れた人は、その真珠の素晴らしさを人々に伝えながら生きていくようになるのではないでしょうか。
 天の国は、自分の生活の中に神の御心を現していくことによって、そこにつくり出されてきます。
 小さな種は、神さまのご計画の中で、小さな種のままの姿でいつまでも残るわけではありません。小さな種粒も、神さまのご計画の中で、新しい生き方へと導かれると、その殻が破られ、根を出し芽が伸び、やがて30倍、60倍あるいは百倍の新しい種を生み出すのです。このようにして種は更に子孫を増やして数増し、その命を引き継ぎながら天の国の実現の歩みは進んでいきます。
 天の国は、人が権力や財力に物を言わせて我が物顔に振る舞うところに実現するものではありませんし、思想や言論を統制したり強制する中で実現するものでもありません。主イエスのお与えくださった確かな希望に生かされて、一人ひとりが自分が置かれた状況の中で、たとえ今はからし種の一粒のように小さく思えても、神の御心を行う歩みを踏み出していくときに、私たちは他ならぬ自分として成長し始め、やがてはそこに鳥が巣を作り雛を育てるほどに大きくなるのです。小さな私たちを天の国の実現のために選び用いてくださる主に感謝し、既に主イエスによって示された神さまの大きな働きの中に用いられる喜びに与ることができますように。
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