2019年05月06日

パウロの祈り  使徒言行録 第9章1−19     C年 復活節第3主日 2019.05.05

パウロの祈り
使徒言行録 第9章1−19     C年 復活節第3主日 2019.05.05

 教会では、この復活節に旧約聖書日課に代えて使徒言行録を朗読する習慣があります。主イエス・キリストの甦りの力に生かされた弟子たちがどのような働きをしていったのかを思い起こし、私たちもまたイエス・キリストの復活の力に与るのです。
 今日の使徒言行録は、第9章1節からで、ここにはサウロ(後のパウロ)の回心の物語を取り上げ、復活のキリストはキリストを迫害するサウロをさえ捕らえ、回心させ、彼をイエス・キリストの偉大な伝道者に育て上げたことを伝えています。
 サウロは、生まれも育ちもユダヤ教のエリートでした。自分の優秀な頭脳と熱意によってユダヤ教徒の模範として生きていました。回心する前のパウロは、見方を変えれば、自分の救いのことしか考えないエゴイストであり、自分を義として、その「義」に反するものを裁いて止まない人であったとも言えます。
 パウロは、回心する前の自分を振り返り、フィリピ書第3章5,6節でこう言っています。
 「わたしは生まれて8日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。」
 かつてのパウロはこのように熱心なユダヤ教徒でしたから、キリストの教えはユダヤ教を逸脱してものであるとして、キリスト教徒を極度に嫌いました。パウロはイエスがどのような生涯を送りどのように死んでいったのかをよく知っていたものと思われます。
 そして、ステファノが甦りの主イエスを証ししながら、荒れ狂うユダヤ教徒たちに石を投げつけられながら死んでいく様子を見てもいました。ステファノが神を侮辱するものとされ石を投げつけられる中で、その人々のために執り成し、神に彼らの赦しを願いながら死んでいく姿をサウロも見ていたのでした。サウロは、ユダヤ教徒たちがステファノに石を投げつける様子を見ながら、その人々の上着の番をしていたのでした。
 自分と民族の救いを求め続けるパウロにとって、主イエスの十字架の死やステファノの殉教は、忌まわしく認めがたい出来事でした。自分の救いを求め続けるその時のパウロには、十字架で徹底的に他者のために祈りながら死んでいったイエスのことや、そのイエスを再現するかのように自分を迫害する者のために祈りながら死んでいったステファノのことが、心に深く刻み込まれ、しかもそれらの出来事はその後いつもサウロを揺さ振り続けたに違いないのです。
 サウロがイエスのことやステファノのことを考えると、これまでの自分を否定され、自分の人生の意味や価値を覆えされかねないと思えたことでしょう。
 私たちもそうです。自分の中には確かに存在しながらも見たくない自分の一面、自分の中にありながらもそれを認めたくない一面があって、それを他の誰かの中に見出す時、私たちはその相手の人を批判し抑えつけようとするのです。パウロにとってのイエスと弟子たちはまさにそのような存在でした。サウロは、自分の誇りとするユダヤ人としての生き方を徹底的に揺さ振ってくるように感じられるイエスとその弟子たちを何とかして抹殺したい、そしてユダヤ教徒としての自分の生き方を安定させたい、そのような思いを熱くして、イエスを救い主であると言って憚らない人たちを捕まえて牢に入れることに意気込んでいました。
 イエス・キリストは、このようなサウロの思いを超えてサウロの心の奥深くに働きかけてきます。そしてとうとうサウロは、自分のプライドもエゴイズムも徹底的に打ち砕かれることになるのです。サウロは自分の血筋も生まれ育ちも、身に付けた学問も、その他これまでの自分を支えてきた一切を、キリストによって吹き飛ばされることになります。
 先ほど触れたフィリピ書の第3章8節でパウロは次のように続けています。
「キリストのゆえにわたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。」
 パウロは、今までの自分を支え誇りにしていたものをキリストによってすべて失いますが、キリストによって生かされた今となれば、自分が失ったものは皆ゴミ同然なのだと言うのです。
 イエスを救い主だと信じて宣べ伝える者を捕らるために躍起になっていたサウロには、その人々を消し去ることしか頭にありませんでした。サウロはキリスト者の迫害に意気込み、エルサレムから200qも離れたシリアのダマスカスへと向かいます。イエス・キリストはそのようなサウロの中にも宿り、大きくなり、遂にはそのキリストはサウロ自身の力で制御できないほどの力となり、ダマスカスへの途上、サウロは完全にイエス・キリストに征服されるのです。
 パウロの回心は劇的に一瞬のうちに起こったように物語られていますが、これは一瞬に起こった出来事ではありません。パウロがどんなに否定しようとも抹殺しようとも、パウロの中でいつの間にか膨れあがり、逆にキリストがパウロをその愛の中に完全に包み込んでしまうのです。サウロの中ではその思いを否定し抑えつけようとしていた分、イエスの愛は一気に大きくサウロを圧倒する経験になったのでしょう。
 サウロは、甦りの主イエス・キリストにまるで圧倒されて、自分で自分を保つことさえできなくなり、三日間何も見ることができず、また食べることも飲むこともしませんでした。
 この時、神はアナニアというダマスカスのキリスト者にこう告げています。
 「ユダの家にいるサウロという名のタルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。(9:11)」
 サウロは、まだ自分がどうなっているのかを全く見失っている中で祈っています。これまでの自分をすべて打ち砕かれて、何も見えず、食べることも飲むこともせずにサウロは今、祈りに祈りを重ねています。これまで自分を生かすと思っていたもの、誇りとしていたものをイエス・キリストの前では取るに足りないもの、塵あくたに過ぎないと悟ります。そして、古い自分に拘るがゆえに拒否して抹殺しようとしたイエス・キリストに向かって祈ることが新しい自分を築き始める力になっているのです。
 主なる神はサウロのこの祈りに応えて一人の信仰者アナニアをお遣わしになります。主はアナニアに言われます。「サウロという名のものを訪ねなさい。今、彼は祈っている。」
 はじめのうち、アナニアは驚き疑って主なる神に反論します。
 「主よ、わたしは、その人がエルサレムであなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。ここダマスカスにも、御名を呼び求める人をすべて捕えるため、祭司長たちから権限を受けています。」
 しかし、主はアナニアにこう言うのです。
 「行け、あの者は・・・わたしの名を伝えるために・・・わたしが選んだ器だ。」
 主はご自分の御名を証しするために器としてサウロをお選びになりました。そして、ご自分の御名によってサウロのエゴイズムもプライドも打ち砕いてそこに神の愛を注ぎ込みました。主は時に私たちの自分中心の思いを打ち砕くために私たちにも働きかけてこられます。それは、神さまが私たちを主の復活の証人として相応しくしてくださるためです。
 私たちも自分を振り返ってみると、かつてのサウロのように、あるいはサウロ以上に、自分勝手であったり、プライド高く、自分を守るために平気で他人を傷つけたり押し退けたりする者であることに気付かされます。主なる神の御前にあってそのような自分は何と小さく惨めであるかを思い知らされます。
 しかし、サウロは自分に気付き砕かれて、目も見えずにいた時に、祈っていました。また、アナニアによって祈られていました。そのような祈りを通してサウロは新しい自分に生まれ変わり、生涯を主の御名を証しするように立ち上がっていくことができたのです。
 やがてパウロは「生きているのはもはやわたしではない。キリストがわたしの中に生きているのだ」と言うまでになります。
 主なる神は、私たちにただ辛さや苦しさを与えるために私たちを打ち砕くのではありません。神は私たちを主イエスと共に私たちの罪を十字架に葬り、イエスと共に私たちを新しく生まれ変わらせ、滅びることのない生命へと招き入れてくださるために、私たちの罪を打ち砕かれるのです。
 かつてのパウロがそうであったように、私たちは苦しみや試練の中でこれまでの自分が砕かれるほどの思いを持つ時、主なる神が私たちをその先の新しい命に生まれ変わらせお導きくださろうとしていることを信じ、祈ることへと導かれましょう。また、サウロの祈りにアナニアがサウロに手を置いて祈るその祈りが重なる時に、サウロは信仰者として新たに生まれて歩み出していることを、私たちは今日の使徒言行録に確認することができるのです。
 こうして信仰の共同体は成長していきます。初代教会から受け継ぐ祈りの共同体の中に生かされている恵みを覚え、私たちもまた祈る共同体を受け継ぐ者として神の恵みの中にあって、熱心に祈る者となっていくことができますように。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 05:31| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年04月30日

牧師、神父、司祭などの呼称に違いはありますか?

 私もいろいろに呼ばれています。
 辞書レベルのことは、面倒でも『広辞苑』のような比較的大きな辞書を引いてください。それぞれ載っていますので、その知識で十分です。
 私は、日本聖公会の司祭ですが、それは誰が認めたのでしょう。教会が認め、教区主教が司祭按手式の中で私に手を置いて(按手して)私は司祭に叙任されました。この叙任によって、私が司祭という職位にあることは生涯変わりません。その司祭である私が今は教会に派遣されて牧師として働いています。私たちの教会は、北関東教区として一つの体であり、司祭は主教によって具体的宣教の働きのために各地の教会に派遣され牧師として働くわけです。
 つまり司祭は教会の「職位」であり、牧師は司祭としての「職務」の一つであると言えます。
 神父とは、教区司祭と修道司祭の総称のように用いられる言葉で、おもにカトリック教会の司祭の呼称で、聖公会の司祭にはあまり「神父」という呼称を用いません。でも、聖公会のアングロ・カトリック的立場から、「神父」という言葉を用いている人もいます。
 余談になりますが、遠藤周作氏の小説『沈黙』をご存知ですか。
 キリシタン迫害の時代に日本に潜伏した宣教師が転ぶ(棄教する)物語です。あの話の最後の方で、転んでしまった宣教師のところに裏切り者のキチジローがやってきて、赦罪(罪の赦しの祈り)を求めます。転んだ神父が執り成しをして赦罪の宣言をすることは有効?それとも無効?
 答えは深いですね。
 司祭になるための按手が有効であったら、神父が転ぼうがキリストを裏切ろうが、司祭であることは消えないのであって、キチジローのために祈り宣言された赦罪は有効であると言えます、が、司祭は主教(司教)によって具体的な働きのために派遣されるのであり、司教は棄教者が牧師として勝手に働くことを認めないでしょう。司教が認めていない司祭の祈りは有効でしょうか。その答も深いですね。
 さて、あなたはこの神父の働きを神の愛を具現する働きとして有効であるとお考えですか。それとも教会が認めていない人の業であり無効とお考えですか。
 そうそう、まだ口の回らない稚き子が私のことを「チンプチャン」と呼んでくれました。案外本質を突いているかも。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 15:49| Comment(0) | Q and A | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

他の教会に在籍していますが、水戸聖ステパノ教会で陪餐できますか?

 「陪餐」とは、信徒が聖餐式(ミサ)の中でキリストの体と血であるパンとぶどう酒を受けることです。
 礼拝の前に牧師にお申し出ください。
 教派の間で相互陪餐の関係にあるかどうかが問われます。つまり、教派の間で公式に陪餐を認め合っているかどうかが問われると言うことです。
 聖公会は、幾つかの他教派とそのような関係を認め合っています。
 ここからはわたしの個人的見解です。その方の事情によって、例えば旅行先であるとか、ご自身の所属する教派の教会が近くにないとか、他の教派の教会で陪餐を希望する場合が出てきますね。そのような人がイエスを主と信仰告白する教会の信徒であり主イエスの養いを得ることを望んでいるのに、人が陪餐を妨げる理由はないと思うのです。
 他の教会での陪餐には、最低限、自分の所属する教会での正会員、陪餐会員であることが求められます。
 と、言うわけで、この教会の場合でも、他の教会の場合でも、礼拝が始まる前に牧師に礼拝の出席と陪餐の希望をご相談になってください。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 15:42| Comment(0) | Q and A | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする