2017年12月11日

「主の道を整える」 マルコによる福音書第1章1〜8節 B年降臨節第2主日2017.12.09

「主の道を整える」
マルコによる福音書第1章1〜8節   B年降臨節第2主日2017.12.09

 降臨節第2主日の聖書日課福音書は、マルコによる福音書の始めの部分です。
 この箇所から養いと導きを受けるために、先ず、「福音」という言葉を切り口にして考えてみたいと思います。
 私たちが何か特別に嬉しいことがあった時、その嬉しさを他の人々に話して分け合いたくなります。そのような喜びのメッセージを、聖書は「福音(ユウアンケリオン )と言います。福音記者マルコは、この福音書をとおして、主イエスがもたらしてくださった喜びを伝えようとしています。主イエスによってもたらされた福音の初めはどのようであったのかということから、このマルコによる福音書は始まり、私たちにも主イエスをお迎えするのに相応しく自分を整えるように勧めています。
 マルコによる福音書は、その一番始めにイザヤ書40章3節の言葉を引用して、
 「荒れ野で叫ぶ者の声する。
 『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」
と言っています。
 福音記者マルコがイザヤ書のこの言葉を用いるのには以下のような背景があります。
 旧約聖書イザヤ書は、66章から成る大きな書であり、預言者イザヤの名がついてはいますが、その中で語られている事柄や人物の時代背景などを見れば何百年にもわたる内容であり、イザヤ書全体は一人の人によって記されたのではないことは明かです。そのイザヤ書の中で一つ大きな区切りになっているのが、イザヤ書第39章までと第40章はじめとの間です。一般的に旧約学者たちは、イザヤ書第1章から39章までを第1イザヤの書、第40章から55章までを第2イザヤの書、そしてそれ以降を第3イザヤの書と分類しています。マルコがこの福音書の中に引用している箇所は、第2イザヤのはじめの部分と言うことになります。
 第2イザヤが生きた時代の背景は、イスラエルの民が厳しく辛い状況にあった時でした。紀元前586年にイスラエルの国はバビロニアの軍隊によって滅ぼされ、多くのイスラエル人がバビロニア帝国軍の捕虜となって、遠く1000qの道のりをバビロンの地まで連行されていきました。そこは、メソポタミア文明の地であり、今のイラクの一部ユーフラエス河辺りまで連行されていった人々は、バビロニア帝国の発達した文明に圧倒され、自分たちの弱さと小ささを痛感するのです。一方、あとに残されたイスラエルの民は、エルサレム神殿を破壊されて自分たちの信仰と生活の拠り所をなくしてしまった上に、多くの有能な仲間を捕虜として奪われ、立ち上がる気力もなくして約半世紀の時を過ごします。
 ところが、バビロニアの王ネブカデネザルが紀元前562年に死んだ後、帝国は急速に衰退していきます。そして捕囚の時から50年近く経った紀元前539年に、大国バビロニアは新しく力を付けてきたペルシャに敗れて滅んでしまうのです。当時ペルシャの王であったキュロスは、占領地に対して宗教的には厳しい政策を採らず、バビロンで囚われの身であった人々にも寛大であり、捕虜たちは解放されるのです。これによって、多くの民がバビロンから先祖の地に戻ることをを許されます。その知らせが、当時のエルサレムの人々にとっての福音とまります。捕虜になっていた多くのイスラエルの民が喜んでパレスチナに戻り、それから30年あまりの時を経て紀元前516にエルサレム神殿は再建されるのです。
 第2イザヤは、バビロンでの捕囚時代後期からバビロン滅亡、更に捕囚からの解放とパレスチナへの帰還という時代を生きて神の言葉を人々に伝えた預言者です。この第2イザヤの書の始まりの部分であるイザヤ書第40章は、イスラエルの民がバビロニアで捕囚であった時代の中で、いち早くバビロニアの衰退と捕囚からの解放を予見して人々に福音となりました。
 先程も少し触れたとおり、エルサレムに残された多くの人々にとっては、国が滅び、力ある有能な人々や働き手は遠いバビロンにまで引き立てられていってしまい、加えて神殿は破壊され、その後荒れ放題のユダヤの地で半世紀ほどが過ぎていきます。そのような時代の中で、人々はもう神などいないかのような経験をしてきました。でも、そのような中でも、イザヤはイスラエルの民にとって福音となる希望を告げるのです。
 イザヤ書40章1節から2節で、イザヤはこう言っています。
 「慰めよ、わたしの民を慰めよとあなたたちの神は言われる。
 エルサレムの心に語りかけ彼女に呼びかけよ。
 苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。
 罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた、と」
 余談になりますが、ヘンデルの『メサイア』も序曲の合奏の後、この「慰めよ、わたしの民を慰めよとあなたたちの神は言われる。」Confort ye,my people から始まっていきます。
 マルコは、第2イザヤが告げた囚われの民が解放される時の言葉を用いて、救い主が現れる喜び、救い主によって罪の束縛からの解放という福音を告げるのです。
 「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」
 この言葉は元々、戦いに出ていた王が自分の町に凱旋してくる前に、勝利を告げる使者が一足早く町に戻って、王の勝利を告げ知らせ、民に王を喜び迎えるための道を整えるように伝える言葉であったと伝えられています。そしてイザヤは、そのようなイメージをイスラエルの民がバビロンの捕囚から解放されて祖国に戻ってくる姿やエルサレムが神の力によって再建され神殿が復興する姿に重ね合わせて、救い主到来の喜びを、人々に告げ知らせたのでしょう。
 古代の人々にとって、凱旋の王を迎える準備とは、道を整えて曲がりくねったところは真っ直ぐに、狭く通りにくい所は拡げ、凹凸のあるところは平らにして、民が王と喜びを一つに出来るようにすることでした。戦いに出かける王は民の運命を左右します。もし戦いに出ていった王とその軍隊が敗れれば、民もろとも他の国家や民族に支配されることになります。王の敗北は、かつてイスラエルの民が捕囚となってバビロンに引き立てられていったように、戦いに敗れた民は他の民に隷属することを強いられました。
 それはイザヤの時代に限ったことではなく、主イエスのお生まれになる時代も同じでした。主イエスの時代に、イスラエルはローマの国に占領されてその属領となっており、イスラエルの民は重税や兵役を課せられていました。多くの人々は民族を政治的に独立させローマの支配から解放する新しい救世主(メシア)の出現を福音として待ち望んでいたのです。
 しかし、マルコが伝える福音は、人々に政治的な独立を与える王についてのメッセージではありませんでした。
 マルコは次のような言葉で福音を語り始めています。
 「神の子、イエス・キリストの福音の初め。」
 この福音は、洗礼者ヨハネの勧めに従い、罪の赦しを得るための洗礼を受けることによって、もたらされる福音です。マルコは、人々に救いをもたらす神の子は、政治的な独立を勝ち取る王ではなく、人の中に食い入る罪を神の子の十字架によって赦し、その愛の中で永遠の命へと導く王であると教えます。マルコは、そのお方を迎え入れるために、まず自分の罪を認めその汚れを洗い清めるために洗礼を受けるように勧めます。洗礼者ヨハネは、神の子イエス・キリストの福音の先駆けとして悔い改めを説きました。
 もし、私たちが誰か大切なお客様を自分の家にお招きするとしたら、その人を招くにあたり、お迎えする部屋や玄関を掃除したり、必要であればお茶や食事も用意も喜んでするでしょう。その準備と同じように、私たちは救い主を迎えるのに一番相応しい準備をするのです。福音記者マルコが私たちに訴えるその準備とは、自分が罪人であることを認めて罪を告白しその罪の赦しに与ることです。
 先ほど、古代は王とその軍隊による戦の結果が民の運命を左右するとお話ししました。主イエスは、私たちの王としてこの世を支配する悪とその結果の死と戦い、甦ってくださって、私たちを罪と死の世界に渡すことなく、私たちが神の国に生きる喜びを与えてくださったのです。その主イエスを迎えるために、あなた方は「主の道を整え、その道筋を真っ直ぐにせよ。」と今日の福音は私たちを導いています。この福音の喜びは、第2イザヤが捕囚の解放を告げた喜び以上に、一人ひとり救い主を受け入れる人に深く与えられる喜びです。
 主イエスが、罪とその結果である死を滅ぼして、私たちを受け入れて愛し抜いてくださいました。その福音の初めは、まず私たちが心を正して救い主を迎えるための通路を真っ直ぐにすることであるとマルコは教えています。福音記者マルコは、それが私たちが神の子イエス・キリストによって生きる福音の初めである、と私たちを招いています。
 心からの喜びに満たされて主イエスをお迎えできるよう、私たちも洗礼者ヨハネの呼びかけに応え、自分を整え、心を神に向かって開かれていきたいものです。
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2017年12月06日

I am OK,You are OK.  2017年12月

 I am OK,You are OK.
司祭 ヨハネ 小野寺 達  

 標題の言葉は、今から50年ほど前に発行され日本でも翻訳出版された本のタイトルでもあります。
精神分析の流れをくむ心理療法家が、標題の言葉を用いて対人関係を理解する上での分かりやすい枠組みを提示しました。(その本がまだ出回っているかどうか分かりませんが、訳が酷いので購入はお薦めしません。)
その基本的な考えは、「私はOK」、「あなたはOK」、「私はnot OK」、「あなたは not OK」という自分と相手の計4つの枠組みで対人関係の質、状態を考えようとするものです。
 その4つの枠組みについて簡単に見てみましょう。
 「I am OK, you are OK.」は、自分と他者を認め、受け入れ、肯定して共に生きていこうとする歩みにつながります。
 「I am OK, you are not OK.」は、他罰的で、相手を批判したり非難したりしながら自分を保つ態度になり、時に高圧的になり相手のあら探しをすることで自分を保つことにもつながります。ある民族が他民族を侮辱するようなことにもこうした構造がありますが、いつも他者と比較して優位に立っていたい人にもこのような心の構えがあるものです。
 「I am not OK, you are OK.」とは、自分をダメな者であるというところに身を置いて、自分から「どうせ自分は・・・」とか「私はいつも否定される」というシナリオの中で、「私は不幸です」と訴えながら生きることなどはその一例です。
 「I am not OK, you are not OK.」は、「どうせ二人は花の咲かない枯れススキ」というように、互いの傷口をなめ合いながら停滞する生き方であり、「落ちこぼれの集まり」などはその事例であり、それは謙遜とは違います。
 そして、こうした生き方のスタンスは、その人がこれまでの生き方のどこかでそうなるように選び取って身に付けてきたのであり、その過去を整理し、新しく決断し直すことで、自他共に自分の人生の主人公になって再出発できるということがこの心理療法グループの基本的な主張です。
自分がより本当の自分になって「I am OK, you are OK.」と、自分と相手の自己実現のために生きることができれば、人間として素敵なことだと思います。
 さて、このような視点から教会に集う私たちを振り返ってみると、どのように自分をとらえ直すことができるでしょうか。
 教会は、イエス・キリストによって、それぞれに贖われ、I am OK.を生き、You are OK.を生きています。全ての人がイエス・キリストによって、神からYou are OK! と宣言されているのです。言い方を変えれば、神は「あなたを愛しています。あなたは生きるに値します。」と言われ、その下支えの上で私たちは生きているのです。
 そうであれば、私たちは、自分のことも他人のことも、「not OK」 という態度や言動を慎み、神の望む姿が表れ出るように自分は今ここで何をすべきかを考えねばなりません。
 もし、他の人の中に、至らなさや不十分さを見たら、その人に神の御心が現れ出るには自分にはどんな支援ができるか、またどのように関わることができるのかを考え、そこに伴う痛みを共に負うことが望まれるのです。
 私たちがこのような視点から自分を振り返ってみると、「自分を愛するように隣人を愛すること(ルカ10:27)」についての理解も深まることでしょう。イエスの教えと生き方が自分にとっても身近なことであることも分かります。
 いつも他人の悪口を言いたくなる自分、賛成できないことがあると相手に攻撃的になってしまう自分、自分と違う意見の人を批判したくなってしまう自分、相手の成功を妬んでしまう自分、誰の心にもそのような一面があります。そのような自分を感じる時、仮にその相手が赤ちゃんであっても、「神は私も相手も愛しておられ、ここに御国の姿が現れ出ることを願っていてくださる」と自分に言い聞かせてください。ともに OK であることを自覚し、神の国の小さな実現につとめて参りましょう。
        『草苑』水戸聖ステパノ教会月報 2017年12月号
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「目を覚ましていなさい」 マルコによる福音書第13章33〜37節 B年降臨節第1主日2017.12.03

「目を覚ましていなさい」
マルコによる福音書第13章33〜37節 B年降臨節第1主日 2017.12.03

 教会暦は新しくなり、主イエスをお迎えする準備の期節になりました。この期節に、私たちは主イエスとお会いするための準備ができているかどうかを振り返ってみましょう。そのことは、逆に言えば、私たちが主イエスに迎え入れていただくのに相応しく生きているかということでもあります。
 主イエスは、今日の聖書日課福音書の中で「目を覚ましていなさい」と言っておられます。今日の聖書日課福音書は、マルコによる福音書第13章33節から37節で、それほど長くはありません。その中に日本語の訳では4度、元の言葉であるギリシャ語では3つと1つの言葉が「目を覚まして」と訳されています。
 「目を覚ましていなさい」と訳されたうちの3度用いられる同じ言葉というのは、34節「目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ」と、35節、37節の「目を覚ましていなさい」の3つであり、この箇所は原語ギリシャ語ではγρηγορεωという言葉が使われています。話は横道に逸れますが、キリスト教の歴史の中に幾人かグレゴリウスという名の人がいますが、そのグレゴリウスという名前もこのグレゴレオー「目を覚ましている」が語源になっています。その名の意味は「見張り人」とでもなるでしょう。ちなみに、33節の「目を覚ましていなさい」は、「寝ないでいなさい」とも訳せるアグリュプネオーという別の言葉が用いられています。
 いずれにしても、主イエスはこの箇所で「目を覚ましている」ことの大切さを強調し、この箇所を読む私たちにも「目を覚ましている」ように導きを与えておられます。
 それでは、「目を覚ましている」とはどのような事なのでしょうか。
 私たちが人間らしい営みをするのは「目を覚ましている」時です。私たちは「目を覚ましている」とき、自分で自分の周りに起こっている事を認識し、自分が何を感じたり考えたりしているのかを意識する事ができます。そして、私たちはその状況に自分を関わらせていって、その状況をもっと良いものにしようと努めることも出来ます。私たちが眠っている時には、周りで起こっている事に気づく事も難しくなりますし、自分がその出来事や状況にどう感じたり考えたりしているのかという事の把握も難しくなり、人が眠っている時には、他の哺乳動物との違い限りなく少なくなっているのではないでしょうか。
 このように考えてみると、私たちが「目を覚ましている」ことは、神さまが私たちに与えてくださった「人間としての命」をより良く生きるための基本であることが分かってきます。つまり、「目を覚ましている」とは、「神に対して心が開かれていること」「覚醒していること」であると言えるでしょう。
 旧約聖書創世記の天地創造の物語の中で、神は人を「神の姿に似せて」お創りになったことが記されています。
 私たち人間には、他の動物に比べて「物事や状況を理解する力」があり「物事を創り出していく(創造していく)力」が際立っています。このことは、言い替えれば、人間には高い意識と生産力があると言うことであり、この性質は、人間が目を覚まして活動している時にこそ、はっきりと表れてくる性質です。私たち人間は、神から与えられた神の似姿としての人間の性質を十分に生かして神の御心をこの世界に現し、他の人々と共に神の御心を自分の生きる場に創り上げていく生き方をすることが「目を覚ましている」者の生き方であると言えるでしょう。
 今日の福音書は、「その日、その時は、誰も知らない。」という言葉で始まっています。主イエスが再びはっきりとそのお姿を取って来てくださる時がいつなのかは誰も知りません。そのような状況の中で私たちは「目を覚ましている」ことを求められています。でも、それは、突然起こるであろう天地を揺るがすほどの災難に怯えながら暮らすことではありません。また、いつ起こるか分からない主イエスの再臨のために自分の生活を放棄して礼拝堂の中にこもることでもありません。私たちは神から与えられた人間としての能力を生かし、今、私たちの世界に働いておられる神の力を見つけて感謝と賛美を生み出していく事、いつ主イエスにお会いしても喜んで今の自分を見ていただけるように生きることこそ、目を覚ましている者の生き方に相応しいのです。
 例えそれが小さな歩みであっても、神の御心が実現するようにと祈りながら、その歩みを続けていくことが「目を覚ましている」「神に対して心を開いている」者の生き方なのです。
私たちは、「終わりの時」という言葉にある種の恐れを感じることはないでしょうか。「終わりの時」になぜ恐れを感じるのでしょう。
 現代の豊かな社会の中で生きる人間にとって、今自分が所有している財産や立場を失いたくないという思いが、終わりの時に対する恐れにつながっていると考えられます。今の生活を贅沢に生ぬるい中で過ごしている人々にとって、その生活を突然取り上げられてしまうことは、神が横暴で無慈悲であると感じることにもなるでしょう。
 また、自分の過去の過ちや大切な人に対する失敗などが心の傷となり未整理、未解決のままになっているとき、突然に自分の終わりが宣言されたら、そのことに対する恐れや後悔がクローズアップされることになり、そのことについて神から厳しい刑罰が降されると思い込む人もいるようです。そのような人が、神と他者に対して懺悔したい思いを残したまま裁きの座に立たされることは、きっと辛く苦しいことなのではないでしょうか。実際こうした人間の心理につけ込んで、信者を獲得しようとする活動する者も見受けられるのです。
 しかし、私たちが「神に対して心を開く」のは、私たちが主なる神の前に、他ならぬ自分としての存在を認められ、かけがえのない自分が神に愛され、受け入れられ、生きることを感謝し、「終わりの時」の喜びを確認するからなのです。
 主イエスが再び私たちの所に来て私たちを裁くことは、私たちに怖れを感じさせたり怯えさせたりする出来事ではなく、十字架と復活によって完成された主イエスの救いによって、私たちを受け入れ、慰め、安らぎを与えてくださり、永遠の愛の中に置いてくださるためなのです。
 先ほども少し触れましたが、私たちが神の似姿に創られている者であれば、「目を覚ましていなさい。」とは「神に創られた人間らしく、神に心を開きなさい」と読み替えることもできるでしょう。私たちは身の回りの小さな事でも、また、世界規模の大きな出来事でも、なかなか自分の思い通りにならなかったり神の御心とはかけ離れた出来事にも直面します。それでもなお今ここで自分が目の前の課題にどのようの応えることが神の御心なのだろうか、と考えてその実現のために生きることが、「終わりの時」に備えて「目を覚まして生きる」ことに他なりません。そのように生きる時、私たちは人の限界を越えて働く主イエスの愛が与えられていることに気付けるのかも知れません。
 主イエスが再びおいで下さってお会いする時、私たちは主イエスの前にどのように自分を委ねることになるのでしょう。私たちはいつも主イエスにお会いするときの自分を思い浮かべて、自分の今の生き方を導かれています。再びおいで下さる主イエスに自分を照らされ、今の自分のあるべき姿を、その一瞬一瞬に問い直されています。
 私たちは、「目を覚ましていなさい」という主イエスの御言葉に従い、神の御心を思い、自分と神との関係を整えられながら生きています。いつ主イエスにお会いしてもその自分が迎え入れていただけるように、また私たちがいつでも主イエスをお迎えできるように、神に向かう思いを高め、私たちの方からも主なる神の御心に従う恵みへと導かれていきたいと思うのです。
 私たちは、主イエス・キリストの御降誕を祝う準備を始めました。今年のクリスマスを、主イエスに宿っていただく日とすることが出来るように、降臨節を「目を覚まして」過ごして参りたいと思います。
 目を覚まし、神に心を開き、いつでも御子イエス・キリストを喜んで迎えられるよう、信仰の備えを進めて参りましょう。
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