2020年12月05日

「聖書の日曜日(バイブルサンデー)」降臨節第2主日に(雑感)

「聖書の日曜日(バイブルサンデー)」降臨節第2主日に(雑感)
 降臨節第2主日は、「聖書の日曜日(バイブルサンデー)」です。
 日本キリスト教協議会(NCC)のホームページには、「Bible Sunday(世界聖書日曜日)を覚えて」と題して以下の文章が掲載されています。
450年ほど前、英国聖公会が第一祈祷書を作成した際、その中でアドベント(待降節)に、第1主日「キリストが与えられたことを感謝する」、第2主日 「聖書が与えられたことを感謝する」、第3主日「教職が降誕の備えをする」、 第4主日「再臨への備えをする」、と祈祷課題を設けました。これを受け英国聖書協会は、毎年アドベント第2主日を「み言葉の主日」=「聖書日曜日(バイブル・サンデー)」と制定しました。聖書は、世界に存在する 7,000 以上の言語のうち、まだ 700未満の言語にしか翻訳されておりません。すべての人にそれぞれの母国語で福音が届く日を待ち望みつつ、共に祈りましょう。
 日本聖公会第65(定期)総会で、『聖書−聖書協会共同訳(2018年)』〈以下協会共同訳〉の公祷での使用が認許されました。
 現在使用されている『聖書-新共同訳』にしても、新しい『聖書-聖書協会共同訳』にても、カトリックからもプロテスタントからも教派を越えて委員が集って翻訳された『聖書』です。
 日本聖公会では、既に主教会によって、刊行されて間もなくこの『聖書-協会共同訳』の試用が認められていましたが、今総会で日本聖公会の公的礼拝でこの聖書を用いることが許認されたわけです。
 日本聖公会では、現行「祈祷書」が1990年に用いられるようになりましたが、それまで用いていた『祈祷書』(文語式文)には各主日の特祷と共に文語の聖書日課(使徒書、福音書)が組み込まれており、聖歌は別として、「祈祷書」一冊で聖餐式をしていたと言えます。基本的に礼拝において聖書は聴くものであり、聖公会の信徒は礼拝(ことに聖餐式)に聖書を携える習慣は薄かったと言えます。
 前祈祷書から現行祈祷書への移行は、聖書の扱いについても大きな変化をもたらしました。それまで聖書の朗読箇所は毎年同じ主日には同じ箇所だったのですが、現行祈祷書の聖書日課は3年周期となり、しかも現行祈祷書には、聖餐式の各主日と祝日の特祷は載っていますが、3年周期となった聖書日課(旧約、使徒書、福音書)はその箇所が示されてはいますが本文は載っていません。そこで私が当時勤務していた教会の信徒の方々にお勧めしたことは、礼拝や集会にはそれぞれに自分の聖書を持参することでした。
 私は、その当時勤務していた教会の週報裏面に、次のような文章を記しました。その一部を転載します。
「料理人は自前の包丁を、大工さんは自分で研ぎ上げたノミやカンナを持っています。そして自分の仕事にその道具は欠かせません。もしかしたらそれは気安く他人に貸せるようなものではないのかもしれません。文章を書く人の万年筆、書をする人の筆、それも同じことでしょう。これと同じように、キリスト者なら礼拝や集いに自分の聖書を持っていって当たり前なのではないでしょうか。
信仰そのものは姿や形に表せるものではありませんが、自分の聖書を読むことでその聖書にいつの間にか開き癖がつき手垢がつき、聖書が自分の手に馴染んでくるにつれて聖書の内容も私たちの心に馴染んでくるのです。
 聖書に朱線を引いたり書き込みをしたりすることには好きな人と嫌いな人がいることでしょう。私は聖書を2冊持つことをお薦めします。一つは読んでいて心打たれた箇所には線を引いたり自分なりのマークをつけたりして、その聖書が汚れてくるのを楽しむように勉強に用いるもので、もう一つは何の雑念も入れず静かに神と対話するために用いるもので原則として書き込み無し。そんなふうに用いようとする方のためには、前者の聖書としては引照つき(聖書の中のある単語が他のどの箇所で用いられているかが記されている)や広縁(書き込みがたくさん出来るように余白部分を多くとってある)の聖書をお薦めします。」
 聖公会の信徒にとって自分の「聖書、祈祷書、聖歌集」は、礼拝における「三種の神器」であり、その中でも聖書はキリスト者として教派を越えて大切にされています。
 聖公会出版(当時)は1988年に『特祷・聖餐式聖書日課』(A.B.C各年用)を発行しました。この『聖書日課集』は、なかなか便利な代物で、殆どの教会と信徒に用いられるようになりました。礼拝の最中に旧約、使徒書、福音書日課を聖書のあちこち開く手間は省けるし、時には朗読の中で一部分を省略して読むこともあるのですが、その時にもスンナリ朗読できるし眼で追っていくこともできます。
しかし、この『聖書日課集』が発行された頃、ある先輩聖職が「こんなくだらないもの作って・・・」とぼやいていたことを印象深く思い出します。実は私も同感なのです。
 私は、聖餐式の聖書日課に限らず、聖書を開くときに、あの分厚い一冊の中のどこの部分を開いているのかを実感したり、その日の聖書日課がどのような脈絡の中にある箇所なのかを理解したりするためにも、『聖書日課集』ではなく「旧・新約聖書」を手にすることをお薦めしています。
 説教の時にも、例えば「イエスのこの言葉は旧約聖書のこの言葉が反映しているので、実際にその箇所を開いてみましょう。」、「イエスのこの言葉はこの福音書で2度目であり、1度目は○章△節に記されているので確認してみましょう。」と実際にそこを開きながら話を進めたいことも度々あります。そのようにしながら、旧新約をとおして聖書の世界が立体的に、また網の目のように理解されることを目指したいと思ってきました。
 『聖書日課集』は便利です。先に記したとおり、礼拝での朗読の時には余計なストレスを感じさせませんので、聖餐式にあの1冊があれば、スンナリと礼拝が進みます。しかし、この便利な代物だけを用いていると、一冊の聖書を用いて学ぶことで得られる多くの事が切り捨てられてしまいます。
 それでも、日本聖公会の殆どの信徒は主日にマイ『聖書』を持参するより、『聖書日課集』(A、B、C年計3冊)を携えて礼拝に臨み、教会にも3年周期で使用される『聖書日課集』が常備されるようになりました。
 そして20年近い時が流れ、時代は更に次の段階に進みました。上記の通り『聖書-協会共同訳』を公祷で使用することが認められ、礼拝に使用する聖書は、急速に「新共同訳」から「協会共同訳」に移っていくことでしょう。
 しかし、『聖書−協会共同訳』の文章による新判の『特祷・聖書日課集』(A.B.C年)発行予定は今のところありません。
そこで、日本聖公会では管区で各主日の「特祷、旧約聖書、応答の詩編、使徒書、福音書」のデータ(協会共同訳を使用)を各教区に配信し、それを用いる場合は各教会でダウンロードして印刷することに動いていきそうです。
 毎週、過不足なくそのデータを印刷して準備することは難しいことであり、紙資源も大量に消費することになり、わたしはあまり気が進みません。私の個人的な思いとしては、本教会では、管区で進んでいる祈祷書改正の動きを睨みながら、2021年も『聖書-新共同訳』を用いて切り替えの準備を進めるのが良いだろうと考えています。
 いずれにしても、新しく聖書をお求めの方は、『聖書−聖書協会共同訳−旧約続編つき』を購入なさるようにお勧めします。そして、機会ある毎に『聖書−新共同訳』との言い回し(訳し方)の違いなどに関心を持ちながら、聖書の世界への関心を更に深めていただきたく願っています。
(2020年12月6日)
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 12:18| Comment(0) | 牧師のコラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年クリスマス礼拝のご案内

クリスマス礼拝のご案内
                「恐れるな。私はすべての民に与えられる大きな喜びを告げる。」
         (ルカによる福音書2:10)

 皆さまに主の平和をお祈り致します。
 主イエス・キリスト降誕の日が近づいてきます。
 水戸聖ステパノ教会では、全国的な新型コロナウイルス感染拡大にともない、感染防止対策のために幾つかの制限をもうけて、下記のようにクリスマス礼拝を行います。
 厳しい状況の中ではありますが、皆さまには無理のない範囲で本教会のクリスマス礼拝に出席されますようにご案内申し上げます。
 なお、今後のコロナウイルス感染症拡大の状況によっては、諸礼拝を緊急に中止することもあることをお含みおきください。
                              主にあって。


【2020年】
・12 月 20 日(日)午前 9 時 〜   日曜学校クリスマス礼拝
(通常の日曜学校の中で行います)
          午前 10時 30分〜 降臨節第4主日 聖餐式
                            
・12 月 24 日(木)午後 6 時 〜 降誕日前夕礼拝(第1礼拝)
          午後 8 時 〜 降誕日前夕礼拝(第2礼拝)
「密」を避けるために同型式での礼拝を2度行います。どちらかの礼拝においでください。
  聖堂内の人数を制限させていただく場合があります。手許のロウソクは用いません。
  聖書朗読箇所や聖歌を一部省略し、45分程度の礼拝を見込んでいます。

・12 月 25 日(金)午前 10 時 30 分〜 降誕日 聖餐式 
                    
【2021年】
・ 1 月 1 日 (金)午前 10 時 30 分〜 主イエス命名の日 聖餐式

毎日曜日、午前10時30分から主日礼拝(聖餐式またはみ言葉の礼拝)を行っています。
 
*諸注意
スリッパの用意はありますが、特にお子様には上履きのご用意をお勧めします。
新型コロナウイルス感染防止対策にご協力ください。
2階聖堂入り口でご出席者の氏名と連絡先を記していただきます。
教会入り口での手指のアルコール洗浄消毒をしてください。
ご出席の際は必ずマスクを着用してください。また聖堂内での私語は控えてください。
体調のすぐれない方や高熱の方、また同居者に同症状がある方は出席を控えてください。
聖堂は換気のため暖房効果が上がりませんので、各自足元の寒さ対策を心がけてください。聖堂内の防寒具の着用を認めています。
本年は、礼拝後の茶話会、食事会はありません。
                           以上       
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 09:50| Comment(0) | 礼拝案内 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年12月01日

最も小さい者に仕える マタイによる福音書25:31−46 2020.11.22

最も小さい者に仕える A年特定29  マタイによる福音書25:31−46    2020.11.22
 
 今日は、教会暦で年間最終主日です。聖書日課福音書はマタイによる福音書第25章31節から46節の箇所採りあげられています。この箇所で主イエスは、「最も小さい者」に仕えることを教えておられます。一方、この主日は「王なるキリストの主日」とも呼ばれています。今日の聖書日課福音書を通して「最も小さい者」に仕えることと王であるキリストに仕えることが裏表一体のことであることを確認したいと思います。
 今日の福音書の箇所は、マタイによる福音書の大きな流れの中では、主イエスがエルサレム神殿でユダヤ教の指導者たちと激しい論争をなさったことや弟子たちにお話しになった言葉をまとめておられる箇所に位置づけられ、マタイによる福音書第21章13節から続いてきた主イエスの神殿での論争や教えの結びの言葉とも言える内容です。
 この結びの言葉の中で、主イエスはこう言っておられます。40節には「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」とあり、また45節にはそれと対をなして「この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。」とあります。
 「最も小さい者」について考えてみましょう。かつて炭鉱労働者が坑道に入っていく時に、籠に入れたカナリヤを携えていきました。カナリヤは人間よりも酸欠や毒ガスに敏感であり、そのカナリヤが炭鉱の作業場で弱ってしまうことは、酸素不足や毒ガスが溜まっていることの警告のしるしになったからです。
 このカナリヤが「最も小さい者」の意味を端的に表しています。この世界からはじき出されたり落ちこぼれたり、弱く小さくされた人々は、その社会の課題や問題点を自らが弱り痛みながら、炭鉱のカナリヤのように、示していると言えます。
 カナリヤの生きられない状況は人間にとっても生きにくいはずであり、カナリヤは自らが弱りまた死ぬことで、見えない酸欠状態や毒ガス発生を知らせ人を救うのです。人間が、カナリヤが弱りまた死ぬことから受け取るべきメッセージとは何でしょう。
 私たちは、このカナリヤに向かって「あなたは生きる力が弱い」とか「あなたは脱落者だ」と言って、自分が生き延びればそれで良いのでしょうか。
 このような例から考えてみると、「最も小さい者」が私たちの社会の中で問いかけていること、その人たちが発しているメッセージに私たちはもっと注目し、その人々に聴き学ぶ必要があることが分かってきます。
 主イエスは、そのような「最も小さい者」の姿をご覧になって、深い憐れみをよせられました。それと同時に、主イエスは当時のユダヤ教の担い手たちが自分を救われた側に置いて、弱く小さい者のことを痛みもせず、彼らに指一本かそうとしないことに激しく憤られたのでした。そして、当時のユダヤ教の指導者たちがその体制を維持して、利益を貪り、貧しく小さくされた人々を踏み台にして生きる姿に対して、厳しい批判をなさったのでした。その論争とそこでの主イエスの教えの内容については、ここ数週間の聖書日課福音書が採りあげてきました。ここで改めて繰り返す必要もないでしょう。
 主イエスは弱く小さな人々がなお痛む社会をただ論評し解説するのではなく、最も貧しく小さくされた人々にこそ天の国の姿が現れ出ることを願い、行動なさったのでした。
 マタイによる福音書第25章32節、33節を見てみましょう。主イエスは、「すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように彼らを分け、羊を右に山羊を左に置く。」と言われます。ここでは右に置かれる羊が神の国を受け継ぐ者であり、その者たちは「天地創造の時からお前たちに用意されている国を受け継ぎなさい。」と言い。また、反対に左に置かれる山羊は地獄へ投げ捨てられる者であり、「悪魔とその手下のために用意されている国を受け継ぎなさい。」と言います。それぞれにこのうな宣言を受けた両者の反応について着目してみましょう。
 「悪魔の国を受け継ぎなさい。」と宣言された者は、44節で、「主よ、いつ私たちは、あなたが飢えたり、乾いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。」と言っています。この言葉は、その裏を返せば、彼らが「主よ、わたしたちは何時だってあなたのお世話をしてきたではないですか。」ということであり、彼らはいつも自分たちは、良いこと、正しいこと、神の御心に適うことをしてきたと思い込んでいるのです。
 先ほども触れたとおり、最も小さくされた人々はその身を通してその社会の問題点や課題を示しているのに、上に立つ者は「最も小さい者」を「罪人」と決めつけて救いの対象外に追いやろうとしました。そして、最も小さい者の一人が呻いていても叫んでいても、その声を聞こうとしませんでした。
 それに対して、主イエスは、律法の文言の枠を踏み越えて、貧しく小さくされた人々と関わりました。例えば、当時の律法で「汚れた者」とされて交わりを絶たれていた「重い皮膚病」の人々と交わり、律法では触れてはならないにも拘わらず、主イエスは彼らに手を置いて祈りました。このように、小さくされ貧しくされた人々に仕える主イエスは、ユダヤ教の指導者たちから律法を守らない危険人物とみなされ、神を侮辱する人物と見なされ、十字架の上に処刑されてしまうことになります。それでも主イエスは、目の前にいる飢えた人、乾いた人、旅に疲れた人、裸の人、病気の人を愛しぬいてくださいました。そして最期には自分がつけられた十字架の上からさえ、人々が神の心に触れて結ばれるように祈り続けてくださいました。この主イエスの愛が律法の精神を全うし、律法の内容を完成させたのです。私たちはここに「終わりの時」がどのようにして完成するのかを確認することができるのです。
 私たちがユダヤ教の指導者たちのように救いを自分の中に抱え込もうとするとき、私たちは主イエスの目から見れば、羊飼いの前で左に分けられた山羊のような存在に過ぎなくなるでしょう。
 私たちは、ただ自分が救われるためでなく、自分が優越感を持つためでなく、私たちの目の前の人に関わり仕える歩みを踏み出していく時、私たちは神の御心に相応しく養われ、育てられていくのです。そして、神は「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」と言って、私たちを祝してくださるでしょう。
 「最も小さい者」の中にキリストがおられます。私たちは、カナリヤのような存在が訴えるそのメッセージを聞き取り、自分に示される課題を見つけて、小さな一歩を踏み出すことを求められています。
 私たちは、神から「さあ、天地創造の時からあなたたちのために用意されている国を受け継ぎなさい。」と言っていただく日に向かって、日々主の働きへと歩んでいきたいと思います。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 15:02| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする