2017年11月26日

終わりの時に マタイによる福音書25:31−46       2017.11.26

終わりの時に
A年特定27  マタイによる福音書25:31−46       2017.11.26

 今日の主日は、教会暦で年間の最後の主日です。この主日の聖書日課のテーマは「終わりの時」についてです。
 皆さんは、「終わりの時」についてどのようにお考えでしょうか。
 私たちは「御国が来ますように」と祈りますが、私たちに導きをお与えくださる神さまが御国の到来のお働きを完成させる時が「終わりの時」であると言えるかもしれませんし、私たちにとっての今ここでの一瞬がもう戻らないのであれば、この瞬間がいつも「終わりの時」であるとも言えるかもしれません。
 今日の聖書日課福音書は、マタイによる福音書25章31〜46節までの箇所が採り上げられています。マタイによる福音書の大きな文脈の中で、この箇所は、主イエスがエルサレムで弟子たちにお話しになった言葉の結びとも言える箇所です。
 今日の箇所の状況は、第24章3節に記された次のような言葉から思い描くことができます。
イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがやって来て、ひそかに言った。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わる時には、どんな徴があるのですか。」
 主イエスは、4節以下に、これにお答えてお話しをなさっておられますが、そのお話しが今日の聖書日課福音書である第25章31節以下まで続いているのです。
 ここで、主イエスは、終わりの時に神がすべての民をどのように裁くのかを語っておられますが、その中で、40節には「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」とあり、また45節にはそれと対照的に「この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。」と言っておられます。
 私たち一人ひとりも、このみ言葉に照らされて「終わりの時」のときに向かって歩んでいます。あるいは、「終わりの時」に招かれつつ生きていると言うこともできるでしょう。いずれにしても、私たちは自分の人生のいつか、神の裁きの座の前で、私たちの生きて来たことすべてが判断されることになるのかもしれません。私たちクリスチャンにとって、その「終わりの時」は、不安や恐れの時なのではなく、祝福をいただく時であることを念頭に置きつつ、今日の福音書から導きを受けましょう。
 「終わりの時の備え」について考えるのに、マタイによる福音書第25章32節、33節を見てみましょう。そこを見てみると、「すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように彼らを分け、羊を右に山羊を左に置く。」と記されています。ここでは右に置かれる羊が神の国を受け継ぐ者であり、34節に「天地創造の時からお前たちに用意されている国を受け継ぎなさい。」と言われています。反対に、左に置かれる山羊は地獄へ投げ捨てられる者であり、41節に「悪魔とその手下のために用意されている国を受け継ぎなさい。」と言われるのです。そして、ここで私たちが着目してみたいのは、このように分けられた人々のそれぞれの反応についてです。特に左側に置かれた山羊に例えられている人々の反応に着目してみましょう。
 彼らは44節で、「主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、乾いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。」と言っています。この言葉を裏返せば、彼らが「主よ、わたしたちは何時だってあなたのお世話をしてきたではないですか!」ということでしょう。つまり、彼らはいつも自分たちは、良いこと、正しいこと、神の御心に適うことをしてきたと自負しているのです。
 彼らは、もし主イエスから「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛しなさい。」と言われれば、先ず自分の隣り人とは誰かを律法に照らして明らかにし、隣り人に当てはまる人には関心を示し、その隣人を自分が愛する対象にしました。彼らは、律法が愛せよと教える対象だから愛し、その対象外の人にはもし同じように飢え、渇き、旅の途上にあり、裸や病気であったとしても、関わろうとはしないのです。もっと言えば、このような人は自分の願いが満たされるために愛する対象を求め、相手が自分の救いに役立つので相手に関わっているのです。このようなあり方は、相手との関わりの中で、本当に飢え、乾き、旅に疲れ、裸や病気である相手に対して自分のはらわたを裂くほどの憐れみを寄せた主イエスの思いとは程遠いのです。それは、いつも律法という眼鏡を通して物を見て、しかも自分が神の前に良しとされることを最優先の課題にして、他者をそのために利用する生き方であると言えるでしょう。
 このことは、学校教育でいわゆる「内申書」の評点を良くするために「ボランティア」をする生徒がいて、その生徒たちのボランティアをする態度が極めて打算的である事に例えられます。
 本来自発的な奉仕活動だから「ボランティア」と言われるのに、本心は別の思いであるのと同じように、律法が愛せと言うから、その範囲で自分を律法に当てはめて生きると言う生き方は、本当に神のお喜びになる生き方なのでしょうか。主イエスはそのような生き方はなさいませんでした。主イエスは律法を破って、当時の律法で汚れた者とされて交わりを絶たれていた「重い皮膚病」の人々と交わり、律法では触れ合ってはならなかったのに主イエスは彼らに手を置いて祈りました。そのために主イエスは、ユダヤ教の指導者たちから律法を守らない危険人物、神を侮辱する者とみなされ、最後には十字架に処刑されてしまうのです。それでも主イエスは、目の前にいる飢えた人、乾いた人、旅に疲れた人、裸の人、病気の人などを愛しぬいて、最後には自分がつけられた十字架の上からさえ、神の心から離れた人々が神の心に触れ、結ばれるように祈り続けてくださいました。そのような主イエスの愛が律法の精神を全うし、律法を完成させたのです。私たちはここに「終わりの時」の姿を見るのです。
 私たちは、自分の力で神の教えを全う出来る者ではありません。しかし神はそのような私たちであっても、私たちを認め、赦し、愛していてくださいます。そのことを認めて受け入れることが出来る時、私たちは他の人々も神の赦しと愛を必要としていることを知り、神の愛がその人たちにももたらされるように祈らないわけにはいかなくなるのです。そして、貧しい人々や弱い人々に対してもその人々に神の愛が届くようにと関わらざるを得ないのです。
 もし私たちも、律法主義者たちのように、救いを自分の中に抱え込もうとするなら、私たちは主イエスの目から見れば、羊飼いの前で左に分けられた山羊のような存在に過ぎなくなるでしょう。
 私たちが、自分が目立つためでなく、自分が得するためでなく、自分が優越感を持つためでなく、私たちの前の相手に関わり仕えよる歩みを踏み出していく時、私たちは神の御心に相応しく養われ、育てられていくのです。そして、神は「終わりの時」に「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」と言って、私たちを祝してくださるでしょう。
 最後に、ユダヤ教の訓話をご紹介します。
 ある熱心な律法学者が最期を迎えた時、自分の人生を振り返って次のように言って悔やむのです。
 「神は私に、あなたはモーセのように生きたかとは問わないだろう。むしろ、私があなたに託した命をなぜあなた自身として用いなかったのか、と問うに違いない。」
 律法の枠を超えて相手と出会い、相手と触れ合い、心を通わせるところに、飢えた人、乾いた人、旅につかれた人、裸の人、病の人、囚われの人への愛が働きます。
 私たちは、神から「さあ、天地創造の時からあなたたちのために用意されている国を受け継ぎなさい。」と祝福していただく日を望みつつ、日々主の働きへと歩んで参りましょう。
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2017年11月20日

神さまから頂いた賜物  マタイによる福音書25:14-15、19-29    2017.11.18   A年特定27  

神さまから頂いた賜物
マタイによる福音書25:14-15、19-29    2017.11.18   A年特定27  

 最近は、テレビ番組で顔と名前が知られるようになれば、「タレント」と呼ばれる時代です。タレントとは元々特別な能力、才能を意味する言葉であり、その語源は今日の福音書に出てくるタラントンというお金の単位にさかのぼります。
 私たちは、今日の聖書日課福音書から、自分の内なる財産である色々な才能(タレント)について、それらが神から与えられ、また私たち一人ひとりに託されていることを教えられます。私たち神から託された賜物をどのように用いることが大切なのでしょうか。今の日本を振り返ってみると、所得の高さや所有する財産そのものがタレントであるかのような、そしてそれを持つことで人間の価値まで決まるかのような感が強く、本当のタレントがタレントとして評価されているのかを疑いたくなる状況にあるように思えます。
 神は、私たち人間がこの世界で神に御心を実現していくために各自のタレントを用いることを願っておられるのではないでしょうか。タレントは、神が一人ひとりの人に与えてくださった固有の財産であり、各自がその賜物を用いて、神の御心の実現に努める時に、大きな意味を持つことになります。
 神の国の実現のためにタレントを用いる人のことを、今日の福音書は「忠実な良い僕だ、よくやった。おまえは少しのもに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」と表現しています。
 主人が自分の財産を僕たちに預けて旅に出ました。僕はその力に応じて、ある者は5タラントン、ある者は2タラントン、ある者は1タラントン預けられました。かなりの日数が経って主人が戻ってきました。主人は僕たちを集めて「さあ、私が預けたタラントンをどのように用いたのか、見せて貰おう。清算をしよう。」と言いました。
 5タラントンを預かった僕は、その5タラントンを元手に5タラントンを儲けて主人の前に10タラントンを差し出しました。2タラントン預かった僕も、その2タラントンを元手に2タラントンを儲けて4タラントンを差し出しました。主人はこの僕たちに「忠実な良い僕だ。お前は少しのものに忠実であったから多くのものを管理させよう。私と一緒に喜んでくれ。」と言いました。
 ところが、1タラントン預かっていた僕は、「ご主人様、あなたは厳しい人ですから、私は預かったタラントンをそのまま土の中に埋めて隠しておきました。これがそのお金です。そのままお返しします。」と言って1タラントンをそのまま主人に差し出しました。すると、主人は、「お前は怠け者の悪い僕だ。それならその1タラントンを取り上げて10タラントン持っている者に与えよう。」と言ったのでした。
 この箇所では、主人が長い旅に出かける時に、自分の僕たちにそれぞれの力に応じてタラントンを預けたという設定になっています。1タラントンは当時の六千日分の労賃であり、おおざっぱに計算して1タラントンは約20年分の労賃と言うことになります。今日の福音書の中で、これほど多額なタラントンを与えられている僕についても主人は「おまえは少しのものに忠実であったから・・・」と言います。それは、逆に一人ひとりが神から託されている賜物がいかに尊く重大であるかを示しているとも言えるでしょう。
 私は、かつて、日曜学校の礼拝で、この譬えのタラントンを金額ではなく麦の種に置き換えて話してみたことがありました。すると、当時小学校4年生だった子供が、「それなら良く分かる」と感想を述べてくれたことを思い出します。
 私も、このタラントンを麦の種に譬えて、可能性として与えられていることとして考えると、ここで主イエスのお話になっていることの意味がよく分かるように思えるのです。
 私たちは、それぞれに神さまから、生まれながらに他の人とは取り替えることの出来ない特別なタラントンを与えられています。でも、多くの場合、そのタラントンは、お金のようにそのまま保管できるものではなく、麦の種のように、「可能性」として与えられているのではないでしょうか。そのタラントンがどのように用いられるかによって、神の国の働きに役立つことにもなれば神の国を破壊する道具にもなってしまうのです。そう考えてみると、今日のタラントンの例えは、私たちがそれぞれに神から与えられた自分の人生の恵みを感謝し、十分に生かして神の意思を実現できるように努めることによって、天の国の姿が現れてくることを教えた物語であると言うこともできるでしょう。
 この恵みは、例えばパウロによれば、特に秀でた能力として与えられるだけではなく、時には自分の弱さや醜さと思えることを通してさえ働きます。パウロはコリントの信徒への手紙U第12章で次のように言っています。
 パウロは、自分で自分のことを誇らないように、神は「わたしの身に一つのとげをお与えになった、自分はそのとげを離れさせてくださるように三度頼んだけれど、主は「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮させるのだ」とパウロに言われたのでした。だから、キリストの力が自分の内に宿るように、むしろ自分の弱さを大いに喜んで誇ろうではないかと言っているのです。
 この聖堂のことを例にして考えてみたいと思います。
 私たちの教会の聖堂は、2011年3月11日に起きた大震災によって大きな被害を受けました。その修繕費は私たちが経済的に負担できる力を大きく上回り、この教会も、鐘楼や聖堂の修復のために、これから先の長期間厳しい財務運営を強いられることを覚悟しなければなりませんでした。それが、世界の祈りと日本よりずっと経済力に乏しい国々の人々の献金によって、聖堂は無事に修復の工事を行うことができました。私たちの生活する日本に比べれば、貧しく、一人あたりの収入も低い国の祈りと献金によって、ある意味、震災前よりももっと気持ちよく礼拝できる聖堂を修復することができました。それから6年近く経ち、こうして日々の祈り、毎主日の礼拝や幼稚園の礼拝を続けてきています。この人一つ取り上げてみても、私たちは自分たちの弱さに働いてくださった神を誇りたいのです。その恵みを感謝して、この聖堂をなお祈りの場としていくことができるように聖霊に満たされるよう祈り求めていきたいのです。
 この教会の小ささや力の足りなさを通して働いてくださった神の力に感謝できるとき、私たちは弱さや困難の内にある人々に仕える意味をいっそう深く知ることが出来るようになれるでしょう。
 神の御業とその恵みは、時には人の目から見て不都合と思われることをとおしてさえ、豊かに働いています。
 私たちは、神からどんなタレントを与えられているでしょう。それを無駄にしないようにするためには、不必要な尻込みや偽りの謙遜からぬけださねばなりません。自分のタラントンがあるのに、出来ることに取り組もうとしなかったら、それはタラントンを土に中に埋めることになるでしょう。
 神の恵みは、私たちに豊かに働こうと、私たちを執り成しています。私たちが自分で気づかぬ間にも神の恵みはずっと働いています。神が私たちに託しているタラントンは実に多種多様であり、その可能性や力量について自分から制限したり損ねてしまうことのないように、絶えず感謝の思いを持ちつつ、自分の信仰を育む者でありたいと思うのです。
 私たち一人ひとりが神から与えられているタラントンを天の国を実現する働きへと用いられ生かされるように祈り求め、ここから派遣されていきましょう。
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2017年11月12日

正義を洪水のように アモス書第5章18〜24節  2017.11.11

正義を洪水のように
アモス書5:18〜24    A年特定27         2017.11.11

 今日は、聖書日課より、旧約聖書アモス書第5章24節の言葉に注目してみましょう。
 「正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ。」
 私は、アモス書がとても身近な書に思えます。それは、アモス書に記された内容が、ある側面から観れば、戦後成長発展してきた日本の姿と重なってきて、アモスの預言が、古いユダヤの歴史上の言葉に留まらず、今の日本に対する警告でもあると思えるからです。
 はじめに、アモスの時代背景に触れておきましょう。
 アモスは、紀元前750年頃の人であり、イスラエルの南部にあるテコアで羊を飼う人でした。イスラエルの国は紀元前1000年にダビデによって王国の姿が完成しますが、ダビデの子ソロモンの時代が過ぎると、南北に分裂してしまいます。それは、アモスの時代より約150年ほど前の紀元前922年のことでした。
 二つの国は、通常、北イスラエル国と南ユダ国と呼ばれています。北イスラエル国も南ユダ国も、周りの列強国の圧力を受け、エジプト、アッシリアなど周辺の諸大国の盛衰に一喜一憂していました。例えば、どの国と同盟を結んで他の国からの侵略を防ぐかということなど、当時の権力者にとっての大きな課題だったのです。
 分裂してから一世紀半ほどだった北イスラエル王国が、アモス書の舞台になります。
 紀元前786年にヤロブアム二世が北イスラエル国の王位についた当時、イスラエルを脅かしていた軍事大国アッシリアが急に弱体化してきます。北イスラエルの国は、そのおかげで、国力が安定します。ヤロブアム二世はこの時とばかりに貿易を拡大し、国内の産業も発展を遂げ、一時の繁栄を楽しむ人々からはこの時代をダビデやソロモンの時代の再来とも評価されたのでした。
 しかし、このように一見素晴らしい発展を遂げた時代も、違う視点から眺めてみると、国の繁栄は危うく、貧富の差は広がっています。その時代は、アモスの目で見ると、権力は一部上層階級に集中し、不正な政治やその中での汚職が蔓延する時代にもなっていたのです。
 確かに国は一見繁栄し、物が豊かになったようです。しかし、考え直してみると、いったい誰が富を得て豊かになっているのでしょう。いわゆる上層支配者階級の人々ばかりが金持ちになり、次第にあちこちで金銭に物を言わせる横暴がまかり通るようになります。特定の支配者階級による物流の独占と金余りは、土地や物価の高騰を招きます。その結果、借金をしていた人はその利率も高くなって、返済の負担は一層大きくなるのです。一般民衆の生活は、かえって苦しくなり、いっそう貧しい生活を強いられるようになってしまうのです。豊かさを享受するのは、権力や財力の中心にいる人ばかりであって、そのおこぼれに与ることもできず、そこからはじき出された人々は国の繁栄の中でかえって貧しくされ、苦しい生活の中で疲れ果て、また、地方の山村は荒れ廃れていくことになります。
 貧しく弱くされた人々を顧みない権力者たちは、贅沢と貪欲によって腐りきり、賄賂や横領がまかり通り、富裕層の間で物事が取り決められ、政治も、裁判もますます富裕層が自分たちの利益のために利用する手段になっていくのです。そして、こうした悪徳がはびこり巣くうところでは、次第に下層民の呻きや嘆きが聞こえるようになってきます。
 アモスには、国家の繁栄が大きな影を作りだしている姿が見えました。北イスラエル国の聖地ベテルは表面上は大変な賑わいを見せており、そこには多くの参拝者が集まり、神殿の祭司は裕福であり、神殿の財産も膨らんではいるものの、それは民の敬虔な信仰のしるしではないのです。いわゆる有産階級の人々は、肥えた生け贄を献げるのですが、その内実は本当に神を礼拝するのではなく、心の中では富を礼拝し、弱く貧しい人々を救済するのではなく、かえって圧迫していたのです。
 アモス書の第5章21節から23節あたりを読んでみると、当時神殿の祭が華やかに行われていた様子を垣間見ることができます。豊かな穀物や肥えた動物が奉献され、竪琴を掻き鳴らして歌も歌われていたようです。このような、ヤロブアム二世の繁栄する時代のさなか、上流階級が国の繁栄に酔いしれ浮かれている時代に、神は一人の羊飼いアモスを神の御言葉を取り次ぐ人として召し出したのでした。そしてアモスは、そのような上流支配者たちを告発する神の言葉を取り次いだのでした。
 今日の聖書日課のすぐ前のアモス書第5章12節(新共同訳P.1435)で、アモスは支配者たちに次のように言っています。
 「お前たちの咎がどれほど多いか、その罪がどれほど重いか、わたしは知っている。お前たちは正しい者に敵対し、賄賂を取り、町の門で貧しい者の訴えを退けている。」
 今お話ししてきたことを背景にして考えてみると、いかに多くの人が悪の誘惑になびいて不正な富や権力にかしずいていたかが想像できます。また、「町の門」とは当時の市民が裁判をする場でした。裁判でも権力や財力によって不正や不公平が行われていたことがうかがえます。
 支配階級が貧しい人々の土地や財を奪い取ることによって貧しい人々を一層貧しくし、支配者たちは賄賂、横領、略奪によって一層自分の富を増やし、あたかもその富が神の恵みであるかのようにして神殿で捧げ物が献げられるのです。アモスは、そのようにして行われる礼拝にいったいどんな内実があるのかと、権力者に向かって叫びます。
 そして冒頭に読んだように、24節で「正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ。」と訴えるのです。
 時代の背景を考えず、この言葉だけを抜き出してみるとごく平凡で当たり前の言葉ですが、私たちは、アモスがこの言葉で当時の上流支配者階級を厳しく告発していることを思い起こしたいのです。そして、アモスはこのように権力者たちに厳しく語ることによって神殿の祭司たちに弾圧され、神殿から追放されることになっていきます。そして、それから20年足らずのうちに北イスラエル国はアッシリアに侵略されて紀元前722年にあっけなく滅びてしまいます。
 私たちは、このアモスの「正義を洪水のように、恵みを大河のように、尽きることなく流れさせよ。」という叫び声を、今、私たちに向けられた言葉として聞きたいと思うのです。
 今日の聖書日課から、福音書にも触れておきたいと思います。
 今日の福音書は、婚礼の花婿を迎えて祝宴を行う10人の乙女のうち5人は自分のランプの油を十分に準備して待っていて祝宴に与り、あとの5人は油の準備が無く慌てて買いに行っている間に花婿が到着し祝宴に与れなかった、と言う内容です。この例えを通して、主イエスはいつ終わりの日が来るのか誰にも分からないのだから、いつでも主を迎え入れられるように相応しく備えをするように教えておられます。
 今日のアモスの言葉を使えば、主の日が「闇」ではなく「光」となり「輝き」となるように、私たちは主にお会いする時を思い、私たちの生活の中で正義を行い恵みの業に励む者でありたいのです。私たちは、正義の洪水や恵みの大河をはじめから独りで起こせる者ではありません。でも、大河の流れを遡ればもとは小さな湧き水であったり,小さな雨粒の集まりなのです。そして、私たちは十字架の上に独り捨てられながら御心を貫いた主イエスに、正義と恵みの源を見ることが出来ます。それがやがて神の祝福のうちに大河となり洪水のようになって世界に広がっていったことを私たちは知っています。
 私たちはアモスの言葉を受け、主の日を迎える備えを致しましょう。私たちは自分の利益や名誉のために神を求めるのではなく、主イエスによって神の正義と恵みをこの世界に現すことが出来ます。その信仰に立ち帰ることが出来るよう、今日の聖書日課からアモスの預言の言葉を深く心に留めたいと思います
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