2019年04月30日

終わりの日、さばきの日は本当に来るのでしょうか?

 その疑問あるいは関心はどこから来ているのでしょう。その質問をするあなたの背景に何がありますか?
 「でも、あなた、終わりの日は昨日もう来てしまいましたから。残念!」と言われたら、あなたはどうしますか?
 わたしは、慌てず騒がず、自分の生活を(もちろん他の人々を大切にして)誠実に送ることが終わりの日に備える人のあり方だと考えています。
 終わりの日とは「神さまのお考えが完全に実現する日」のことです。その日が本当に来ることを待ちながら、少しでもそのために役立とうと働くことは尊いことだと思います。神さまがあなたに与えてくださった生命を、貴いものとして、あなたらしく生きてください。そして、他の人もそのように生きられるように生きてください。
 できれは、マタイによる福音書第25章をお読みになって感想をお聞かせください。
 そうそう、ある神学者が「わたしは、終わりの時は本当に来るのかと尋ねられたら、もう昨日来てしまいましたよと答えることにしている」と言っていました。
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見ないで信じる ヨハネによる福音書第20章19−31   C年 復活節第2主日 2019.04.28

見ないで信じる
ヨハネによる福音書第20章19−31   C年 復活節第2主日 2019.04.28

 主イエスの甦りの日から一週間経ちました。今日の福音書の後半には、主イエスさまの甦りの日から8日経った日、つまりその日からちょうど一週間経った日の出来事が取り上げられています。
 甦った主イエスが最初に弟子たちにお姿を現されたとき、トマスはそこにいませんでした。うち沈んでいた他の弟子たちが、全く表情を変えて活き活きとして,復活した主イエスに会ったと伝えても、トマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言い張りました。
 一週間経った日、今度はトマスも一緒にいる場に主イエスは再びお姿を現し、あの日と同じように、弟子たちの真ん中に立ち、ちょうど一週間前と同じように、主イエスは「あなたがたに平和があるように」と言ってくださったのです。そして、主イエスは、トマスに言われました。
 「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じないものではなく、信じる者になりなさい。」
 トマスは答えて「わたしの主、わたしの神」と、きっと泣き崩れて、言ったのでした。
 私はこの箇所を読むと、いつも「信じるとはどういう事だろう」と考えます。そして、もし「信じる」という言葉を他の言葉に置き換えたらどういう言葉になるのだろうかとも考えます。
 国語辞典を見てみると、信じるとは、「本当のことと思って疑わないことであり、真実であると認めて頼りにすること」と記されています。
 トマスが甦りの主イエスを実際に目で見て、もし、主イエスの傷跡に指を入れて確かめるというのなら、それはもう信じることではありません。もし、そのようにして確かめるのなら、その行為は事実を確認することであり、そうしたらその先に信じる余地はなくなると言って良いでしょう。
 トマスばかりでなく私たちも、触れて確かめたくなるのは信じられない時であり、信じられないから自分の目で見て確認しなければ本当のことと思えないのです。それは信じることとは反対のことです。
 その昔、イスラエルの民は、モーセをリーダーとして、エジプトでの奴隷状態から脱出して、その後、40年にわたる放浪の生活を強いられました。イスラエルの民は放浪の生活が始まると直ぐに、御心に反する事をし始めるのですが、その典型的な罪は、金の子牛像を造って拝んだことでした。
 モーセは、イスラエルの民を救い出した神と契約を交わすため、つまり十戒を授かるため、シナイ山に上っていきました。モーセの姿が見えなくなると、イスラエルの民は直ぐに不安になり、アロンのもとに集まり、「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。」と言って、目に見え得る金の子牛を創り上げてその祭壇を築きました。そして「民は座って飲み食いし、立っては戯れた(32:6)」と記しています。
 このように、人は不安になると、目に見えるしるしを求めたくなります。
 私たちの日頃の人間関係に於いても、例えば、まだ親離れできない幼児は頻繁に母親の居場所を目で見て確認します。また、逆に、子どもを信じられない母親は絶えず子どもの言動を確かめずにはおられず、子どもの留守中に机の中まで探ったりすることまでするようになるのです。
 もう一つ別の例を挙げれば、私たちが旅客機にいるときのことを想像してみても良いでしょう。私たちが乗客でいるときには飛行機の操縦はパイロットに委ねて信じるほかありません。パイロットを信じられない乗客は、自分が飛行機を操縦する知識も技術もないままに、根拠のない不安を大きくすることになるでしょう。
 こうした例は、信じることと気持ちの上で安定した状態にいることが深い関係にあることを示しています。
 もし、我が子のことを必要以上に確かめたくなる親がいるとすれば、それは子どもを信じられないことの現れでもあり、その不信感は関係を更に悪くすることにもなるでしょう。
 私たちは日々の生活の中でも、家族や友人を信じ合う事が大切なことであるかが分かり、またそのように信じ合える関係や状況を作り出していくことに努力が必要であり、私たちは他の人の信頼を受けるに値する者となれるように努めることも大切であることが理解できるのではないでしょうか。
 信じることは相手に対して干渉し過ぎることはありません。また信じることは、その相手のことに無関心であったり放任して済ませてることでもありません。私たちの信頼の対象である主イエスは、十字架の上からさえ、私たちを愛し抜き、赦し抜いてくださいましたが、それは私たちがいつかは神の御心を信じて神の御許に立ち返るようにと、神が私たちを信じてくださっていることである、と言えるでしょう
 甦った主イエスはトマスに「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言っておられます。
 また、ヘブライ人への手紙第11章1節に以下のような言葉があります。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」
 この箇所の「望んでいる事柄」とは、英語訳聖書では多くが be hoped for と訳されているとおり、「神が望んでいる事柄を確信し」という意味です。「信じる」とは神が私たちに臨んでいる事柄を確信することであり、言い換えれば、信仰とは神の御心を確認することなのです。
 この言葉を念頭に置いて、今日の福音書に登場するトマスの事を振り返ってみましょう。他の弟子たちが、甦った主イエスさまにお会いしてその喜びに満たされている中で、その時そこにいなかったトマスは「私は主イエスさまにお会いして自分の手でその傷跡に触れてみなければ信じない」と言いました。トマスは主イエスが甦ったことも仲間たちが復活のイエスにお会いしたいう言葉も信じられませんでした。
 それから8日後、他の弟子たちと共にトマスは甦った主イエスにお会いして、主イエスから祝福されました。そして、見ないで信じる人の幸いを教えられました。神が主イエスを復活させて、私たちを愛し、赦し、受け入れ、私たちがどんなに弱り果て沈み込んでも、そこから立ち上がらせて生かそうとしてくださる愛の力を示してくださいました。トマスも神のこの愛の力を受け入れることができました。トマスは、自分のすべてを主イエスに明け渡し、おそらくは号泣しながら「わたしの主、わたしの神よ」と信仰を告白したのでした。
 トマスにとって、また私たちにとって、大切なことは、イエスの復活を見て確かめることではなく、この愛の力を自分にも与えられているものとして信じることであり、甦りの主は生きておられるという信仰によって、主イエスに「わたしの主、わたしの神」と信仰を告白しつつ生きることなのです。
 心を頑なにして部屋に閉じこもっていたトマスの所にも甦りの主イエスはお姿を現して、主イエスはトマスを再び立ち上がらせてくださいました。
 今日の福音書はこのようなトマスの物語を通して、私たちにも復活の主イエスをただ事実として検証しようとする態度でいるのではなく、甦りのイエスを信じ、主なる神の御心を確信し、甦りの主イエスによる導きと祝福の中で生きていくように促しているのです。
 神の御心を行い通した果てに十字架につけられて殺された主イエスが甦って私たちの罪を赦し、私たちを永遠に生かし続けててくださる、と信じて歩む者を、主イエスは祝してくださるのです。
 甦った主イエスは「あなたがたに平和があるように」と言って私たちを祝福してくださるっています。目に見えるものは一時的であり過ぎ去ります。私たちは、見えるものにではなく、見えない復活の主イエスに導かれ生かされる者でありたいと思います。
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2019年04月21日

死から生へ ルカによる福音書第24章1−10   C年 復活日      2019.04.21

死から生へ
ルカによる福音書第24章1−10   C年 復活日      2019.04.21

 主イエスの十字架の死と復活は、イスラエルの歴史を通して御心を示して来られた神の働きのクライマックスであり、ここからイスラエルの枠を越えて福音は世界に広がりました。復活は神の御心である愛の爆発です。
 主イエスは神の御心を会堂の中で教えるだけでなく、ご自身の働きを通して示されました。その中で、十字架の死と復活は必ず起こることであると幾度か予告なさいました。しかし、そのことは弟子たちでさえなかなか理解できないことでもありました。主イエスが受難の予告をなさった時に、弟子のペトロは「主よ、とんでもないことです」と言って主イエスを諫め始め、そのペトロは主イエスから「サタン、引き下がれ」と叱られました。ペトロが主イエスの復活の意味を知り、主イエスによって示された神の御心を生きるように変えられたのは、主イエスがその予告どおりに復活した後50日を経てからのことになります。
 主イエスの十字架から3日経った朝、イエスの墓に向かう婦人たちも、この時にはまだ主イエスの十字架の復活のことなど全く念頭になかったことでしょう。
 主イエスが十字架に付けられて死んだ翌々日の朝早く、安息日のあけた朝早く、主イエスを愛し慕っていた婦人たちは、イエスの遺体が納められた墓の前までやって来ました。
 そこで彼女らが見たのは、墓を封印してあった大きな石がわきに転がっていることでした。婦人たちは驚き、墓の中に入ってみましたが、そこにはイエスの遺体がありません。そこに二人の輝く衣を着た人が現れ、婦人たちにこう告げたのです。
 「なぜ生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方はここにはおられない。復活なさったのだ。」
 この前々日、主イエスは人々の罪を一身に引き受けて十字架の上で死に、葬られました。この十字架の出来事は、十字架を取り巻くそれぞれの人に色々な衝撃を与えました。そのことを少し振り返ってみましょう。
 例えば、十字架の下にいた百人隊長は「本当に、この人は正しい人だった」と言って神を賛美しました。また、ユダヤ議会議員アリマタヤのヨセフは、主イエスの十字架の出来事を見て、自分がピラトの所へ行ってイエスの遺体を引き取って自分の墓に納めることを申し出たのでした。そして実際に、主イエスの遺体を引き取り、ユダヤの議員であったニコデモと一緒に、自分の所有する新しい墓にイエスの遺体を納めたのでした。
 この百人隊長とアリマタヤのヨセフの例は、百人隊長に代表される異邦人もニコデモやアリマタヤのヨセフに代表されるユダヤ議会の指導者たちも、救い主イエスの御許に集められ一つとされることを示しています。
 彼らは立場こそ違いますが、イエスを「神の子」、「救い主」として受け入れ、しかもそれを公にしています。それは当時のそれぞれの立場を追い詰めることにもつながることでした。
 なぜなら、百人隊長はいわばローマ官憲の番人であり、その立場にある者が十字架上の犯罪人を「正しい人」であったと公言したり、ユダヤ議会の議員が犯罪人の遺体を引き取って自分の墓に納めることなど、議会の決定を汚す者と見なされることになり、議会から追放される恐れもありました。それにもかかわらず、イエスの処刑が無事に終わるように見張るはずの百人隊長やイエスの処刑に賛同したユダヤ議会の議員を大きく変えることへと促したのは、主イエスの十字架の出来事がいかに大きな衝撃であったのかを示しています。
 そして、今例に挙げた二人に限らず、主イエスの十字架は、こうして教会に集まった私たち一人ひとりにも、何かを語りかけ、何かの促しを与えずにはおかない大切な出来事なのです。
 人が死ぬと言うことは、主イエスの十字架の出来事に限らず、最終的には人は無力であり、誰かに、何かに自分を委ねなければならず、それ故に人の死は自分の生き様についての自覚を促す厳粛な出来事になります。死は、人が誰にも終わりがあること教えます。人は自分が死んだ経験をこの世で他者と分かち合うことは出来ません。そこで私たちは、他人の生と死から自分の生と死について学び、その思いを深めることになります。自分の一生にも終わりがあることを教えられ、自分の一生をその終わりから照らし出して、自分は今をどう生きるべきかを考えるように促されます。
 金銭の支払いのことなら、誰か他の人に代わってもらうこともできるでしょうし、弁護士や代理人を立てる事も出来るでしょう。でも、人は死の前には誰も他人に代わることの出来ない事実を突きつけられます。そして、私たちは誰もが、人間はみな一人ひとりが取り替えることの出来ない大切な存在であり、またそうあらねばならないことを死の前に照らし出されるのです。
 十字架の下の百人隊長は、死んでいくイエスに神の義を見出しました。また、アリマタヤのヨセフはイエスの生涯と死を自分の中に深く焼き付けて、それまで何もしなかった自分を悔いて、イエスの遺体の引き取りを申し出ずにはおれない深い促しを受けたのです。
 主イエスを慕ってガリラヤからエルサレムまで同行してきた婦人たちは、自分たちが頼りにしてきたイエスを十字架に失って、途方に暮れていました。そして、安息日の明けるのを待ちかねてイエスが葬られた墓に向かいました。
 この時の婦人たちは、イエスを失っ悲しみやイエスの死によって受けた傷みを、せめてもう一度遺体に油を塗って癒したかったのでしょう。婦人たちは、墓に行ってイエスの亡骸をもう一度納めなおし、自分の心を鎮めたかったのでしょう。ところが、彼女たちが墓に着いてみると、入り口の大きな石は脇に転げ、中にあるはずの遺体がありません。婦人たちは途方に暮れています。その時、二人の御使いが現れてこう言うのです。
 「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。」
 この時の婦人たちは、神の国を実現しようと働いてきたイエスはもういない、あのお方はここに葬られのだ、と嘆き悲しむだけでした。
 その婦人たちに、御使いは言います。「あの方は、あなたたちの嘆き悲しむ先にいるのではない」と。もし主イエスを捜すのであれば、墓の中に捜すのではなく、「3日目には復活する」と言っておられたことを思い出して、それにふさわしく捜しなさい、と御使いは言うのです。
 神の子は「死」を経験されました。私たち人間は自分の死の体験をこの世で他の人と分け合うことは出来ませんが、主イエスは十字架の死の向こうに甦って、ご自身の死を知った上で、甦ってこの婦人たちとも共にいて下さるのです。
 墓に出向いた婦人たちは、この時にはまだイエスの遺体が無くなってしまったたことは、イエスが彼女たちと共に生きた証拠さえ取り去られてしまった事のように思えたことでしょう。
 でも、そこに遺体がないことは、婦人たちに過去のイエスにすがることを許さない神のお働きであり、イエスの遺体がないことは、死に対する神の勝利のしるしなのです。イエスの遺体が墓の中にはないということは、死がイエスを墓の中に留めておくことはできないという神のメッセージです。イエスが納められた墓が空であることは、神が私たちの生も死も受け入れて私たちを愛しぬいてくださっており、死はイエスを墓の中に留めおくことができないことを示しているのです。イエスの墓を訪れた婦人たちは、このしるしを受けて、イエスの死を嘆き悼むことから方向転換し、イエスの復活の力に生かされる者へと変えられていきます。主イエスの甦りは、それを受け入れて信じる者にとって、遺体さえ取り去られたという意味ではなく、主イエスが死を越えていつも私たちを共にいてくださる神の勝利のメッセージなのです。
空の墓の前で、二人の御使いは「まだガリラヤにおられた頃、お話になったことを思い出しなさい。」と言いました。また8節では「そこで婦人たちはイエスの言葉を思い出した」とありますが、この「思い出す」という言葉は、ただ「忘れていたことを記憶に再生する」と言う意味ではなく「今、昔のことが現実に再現する」という意味です。この「思い出す」という言葉は「記念する」とも訳されています。聖餐式の聖別祷の中で、司祭は「私の記念としてこのように行いなさい」という主イエスの言葉を唱えます。私たちはこの聖餐式の中で、ただ二千年近く前の歴史上のイエスを偲んで、追悼式のようにパンとブドウ酒を受けるのではありません。主イエスが「あなた方のところに私が共にいるのだから、そのことを現実のものとしなさい。」と言っておられるのです。婦人たちはかつてイエスがガリラヤで語ってくださった御言葉を「思い出し」ます。彼女たちはただ昔のイエスを懐かしく思ってその思い出に浸るのではなく、生きておられるイエスに導かれる「今」を生き始めます。その時、かつてガリラヤで与えられた交わりや思い出は、単なる昔の思い出ではなく、主イエスが貧しさや弱さの中に共にいてくださる力となって、主イエスが私たちと共に歩み始めてくださることを体験するのです。主イエスの出来事、特に主イエスの十字架の死と復活は、主なる神が、主イエスをとおして開いてくださった新しい愛の交わりの始まりとなりました。復活の主イエスが私たちと共に生きて共に歩んでくださいます。
 自分の力では死の限界を超えることの出来ない私たちにも、復活の主イエスによって神の愛が示され、死の先にまで生きる喜びが与えられています。
 主イエス・キリストの御復活を感謝し心よりお喜び申し上げます。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 21:44| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする