2017年08月01日

からし種 マタイによる福音書13:31−33,44−49a  聖霊降臨後第8主日(特定12)  2017.07.30

からし種
マタイによる福音書13:31−33,44−49a
聖霊降臨後第8主日(特定12) 2017.07.30

聖書にでてくる「からし種」を、日本でも時々見かけることがあります。私がこのからし菜の花を初めて見たのは、合同礼拝の会場ともなった群馬県の共愛学園の花壇でした。かつて、私が前橋に勤務していた折、教区信徒一致の日合同礼拝会場としてその学校のチャペルと幾つかの施設を使わせていただくため、共愛学園を訪問してご挨拶とお願いをし、その帰りに校舎を出た時のことだったと記憶しています。おそらく、その学校では、「聖書の植物」としてからし菜を育てていたのだと思いす。そのからし菜の背丈は、2階にベランダに届くほどの高さで、おそらく3メートルくらいには伸びており、黄色い花をつけ、種もできていました。私は、種の入ったサヤをいくつか無断で採って持ち帰り、聖書の話をするときに教会の人々にその種を見てもらったこともありました。このからし菜は菜の花の仲間のいわゆるアブラナ科の一年草です。このからし菜がパレスチナのいたる所にあって、主イエスはこの「からし菜」の種を例えにして、天の国についてのお話しをなさったのでした。
 今日は、この例えから、神さまのご計画が推進されることについて考え、私たちも天の国を実現するための器となって働くために導きを受けたいと思います。
 もう少しこの「からし菜」という植物について触れておきましょう。聖書辞典によると、新約聖書の中で「からし種」と訳されているこの「からし菜」は、日本語で言えば、「菜の花」と言うくらいの曖昧な意味で、アブラナ科の植物の総称です。パレスチナでアブラナ科の植物の中で最も代表的なものが、クロガラシという種類のものであり、畑にも栽培され、肥えた土地に放置しておくと3〜4メートルほどの見上げるような背丈になり、そこに、鳥がやってきてその種をついばむようになります。パレスチナの人々はこのように育った「からし菜」を「からしの木」と呼びました。「木」と呼ぶ程に大きくなるとは言え、先ほどもお話ししたように一年草であり、沢山の種が取れます。その種は小さく、日本のアブラナの種よりもずっと小さく、何故こんな小さな種からあれほど大きく育つのかと思わせるほどで、種は砂粒ほどに小さいのです。
 私が知っている種の中では、一番小さいのがこのからし菜か松葉ボタンです。からし種の一粒は、砂粒のように小さいです。でも、その一粒の中には不思議な生命力と命のプログラムが内在しています。そのプログラムは人の目には見えないけれど、どのように芽を出し、葉を出し、花を咲かせ、実を結ぶのか、その種粒の中に既に遺伝子のプログラムが出来ています。私たちが種を育てる時に出来ることは、種そのものの持っている成長力を十分に引き出すように、水や光といった条件を整え、鳥や害虫から守る事でしょう。そうすることによって、種は内在する力によって芽を出し、葉を繁らせます。人が花が咲くようにからし菜の茎を無理矢理引っ張り、つぼみを手で開けば、かえってその成長を邪魔することになってしまいます。
 そのことを別の視点から言えば、私たちのなすべきことは、この世に神の御心が現れ出るように祈りながら、神さまのイニシアティヴに応えつつ従っていくことであると言えるでしょう。
 主イエスは、小さなからし種を例えにして、天の国の話しをなさいました。主イエスがこのお話をなさっている時、人々の周りには実際にこの「からし菜」が沢山あって、花を咲かせていたり背丈を大きくしていたのかも知れません。
 もし、そうであれば、主イエスはその植物を指さしながら、「天の国はからし種に似ている」と言われたことでしょう。天の国とは、どこか特定に領土や地域を意味しているのではありません。天の国とは、神さまの御心が現れ出ており、神さまの御心によって治められている姿のことであり、そこは、休み所もなく空を飛び回っていた鳥も羽を休めることができ、安心して巣を作ることが出来る所である、と主イエスは言われます。
 私たちは、時に、自分の目の前にある現実の大きな課題に圧倒されて、自分の小ささや力のなさを感じる時があります。そこが天の国とはほど遠いと思えることもあるでしょう。神さまの御心を自分の身を通して示していこうとしても、自分一人の力ではどうにもならないと思えるような時もあるでしょう。主イエスは、からし種一粒のような小さな存在である私たちに、「天の国はからし種のようなもの」であると教えてくださいました。私たちは、現実の中でその状況をただ否定的に見てそこに立ちつくしてしまうのではなく、そこに神の御心を現すために働くことを求められています。たとえどんなに小さくても、そこにからし種の粒ほどの信仰があれば、それが見た目にはどんなに小さな可能性であっても、その「からし種」の粒は、やがてはそこに鳥が巣を作るほどになる希望が開けてきます。今はからし種の一粒のように小さく見えようとも、そこに神の御心が命となって宿る本物の種であれば、いつかは神さまのご計画によって、私たちは大きな実りを与えていただけるという希望があるのです。そして、私たちは、このような希望によって、今私たちの置かれている様々な困難や苦境に対しても、御心を行っていく力を与えられ、厳しい現実に対しても向かっていく姿勢を整えられるのです。このようなからし種の中にある小さな命の希望が、困難と思われた現実を動かし、変化を生み出すのです。
 そして、主イエスは、このような「からし種」の例えが本当のことであることをご自身の生き方によって示してくださいました。主イエスは、神の国の教えを説き、その実現のために枕するところもなくお働きになり、その末に十字架に付けられて殺されました。主イエスは当時のユダヤ教指導者の考えに照らして、来るべき「神の国」に相応しくない者とされ、神の国に反逆する者と見なされ、十字架の上に処刑されたのでした。でも、主イエスが十字架の上で示してくださったお姿の中に、その主イエスこそ本当の命の種であったと理解する人がいました。その人々が、主イエスに希望を見出し、信仰者のグループを形成するようになります。このグループがエクレシア(教会)であることは言うまでもありません。
 今日の使徒書の言葉にも少し注目してみましょう。ローマの信徒への手紙第8章26節で、パウロは「霊も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」と言っています。この言葉を今日の「からし種」の例えに引きつけて言えば、からし菜の種が未だ小さくてそれが何か具体的な力ある働きとして姿を現していない時でも、聖霊はそのからし種の命を支えて祈っているというのです。こうした聖霊の支えを受けながら、ほんの小さな一粒のからし種は芽を出すことができ、やがては鳥がそこに巣を作るほどに成長していくのです。私たちがそのような神の国の成長にかかわれるとき、主なる神が人の思いを遙かに超えてご計画を用意し、自分たちを用いてそのご計画の実現をなさったのだと実感する時が来るのです。その時私たちは、自分が神の国を推進したという傲慢を打ち砕かれ、神の国の成長と発展のために自分を用いてくださった主なる神さまに感謝し、神さまを誉め称えることができるでしょう。
 そして、からし種でも麦でもそうですが、種が地に落ちて神さまのご計画が進んでいくとき、種はもはや種のままの姿ではなくるのです。種が自分の殻を破られて神さまのご計画によって新しい生き方へと導かれるとき、種は数え切れないほどの新しい種を実らせます。このようにして種は命を新しい種に引き継ぎながら、天の国の実現の歩みは進んでいくのです。
 天の国は、聖地を奪い取る争いをすることで実現するものではありませんし、他人の思想や言論を監視したり統制したり強制することで実現するものでもありません。今、自分が置かれた状況の中で、何が主の御心であるかを祈り求め、たとえからし種の一粒のように小さく思えることでも、神の御心を行う歩みを踏み出していくときに、それは成長し始め、やがては神さまの大きなお働きの中に用いられることによって天の国はその姿を顕してくるでしょう。小さな私たちを天の国の実現のために選んでくださった主に感謝し、神さまの大きな働きの中に用いられる喜びに与りましょう。
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2017年07月25日

「毒麦」のたとえ  マタイによる福音書13:24−30,36−43 聖霊降臨後第7主日(特定9)

「毒麦」のたとえ
マタイによる福音書13:24−30,36−43  
聖霊降臨後第7主日(特定11) 2017.07.23

今日の聖書日課福音書は、聖書新共同訳には『「毒麦」のたとえ』という小見出しがついている箇所です。
 ある人が畑に麦の種を蒔きました。人々が眠っている間に敵が来て毒麦を蒔いていきました。やがて芽が出て実ってみると、麦に混じって毒麦も現れました。僕たちは主人にこのような毒麦がどこから入り込んだのか尋ねますが、主人はただ一言、「敵の仕業だ。」と応えます。僕たちは「それでは行って抜き集めておきましょうか。」と尋ねると、主人は「刈り入れまで両方とも育つままにしておきなさい。」と言い、「刈り入れの時に麦と毒麦を分けて毒麦は焼くために束ね、麦は倉に収めるように刈り取る者に言いつけよう。」と言ったのでした。
ここで言う毒麦とは、いわゆる雑草のことで、特に根から毒素を出すような種類の植物を意味しているわけではありません。この言葉は、聖書の中でも特にこの箇所だけで集中して用いられており、特別な言葉であると言えます。
 日本でも、田んぼに目をやると、育っている稲の中に雑草が混じって生えているのを見ることがありますが、本来の穀物の生長を妨げ、時には麦を枯らしてしまう雑草を「毒麦」と呼んでいます。
 パレスチナの麦畑は、日本の麦畑のように整然と列をなすうねをつくるのではく、畑一面に種をばらまいて育てます。発芽してしばらくは麦も雑草もよく似ていて、発芽した麦と雑草の両者を見分けることが難しく、かといって成長してくると麦も雑草も互いに根が絡んでしまいます。雑草を引き抜こうとすると、育てるべき麦の根を土から浮き上がらせて、育ち始めた麦を枯らしてしまうことになります。そこで、収穫の時に刈り取った麦と雑草を選り分け、麦は納められ、雑草は燃え盛る炉の中に投げ入れられて焼き払われるということになるのです。
 今日の聖書日課福音書で、主イエスは当時の日常生活の中にある具体的な事柄を用いて、それを譬えにしてお話ししておられます。ことに今日の箇所で、主イエスは、人の軽率な善悪の判断によって、大切なことや必要なこと、その可能性を摘み取り切り捨ててしまうことの危険をについて教え、また、最終的な裁きを神御自身が担ってくださることを教えておられます。
 わたしは今日の聖書日課福音書を読んでいて、聖書のある箇所を連想しました。それは、使徒言行録第5章34節以下に出てくるガマリエルという人のことです。
 この人はファリサイ派に属する律法の教師でした。復活した主イエスが天に帰り、弟子たちは約束された聖霊を与えられて力強く宣教の働きを始めた頃のことです。弟子たちが主イエスの働きを引き継いで多くのしるしと不思議な業を力強く行っていました。そこで、ユダヤ教の指導者たちは、イエスの弟子たちを捕らえて、殺そうとまでしたのでした。この時、ガマリエルはユダヤ議会の人々に向かって次のように言うのです。
 「イスラエルの人たち、あの者たち(使徒たち)の取り扱いは慎重にしなさい。・・・・あの者たちのことは放っておくがよい。あの計画や行動が人間からでたものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。」
 この言葉によって主イエスの弟子たちは、鞭打たれた後に釈放されました。この時、使徒たちは、自分たちがイエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、議会から出て行って、毎日、神殿の境内や家々でイエス・キリストについて福音を告げ知らせたのでした。
律法の教師ガマリエルは、これからどのように育つのか分からない宣教の若い芽を摘み取ってしまうことになるとしたら、それは神のご計画に逆らうことになりかねないし、単に人間の思いから出た計画や行動ならやがては廃れていくだろうから、イエスの弟子たちの働きに干渉することはやめて、そのままにしておくべきだと言っています。
 これは、単に結論を先送りしたり自分の立場を曖昧にしたまま決断しないというようなことではありません。限りある人間の判断が、良い実を結ぶはずの麦の芽を引き抜いてしまうことのないように、そして神御自身が最終的に降す判断を私たちの限られた力で拙速に降してしまうことのないようにガマリエルは訴えているのです。
 今日の聖書福音書で、「麦も毒麦も育つに任せる」とは、当時のユダヤ教ファリサイ派が排他的であり自分の正しさを誇っていたのに対して、イエスを主と告白する人々は最終的な審きを神に委ねて自らは坦々と御心を行う生き方に励んでいた様子がその背景にあることが伺われます。
 今から二千年近く前の主イエスさまの時代だけではなく、今も、この世界には神の国の実現のために御言葉が麦のように蒔かれます。その一方で、また悪の種も、多くの場合それが悪の種だとは判断できないような状態で同じ世界に蒔き散らされています。それらの中には一時の勢いを得てまるでそれが永遠の真理であるかのような錯覚を起こす場合もあるかもしれません。でも、その結果が、神によって選別され刈り取られ収穫される時は必ず来るのです。
 現代ほど毒麦と麦を見分けるのに難しい時代はないと言えるでしょう。人類の歴史は、ある面から見れば、発展と成長の歴史であり、人は発展や成長を良いことと考えてきました。人間は、神さまの似姿に創られて、物事を考え判断していく力と物を造り出していく力を与えられ、その力によって文明を発展させてきました。自分のなす事を良い種の働きとして理解し、苦労を少なくして大量の物品を生産し、経済的に富むことで神の国が来ると考え、そのことに貢献することで神の栄光を現すことができると思い込んできました。しかし、いつの間にかこの世界は富を所有する者が支配し、持たない者は支配されてますます奪われる社会になり、武力や暴力で相手を支配する事が当たり前になってしまいました。
 貧しい者を支配してそこからなお奪い取り、支配する者が浪費しながら生きる一方で、貧しくされ、必要な物さえなく、貧困に喘いでいる人が大勢います。太り過ぎて痩せることを願い年間に百万円単位のお金を費やしている人がいる一方で、戦乱の中で、また貧しくされて死んでいく人が一日平均3万〜4万人にのぼるという報告もあります。人類は、発展と豊かさを追い求めて、ある程度はその目標に達したかと思うと、それまでには気づかなかった新たな問題を生み出し、一体このような歩みは正しかったのだろうかと問い返さないわけにはいかなくなっています。今日の聖書の言葉で言えば、私たちの世界は、畑に麦も毒麦も蒔かれた状態にあって、どれが収穫すべき麦で、どれが炉に捨てられるべき毒麦なのか、今の段階では私たちには全く判断が付かない状態だと言えるのではないでしょうか。
 現代のことに日本人は、何が正しいことなのか、何に基づいて生きるべきなのか、その判断基準を失い、財力のある人によってすべてが支配される動きの中で、地震や水害に遭遇し、生きる根底の価値をいかに共有できるのかを問われていると言えるでしょう。
 このように考えてみると、今私たちが住んでいるこの世界は、主イエスの蒔いた良い麦と神の御心を邪魔する毒麦とが一緒に生えている畑の姿であり、まさにこのような世界の中で、最後の刈り取りを神に委ねながらも、一人一人が神さまから与えられた自分の務めをしっかりと担い、御言葉の種を蒔き続けていかねばならないのです。
 私たちはたとえ小さい者であり限りある者であっても、主イエスの名によってこの世に蒔かれた者であり、違う言葉で言えば、神からこの世界に派遣された者です。
このような情勢の中で、もし、厚かましくも自分を良い種−御国の子ら−の側に置くことが許されるのなら、それは何によってなのでしょう。それは、私たちが、誰もが、主なる神によってこの世に蒔かれた一粒の麦であると信じること以外にはないと思うのです。
 沢山の毒麦の根が張りやすいこの世界にあっても、私たちは神に蒔かれた麦として自分を成長させていきたいと思います。主イエスさまの愛によってこの世界にしっかりと根を下ろし、神によって実りを刈り取っていただける時を祈りながら、この世界に御心を行っていく歩みを続けて参りましょう。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 15:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月16日

御言葉の種を蒔く  マタイによる福音書13:1−9,18−23 御言葉の種を蒔く マタイによる福音書13:1−9,18−23  聖霊降臨後第6主日(特定10) 

御言葉の種を蒔く  
マタイによる福音書13:1−9,18−23    聖霊降臨後第6主日(特定10) 2017.07.16

 今日の聖書日課福音書は、主イエスがなさった「種を蒔く人のたとえ話」の箇所です。この箇所の後半の方では、主イエスご自身がこの例えの説明をしておられます。
 大勢の人が主イエスの周りに集まってきました。主イエスは小舟に乗って腰を下ろし、そこからお話しを始められました。
 その話は、第13章3節にあるとおり、「種蒔く人が種を蒔きに出ていった。」という言葉で始まります。そして、18節を見てみると、例えの中の「種」は「御国の言葉」であることが分かります。主イエスは御言葉を宣べ伝える事を種蒔きに例え、蒔かれた御言葉の種が色々な人の心に落ちていることを伝え、その御言葉を受け取る者、つまり私たちの信仰のあり方を振り返ることを促すとともに、御言葉の種を蒔き続ける神の熱い思いを私たちに伝えています。
 私たちが御言葉によって育まれることの大切さを考えるために、一つの事例をお話ししてみましょう。
 日本に住む国籍を持たない外国人が沢山います。その人々の多くは、日本人の嫌う、でも必要な、汚く危険なきつい労働を低賃金で担いながら生活しています。その人々の家庭に生まれた子どもたちの中には、いわゆる就学時期になっても、学校に行くことができない子どもがいます。日本国籍がなく、また外国人としての登録もしていないので、就学のための通知を受けとることができず、中には不法滞在者の子どもとして就学を拒否される場合もあります。
 それらの子どもたちは、就学前の適切な保育や教育を受けることもできないことが多く、多くの場合、幼少期には、同じような境遇や環境にある人々が居住する地区で支援も受けられずに過ごしています。そのようないわゆる無国籍児のための学校つくりと教育のために働いた人の話を聞いたことがありました。
 現地の言葉であれ日本語であれ、彼らがしゃべる言葉と言えば、日本語にすれば、「畜生!」「この野郎!」「殺すぞ!」という言葉ばかりが頻繁に飛び交い、このように荒んだ言葉の根底にある彼らの劣悪な生活状況の改善と教育の必要性を考え、行政への働きかけと同時に彼らのための教育施設の立ち上げを呼びかけ、また自らその子どもたちの教育を始めた人の話でした。
 その話を聞いて以来、私は、今日の聖書日課福音書の箇所を読む度に、御言葉の種を蒔くことの大切さを思い、またそうした事例を通して、すべての人に命のある御言葉の種が蒔かれねばならないという思いを新たにせられます。
 言葉は、私たちがお互いの思いや考えを伝える道具であると同時に、自分の感情、気持ち、考えを自分で把握して心の安定を保つためにも大切な道具です。人間は、他の人とも自分自身ともコミュニケーションを持つことによって育ちますが、言葉はその大切な要素であり、言葉は時には人間の導き手にもなります。特に小さな子どもの場合、言葉を獲得していくことと自分と身の回りのことについての認識を深めて心理的にも安定した人間に成長していくこととの間には密接な関係があります。先の子どものような事例は、日頃両親をはじめ周りの人たちからどのような言葉をかけられ、心の中にどのような世界が創られてきているのかを思うと、今でも胸が痛む思いがします。
 それと同時に、私たちは、「種蒔く人のたとえ」から、日頃から自分が他の人々に対してどのような言葉をかけているのか、改めて自分を振り返らないわけにはいきません。私たちがついしてしまう陰口や悪口の中にも、少しも命を育まない言葉や、一時の快感に人を酔わせながらも麻薬のように心を蝕む言葉もあるのだと言うことを、私たちはよくよく心得ておかねばなりません。
 主イエスは、良い土地に落ちた御言葉は百倍、六十倍、三十倍の実を結ぶと教えてくださいました。人は生まれてくるとき、どんな言葉でも受け入れて宿す「良い土地」の状態で生まれて来ます。幼い子どもの心ほど御言葉の種を受け入れて成長させるのに相応しい「良い土地」はありません。でも、そこは雑草も毒麦も生えやすいし、そのまま放っておくと毒麦や雑草の方が成長が早くて、良い土地もいつの間にか茨の地に変えてしまうことっも、私たちはよくよく心に留めておかなくてはならないでしょう。私たちは、柔らかで吸収力のある幼い子どもの心の土壌に、日頃からどのような種を蒔いているでしょうか。また、子供ばかりでなく、周りの人々や新しく教会を訪れた方にどのような御言葉の種を蒔いているのでしょうか。
 主イエスが語っておられる「種」である「御言葉」とは、決して礼拝の中での「説教」や聖書の内容に限られたものではありません。むしろ他の人々が日頃の生活の中で経験していることに、私たちがどれだけ寄り添って、どのような言葉をかけているのかと言うことが、大切なのかも知れません。私たちは日頃から、自分の置かれている状況で主イエスはどのように言葉をおかけになるのだろうかと考えて、他の人の話に心を寄り添わせ、心を込めた言葉を掛ける事が大切になってくるのではないでしょうか。
 もう随分昔のことになりますが、私はかつて勤務したある幼稚園で、保育者が子どもたちにどのような言葉をかけているかを観察して記録を取ってみたことがありました。その結果を集計したある先生が、「〜しなさい」「〜しましょう」と言う指示と命令、「止めなさい」「ダメです」という禁止と制限の言葉をいかに多く用いられているかを再認識して愕然とした、と振り返りました。そして冗談半分に、もし自分がそんな環境の中に置かれていたらこんな私はその先生を(つまり保育者としての自分を)嫌いになってしまうと言って笑い合いました。もし人が否定や禁止の言葉ばかりを与えられていれば、誰でも自分が自分として存在する自信を失っていくでしょう。或いは、その反動で反抗的になり、自分も他人に否定や禁止の言葉をかける心の構造をつくっていくことになるでしょう。
 神の御言葉は「種」に例えられているとおり、命があります。人は他者からありのままの自分を認められ自分自身として存在していることを受け容れられる時に、更に本物の自分として成長していく力が湧き上がってきます。神さまは全ての人に命を与えてくださって、全ての人は固有の人として生きるためにこの世界に遣わされています。こうして教会に集い御言葉に生かされる者は、それぞれにお互いと自分を大切にし合い、神から与えられた人生を共に豊かに生き合えるように、神から御言葉の種を蒔かれ、また蒔かれた御言葉の種を自分のうちに育てて蒔く者になるのです。
 クリスチャンは、神から受けた御言葉の種を人々に蒔きながら、人々が本物の自分を取り戻して生きることが出来るように祈り、人としての成長の過程を共に生きるのです。
 聖書の中には、御言葉を自分の内に宿し、伝えていくことを促す言葉が沢山あります。例えば、テモテへの手紙Uの第4章2節に次のような言葉があります。
 「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。」
 またコロサイの信徒への手紙第3章16節には次のような言葉があります。
 「キリストの言葉があなたがあの内に豊かに宿るようにしなさい。」
 御言葉の種蒔きは他の人を支配したり操作するための言葉を発する事とは異なり、蒔いた結果はすぐには目に見えないかも知れません。でも、はじめにもお話ししたように、人の心は基本的にどんな種でも受け容れる地味の豊かな素晴らしい大地であったはずです。人によって発芽や成長の違いはあっても、良い御言葉の種が蒔かれ続ければいつか必ず豊かな実りを与えられるでしょう。そのために、私たちは祈りを通して神との通路をしっかりとして、御言葉の種を受け入れて育てることが出来るように、先ず自分を整えられたいと思うのです。そして、他の人々に向かって豊かな命の御言葉の種を蒔けるように育まれたいのです。
 私たちは、今は時が良くても悪くても、悪い時にはなお更、心を込めて御言葉の種蒔きをすることが出来るように主イエスの御言葉とみ糧を受けてここから遣わされて行くのです。蒔かれた神の御言葉を私たちの心に宿し、その御言葉が思いと言葉と行いの原点になって、更に御言葉の種が多くの実を結びますように。私たちは御言葉の豊かな実りを祈りながら、御言葉の種を蒔き続けていきましょう。
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