2019年12月02日

主にお会いする備え  マタイによる福音書24章37−44節    降臨節第1主日 2019.12.01

主にお会いする備え  マタイによる福音書24章37−44節     降臨節第1主日 2019.12.01

 教会の暦は新しくなり、救い主をお迎えする備えをする期節になりました。御言葉から主イエスを迎え入れる備えを進める上での導きを受けたいと思います。
 私たちは、降臨節の初めの主日である今日、福音書から、私たち一人ひとりがしっかりと主なる神と向き合い、心の奥深くに主イエスに宿っていただけるように、また、私たちが主なる神さまに迎え入れていただくのに相応しく備えをすることが出来るように、御言葉による導きを受けたいと思います。
 少し理屈っぽい話になりますが、私たちが聖書を読む時(特に福音書を読む時)には、次の3つの視点を持って読むことを意識したいと思います。
 一つは、福音書に記された主イエスの御言葉を、実際に主イエスが弟子たちや群衆に、時には当時のユダヤ教の指導者たちに対して、語った御言葉として読むこと。
 二つ目は、この福音書を記した福音記者マタイが伝えようとしている主イエスを読み取ること。例えば、これまでに学者や小説家が「イエス伝」や「イエスの生涯」を書いていますが、聖書の福音記者たちも各福音書を通してそれぞれの伝えている「主イエス」を分かち合うことになります。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネがそれぞれに描き出し伝えようとする主イエスを読み取って、各福音書の記者がどのような意味で主イエスが神の子であり救い主であると伝えているのかを読み取っていく必要があります。
 そして三つ目には、福音書が今の時代を生きる自分に向けられているメッセージを読み解き受け止めることが求められます。私たち一人ひとりの生きるそれぞれの状況の中で私たちは聖書の言葉を与えられおり、私たちが置かれている状況や生活の背景が違うのならその御言葉から何を読み取っているのかということもそれぞれに違ってきます。私たちは、与えられた聖書の言葉が自分にはどのような意味があり何を求められているのかを深く思い巡らして導かれる必要があります。
 このように三つの視点を持ちつつ今日の福音書を読んでみると、主イエスがおられた時代の人も、その数十年後に福音記者マタイが伝えようとした対象となる人びとも、また、今を生きる私たちも、救い主の来臨を待ち望みながらも、その時がいつか分からず、またその時にはどうに対処したらよいのか分からず、戸惑ったり不安になることがあることを感じさせられます。
 主イエスは、マタイによる福音書第24章42節で「目を覚ましていなさい。あなたたちの主が、いつ来られるか、あなたたちは知らないからである。」と言い、44節で「だから、あなたたちも用意していなさい。人の子は思わぬ時に来るからである。」と言っておられます。
 ここで主イエスが言っておられる「目を覚まして、用意をする」と言うことが、実際に睡眠を取らずに空を見上げて両手を広げていることではない事は言うまでもないでしょう。
 主イエスは、今日の福音書の中でノアを例に挙げて、救い主がいつおいでになるか分からない中でどう生きるべきかを教えておられます。
 ノアは、旧約聖書創世記の中で「神に忠実な人」として描かれています。この世に悪がはびこり、神はこの世界に大洪水を起こしてこの世界を一度滅ぼすお考えをお持ちになりました。ノアは神から大きな箱舟を作るように命じられますが、多くの人が神の御心など少しも顧みない中で、ノアは忠実に神の命じることを実行したのでした。人びとが自分の力を頼みとしてて争い合う世の中で、ノアは愚直なまでに神の御言葉を実行し、世間の人びとからは変わり者に見られバカにされることもありました。でも、やがて箱舟が完成すると、神は空から大雨を降らせてこの世の罪を大水で沈めたのでした。箱舟で救われたノアとその家族は、やがて洪水が去った後に、祭壇を築いて神を礼拝し、神はこうした滅びを2度と与えないという約束の虹をノアとその家族にお与えになったのでした。
 主イエスの来臨を待ちつつ生きることは、このノアがその時代を生きることに似ています。人は武力や金銭を握ると傲り高ぶるようになり、自分を神の御心に照らして顧みることがなくなります。主イエスはノアの時代を例に挙げて、「再びおいでになるキリスト」を待ち望むとはどのようなことであるかを教えておられます。
 「再びおいでになるキリスト」にお会いする備えとは、武力や財力によって自分の我が儘を通そうとする事ではなく、ノアのようにいつでも神の御心を尋ね求めてそれに応えて生きることでにあります。
1週間前に来日しておられたローマ教皇フランシスコは、11月24日に長崎で核兵器廃絶に向けた演説をし、「この町は、核兵器が人道的にも環境にも悲劇的結末をもたらすことの証人だ」と述べ、「武器の製造や維持に多額の費用が使われていることは途方もないテロ行為だ」と批判しました。このメッセージに照らしてみれば、強く大量の武器を持ってその圧力によって相手を押さえ込む今の世界は、決して救い主の来臨を待つに相応しい姿であるとは言えないことに気付かされます。そのような世界は救い主の入り込む余地をなくし、弱く小さな姿で宿ろうとする救い主を排斥していると言えるでしょう。
 救い主の来臨を待つ生き方とは、御心に照らして今の自分を省みて、武力や経済力によって他者を支配する生き方ではなく、絶えず御心に応えてその御心に仕えていこうとする生き方であると言えるでしょう。
 今日の福音書を更に第25章まで読んでいくと、主イエスは実際には神に仕える行いをしながらも自分ではそのようには思わない者の例えと、自分は神に仕えていると思い上がりながら実際には仕えていない者の例えを対比して教えを述べている個所があります。
 ある人が神に言われました。「さあ、あなたのために用意されている私の国を受け継ぎなさい。」でも、この人は神に尋ねるのです。「主よ、私は何時あなたの国を受け継ぐのに相応しくしたのでしょう。」その時主はお答えになります。「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者の一人にしたのは。わたしにしてくれたことなのである。」
 そして、逆に自分は神に仕える者であり御国を約束されていると傲り高ぶっているものに対して、神から「あなたは私が飢えていても牢に入っていても裸であっても気に掛けてくれなかった」と突きつけられる時が来るのです。その人は「神よ、私は何時だって神の御心に背かないように心掛けてきたではありませんか。」と言っても、神は「あなたが小さい者や貧しい者や裸の者にしなかったのは私にしなかったことなのである」言われ、永遠の罰を受けることになるのです。
 私たちは、物が豊かである時には神がお創りになったこの世界に罪がはびこることに無感覚になり、他人の貧しさや弱さにも無関心になりやすいものです。そして、私たちはそこに既に来ておられる救い主を見逃しやすいのです。救い主は強力な武器で私たちを従わせる事はなさいませんし、御心を行うことを私たちに強制することもありません。神は最も弱く貧しい者と共におられ、その人もこの世界で共に生きるようになる時、この世界に本当の御心が示されることになることを静かに教えておられます。再臨の主は貧しさや弱さの中におられます。豊かで強い側にいて神を忘れた人びとの中で、キリストは宿る場所を求めておられます。二千年前の人びとは、救い主が世に来た姿だとは認めることが出来ず貧しい夫婦を馬小屋へと追いやりましたが、私たちは、弱く貧しくされた救い主にどのようにお会いし、どのようにお迎えするのでしょうか。私たちは自分の中にありながらも覆い隠している弱さや醜さに向かい合ってくださるキリストに出会い、そのキリストを迎え入れ、世貧しさと弱さと共におられるキリストをお迎えする事が出来るように備えを進めましょう。
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王であるキリスト ルカによる福音書第23章35〜43節  C年特29(降臨節前主日) 2019.11.24

王であるキリスト ルカによる福音書第23章35〜43節  C年特29(降臨節前主日) 2019.11.24 
 
 今日は、教会暦の年間最終の主日であり、この一週間で教会暦の一年が終わろうとしています。この主日に私たちが与えられている聖書日課福音書の箇所は、ルカによる福音書第23章35〜43節です。この箇所には主イエスが十字架につけられた時、並んで十字架に付けられていた一人の犯罪人にパラダイスの約束をお与えになった言葉が記されています。
 「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」
 この主日は「王であるキリストの主日」と名付けられ、王であるキリストによって神の御心が完成することを思い巡らせる主日とされています。
 皆さんは「王」という言葉からどのようなことを連想なさるでしょう。
 主イエスは、王冠の代わりに茨の冠を押しつけられ、手には宝石をちりばめた杖の代わりに葦の棒をもたされ、王の正装としてのガウンの代わりに派手な衣を着せられ、最後には身ぐるみ剥がされて十字架につけられました。人々はその姿のどこにも「王」であるキリスト−救い主−を見ることなど出来ませんでした。しかし、聖書はそのイエスを救い主であると証しし、教会はこのイエスを私たちの「王」と信仰告白しています。
 王であるキリストを考えるために、一つの例えを挙げてみましょう。
 10人乗りの宇宙船があったとします。この宇宙船には王と操縦士である船長を含めて10人が乗っていますが、この宇宙船が故障してどうしても9人しか乗り続けることが出来なくなってしまいました。王と船長は乗り続ける9人を(逆に言えばここから放り出されねばならない一人を)選ばなければなりません。このような時に王や船長はどのような選択と決断をするのでしょう。その決断によって、この宇宙船の価値観がすっかり変わるのです。船長は次のような決断をしました。その宇宙船に乗り込んでいた一人の犯罪人を宇宙船の外に出して他の9人が生きのびられるようにと考えました。その判断は誰の目にも妥当に見えました。でもその時、王が口を開きました。「私が外に出よう。あなたはここに残りなさい」。犯罪者は「でも、私はこれまでさんざん悪いこともしましたし、外に出されて当然です。せめて私のことを覚えていて下さい。」と言います。これに対して王は言います。「いや、そんなことは問題ではない。あなたは私を王とするこの宇宙船に乗っているのだから、あなたは生きるに値するのだ」。
 この王と犯罪人の姿を見て、他の8人も王と犯罪人との関係が、自分と王との関係に他ならないことを悟るのです。犯罪人であろうが役立たずであろうが、業績があろうが無かろうが、王は自分の宇宙船に乗っているすべての人が自分の民であればその民を生かすために尽くすのです。
 拙い例えですが、この例えから主イエスがどのような意味での王であるのかの一端をイメージしていただけるでしょう。
 国語事典には、「王」とは「君主の称号、首位にある者」と説明されていますが、聖書が伝え教会が証しする「王」であるイエスは、人を愛することに於いて、また神の御心を実践することに於いて、他の誰にも真似ることの出来ない首位にあるお方を意味していると言えるでしょう。
主イエスは、国語辞典に解説されているような意味での「王」ではありません。主イエスご自身は、全く罪のないお方であるにもかかわらず、罪人としての最期を味わいました。そして、罪ある人を死と滅びから救い出して、すべての人を主の民とし、その民をこの世に命を与えられた尊い存在として生かして下さる王なのです。
 これまでにも度々ふれているとおり、聖書でいう「罪」とは、この世の法律に違反して逮捕されるような行為のことではなく、神との関係が断絶してしまっていること、また、本来あるべき自分から離れてしまっている姿を意味しています。そして罪を赦されることとは、誰とも取り替えることの出来ないその人の存在が認められ、また他の人に対しても他ならぬその人として神と人々との交わりのうちに生きるように回復されることなのです。
 冒頭にも読んだとおり、今日の聖書日課福音書は、王である主イエスが十字架の上から、並んで十字架に架けられている犯罪人の一人に、天国を約束なさった箇所です。
 私たちは年間の最終主日に、完全な赦しについて教えられており、その赦しをお与えくださる「王であるキリスト」によって、私たちが終りの時をどう迎えるのかということに心を向けるように促されています。これまでに私たちが犯した全ての過ちや罪は主イエスの十字架を通して赦されています。それを受け入れるのは、本当は勇気のいることです。私たちはこのような完全な赦しを受けて、どのようにそこから先の歩みを起こしていこうとするのでしょうか。主イエスの赦しは、私たちの罪を見て見ぬ振りをしてやり過ごすことではなく、無節操に放任することでもありません。主イエスの十字架を通して神の側から私たちに一方的に無条件に与えられている赦しによって、神の方からはしっかりとつながっていてくださることを示されました。私たちは、その恵みを受けて、自分と隣人を大切にして生きようとする時、自分の罪と向き合い、真実の自分を神と人の前に開くという勇気が必要なのです。私たちは、この完全な赦しへの招きと促しにどう答えようとしているのでしょうか。
 今日の福音書の中で、登場する人物を順に見ていくと、興味深いことに気付きます。もしこの福音書の箇所を絵に描くとして、登場する人物を順に配置していくとしたら、次のようになるでしょう。真ん中の主イエスの十字架から遠い画面の右端から、この様子を見ながらたたずむ民衆、嘲笑う議員、イエスを侮辱する兵士、十字架の上からイエスを罵る犯罪人がいて、画面の真ん中に十字架の主イエスがおられます。そして、主イエスの直ぐ左側にもうひとりの十字架につけられた犯罪人がいます。その男が主イエスを救い主と認めて「私を思い出してください」と願い赦されています。つまり、今日の福音書は、主イエスの十字架を救いのしるしと認めることの出来ない人々の世界が片側にあり、それとは対照的に、もう一方の側には犯罪者として処刑される間際でも、悔い改めて神としっかりつながる事、つまり救いがある事が、主イエスを中心にした絵画のように描いているのです。しかも、主イエスによる救いを認めることの出来ない側の世界には、議員たちや兵士たちのようにこの世の権力によって世を動かし治める人たちがいます。また、十字架の前に自分をしっかりと照らし出すことが出来ずに、遠くから主イエスを取り巻くだけの多くの民がいます。彼らにとっての「王」とはこの世に権力を振るう者を意味しているのでしょう。
 私たちは、一人ひとりがこのような絵画的な描写の中のどこに自分を見出すのでしょうか。或いはまた、私たちは今日の福音書の中のどこに身を置いて、「王」であるキリストつまり十字架上の赦しの御言葉を受けようとするのでしょう。
 私たちは今日の福音書の中に、この世の権力に安住してイエスの中に本当の王の姿を見ることのできない人がいる一方で、その反対側にはたとえ人生の最期であっても十字架のキリストを王として受け入れ、本当の自分を取り戻した人がいるのです。
 私たちは、このような王であるキリストを自分と距離を置いた遠い物語として受け取るのではなく、十字架で赦しを得た犯罪人のように、主イエスが自分を招いて下さっていることを深く受け止めたいのです。
 教会暦の最後の主日にあたり、王であるキリストの十字架の招き赦しをもう一度自分に向けられたこととして受け入れて、主イエスを通して与えられた大きな恵みの中で生かされていくことが出来ますように。
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2019年11月17日

「終わりの時」を生きる ルカによる福音書21:5−19 2019.11.16 聖霊降臨後第23主日(特定28) 

「終わりの時」を生きる ルカによる福音書21:5−19 2019.11.16 聖霊降臨後第23主日(特定28)                           
 教会暦では今日を含めて2つの主日を過ごすと一年が終わります。一年のが終わりが近付いており、今日の聖書日課も旧約聖書、使徒書、福音書ともに、「終わりの時」ということに触れています。
 旧約聖書のマラキ書では、主なる神さまが正しい者と神に逆らう者を選り分けるために預言者エリヤを遣わすと言い、その時に備えて心を神に向けるように促しています。使徒書のテサロニケの信徒の手紙Uでは、「落ち着いて仕事をし、たゆまず善いことをしなさい」と言って、「終わりの時」を迎えることとは日々の生活を投げ出すしてひたすら天を見上げるようなことではなくむしろ御心に沿って着実に日々の生活の中で御心を表していくように勧めています。そして、福音書では主イエスが「この世の栄華に心を奪われるのではなく、また一方で色々な社会現象や自然現象その他の動きに惑わされつことなく、忍耐して神の御心を実践し、命を勝ち取るように」と教えておられます。
 私たちはこうした聖書の教えに導かれながら「世の終わり」「終わりの時」に向かって、生きています。
 最近、私たちの生活の中でも、台風や地震といった自然災害が多く、私たち人間の力を超えた自然の力の大きさを感じさせられています。また、中東などの世界の政治が不安定な中で、テロ、爆破事件等のニュースも絶えることがありません。ある人々はこのような自然現象や不安定な世界情勢などを「世の終わり」やその前触れのしるしということに結びつけ、「終わりの時」とは地球が破滅することであるかのように宣伝して人々の不安を煽ります。またその一方で、世界の動きには全く無関心になって、目の前の楽しさを追い求めて生きる人もいます。でも、「世の終わり」に備えて生きるということは、そのどちらの考えも相応しくないことは言うまでもありません。
 主イエスの地上での生涯は紀元30年頃に終わっています。主イエスが甦って天に上げられたとき、人々はこう考えました。
 「主イエスはその御生涯を通して神の御心を私たちに示して下さった。天にお帰りになった主イエスはまた直ぐに来て下さる。その時、この世界は神の御心によって完全に支配され、神の御心は完成されるのだ。」
 でも、主イエスの時代からルカによる福音書が編集された時代までには、50年以上の月日が流れました。主イエスの再臨を待ち望む人々の中には、「主イエスが天にお帰りになってもう50年も経つ。主イエスの再臨はこれ以上遅くなることはない。この世の終わりは直ぐに来るだろう」と考える人がいました。その一方で、「もう50年経ってしまった。これほどに遅くなってしまったのだから、救い主の再臨は直ぐにはないのではないか」と考える人も増えていました。そして信仰者たちは「このような時代に、私たちは再臨の主をどのような態度で待ち望むことが神の御心に一番相応しいのだろう」と考えていたのです。
 そして、いずれにしても、「終わりの時」に備えることは、いつ来られるか分からない主イエスを待ち望みながら、私たちは今をどう生きるべきなのかということに関わってくるのです。
 仮に、私たちにいつ訪ねてくるか分からない大切人がいるとしましょう。私たちは何をどう準備するでしょうか。もし、その客人がいつの日の何時頃に来るのか予め分かっていれば、その日その時のために計画を立てて入念に掃除をしたり料理をしたり、その客人を迎えることを楽しみにしながら準備をすることでしょう。
 でも、もしその客人が主イエスであり、主イエスがいつおいでになるか分からないとしたら、私たちは何をすべきなのでしょう。私たちがすべき事は、いつか主イエスにお会いすることを楽しみにしつつ、いつお会いしても良いように、自分の人生をごまかさず、いい加減にすることなく、日々自分に与えられた使命を実現するように着実に、誠実に生きることなのではないでしょうか。
 今日の使徒書で、パウロは「自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。そして、兄弟たち、あなたがたは、たゆまず善いことをしなさい。(3:12-13)」と勧めています。当時のテサロニケの人々の中には、「世の終わりは近い」と浮き足だって自分の仕事を放棄して再臨のキリストに会う準備に専心しようとする人もいたのです。パウロはそのような人々に対して、「落ち着いて自分の日々の生活を通して善い業に励みなさい」と教えています。
 初代教会の時代は、クリスチャンに対する迫害がユダヤ教の側からもローマ皇帝の側からも強まってくる時代でした。クリスチャンが日々の生活の中で神の御心を実現して生きていこうと励むために、それだけかえって思わぬ迫害を受ける事も増してくる時でした。そのような時代に、福音記者ルカは「忍耐をもって神の御心を歩み、命を獲得しなさい。」と主イエスの御言葉を伝えています。
 今日の福音のルカによる福音書第21章18節には「忍耐する」という言葉がありますが、この言葉は「辛抱強く神の許に留まること」や「自分の重荷を担いとおして留まること」を意味しています。この言葉の意味に表されるように、私たちが生きる世界の状況が良くても悪くても、神が最終的に御心を完成させて下さる希望をもって、神から与えられた自分の命を自分らしく精一杯に生き続けることを神は私たちに求めておられるのです。
 いつどのように「終わりの時」が来るのかは私たちには前もって知ることは出来ません。ましてそれを私たちが決めることなどは神と人の主客を逆転させる傲慢につながります。もし私たちが自分の判断で「終わりの時はこれこれの日に来る」などと言うとすれば、それは私たち人間が神の働きを支配することにつながるでしょう。私たちは、主イエスによって示された神の御心を中心に据えて、神ご自身がこの世界の全ての人々のために御心を完成させて下さる時を思い、「御国が来ますように」と祈りつつ生きる者なのです。
 そして、私たちは、自分の働きをとおして神の御心がこの世界に一つ現れ出るように生きていくことを求められています。そのように生きることは決して自分を押し殺してただ神の考えに自分を当てはめて生きることではなく、先ほども触れたとおり、それぞれの人が神から与えられた自分の命をその人として十分に生きることを意味しているのです
 私たちが生きている時代は、主イエスが既に十字架の上で完成して下さった救いの時と、その救いがやがてこの世界に完成する「終わりの時」の中間にあると位置づけられています。私たちは、主イエスが示して下さった十字架の愛と赦しがこの世界が行き渡り満たされる希望の中に生かされているのです。私たちクリスチャンは主イエスが示して下さった神の恵みを既に受け入れた者であり、教会はこの世界に神の求めておられる姿がそれぞれの働きを通して現れ出るように働く者の群れ(集まり)なのです。
 教会暦の一年間が間もなく終わろうとするこの主日に、私たちは「終わりの時」について思い巡らす恵みが与えられました。「終わりの時」について思い巡らせることは、私たちがいつ主なる神にお会いしても良いように今を真剣に生きることにつながります。
 主なる神がお与え下さる「終わりの時」の希望に導かれて、私たちは日々自分を通して神の御心が顕されるよう、それぞれに自分の勤めを果たして参りましょう。
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