2020年08月03日

「麦と毒麦(雑草)」のたとえ   2020.07.19 マタイによる福音書13:24−30,36−43   聖霊降臨後第7主日(特定11)

麦と毒麦(雑草)のたとえ 2020.07.19
マタイによる福音書13:24−30,36−43  聖霊降臨後第7主日(特定11)

今日の福音書は、「麦と毒麦(雑草)」のたとえ話の箇所です。
 ある人が畑に麦の種を蒔きました。人々が眠っている間に敵が来て毒麦を蒔いていきました。やがて芽が出て実ってみると、麦に混じって毒麦も現れました。僕たちは主人にこのような毒麦がどこから入り込んだのか尋ねますが、主人はただ一言、「敵の仕業だ。」と応えます。僕たちは「それでは行って抜き集めておきましょうか。」と尋ねると、主人は「刈り入れまで両方とも育つままにしておきなさい。」と言い、「刈り入れの時に麦と毒麦を分けて毒麦は焼くために束ね、麦は倉に収めるように刈り取る者に言いつけよう。」と言ったのでした。
ここで言う毒麦とは、いわゆる雑草のことで、特に根から毒素を出すような種類の植物を意味しているわけではありません。
 日本でも、麦畑や田んぼに目をやると、育っている麦や稲の中に稲科の雑草が混じって生えているのを見ることがあります。パレスチナでは、日本の麦畑のように整然と列をなす畝を作るのではなく、先ず畑一面に種をばら撒いてから耕していたようです。発芽した麦も雑草もよく似ていて両者を見分けることが難しい上に、地中の様々な深さにある麦も雑草も互いに根が絡んでおり、雑草を引き抜こうとしても麦の根を浮き上がらせて、雑草を抜くことが麦の育ちの役に立たず、かえって麦を枯らしてしまうことにもなりかねません。そこで、刈り入れてから麦と雑草を選り分け、麦は倉に納められ、雑草は燃やされることになりました。
 今日の聖書日課福音書で、主イエスは当時の日常生活の中にある具体的な事柄を例えにしてお話しになりました。ことに今日の箇所では、人が軽率に善悪を判断することで、大切なことや必要なことまで切り捨ててしまうことの危険をについて警告しておられるように思えました。
 私は今日の聖書日課福音書から、使徒言行録第5章34節以下に出てくるガマリエルのことを連想しました。
 この人はファリサイ派に属する律法の教師であり、ファリサイ派の一員として育ったサウロ(パウロ)にも影響を与えた人です(使徒22:3)。
 復活した主イエスが天に帰り、弟子たちは約束された聖霊を与えられて力強く宣教の働きを始めました。弟子たちが主イエスの働きを引き継いで多くのしるしと不思議な業を力強く行い、エルサレムの周辺からやってきた沢山の病気に悩む人や汚れた霊に悩む人々を癒す働きが進められている時、ユダヤ教の教師たちはそれを快く思わず、イエスの弟子たちを捕らえて牢に入れたり、殺そうと考えたのでした。この時、ガマリエルはユダヤ議会の人々に向かって次のように言っています。第5章38節です。
 「イスラエルの人たち、あの者たちの取り扱いは慎重にしなさい。・・・・・あの者たちから手を引きなさい。放っておくがよい。あの計画や行動が人から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものなら、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれない。」
 この言葉によって主イエスの弟子たちは、鞭打たれた後に釈放されています。使徒たちは、自分たちがイエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、議会から出て行き、毎日、神殿の境内や家々でイエス・キリストについて福音を告げ知らせたのでした。
律法の教師ガマリエルは、まだどのように育つのか分からない宣教の若い芽を摘み取ってしまうことになるとしたら、それは神のご計画に逆らうことになり、単に人の思いから出た計画や行動ならやがては廃れていくだろう。だから、使徒たちの働きにどう対処すべきかは慎重であるべきだと言っています。
 これは、単に結論を先送りしたり決断を後延ばしにするようなことではありません。私たち人間は、ともすると自分の思いを優先して、実は気付かないうちに自分の都合の良いような理屈をつけて物事の判断を急いたり先延ばしして、大切な神の御心を潰したり育てようとしなかったりすることがあるのではないでしょうか。
 「麦も毒麦も育つに任せる」とは、当時のユダヤ教ファリサイ派が排他的であり自分の正しさを誇っていたのに対して、イエスを主と告白する人々は最終的な審きを神に委ねて、自らは坦々と御心を行って天の国の姿が現れ出るように働くことを示しているように思われます。
 このことは、今から二千年近く前の主イエスの時代だけではなく、今も、この世界には神の国の実現のために御言葉が麦のように蒔かれます。そして、また悪の種もまた闇に乗じて蒔き散らされています。やがて、神によってその実りが刈り取られ、喜びと共に倉に納められる麦の実りと炉に投げ入れられて焼かれる雑草の種が選り分けられる時が必ず来るのです。
 現代ほど毒麦と麦を見分けるのに難しい時代はないのではないかと思います。人類の歴史は、ある面から見れば、発展と成長の歴史であり、人はそれを良いことと考えてきました。人間は、神さまの似姿に創られて、物事を考え判断していく力と物を造り出していく力を与えられ、その力によって文明を発展させてきました。自分のなす事を良い種の働きとして理解し、苦労を少なくして大量の物品を生産し、経済的に富むことで神の国が来ると思い、そのことに貢献することで神の栄光を表わすと思い込んできました。しかし、いつの間にかこの世界は富を所有する者が支配し、持たない者はますます奪われる状況になり、武力や暴力や財力で相手を支配する事が当たり前になってしまいました。
 この世界には、浪費しながら生きていることが美徳であるかのように考える人がいる一方で、必要な物さえなく貧困に喘いでいる人が大勢います。食べ物を大量に消費して太り過ぎが解消できず、痩せることを願って年間に百万円単位のお金を費やしている人がいる一方で、国連食糧農業機関(FAO)の今年の報告書によると、世界の飢餓人口は8億5百万人で、世界の9人に1人の割合であり、食糧不足による死者(いわゆる餓死者)は一日4万人であると報告されています。この数はここ30年ほど減ってはいないようです。
 また、人間が目先の発展と豊かさを追い求める中で、例えば核エネルギー問題のように、目標に向かって歩んでいるかのような情報操作の中で、未解決の問題が深刻になり、一体このような歩みは正しかったのだろうかと問い返さないわけにはいかなくなることもあります。
 今日の聖書の言葉で言えば、私たちの世界は、神に収穫されるはずの麦と麦の成長を阻む雑草との区別は、発芽したばかりの段階では私たちには判断が付かないことも沢山あるのではないでしょうか。
 現代のことに日本の状況を振り返ると、何が正しいことなのか、何に基づいて生きるべきなのか、その基本的な判断基準を失い、「何でもあり」の社会に突き進んでいるようで、生きる根底の価値を問い返される課題を突きつけられる時代の中にいるように思えてきます。
 このように考えてみると、今私たちが住んでいるこの世界は、主イエスの蒔いた良い麦と神の御心を邪魔する雑草とが一緒に生えている畑の姿であり、まさにこのような世界の中で私たちは主イエスの御言葉をしっかりと受け止めていくことを促されています。
 私たちは小さくまた限りある者であっても、主イエスの名によってこの世に蒔かれた者であり、神からこの世界に派遣されている者です。
私たちが自分を良い種の側に−主イエスの説明によれば御国の子らの側に−自分の身を置くことが許されるとすれば、それは何によってなのでしょう。それは、私が、種蒔きである主イエスによってこの世に蒔かれた者であると信じて、主イエスの御言葉に導かれて生きていこうとする決心と従順の他にはないと思うのです。その信仰を心の中心に据えて、様々な種が蒔かれる今の世の中で、私たちは良い麦を育てていかなければなりません。また、私たちは、御国の子として、御国が来ますようにとその働きのために遣わされていきます。
 私たちは、神の愛を受けてしっかりと根を張り、御国の子として自分を成長させていきたいのです。この世界に御心を行い、御国の姿を現していくことが出来ますように。
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2020年07月12日

御言葉の種蒔き マタイによる福音書13:1-9,18−23 聖霊降臨後第6主日(特定10) 2020.07.12

御言葉の種蒔き マタイによる福音書13:1-9,18−23 聖霊降臨後第6主日(特定10) 2020.07.12 
 
 今日の聖書日課福音書の、マタイによる福音書第13章1節以下には、主イエスが「種を蒔く人のたとえ話」をなさった箇所です。
 ガリラヤ湖畔におられる主イエスの周りに、大勢の人が集まってきました。主イエスは湖畔から舟を出し、その舟に腰を下ろして、そこから話し始められました。
 主イエスの話は、第13章3節にあるとおり、「種蒔く人が種を蒔きに出ていった。」という言葉で始まります。そして18節を見ると、例えの中の「種」は「御国の言葉」であることが分かります。主イエスは御言葉を宣べ伝える事を種蒔きに例え、蒔かれた御言葉の種が色々な人の心に落ちていることを伝え、その御言葉を受け取る者の心の姿、つまり私たちの信仰のあり方を振り返ることを促し、それとともに御言葉の種を蒔き続ける神の熱い思いを私たちに伝えています。
 私たちが御言葉によって育まれることの大切さを考えるために、私がかつて目にしたある出来事をお話したいと思います。
 もう、20年近くも前のことになりますが、私は、ある駅で電車を待っている時に、次のような場面に出会い、何とも言えない重い気持ちになったことがありました。
 プラットホームに駅員のアナウンスが流れました。
 「次の電車は、信号機故障のため5分ほど遅れております。お客様にはお急ぎのところ、ご迷惑をおかけ致しまして誠に申し訳ございません。到着まで今しばらくお待ちください。」
 するとまだ五歳くらいと思われる男の子が、ホームをうろつきながら、誰かに言い掛りをつけるかのように、とても刺々しい口調で独り言を言い出したのです。
 「何だよ、勝手に遅れやがって。早く来いってんだよ。まだ来ねえんかよ。ぶっとばすぞ、てめえ。ナメんじゃねえよ。」
 同じホームで列をつくって電車の到着を待っていた人々が驚いてその子に目をやりました。やがて駅員の「間もなく電車が参ります。電車が遅れまして大変ご迷惑をおかけ致しております。」というアナウンスが流れると、週刊誌を見ていた父親らしい人が「おい、フラフラしてんじゃねえよ。早くこっち来い。おいていくぞ、バカ野郎!」と言ってその子どもを呼び寄せていました。ホームで列を作っていた人々は互いに顔を見合わせました。その親子の口調がそっくりであったことは容易に想像できるでしょう。
 言葉は情報を伝える働きをします。そればかりでなく、私たちがお互いの思いや考えを理解し合うためにも用います。また、言葉は、自分の感情、気持ち、考えを自分で把握して自分を保つためにも用います。更に、言葉は自分の気持ちや周囲の状況を適切にも不適切にも把握し、それを記憶して、周りのことに適切に係わっていく働きもします。人間は他者との適切なコミュニケーションによって成長しますが、言葉は私たちに勇気や慰めを与える一方で、不適切な言葉によって人を傷つけ落胆させる働きもします。特に小さな子供の場合、言葉を獲得していくことと自分の身の回りのことについての理解を深めていくことには密接な関係があり、精神的に安定した人間に育つには、状況を正確に表現する言葉や肯定的で受容的な言葉が与えられる必要があることは、心理学的にも明らかなことです。
 先の駅での出来事は、日頃より子どもたちにどのような言葉を与えるべきかを教えている事例であると言えるでしょう。子どもたちが、蒔かれた言葉によって、心の中に何を育てつつどのような世界を作っていくのかを考えると、胸が痛む思いになります。
 もう一つ、言葉について思い巡らせるための例を挙げてみます。
 ヘレン・ケラーは、1歳7ヶ月の時に熱病によって視覚と聴覚を失って5年あまり混乱の時を過ごしていましたが、7歳の頃にサリバン女史の支援を受けるようになり、指文字によって言葉を獲得していきました。彼女が「水:WATER」という言葉を実物とその意味を結びつけて理解した時の感動は、その後の彼女の秩序ある物事の理解と精神的な成長に大きな影響を与えています。ヘレン・ケラーはその日のうちに幾つかの言葉を獲得し、混乱の中に過ごした自分への後悔にも似た思いと共に自分を意識したと語っています。こうしたことからも、人は良い言葉によって育まれることの大切さに思いを広げてみることができます。そして、私たちが用いる言語の根源には、「はじめに言葉があった」と聖書が伝える神の言葉ロゴズがあることを私たちは信じているのです。
 今日の聖書日課福音書の「種蒔く人のたとえ」が、私たちは日頃から周りの人々にどのような言葉をかけているのか、自分はどのような言葉を受けて来て今があるのか。改めて振り返らないわけにはいかない思いになります。
 主イエスは、良い土地に落ちた御言葉は、百倍、六十倍、三十倍の実を結ぶと教えてくださいました。人は本来、誰もがみなどんな種でも受け入れて宿す「良い土地」の状態で生まれてきます。幼い子どもの心は、御言葉の種を受け入れて成長させるのに相応しい「良い土地」です。でも、人の心は「良い土地」であるからこそ、そこには麦の成長を邪魔する雑草も生え易く、そのまま放っておくといつの間にか茨の地に変わってしまう可能性があることを、私たちはよくよく心に留めておかなくてはならないでしょう。
 主イエスが語っておられる「種」である「御言葉」とは、礼拝での「説教」や聖書の内容に限られるものではありません。むしろ他の人々が日頃の生活の中で経験していることに、私たちがどれだけ寄り添って、どのような言葉をかけているのかということが大切なのかも知れません。私たちは日頃から、もし主イエスがこの状況におられたならどのように言葉をかけるのだろうかと考え、他の人に寄り添い、その人の心に育つ言葉を掛ける事ができるように努めたいと思うのです。このことは、主イエスの御言葉に生かされる者として、いつも心に留めておくべき大切なことであると思います。
 主イエスが御言葉を「種」に例えたとおり、み言葉には命があります。私たちが教会に集い御言葉に生かされる者です。お互いを自分と同じように大切にして、神から受けたみ言葉の種を育て、その御言葉の種を人々に蒔いています。また、私たちは、御言葉の種を蒔きながら、人々の心にみ言葉の種が宿り、育っていくように祈ります。そして、み言葉によって自分を整えられ、秩序づけられて、互いに人としての成長の過程を生きているのです。
 テモテへの手紙Uの第4章2節に次の言葉があります。
 「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。」
 御言葉の種は、他の人を支配したり操作するために蒔かれるのではありません。蒔いた結果はすぐには目に見えないかもしれません。蒔かれたみ言葉の種は耕した大地のような心には確かに定着していきます。蒔かれたみ言葉の落ちるところは、その人によって発芽や成長の違いはあっても、いつか必ず豊かな実りを与えられるでしょう。そうであれば、私たち自身がみ言葉の種を自分の心にしっかりと迎え入れ、育んでいく者でありたいのです。
 主イエスのみ言葉によって養われる私たちは、時が良くても悪くても、悪い時にはなおさら、心を込めて御言葉の種蒔きをすることが出来るように遣わされていきます。豊かな神の御言葉が人々の心に迎え入れられ、その御言葉が思いと言葉と行いの原点になり、更に多くの実を結びますように。私たちは御言葉の豊かな実りの時を祈りながら、御言葉の種を蒔き続けて参りましょう。
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2020年07月05日

「コロナ対策」の「新しい生活様式」という言葉に思う

 
 2020年の上半期には、新型コロナウイルス感染症拡大防止のために、物質的にも精神的にも多くのエネルギーを費やしてきました。このウイルス撲滅は難しく、これからはこのウイルスと共存が必要であるとして、そのための「新しい生活様式」が提唱されています。その「様式」は、感染リスクを避けるために、お互いに距離を取り、互いに接触の機会を少なくする項目が沢山挙げられています。
私は、この「新しい生活様式」という言葉が出る度に、ある種の苛立ちと共に人の成長についての不安を強くしています。と言うのも、私は、人は「大切な他者」とのスキンシップ、視線、言葉のやりとり等による触れ合いと心の交流によって心身の成長と健康を保つことができると考えるからです。
 「新しい生活様式」とは、そうした一面に目をつぶってでも、新型コロナウイルスの感染リスクを下げて、互いに生命を守らなければならないという危機的な状況に対処する必要から生じた言葉であることを踏まえておきたいと思います。これまでの生活様式を「新しい生活様式」へと転換する必要があるしても、これはあくまでもコロナ対策であり、将来に渡って造りあげていくべき「新しい生活様式」ではないと思うのです。
私の極めて個人的なことを記します。
私の父親は、第2次世界大戦の兵役から帰還した後、肺結核を患いました。かなりの大病でしたが、戦後の物資不足の時代を何とか乗り越えて、健康を回復することができました。私は、父親の闘病時代に生まれており、自分の命があることは、ある意味、奇跡的なことです。
私が4歳の頃、父親は長い入院生活から戻って来ました。父の背中には、両肩甲骨に沿って切開と縫合の大きな傷跡がありました。これが私の父親についての最初の記憶です。私は生まれてから4歳近くまで父親不在で育ち、退院した父親は私たち子どもの結核罹患や陽転に神経質で、家族との接触を避けて過ごしていました。私の家族は、父親と「密」を避けていたのです。それは仕方のないことでしたが、結果、私は父親になつかずに育ちました。
 私が4歳の頃のこと、父親に客人があり、話をしている二人のどちらが自分の父親なのか見分けがつかなかった経験があります。私は、幼な心に、父親との関係が疎遠であることに気付いた衝撃を今でも忘れません。
私は、閉じこもりがちな自分の性格は、その頃の父子関係が大きく影響していると思っています。今更、自分の性格を他人のせいにするつもりはありませんし、このような私が生きていることは、父親との関係のことも含めて、神の恵みの中で生かされていることであると思っています。でも、因果関係で言えば、きっと上記のような説明もできると思っています。
 今、新型コロナウイルス感染防止の「新しい生活様式」が提唱されていますが、その主要な課題が「3密を避ける」、「対人関係の距離を取り関わりを希薄にする」ということです。生活様式をその方向にシフトするための具体案などがテレビや新聞などで紹介されていますが、この提言に触れると、私は自分の人間関係の在り方についてのコンプレックスを刺激される思いになります。
私は、人は母親をはじめとする「重要な他者」との密な関係の中でこそ心身共に成長するのであり、人が「生きる」ということは他者と様々に関係を結び、それを積極的かつ肯定的に構築していくことだと考えます。
しかし、「コロナ対策」として提唱される「新しい生活様式」は、その関係を分断し、引き離し疎遠にしていくことになります。それは、現段階ではウイルス感染を防ぐためには有効でしょう。しかし私は、その「新しい生活様式」に、現在の「コロナ禍」を回避する以上の意味を感じることができず、それを「新しい生活様式」と呼ぶことに違和感を拭えないのです。
 現在の新型コロナウイルス感染症の再拡大を防ぐための生活様式を言い表すのに、「新しい生活様式」という言葉よりもっと適切な言葉があるのではないでしょうか。
例えば、「コロナ感染回避の留意点」とか「感染防止の生活方法」という程度の言葉の方が私には相応しく思えます。そして、人間の命をウイルス感染から守るべき課題を克服した後には、人間同士が生きている実感を相互に認め合い喜び合える「生活様式」を創り上げていくべきであると思うのです。
 いわゆる「濃厚接触を避けること」、「不特定多数が集まる場所への出入りを避けること」、「テレワークをすること」などは、現在のコロナ危機対応として有効であることは誰もが否定しないでしょう。でも、私にはそれらをこれからの「新しい生活様式」にすべきだとは思えないのです。
 たとえば、今回の「コロナ禍」を契機に、オンライン通信を積極的に用いることなどは情報交換を速やかにすることにもなり、有効活用すべき分野はあります。でも、私には、他者との距離を取って密な接触を避けることをこれからの「新しい生活様式」にすべきとは考えられません。
 子育てにおいては、スマホやテレビが乳幼児の知覚や感覚を養う主役にはなり得ず、もしそれが可能だとしても、人が生きる上での基本的な判断軸をそちらに転換して良いのかどうかは、人間にとっての大きな課題です。また、乳幼児期の子育てや老人介護においてスキンシップの大切さが再認識されています。私は、現在提唱されている「新しい生活様式」が強調されればされるほど、子どもや老人など介護や心身のケアを必要とする人間には、「重要な他者」の存在とその人々との「密」な関係が不可欠であると言わずにはいられなくなります。こうした人々のことも視野に含めて「新しい生活様式」とはどのような生活様式になるのかについてのヴィジョンを共有する必要があると思います。
蛇足になりますが、私は、「夜の接待を伴う飲食」を推奨する思いはありません。またその場が「ウイルス感染の温床」の一つであることも明らかでしょう。幼少期の母親をはじめとする重要な他者との「密」を欠いた人間は、青年期に入る頃に、幼い時代の身体的接触を取り戻そうとするかのように身体的接触(性的行為)を求めることになるが、その基底にあるのは幼稚な精神なのだ、と表現した人がいます。
 当面の「コロナ禍」を克服することは大切なことであり、感染防止の配慮はかなり長期にわたって継続しなければならないでしょう。
 でも、対人関係のヴィジョンは、ただ経済を回復して維持するだけではないはずです。
 大袈裟になりますが、新型コロナウイルス感染症を経験した人類がこれからどんな生活様式を創り上げていくべきか、後代に何を引き継いでいくべきか、という課題を神から与えられているのではないでしょうか。
状況が時々刻々と変わる中で記すこの文章が的外れにならないことを願いつつ。
(2020年7月5日水戸聖ステパノ教会月報『草苑』第586号所収)
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 22:16| Comment(0) | 牧師のコラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする