2020年05月10日

「道であり、真理であり、命であるイエス」 ヨハネによる福音書第14章1−14  復活節第5主日   2020.05.10

道であり、真理であり、命であるイエス
ヨハネによる福音書第14章1−14   A年 復活節第5主日   2020.05.10

 「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ14:6)
 ヨハネによる福音書によれば、主イエスは十字架にお架かりになる前の晩、弟子たちの足を洗い、教えを説かれました。その時の事は、ヨハネによる福音書の第13章から第17章にまでに記されています。
 この部分は「告別説教」と呼ばれており、十字架の死が迫ってくる前夜に、主イエスが強い緊張感の中で弟子たちに語られた様子が伝わってきます。
 この告別説教の中で、主イエスはこれから自分がどこに行くのかを話し始められました。主イエスは、この世の次元のことを超えて、どこに行こうとしているのかを話しておられます。でも、弟子たちには主イエスのお話になることの意味がよく理解でないようです。トマスは「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしてその道が分かるでしょう。」と言いました。主イエスはそれに答えて「わたしは道であり、真理であり、命である。」と言っておられます。
 このみ言葉を少し他の視点を借りて光を当ててみたいと思います。
 私たちは、誰でも自分を超えた大きな存在に出会うと、それまでの自分が揺さぶられ、崩され、その大きな存在に取り憑かれたかのように、それまでにはなかった生き方へと導かれることがあります。その「大きな存在」が偽物であったり人をだますようなものであれば、それは「洗脳する」ということになるのでしょう。でも、その自分を超えた大きな存在が、人の心の真ん中に入り込んで本来のその人として生かす力となり、その人を成長させ、その人生が意味を持つものとなるのであれば、それはその人にとって、主イエスが言っておられる「道、真理、命」であると言えるかも知れません。宗教学者や神学者の中には、そのように「自分を超えた大きな存在」を「聖なるもの」と呼ぶ人があります。
 この福音書を記したヨハネは、そのような存在である主イエスに出会い、このお方こそ私の歩むべき道を示し、私を本当のこと正しいこと確かなことへと導いてくださり、私に真の命を与えてくださったということを、主イエスのこのみ言葉を通して告白している、と言えるでしょう。
 人は、「道であり、真理であり、命であるお方」に出会って、心の中に化学反応のような出来事が起こり、しっかりとその「聖なるお方」に支えられて、自分の生涯を取り替えのきかない自分自身として生きる歩みを起こします。
 人は自分を超えた「聖なるもの」に出会って感動し、時には我を忘れるほどに驚き、「聖なるお方」に畏れを抱き、それは新たに人が生きる力となります。
 私たちはこうした「聖なる存在」と出会い、あるいはそのような存在を求めて、人としての豊かで質の高い生き方へと導かれて生きていきます。その「聖なる存在」との交わりを失ってしまった人や拒む人たちは、何かそれに代わる物や人や偏った思想に捕らわれたり、その場限りの次元の低い快楽に留まって漂いさまようことにもなるのです。
 福音記者ヨハネは、主イエスが私たちを生かす「聖なるお方」であることを、主イエスに「私は○○である」と語らせる形で表現しています。
 「私は命のパンである。(6:48)」、「私は世の光である。(8:12)」、「私は羊の門である。(10:7)」、「私は良い羊飼いである。(10:14)」、「私はブドウの木、あなた方はその枝である(15:5)」。また、比喩としてではなく、「私は復活であり命である(11:25)」、そして、今日の聖書日課福音書の「私は道であり、真理であり、命である(14:6)」とヨハネは福音書の中で主イエスに語らせています。
 もし私たちが、そのように自分を超えた大きな存在と出会っても、その最後が全て「死」で幕を閉じるのだとしたら、せっかく「聖なるもの」によって生かされ導かれても、それは「死」で終わってしまうことになります。
そうであれば、私たちも今日の福音書の中のトマスと一緒に、主イエスに「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうしてその道を知ることができるでしょうか。」と尋ねないわけにはいかなくなります。
 主イエスがこれまで様々な交わりを与えてくださり、自分を滅びから召し出して立ち上がらせてくださいました。その主イエスが、いま、別れの言葉を述べ始めておられます。トマスにはその深い意味がまだ理解できずに、戸惑いながらも、その只ならぬ雰囲気を感じながら、「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません」と尋ねないわけにはいかないのです。
 このトマスに答えて、主イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。」と言いました。主イエスはこの言葉の一つひとつを大切に、はっきりと「他ならぬ私こそ、道であり、真理であり、命である。」と言われたことでしょう。
 新約聖書の原語であるギリシャ語では、動詞は主語が一人称、二人称、三人称の単数であるか複数であるかによって変化しますので、一般的には主語を省略する傾向があります。逆にそれらを省略しないのは、そのことを強調する意図があるのです。主イエスは、ここで敢えて主語も動詞も省略せずに、完全な文体で、「私は、道であり、真理であり、命である。(Eγω ειμι η οδοs και η αληθεια και η ζωη.)」と強く、丁寧に伝えておられます。
 そして、イエスと弟子たちが実際に日常用いていたアラム語は、ギリシャ語よりもっと動きのある言葉であったと言われています。例えば、ここでは一つ「真理」という言葉を採り上げるにとどめますが、この箇所で主イエスが言っておられる「真理」という言葉について考えてみましょう。日本語で「真理」と訳されている言葉は、ギリシャ語でαληθεια という言葉ですが、ある神学事典によれば、この言葉は、「本質が隠されてはいないこと」「本来の姿を示す開示性」「本当のことを認識させるために語られる文言の現実性、本来性、正当性」と説明されています。つまり、真理αληθειαとは、私たちの心を開いて本当のこと、正しいこと向かわせ、それに基づいて私たちを生かす力であるということを意味していると言えます。
 こうしたことを念頭に置きながら、主イエスのこの言葉を改めて思い起こしてみると、主イエスが「私は道であり、真理であり、命である」と言っておられることは、この福音書を記したヨハネが、「主イエスこそ、私を導いてくださるお方であり、他の何にも取り替えられない究極の真理を開いて示してくださるお方であり、それによって私を最終的に、死の先にまで生かしてくださるお方である。」と自分の信仰を告白している、と言えるのです。
 このことは、福音記者ヨハネだけではなく、それぞれの弟子やそれに続く使徒たちも、皆、主イエスこそ自分にとっての道であり、真理であり、命であることを身をもって体験し、それぞれに自分の生き方を通して、主イエスは「自分の道であり、真理であり、命である。」ことを示す生き方へと突き動かされていきました。
 私たちは、今日の福音書を通して、本当に生かされるべきものに生かされているのかどうか問われています。現代人はこのような主イエスの愛に示された神の「聖なる次元」を科学主義や合理主義による目先の結果を求めることにすり替えてしまい、「聖なるお方」と出会う道を閉ざしてしまいました。人は、昔から、自分の枠を超えて私たちを生かし愛してくださるお方に出会い交わりを持つために祈ってきました。でも、私たち現代人は、祈りを科学主義や合理主義の理屈では説明のつかないものである「聖なる存在」を認めようとせず、「聖なるもの」に触れる機会を失ってしまいました。
 そして現代人が祈るとすれば、その祈りはただ目先の願いを叶えるための術を求めることにすり替わってしまいました。このような状況の中で「聖なるもの」との出会いや交流の術を失った魂は、過激な刺激を求めて一時的な快楽や暴力にふけったり、偽の「聖なるもの」があたかも本物であるかのように感じてその虜になってしまうのです。
 私たちは、今日の福音書を通して、もう一度自分たちが何によって生かされ、何によりたのみ、何処に導かれるべきなのか、問い返してみたいと思うのです。福音記者ヨハネは、主イエスこそ「道であり、真理であり、命である」と言います。私たちがこの主イエスを知り、主イエスに顕された神にどれほど愛されているかに気付くとき、この主イエスこそ自分にとっての道であり、真理であり、命であることをますます深く知って、主イエスとの交わりに生きていく恵みを与えられます。
 主イエスが、私たちのために天に場所を用意していてくださることを喜び、感謝し、「道であり、真理であり、命である」主イエスに導かれて日々生かされて参りましょう。
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2020年05月03日

最初の殉教者ステファノが再現すること  復活節第4主日 2020.05.03 使徒言行録第7章51−60

最初の殉教者ステファノが再現すること  使徒言行録7:7a,51−60   A年 復活節第4主日   2020.05.03

 復活節第4主日になりました。復活節の間、聖書日課朗読のうち第1朗読は旧約聖書に換えて使徒言行録から採用する習慣があります。それは、礼拝する私たちが、主イエス・キリストが復活した後、その力を受けた弟子たちがどのように働いていったのかを学び、主イエス復活の後の時代を生きる上でキリストの復活の力にあずかり、生かされ、導かれることを意図しています。
 今日の第1朗読は、使徒言行録からステファノの殉教の箇所が取り上げられています。
 はじめに、使徒言行録第7章59-60節を読んでみましょう。
 「人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。」
 使徒言行録は、ルカによる福音書を記した人と同一の人が記したと考えられています。福音書で主イエスの生涯と死と甦りを伝え、その続編として、イエス・キリストの復活の後の使徒の働きを記したと考えられています。
 ルカによる福音書と使徒言行録のワンセットの中で、福音記者ルカは、使徒言行録の中のステファノの殉教の場面を、ある思いを持って、福音書における主イエスの十字架の場面と重ね合わせていると考えられます。
 今日は第一朗読の箇所である使徒言行録のステファノの殉教について思い巡らせるために、主イエスが十字架につけられた時の記事と合わせて考え、導きを受けましょう。
 主イエスは十字架に磔にされている時、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのかを知らないのです(ルカ23:34)。」と、自分を十字架に付けている人のために祈りました。ステファノはこの主イエスこそ救い主であると力強くまた大胆に人々に語り伝えましたが、その結果ステファノはユダヤの民族主義に凝り固まった指導者たちにの手によって殺されてしまいます。その場面で、ステファノはこう言っています。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください(使徒7:60)。」
 また、主イエスは十字架で息を引き取られる時に「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます(ルカ23:46)。」と言っておられますが、ステファノは「主イエスよ、わたしの霊をお受けください(使徒7:59)。」と言っています。
 このように主イエスの十字架の言葉とステファノの殉教の言葉を並べてみると、細かな違いこそあれ、同じ内容であり、このことは救い主イエスの十字架で起こったことがステファノの殉教の時にも起こっていることが分かります。それは、福音記者ルカが、復活した主イエスがステファノの中に入り込んで、殺害されるステパノの中に生きておられることを伝えようとしている、と考えることができるのです。
 福音記者ルカは、主イエスとステファノをこのように描き出すことによって、主イエスが示した愛の働きは十字架の上で終わってしまったのではなく、主イエスが十字架の上からお示しになった究極的な愛は、主イエスの甦りによって十字架の死の後にも、なおステファノの殉教の姿に示されるように、使徒たちに引き継がれ、働いていることを伝えている、と言えるのです。
 主イエスは、ご自身の働きを通して天の国の姿をこの世に示し、その実現のためにご自身を献げ尽くし、その結果、十字架にかけられて死んでいきました。神の御心は大きな罪の力に屈してそこで終わってしまったのでしょうか。そうではありません。神の愛は、大きな罪と悪の力を巻き込んで、再び弟子たちを立ち上がらせ、更に大きく、強く、この世界に広がっていくのです。
 主イエスのこの世での最期は、人の目から見れば、最悪の結末としか思えない死でした。しかし神は、主イエスを復活させて、復活のイエスは使徒たち用いて働きます。ステファノが殺害された時にも、主イエスの十字架の出来事と同じことが起こっているのです。
 主イエスは、たとえ自分に不利益が及ぼうとも、殺されることになろうとも、そこに神の愛の姿が一つ開かれるように、神のお働きを担い続ける強さをお持ちでした。そのお姿が、自分を殺す人のことさえ十字架の上から執り成すことに顕れました。その姿が、ステファノによって再現されているのです。
 ガリラヤから主イエスの宣教の旅を共にしてきた弟子たちも同じです。主イエスの十字架の出来事に出会うまでは、主イエスを本当に理解することが出来ませんでした。弟子たちは十字架上の主イエスのお姿と言葉にふれて初めて、主イエスなぜ神の子であり救い主なのかを、身をもって理解することができました。言葉を換えて言えば、弟子たちは主イエスを十字架の死によって失うことによって、主イエスの救いの働きを身をもって知ることになり、この主イエスによって、生まれ変わって、イエスのなさったことを再現させるために働くのです。
 弱く力の無かった弟子たちは、十字架の主イエスを目の当たりにし、復活の主イエスに出会い、その主イエスを宣べ伝え始めました。ガリラヤで召し出され主イエスに従ってきたペトロやヤコブたちばかりでなく、ステファノたちも救い主イエスを力強く宣べ伝え始めました。イエスを抹殺した権力者たちは、イエスを救い主であると大胆に告白して宣べ伝える者への弾圧を強めますが、ステファノをはじめする弟子たち、使徒たちが弾圧され、殺されることで、かえって周りの人々は主イエスの力を知り、主イエスを救い主と信じるようになり、信徒の群れは力を増していくのです。
 ステファノが処刑される場面でも、そこに居合わせた多くの人が、ステファノの中にイエスが生きておられる姿を見たことでしょう。
 私たちが甦りの主イエスと出会うことは、今から2000年近く前にパレスチナに生きたユダヤ人イエスに出会うことではありません。主イエスの示した愛の働きが行われているところに復活の主イエスは共にいてくださり、そこに再現される出来事の中でキリストと出会うのです。
 そして、ステファノに限らず、復活の主イエスと出会い主イエスによって生かされる人は、神の愛を行いに表わし、人々に伝える事へと促されていくのです。
 神の愛は、主イエスから弟子たちに、更にその次の使徒たちに引き継がれていきます。ステファノの殉教の場面ではっきり示された甦りの主イエスは、やがてサウロと名乗る男を捕らえることになります。
 今日の聖書日課のすぐ後の使徒言行録第8章1節には、「サウロは、ステファノの殺害に賛成していた」と記しています。このサウロと名乗る若者は、ステファノが石を投げつけられている間、石を投げる人の上着の番をしていました。サウロはその時にステファノの最期の言葉を聞き、ステファノの中に復活の主イエスが生きておられることを感じたことでしょう。やがて復活の主イエスは、キリスト者の迫害に息を弾ませていたこのサウロを捕らえ、回心へと導き、世界にイエス・キリストを宣べ伝える人として用います。このサウロがパウロであることは皆さんよくご存知でしょう。
 主イエスもステファノも「父よ、彼らをお赦しください。」と祈り、自分を信じるお方に委ねました。
 主イエスと使徒たちのこうした命がけの祈りによって、私たちも自分の思いを超えた愛の力に支えられ、生きる力を受けています。この力に支えられて、私たちは祈られる者から他の人のために祈る者へと変えられ、育まれて参ります。そして、そこに天の国の姿が一つ確実に現れ出てきます。私たちと違う人々や反対する人々を拒否したり抑圧するのではなく、執り成して祈り、復活の主イエスが示してくださった神の力によって、挫折や悩みや困難の先にある新しい世界へと召し出されていくことが出来ますように。
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2020年04月26日

エマオへの道で ルカによる福音書第24章13−35 復活節第3主日   2020.04.26

エマオへの道で     ルカによる福音書第24章13−35  復活節第3主日   2020.04.26

 主イエスが十字架で死んで墓に納められた日は金曜日。その翌日の土曜日は安息日。その安息日が開けた週の初めの日に、二人の女の人が主イエスの墓に向かいました。そこで二人の女性は主イエスの復活を告げられました。
 「イエスは生きておられる。」
 彼女たちはそのことを弟子たちに伝えます。ペトロとヨハネをはじめとする弟子の幾人かは、イエスの墓が空であることを確認しました。その日のうちに「イエスは生きておられる」という噂はエルサレム中に広がりました。
 それでも、弟子たちには、イエスが生きておられることはただの噂話にしか思えませんでした。
 既にその日のうちに、クレオパともう一人の弟子は、エルサレムを後にて歩き始めていました。この二人にとっても、イエスの墓が空であることは、喜びではなく戸惑いであり、むしろ「私たちの先生はその遺体まで侮辱されるのか」という悔しさと落胆の思いを強めるものであり、「イエスは生きておられる」という言葉も、この二人には希望ではなく、混乱させられるものだったことでしょう。
 彼らはエマオに向かって歩きながらこう言っています。
 「私たちは、この方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。」
 彼らには、イエスは既に過去の人になり始めています。
 主イエスは3日前の金曜日に十字架にかけられ、彼らの望みもそこで絶たれてしまったかのように思えました。この二人だけでなく、他の弟子たちも皆、イエスの「神の国を実現する働き」は十字架で終わってしまったと思えました。
 彼らは、イエスに一心に望みをかけていました。ある弟子は漁をしていたガリラヤ湖畔に舟を残し、網を置き、家族をそのままにして、「人間をとる漁師」になろうと、主イエスに従いました。でも、その結果は、その先生の十字架上の死でした。そのことを受け止めきれずにいるのに、かつてイエスのお側にいた女性たちは墓での不思議な出来事を語り、街中に「イエスは生きておられる」という噂が飛び交っています。
 クレオパともう一人の弟子は、イエスへの思いを敢えて振り切るかのように、エルサレムを去ろうとしています。
 私たちも、この二人の弟子のように「イエスは生きておられる」というメッセージに混乱して、そのメッセージに背を向けたくなることがあります。実は私たちも、時に、主イエスの復活について、内心戸惑い、信じられず、他の人から「その噂は本当か」と問われれば、その答に窮して尻込みすることもあるのではないでしょうか。
 「イエスは生きておられる」ということを信じられず、受け止めきれず、イエスの愛は結局のところ十字架の上で終わってしまったとしか考えられず、私たちはエルサレムに背を向けて都を去ろうとする弟子の姿に自分を重ねることもあるのではないでしょうか。
 でも、信仰とは目で見て納得したり触れて確認することではありません。もし私たちの目の前に主イエスがおられたとしても、そのお姿を見ることがすぐに主イエスを「信じる」ということには繋がらないでしょう。もし私たちが甦った主イエスを直に見たから信じるというのであれば、3日前の金曜日に十字架の下から主イエスに向かって「神の子なら十字架から降りて来い。そうしたら信じてやろう」とイエスを罵った人と同じ過ちを、私たちも繰り返すことになるでしょう。
 信仰とは、神の不思議な働きを目で見て、その全て論理的に納得することではありません。信仰とは、自分を通して神の御心が行われるようにとその歩みを起こしていくことであり、その時に私たちは確かに働いてくださる神を更に信じることへと導かれるのです。
 エマオに向かうクレオパともう一人の弟子は、落胆し戸惑いながらエルサレムを離れていきます。イエスについて語り合い、論じ合いながら歩いています。すると、いつの間にか誰かが近づいてきて、二人の話に入ってきました。
 二人は、そのお方が甦った主イエスだとは気付かないで、イエスについて語り合い、論じ合いながら、歩いています。甦った主イエスは彼らがそれと気付かなくても、いつの間にかこの二人に同行してくださっているのです。
 私たちも、聖書の言葉と出会う時、初めのうちはまだそこに主イエスが同行していてくださることには気付かないかもしれません。でも、私たちが互いに聖書の言葉に耳を傾け、心を開いて語り合い論じ合う時、復活の主イエスに出会う準備が少しずつ出来てくるのです。
 二人の弟子は後になって、そこに同行していたのが主イエスだったと分かり、24章32節にあるように、「道々、聖書を解き明かしながらお話しくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか」と語り合っています。
 私たちも、聖書を通して主イエスのお話し下さることを聴こうとする思いへと導かれ、神の御心を聖書の中に求め、そのことを語り合い、そこに共にいてくださる主イエスに出会いたいのです。
 第24章14節には、二人の弟子が「この一切の出来事について話し合っていた」と記していますが、初めのうちは、主イエスの復活を受け止められない自分の思いを述べ合うことが中心だったことでしょう。主イエスはそのような二人にいつの間にか合流してくださっています。はじめのうち、二人は主イエスに尋ねられるままに話し、エルサレムで起こったことを説明していました。でも、いつの間にか弟子たちは同行してくださるこのお方に教えられ導かれ始めます。少しずつ、教え導く主客が反転していきます。
 そして食事の席でも、二人の弟子がもうけた食卓にもう一人のお方が加わったようでありながらも、パンを裂いて渡しておられるのはもう一人のお方の方です。このお方が主宰される食事の席で、このお方がパンを裂き渡してくださった時に、彼らはそれが主イエスであることに気付くのです。主イエスご自身が「取って食べなさい。これはあなた方に与える私の体である」と言ってくださっていることに目が開かれるのです。
 もう一度、同じことを繰り返しましょう。
 二人の弟子たちが語り合い論じ合うところに同行してくださるようになったお方は、食事の場面では、このお方が主宰者となって、パンを裂き養ってくださっています。いつの間にか主客は入れ替わり、二人の弟子は、主イエスの主宰する食卓に招き入れられています。
 私たちもそうなのです。復活の主イエスが分からず受け入れられずにいるときにも、主イエスは、そのような私たちにいつの間にか寄り添って、一緒に歩き始めていてくださいます。
 現在、教会でも、新型コロナ対策のために聖餐式を休止し、このように「み言葉の礼拝」を行っています。でも、私たちも主イエスがいつかどこかで同行して下さるように願いながら、そして主イエスの主宰する食卓からの養いを受けるときが来ることを祈りながら、主イエスを思い巡らせ、語り合い、歩んで参りましょう。私たちが主イエスと出会うことを求めて歩み続けていく時、復活の主イエスはその道のどこかで私たちに同行し、更に私たちを教え導いて下さるようになり、いつの間にか私たちの心を燃え立たせて下さいます。
 更に、31節では、食卓で二人の弟子の目が開けて復活の主イエスを認めた時には主イエスのお姿はまた見えなくなったことが記されています。神は、私たちをただ主イエスを見たり納得したりする次元にいつまでも留め置かれるわけではありません。もし私たちが、主イエスのお姿を特定の考えやイメージの中に固定して、いつもそこから主イエスを見ようとするのであれば、私たちは私たちの思いを越えて大きくお働きになる主イエスをすぐに見失うことになるでしょう。
 私たちは毎主日、聖書の言葉と聖餐の恵みによって、エマオに向かう二人の弟子たちと同じように導きを受ける時が来ることを祈って参りたいと思います。
 私たちが日々の生活の中で、主イエスが共にいて下さるとは思えないような時でも、既に主イエスはいつの間にか私たちと共に信仰の道を歩んで下さり、聖書を示してくださっています。そして、私たちの心を燃え立たせ、主イエスとの交わりのうちに私たちを生かそうとしておられます。
 私たちはこうした厳しい状況の中でも、復活の主イエスに共に歩んでいただいていることを信じて、その歩みの中に主イエスにお会いする喜びに導かれていくことができますように。
 
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 16:02| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする