2018年07月29日

安心しなさい、わたしだ、恐れることはない  マルコによる福音書第6章45-52 2018.07.29 B年 特定12      

安心しなさい、わたしだ、恐れることはない       
マルコによる福音書第6章45-52 2018.07.29 B年 特定12

 はじめに、今日の福音書よりマルコによる福音書第6章50節で主イエスが弟子たちに語りかけおられる言葉を読んでみましょう。
 「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」
 私たちの生活の中で、例えば家族とか特定の集団の中で、その言葉と共に特別な思い出や気持ちを分け合う言葉があります。例えば、子育てをした人であれば、我が子が幼かった時のある場面で口にした言葉が何年経っても親としての慰めになっていたり、楽しい思い出となっていたりして、それが今の自分にとっても力になっているという言葉があるのではないでしょうか。
 今日の福音書の中での主イエスの「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」という3つの言葉は、弟子たちにとって、そのような意味を持つ言葉であったと言えます。
 主イエスがこの世の生涯を終えて弟子たちの目には見えない存在になった時に、弟子たちは主イエスが生前によく口にしておられた言葉を思い出したり、集会の折りに皆でその言葉を分かち合ってイエスの生き方や教えを確認して、主イエスの働きを担う力を新たにしていたのです。
 今日の福音書の物語は、ガリラヤ湖に漕ぎ出した舟が舞台です。
 ガリラヤ湖は、周りを山々に囲まれそこから流れ込む気流の関係で、天候の変動の激しい湖です。その当時、こうした天候の変化は、温められた気流の上昇や冷えた空気の下降ということで理解されたのではなく、湖に住む魔物が姿を表し暴れることと理解されていました。強い風で舟を進めることの出来ない弟子たちの所に主イエスは湖の上を悠然と歩いて近づいておられます。このことは、主イエスが悪や魔物を征服して弟子たちの所にお姿を表しておられることを意味していると考えることができます。 
 聖書の中に出てくる舟は、「ノアの箱舟」に象徴的に示されているように、しばしば救いの箱舟を表したり、やがて教会を象徴するようになりました。皆さんの中にも、主イエスと弟子たちが一つの舟に乗り込んでいるステンドグラスや絵をご覧になったことのある方が多くおられることでしょう。
 今日の福音書には、弟子たちが主イエスのいない舟の中で、逆風のために一晩中漕ぎ悩んでいたときの様子が記されていますが、主イエスが乗っていない弟子たちの舟とは、まさにマルコによる福音書が編集されていた頃の弟子たちの姿を象徴的に表しています。
 5つのパンと2匹の魚で大勢の人びとを養った主イエスは、弟子たちを舟に乗り込ませ対岸のベトサイダに行かせ、ご自身は独り山に登って祈りの時をお過ごしになりました。主イエスは夕暮れから明け方までずっと一人で祈っておられたことと思われます。その間、弟子たちは舟で対岸の町まで行こうとするのですが、強い逆風に邪魔されて思うように進むことが出来ません。主イエスはガリラヤ湖畔の小高い山のような所で祈っておられます。そこからは逆風に漕ぎ悩む弟子たちの舟の様子を遠くに見ることが出来たのではないでしょうか。主イエスは逆風に行く手を阻まれて湖の上で悪戦苦闘する弟子たちの姿を山の上からご覧になり、その弟子たちのためにも祈っておられたのではないでしょうか。
 目に見えるイエスの乗っていない舟とは、主イエスが天に昇った後の弟子集団を意味しているとも言えます。それは、教会の姿であるとも言えます。
 やがては目に見えるイエス無しで御国の福音を宣べ伝えねばならない弟子たちのために神の力が与えられるように、逆風に悩まされつつも主イエスを救い主として生きていこうとする者の集まりに、特にその悪戦苦闘の働きに、神の祝福があるように祈っておられたのではないでしょうか。 
 このような情景を思い描いてみると、ここに描かれているのは、既にイエスが天に昇り、その後マルコによる福音書がまとめられた当時の弟子たちの様子であり、また、目に見える地上のイエス無しで舟に例えられる教会をこの世の逆風の中に帆を操っていく信仰者の姿であり、それはまさに私たち自身の姿と重なってきます。
 マルコによる福音書が成立したのは紀元60年代から70年代とされています。主イエスが十字架で死んで甦り、天に昇られて直接弟子たちの目に見えるお姿でなくなってから30年から40年経った当時、パレスチナをはじめ地中海沿岸の各地に教会、つまり主イエスを救い主と信じる人びとの集まりが出来てきます。しかしその一方で、ユダヤ教の側からもローマの側からも、この集まりに対する弾圧や迫害が起こってきます。。初めは直接にイエスと行動を共にしたペトロやヤコブ、ヨハネたちが指導的な立場にありましたが、やがて生前のイエスを知らない第2世代、第3世代の信徒が多くなり、更にその中から次の世代の指導者が生まれてきます。教会に集う人びとはもう地上の主イエスに直接お会いした人びとではなく、復活の主イエスを信仰する人びとによってその信仰に基づいて「舟」に例えられる教会はこの世の荒波の中を進んでいくことになります。
 弟子たちの間に、また信徒たちの中には、目に見える地上のイエスはいません。その時の教会はまさに、弟子たちが夜明け前の暗い湖を主イエスのいない小舟を操るような経験をするのであって、信仰者は逆風や思わぬ突風に悩みながらそれでも進んでいかなければなりません。
 主イエスは、そのような弟子の所に湖の上を歩いて近づいて来られます。弟子たちはそれがイエスだとは気づかず、幽霊だと思って恐怖に叫び声を上げてしまいます。これも、初代教会の弟子たちの経験そのものであったと言えるのではないでしょうか。
 そしてその様な時、初代教会の信仰者たちは、幾度も幾度も主イエスの言葉を「今、ここ」にいる自分たちに与えられた言葉とすることで力を受けました。クリスチャンはみんなで主イエスの御言葉を思い起こして、実際にその言葉を唱えて、主イエスが共にいてくださる信仰を再確認し、祈りの言葉としたのです。また、弟子たちは時には身近に主イエスを感じられないような状況に置かれ、主イエスの御心をこの世に示しながら生きることの難しさを感じたり、教会が進むべき方向になかなか動かないような経験をすることもあったでしょう。そのような時にも、主イエスが荒波の上をいつの間にか近づいてきて下さり、み言葉を与えて下さり、弟子たちは力付けられ、方向付けられる経験をしたのでしょう。その時、イエスの言葉は、冒頭で触れた幼い我が子の言葉が何十年経った後にも慰めや生きる力を与えるように、信仰者を生かす力となって生きて働いているのです。
 主イエスは弟子たちにこう言われました。
 「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」
 この3つの言葉は、どれも聖書の中の大切な言葉であり、これらの言葉が聖書の中でどのような場面で用いられているのかを当たってみると、大切な場面で用いられていることが分かります。
 3つとも、主イエスが折に触れて弟子たちに言っておられた言葉です。
 例えば、「安心しなさい(θαρσειτε)」という言葉は、ヨハネによる福音書第16章33節にあり、その箇所では「勇気を出しなさい」と訳されています。その箇所は主イエスが十字架につけられる前の晩に、主イエスが弟子たちとの別れの言葉を述べておられる箇所で、「勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」と言っておられます。また、使徒言行録第23章では、パウロがユダヤの最高指導者たちの前で前でユダヤ教の在り方を厳しく批判して命を狙われるまでになった時、11節で主はパウロのところに来て、「勇気を出せ。エルサレムで力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」と言う箇所で、この言葉が出てきます。このように、「安心しなさい(勇気を出しなさい)」という言葉が用いられている箇所を見てみると、人々が不安になり心細くなるような場面で主イエスが弟子たちをしっかりと信仰に立たせる言葉として用いられていることが分かります。
 また、「わたしだ。」と言う言葉は、旧約聖書の中では神がモーセを召し出した時にも神がご自身を示す言葉としても用いておられるように、神がそのお姿を現す時の決まり文句のような言葉であり、原語では Εγω ειμι であり、英語に訳せばIam.です。「私だ。」「私がいる。」という言葉と共に、荒波に揉まれて行き悩む弟子たちに、主イエスはご自身を現しておられます。
 そして、「恐れることはない」という言葉も、例えば、救い主の誕生を羊飼いたちに伝える天使が用いていますが、この言葉は神の顕現に恐れおののく人に向かって、神や天使が語る言葉です。
 私たちの生きる現代の教会も様々な問題に直面して、私たちが主イエスのお姿も確認できないかのように思う時、自分の力で必死に舟を操ろうとする弟子たちと私たちの姿が重なって参ります。そして、そのような弟子の姿と自分の姿を重なり合うとき、私たちは主イエスが「安心しなさい。私だ。恐れることはない。」と言っておられる言葉もまた自分のことと重ね合わせて受け取ることが許されるのです。
 「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」
 主イエスの弟子たちや初代教会の使徒たちをはじめ、多くの信仰の先輩たちが御心に生きる中で主イエスのみ言葉に生かされ、励まされてきました。私たちも逆風に行き悩む弟子たちのように、御心を行おうとするときに様々な困難に出会います。そのようなときにも、主イエスの乗っていない舟でこの言葉を受けた弟子たちのように、強い権力の圧力や糾弾に押し潰されそうになる時にこの言葉を受けたパウロのように、私たちも主イエスの「安心しなさい。私だ。恐れることはない。」という御言葉に生かされて、この世の荒波を越えて導かれていくことが出来ますように。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 21:31| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月22日

僅かなパンと魚による養い マルコによる福音書6:30〜44 2018.07.22 B年特定11

僅かなパンと魚による養い
マルコによる福音書6:30〜44     2018.07.22 B年特定11

 今日の福音書には、主イエスがわずか5つのパンと2匹の魚で男だけでも5千人もの人を養った物語が取りあげられています。
 主イエスと弟子たちの一行は、その地方での宣教の働きの中で、人里離れたところに行って静かに祈ろうとしました。ところが大勢の群衆が、主イエスの行こうとされる所に先回りして、癒しを求め清めを願い、主イエスと弟子たちの一行は休むいとまもありませんでした。主イエスはこのような飼う者のない羊のような群衆をご覧になって「深い憐れみを寄せられた」と聖書は伝えています。そして、群衆に色々と教えを説いておられるうちに、夕暮れも迫ってきました。弟子たちは主イエスに群衆を解散させるように促しましたが、主イエスは弟子たちに「あなたたちが、この人びとが食べられるようにしなさい」と言われたのでした。でも、弟子たちが見回してみると、こんなに大勢の人が食べるのには二百デナリオンあっても足りないと思われました。1デナリオンが当時の一日の賃金とされています。一人の人が毎日働いて二百日分の賃金に相当する額のパンが必要だと弟子たちは見積もったのでした。
 けれど、今、手元にあるのは、五つのパンと二匹の干し魚だけです。それでも主イエスは人びとを五十人、百人とまとまって座らせ、差し出された僅かのパンを手に取り、天を仰いで感謝を捧げ、そのパンを裂いて弟子たちに渡し、また魚をも同じようにして人びとに配らせました。すると、そこにいた男だけでも5千人の人たちが皆食べて満足し、残りのパンを集めると十二の籠に一杯になったのでした。
この物語は、各福音書によってその内容に多少の違いはありますが、4つの福音書のどれにも載っています。この物語は、福音書が記された時代の人びとにとって、それほどに親しまれ力付けられたり慰められる物語であったと言えます。当時の信仰者にとって、主イエスと共に食事をして心まで養われた経験は忘れ難く、彼らにとって心豊かな思い出となり、後々まで彼らを生かす力となったのでしょう。やがて福音書が編集され、多くの人びとが礼拝の中でこの物語を朗読し語り合うことによって、この物語を自分たちの信仰の原点としたり、イエスを救い主とする信仰共同体の在り方を確かめ合っていたものと思われます。
 私たちが自分の心に残る食事のことを振り返ってみるとき、それは単に「高級な料理店の有名なシェフが作った料理を食べた」とか「なかなか口にすることの出来ない珍しい高価な物を食べた」ということではなく、食べる物は質素であっても、親しい人と心が豊かになる時間を過ごす中での食事をした時のことなのではないでしょうか。傍らに親しい人のいない食事は、たとえそれがどれほど豪華で高価であったとしても、寂しいものです。逆に、主イエスが共にいてくださり、主イエスとの交わりの中で食事をすることは、それが例え僅かな大麦のパンと干し魚しかなかったとしても、その食卓はいかに豊かであったのかを今日の福音書は教えています。
 今日の聖書日課の箇所に限らず、福音書には主イエスが当時罪人呼ばわりされる人たちと共に食事をなさった事がいくつも記されています。
 たとえばマルコによる福音書第2章13節からには、主イエスが徴税人のレビを召し出した物語がありますが、その中で主イエスは徴税人レビの家に招かれて食事をしています。主イエスが当時の社会の嫌われ者と食事をする姿を目にした当時のユダヤ教の指導者たちは、イエスのことを「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と批判しました。その時、主イエスは「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」と言っておられます。
 多くの場合、主イエスと食事をするのは、主イエスを慕い求めて集まってくる飼い主のいない羊のような人たちであり、当時の社会から落ちこぼれて周りから罪人呼ばわりされるような人たちでした。そしてそのような人たちだったからこそ、主イエスは集まってくる人びとの姿をみて、「深く憐れんで」、教えられ、夕方になると群衆を解散させようとする弟子たちに向かってそのまま解散させるのではなく弟子たちの手で食べる物を分け与えるようにと命じられたのでした。
 こう考えてみると主イエスが37節で弟子たちに「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」と言っておられることや41節で感謝して裂いたパンを弟子たちに渡して配らせていることは、初代教会が主イエスから与えられた使命(あるべき姿)を示しているとも言えます。
 その当時は、現代の日本のように食べ物が安定して手に入り種類も量もいくらでも贅沢に出来る時代とは違い、しかも主イエスの御許に集まる貧しい人びとにとって、主イエスが共にいて下さる場で、食べ物を共に分かち合うことは、大きな恵みであり喜びであったに違いありません。主イエスによって救われ、癒され、力付けられた人たちは、救い主イエスによって養われた食事を信仰共同体の中で再現しそれを継承するようになっていきます。
 弟子をはじめとする信仰者たちは、今日の福音書の中で主イエスが「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言っておられる言葉を思い出し、それを今ここで行うべき事と受け止め直して、主イエスの残された御言葉を慕い求めて集まる人びとと共に食事を分けうようになっていきました。そして、主イエスを救い主として受け入れた信仰者たちは、主イエスを記念してこの食事を儀式として引き継ぎ、この儀式を教会の礼拝の中で「主の晩餐」として行うようになっていきました。
 私たちも主イエスと交わり養いを受ける食卓であるこの「聖餐」に招かれています。教会は主日ごとに主イエスを記念し聖餐式を行っています。私たちは主イエスの御言葉と行いを、今ここに生きて働くものとして受け止めて、主イエスに養い導いていただくのです。
 今日の福音書では、多くの人びとが満ち足りてそのあまりが集められると十二の籠にいっぱいになったと記されています。十二とは主イエスさまの働きを受け継ぐために召し出された弟子の数です。つまり、主イエスの御言葉と御糧の養いを受けた人びとの働きは十二使徒から満ちあふれて更に広がっていくのです。
 私たちも、今ここで、あの時の五千人の群衆の一人のようになって主イエスの御言葉と御糧に養われ、主イエスの恵みに生かされようとしています。感謝して主イエスの養いを受け、主イエスに従い御心を生きることが出来るように導かれて参りましょう。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 21:45| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月15日

十二弟子を派遣   マルコによる福音書6:7−13   聖霊降臨後第8主日 2018.07.15

十二弟子の派遣
マルコによる福音書6:7−13   聖霊降臨後第8主日 2018.07.15
             
 今日の福音書は、主イエスが12人の弟子を二人一組にして宣教の働きにお遣わしになった箇所が取り上げられています。
 まず、この福音書の箇所がどのような脈絡の中にあるのかを確かめておきたいと思います。
 今日の福音書の箇所の直前には、先主日の礼拝で読まれた箇所があり、その箇所は『聖書-新共同訳』には「ナザレで受け入れられない」という見出しが付いています。主イエスが故郷のナザレにお帰りになり、安息日に会堂で聖書の御言葉をナザレの人々に説いていると、故郷の人々は「あれは大工ではないか。マリアの息子で、イエスの兄弟は我々と同じようにナザレで暮らしていたではないか。」と言いだして、主イエスのお話しになった内容を吟味する事もなく、主イエスはナザレでは受け入れられなかった、というのがその箇所の粗筋です。
 主イエスの宣教のお働きの初期、このような脈絡の中で、主イエスがご自分の故郷ナザレでは受け入れられず、ガリラヤ地方の村を巡り歩いて御言葉を宣べ伝え、更に弟子たちを宣教の働きにお遣わしになりました。
 主イエスは、人びとの悪霊を追い出したり病を癒したり身をもってその人々の中に神の国が出現していることを示し、また、人々に神の国を説き証してガリラヤ地方を巡り歩かれます。そして12人の弟子たちを二人一組にして宣教の働きにお遣わしになったのでした。
 主イエスの育ったナザレでは、多くの人が幼い頃のイエスの様子を知り、家族の様子やその内輪の事さえ知る者も多かった事でしょう。こうした事は、多くの場合、ナザレの人々にとって先入観となって、主イエスの本当の姿を見えなくさせてしまいました。
 選ばれた12人の弟子たちは、きっとそうした先入観を持たず、あるいはそうした先入観を打ち砕かれて、主イエスと出会い、直接主イエスに触れ、主イエスに従う事ができるようになっていったのではないでしょうか。その意味で12弟子にはそれぞれに、自分が主イエスと出会った場所や状況の違いこそあれ、皆自分の心の中に神の国が到来、神の国の訪れを経験しています。言葉を換えれば弟子たちには皆「人間を捕る漁師」である主イエスにとらえられる経験があったのでした。
 その12人の弟子たちは、主イエスから「汚れた霊に対する権能」を授けられました。そしてこの12人は、マルコによる福音書第6章12節にあるように、「出かけていって、悔い改めさせるために宣教した」のです。彼らはその働きをとおして「多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした」(6:13)のでした。
 このような弟子たちの働きは、例えば主イエスから「権能」を示す免状を貰えば、あとは自動的に悪霊を追い出したり癒しの業が出来るようになるということではありません。
 第6章7節で「権能」と訳されている言葉は、聖書の中でしばしば「権威」とも訳される言葉で、原語では[exousia]と言い、ex は外へと言う接頭語であり、ousia 本質 という言葉の合成語であって、権威、権能という言葉は、「本質が現れ出ること」を意味しています。
 この言葉に則して言えば、12人の弟子たちは皆それぞれに主イエスとの出会いを通して、主イエスによって神の愛の本質 ousia に触れ、自分の内面が変えられた人であると言えるでしょう。自分は主イエスを通して神に受け入れられ愛されている存在であり、自分はこの世に生きる意味と価値があり、神から生きていく力を与えられている者であると実感することのできる本物の自分になって、主イエスに従う決心をした転換点があったのです。
 私たちもそうです。私たちも、本物と出会う事によってそれまでの古い自分が打ち砕かれて、自分も本物を求めて生きていくように変えられたり、主なる神に私たちの心の深い悲しみや苦しみに触れていただき、それを受け入れていただき、その経験を通して自分でもありのままの自分を愛しながら生きていく事が出来るように変えられるのです。そこにイエスを通して示された神の愛を受け入れた者の生き方、つまりクリスチャンの生き方が、成立するのです。
 このように、弟子たちが主イエスから「汚れた霊に対する権能」を授けられたとは、神の愛によって生かされている自分を人々に証しし宣べ伝えていく勇気を与えられたことに他ならないのです。
 第6章8,9節を見てみると、主イエスは弟子たちを遣わすにあたり、まさに丸腰で何の装備も無しで行くように命じておられます。このことも宣教の働きとは、神の愛を伝え、そこに自分の中に宿る神の愛が権威となって現れ出てくる以外の何ものでもない事を意味していると言えます。
 主イエスは、弟子たちを遣わすにあたり、宣教の働きに最も大切な要素はパンや袋や資金ではなく、自分が主イエスを通して神の本質(ousia) と出会い、それを受け入れたあなた自身であり、あなたを通して神の愛を示しなさい、と言っておられるのです。
 このことは、今から二千年近く昔の弟子たちだけに言える事ではなく、私たちもまた神からこの世界に送り込まれ遣わされている者なのです。
 自分の身を守る物は何も持たず、丸腰で行くようにと主イエスは命じておられます。私たちが主イエス・キリストの福音を持ち運び宣べ伝えるときに、拠り所とするのは主イエスを通して生かされている自分と主イエスの教えそのものであり、他の何ものをも根拠にしてはならないのです。
 私たちは弱い者です。弱いが故に様々な逃げ場や口実を作って、言い訳をしたり、ごまかしたりしてその弱い自分を守ろうとします。その時に私たちが持ち運んでいるはずのキリストは、私たちが自分を守ることに走ったり、主イエスを伝えることより自分が目立とうとする思いによって福音が見えなくなり、主イエスが私たちから隠れてしまい、他の人々に伝わらなくなってしまうのです。主イエスの弟子であることの誇りは主イエスご自身を根拠としているはずなのに、いつの間にか誰の血筋かとかどれだけの地位や名誉を得ているのか等という事にすり替わり易いのです。そして、多くの場合、この世界に神によって遣わされている恵みを忘れ、自分が得する事へ、自分が目立つ事へ、他人をけなす事へ、他人を引きずりおろす事へと限りなく横滑りしてしまうのです。
 余談になりますが、私たち聖公会には教会として行うべき礼拝諸式の中に伝統的な儀式的要素が沢山残っています。これらは皆素晴らしい豊かな財産なのですが、それらが神の愛の本質に対して相応しく応答していく表現であるという大切な点を忘れると、そのような儀式が単なる形式の伝承に過ぎなくなってしまうという事を、私たちはよく心得ておかなければならないでしょう。
 私たちも一人ひとりが主なる神によってイエス・キリストの務めにあずかるためにこの世界に、この地に、職場に、家庭に遣わされています。
 先主日の使徒書で、パウロは、コリントの信徒への手紙の中で、キリストは私たちの弱さのうちに働くことを教え、私たちは弱い時にこそ主イエス・キリストにあって強い、ことを教えられました。私たちの弱さを通して大きく働いてくださった神の働きを伝えるために、私たちもここから遣わされていくのです。
 主イエスは弟子たちに「杖一本」だけで宣教の働きに出て行くいくように教えておられます。私たちも日々主イエスに生かされ、導かれ、主イエスを通して神の愛に生かされている自分を伝える事が出来るように、主イエスを証する務めへとそれぞれの生活の場へと遣わされていきましょう。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 22:26| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする