2018年04月01日

「死と再生」・祝ご復活    2018.4.1

「死と再生」・祝ご復活
                  司祭 ヨハネ 小野寺 達

 私たちは、時の流れの中に生かされています。車窓から眺める景色がどんどん後ろに流れていくように、生きている今の一瞬が直ぐに過去のものになっていく連続の中に私たちは生きており、生かされていると言えるでしょう。
 そうであれば、私たちは時の流れの中で、絶えず今の自分は過去のものとなり、新しい自分として新たに生まれながら生きているということになります。そのように、私たちは一瞬一瞬の「死と再生」を生きる中、もう少しハッキリとした「死と再生」を経験する時があります。
 例えば、幼稚園生である自分は死んで小学生の自分に生まれ変わり、学生であった自分は死んで社会人としての自分に生まれ変わり、独身者としての自分が死んで妻帯者として生まれ変わり、これまで自信を持ってきた自分が打ちのめされ、失敗を経験した新しい人として再び生き直すというように、それまでの古い自分が過去のものとなり新しいステージ(段階)の自分に生きるという一生をおくります。
誰でも自分の人生を振り返ってみると、この「死と再生」というテーマをしっかり生きることは大切なことであり、結構大変なことだと思えてくるのではないでしょうか。
 それにもかかわらず、私たちは時々こうした「死と再生」のテーマをうまく生きられない時があります。
一つの例を挙げましょう。
 ある高校生3年生が、進学するでもなく就職するでもないままに卒業式を迎えました。彼は、年齢の上では既に立派な成人ですが、気持ちの上では、少年期でやり残したことや出来なかったこと、乗り越えてこなかったことが未整理のままになっており、「一個の少年に死んで一人前の青年に生まれ変わる」ことができなかったという一面があるのでしょう。
 厳しい言い方をすれば、彼に必要なのは「甘ったれの自分に死んで、自分の生き方に責任を持って生きる人」に生まれ変わることであり、そのための助けが必要ならば、自分から然るべき人にその助けを願い求める人に生まれ変わることではないでしょうか。
 私たちは、時々、自分の思い通りではない状況の中で生きていかなければなりません。その時に大切なことは、自分の思い通りではないその状況を嘆いたりそこから逃げ出したりするのではなく、自分には好ましくない状況の中でも、置かれたその状況の中で、自分を通して神さまの御心が現れ出るよう生き抜いていく態度であり、そのように生き抜く先に新しい本当の自分として生きることが始まり、そこに深い「死と再生」があるのです。これは、口で言うほど簡単なことではありませんが、主イエスは十字架の死を通してその真実を示してくださいました。
 イエス・キリストは、徹底して自分を通して神の御心が現れ出るように生き抜いた末に、その生き方が神を侮辱すると考える人々によって十字架の上に磔にされて殺されてしまいました。イエスを通して示された神の働きはこれで終わってしまったのではなく、3日後に復活し、死を乗りこえて更に新しく働いていくのです。その力は、私たちが様々な「死と再生」を生き抜いていくための力であり、支えでもあります。仮に、失敗しても挫折しても、神と自分に偽りなく生きていこうとするのであれば、神は復活の力によってその人を支えぬいてくださり、再び立ち上がらせてくださるでしょう。神は私たちの中に復活の力となって宿ってくださいます。
 やがて、私たちは、この世の人としては死ぬ時がきますが、その時に私たちは主イエスに伴われて甦り、永遠の命へと生かされるのです。
 神が私たちを愛して止まない力は、主イエスを復活させて絶対的な神の愛を示してくださいました。
 主イエス・キリストのご復活を感謝しお喜び申し上げます。
                           『草苑』水戸聖ステパノ教会月報 2018年4月号
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ガリラヤでお会いする  マルコによる福音書16章1−8    復活日    2018.04.01

ガリラヤでお会いする
マルコによる福音書16章1−8    復活日    2018.04.01

 主イエスさまの十字架の死は、私たちの心の奥底に潜む様々な罪を照らし出し、顕わにしました。罪人は、罪の無いイエスに神に見捨てらる思いをさせ、その叫びを上げさせました。そこに、他人に罪を負わす者の卑劣さや酷さが見えます。
 主イエスの十字架は、私たちの罪を強引に暴き立てたり、責め立てる出来事ではありませんでした。主イエスは、人々の罪が引き起こす暴力に対しても無抵抗に、罪を負わせる人々をさえ愛し抜いてくださり、その結果、罪ある人々は、自分の姿が自ずと浮き彫りにされたのです。私たちの心の奥底に巣くう罪は、こうして主イエスの十字架によって明らかにされたのでした。
 主イエスの復活の3日前に、その十字架を取り巻いていた人々のことを思い起こしてみましょう。
 大祭司や律法学者などのユダヤ教の指導者たちは、主イエスとの関わりの中で、彼らの権威主義が露わにされる事を恐れ、正しいことや本当のことが明らかにされることを拒み、主イエスを殺そうと企んでそれを実行しました。ローマ総督ポンテオ・ピラトは主イエスを取り調べる席で、群衆の叫びに負けて、主イエスを無罪だと知りながらも自分の身を守るためにユダヤ人の手に渡してしまいました。群衆は、主イエスがエルサレムにお入りになった時には、熱狂して棕櫚の枝を掲げ「ホサナ、ホサナ」とお迎えしたにもかかわらず、その5日後には扇動されて、真実に目を向けようともせずに、「イエスを十字架につけろ」と叫ぶ側にまわったのでした。同じように通りすがりの人々も主イエスを口汚く罵りました。
 そればかりではなく弟子たちでさえ、主イエスが捕らえられた時、恐ろしくなって、皆クモの子を散らすように逃げ出しました。ペトロは、こっそりと大祭司の館に入り込んではみますが、「お前もあのイエスの仲間だ」と言われれば、呪いの言葉さえ口にして「あんな男の事は知らない」とまで言ってしまいました。イスカリオテのユダは弟子たちの会計を預かりながらその中身をごまかしていましたが、主イエスの前でその自分を告白出来ずに策を弄し、イエスを十字架へと導いてしまいす。イスカリオテのユダは、最後には思いあまって自ら命を絶ってしまったのでした。
 十字架を巡る人々の全てに、十字架の主イエスは迫り、人々の罪を照らし出します。
 人々は一人の無実の男を罪人に仕立てて十字架刑にしてしまいました。イエスを十字架につけた人々は、とうとう最後までイエスという男の中に何の罪をも見出す事は出来ませんでした。幾ばくかの良心を持つ人であれば、自分が罪なき男の死刑に荷担してしまった事に胸を痛めた事でしょう。そこに露わにされた自分の罪に蓋をするように振る舞う人もありました。例えば、ポンテオ・ピラトは無罪の男を死刑にしてしまうような自分の不甲斐なさを嘆いたかも知れません。でも、もし、主イエスが甦らなかったら、話はここまででした。主イエスが甦らなかったなら、人々は、そして、私たちは主イエスの十字架によって永遠に自分の罪が糾弾され続けていくことになったでしょう。
 話はそれで終わりませんでした。主イエスは、十字架の上で人の罪を指し示してえぐり出しただけではなく、罪の虜になっている者を赦し、愛し、その罪と死から私たちを解き放ってくださったのです。主イエスは十字架の上から私たちの罪を浮き彫りにしただけではなく、十字架の苦しみと痛みの極みの中にあっても、なお罪人である私たちを受け入れ、赦し、愛し抜いてくださいました。主イエスのこの愛は、死に閉じこめられることなく、人々を罪に定めて終わることなく、人を赦し、生かし、罪人が新たに本当の自分になって生まれ変わることへと招き、導いてくださるのです。
 主イエスの愛と赦しの力は、罪の中に閉じこめられた人や打ちひしがれている者を再び起き上がらせ、罪を赦された新しい人に生まれ変わらせ、神から命を与えられた真の自分として生きていくように導くのです。
 十字架の主イエスによってそのように導かれた人の一人に、アリマタヤのヨセフがいます。
 アリマタヤのヨセフについては、「彼は、身分の高い議員であった」とマルコによる福音書第15章43節に記します。アリマタヤのヨセフは主イエスを慕い、主イエスの宣べ伝える神の国の実現を密かに待ち望んでいました。でもその事が公にされユダヤ人議会により迫害される事を恐れ、ヨセフは主イエスに対する自分の信仰を公に出来ないでいました。そのようなアリマタヤのヨセフが、主イエスの十字架の出来事を目の当たりにして変えられるのです。主イエスが十字架の上で死んでいく様子を見て、ヨセフは変えられました。彼は公然とピラトの所へ出向き、主イエスの遺体の引き取りを願い出るのです。アリマタヤのヨセフをこのように変えたのも主イエスの十字架の力です。アリマタヤのヨセフは主イエスの遺体を十字架から降ろして亜麻布に巻き、岩を掘った墓の中に納め、入り口には大きな石を転がして蓋にしたのでした。ヨセフはそれまでユダヤ議会の議員であり、その地位と名誉をを保って生きて来ました。彼は、主イエスと共に臆病で保身する自分を葬り、主イエスを通して与えられた神の愛に力付けられ勇気づけられて新しい本当の自分になる歩み始めたのです。
 十字架を通して示された神の完全な愛は人を変えます。
 聖書に記された人々ばかりではなく、私たちも自分が神に大切にされていることを実感できると自分でも自分を大切にし、自分でも自分を愛することが出来るように変わるのです。そしてそれが他者を愛する力になるのです。
 赤ちゃんは、高価で綺麗な玩具よりお母さんの財布に興味を持ちます。お母さんにとって財布は大切であり、赤ちゃんはお母さんが財布を大切にしていることを感じると、その財布にもお母さんに対するのと同じように関心を示し、時にはお母さんが気が付かないでいる間に財布の口を開いて、部屋中にお金を撒き散らしたり、お金やポイントカードをなめて遊んだりすることになります。赤ちゃんがお母さんから愛され大切に育てられる事によって、赤ちゃんは自分でも自分を愛する事が出来るようになり、やがては自分と隣人を愛する人に育ちます。同じように、私たちも神から愛され赦されている事を他ならぬ自分の事として理解し受け入れる時、神が私たちを愛してくださる事を前提にして、私たちは恐れなく自分の弱さや醜さをも受け入れ、自分と隣り人を愛する事へと促されていくのです。そうして私たちは、パウロの言い方をすれば、キリストと共に古い自分に死んで、キリストと共に新しい自分に生まれ変わるのです。
 安息日が明けた朝、マグダラのマリアたち3人の女性がイエスの墓まで行ってみると、入り口の蓋は開けられ墓の中には白い長い衣を着た若者がいました。墓は空でした。主イエスの愛は墓に閉じこめられて終わったのではなく、甦って、私たちより先にガリラヤに行っておられます。女性たちはこう告げられました。
 「さあ、行って弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる。』と。」
 私たちもガリラヤで復活の主イエスにまたお会いすることができるのです。ガリラヤとは、多くの弟子たちが初めて主イエスと出会った場所であり、弟子たちのとっての信仰の原点です。その当時、「辺境のガリラヤ」と言われたように、ガリラヤという言葉には蔑みのニュアンスも含まれていました。ガリラヤとは、人が片隅へと追いやられ、さげすまれ、抑圧されるような弱い者の場の事であり、私たちの内なるガリラヤに目を向ければ、自分の心の片隅の、分かち合えない悩みや醜さや自分の罪が潜むところです。主イエスは甦って私たちより先にそのガリラヤに行かれ、そこで私たちを待っていてくださいます。弟子たちが初めにガリラヤで主イエスと出会ったように、私たちも甦りの主イエスに出会うのは、悩みや困難や自分の醜さを感じてどうしようもないと思ってしまうような心の辺鄙な片隅です。なぜなら、神はそのような私たちをも愛し受け入れ、そこにこそ神の愛を与えたいとお考えになっておられるからです。だから、天の使いである若者は、「そこで復活の主にお目にかかれる」と私たちを促します。
 私たちが、復活のイエスを迎えるのは、十字架を通して知らされた自分の罪深い心の密やかな、ガリラヤのような部分を受け入れられる時であり、その時にこそ私たちは復活の主イエスと出会えるでしょう。十字架の上で見捨てられて叫びを上げたお方が、甦って、神に見捨てられる他なかった私たちとそこで出会ってくださり、私たちを再び生かし導いてくださいます。
 御子主イエス・キリストの十字架の死と甦りを感謝して、その愛を受け入れ、復活の主イエスがガリラヤから−私たちの信仰の始めから−共に歩んでくださることを信じ、喜びと感謝の信仰の道を歩んでいきましょう。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 17:25| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月29日

十字架上のイエス  マルコによる福音書15章1−39    復活前主日

十字架のイエス
マルコによる福音書15章1−39    復活前主日

 町中を歩いていると、多くの人が十字架のアクセサリーを身に付けていたり十字架の描かれたTシャツを着ているのを見かけます。でも、そうした多くの人は、十字架が処刑台のしるしであった事を知らないし気に留めてもいないでしょう。またそうした人々は、絞首刑台やギロチン台をデザインしたものがあったとしたら、それをアクセサリーとして身に付けたりそのようなものが描かれたシャツを着る事はないのではないでしょうか。
 私たちは、特に今日の主日に、またこの一週間、主イエスの十字架の意味と、主イエスが十字架を通して私たちにお与え下さった救いについて深く思い巡らし、主イエスが十字架を通して示して下さった神の愛に生かされるように導かれたいと思います。
 紀元380年にキリスト教がローマ皇帝によってローマの国教になると、十字架はローマ帝国を統一する神のシンボルになります。しかし、イエスがそこに磔にされた十字架は、政治的な統一のしるしなどではありませんでした。むしろ神ご自身が主イエスを通して人の手によって苦しみを受け、血を流し、人の罪を赦しぬき、最後には誰からも見捨てられるようになって死んでいったしるしだったのです。
 主イエスさまの十字架について一つの例えで考えてみましょう。
 お互いに親友である二人の若者がいました。一人は裁判官でした。もう一人は悪の道に走り罪を重ねて逮捕され、この裁判官が自分の親友であった人の裁判しなけらばならなくなりました。裁判官は自分の親友であるこの人の犯罪を見過ごしにして釈放する事は出来ません。それではこの世界の正義が保てません。でも、ただ有罪の判決を下して済ませるのにはあまりに胸が痛みます。なぜならこの裁判官にとって、目の前の男はたとえ犯罪人であるとは言え自分の親友である事に変わりなく、法律の定めによってこの人を裁いて獄に送って済ませる事などとても出来ないからでした。
 判決を言い渡す日、この裁判官は被告である親友に対して有罪を宣言しました。親友としていくら胸が痛んでも、裁判官として有罪の宣言を告げないわけにはいきません。しかし、この裁判官は親友の有罪を宣言した後、その席を立って親友の傍らに行き、親友が償うべき金額の入っている預金通帳を裁判官である彼の名義から有罪となった被告人の名義に換えて印鑑と一緒に手渡したのでした。
 拙い例えですが、これが神の愛であり、神が私たちのために十字架にお架かりになった事の意味に近付く切り口になる例えです。
 神は、その正しさの故に、私たちを裁きます。私たちが罪を犯している以上それは当然の事であり、神は正しいお方であれば、人に罪を見過ごしにはなさいません。でも、神はそのようにして罪ある人を裁くだけで天にあってあがめられているだけのお方ではないのです。人の罪を指摘して明らかにする一方で、私たちが罪のゆえに滅びていくことをも見過ごしにはなさらないのです。
 私たちは、十字架を美しい飾り物に仕立てていますが、十字架は神が私たちに与えられた裁きの一面がある事をよくよく心に留めておく必要があります。自分の罪の自覚とその罪に対する神からの裁きを見ようとしなければ、私たちは、その裁きのためにご自分の身をもって罪ある私たちのために代価を払うようにして十字架にお架かり下さった神の愛と恵みも見る事が出来ないでしょう。主イエスは、本来私たちが罪のために支払うべき代価(先ほどの例えでの罰金)を私たちに代わって引き受けてくださったのです。
 このことを、今日の使徒書フィリピの信徒への手紙第2章6−7節では次のように言っています。
 「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。」
 先ほどの例えに引きつけて言えば、「キリストは裁く立場にありながら、裁く事に固執しようと思わず、かえって自分を無にして裁かれる側にまわり、私たち犯罪人と同じ者になられました。」と言えるでしょう。
 聖書に収められた4つの福音書の中でも、マルコによる福音書はイエスを弱くされた人々や貧しい人々の側に立って生きた人として描きます。そのイエスが、最後には十字架の上に捨てられ神からさえ見放されるかのようなお姿を取って死んでいかれたと、知らせています。マルコによる福音書全体を見渡してみても、前半は主イエスを主語にして癒しの働きや奇跡の業を行う主イエスを描きますが、十字架が近付くに連れて、イエスを主語にしながらも受動態の文章が多くなり、神の御心に全てを委ねながら、しかも神から見捨てられるかのようになって「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ(我が神、我が神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)。」と大声で叫んで息を引き取られ主イエスを伝えています。
 私たちはこのような主イエスの十字架のお姿に何を見つけて、どう言うのでしょう。アクセサリーにするのに適当な綺麗なお飾りを見るのでしょうか。私たちは、本当は正しい事や本当の事に向かおうとせず、自分の身を保って表面をつくろい、他人に重荷を負わせて自分の罪を担おうとしない者なのではないでしょうか。そして、その罪のための負債はもう神の前に返済出来ないほどに膨れ上がっているのではないでしょうか。
 本当は、罪という大きな負債を抱えたまま神に見捨てられて滅び去る他ない私たちなのです。そのような私たちの負債を主イエスがすべて負ってくださり、十字架の上に帳消しにし、私たちが主イエスと共に再び新しい命の中に生きる事が出来るようにして下さったのです。
 私たちは自分の罪の大きさに何一つ神にお返しする事が出来ず全ての可能性がついえて絶望するしかない時、どうするのでしょう。主イエスは私たちの替わりに私たちの罪を担って絶望した時、その絶望の淵からなお私たちのために神に向かって叫んで下さいました。私たちは、愛の反対語が無関心や無関係であり、愛とは相手のためにどこまでも関わり続ける事であることを幾度も学んできています。私たちの側からは、私たちの自分の罪のためにもう神からは見捨てられてしまったとしか思えないようは状況の中で、主イエスはなお私たちの絶望の声を神に向かって叫んで下さるのです。本当に神に絶望し神などいないと言うのなら、人はその思いを更に神に向かって注ぎ出す事などあり得ません。でも、主イエスは神に見捨てられた絶望の思いを、私たちのために私たちに代わって十字架の上から神に向かって叫んで下さるのです。ちょうど小さい子どもが母親から叱られても叱られても自分の母親の懐を求めて止まないように、主イエスは私たちの負債を抱えたまま神から見捨てられたようになっても、私たちに代わり、私たちと共に神を愛し神を信じ、神を求めて止まないのです。ここに、神と私たちの関係の回復を願って苦しむ救い主のお姿があります。
 この主イエスのお姿を見て、十字架の下で番をする百人隊長が15章39節のように言いました。「本当にこの人は神の子だった。」
 私たちは、十字架の主イエスさまの事を何というのでしょうか。
 パウロはコリントの信徒への手紙T第1章18節でこう言いました。
 「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」
 十字架をしっかりと見上げ、私たち一人ひとりに語りかける十字架の言葉を真摯に受け止め、主イエスをとおして与えられた神の愛の恵みをいただき、信仰による救いの喜びに招き入れていただきましょう。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 10:26| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする