2019年01月19日

関係に生きることの原点

 私には、現在4ヶ月半になる孫がいて、その孫も含めて、子どもたち家族と年末年始を過ごしました。孫は、まだまだ泣いて乳を飲んで眠るだけの生活ですが、私たちが話しかけると視線を合わせて笑顔を見せ、お腹が減ると泣き、眠くなると泣き、本当に可愛いものだと思います。
 そして、人の感覚とは何と素晴らしいのだろうと改めて思いました。
 例えば、録音した会議録などを再生すると、その席にはたくさんの雑音があったことに改めて気付きます。会議の最中は、自分の課題に集中するため、実際にはたくさんある雑音は認識しないようにその感覚を働いているからです。しかし、それは人が赤ちゃんの時から自然にできるのではなく、周りの人にたくさん話しかけられ、まだ言葉にもならない喃語や泣き声を聞いてもらい、確かな視線と言葉での反応を受けることを数え切れないほどに繰り返している間に、赤ちゃんは周囲の人々から必要な情報を取捨選択することができるようになるからなのです。
そうであれば、赤ちゃんが画面をみているとおとなしくなるからといってテレビ、パソコン、スマホなどに頼ってはならず、周りから優しく柔らかな声をかけてあげたり、赤ちゃんの視線をしっかり拾って適切な言葉にして話しかけたり、喃語に柔らかな声で応じてあげたりすることがどれほど大切なことであるか分かるのではないでしょうか。
 赤ちゃんに限らず、人は視線を合わせてしっかり心を通わせることによって育ちます。認知症の老人にしっかり視線を合わせて語りかけつつスキンシップを図ることで、症状が回復する事例も報告されています。
 「人」という文字の成り立ちは二人が支え合っていることに由来すること、また人を「人間」と言って社会的関係に生きる存在として表現することなどからも分かるとおり、私たちは人々の関係の中で育まれるのです。
 現在、私が園長を務める愛恩幼稚園では、一人ひとりを大切にすること、一人ひとりに丁寧に関わることを大切にしておりますが、それは単なるお題目ではありません。一人ひとりを大切にする具体例がどのような事であるのかの一端をこうしたことから理解していただけると思います。
(2019.01.08 愛恩幼稚園園便り『ひかりの子』より一部抜粋)
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主イエスの洗礼  ルカによる福音書第3章15−16、21−22 顕現後第1主日

主イエスの洗礼
ルカによる福音書第3章15−16、21−22 顕現後第1主日   2018.01.13
 
 教会暦では、今日、顕現後第1主日は「主イエス洗礼の日」です。この主日の福音書には、毎年、マタイ、マルコ、ルカの各福音書から、主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになった物語が採り上げられています。
 主イエスが人々に神の国の教えを説き、公けにその働きをお始めになったのは30才の頃であったと考えられています。その頃、洗礼者ヨハネは荒れ野で質素な生活を送りながら人々に悔い改めを説き、ヨルダン川で罪の赦しを得させる洗礼を授けていました。
 新約聖書の原語のギリシャ語で、洗礼はバプテスマと言い、水に浸す、水につけて洗う、浄める、という意味から発生した言葉です。現在は洗礼(バプテスマ)と言うと、殆どの場合、キリスト教の入信式としての洗礼を意味していますが、古来日本でもこれに似た清めの式は、例えば「禊ぎ」などとして見られ、万葉集の中などにも詠まれているようです。川や湖などに身を沈めて、汚れを洗い流して生まれ変わることを象徴的に表す儀式は、キリスト教に限らず、色々な国の文化や習慣、宗教の中にも見ることができます。
 ルカによる福音書第3章3節を見てみると、洗礼者ヨハネが何を意図して人々に洗礼を施していたのかが分かります。そこには「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えていた(3:3)」と記されています。
 悔い改めとは、生きる方向を変えることです。例えば、これまで漠然と漫然と生きていたりいつの間にか自分の利益のことしか考えてこなかった自分に気付いて、そのような生き方を方向転回して自分の生きる方向を神に向けて、神の御心に基づいて生きてくことへと自分を方向付け、神に導かれて生きることへと方向を転換することが悔い改めるということです。
 ですから、洗礼を受けようという思いがある人なら、キリスト教のことをたくさん学んで他の人からの質問にも応えられるような人間になってから洗礼を受けるべきということではなく、神の招きに対して応え、自分の一生をこれから神に導かれて神の助けを受けながら歩んでいこうとする謙虚な決断さえあれば、誰でも洗礼を受けるのに相応しいのです。それでもなお神の招きに応えることを躊躇うのであれば、その人は何がそうさせるのかを神の前に深く自分を振り返り、自分を吟味してみることが必要となるでしょう。
 さて、ヨハネがヨルダン川で洗礼を授けていると、群衆が集まる中に主イエスが来られて洗礼をお受けになりました。マタイによる福音書の並行記事によれば、そこでは洗礼者ヨハネが主イエスに向かって「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。(マタイ3:14)」と言っています。
 私たちも主イエスの洗礼を考える時、ヨハネと同じ疑問にぶつかるのではないでしょうか。主イエスは罪など無いのに、なぜ罪の赦しのための洗礼をわざわざお受けになったのでしょう。福音記者ルカもこの福音書全体を通して、主イエスが本当に正しい人であり神の御心から離れることなど無かったことを証しています。その公生涯の初めに、主イエスは洗礼者ヨハネから「悔い改めの洗礼」を受けておられるのです。
 何故主イエスが洗礼者ヨハネから悔い改めの洗礼を受けたかについて考えるために、主イエスが十字架にお架かりになった時のことを思い起こしてみましょう。
 主イエスは神の国を伝えて生涯を送り,最期には十字架につけられて殺されてしまいますが、後から振り返ってみれば、主イエスには十字架につけられるべき理由は何一つありませんでした。ユダヤ教の指導者たちがイエスを捕まえてポンテオ・ピラトのところに連れて行った時にも、ピラトはイエスを有罪とすべき理由を見つけることは出来ませんでした。また、祭司長たちもピラトを説得することが出来ませんでした。
 ルカ23:22には、次のように記しています。
 「ピラトは三度目に言った。いったい、どんな悪事を働いたというのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。」
 しかし、ユダヤ教の指導者たちはピラトに圧力をかけて、大声で要求し続けて、ピラトはとうとう押し切られて、イエスを十字架につけることを許してしまったのでした。こうして主イエスは、何の罪もなく十字架刑にされて、人々の罪を背負って死んでいくのです。やがて、多くの人は、主イエスのこのような十字架の死が罪ある人の罪を罪無き身に引き受ける救いのしるしになったことを理解し始めるのです。
 罪人が自分の罪を認めず神の御心と永遠に結ばれることがないままに滅びようとする中で、主イエスはご自身の罪など無いにもかかわらず罪人の姿をとり罪人の死の先まで共にいて下さって、罪人を神の国へと連れ戻すしるしとなって下さったのでした。
 罪の赦しの洗礼をお受けになる必要のないお方は、本当なら、十字架について死ぬ必要もないお方でした。
 私たちは、主イエスが洗礼をお受けになった事の意味も、主イエスの十字架の出来事を理解する事を通して初めて理解することが出来ます。主イエスが30才近くで人々に神の国の福音を宣べ伝え始めた公生涯の一番初めに、主イエスは洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになりましたが、それは罪のないお方がこのようにして罪人の側に身を置いて下さるしなのです。主イエスご自身がこの世界の人々の罪を背負って十字架にお架かりになったように、主イエスは私たちの罪の赦しのために公に宣教の働きを始められる時に罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼を受けて下さったのです。そして、このようにして主イエスは罪ある人々の罪をご自身で担い、弱く貧しい人々とどこまでも共にいて下さる宣教の働きを始めてくださったのです。
 今日の旧約聖書日課で読んだとおり、「主の僕」である救い主は、弱く傷つきやすく倒れやすい葦のような私たちをも傷つかず折れないように守り、油が燃え尽きて暗くなっていく灯火のような私たちをも消えないように守り、私たちを神との交わりの中に招き入れて下さいました。その働きの目に見えるしるしとして主イエスは罪がないのに罪人の一人となって罪人の世界に降り、公生涯のはじめに洗礼を受け、罪人と共に生き、罪人のように十字架に身を曝してくださったのでした。
 ここに集う私たちも、水の洗いを受けた時に、主イエスがいつも私たちと共にいてくださる約束を与えられた者であり、またその約束へと招かれている者です。
 主イエスが洗礼を受けて水の中から上がられると聖霊が鳩のようにくだり天の声が聞こえますした。
 「これは、わたしの愛する子、わたしの心に適う者」
 罪人の側に立ち洗礼を受ける主イエスが、神の御心に適う子の姿なのです。私たちもこのイエスの名によって祈ります。また、このイエスの名によって洗礼を受けます。私たちの受ける洗礼は罪の赦しに留まらず、主イエスと共に永遠に生きることの約束です。私たちは、父と子と聖霊の名によって洗礼を授けられ堅信礼の按手を通して聖霊を授けられます。私たちも洗礼と按手とによって神の子とされ「わたしの心に適う者」として祝されるのです。私たちがその御力によって生かされ、主の僕として歩き始める時、主なる神は私たちを「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」として祝福して下さいます。
 宣教の初めに私たち罪ある者の側に回ってくださった主イエスが、いつも私たちと共にいてくださり、私たちも神に愛され神の御心に適うよう者として生きることができるように歩んでくださいます。主イエスに導かれて私たちも主の僕として神の国の働きに尽くし「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天の祝福を受けたいと思います。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 10:29| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年01月06日

私たちの王 マタイによる福音書第2章1−12節  顕現日        2019.01.06

私たちの王
マタイによる福音書第2章1−12節  顕現日        2019.01.06

クリスマスの12日間が過ぎて、教会のカレンダーでは顕現日となりました。 顕現日の起源は、東方教会で主イエスがこの世に神の子としてのお姿を現したことを記念して祝っていたことに始まという説もあります。ロシアやポーランドなどの正教会の伝統では、クリスマスの12日間は家族で静かに主イエスの誕生を心に留めて過ごし、この顕現日に主イエスがこの世界にお姿を現してくださったことを共に喜び祝う習慣があるようです。やがてこの日は、救い主を探して旅をしてきた東の国の学者たちが聖家族を探し当てた日とされたり、神の御子イエスがユダヤの中だけではなく広く異国の人々にも認められたことを祝う日とされるようにもなりました。
 顕現日の聖所日課福音書には、マタイによる福音書第2章1節からの箇所が取り上げられています。この箇所には、いわゆるクリスマス物語の中から、東方の占星術の学者たちが幼子イエスを探し当てて喜びに満たされた物語が記されています。
 学者たちは、エルサレムに来た時こう言いました。
 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。」
 この学者たちに限らず、私たちがいきている限り自分の王を尋ねる旅は誰にでも必要なことであり、私たちもこの学者たちのように本当の王を自分の生きるべき拠り所とし、本当の自分を保ち、喜びに満たされて生きる者でありたいと思うのです。
 自分の王を尋ねることとは、言葉を換えれば、自分の最終的な、究極の判断基準は何なのか、自分が生きる根拠を何に求めるのかと言うことに深く関わっています。私たち人間は弱い者であり、自分では間違いないと思っていた価値観や判断基準も時にはぐらついたり、迷ったりも致します。また、自分を中心に立てればその思いに誘惑されて、エデンの園を追放されたアダムとエバのように、自分の犯した罪の責任を他人に押し付け合うようなこともしてしまいます。でも、人が人として生きる上で、誰もが人間として神の前に正しいこと、意味のあること、人間としての尊厳が失われないことなどを絶えず尋ね求めているはずであり、人の罪深さも、裏返せば、自分は生きたい、誰かに認められたいと思うことの表現であるとも言えます。その生きようとする思いをどう表現するかによって、人は罪を犯すことにもなれば、神に受け入れられ社会的にも認められるものにもなりもします。そうであれば、私たちが誰を、また何を自分の生きる判断の基準にしているか、誰を王としているのかが大切なことになってくるのです。
 今日の福音書の中で、占星術の学者たちは「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか」と言って、王を探し求める旅をしています。彼らは、この世で多くの財産を築き上げさせてくれる王や社会的に高い地位に昇らせてくれる王を自分の生きる拠り所にするのではなく、彼らが自分の人生を本当に意味あり価値のあるものとして全うさせてくださる最終的な拠り所を探し求めて人生の旅をしていると言えるでしょう。
 その当時の占星術の学者とは、現代のテレビ番組の「今日の運勢」などというのとはまったく違い、宇宙天体を始めとする森羅万象の動きを読みとりその中で人がどう生きるべきかを探求する人であり、彼えは哲学者であったと言って良いでしょう。
 その学者たちが、暗闇の中に特別に光を放つ星に導かれて王を探し求め、その当時のユダヤの政治や宗教の中心であるエルサレムにやって来ました。そして、それは旧約聖書ミカ書第5章1節に記されている預言が実現したことだと知ります。彼らはベツレヘムに向かい、その町の片隅で母マリアと共におられる幼子を見出し、喜びに溢れ、この幼子に自分たちの宝を捧げたのでした。
 学者たちが開けた「宝の箱」には彼らの仕事のための道具つまり彼らが生活していくための道具が入っていました。占星術の学者たちは自分の生活を幼子イエスに明け渡したのです。彼らは天体の動きから人々の運命を読み解くことを放棄して、主イエスによって示された神の愛の中に生きることへと回心した、と説明することも出来ます。
 また、学者たちが捧げた三種の贈り物は象徴的な意味が込められていることも指摘されています。黄金は金属の王であり、その性質は変化することなく、まさに王であるイエスに捧げられるに相応しいと考えられました。また乳香は高価な匂い油であり、イスラエルでは昔からこの油を頭に注いで人を聖別する伝統がありました。この油注ぎのことをギリシャ語ではクリスマと言い、油を注がれて聖別された人をキリスト(ヘブライ語でメシア)と言ったのです。やがてイスラエルの人々の中では、こうして油を注がれて(クリスマを受けて)聖別されてイスラエルの救いとなるお方をキリストと呼ぶようになるのです。学者たちはこの幼子に救い主として聖別するための油を捧げて自分たちの信仰を告白したのです。
 もう一つの献げ物は没薬です。没薬は主イエスが十字架につけられたあと、その十字架からアリマタヤのヨセフによって下ろされ、墓に治められる時にこのアリマタヤのヨセフとニコデモによってその御体に没薬とアロエを混ぜたものが塗られたのです。イエスがどのような意味での救い主であるのかを没薬は示しました。学者たちがお捧げしたこれら三種類の捧げ物によって、幼子イエスがどのような意味での王であり救い主であるのかが示されています。
 先ほども少し触れましたが、占星術の学者たちは、これまで宇宙や天体の現象を中心に観察してそこに働く諸霊の力に人の運命を見出してきました。しかし、彼らは幼子主イエスの前にそれらを捧げて明け渡し、イエスを自分の王として生きていくことへと変えられています。
 この様に見てきますと、マタイによる福音書が、異国の占星術の学者たちまでが幼子イエスを自分の王とし救い主としてあがめる物語を示して、読者である私たちに何を伝えているのかは自ずと明らかになって参ります。
 私たちは今日の福音書を通して、主イエスさまを自分の本当の王として探し当て、その王に自分を明け渡して生かされていくことへと促されています。私たちは、今日の福音書から、この世の暴君ヘロデに従うのではなく、救い主と出会って自分の道を帰っていった占星術の学者たちに信仰の歩みを見ることが出来ます。
 聖書の中に、主イエスが弟子たちに次のように問うておられる箇所があります。
「それでは、あなたがたは私を何者だというのか(マタイ16:15)。」
 私たちは、この主イエスの問いにどう答えるのでしょうか。ペトロは「あなたこそ生ける神の子キリストです。」つまり私の王ですと自分の信仰を告白しました。
 多くの人は「王」とか「救い主」という言葉から自分に利益や幸運をもたらしてくれるようなお方を思い描き、誰にすり寄っていけば安全であり有利であると考えます。
 今日の福音書に出てくる異国の学者たち(いわゆる3人の博士)が求めた王は、そのような王ではありませんでした。もし、仮にそのようなお方を求めるのであれば、ヘロデを自分の王とする方が側近として威張ることも出来るでしょうし、この世の利益を得することも多かったことでしょう。でも、学者たちはそのような存在に自分を売り渡して武力や財力の支配下に生きることより、愛に徹して生きていくために馬小屋に生まれてきた小さな救い主を自分の王として選び取ったのです。
 私たちは、主イエスによって見つけ出され選び出され、このお方を王として生きることへと招かれました。この顕現日に、私たちが主イエスのお姿が世界に示されたことを記念することは、私たちが神からこのお方を自分の王とするのかと問われることを意味しています。私たちも3人の学者たちと共に主イエスさまを自分の王として迎え入れ、主イエスに導かれ生かされる喜びに招き入れていただきましょう。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 22:23| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする