2019年07月07日

神が良しとされた世界に生きるために

 「原発のない世界を求める世界協議会」が日本聖公会の同実行委員会主催で5月28日〜31日に仙台で開催され、本教区からの参加者2名のうちの一人として出席して参りました。協議会の全体像は、もう一人の参加者により今月下旬発行の『北関東教区時報』337号に報告されますのでここでは省略し、私の原子力発電についての個人的な意見(思い)を記します。
 「この頃奇妙な病気が増えていて、私は原爆の放射能のせいではないかと思うのですよ」。これは私が子どもだった頃の小児科医の言葉です。1950年代半ばから後半の頃のことでしたが、母との会話の流れからこの小児科医がふと口にした一言は今も私の耳の奥に残り、「原子力」という言葉を聞く度にあの医師の声と言葉が私の中で動き始めます。
 1950年生まれの私には、ヒロシマもナガサキもそれほど遠い出来事ではありません。私の友人の母親にヒロシマ被爆者もいます。第五福竜丸の被爆事件(1954年3月)の衝撃や米ソ冷戦時代の核実験とその放射能がいつ頃日本に到達しそうかということを含めての不安は、当時の日本人は今の時代よりもっと高い意識と関心を持たせていたように思います。
 他国で核実験が行われると、ラジオ番組では放射能がいつ頃日本に到達するかということも話題になり、友だちと「今、雨に当たるとハゲちゃうよ」などという会話もしました。核実験に対して敏感な時代だったのでしょう。
 高校時代には物理の先生から「原子力が必然的に生み出す廃棄物をガラス詰めにして日本海溝に投棄する考えがあるが、君たちはどう思うか」と問われました。その問いは50年経た今も相変わらず続いているのです。いつどんな地殻変動が起るか予測もできないのに、半永久的に残り増え続ける高レベル放射性廃棄物を「安全な処理方法」だとして投棄や埋蔵することなど許されないと思った当時の思いは、基本的には今も変わりません。これは科学的に安全かというだけの問題ではなく、人間と他の生物が安全に核のゴミのない世界に生きるための総合的な問題でもあります。
 生物学の教授が執筆した原子力発電の冷却水による海水温上昇が周辺海域の生態系に与える影響についての論文を大学時代に読み、原発には放射能以外にも地球に危害を加える要因があることを知りました。
 私は1986年4月に日立に赴任しました。大好きな勤務地でしたが、東海村の原発からわずか15q程あることが不安でした。ちょうどその年の4月26日、チェルノブイリ原発事故が起りました。その事故に刺激されて読んだ本の一つは、東海村周辺のムラサキツユクサの細胞と他地区の同細胞の異常発生率の比較についての論文で、その有意差が認められると報告されていました。
我が家では幼い子どもたちに安心できる食物を与えたいと思い、安全な食物を共同購入する団体に加入しました。
 当時読んだ他の本では、大地震が起れば引き津波によって冷却水の取り入れが困難になって冷却ができない原子炉が爆発すると警告していました。原発擁護者たちは「科学的根拠がない」「そんな大きな津波が起こる確率は問題にするに値しない」とその著者を痛烈に批判していました。しかしそれは2011年のフクシマの出来事によって現実となりました。しかもその後の調査によれば、原発は津波発生前に大地震によって既に異常を来したにもかかわらず、擁護者たちはあの事故は想定外の津波に起因するとして津波防潮堤を設けることで原発を電力供給の基幹とする政策を変えようとはしない姿勢を次第に強く打ち出してきています。
 歴史的に見れば、原子力は原爆開発の過程で発電にも利用されるようになりました。人類は核廃棄物を完全無毒化することができないまま、武力に基づく国際社会の地位とその利益を得るために、ミサイル開発と一緒に原子力開発を進めてきたと言えます。たとえ原子力を平和利用に限定するとしても、使い続ければ核廃棄物は増え続け、しかもそれを再処理すれば核の灰の放射能濃度はほぼ100倍となります。世界は原子力発電を一刻も早く停止し全てを廃炉にすべき段階にまで来ていると私は思います。後代に負の遺産をわたしてはならず、廃炉作業でさえ私たちの想像を遙かに超える経済的負担を要し、廃炉後も放射能は残るのです。
 さて、主なる神は天地を創造しこれを「良し」とされました。人類はその神に反逆し、利権と武力によって他者を支配しようとし、やがてその仕組みを作り出しました。そして、その破綻による被害者、被災者が生まれています。放射能は見えないために、その被害についても多くの場合、「科学的に因果関係が認められない」とされ、原子力は「エネルギーの乏しい我が国において必要不可欠な電力生産の方法」などという言葉がまかり通ります。その乏しいエネルギー資源とは具体的に何を指すのでしょう。日本はエネルギー資源に乏しいのではなく、権力者とその利益集団が原子力施設を維持しようとするために他のエネルギー源への転換を進めないのです。私たちには、神がお創りになって「良し」とされたこの世界をこれ以上汚染させない状態に保ち、後代に引き継いでいく使命と責任があります。原子力発電はもし無事故で動き続けたとしても、核の灰は増え続け、現在運転中の原子炉を完全に無毒化して原状復帰できる見通しもありません。そのような状況にもかかわらず、半永久的に残る核廃棄物を地下に並べるだけで「最終処分」などというのはあまりに無責任かつその場凌ぎで、このままでは核の灰が無限に増えていくことは明らかです。このような状況で原子力による電気が恒常的に生み出され、それが百歩譲って経済的であったとしても、原子力はもう使用してはならないと私は考えます。原子力発電はこの地球を豊かにすることはなく、神が与えてくださった地球そのものの豊かさを損なうものであることを再認識しなければなりません。
 紙面の都合により、上記の具体的なデータをあげずに、私の「思い」を中心に記しましたが、「この様なことを記して不安を煽るな」との声も聞こえてきそうです。
 しかし、不安を煽らないようにと言いつつ真実に目を向けず利権に従属することこそ、もっと深い不安を広げ、根本的な解決を遠ざけるのです。ことに原子力の課題は世界の武力と利権構造に関わる大きな問題を背景にしており、この問題を取りあげることに尻込みすることにもなります。事実に、真実に、目を向けたいと思います。
 「原発従事者の仕事と生活を奪うな」という声も耳にします。私はその人が、何によって自分の生涯に意味と価値を求めまた与えようとしているのかを問いたいのです。自分と他者の命を傷つける生涯を送ろうとするのでしょうか。私は地球の豊かさと命の素晴らしさを享受して生きたいのです。科学者でもなく原発の専門家でもない私は、創造者でもある神の愛と赦しのもとで自分と他者の命が互いに大切にされ意味ある命を生きられるようにと祈りつつ働き生きています。
 原発問題は、神が創造して「良し」とした世界に生きるすべての人がどう生きて、子どもや孫やその後幾代に、どのような世界に生きて欲しいのかという事に関わる大切な課題だと私は思います。
 上記の協議会に参加した私の思いを報告に代えて記しました。
 (『草苑』水戸聖ステパノ教会月報 2019年7月)
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 16:13| Comment(0) | 牧師のコラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年05月06日

聖書の内容は全部そのまま信じるべきでしょうか?

 その答えを私から申し上げる前に、あなたにとって「信じる」とはどういうことかを振り返ってください。他の言葉に置き換えると、「信じる」とはあなたにとってどんな言葉になりますか。
 一般論ではなく、あなたには、「聖書の内容の全てをそのまま信じて良いわけではありません。」と申し上げた方が良さそうです。
 聖書は科学の教科書ではありませんから。また、聖書(ことに旧約聖書)は古い時代からの移り変わりの中でしるされており、その中で思想的にも成長、成熟していく歴史があり、その視点から見れば、その思想に矛盾する箇所も沢山ありますし、時代の中で自己理解も変化していきます。その一部だけを切り取って「信じる」ことは正しい読み方、信じ方ではありません。
 例えば、聖書(創世記の始めの箇所)の中で、神は六日で天地を創造しますが、これは科学的事実を記しているのではありませんから、そのままあなたの信じ方で信じてはいけません。この物語を通して聖書は読み手に何を伝えようとしたのかを学ぶと、聖書は真実を伝えていることが理解できるでしょう。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 05:49| Comment(0) | Q and A | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年04月30日

牧師、神父、司祭などの呼称に違いはありますか?

 私もいろいろに呼ばれています。
 辞書レベルのことは、面倒でも『広辞苑』のような比較的大きな辞書を引いてください。それぞれ載っていますので、その知識で十分です。
 私は、日本聖公会の司祭ですが、それは誰が認めたのでしょう。教会が認め、教区主教が司祭按手式の中で私に手を置いて(按手して)私は司祭に叙任されました。この叙任によって、私が司祭という職位にあることは生涯変わりません。その司祭である私が今は教会に派遣されて牧師として働いています。私たちの教会は、北関東教区として一つの体であり、司祭は主教によって具体的宣教の働きのために各地の教会に派遣され牧師として働くわけです。
 つまり司祭は教会の「職位」であり、牧師は司祭としての「職務」の一つであると言えます。
 神父とは、教区司祭と修道司祭の総称のように用いられる言葉で、おもにカトリック教会の司祭の呼称で、聖公会の司祭にはあまり「神父」という呼称を用いません。でも、聖公会のアングロ・カトリック的立場から、「神父」という言葉を用いている人もいます。
 余談になりますが、遠藤周作氏の小説『沈黙』をご存知ですか。
 キリシタン迫害の時代に日本に潜伏した宣教師が転ぶ(棄教する)物語です。あの話の最後の方で、転んでしまった宣教師のところに裏切り者のキチジローがやってきて、赦罪(罪の赦しの祈り)を求めます。転んだ神父が執り成しをして赦罪の宣言をすることは有効?それとも無効?
 答えは深いですね。
 司祭になるための按手が有効であったら、神父が転ぼうがキリストを裏切ろうが、司祭であることは消えないのであって、キチジローのために祈り宣言された赦罪は有効であると言えます、が、司祭は主教(司教)によって具体的な働きのために派遣されるのであり、司教は棄教者が牧師として勝手に働くことを認めないでしょう。司教が認めていない司祭の祈りは有効でしょうか。その答も深いですね。
 さて、あなたはこの神父の働きを神の愛を具現する働きとして有効であるとお考えですか。それとも教会が認めていない人の業であり無効とお考えですか。
 そうそう、まだ口の回らない稚き子が私のことを「チンプチャン」と呼んでくれました。案外本質を突いているかも。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 15:49| Comment(0) | Q and A | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする