2019年11月03日

徴税人頭ザアカイ ルカによる福音書19:1−10 ルカによる福音書19:1−10 2019.11.03

徴税人頭ザアカイ ルカによる福音書19:1−10 聖霊降臨後第22主日(特定26)  2019.11.03 

     
 ザアカイはエリコの町の徴税人頭でした。
 当時、各地方で税金を集める仕事は徴税人頭の仕事でした。徴税の権利は競りにかけられて、それを最高額で競り落とした人が請け負っていたと言われています。このような徴税請負人は、幾人かの「徴税人」を使って町の人々から税金を取り立て、しかも規定額以上の税金を取って私腹を肥やしていました。徴税人頭やその下で働く徴税人たちは、同じイスラエルの民から嫌われることになり、除け者にされることになります。
 徴税人は、例えば町の門で通行税を徴収したり船付き場でそこから陸揚げされる荷物の税金をかけて取り立てました。こうした人たちも本来はイスラエルの民でしたが、自分の国を占領しているローマの国の手先となって税金を集め、それを支配者に上納します。しかも先ほども触れたように、定められた税額より多くを徴収してその上前を自分のものにしていましたので、徴税人はイスラエルの民から嫌われており、特に神の民としての一致や団結を求める人々からは「あいつは神の御心から離れてしまった者」という意味で「罪人」と見なされていました。福音書の中では「徴税人や罪人たち」と表現いう言い回しもあるとおり、当時の徴税人がどのように思われていたのかが分かります。
 一方、律法を厳格に守るファリサイ派の人たちは、自分たちを「神に選ばれた者」と考え、民族の一致と団結によって神の民であることを示そうとしていましたので、彼らにとって徴税人は売国奴であり徴税人の頭は盗賊の頭と同様にも見なされていました。
 ザアカイは、エリコの町の徴税人頭つまり徴税請負人でした。ザアカイはエリコの町の人々から交わりを絶たれ、誰も彼に寄りつこうとしません。同じイスラエルの民として生まれた人であれば、喜んで徴税人になる者などいなかったはずです。そうであれば、ザアカイは「どうせ俺は徴税人頭だ。金を集めて生きてことの何が悪いのだ!」とばかりに、居直って生きていたと考えられます。そしてそのような生き方がますますイスラエルの民との間に溝を深めていたことと考えられます。
 徴税人頭のザアカイは、エリコにやってきたイエスを見たいと思いました。でも、人だかりの真ん中にいるイエスを見ようと思っても、普段から嫌われ者で背の低いザアカイは人垣の中に入れてもらえず、イエスを見ることができません。そこでザアカイは、主イエスとその一行が必ず通るであろう道を先回りして道端のイチジク桑の木に登り、そこでイエスを一目見ようと考えました。
 ザアカイの予想通り、主イエスはその道をやってきました。そして主イエスはザアカイのいる木の下まで来ると立ち止まり、ザアカイを見上げて話しかけられたのです。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。きょうは、ぜひあなたの家に泊まりたい。」
 『聖書-新共同悪』では「ぜひあなたの家に泊まりたい」と訳されているこの箇所は、新しく発行された『聖書−聖書協会共同訳』では、「今日はあなたの家に泊まることにしている」と訳されています。この箇所は、主イエスが単にその日の宿泊場所を心配しておられる言葉ではありません。そうではなく、原文は文法的には「神のご計画でそうすることに決められている」という意味があります。これまでのザアカイが神の御手から離れ、神の御手からは失われた存在であり、そのザアカイを導き返すために、主イエスはザアカイを再び生かすためにもザアカイの家に泊まることになっているのであり、それが神の御心なのです。もう少し踏み込んで言えば、主イエスはザアカイの心の中に宿ることになっているのです。
 ザアカイと主イエスの位置関係にも注目してみましょう。この時のザアカイは、木の上にいます。そこからなら、背の低いザアカイでも誰にも妨げられずに主イエスの姿を見ることが出来ます。イエスの姿や顔立ち、身に付けているもの、そして周りの弟子たちの様子も見おろすことは出来ます。でも、主イエスは、ザアカイが木の上から一方的に主イエスを眺めるだけで済ませるべきだとはお考えになりません。それだけでは、ザアカイにとっての主イエスはただ「イエスの姿を見たことがある」ということに過ぎません。
 主イエスは、「ザアカイ、急いでおりてきなさい。今日はぜひあなたの家に泊まりたい(あなたの家に泊まることになっている)。」とザアカイに声をおかけになりました。
 私たちも、他の人の家に泊まることや、自分の家に客人を招いて食事をしたり泊まっていただいたりすることは、ごく親しい人同士がする事であり、そうすることで一層交わりを深めることが出来ます。主イエスは、ザアカイが主イエスを距離を置いて眺めたり評論するような所にいるのではなく、対話して親しく心を通わせ合うためにザアカイを招いておられます。
 もっと言えば、主イエスは「ザアカイ、お互いに心を通わせる次元にまで降りて来なさい。わたしはあなたの中に宿ることになっているのだ。」と言っておられるのです。ザアカイがザアカイとして自分を取り戻して生きていくために、主イエスがザアカイを招き、ザアカイの中に宿りたいのだから、さあ、急いで降りて来なさいと主イエスは言っておられるのではないでしょうか。
 主イエスの言葉を聞いてザアカイは喜びました。今まで、神を語る人は誰もザアカイを相手にしませんでした。ザアカイはユダヤ教の指導者や担い手となる人々から「神の国に逆らう者」「神の民から税金としてお金を巻き上げて異邦人に渡す裏切り者」とされてきました。ザアカイはこれまでそんな自分に向き合うことも避けて、金儲けに精を出して来ましたが、心の底では生きている喜びを味わったことはないし、本当の自分として今を生きていると思ったこともありませでした。主イエスは、木の上から主イエスを眺めるしかなかったザアカイに声をかけて下さいました。ザアカイは喜んで主イエスを家に迎え入れました。そして心を込めてもてなしました。ザアカイは、主イエスとの交わりをとおして、生まれて初めて心に本当の喜びを感じ始めます。食事をしながらザアカイは主イエスに色々なことを話したことでしょう。ザアカイは主イエスと話し、心を通わせることを喜んだことでしょう。主イエスに自分を受け止めていただき、主イエスに愛されていることを感じ、自分が生きている喜びを知ったのです。そして、ザアカイは主イエスを自分の救い主として迎え入れ、本当の自分を取り戻して生きることが始まっていきます。これまで金銭に依り頼み、徴税人の頭となって町の人々から不正に取り立てていた人が、旧約聖書の規定以上に返済し、貧しい人々に分け与え、神の御心を生きる人へと変えられました。
 今日の福音書のルカによる福音書19章9節で、主イエスはこう言っておられます。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから」。
 「アブラハムの子」とは、「神に選ばれ救いを約束された者の子」と言うことであり、「神の救いを受けるべき者」を意味しています。徴税人頭ザアカイもまた神の救いを受けるべき者であることに変わりはないし、教祖のことが実現したと主イエスは言っておられるのです。
 わたしたちは、今日の福音書から、神の愛によって本当の自分を取り戻したザアカイについて学んでいます。そして改心したザアカイの言葉にあるとおり、他の人々にも神の愛を持ち運ぶことが出来るようになることが救いであることを教えられています。例え罪人呼ばわりされるような者であったとしても、また自分の生き方を見失ってしまったような者であったとしても、主イエスの招きに応え主イエスとの交わりに生きる時に、私たちも「アブラハムの子」となることが約束されています。
 主イエスは、いちじく桑の木の上から距離を置いたまま主イエスを見おろしているザアカイを招きました。そして、「ザアカイ、下りて来なさい。わたしはあなたの中に宿りたい。」と言っておられます。
 「ザアカイ」と親しく名を呼んでおられる主イエスを思い、そこにそれぞれ自分の名を入れて、私たちも主イエスに招かれていることを思い巡らせましょう。主イエスの招きにお応えすることが出来ますように。
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2019年10月27日

神の前にへりくだる者、高ぶる者   ルカによる福音書18:9−14  2019.10.27  聖霊降臨後第20主日(特定25)

神の前にへりくだる者、高ぶる者  ルカによる福音書18:9−14  2019.10.27  聖霊降臨後第20主日(特定25)


 今日の聖書日課福音書は、ルカによる福音書第18章9〜14節の箇所です。ここには、主イエスがお話しになった例えのが採り上げられています。
 主イエスは、自分を正しい者の側において自惚れるファリサイ派の人と自分の罪を自覚してへりくだる徴税人の姿を、対照的にお話になり、神の御前に「義」とされるのはどちらの人であるのかを教えました。この例えを思い巡らせる上で押さえておきたいのは、この話が「他人を見下している人々に」に向かって語られているということです。
 私たちも、この箇所から、自分の信仰の在り方や祈りを振り返り、神の御前に「義」とされる者となるように導きを受けましょう。
 例えの内容は簡潔です。
 二人の人が祈るために神殿に上って行きました。その一人は熱心なファリサイ派です。彼は罪人でない自分を感謝し、律法をしっかり守りかつ律法の要求以上に断食や捧げ物を実行する自分を誇り、その感謝を捧げました。このファリサイ派の姿は、自信に満ちあふれているように見えました。
 旧約聖書のレビ記や民数記にある献げ物についての規定などを見てみれば、このファリサイ派の人はそれ以上の十分過ぎる献げ物をしていることが分かります。彼はそのように出来る自分を誇ります。また、彼は他人の罪を数え上げて、自分がそのような罪人ではないことをも神に感謝しています。
 これに対して、もう一人徴税人は、祭壇から遠く離れて立ち、顔を上げることもせず、胸を打って祈っていました。「胸を打つ」とは、自分の罪を深く悲しみ悔い改めの気持ちを形に表す所作です。自分は神さまの直ぐ近くに行くことが出来ない者、神の御前にとても自分を誇ることなど出来ない者であり、ただ神の憐れみを請い求める他に何も言葉のない者であると自覚するこの徴税人の姿が浮かんできます。
 ファリサイ派と徴税人は、当時のイスラエルの中で極めて対照的な立場にありました。当時のイスラエルはローマに占領されていました。ファリサイ派は律法を忠実に守ることでイスラエル国民の団結を強め、神の民として強められて、政治的にもローマから独立を勝ち取ることを願っていました。
 一方、徴税人はローマとその傀儡であるイスラエルの権力者の手先となってイスラエルの人々から税金を取り立てる仕事を請け負っていました。そのため、徴税人はファリサイ派の人々からは自分を異国に売り渡してその手先となった裏切り者、神を忘れて権力者にしっぽを振る罪人と見なされていました。しかも、徴税人は定められた額以上の金額を取り立てて、その上前を自分の収入にすることを許されており、例えばザアカイのような徴税人頭は、この仕事を通して私腹を肥やす者も多かったのです。
 主イエスは、ファリサイ派と徴税人の二人が、対照的に祈る姿を例えにしてお話しになり、「義とされて家に帰ったのは、この徴税人であって、あのファリサイ派ではない」と言われました。
 先程も触れたとおり、今日の福音書の初めの箇所を見ると、主イエスはこの例えを「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても」お話しになったと記されています。ここに出てくる「うぬぼれて」という言葉は、「自分に依拠する、依り頼む」という意味であり、この箇所では「自分を根拠にしてその自分を誇る」という意味で、まさに「自惚れる」ているファリサイ派の姿を描きます。見た目には、敬虔に神に祈りを捧げているようでありながら、実は彼らは神に自分を委ねて祈るのはなく、正しい自分を誇ってそのことを人々にも見せびらかすように言葉にし、また断食をし捧げ物をすることの出来る自分を誇ってその自分を神殿の中でも目立たせたいのです。一見立派な信仰者のようでありながら、主イエスの目から見ると、少しも神とつながっていないし、神を利用する以外には神を必要ともしていない人の姿がそこにあるのです。
 一方、徴税人は、罪人である自分の憐れみを乞い求めて祈り、神殿を去って行きます。この人はまた明日もファリサイ派の人たちに罪人呼ばわりされながら徴税人の生活をしていかなくてはならないのかもしれません。でも、この徴税人は、神殿に来る前と同じ罪人のまま家に帰っていったのではなく、「義とされて」帰っていきました。この徴税人が、神殿で自分の罪を悔いて祈る人でないのなら、きっとまた明日も、少しでも多く金を手に入れることを考え、もしかしたら他人から税金を巻き上げることを生き甲斐のようにしたことでしょう。この徴税人は、神の前に自分を悔いて、赦されて、神を自分の拠り所として新しい歩みを踏み出していくのです。
 ルカによる福音書では、第19章にエリコの町の徴税人頭ザアカイが主イエスに出会って改心した話が出て参ります。ザアカイも主イエスと出会って生まれ変わり、自分の財産の半分を貧しい人に施し、不正に取り立てていた人にはそれを4倍にして返す生き方へと変えられています。それと同じように、この徴税人も罪人である自分の祈りを捧げ、「義とされて」新しい人生を歩き始めたと言っても決して大袈裟なことではないのです。
 もし、ここに語られているファリサイ派の人が、自分を誇るのではなく、祈りによって本当に生かされる人だったら、1週に2度断食することや全収入の十分の一を献げる事を感謝したはずですし、律法を全うできずに思い悩む人に対しても「このような罪人でないことを感謝します」と祈るのではなく、目の前の罪人の痛みを自分の痛みとして執り成しの祈りを捧げ、目の前の罪を悔やむ人に自分も痛まないわけにはにはいかなかいはずです。
 主イエスは、マタイによる福音書5章で「心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである。」と言っておられますが、この「心の貧しさ」とは、今日の福音書の徴税人のように、自分の思いを捨てて全てを神に依り頼む事を意味しています。主イエスは、神に全てを委ねる人こそ幸いであると言っておられるのです。神の前に自分の罪を認め、自分の全てを神の前に投げ出し、ひたすら「自分を憐れんでください」と祈る人こそ幸いなのです。そしてこの徴税人のような人こそ神の前に正しいのだと主イエスは教えておられます。他の人の痛みを少しも思わず、自分に依り頼む者は、本当に自分を神に委ねて祈るのでしょうか。主イエスは、ファリサイ派が他人の前では敬虔を装いながらも、実は彼らの中心にいつも傲慢と自惚れがある事を見抜いておられました。そして、その傲慢と自惚れは、徴税人や罪人を社会から遠ざけて彼らを罪人に仕立てて差別するようになるのです。ファリサイ派の人々はそのようにして他の人に重荷を負わせて差別する社会を造り上げて、その上で自分を救われた者の側に居座らせていました。
 私たちは、今日の福音書を通して、主イエスから私たちの祈りを問われ、信仰のあり方を問われています。主イエスは、私たちが自分を頼みとして高ぶるのではなく、すべてを主に明け渡して本当の自分に立ち返るように促しておられます。そして、全てを主なる神に委ねる時、そこに働く主ご自身の力によって私たちは「義とされて」生かされることを、主イエスは教えておられます。自分を低くして全てを神の前に自分を告白して委ねる徴税人はただそれだけで神に「義」とされています。私たちも同じです。
 自分の義を中心に立てて生きるのはなく、私たちの罪に働いて罪を大きな恵みに変えてくださる主イエスの恵みの中で生かされて参りましょう。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 21:32| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

神と格闘すること   創世記32:23−30   2019.10.20    聖霊降臨後第19主日(特定24)   

神と格闘すること   創世記32:23−30  2019.10.20    聖霊降臨後第19主日(特定24) 

 今日の旧約聖書日課から、創世記第32章27節の御言葉を思い起こしましょう。 「ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくれるまで離しません。」
 今日は、主なる神がヤコブに姿を現された場面に注目し、主なる神が私たちの人生に介入して来られる事を学びたいと思います。そして、その時、私たちもしっかりと神と向き合って、このヤコブのように主なる神に「祝福してくれるまで離しません。」と言って格闘する者となれるように導きを受けたいと思います。
 今日の旧約聖書日課は、創世記第32章4節からです。ここには、ヤコブが登場しますが、ヤコブは創世記の中でも多くの部分をさいて取り上げられています。イスラエルの神がやがて「アブラハム、イサク、ヤコブの神」と表現されるようになるほど、イスラエルの民の父祖として大切な人物です。
 はじめに、今日の場面にいたるヤコブの半生を眺めてみましょう。
 ヤコブには双子の兄エサウがいました。この兄弟が誕生した時、弟ヤコブは兄エサウの踵を掴んで生まれてきました。それは、これからの二人の関係を暗示する出来事でした。父イサクが年老いて目もかすみ、エサウに長男としての権利(家督)を譲って祝福を与えようとした時、ヤコブはわずかなスキを狙って目の見えない父イサクをだまして、長男としての祝福を横取りするかのようにして受けてしまいます。ヤコブは当然兄エサウの怒りを買いました。エサウは怒りに燃えて「父の喪の日の後に(つまり父イサクが死んだら)弟を殺すのだ」とまで言いました。そこでヤコブはエサウを逃れて長い間ハランの地にいる伯父のラバンの所に身を寄せることにしました。ヤコブはラバンの許で20年の時を過ごしますが、持ち前の賢さで財を築き妻を得て家族をつくりました。そして寄留の地での20年を経て、ヤコブは今、自分の家族と沢山の家畜を引き連れて故郷に帰ろうとしています。そして、ヤコブの一行はヨルダン川のヤボクの渡しまで戻ってきて、いよいよ明日は向こう岸にいる兄エサウの土地に足を踏み入れることになります。。
 兄のエサウに「弟を殺すのだ」とまで言わせたヤコブには、20年経った今も負い目があります。それはまた、いつもずる賢く他人を騙すように生きてきた自分自身に対する癒しがたい痛みでもあり、自分の中にある深い傷であったとも思えます。ヤコブは持ち前の賢さで、ハランの地で伯父のラバンに負けない財産を築き、妻をめとり、沢山の子供にも恵まれました。このヤコブが故郷に錦を飾る上での、大きな気がかりは兄エサウのことでした。明日にはもうエサウに会わなければなりません。
 ヤコブは、その日にも持ち前の賢さから、もしエサウがまだ怒っていたらどうしたらよいか、どうすることでエサウの怒りをやわらげることが出来るかを考えました。そして、先の先まで読んである段取りをしたのでした。
 その晩、ヤコブは妻も子どもたちも自分の財産である羊や牛やロバなどの家畜も全て川の向こう岸へ渡らせてしまいます。ただ、自分は独り川を渡らず、ヤボクの渡しのこちら側で一夜を過ごそうと考えて実行したのでした。
 やがて、夜が更けていくと、ヤコブの前に何者かが現れ、夜明けまでヤコブに戦いを挑み、ヤコブは誰か分からない者と一晩中組み打ちを続けたのです。実はこの何者か分からない者は神であり、ヤコブは一晩中神と格闘していたのです。
 このような物語から、冒頭に触れたように、主なる神がヤコブの人生に介入してこられた事について考えてみましょう。
 これまで、ヤコブは賢くぬかりなく生きてきました。ヤコブの誕生の時からそうであったように、他人の足を掴んで倒してでも、自分の力を頼みに生きてきました。そのようにしてヤコブは財産を築き、美しい妻と多くの子供を得て、身の危険や難題も上手く切り抜けてきました。その人生は多くの人が「そうありたい」と思うような、順調で華やかにも見える人生でもありました。
 しかし、神は夜の闇の中からヤコブに問いかけるのです。
 「そのようにして生きているお前は何者なのか。家族も財産も向こう岸へ渡し、最後まで自分一人が身を守るようにしてこちら側に残るお前の生き方は何を意味しているのか。」
 今、暗闇の中でヤコブはその問いに答えるように神から迫られるのです。
 主なる神のこの問いかけを前にして、世俗的な意味での成功者の生き方は役に立つのでしょうか。これまで人間を相手にしたヤコブは抜け目なくスキもなく振る舞ってきましたが、家族も財産も向こう岸へ渡してただ一人の自分になった時、自分の心の中にある未解決で深い亀裂を起こしたままの、これまで自分でしっかりと目を向けることを避けてきた自分の弱さに対して、神はのしかかるようにヤコブに迫ってきています。ヤコブは神と格闘します。神と格闘すると言うことは、神の厳しい問いかけに答えねばならない自分と格闘することであり、自分の存在が根底から揺さぶられると言うことです。夜の闇の中で神と格闘して、ヤコブは頑なに自分を立てようとしますが、最後には神に打ち砕かれて、もものつがい(大腿部の関節)を外されてしまいます。もものつがいは人の体の中心にあって力が集まる場所であり、その関節が外されたということは自分の力を頼みとすることが出来なくされた事を意味しています。ヤコブは今、神の前に自分の知恵と力を頼みとして生きる事の限界と無力さを思い知らされています。
 そして、この時にヤコブはこう言うのです。「祝福してくださるまで離しません。」(32章27節)
 この時、ヤコブは自分のこれまでの生き方は神の前に全て崩され、今までのようにはもう歩けないし、そのように歩こうとも思いません。この時のヤコブは、神と格闘して、必死で神を掴もうとして、神の祝福を得ようとしています。
 神はそのヤコブを祝福して去っていきました。
 そして夜の闇は明けてきます。
 32節にはこう記されています。「ヤコブがペヌエルを過ぎた時、太陽は彼の上に昇った。ヤコブは腿を痛めて足を引きずっていた。」
 ヤコブは明るい太陽の下で、一見不様に足を引きずっていますが、その姿こそ神に祝福された者の姿なのです。
 私たちはどうでしょうか。私たちも神に介入される時、いくら自分を誇り自分を頼んで神を打ち破ろうとしても、私を生かしておられるお方を支配できる者など一人もおりません。それより私たちは、神に介入されることを嫌がり、自分をごまかして表面を繕ったり自分なりの屁理屈を立てて、自分の内面を防衛して、自分が強く正しい者である気になっているだけなのではないでしょうか。そのような時こそ、私たちは、神に自分の生き方を揺さぶられる時、ヤコブのように神と取り組み、「あなたが祝福してくださらないのなら、わたしはあなたを離しません。」と言うべきなのではないでしょうか。
 日が昇った時、ヤコブは夜中の格闘で神に打ち砕かれたボロボロの姿で足を引きずって、エサウに会うために歩いていきます。私たちは、このヤコブの一見惨めな姿の中に、神の祝福を受けた者の輝きを示されています。
 主なる神は信仰をもって歩む私たちに、薄っぺらな楽しさや御利益を保証してはおられません。神はむしろ己の力や財産を頼みに生きようとする人には、その人の人生を問い、神は私たちに課題を突き付け、時には挑戦的でさえあります。神が私たちのところに介入して来られるのは、私たちに神の御心を知らせて、私たちを御心によって生かし導くためです。ヤコブがそうであったように、私たちも本当の自分と向き合う事が出来るようになるため、神に腿の関節を外されるような惨めさや辛さを負わなければならないこともあるかもしれません。しかし私たちはそのような時にこそ、「祝福してくださるまでは離しません。」と祝福を祈り求めたいのです。
 今日の福音書ルカによる福音書第18章7節で、主イエスがこう言っておられます。「まして、神は昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために彼らをいつまでも放っておられることがあろうか。」
 私たちは主なる神から働きかけられて、時にその働きかけによって自分の思いを打ち砕かれたり揺さぶられたりしながら、信仰生活を歩んでいきます。主なる神によりすがり、ヤコブのように「祝福してくださるまであなたを離しません」と、主なる神に祝福を求め続けり信仰生活へと導かれていくことができますように。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 21:24| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする