2020年04月19日

復活の主の傷跡 ヨハネによる福音書20:19−31   復活節第2主日   2020.04.19

復活の主の傷跡 ヨハネによる福音書20:19−31   復活節第2主日   2020.04.19
 
 今日の福音書は、甦った主イエスが、部屋の戸に鍵をかけて閉じこもる弟子たちに復活のお姿を現された物語です。 
 主イエスは、最初に弟子たちの中に復活のお姿を現わされた時にも、その8日後にまたお姿を現わされた時にも、弟子たちにご自身の手と脇腹をお示しになりました。私は、このことにはとても大切な意味があると思います。私たちは甦った主イエスさまのお体には深い傷痕があることを、しっかりと覚えておく必要があるのです。
 日本では伝統的に、過去の過ちは「水に流す」、「なかったことにする」というモードがありました。もし、日本にキリスト教より先に似たような「復活信仰」が興っていたとしたら、その復活した者の体に傷はなかったのではないかなどと想像します。
 主イエスは、ご自分の傷痕を示しておられます。このことは、弟子たちが主イエスの十字架の出来事をどう受け止めるのか、ひいては私たちが主イエスの傷痕をどう受け止めるのかということにある、と言えます。
 主イエスの傷痕は、誰に関わる傷跡なのでしょうか。もし私たちが主イエスの手と脇腹の傷痕が自分とは無関係のものであると言えば、主イエスの甦りもまた自分とは関係ないものになるでしょう。
 昔、ある先輩聖職が、日曜学校の子どもたちに主イエスの傷跡について、次のような話をしながら説明しておられたことがありました。私にはその話が今でもとても印象深く心に残っています。
 その話に登場した子どもの名前をA子ちゃんとしておきましょう。
 小学生の女児A子ちゃんのお母さんには、右の頬から肩そして腕にかけて大きなケロイドがありました。A子ちゃんは、幼い頃にはそのことをあまり気にしていなかったのですが、次第に、お母さんと道を歩いている時などに見知らぬ人がお母さんのケロイドに気付くと、その人が急に驚いたような表情をしたり、時には急にお母さんを避けるような態度に変わる人がいたりすることを感じるようになり、胸を痛めていました。
 A子ちゃんが小学生になって、ある日、お母さんとのちょっとした気持ちの行き違いから、本当はそのようなことは思ってもいないのに、A子ちゃんは「皮膚の縮れたお母さんなんか嫌いだ」と言ってしまいました。お母さんは「しっかり話すべき時が来た」と思い、自分の頬から腕にかけてなぜこのようなケロイドがあるのかをA子ちゃんに優しく話し始めたのでした。
 それは、ちょうどA子ちゃんがハイハイから掴まり立ちをするようになる頃の寒い冬のことでした。お湯の煮えたぎる石油コンロの方に這っていくA子ちゃんの危険に気付いたお母さんは、自分の身を投げ出してA子ちゃんをかばい、お母さんは倒れた石油コンロの炎とヤカンの熱湯を顔から腕にかけて浴びてしまったのでした。もし、体の小さなA子ちゃんがこの熱湯を浴びていたら、全身火傷で命の危険にもつながったところでしたが、幸いにもA子ちゃんはかばってくれたお母さんのおかげで軽い火傷ですみ、その跡も残らなかったのです。
 お母さんの首筋から肩、肘のあたり残るケロイドは、その時の火傷の痕であり、そのケロイドを見慣れない人の中には驚いたり怖がる人もいるかも知れないけれど、お母さんはA子ちゃんが火傷の痕も残らず元気に育っていることが嬉しくて幸せなのだと伝えたのです。
 この日から、A子ちゃんにとってお母さんのケロイドが何を意味するのか、A子ちゃんの中で全く変わったのでした。
 お母さんのケロイドは、A子ちゃんがお母さんからどんなに愛されているかの印であり、お母さんが我が身を投げ出して自分を守ってくれたことの印であり、悩みや恥ずかしさのもとではなく、A子ちゃんの今あることの証なのです。 私は、この話が実話であるかどうか知りませんが、主イエスの両手、両足、脇腹にある傷跡の意味を考える上でも、とても示唆に富んだ話であると思います。
 主イエスは、部屋の戸に鍵をかけて閉じこもる弟子たちのところにお姿を現し、自身の手と脇腹の傷跡をお示しになりました。それは、弟子たちを叱るためでも非難するためでもありませんでした。A子ちゃんのお母さんの火傷の跡と同じように、主イエスの傷跡は十字架を通して示された神の愛のしるしです。神の愛はイエスの十字架で終わってしまったわけではありません。神の愛は、死に打ち勝ち、更に死の先にまで働いてくださることを、主イエスの十字架と復活は示しています。甦りの主イエスには、私たちを救ってくださった十字架で受けた御傷があるのです。
 主イエスは弟子たちに「あなたがたに平和があるように」と言ってくださいました。この言葉はイスラエルの人々が挨拶を交わすときに用いる「シャローム」という言葉です。ここで主イエスが言っておられる「シャローム」は、主なる神さまの平和があなた方にあるようにということであり、私たちも礼拝の中で「主の平和」と言って交わす「平和の挨拶」の原型であると言えます。
 最後の晩餐をなさった後に主イエスがユダヤ教の権力者たちによって捕らえられた時、弟子たちはみな主イエスを見捨てて逃げ去り、ペトロは主イエスのことを呪いの言葉まで加えながら「あんな男とのことなど知らない」と言ってしまいました。そのような弱さや醜さの故に神の御心から離れてしまうような弟子たちであろうと、私たちであろうと、神の方からは決して私たちを見放すことも見捨てることもなく、主イエスは祝福を与えていくださいます。主イエスの傷跡はそのことを意味しており、その主イエスはそれを言葉にして「あなた方に平和があるように」と宣言してくださいました。
 主イエスの復活とは、私たちに対する神の愛の大きさと深さであることを知るとき、驚きと迷いは喜びと感謝に変わります。
 主イエスは、今、私たちに傷跡を示し「あなたがたに平和があるように」と言ってくださっています。弟子たちの喜びを私たちも自分の喜びと感謝にすることが出来ますように。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 17:41| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年04月12日

再び起き上がる  復活日   マタイによる福音書28:1−10    2020.04.12  

再び立ち上がる  復活日   マタイによる福音書28:1−10          2020.04.12

 本年はこうした厳しい状況の中で復活日を迎えておりますが、主イエス・キリストの復活を感謝しお喜び申し上げます。
 主イエスが十字架に磔にされて死に、アリマタヤのヨセフの所有していた新しい墓に葬られたのは金曜日の夕方近くになってのことでした。安息日である土曜日が過ぎ、マグダラのマリアともうひとりマリアという名の女性は、安息日が明けるのを待ちかねて、朝早くまだ暗いうちに主イエスの置かれている墓に向かいました。ところが、マタイによる福音書によれば、彼女たちは、大きな地震と共に主の天使が降って、墓に蓋をしてあった大きな石がそこから取り除けられているのを見るのです。
 天使が彼女らに言いました。「あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。」
 婦人たちは恐れながらも喜び、そのことを弟子たちに知らせるために走ります。すると、復活したイエスが行く手に立って、「おはよう」と言ってくださいました。
 主イエスの復活はキリスト教の信仰の中心です。それにもかかわらず、一番理解しにくいことであり、復活を理解できず、納得できないために、せっかくキリスト教とその教会に興味関心を示し親しい思いを持ちながらも、信仰の川を対岸にまで渡る決心がつかないままに長い時を過ごしたという人もおられるのではないでしょうか。
 神学者たちの中にも、主イエスの復活を現代科学の考え方で生きている人々にも理解できる説明を試みようとする動きもあり、それは当然そのように努力すべきことなのですが、中には「十字架の上で仮死状態であったイエスが甦生した」などと言い出す者まで現れました。
 もし主イエスの復活がそのようなことに過ぎなかったとすれば、私は、イエスの十字架の意味も甦りの意味もかえって損なわれてしまうように思えます。そして、イエスが救い主であるという信仰も生まれなかっただろうと思います。そうであれば、弟子たちやパウロたちによって命がけで主イエスを伝える者も現れなかっただろうと、私は考えます。
 パウロは「今や、キリストは死者の中の中から復活し、眠りについた者の初穂となられました」と言っていますが、そのことを伝えるために命がけで働いパウロには、イエスが死者の中から復活したことについての確かな経験があり、救い主イエスを伝える時にも、そのイエスが生きて自分と共にいて働いていてくださることを実感していたことは間違いないのです。
 主イエスの復活を思い巡らせる糸口として、日本語の聖書で「復活」と訳されている言葉の原語に注目してみたいと思います。
 新約聖書で「復活」と訳される言葉の原語は、おもにアニステーミ、エゲイローという二つです。アニステーミは、アナ(再び)という接頭語とヒステーミ(立ち上がる stand)という言葉からできている言葉で、直訳すれば「再び立つ」となるでしょう。エゲイローは「起こす、立ち上がらせる rise 」という意味です。
 この言葉はどちらも、主イエスの「復活」の場面以外の箇所でも使われているところがあります。その箇所での用いられ方を見てみることは、主イエスの「復活」について考える上での参考になると思いますので、その一つとしてマタイ第9章9節を見てみましょう。
 「イエスは・・・マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。」
この中の、マタイが「立ち上がる」というところでアニステーミという言葉が使われています。
 主イエスの弟子となるマタイはかつて徴税人でした。彼はガリラヤ湖のほとりの船着き場で、そこを通る人や陸に揚げられる荷物に税金をかけて取り立てていました。その税金は当時イスラエルを占領していたローマに上納されましたので、当時の徴税人は「汚れた者」、「国の裏切り者」とみなされ、イスラエルの民から交わりを絶たれ、おそらく自分でも「どうせ、俺は徴税人よ。」とばかりに居直って、卑屈な人生を送っていたことも想像されます。そのマタイがまさに生活の真っ只中で主イエスに見出され、召し出され、生まれ変わって新たに歩み出すのです。主イエスがマタイを掛け替えのない一人の人間として認めて言葉をかけてくださいました。マタイはイエスとの出会いによって本当の自分を見つけ出され、その自分に触れ、その自分を取り戻して、喜んで立ち上がってイエスについていきました。この場面で「彼は立ち上がって(アニステーミ)、イエスに従った」と聖書は記しています。
 この場面のマタイの姿を思い浮かべるとき、「彼は立ち上がってイエスに従った」という箇所を、「彼は復活してイエスに従った」と訳すことに皆さんは不都合をお感じになるでしょうか。わたしは、この場面のマタイが「立ち上がる」とは、マタイが「本来のマタイとして在るべきマタイになったこと、本当のマタイに甦ったこと」に他ならないことがよく分かるように思えます。そして、罪人の一人が悔い改めることは天の喜びであることが感じられます。傷ついた者が主イエスの愛によって癒され、倒れた者が主イエスの愛によってまた立ち上がって歩み出すところに天の国の姿が現れ出ることが聖書のメッセージであり、「復活」はまさに聖書のキーワードであることが分かります。
 こうして人を生かし、困難や悲しみや打ちひしがれた思いにある人をも立ち上がらせてくださる力が「復活」の力であり、福音記者たちはその思いを込めて「アニステーミ(復活する)」「エゲイロー(起こす)」という言葉を用いているのでしょう。
 「復活」とは、徴税人マタイを主イエスが与えた神の御力によって立ち上がらせた力であり、人を本当の自分に生まれ変わらせて歩ませる力のことであり、私たちが罪の中にあった古い自分の死と神の愛によって肯定されて新しく生まれ変わって生きていくための力であると言えるのです。
 この力がまず弟子たちを変えたことを福音書は伝えています。
 そのように変えられる前の弟子たちは、主イエスの十字架を通していやというほど自分たちの醜さを知らされました。弟子たちは、イエスが十字架にかかる前の、最後の晩餐の席にあってさえ、自分たちの中で誰が一番偉いのかを論じ合い、目の前に迫るイエスの十字架の死を思うこともできず、イエスが天下を取った時には誰がその左右の席に着くのに相応しいかを論じ合っていました。その席で、主イエスが、この中から裏切る者が出て私は罪人たちに引き渡されると告げても、「私たちも一緒に死のうではないか」「死んでもあなたに従います」と豪語して見せました。しかし、弟子たちは、ゲッセマネの園でイエスを裏切って、みな、蜘蛛の子を散らすように逃げ出してしまいました。
 この弟子たちが、皆、信じられないほどの僅かな期間に、まるで生まれ変わったかのように、十字架に付けられたイエスこそ救い主であると力強く宣言し、世界にイエスこそキリスト(救い主)であることを伝え、ほとんどの弟子たちがイエスと同じように殺されながら、彼らの集まり(教会)は力をなくすどころか、世界に広がっていったのです。
 このように、弱く、貧しく、だらしのない罪人たちに、力を与えて再び立ち上がらせる(アニステーミさせる)力こそ主イエスの復活の力であり、このように弟子たちが再び立ち上がっていった奇跡を考えるとき、弟子たちを立ち上がらせて生かした力の源には、十字架で死んだ主イエスの復活があったこと以外には考えられないのです。
 それを数式のようにて表現すれば、
 「無力で裏切り者の弟子たち×エックス=弟子たちの宣教の力」という式のエックスは、主イエスの甦り以外の答えはあり得ない、ということになるでしょう。
 主イエスがこの世に生きて十字架で死んで葬られたことは、弟子たちによって伝えられていきます。世界は、このイエスの十字架の死と復活によって、新しくされたと認識して、暦の数え方まで転換しました。今から2020年近く前に生まれて30数年の生涯を十字架の上で終えた男が、復活して、わたしたちを神の愛の中で立ち上がって生きるように招いておられます。この招きに応えることによって、これまでの古い罪ある人間は、主イエスによって新しく尊い人間として生まれ変わるのです。私たちは、主イエスが示してくださった神の愛を他ならぬ自分に与えられたものと受け入れて、再び立ち上がって生きていくことができます。
 主イエスが復活して、わたしたちを招いていてくださいます。それは、わたしたちが困難に遭い、傷つき、嘆くことがあっても、神は愛の中でわたしたちを再び立ち上がらせ、最後には御国へと招いてくださるためです。
 その信仰と喜びの中で生きることこそ「新しい命」に生きるということです。
 わたしたち一人ひとりが主イエスの示してくださった愛を自分のものとして再び立ち上がらせていただけますように。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 14:32| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年04月11日

真理へと招く十字架    ヨハネによる福音書19:38-42     聖金曜日     2020.04.10

真理へと招く十字架  ヨハネによる福音書19:38-42     聖金曜日     2020.04.10


主イエスが十字架にお架かりになられたことを心に刻み、ひとときを過ごしたいと思います。
 この数年間、聖金曜日の礼拝は、栃木県と茨城県の教会で合同で行ってきましたが、本年は新型コロナウィルスの感染拡大の状況に鑑み、私たちの教会では、大斎節の間午後4時から行ってきた「夕の礼拝」に合わせて、聖金曜日の礼拝を行っています。
 マタイ、マルコ、ルカの福音書では、主イエスが十字架に付けられた時刻について、「既に昼の12時頃であった。全地は暗くなり、それが3時まで続いた。」と記しています。主イエスが十字架につけられて息を引き取られ、その後、先ほど第2日課で朗読されたように、アリマタヤのヨセフとニコデモがイエスの遺体を取り降ろして墓に葬ることをピラトに願い出て許され、すぐにイエスの十字架の場所に戻って遺体を十字架から下ろし、墓に納めたのが丁度今頃の時間ではなかったかと想像しています。
 この聖書日課出てくるアリマタヤのヨセフもニコデモもユダヤ議会の議員でした。この二人に共通しているのは、これまで自分はイエスを正しい人であると思いイエスに従って生きることが自分を偽らない生き方であり、真理に生きることであると思いながらも、それを公に言い表すことができないでいるということでした。
 このような生き方をする人のことを、ヨハネによる福音書第12章43節に「彼らは神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。」と表現しています。
 「神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだ。」
 この言葉を言い換えれば、彼らは「真実でいるよりも、自分の身を守ることを選んだ。」あるいは、「本物の自分であるよりも、偽物の自分でも周りに嫌われずに生きることを好んだ。」と言えるのではないでしょうか。
 主イエスは、当時のユダヤの律法を守ることより、その範囲とその制限を越えてでも、失われた人を見つけ出して癒やし、浄め、救いに導こうと、枕するところもなく働きました。そのような働きをするイエスが目の上のたん瘤のように思ってきたユダヤの指導者たちは、イエスを神を汚し神を侮辱する者として十字架へと追いやったのでした。
 アリマタヤのヨセフもニコデモも、サンヘドリンと呼ばれたユダヤ議会の議員(当時のイスラエルの最高議会員71人)の中の一人でした。彼らがこれまでと同じように自分の身を保っていこうとするなら、自分がイエスに共感しイエスを支持していることを黙っており、「人間からの誉れ」を受け続けることもできたでしょう。でも、イエスの十字架はアリマタヤのヨセフとニコデモを決定的に変えました。
 彼らは、「人間からの誉れを好むより、神からの誉れに生きる」ことを決断し、「自分の身を守ることを好むより、真実でいること」へと促され、「偽物の自分が嫌われずに生きることより、本物の自分である」ことへと歩み始めたのです。
 主イエスは、「真理はあなたがたを自由にする。(ヨハネ8:32)」と言いました。主イエスの十字架に表わされた真理がアリマタヤのヨセフやニコデモを自由にしたのです。これまで、律法を保身の盾としユダヤ議会の議員であることの名誉や特権を鎧のように身にまとっていた自分が、イエスの十字架によって露わにされ、心のもっと深いところに潜んでいた本当の自分と主イエスの十字架が結びついて、アリマタヤのヨセフもニコデモも自由にされたのです。
 その意味で、主イエスの与える自由とは、勝手気ままにかつ気楽に、何の束縛もなく生きていくことを約束するようなものではなく、より真実に、この世に与えられた取り替えのきかない大切な命をその人として生きることを全うさせる力となる自由です。そして、この「自由を生きる」ということは、イエスが背負ったのと同じ十字架を背負って生きるいくことになります。
 神の愛は、そのように一人ひとりを大切に生かす愛であり、この愛によって生かされる者は、愛から人を引き離そうとする悪の力と絶えず戦いながら生きていくことになります。
 それでも、敢えて主イエスを自分の救い主として告白し、与えられた自分の十字架を背負って生きていこうとするのは、主イエスが十字架の上から示してくださった神の愛によってこそ、人は人として生きることができると信じるからです。アリマタヤのヨセフもニコデモも、今、イエスの十字架によって、主イエスを通して示された神の愛のうちに生きていくことを心に刻んだのです。
 ヨハネによる福音書によれば、主イエスが十字架の上で最後に口にされた言葉は、「成し遂げられた」です。「完成された」とも訳されています。
 主イエスがこの世に生まれ、弱く貧しく小さくされた人々に関わって神の愛を示し続けたそのお働きが、このような十字架の死によって終わるけれど、これは神の愛がユダヤ教の指導者たちによって敗北したのではなく、その迫害と殺害にも負けなかったことを宣言しておられる言葉です。主イエスが十字架の上で示してくださった愛の力は、すぐにアリマタヤのヨセフとニコデモが証明し、引き継ぎました。やがてその愛の力は、イエスを裏切った弟子たちをも動かし、主イエスの示した愛の働きは、様々な困難を経て世界に伝えられていきます。
 ヨハネによる福音書第3章には、かつて夜こっそりとニコデモがイエスを訪ねた時の様子が記されており、この脈絡の中に次の聖書の言葉が出てきます。福音の要約と言われている言葉です。 
 「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。ヨハネ3:16)
 主イエスは、私たちに限りない自由を生きる道、永遠の命の道を開いてくださいました。そのしるしが主イエスの十字架です。
 私たちはこの主イエスの十字架を、私たちが本当の自分として生きるための招きとして、罪に走る私たちへの赦しとして、受け入れます。また、私たちは主イエスの十字架を、真理を生きる力として、また、その招きに応えて歩もうとするが故に負う傷の癒やしのしるしとして、時に行き悩む者への慰め励ましとして受け入れます。
 私たちの罪も過ちもみな十字架によって取り除かれました。主イエスの甦りに与りましょう。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 22:05| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする