2020年10月19日

祈りの習慣

祈りの習慣 司祭ヨハネ小野寺達
 
 ほぼ毎日、決まり事のように祈っていることがあります。私の場合は、「朝の祈り」、3食の「食前の祈り」、勤務する幼稚園での「始業の祈り」や「終業の祈り」等々。それは、ある意味、単調で変わり映えのない日々の祈りです。
 例えば勤務する幼稚園で、私は園長として、「主なる神さま、み守りのうちに新しい朝を迎え、こうして祈りをもって一日を始める恵みを感謝します。この日もあなたのお与えくださる良き交わりのうちに、あなたの愛によって共に育まれ導きを受けることができますように。ことに主イエス・キリストは幼子を祝し、神の国はこのような者の国である、と教えてくださいました。どうか子どもたちが主のみ旨に従って育ち・・・」と、いわゆる自由祈祷の中で祈祷書の言葉を想いつつ、祈っています。
 時に、祈りの言葉に自分の実感が伴わず、形式的で上辺だけの祈りになってしまうことに嫌悪感にも似た思いが付きまといます。そんな私が、日々の祈りを坦々と行っていく恵みを再認識する出来事が起こりました。
 その出来事とは高速道路での走行中に受けた追突事故です。その日、私は教区の集まりで静想の講話を担当し、良い時を過ごせた充足感を胸に他の婦人信徒と共にその集会から帰る途上で、高速道路を走行中に、居眠り運転でスピードを上げた後続車に突然に追突されたのです。念のために救急車に乗せられての応急処置と検査を強いられましたが、双方とも運転者と同乗者には大きな外傷はなく、軽度の怪我で済んだのでした。私の車両は修理不能になりました。
 翌朝、幼稚園での始業の祈りで「主なる神さま、み守りのうちに新しい朝を迎え、こうして祈りをもって一日を始める恵みと導きを感謝・・・。」と祈り始めると、この当たり前の祈りが、どれほど多くの恵みと導きの上に受けて成り立っているのかについての感謝が湧き上がり、胸が詰まる思いになりました。
「そうだったんだ。ずっとこの恵みと導きを前提に祈っていたんだ。事故に遭った翌日にもこのように祈れることそのものさえ、大きな恵みなんだ。」
 毎日、形ばかりの祈りになりそうであっても、決まった時間に、神の御前に手を合わせて祈る行為は、下支えしてくださっている神の恵みと導きがあればこそ成り立つのであり、時が良くても悪くても、実感があろうがなかろうが、私たちは神に対して応答しながら生きていくことが大切なことであると、改めて感じる時となりました。神の恵みに応答して生きることは、私たち人間の神に対する責任であり、このことは信仰生活の「基本のき」です。
 もし、祈りの言葉に実感が伴わないことがあっても、その言葉は私たちの意識を掘り下げ、祈りの言葉と私たちの経験を結びつける準備が進むでしょう。
 「主よ、わたしの口を開いてください。わたしは主の誉れを現わします。」という祈りで起床し、「あなたのみ手にわたしの霊をゆだねます。」という祈りで一日を終える生活を保ちたいと思います。
 (『聖公会の信仰』AAMJニュースレター第57号 2020年10月16日発行 所収)
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2020年10月18日

神のものを神に  マタイによる福音書22:15〜21    A年特定24   2020.10.18

神のものを神に    マタイによる福音書22:15〜21    A年特定24   2020.10.18


 今日の聖書日課福音書から、マタイによる福音書第22章21節の御言葉をもう一度確認してみましょう。
 「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」 
 今日の福音書の箇所は、主イエスがユダヤ教の指導者であるエルサレム神殿の祭司長や律法の専門家と激しい論争をしている中にあります。主イエスは、この論争を通して神殿指導者たちの問題点を浮き彫りにしてきました。それは指導者たちの罪を浮き彫りにする結果になり、彼らは自分たちにとって都合の悪い主イエスをどのようにして殺そうかと考えるようになるのです。
 今日の聖書日課福音書の箇所では、その論争の中でユダヤ教の指導者たちが手下を使って、主イエスの言葉尻を捕らえて言葉の罠にかけ、主イエスを罪人として神殿から追放しようと企んています。彼らは手下の者を主イエスの所に遣わして、こう尋ねさせたのでした。
 「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか。適っていないでしょうか。」
 指導者たちがこのように尋ねさせた背景には、税金に関して次のようなイスラエルの事情がありました。
 当時、ローマによって占領されていたイスラエルにとって、ローマ皇帝に税を納めるべきかどうかということは、大きなディレンマであり、派閥同士の対立を際立たせる重要な問題だったのです。そこのとは、統治するローマにとって、ローマへの反発を分散させる好都合の事柄にもなっていました。
 その当時、皇帝に納める税を取り立てる仕事の多くはヘロデ派に属する者が請け負っていました。ヘロデ派は、ローマ皇帝を支持してその保護の元にヘロデ家による政治を再び起こそうとする人々であり、イスラエルがローマ皇帝に税を納めることを良しとしていました。ヘロデ家とへロデ派は、徴税の仕事を請け負うことの引き換えに、ローマから保護され、その守りの中で民衆から不当に税金を取り立てて、その上前を自分のものとすることが認められていました。その一方で、ファリサイ派の人々は律法に厳格に生きることを大切にしており、ローマへの納税は異国の王に仕えることと同じであり、十戒の第一、第二に戒めに違反することでもあったのです。ファリサイ派はローマによるユダヤ教への介入や干渉を嫌い、納税については快く思わず、彼らはローマの手先となったヘロデ派を憎み、激しい対立心を持っていました。
 今日の福音書の舞台はエルサレム神殿です。本来ならファリサイ派はヘロデ派の者たちが神殿に入ることを激しく非難したはずです。
 また、当時のデナリオン銀貨にはローマ皇帝の像が刻まれ、「神なる皇帝」という文字が刻まれており、そのような貨幣を神殿に持ち込むことはファリサイ派にとっては神殿を汚されることと同じであり、許し難いことでした。それにもかかわらず、今、その両者は主イエスを言葉の罠に掛けて神殿から追い払おうとすることで結託しています。
 元々ファリサイ派とヘロデ派は犬猿の仲であり、全く違う立場にありました。そしてその立場の違いはイスラエルの葛藤と分裂の火種にもなっていました。そのようなファリサイ派とヘロデ派が、主イエスを言葉の罠に掛けようとする計略によって一つとなっています。彼らはユダヤ教の中心にある「神に対する真理や義」など捨てて、主イエスを神殿から追い出そうという点に於いて一つになり、手下を遣わして「ローマ皇帝に税を納めるのは律法に適っているでしょうか。」と問いかけています。
 この質問はある計略が潜んでいます。もし主イエスが「皇帝に税を納めてはならない。」と答えたら、イエスを嫌う人々はすぐにそのことをローマの役人に伝えて、イエスをローマ皇帝に背く者として捕えさせるでしょう。逆に、主イエスが「皇帝に税を納めなさい」と言えば、ファリサイ派は主イエスのことをイスラエルを裏切り皇帝にこびへつらう者として神殿から追い払うでしょう。あるいは、皇帝はローマ市民から「生ける神」とされていましたから、ユダヤ教の指導者は主イエスを神を侮辱する者として捕らえることも考えられます。 彼らの本心は、自分を棚に上げて、主イエスがどう答えてもそこに食らいつき、イエスを批判して追放することでした。
 この時、主イエスはデナリオン貨幣を持ってこさせ、彼らに「これは誰の肖像と銘か」と問い返しました。デナリオン貨幣には月桂樹の冠をかぶった皇帝ティベリウス像が刻まれたおり、裏側には「大祭司」という銘もあり、貨幣の中にもローマ皇帝の政治的、宗教的な権威が示されていました。
 このデナリオン銀貨は、当時ローマが支配する地域一帯に広く流通していましたが、イスラエルでは国粋主義者やファリサイ派の人々にとって、この貨幣を用いることは屈辱であり、ことに神殿で献げる貨幣は手数料を取ってイスラエルの貨幣に両替させていました。その貨幣を用いることは像を拝むことと同一視され、彼らはこの貨幣を避け、触ることさえ嫌がっていたと伝えられています。
 今、ファリサイ派は、イエスを言葉の罠にはめるために、この貨幣が神殿の中に持ち込まれても、黙認しているようです。ファリサイ派はイエスの問いにその貨幣は「皇帝のものです」と答えました。すると、主イエスは「では皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と言われました。この言葉を聞くと、主イエスに詰め寄っていたファリサイ派やヘロデ派の者は、驚き、戸惑い、主イエスを残して立ち去っていきました。彼らは退散したのです。
 私たちは、この場面を、主イエスが彼らの質問に上手く身をかわした話であるかのように読んではいないでしょうか。でも、この物語はただそれだけのことではないのです。
 この場面で主イエスが「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と言っておられることは、一般論ではなく、「それでは他ならぬあなたは、自分の何を誰に献げるべきなのか。」と迫っておられる、ということなのです。この厳しい問いがあるからこそ、ファリサイ派もヘロデ派も、真理を脇に置いて主イエスを言葉の罠に掛けようとしてる自分を顕わにされ、主イエスの前から引き下がっていくのです。
 それでは私たちはどうでしょう。私たちは自分が誰に返される者だと認識しているのでしょうか。
 私たち信仰を持つ者は、主イエスのこの問いに対して「勿論私たちは神のものです。自分を神にお返しします」と答えるべき正解は知っています。そのことは、神殿でイエスと論争するファリサイ派や神殿の指導者たちも同じでしょう。
 私たちはその正解をどのように実行すべきなのでしょう。
 祭司長やファリサイ派の律法の専門家も、言葉の限りでは律法の中で何が一番大切なのかを知り、「神と隣人を愛することが最も大切な掟である。」と正解を口にしながら生きていることに変わりはないのです。でも、主イエスが見たエルサレム神殿の指導者たちは、神と隣人を愛する生き方からは程遠く、権力の上にあぐらをかき保身して生きる者であることを主イエスに露わにされているのです。
 ユダヤ教の指導者たちは日頃は権力の傘で自分を護り、神の言葉を自分を守り他人を攻撃する道具として利用しています。しかし、主イエスがエルサレムに来てユダヤ教の権力構造の上にあぐらをかいている指導者たちの姿を厳しく指摘すると、彼らは神の御心に自分を照らして回心するのではなく、主イエスを抹殺しようと動き始めるのです。このようなところに、神のものを神にお返ししようとしない権力者の欲に満ちた姿が露わにされるのです。
 私たちも今日の福音書から「神のものは神に返しなさい」という主イエスの言葉によって、「あなたは何者であり、誰のものか」と厳しく問われています。 貨幣に刻まれた肖像と銘によって、その貨幣が誰に帰すべきかが示されているとすれば、私たちにも主イエスの肖像と銘が刻まれていることを思い起こさねばなりません。それは、私たちが洗礼を受けた時、額に十字架の徴を受けたのです。
 祈祷書の洗礼式にあるように、私たちは洗礼を受けた時、水の洗いの後に次のように額に十字架の形を記されています。
 「あなたに十字架の形を記します。これはキリストのしるし、あなたが神の民に加えられ、永遠にキリストのものとなり、主の忠実な僕として、罪とこの世の悪の力に向かって戦うことを表します」
 私たちはキリストのしるしを身に受けています。この徴は、私たちが本当の自分に立ち帰って、本当の自分を神にお献げして生きることへの招きでもあるのです。
 私たちは、主イエスの御言葉によって、自分の生き様を照らされて、神の愛の中で神の御心に立ち返るよう導かれています。そのようにして私たちは私たち自身が「神の宮」となるように育まれていくのです。私たちは、今日の聖書日課福音書から、誰もが自分の人生は他ならぬ自分のものであると同時に、神に選ばれ神に用いられる器であることを教えられています。
 キリストの徴を受け、キリストに帰されるべき私たちは、神の御心を現す器として用いていただけますように。
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2020年10月06日

「角の親石」  マタイによる福音書21:33〜43   A年特定22 2020.10.05

「角の親石」  マタイによる福音書21:33〜43   A年特定22  2020.10.05

 今日の聖書日課福音書から導きを受けるために、初めにぶどう園について考えてみましょう。
 イスラエルの人々は、旧約聖書の時代からイスラエルの国を神から管理を委ねられた「ぶどう園」に例えてきました。
 ぶどうは、そのまま食べることもありますが、多くは干しぶどうにしたりぶどう酒をつくるために用いられました。特にぶどう酒の場合は、収穫したぶどうの実を搾ってそのまま置いておくとその絞り汁はひとりでに発酵してぶどう酒になります。昔の人々はこのようにしてぶどう酒が出来ることを化学的な発酵の観点から理解したのではなく、搾ったぶどう液に「霊」が宿ることとして理解していました。英語のスピリットという言葉には霊という意味と共に酒という意味もあります。ぶどうは、果物の中でも特に発酵しやすく、それは神の霊を宿す性質のある食べ物であると理解されていた当時のことを考えてみると、イスラエルの民が自分の国を「ぶどう園」に例え、その働きに使命を持つ人々が自分たちを「ぶどう園の働き人」と例えたことには深い意味があったことが想像できます。
 今日の旧約聖書日課は、イザヤ書第5章から取り上げられています。イザヤは次のようにブドウ園の例えを用いて預言します。
 「わたしは歌おう、わたしの愛する者のために。そのぶどう畑の愛の歌を。
 わたしの愛する者は、肥沃な丘にぶどう畑を持っていた。」
 主イエスも、ぶどう園を例えにして、いくつかの教えを説いておられます。今日の聖書日課福音書は、聖書新共同訳では、「ぶどう園と農夫」のたとえという小見出しがついています。「ぶどう園の農夫と後継ぎ」の話です。
 この例え話を簡単に振り返ってみましょう。
 主人は、ぶどう園をその設備まですっかり整えて、農夫たちに任せて旅に出ました。収穫の時期が近づいた頃、主人はその収穫を受け取るために自分の僕を農夫たちの所に遣わしました。ところが、ぶどう園を任された農夫たちは、主人が遣わした僕を捕まえて袋だたきにし、また他の僕を石打にして殺してしまいました。主人は、前よりも多くの僕をぶどう園に遣わしますが、ぶどう園の農夫たちはその僕たちのこともまた同じ目に遭わせてしまいます。とうとう、主人は自分の息子なら敬ってくれるだろうと、自分の一人息子をそのぶどう園に遣わします。ところが、農夫たちはその息子を見て「この一人息子を殺してしまえばぶどう園は自分たちのものになる。さあ、こいつを殺してしまおう。」と話し合い、一人息子を捕らえ、ぶどう園の外に放り出して殺してしまうのです。こうして捨てられた息子は、新しく生まれる神の国の礎石になるのです。
 主イエスの時代には、イスラエルの指導者たちは、宗教的にも政治的にも、エルサレム神殿を中心にして民族の一致と団結を図ろうとしていました。
 その中心となり権力を握っていたのが神殿の祭司長や民の長老や律法の専門家たちでした。しかし、彼らは神殿の権威の上にあぐらをかき、自分たちの利益を求めたり、自分の都合の良いように律法を解釈することに心を奪われ、弱くされた人や貧しい人々のことなど顧みようとはしませんでした。そうした権力者たちに対して昔から沢山の預言者が神の言葉を語りました。ある預言者は神殿の指導者たちを糾弾する言葉を放ち、他の預言者はイスラエルの指導者や民衆に向かって神の御心に立ち戻るように勧め、また他の預言者は彼らに悔い改めを促す言葉を取り次ぎました。しかし、神殿の権力者たちは預言者の言葉を聞かず、拒否し、預言者たちを弾圧し迫害を加え、今日の福音書のぶどう園の主人に遣わされた僕たちのように、沢山の預言者たちが殺されていきました。そして、ぶどう園の主人の独り息子のようにお働きになった主イエスを十字架の上に捨て去り、彼らはユダヤ教の権威が自分たちの手の中にあるかのように振る舞い続けたのでした。
 しかし、神の独り子である主イエスが十字架の上に殺されて、神の国の実現を目指す働きはそこで終わってしまったわけではありませんでした。
 主イエスの働きが十字架の上に放り出されて終わったかのように見えても、何の権威もない弱く小さな人々によって、新しいぶどう園の働きが十字架の出来事から始まり受け継がれていくのです。十字架に示された主なる神の愛は各地に散らされている人々に届けられ、やがてその群れは新しい集団を作りだし、教会として成長し始めます。そのことをマタイは、第21章42節に
 「家を建てる者の捨てた石、これが角の親石となった。
 これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。」
と記しているのです。これは、詩編第118編22節23節の言葉です。
 イスラエルの指導者たちが考えるぶどう園は、自分たちは神に選ばれたと自負する者たちが我が物顔に振る舞うぶどう園に成り下がり、御心を忘れ、遣わされた独り子を拒み、その独り子を十字架の上に捨て去りました。エルサレム神殿の指導者たちは、自分たちの握る権力の中に神の御心を閉じこめようとしました。主イエスが示した神の愛を拒否し、神の御心との間にある大きな断絶が明らかになりました。主なる神は主イエスの十字架の出来事を通して、イスラエル民族の枠を越えて神の御心を世界中に拡げてくださったのです。
 主なる神の救いの歴史は、イスラエルの民の中に始まり、異国の民へそして世界へと広がっていきました。 今日の福音書の最後の部分で主イエスはこう言っておられます。
 「だから、行っておくが、神の国の福音はあなたたちから取り上げられ、そ れにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。」
 それは、この世界の中でのキリスト教の大きな流れであると同時に、私たち一人ひとりの心の歴史でもあるのではないでしょうか。
 ここで主イエスが言っておられる「民族」とは、ある特定の人種や部族を意味しているのではなく、主なる神の御心を行いその実を結ぶことに出来る人々の集まりを意味している事は明らかです。私たちの教会も、主の御心に相応しい実を結べるよう求められています。こうして教会に招かれている私たち一人ひとりも、またこの礼拝堂も、主が用意してくださったぶどう園です。このぶどう園の働きによって主の御心に相応しい実を結び、その実を主のご用のために納めることを私たちは求められているのです。
 主なる神のお働きは、人の欲と罪のためにぶどう園の外に捨てられてしまったかのように見えても、独り子主イエスの働きは平和と愛に満ちた世界を作りだすための「角の親石」となって、私たちの働きを支えていて下さいます。神ご自身が人の罪のために傷み苦しみながらも、なおその先に御心を行う人を起こし、その人たちを心の底から支える「親石」となって下さっているのです。あらゆる困難や挫折の先に、それに勝る喜びと平和を与えてくださるために、主なる神は働いておられます。私たちは、神の愛を受け、御心の実を結び、その実を主の御前に喜んでお献げできるよう、今日の福音書の御言葉を一人ひとり深く受け止めましょう。
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