2017年11月07日

「教える者の権威」  マタイによる福音書23:1〜12  A年特定26

「教える者の権威」 
マタイによる福音書23:1〜12  A年特定26  2017.11.05  

 今日の聖書日課福音書の箇所であるマタイによる福音書第23章は、1節に記されているとおり、主イエスが群衆や弟子たちにお話ししておられる箇所です。この前に箇所まで(マタイによる福音書第22章の終わりまで)、主イエスはユダヤ教の指導者たちをはじめ、沢山の人と激しい論争をしておられた箇所でした。その日が「論争の火曜日」と名付けられていることは,たびたび触れてきました。指導者たちは、主イエスとの論争を通して自分たちの保身的で時に自分を棚に上げた卑劣な態度でイエスを貶めようとする姿を露わにされ、イエスの前から退散していきました。
 その直後に、主イエスは周りの群衆や弟子たちにお話になっています。
 私たちの中には、主イエスは穏やかでこやかな優しいお方というイメージがあって、今日の福音書にあるような主イエスの激しい言葉を受け入れ難く思ってしまうこともあるのではないでしょうか。でも、その内容にしっかりと目を向ければ、それは、当時の律法の専門家やファリサイ派を批判するだけでなく、教会に集う私たちにも厳しい問いかけと促しを与えておられます。
 今日の福音書の、主イエスの言葉を要約すると次のようになると思います。
 「律法の専門家やファリサイ派が口にしていることは正しいが、彼らはそれを実行してはいない。かえって、彼らの行いは天の国への道をふさいでしまっている。」
 主イエスは、当時の律法の専門家やファリサイ派に対して、何故これほどまで厳しいことを言うのでしょう。今日の福音書から、一つの言葉に着目して、主イエスの教えておられることを考えて導かれたいと思います。
 マタイによる福音書第23章2節に「モーセの座」という言葉が出てきます。モーセは、イエスの時代を更に遡って1300年以上昔の人です。モーセの時代にイスラエルの民はエジプトの国で奴隷になっており、その民をエジプトから導き出したリーダーがモーセです。モーセに率いられたイスラエルの民は、エジプトを脱出した後40年にわたり荒れ野を放浪して過ごしましが、イスラエルの民がエジプトを逃れてシナイ半島に入り、しばらくすると、モーセは独りシナイ山に登り、そこで主なる神から十戒を授けられたのです。
 その第一の戒めに約束したように、「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたにはわたしをおいてほかに神があってはならない。」(出エジプト記20:2)(また、ほかに神があるはずがない。)これが、主なる神とイスラエルの民との間の最も大切な関係の理解であり、同時にこれがイスラエルの民の自己理解でした。そしてこの言葉に始まる十戒がイスラエルの民の生きる基盤であり、生活の枠組みです。イスラエルの民にとってその他の律法も皆神とモーセが結んだこの契約を基盤としていると考えました。主イエスさまの時代にも「モーセ」とか「モーセの書」と言う言葉が用いられ、それらは殆どの場合、神とイスラエルの民が結んだ契約とその契約を生活の中に具体的に表す律法を意味していたのです。
 今日の福音書で、主イエスは「律法の専門家やファリサイ派が「モーセの座」についている」と言っておられますが、これは言葉を換えれば、「彼らは神との契約の上にあぐらをかいている」と言うことを意味しているのです。
 彼らは律法の内容については詳しく知っており、その知識に基づいて他の人々を批判したり非難したりはするけれど、律法を守れない人々やそのために社会からはじき出されて悩み苦しむ人々には指一本貸そうとしませんでした。主イエスはその様な律法の専門家やファリサイ派のことを厳しく批判なさったのでした。とりわけ、律法を教えその精神を生きるべき立場にある人が、自分では律法を拡大解釈した言い訳や理屈によって批判を逃れ、他の人々に対しては「お前のここが違う」「お前のそれは正しくない」と言って「モーセの座」から批判するばかりで、律法によって裁かれて身を切られるような思いになっている人にどう関わって迎え入れるのかということには全く無関心であり、痛むこともありませんでした。彼らは主イエスの目から見れば、周りの人々から賞賛され社会的に高い評判を得ることを願って、人目に付くところで大袈裟に祈ってみたり、衣服の房を大きくして熱心さを見せかけ、形の上での敬虔を装っているに過ぎなかったのです。
 本来、「モーセの座」は、律法をとおして神のお考えが現れ出る、神の御心の発信基地であったはずです。その発信基地にいる者たちが、いつの間にかその権威の上にあぐらをかいて、権威は権力に成り代わり、弱い人や貧しい人を切り捨てる構造を維持する基地になってしまっていたのです。
 一つの例を挙げてみましょう。
 律法の中に「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい。」という言葉があります。この言葉によって今自分の生きている社会と自分自身をを振り返ってみると、あまり愛のない姿が見えてきます。その時、律法の専門家たちは社会を上から見下して言うのです。「あなたの生きている社会に愛がありません。」「あなたの生きている社会は冷たい社会です。」「神はあなたの生きている社会を喜びません。」そして、愛に飢え乾いている人に愛とは何かをあれこれと説明するのです。それは、まるで食べ物が無くてお腹を空かせている人を前に、あなたはどのような栄養が足りないから何をどのように食べるべきかを教えながら、水一杯飲ませずに飢え乾いた人をそのまま帰らせるようなものです。今、目の前に飢え乾いた人がいたとして、必要なのはあれこれの説明より黙って差し出される暖かなスープと一切れのパンではないでしょうか。
 主イエスは他の人の上に立って教える人は、黙ってスープとパンを差し出す人のように、「仕える者になりなさい」と教えておられるのです。
 律法の専門家やファリサイ派は律法を知り尽くしそれを実行している側に自分の身を置いてはいるけれど、主イエスの目から見ると、彼らは権力の上に居座っている人にしか見えません。彼らは「モーセの座」の内実を神の御心から離れたこの世の権力の座にしてしまいました。律法の専門家たちは「あの人は偉い、あの人は立派だ」ともてはやされることを好みます。そして、ちやほやされていないと腹を立てて他人に罪を負わせ、自分に都合良く律法を解釈をして、自分たちとは違う立場の人を悪者に仕立て上げていくことさえしたのでした。彼らは神殿の論争でイエスを追い出すことができず、主イエスを何とかして殺そうと相談し始めるのです。
 主イエスは、神を愛し人を愛することに全く妥協なさいませんでした。その愛は、ユダヤ教指導者たちの悪や不正や怠惰を見過ごしませんでした。
 そのような愛の厳しさの故に、私たちも、時に、その愛に照らし出される事が怖くなったり苦痛になったりもします。なぜなら本当の愛に照らされることは、私たちの本当の姿が浮き彫りにされてきて、それまで当然のことのようにして犯してきた罪に新たに気づかされて愕然としたりすることだってあり得るのです。でも、それは、私たちが主イエスの本当の愛に生かされていこうとするなら、主イエスとの関わりの中で本当の自分が神の愛されて生きていこうとするなら、醜い自分をも認めて生まれ変わることは必要なことなのです。そして、私たちには、自分の罪に働いてくださった神の愛を知ることを通して神に対する感謝と讃美が生まれてくるのです。
 私たちが主イエスのことを人々に伝え教えることが出来るとしたら、それは私たちが愛について語ることによってだけではなく、神の御心のために自分を用いてくださいと祈りながら神と人々に仕えて行くことによってなのではないでしょうか。
 私たちは聖書を通して、神が私たちを愛してくださったことを教えられました。神の愛を受け入れ、愛に満たされ、私たちも隣り人に仕えることによって主イエスの働きにあずかり、主の栄光のために生かされるように導かれましょう。
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古い契約を超越する  マタイによる福音書22:34〜46  A年特定25 愛

古い契約を超越する愛
  マタイによる福音書22:34〜46   A年特定25    2017.10.29

 主イエスは、今日の聖書日課福音書で、ファリサイ派の質問に答えて「神を愛すること」と「隣人を愛すること」の二つは分けることのできない最も大切な掟であると教えておられます。
 始めに「掟」ということについて考えましょう。
 この「掟」の成立には、根底に神とイスラエルの民の関わりの歴史があります。モーセの時代に、イスラエルの民はエジプトで奴隷になっていました。その奴隷の民は、神の力によって、奇跡的にエジプトを脱出することができました。彼らはその中にも働いた大きく不思議な力を「主なる神」の働きであると信じます。40年に渡る荒れ野の放浪の中での度重なる奇跡の経験を通して、イスラエルの民は、自分たちを「神に選ばれた民族」であると認識するようになっていきます。
 イスラエルの民は、人の思いを遙かに超えて働く「主なる神」との関係を正しく保つことが必要であると考えました。そして、神との関係を正しく保つための約束事を取り決めるのです。それは十戒を中心とした律法として体系化していきます。この体系の中で神としっかり結びつき、神との約束を守ることで、永遠から永遠にまでお働きになる神に守られ受け入れられることだと考えました。そのように生きることが「神に選ばれた民」として生きるに相応しいとイスラエルの民は考えたのでした。
 しかし、時代と共にこの「選民意識」は、神に選ばれた者としての特権を享受する事に移り変わっていきます。彼らは律法の文言を自分の都合の良いように解釈して、神に選ばれた者としての特権をいつでも自分の手許におくことばかりを考える者に成り下がっていたのです。
 今日の福音書の中で、律法の専門家は主イエスに次のように尋ねています。
 「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」
 ユダヤ教のラビ(教師)によれば、律法の内容は613であり、そのうちの365が「してはならない」という禁止命令、残りの248が「しなければならない」という実行命令に分けられました。その中のどれが重要かという事を議論することはラビ達にとっても大した意味のある課題ではありませんでした。なぜなら、そのすべてが神との間に結ばれた約束であり、その全体を守ることで神との結びつきに完全性を表現すると考えられていたからです。それは613という数の中身についても、禁止命令の「365」が一年間を意味する数字であり、実行命令の「248」が人体にある骨の総数であるとされていたことを考えても、「613」という掟の内容が完全不可欠であるとは言い難いことは明らかでしょう。
 主イエスに向かって敢えて「律法の中でどの掟が最も重要でしょうか」と質問をすることには、35節にも記されているとおり「イエスを試そう」とする意図がありました。律法の専門家たちは、もし主イエスがその613の中のどれか一つを最も重要な掟として取り出せば、それをイエスを困らせる手掛かりにしようという下心があったのです。
 この質問に対して、主イエスはどうお答えになったのでしょう。
 主イエスは、二つのことをお答えになりました。
 その内容は、37節の「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」ということ、また、39節の「隣人を自分のように愛しなさい。」ということでした。それに続けて主イエスは、40節にあるとおり、「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」と言われたのでした。
 この箇所の「律法全体と預言者」とは、旧約聖書全体を意味します。つまり、旧約聖書全体は、「全身全霊で神を愛することと隣人を自分のように愛すること」の二つに集約され、神への愛と隣り人への愛は切り離すことのできない一つのことだと主イエスはいっておられます。
 主イエスによれば、旧約聖書の律法は神の「愛」に基づいているのであり、人が神の愛から離れてしまえば、仮に表面的には掟を守っているように見えても、613の掟は意味を失うことになります。掟を文言通りに実行しても、その行いが愛に裏打ちされていないのなら、それは形式を整えることに過ぎず、神との関係が良い状態にあるとは言えないのです。
 律法は、神に愛されている事を自覚する者が神を愛し、自分と同じように神に愛されている隣人を愛する事を具体的な体系にして出来上がったはずです。しかし、主イエスと論争するユダヤ教の担い手たちは、律法の精神を忘れ、律法の一字一句をまるで儀式の手順のようにして守り、また守らせようとしていたのです。
 今日の聖書日課福音書の中で、主イエスは、「神への愛」と「隣人への愛」は、切り離すことのできない一つのことであることを教え、その内実を失っているエルサレム神殿の指導者たちを鋭く批判したのでした。
 神の愛は、民族を越え、時代を超えて、誰にでも同じように注がれています。神の愛を受け、愛をお与え下さる神を愛し、自分と同じように神に愛されている隣人を愛し、この二つを一つのこととして行うことが神の御心に応えるということです。このことが律法の前提であり、その各項目はそのことの具体的な表現になっているはずです。すべてのことは律法の細かな文言に発するのではなく、神の愛に始まり、そしてまた全てのことは神の愛によって一つにされるのです。主イエスは、こうしてすべての人が、永遠から永遠へと働く神との関係を保ち、またその関係が回復されることを願って、人々に関わり続けた、と言えるでしょう。
 このような理解に基づいて今日の福音書の後半(41節以下)を読めば、その意味することも自ずと明らかになります。
 当時、イスラエルの人々は、救い主(キリスト)はダビデの末裔として現れると考えていました。でも、主イエスはご自身が単に血筋の上でダビデ家の子孫であるということに留まるお方ではありません。
 言葉を換えれば、この福音書を記したマタイは、主イエスは旧約聖書の内容(律法と預言)を完成するお方であり、血筋の上でのダビデの子孫であることを超える救い主であり、また、神の子であると、私たちに伝えているのです。
 主イエスがエルサレムに神殿で指導者たちを相手にこの論争をなさったのは、火曜日のことであり、その翌々日の木曜日に捕らえられ、金曜日には十字架につけられます。この十字架には人びとの罪の極みが顕れています。主イエスは十字架の上からも、自分に対して罪を犯す人を愛しぬき、赦し抜いて、主なる神との関係を少しも崩すことなく、私たちに救いの道を示し続けてくださいました。
 主イエスと神殿の指導者たちの論争は終わり、勝ち目のない指導者たちは主イエスを殺すますます強め、主イエスを十字架に追いやる事になります。それを知りつつ、主イエスはなおエルサレムに留まり、十字架につけられます。その出来事は、「律法と預言者」を完成し、イスラエルの律法を超越する神の愛と赦しを私たちに示しすものになりました。イエスは「ダビデの子」でありながら、「ダビデの子」を超越する救い主なのです。主イエスは、身をもって神と人を愛することを十字架の上から私たちに示して下さいました。
 やがて、主イエスを救い主と信じる人々によって、神のみ業は語り継がれ、信仰共同体を形成し、たとえ小さな私たちでもイエスを救い主として受け入れる者は、神の永遠の働きの中で生かされる希望と喜びを得ています。
 私たちは、主イエスによって示された愛の中に生かされ、神の愛をこの世界に示していくのです。
 神の愛に生かされ、神の愛にお応えして神と隣人を愛することが出来るように導かれて参りましょう。
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「神のものは神に」  A年特定24  マタイによる福音書22:15〜21       2017.10.22  「神のものを神に」   願わくは、父と子と聖霊の御名によって、アーメン

「神のものは神に」
マタイによる福音書22:15〜21   A年特定24      2017.10.22

 今日の福音書から、マタイによる福音書第22章21節の御言葉を思い起こしてみましょう。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
 この言葉の出所が、聖書であることを知らない人でも、この言葉を耳にしたことのある人は多いことでしょう。多くの場合、この御言葉をこの世に属することと神の領域に属することを使い分けることや、政治と宗教のことを分けて考えることとして用いているようです。でも、この御言葉は政教分離を教えることばではなく、主イエスの厳しい問いかけの言葉であることを理解しておきたいと思います。
 今日の聖書日課福音書の箇所は、第21章23節から始まる「論争の火曜日」と言われる段落の中にあります。
 今年は、特定21〜25の聖書日課福音書の箇所がこの「論争の火曜日」での主イエスの教えが採り上げられています。
 この箇所は、主イエスが十字架にお架かりになる前の火曜日に、ユダヤ教の指導者であるエルサレム神殿の祭司長や律法の専門家と激しい論争をしておられる箇所です。この論争の中で、ユダヤ教の祭司長やファリサイ派の人々ばかりではなく、普段はファリサイ派と対立している者たちが主イエスと論争しています。彼らは主イエスに反論できず、次第に形勢が悪くなってきます。その中で、何とかして主イエスを言葉の罠にかけ、主イエスを神殿から追放しようと企みました。そこで彼らは手下の者を遣いに出し、こう尋ねさせました。
 「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか。適っていないでしょうか。」
 指導者たちがこのように尋ねさせた背景には、税金に関して次のようなイスラエルの事情があり、それを許に主イエスを落とし入れようという企みがあったのです。
 主イエスの時代、当時のイスラエルの国は、ローマによって占領されていました。占領されているイスラエルにとって、ローマに税を納めるべきかどうかという問題は、国を二分するほどの大きな問題でした。ガリラヤの領主ヘロデはローマ皇帝の操り人形のようになっており、皇帝に納める税金を取り立てる仕事も請け負っていました。ヘロデ家とその親族を支持するヘロデ派と呼ばれる人々は、イスラエルがローマ皇帝に税を納めることについて当然良しとしていました。その様なヘロデ王家とヘロデ派は、ローマへの納税と引き換えにローマからの庇護を得て、民衆から不当に税金を取り立てて私服を肥やしていたのです。その一方で、神に選ばれた民であることを自負するイスラエルの人々は、ローマの支配を嫌い、納税についても快く思わず、彼らはローマの手先となっているヘロデ派に対しても憎しみと反発の思いを強くしていました。
 今日の福音書の舞台はエルサレム神殿であり、本来ならファリサイ派の人々はヘロデ派の者たちが神殿に入ることさえ激しく非難したはずです。デナリオン銀貨にはローマ皇帝の像が刻まれ、「神なる皇帝」という文字も刻まれており、日頃その様な貨幣を扱い税金としてローマ皇帝に納める事を良しとするヘロデ派を神聖な神殿に入れることは、ファリサイ派の人々にとっては主なる神を侮辱することであり、許し難いことでした。でも、今、そのヘロデ派とファリサイ派の両者が主イエスを言葉の罠に掛けようとして結託しています。
 ローマに税を納めることについて、ファリサイ派にもヘロデ派にも、それぞれお互いに全く違う立場にありました。その立場の違いはイスラエルの葛藤と分裂の火種でもあったのです。それにもかかわらず、ファリサイ派とヘロデ派は主イエスを言葉の罠に掛けるために、これまでの主張の違いや対立のことなどお構いなしに結託して、主イエスに「ローマ皇帝に税を納めるのは律法に適っているでしょうか。」と、ある意味白々しく問いかけています。
 もしイエスが、「皇帝に税を納めてはならない」と答えたら、ヘロデ派の者はすぐにそのことをローマの役人に、イエスはローマ皇帝に反発していると訴えることでしょう。また、主イエスが「皇帝に税を納めなさい」と答えれば、ファリサイ派は主イエスのことをイスラエルを裏切り皇帝にこびへつらう者として批判するでしょう。そればかりでなく、皇帝はローマ市民から「生ける神」とされていましたから、主イエスはイスラエルの主なる神を裏切る者として神殿から追放されることでしょう。
 ファリサイ派の人々の本心は、自分を棚に上げて、主イエスがどう答えてもそこに食らいつき、イエスを批判して神殿から追放することにありました。
 この時、主イエスはローマへの納税にも用いられているデナリオン貨幣を持ってこさせ、彼らに「これは誰の肖像と銘か」と問い返しました。イスラエルの民の中でも国粋主義者やファリサイ派の人々にとって、このデナリオン貨幣はローマに占領され支配されていることのしるしであり、この貨幣を用いることは屈辱だったのです。また、イスラエルの民にとってデナリオン貨幣を使うことは皇帝ティベリウスが刻まれた像を拝むこととされ、この貨幣を避け、触ることさえ嫌がる人も多かったのです。彼らが神殿で献げ物をする時、皇帝の像が刻まれた貨幣をわざわざ高い両替の代金を払ってユダヤの貨幣に取り替えて神殿に持っていったのでした。
 ファリサイ派の人々はデナリオン銀貨を見て、「皇帝にものです」と答えました。すると主イエスは「では皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と言われました。この言葉を聞くと、主イエスに詰め寄ろうとしていたファリサイ派もヘロデ派も驚いて、主イエスを残して立ち去ってしまうのです。私たちは、この場面を、主イエスが彼らの質問に上手く答えて身をかわしたことを伝えていると考えるかもしれません。でも、それでは、何故主イエスを取り囲んだ彼らが主イエスの答えを聞くとそのまま立ち去ってしまったのかということはよく理解できません。
 私たちは、この場面の主イエスが「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と言っておられることは、背後で「それでは他ならぬあなたは誰に返されるべき者なのか。」と迫っておられることに気づかねばならないのです。この厳しい問いがあるからこそ、ファリサイ派もヘロデ派も、真理を忘れて主イエスを言葉の罠に掛けることに心を奪われている自分を露わにされ、主イエスの前からすごすごと引き下がっていくのです。
 例えば、ファリサイ派は、いつもどおりなら、デナリオン銀貨を神殿に持ちこむことやヘロデ派が神殿に入ることを嫌って批判したことでしょう。それを棚に上げで、イエスを貶めるためにはヘロデ派と結託してローマの貨幣を平気で神殿に持ちこませるファリサイ派の態度が、今、この主イエスの言葉によって露わにされています。彼らは、そのような自分の姿をこの御言葉によって浮き彫りにされて、その場を立ち去らざるを得ないのです。
 それでは私たちはどうでしょう。私たちは誰に返されるべきでしょうか。
 パウロがガラテヤの信徒への手紙の最後の部分で次のように言っていることを思い起こしましょう。「わたしはイエスの焼き印を身に受けているのです。(6:17)」
 私たちは洗礼を授けられキリストに結ばれた時、次の言葉とともに額に十字架の形を記されました。
 「あなたに十字架の形を記します。これはキリストのしるし(以下略)」と。 私たちは、永遠にキリストのものとなり、パウロの言葉を借りれば「イエスの焼き印」を身に受けています。デナリオン銀貨が皇帝の像がありその銘が刻まれているが故に皇帝に帰すのなら、私たちは、神の似姿に創られキリストのしるしを身に受けており、私たちは神のものであり神に返されるのです。
 主イエスは「神のものは神に返しなさい」と言い、ファリサイ派もヘロデ派この言葉に自分を明らかにされて神殿から去っていきます。私たちも「神のものは神に返しなさい。」という主イエスの言葉によって、神から離れた自分を照らされ、イエスの焼き印を身に受けている者として、神の御心に立ち返るように招かれ、促されるのです。主イエスはこの場面で「あなたがたは、神に帰れ」と言っておられるのです。
 主イエスを試みる者が立ち去って、神殿の中には主イエスが残っておられます。悪を試みる者がすごすごと神殿から立ち去った後に主イエスが残っておられます。これは、私たちの心の風景ではないでしょうか。
 私たちの心の「神を忘れた邪悪な思い」が追い出され、私たちの中に主イエスが残り宿ってくださって、私たちは、この御言葉によって「神の宮」とされています。
 神のものである私たちを神のみ前にお献げし、主の御心によって生かされる幸いへと導かれましょう。

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