2018年12月01日

アドヴェント 2018.12.02

アドヴェント

 「アドヴェント」について記そうと思い、『広辞苑(第6版)』を開きましたが、「アドヴェント」が載っていないのにはガッカリしました。「降臨節」も無し。「待降節」があって、「キリスト教で、降誕祭(クリスマス)前の4週間。旧約の民にならい、主キリストの誕生を祝う準備の期間。アドヴェント。」とかなりいい加減で不正確な説明が載っていました。
 英和辞典で adventを見てみれば、勿論あります。『新英和中辞典(第2版)』(研究社)で advent は、「1a)キリスト降誕、降臨節;〖カトリック』待降節クリスマス前の約4週間.b)キリストの再臨(=the second A〜).2《重要な人物・事件の》出現、到来」とあり、ad+vent(ラテン語でcome の意味)から成る言葉であると説明されていました。そして、この言葉はアドヴェンチャー adventure (冒険すること、危険にであうこ と、予期せぬ出来事、珍しい経験、賭をする、敢えて行うなどの意味)と同じ語幹であることも分かります。
 こうしたことを念頭に置いて、教会暦の「アドヴェント」について思い巡らせてみると、色々な事が頭に浮かびます。
 アドヴェントは、広辞苑にも載っているように、教会によっては「待降節」とも呼んでいます。でも、この言葉は、英和辞典で見たとおり、私たちがクリスマスを「待つ」とか「迎える」いうことには重点は置かれていないように感じられます。むしろ、アドヴェントの主体は神であって、この言葉は神ご自身が私たちのところに進んできてくださることに重点があるように思えてきます。
 私たちがその神の思いに応えるのなら、アドヴェントには「待つ」ことより、もっと私たちの方から能動的に神の到来に向かって進んでいくことを促されているということになるのではないでしょうか。
 神が救い主イエスをこの世界にお与えになることは、まさに神のアドヴェンチャー・大冒険でした。聖書に記されたイエスの誕生の箇所とその生涯を振り返ってみれば、そのすべてが神のアドヴェンチャー・大冒険であったと言えます。
天使ガブリエルが乙女マリアに神の子の母となることを告げたこと、まるで未婚の母の夫になるかのような立場に立たされるヨセフに天使が夢で「マリアを迎えなさい、神はあなたと共におられる」と告げたこと、そのような男と女を父母として神の子が生まれること、しかもその誕生の場所がベツレヘムの馬小屋だったこと、その知らせを最初に届けたのはその当時の落ちこぼれの羊飼いたちだったこと、ヘロデの嬰児大虐殺があり聖家族はエジプトに逃避行したこと、その後の生涯と受難、神が遣わした独り子の十字架の死、そして多くの人が戸惑い拒否する復活と昇天、更に聖霊の降臨。このように振り返ってみると、そのどれもが神のアドヴェンチャーの出来事であり、このような神が救い主イエスを通して私たちに迫っていることがアドヴェントなのです。
 そして、救い主イエスを通して神ご自身がなさった大冒険に向かって、私たちも進んでいくこと、私たちのそこに挑戦することが、神のアドヴェントに応える私たちのアドヴェントになるのではないでしょうか。さあ、思いを神に向けて進めるアドヴェントを過ごし、良いクリスマスを迎えましょう。
『草苑』水戸聖ステパノ教会月報 2018年12月号
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2018年11月27日

「王であるキリスト」 ヨハネによる福音書第18章31−37節(B年特定29・降臨節前主日)

「王であるキリスト」 ヨハネによる福音書第18章31−37節(B年特定29 降臨節前主日)    2018.11.25


 今日は降臨節前主日であり、教会暦の上では年間最後の主日であり、来週からは、具体的には聖餐式日課はC年になり、主イエスの降誕を迎える備えの期節である降臨節アドヴェントに入ります。年間最後の主日である今日は、「王であるキリストの主日」と呼ばれており、カトリック教会ではこの主日は、「1925年12月11日の回勅によってピウス11世(1857-1939)が制定した」(『主日の御言葉』森紀旦著 聖公会出版)祝日です。
 今日の特祷にもこの主日の意図がよく表れていますが、この主日に私たちは、全人類が「王であるキリスト」が治める平和の内に生きることを願って祈り、私たちの王としてこの世界を統べ治めておられるみ子イエス・キリストによって、その統治される姿が人々の目に具体的に実現することを願って、「み子の最も慈しみ深い支配のもとで、解放され、また、共に集められますように」と祈りました。
 この主日のテーマに基づいて、日頃の私たちを振り返ってみると、私たちは今の時代の中で、本当に王とすべきお方を王とし、人がこの世に生かされている意味を深く考えて本当の生き方をしているのだろうかと振り返らざるを得なくなります。例えば、文明の機器が私たちの生活を囲み、昔に比べたら日頃の生活における身体的負担は著しく減少して、文明の発展と共に幸せな世の中が実現しているはずでした。
 しかし、例えばスマホやパソコンは子育てする世代の家庭に欠かせない親子関係の温かな視線を奪い、子どもたちは関係の中で他者の気持ちを感じる感性を貧しくしています。スマホやパソコンがなくては生きていけないかのような生き方とは、スマホやパソコンを自分の支配者としてそれに服従する生き方とも言えるでしょう。
 文明の機器類は、人々を多くの家事の負担や苦労から解放しました。そのことは尊いことでしたが、それによって、真理を手に入れたわけではありませんし、本当の幸福を得たわけでもありませんでした。世界は便利になり、物事の処理の仕方も迅速にはなり、私たちの心身の負担は大幅に軽減されました。しかし、それらの機器が敵対する人々の間で別の意図をもって用いられれば、一度に多くの人間の命を奪ったり、神のお創りになった世界の調和を壊すことになり、貧富の差の拡大して武力を握る人々による支配が拡大している事を私たちは忘れてはならないのです。
 現代人は昔の人たちから見るときっと魔法と思えるほどの沢山の機器を発明したり開発したりして、能率的で経済的な生活が出来るようになりました。しかし、その一方で、それらの文明の機器が必ずしも私たちに真理を示してくれたり人間が生きるための目的や意図を示してはいないし、真理へと案内してくれるモノでもないということを、私たちはよく心に留めておかなくてはなりません。私たちは、何を、誰を、自分の本当の王としてその導きを受けて生きていこうとするのか、違う言い方をすれば、私たちは何に、どこに、自分の軸足を据えて生きようとするのかをもう一度自分に問い直す必要があるのではないでしょうか。「王であるキリスト」を覚える主日とは、こうした世の中に生きてく私たちに、「あなたは何を、誰を人生の導き手として見据えているのか」と問い返される主日であると言えるでしょう。
 今日の福音書の中で、「王」である主イエスは、「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。」と言っておられます。今日の福音書は、主イエスこそ、ご自身の身をもってこの世に真理を示すために来た王であることを伝えています。
 「真理」とは、元のギリシャ語では「アレーセイア」という言葉で「曲げない、飾らない、不純なものを混ぜない」というような意味から発生しています。先程の例をもう一度用いれば、パソコンやスマホを上手に使うことから次第にそれらに支配されるようになった状況は、それらの機器によって、本来の自分を曲げられてしまし、不要なものに侵略されていると言えるかもしれません。私たちは、物の便利さやお金や物の豊かさのためにかえって真理を見る目が曇ってしまっているのではないでしょうか。
 私たちは、例えば瞬間移動できたり自分が体を動かさないでいるうちにひとりでに身の回りが整理されていくようなことそのものが真理であるかのように錯覚し、その魔法によってかえって真理を見る目を貧しくされている一面があります。 目利きの宝石商人は、「質の良いダイヤモンドと贋物のダイヤモンドを区別できるようになるためにはどうしたらいいですか」と尋ねられると、決まって「質の良い本物を沢山見て自分の眼力を養うことです」と応えます。それと同じように、私たちは主イエスが証しされた真理を知り、しかも深く出会うことを求め続け、真理と真理ではない物をとを見分け、区別できるようになり、私たちが神から与えられた命を互いに豊かに育み合う生き方へと導かれていきたいのです。
 主イエスは、その本物の最高級の宝石にも喩えられる生き方をこの世界に示して下さいました。主イエスは、十字架の上に捨てられ、その上からも、本物の完全な愛のお姿を示してくださり、私たちがこの真理に導かれるようにしてくださいました。私たちは、主イエスの完全な愛に照らされることによって、自分の中の汚れた部分、飾り立てたり見栄を張ってしまう部分、言葉と行いの中に混じる不純物に自分で気付くことが出来るようになります。そしてこの真理に照らされて、本当の自分に立ち返り、更に深く真理を探しながら生きていく事へと導かれるのです。
 ところが、悲しいことに、私たちは真理に照らされると、自分の汚れや醜さを浮き彫りにされることを恐れ、かえって真理から目をそらしたり真理を潰しにかかることさえしてしまいます。アダムとエバは神との約束を破って知恵の木の実を食べてしまったとき、神の前から身を隠し自分の罪を男は女に、女は蛇に転嫁してしまいました。このように自分の見栄や、保身や、意地が、純粋な真理を傷つけたり、潰すことへと動き始めます。主イエスを十字架へと追いやったのもその様な罪のなせる業でした。
 真理(アレーセイア)という言葉の意味するとおり、何の不純な思いも交えず、偽らず、高ぶらず、ただ一筋に神と人を愛し、仕え抜くために、主イエスは天から王としてこの世に来られ、十字架についてまで真理を証しして下さったことを今日の聖書日課福音書は伝えています。
 主イエスは十字架の上からさえ、何の魔術もトリックも用いず、ただ真理を証ししてくださいました。もし、主イエスが真理を証しすることよりこの世の名誉や権力を愛し、この世の王になることに熱心であったら、かえってもっと多くの人がイエスに従い、イエスにおべっかを使い、イエスを利用して自分の立場を有利にしようとしたことでしょう。でも、主イエスはその様な意味での価値あるお方にはなろうとしませんでしたし、弟子たちにそのように生き方をするように教えることもありませんでした。主イエスは、ご自身の死を超えて、神の独り子として私たちを愛し抜くことにある真理を示してくださったのです。
 私たちは、主イエスが証しして下さった「愛」の真理を大切にしながら、信仰者の群れとして成長していきたいのです。教会は真理であるキリストによって建て上げられています。この真理を疎かにすると、私たちの教会も目先の損得、信仰のない娯楽、魔術に振り回されて、キリストの香りなど全く感じられない集団に成り下がってしまうでしょう。
 教会の暦ではこの1週間で一年を終わろうとしています。私たちの一年を振り返ってみれば、過ちや行き違いもあったかもしれません。でも、私たちの王である主イエスは、私たちの失敗や行き違いを補ってなお余りある真理を十字架と甦りによって証しして導いて下さっています。私たちは、命と真理の源である主イエスの守りと導きによって生かされていることを覚え、この一年を感謝し、またイエス・キリストを私たちの中に深くお迎えする備えを進めて参りましょう。
 王であるキリストの主日である今日の特祷をもう一度お捧げしましょう。
 永遠にいます全能の神よ、あなたのみ旨は、王の王、主の主であるみ子にあって、あらゆるものを回復されることにあります。どうかこの世の人々が、み恵みにより、み子の最も慈しみ深い支配のもとで、解放され、また、集められますように、父と聖霊とともに一体であって世々に生き支配しておられる主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン
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2018年11月18日

牧師館のこと  2018.11.04

牧師館のこと
                                            司祭 ヨハネ 小野寺 達

 かつて或る教会で、牧師館建築案が出てきたとき、その教区の主教は「わたしの人事が制限されないように、ある程度、広さにゆとりのある牧師館をつくってください。」と言いました。
教区主教の許で、辞令が出れば即応で働く身であれば、しかも妻帯者であり同居する子どもがいれば、ある程度の広さと部屋数があると安堵します。わたしはその主教の言葉を耳にした時、とても嬉しくその言葉を支持する思いになりました。
水戸聖ステパノ教会の牧師館は、来月には改築されて満三年になります。
この機会に、牧師館建設と建築費用について少し振り返っておきたいと思います。
この教会の牧師館の老朽化と建替えはかねてよりの課題でした。ある人の言葉によれば、かなり前から牧師館の床の一部が「トランポリンの状態−ベコベコ−」であり、居住者は室内を歩くにもその箇所を迂回していたとか。
そのような牧師館の建替えの必要が具体的な課題になり始めていた時期に、東日本大震災が起こりました。あの日の大きな地震によって、この教会の牧師館の柱と壁の隙間から隣の部屋の灯りがこちらの部屋にオレンジ色のスジとなって入るようになり、そこで生活することは危険なレベルになりました。
 しかし、被災した教会の喫緊の課題は、聖堂正面壁の黒御影石が全面崩落し、壁には大小の亀裂が入り、ベルタワーが倒壊寸前となり、それら緊急撤去や補修などのことでした。
私たちの北関東教区は2011年3月11日に発生した日本大震災の被災教区でありながら、地震や津波による人的被害は少なく、全国の支援活動は先ず東北地方の被災者支援や原発事故対応の支援に回りました。北関東、東北の多くの教会では礼拝堂や牧師館が損壊しましたが、当初、全国的には「今は建物のことを言っている状況ではないでしょ!」という雰囲気もあったように思います。わたしは、他教区の人から実際にそのように言われた経験があります。
 やがて、被災者支援の働きも進んだ頃、世界中から日本聖公会管区に受けた献金、義援金、支援金などは、聖堂修復の費用のためにも充てられることになりました。
 各教会で被災聖堂修理見積もり額を出し、その額から各教会が保有する建設資金等の額を差し引いた必要額を教区主教を通して管区に申告し、特に問題が無ければその申請額が認められて、各教会は修復工事費の支援を受けることができました。
当時、わたしは宇都宮におりましたが、老朽化していた幼稚園園舎の改築を終えたばかりの時期であり、聖堂大谷石壁や内側木部の聖堂修理費は篤志家が工事費の一部を負担してくださったりボランティアによる献身的な作業があったりはしたものの、その他にも約1700万円を必要とし、その教会の牧師として修復費用工面のあてもなく途方に暮れておりました。教会委員会の協議を経て教会員に「教会債」をお願いして凌ぐことにしてその依頼文をつくり、「被災聖堂修復費用のための教会債へのご協力のお願い」の文書の印刷発送にかかろうとしていました。まさにその寸前に、世界各地から管区に寄せられた献金や見舞金から聖堂修復費用の支援を受けられるという一報が届きました。感謝と共に涙が出る思いになったのがつい先日のことのように思い出されます。
 水戸聖ステパノ教会でも、茨城、栃木両県のほとんどの教会がそうであったように、手持ちの改修資金と世界からの支援金によって聖堂修復の工事を終えることができ、現在のように明るく気持ちの良い聖堂が甦りました。
そして、本教会では、牧師館改築の課題が残りました。それまでに積み上げていた聖堂等改築資金はなくなり、古くしかも震災によって更に傷んだ牧師館が残ったのです。
 前任牧師はその牧師館での生活を続けて、教会は改築資金を積み上げ、任期最後の年(2015年2月)の受聖餐者総会で改築の設計案、資金案などを提示して了承され、同年4月より建設工事が始まっていきました。この頃までに建築資金を新たに約600万円積み上げましたが、それは主に、教会員による毎月の特別献金とバザー収益及び教会ロビーの片隅で主日礼拝出席者が行うミニバザー(サンデーマルシェ)等の努力によるものでした。
 同年4月1日付、わたしは前任者同様に本教会牧師及び日立聖アンデレ教会の管理牧師を任ぜられ、その年の4月から牧師館竣工の12月まで、定住者のいない日立の牧師館に居住して水戸に「通勤」して過ごし、その間に工事は旧牧師館の解体から新牧師館の建設へと進んでいきました。
本教会は防火地域内にあり、建物面積や建築材などの規制があり、建築費用が一般地区での建築よりほぼ2割増になり、旧建物取り壊し費、外構工事費と本体新築費などを合わせ、総額3100万円です。前述のように手持ち資金は600万円、残りを管区建築金融資金から1500万円の融資を受け、更に不足する分を教会有志から無利子で借入れ、滞りなく支払いを済ますことができました。
2105年12月、わたしは日立より竣工した牧師館に転居し現在に至っています。
現牧師館は、1階2部屋(居間、執務室)、2階2部屋(寝室)の約99uの建物です。既に子育て期を過ぎたわたしたち老夫婦には恵まれた建物です。3人の息子たちもそれぞれの地に居を構えていますが、その一人が2016年の秋から数ヶ月、転職と進学準備の時期をこの牧師館で過ごすこともできました。
 建築資金面の現状を、本紙5ページ「牧師館建築募金について」の内容と重複しますが、記しておきます。
当初、日本聖公会建築金融資金より1500万円、個人より1000万円を借り受けました。管区には15年にわたり毎年100万円を返済していく計画でしたが、借入れ利息を軽減するために当初計画より返済額を250万円増やし、本年度までに管区に650万円を返済しました。また、有志に150万円を返済しています。現負債額は、双方に850万円ずつであり、計1700万円です。今後、毎年200万円を返済する見通しを立てたいところですが、本教会の堅信受領者数や献金総額を考えてみると、見通しはかなり厳しい状況にあります。
牧師館は、牧師にとって日々の生活の基地であるだけではなく、祈りと黙想の場であり、執務する場であり、また時に面談や集いの場にもなります。
 毎年増え続ける管区、教区、教会の資料を保管し、その中の一部は大切に保管され続ける必要があり、牧師の執務の資料にもなります。
「牧師館がどのようであるかは、その教会の在り方を現わす。」と言った人がいます。教会は、牧師館を単なる個人住宅としてではなく、教会の働きの必要な施設として建て、維持、管理しています。わたしも、そこに住むに相応しく働く思いを新たにしたいと思います。
  (『草苑』水戸聖ステパノ教会月報 2018年11月号)

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