2017年07月10日

私の軛を共に  マタイによる福音書11:25−30 聖霊降臨後第7主日(特定9) 2017.07.09

私の軛を共に
マタイによる福音書11:25−30  聖霊降臨後第7主日(特定9) 2017.07.09
 
 私たちは生きている限り悩みがあり、そこに悲しみや苦しさが伴うこともあります。生きる上での辛さや悩みがあることは決して悪いことではないし、それは罪でもありません。むしろ、私たちが生きているが故に負う悩み、苦しみ、辛さ、悲しみをしっかり負わずに、そのことから目を背けたりごまかしたりするところに悪が入り込んできたり罪が生まれたりするのではないでしょうか。
 そうであれば、私たちは日頃の生活で自分たちが担うべきことをしっかりと担い、主イエスに導かれ伴われて生きていく者でありたいと思うのです。
 今日の福音書の、特に後半部分には、主イエスが私たちを本当の自分になって生きていくことが出来るように招いてくださっている御言葉です。
「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎが得られれる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:29-30)
 軛(ζυγοs)とは、牛などの家畜が荷車や鍬を後ろにして引くときに、首にかける横木のことです。ことにパレスチナでは、2頭の家畜を横に並べてひとつの軛を共にさせることが一般的なことだったようで、ここにいつも私たちと共に歩んでくださる救い主イエスのお姿への連想へと導かれることにもつながっていくように思えて参ります。
 このイメージのように、主イエスに共に歩んでいただきながら、私たち一人ひとりが本当に負うべき軛とは何かを考えてみると、それは、誰もが神から与えられた二つと無いその人としての命を生きていくことである、と言えるでしょう。言葉に表せば簡単なことですが、実際に自分の軛を負って生きることは、どれほど難しく、また大変なことなのかを感じておられる人も多いのではないでしょうか。
 だからこそ主イエスはそのように生きる人に対して、「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と言ってくださっています。
 私たちは、主イエスの御言葉を受けて、自分が負うべき軛を負っているのかどうかを振り返ってみたいのです。私たちは本当に神から与えられた軛を負っているのでしょうか。私たちは、神から与えられた自分の命を育むために与えられた各自の軛を負って生きていかなければなりません。そのような各自の軛は、置かれた立場、状況によって、一人一人違います。また、仮に同じ状況に置かれていたとしても、一人一人の人間は独立した取り替えのきかない存在なので、そこで果たすべき具体的な使命は異なります。でも、その軛は、誰にでも与えられているものであり、それを担ってそこに神の御心が現れ出るように努めないのなら、私たちの人間としての成長もまたなくなってしまいます。
 それにも関わらず、時に私たちは本来負うべき軛を忘れて、例えば見栄を張ってみたり、他人を支配したり優位に立つことを考えて、自分の負うべき本当の軛とは違う軛を負ってしまうことさえあるのではないでしょうか。また、ある人は自分を隠して周りの人に調子よく合わせたり人目を気にするようにして、本当に自分が神から与えられた軛がどれなのかを見失ってしまうこともあるでしょう。
 「軛」という視点からパウロのことを考えてみましょう。
 パウロは、かつてはイエスを救い主とする人々を嫌い、その人々を迫害していました。パウロはかつてのそのような自分を振り返って、フィリピ書第3章5節以下で次のように記しています。
 「わたしは8日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。」
 これが、イエス・キリストと出会う前のパウロの姿であり、パウロはその生き方を全うすることが神の使命を負うことであると考えていました。神との間に結ばれた契約を全うして、その契約に反する者を厳しく糾弾し、そうすることで神の前に「正しい者」として受け入れられるとパウロは考えていたのです。
 しかし、パウロはフィリピ書の中で先ほどの言葉に続けて、こう言っているのです。
 「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。」
 パウロは、自分が迫害する対象としていた人たちが負っていた軛である主イエスと出会い、回心して、パウロもイエス・キリストを軛として負うようになります。パウロはこのことを「もはや自分ではなくキリストがわたしの中に生きている」と言い、「わたしはキリストを着る」と言って表現しています。
 パウロは、回心する前には、つまりキリストと出会う前には、律法を自分の軛とし、律法に照らして完全な者になろうと努めていました。しかし、パウロがそうしようと思えば思うほど、神の前には完全ではない自分を感じないわけにはいかないのです。パウロはフィリピ書の中で「律法の義については非のうちどころのない者」であったと言っていますが、今日の使徒書の中に記しているように、実はそのような自分は「わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。」と言っているのです。パウロは、律法の軛を負って「律法に従おう、律法に違反することなく生きよう」とすればするほど、自分の心と体の間に分裂が起こり、苦しまないわけにはいかなかったのです。おそらく、神の前にまじめであり一途に生きようとしたパウロであったからこそ、律法に従うことに完全さを求め、その結果、自分を苦しめていたと言うことが出来るのです。
 私たちの中には、このようなパウロの姿を自分の中に発見する人も多いのではないでしょうか。主イエスはそのような人をご自身のもとにお招きくださるのです。
「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎが得られれる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
 主イエスは、主イエスの教えを私たちが律法を守るような義務として受け取ったり、道徳として実践することを願っておられるのではありません。それは、私たちが主イエスの招きに応じて自分の全てを委ねて受け入れて頂いた後に結果として主イエスにお応えすることによって出来ることなのです。先ず、初めに私たちがすることは、全てを主イエスの前に投げ出してありのままの自分を委ねることなのです。私たちが自分の力では負い切れない自分の軛を主イエスの御許で下ろし、親鳥の翼の下で守られる雛のようになって、本当の自分を回復することが主イエスに従うと言うことなのです。
 私たちは、今日の福音書から、主イエスの招きの言葉を受け、主イエスの大きな愛の中で本当の自分を回復し、主イエスによって受けた愛の軛を負って日々歩んで参りましょう。その時、私たちはその歩みに一緒に軛を負ってくださる主イエスに気付き、主イエスへの感謝と賛美へと導かれるのです。主イエスのもとで重荷を下ろし、本当に負うべき軛を負い直し、主イエスが共に歩んでくださる恵みをいただいて、その感謝と賛美に導かれましょう。
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2017年07月05日

剣としての御言葉    マタイによる福音書10:34−42 マタイによる福音書10:34−42 剣としての御言葉   マタイによる福音書10:34−42   聖霊降臨後第6主日(特定8)

剣としての御言葉
マタイによる福音書10:34−42   聖霊降臨後第6主日(特定8) 2017.07.02

 今日の聖書日課福音書のはじめの言葉をもう一度お読みしてみます。
 「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。」(マタイ10:34)
 この御言葉を聞いて、多くの人は、慰めや癒しを与えられるより、穏やかならぬ思いになり、また、心を揺さぶられるのではないでしょうか。主イエスは、神の愛を説き、それを実践なさいました。その主イエスが、なぜこのような愛や和解と対立するようにも思えることを教えておられるのか、そのことをどう受け止めればよいのか、戸惑う人も多いと思います。私たちは今日の福音書から教えられ、導かれるためには、主イエスがこの世界で神の愛の働きを完成させるために、唯お独りで十字架の死に至るまで戦い抜かれたことを覚えておかなければなりません。また、主イエスのお考えを引き継いだ弟子たちも、主イエスが実現してくださった神の愛の働きを世界に広めていこうとしたときに、激しい迫害や弾圧と戦ったことを忘れてはならないのです。
 初代キリスト教の歴史を振り返ってみると、主イエスと弟子たちが迫害された原因は、どのような身分の人をも愛することを教え実践したことにあると考えられます。現代を生きる人々にとってはごく当たり前のことに思える主イエスの教えと実践ですが、全ての人が等しく神から愛され人間同士お互いに大切にされるべきであると主張すれば、当時の社会では権力者に反抗することと見なされてしまうこともありました。何もこれは今から二千年前のことに限らず、現代においても支配者の思想に反する発言をすれば、捕らえられ、拘留され、殺害されることさえあるのです。今から70年前の日本もそのような国であったことは多くの人が認識しているところでしょう。
 人が「愛」や「平等」を語れば、その人は「危険思想」の人物とされ、国に対する反逆者と見なされることにもなりました。そのような世界の中で、全ての人の自由と平等を主張し、愛に基ずく世界の形成を人々に理解させていく働きはまさに戦いであり、主イエスは十字架の死に至るまで戦われたと言えます。
 主イエスは「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。」と言っておられますが、これは、何も主イエスがただ争い事やもめ事を好んでおられたということではありません。愛のない世界に愛を実現しようとすれば、また、神の御心の行われていない世の中で御心を示していこうとすれば、この世界に剣を投げ込む働きになることは避け難いことであり、今日の福音書の中で、主イエスはそのような状況の中でも力強く神の御心を行っていくべきことを弟子たちに教えておられるのです。
 主イエスがこの世に来られたのは、「平和ではなく、剣をもたらすため」であると言っておられますが、この剣とは何でしょうか。この剣は人を傷つけたり殺したりする剣なのでしょうか。そうではありません。
 剣について、聖パウロがエフェソの信徒への手紙第6章の中で次のように言っている箇所があります。その箇所で、パウロは悪と戦うべきことについて教えており、17節で「霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。」と言っています。ここで言う悪との戦いは、悪を行う相手の存在を無にするための戦いではなく、神の武具によって相手を神の御心へと回心させるための戦いです。今日の福音書の中で、主イエスが「剣をもたらす」と言っておられる事も、悪の満ちる世界に神の言葉を投入していくことを言っていると考えてみましょう。
 その場合の剣とは悪に立ち向かう道具であり、しかもそれは相手の体を脅かしたり滅ぼしたりするのではなく、神の言葉なのです。主イエスの剣は、ちょうど手術の時のメスのように、悪や罪と癒着している私たちの姿を照らし出し、その悪や罪から私たちを切り離し、神の前に整えてるための剣なのです。2000年に及ぶ教会の歴史の中で、沢山の人が、主イエスの「剣である御言葉」によって、自分を照らし出されて悪や不正を切り離され、神の御心を行う人へ立ち戻りました。でも、その一方で、照らし出される自分に耐えられず、握った富や権力を手放すことをかたく拒む人もいるのです。そのような自分にしがみつき、御言葉によって自分を照らし出されることに抵抗し、「剣である御言葉」を拒んで、主イエスを踏みにじり抹殺しようとさえする人も少なくありませんでした。
 主イエスが「平和ではなく、剣をもたらすために来た」と言うことは、私たち日本に住む人にとって、大きな課題を指摘しています。私たち日本人は、自分のいる場の雰囲気を波風立てずに穏便に済ませようとする傾向が強いと言われます。そのために自分の意見や立場を曖昧にしたままみんなが同席していた時には意見を言わず、流れの中に無責任になって自分の考えや感じ方を放棄してしまうことにもつながります。悪や不正に対決することを避け、自分の信仰を隠してその場に流されて、その時だけを丸くおさめて済ます人も多いのです。その結果、一部の権力を握った人が威張って横暴に振る舞い、多くの人は表だった言論を控え、悪や不正が平然と行われるようになっえしまう危険があるのです。そのことは、第2次世界大戦へと向かってしまった日本の精神風土を振り返ってみるとよく分かることであり、今の日本がどこへ進もうとしているのかを考える時に一つの大切なチェックポイントにすべきことなのではないでしょうか。私たちは、主イエスが「剣をもたらすために来た」という御言葉をしっかりと捕らえ、そこに含まれているメッセージをよく理解したいと思います。
 私たちの中に罪や悪や不正がありそれが私たちに癒着しているとしたら、主イエスの御言葉が剣のように私たちに迫るとき、私たちは辛さや傷みさえ覚えるときこともあるでしょう。
 例えば、マルコによる福音書第1章21節からには主イエスが汚れた霊に取り憑かれた男からその霊を追い出して癒した物語がありますが、霊がその人から出ていく時に「汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出ていった」(マルコ1:21)ほどなのです。
 この物語は、もし私たちが悪や汚れに慣れ親しんでいるとしたら、それから解放され事はどれほど大変であるのかを教えられます。私たちが主イエスの弟子として剣のような御言葉を真剣に受け取るとき、自分の不信仰や罪を照らし出されるのは当たり前であり、その時に辛さや苦しみを覚えることも当然なのです。でも、その辛さや苦しみは、不信仰に対する懲らしめや罰なのではありません。そうではなく、その辛さや苦しみは、ちょうど体内の悪性細胞を摘出する手術の痛みに似て、私たちがもっと本当の本来の自分に導かれるために、悪から引き離される痛みや苦しみなのです。
 私たちは、剣のように鋭い主イエスの御言葉に照らされて初めて自分の罪に気づきもすれば悔い改めて生きる道にも導かれるのです。
 今日の福音書で、主イエスは、「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。」と言っておられます。これは、裏を返せば、「誰でも、自分の十字架を背負ってわたしに従ってきなさい。」ということです。私たちは主イエスの御言葉から示された各自の十字架をどう担おうとしているでしょうか。
 主イエスの剣のような御言葉は、単に分離分裂を与えて終わるものではありません。この御言葉には、主イエスご自身の十字架を通してお示しになった完全な愛と赦しがあり、その愛によって本当の自分として生きるために仕え合う事へと私たちを招いているのです。主イエスの愛に裏付けられた教会の交わりを創り上げていくために、私たちは一人ひとりが主イエスの御言葉を深く受け容れ、主イエスの御言葉に生かされる者へと養われていくことができますように。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 15:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月27日

応答する存在 マタイによる福音書10:24−33 聖霊降臨後第3主日

2017年6月25日
 この日は、広田勝一教区主教が水戸聖ステパノ教会を巡杖され、聖餐式の司式・説教をしました。毎週の説教掲載はありません。当日の週報に掲載した【聖書日課から】の文章に加筆して掲載します。


応答する存在
マタイによる福音書10:24−33 聖霊降臨後第3主日(特定7)

主イエスは、一羽では値のつかない雀でさえ主なる神の御手にあるのであれば、人間はなおさらではないか、と言われます。その一方、人間は被造物の中で際立った意識を持つがゆえに主なる神の御心に反することを行ったり、主イエスを拒んだりする者でもあります。
 イエスは「人々の前でわたしを知らないという者は、わたしも天の父の前でその人を知らないと言う。」と言われました。野の鳥は、存在することで神を誉め称えており、主イエスを「知らない」と言うことはありません。一方、人間は自分を知り神の知る存在であるために、神と人々への応答も意識する者であり、イエスを知る恵みを味わい感謝する事も出来るのです。
 この「人々の前でわたしを知らない」という者言葉から、大祭司の館でイエスを否認したペトロのことを連想する人も多いことでしょう。そのように言ってしまったペトロは、天の国でイエスから否認されたでしょうか。決してそんなことはありません。
 イエスのこの言葉は脅しの言葉ではなく、ペトロをはじめイエスを時に否認したり信仰を隠したりしたくなってしまう弱いわたしたちを御許に招いてくださる言葉であることを覚えましょう。
posted by 水戸聖ステパノ教会 at 04:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする